安息香の残り香

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2016-04-17 19:27:38

大学文藝部にて発行した新歓本『木漏れ日』に出した小説です。そこはかとなく百合。

 ふーっと息を吐いて祐美子は教室を見回した。二年に進級して数日、昨年度からちょっとだけ顔ぶれの変わったクラスは既に喧騒に包まれていて賑やかだ。女子校なのでその響きは華やかで明るくて可憐で、ともすると喧しいものばかりだ。その喧騒のはずれ、教室の片隅でもう一度、祐美子はふーっと長く息を吐いた。
 クラスに馴染めないのは、友達がなかなかできないのは、自分のせいでもあるだろうけれど、家のせいでもあると祐美子は思っている。というのも彼女のフルネームは橋爪祐美子、一目で橋爪の家系のお嬢様と分かってしまうし、ハシヅメという音の響きもなんだか威圧感があって近寄りがたさを増しているような気がしていたからだ。せめて私が傍系なら、橋爪姓でなければ……と思ったことも沢山あったけれど、その時はその時で本家筋と比べられる劣等感を抱いていたかもしれないしもっとくだらないことで悩んでいたかもしれないとも思うので、実際その身であればよかったのにと考えすぎることはしない。でもそれはもしもの話を考えすぎないというだけで、橋爪家に生まれたことにも友達ができないことにも、祐美子は大いに悩んでいた。
 祐美子は休み時間内で何度目かもわからない溜息を長く吐いて、自分の入れるはずもない一番声の華やかなグループの会話に耳を傾けた。昨年度には彼女たちの会話の内容はお菓子であったり雑誌であったりすることが主だったが、この日は部活の話をしていたらしい。誰かクラス替えで珍しい部活の人でも新しく入ったのかと思い目を向けて、祐美子は驚いた。一方的に、ではあったが祐美子の知る人だったからだ。去年は隣のクラスで、陸上部で、とても足の速い人だと記憶していた。彼女の代の陸上部短距離のエースは彼女だ、と。一度だけ遠目に彼女の練習風景を見たことがあったけれど、それは速いと思う前に美しいと思わせるもので、聖火ランナーだとか、極端かもしれないけれどいっそ女神みたいな、神聖な美しさを祐美子に焼き付ける走りだった。おおらかに揺れるポニーテールのよく似合う、明るくて眩しい人。それが祐美子の持つ彼女の印象だった。確か名前は夏目彩さん、だったはずだ。そういえば、昨日も彼女が教室内にいて驚いたのではなかったかと思い出して、祐美子はちょっとだけ申し訳なくなった。
 休み時間の終わりを告げる鐘の音が鳴る。このご時世にスピーカーでなく鐘楼から直接響くその音も無視して、華やかなお喋りは止むことがなかった。

 その彼女が無表情で廊下に立っているのを見たのは、六月の放課後だった。夏目さんは教室の壁に背を当てて廊下の窓からどこか遠くに視線を向けているようだった。夕暮れの朱の光が、彼女の横顔を照らしていた。その日は梅雨晴れで、とかく蒸し暑い日だった。教室にはクーラーがあるのだから入ればいいのに、と思いながらも声をかけることもできず、そして目を逸らすこともできずに祐美子もまた困ってしまった。何もできず戸惑っていると、ふと彼女が祐美子に目を向けた。存在に気付いたらしい。彼女はちょっと驚いた様子を見せた後、困り笑いを浮かべて手を振ってくれた。その時に彼女の頬を伝った一筋の汗が涙に見えてしまって、祐美子はどきりとした。何も反応を返さないのも失礼だけれどどうすればいいのかよくわからなくて、しばし迷ってから祐美子は胸の前で小さく手を振り返した。おそらく表情には困惑が乗っていただろうし、動作が小さすぎて何が何だかよくわからなかったかもしれない。けれども悲しいかな、それが祐美子にできる精いっぱいだったのである。どこまで何が伝わったのかはわからないけれど、彼女が祐美子の方に向かって歩きだしてきた。その足音があまりに静かなので、祐美子は湿気と暑さと困惑とが絶妙にまじりあって夢か幻でも見ているような心地になった。彼女は手を伸ばせば触れられそうな、互いの表情のしっかりわかる距離にまで近づいてきて、祐美子はちょっと驚いた。これが友達同士の普通なのかなとか、他の誰にでもこの距離で接しているのかなだとか、そんなことを考えてしまうぐらいには祐美子に初めての近さだった。その近さで、彼女は微笑んで話しかけてくる。
「どしたの?」
「え、と帰る前にお手洗いに行ってただけなのだけれど」
「おて……あ、なるほど」
 彼女がちょっと困ったように笑うけれどそれは軽やかで、さっきの様子とはちょっと違う、というより今は日頃の彼女と同じ仕草だった。そう思えて、やっとこれが現実であるということを祐美子はしっかりと認めた。
「夏目さんこそどうしたの? 教室に用事?」
「ええ、と。軽く忘れ物しちゃってね、取りに行こうかと思ったんだけど……
 歯切れ悪くそう言って、彼女は眉間にしわを寄せて、でも口角を上げて、戸惑いを深めた困り笑いをした。
「ちょっと、今あたしが入れる雰囲気じゃないから」
話し始めてから、ずっと困り笑いさせてばかりだ、と思って祐美子は申し訳なくなった。それから彼女のその困り笑いの原因が教室に入れないことだと考えて、違和感を覚えた。
自分の教室に入れる雰囲気じゃない、とは一体。
「ええと、どうして入れないのか聞いてもいい?」
「あー……
 彼女はばつが悪いといった感じに声を出すと、一瞬、すごく寂しく笑って、それからまた困り笑いを浮かべた。
「今ね、私の悪口大会してるみたいなんだ」
……え?」
「恵美と、久留美と、美貴と、明日香で。その、わざとじゃないというか、たまたまだと思うよ。タイミングが悪かったというか、それだけ。一緒にいた時間が短いんだから、除け者にするのに丁度よかったというか、まあ、あまり気分良くはないけど、他の子がそれで居心地よくいられて私もクラスに居場所があるなら、まあ、それ自体はいいかな
って」
そう言って吐息だけで笑うと彼女は続ける。
「忘れ物も大したものじゃないし、もう良かったんだけど。なんだか耳に入っちゃうとどうしても気になっちゃって、立ち聞きしちゃった。
 ……あたしももう帰るし、橋爪さん一緒に帰らない?」
「う、ん……それは、いいけど」
「じゃ、帰ろっか」
 そう穏やかに言うと、彼女は昇降口に向かって静かに歩きだす。そういえば、今まで気づかなかったけれど彼女は一つ一つの動作がずいぶん静かだし、教室にいるだろう彼女たちといる時の他は穏やかで優しい声をしていると祐美子は思った。昇降口まで、会話はなかった。外で練習するサッカー部の子たちらしい声が窓の向こうに響いていた。教室に残っているらしい子たちの話す声、笑う声も壁を隔てた向こうに聞こえたけれど、廊下には私たちの他に誰もいなくて、蒸し暑さだけが静かに廊下に満ちていた。その沈黙は決して軽くはなかったけれど、だからといって重苦しくて息の詰まるようなものでもなかった。祐美子の足音と、それより幾分控えめな彼女の足音が湿気の多い空気に滲んで、そうして一緒に歩いているという事実がその場ではすべてだった。斜め前にいる彼女のポニーテールが柔らかく揺れていた。
……あのね」
「うん?」
 昇降口、言葉を見つけた私は彼女に呼びかける。彼女が自分の靴を下駄箱から出しながら、祐美子に顔を向けて返事をする。そのまま静止しているので祐美子の言葉を待ってくれているらしい。夕陽の逆光に塗りつぶされていて、その表情はわからない。短く深呼吸をして、祐美子は声を発した。
「おかしいと、思うの。友達なのに悪口を言うだなんて。夏目さんが彼女たちを許せても、私はきっと今日の事許せないわ。……自分勝手だし、子供っぽいのも、わかってはいるのだけれど、でも、私は悪口を言ってしまうような相手と仲良くするの、わからないから。悪口を言うくらいなら、夏目さんと、仲のいい素振りなんて、しなければいいのに……
 最後の方は弱弱しく、霧のように声は消えていった。ふっと、彼女が息を吹き出したのが聞こえた。やっぱり陰になっていてその表情は見えなかったけれど、祐美子にはその声が笑ったように聞こえて、彼女の見えない表情から目が離せなかった。
「ありがとう」
 その声があまりにも穏やかで、優しくて、嬉しそうだったから、祐美子は夕陽の陰の中に、目を細めた彼女の笑顔を見てしまう。それは何故だかすごくもどかしくて、歯がゆくて、切なかった。
 そうして初めてクラスメイトと辿る帰路は楽しかった。忘れ物を尋ねたら読み途中の本だと言われて、そのタイトルを尋ねたら祐美子の読んだことのあるものだったので、その話でひとしきり盛り上がって、それからお互いの読書歴の話をした。祐美子が、小説は有名どころだけかじる程度に読んでいるけれどそれよりエッセイをよく読んでいると言うと、夏目さんは珍しいね、お勧めがあったら教えてよ、と言ってくれた。かく言う彼女は純文学を読むのが好きだとか。それから、意外とドロドロしていたりするからあんまり人にはお勧めはできなくて、話せる相手が少ないのだと打ち明けてくれた。今まで人に言ったことはなかったらしい。本が好き、というだけの人なら沢山いるけれど、純文学となると途端にわかる人が少なくなるからだとか。
人と会話しながら歩く道は、長かったように思えたのに、過ぎ去ってしまえばあっという間だった。
「あたしは家、駅の向こう側なんだけど、橋爪さんって電車?」
「うん」
「そっか、じゃあそろそろお別れだね」
 彼女が屈託なく笑う。祐美子は、ほんの少しの嘘を吐いた。些細な、自分のコンプレックスを隠すための、小さな嘘だ。
「うん、……また、明日ね」
「うん、また明日。バイバイ!」
そう言って、彼女は祐美子に手を振りながら歩いていく。祐美子も駅の入り口に立ったまま手を振り返す。祐美子が手を振り返すさまをしっかりと目にとどめた彼女は線路を超えるための歩道橋に向かってまっすぐ歩いていく。祐美子は駅に入るでもなく、ただ立ち止まってそれを見守る。夏目さんの姿が歩道橋を超えて見えなくなると、祐美子は鞄からスマートフォンを取り出した。するすると画面に指を滑らせて電話の発信をすると、スマートフォンを耳に当てた。
「もしもし、板橋? 今日はいつもの場所じゃなくて、鮫ヶ谷駅に車を回してくれる? え……もういつもの場所で待っている? その、そうよね、ごめんなさい。今から鮫ヶ谷駅に……うん、ありがとう。ちょっと、事情があって。はい、それじゃ、よろしくね」
電話の相手にそう言うと、祐美子はふーっと長く息を吐いて電話を切った。
気が付けば、普段車を待たせている場所よりも学校から遠くまで歩いていた。自分でもわかっている、夏目さんと一緒に帰る時間を引き延ばすためだ。だから運転手の板橋に待機場所の変更を連絡したのである。それだけのことで、彼女と自分の世界の違いをまざまざと見せつけられたかのようで、祐美子は胸がちくりと痛んだ。
梅雨晴れの夕暮れの赤が段々と宵の青い闇の中に吸い込まれていく様を見ながら、祐美子は駅で棒立ちして車を待った。この放課後の事をどこか夢のように思い返しながら、彼女の仕草や表情や光の加減があまりにありありと思い出せるので現実だろうな、と人ごとのように考えていた。じめじめした空に、点々と星が輝き始めていた。
翌日に見た夏目さんは、あまりに普段通りだった。いつもクラスで一緒にいる、昨日の放課後に教室で悪口を言っていたという、その四人の隣で楽しそうに笑い、触れ合い、行動を共にしていた。夏目さんに向かって、クラス一緒になってから二か月しか経ってないとか信じらんない、てかもうちょいで三か月じゃん、なんて言って笑う彼女たちを見て祐美子は腹が立った。早朝から続く雨に空気はすこし肌寒く、厚い雲が空を暗くして、教室は電灯の無機質な光に照らされていた。会ってからの期間が短いせいで仲間はずれにしたくせに、悪口言っていたくせに、と思いながらも夏目さんがあまりに普段通りに振る舞うから、元から口数が少ないのに、余計に何も言えなかった。でもその思いは祐美子の中にわだかまって、ぐるぐると巡った。授業中は幾分かましだったけれど、休み時間にはあまり視線を向けすぎないようにと気を付けながらもちらりと彼女たちを窺ってしまうのを止められなかったし、視線がどこに向いていたって結局は彼女たちと夏目さんの事ばかり考えていた。
そうして過ごしていたのがばれていたらしく、夏目さんは五時間目の英語の時間の二人組学習のとき、相手に祐美子を選んで席を移動してしばらくすると、もの言いたげに話しかけてきた。
「クラスのね」
……うん」
 祐美子は夏目さんの言葉を待つ。かちりと視線が合って、彼女はちょっと寂しそうに、困り笑いを浮かべた。昨日にも見た表情だと祐美子は思い出した。
「クラスの中での友達付き合いなんて、みんなこんなものだよ」
「そ……うなの?」
「うん、少なくとも、あたしがいられるようなところはね」
 そう言って彼女は笑うように息を震わせたけれど、まったく笑える話ではないし、その音もかすれた呼吸音みたいでどこか痛々しかった。
「だから、あんまり気にしないで。平気だから」
「そっ、か……
 良くないよ、と言いそうになって、それでも彼女は困ったように笑うだけだから結局何も言えなくて、祐美子は顔を俯かせた。その視界にアルファベットの羅列が入る。そっか、と返事をした自分が祐美子にはばかみたいに思われた。言ってからも、むしろ言ったからこそ余計にやっぱり全然良くないと思えて、一呼吸ぶんの時間考えた結果、また祐美子の口から言葉が出た。
「でもね」
「うん」
「私、すごくわがままだと思うけれど、そんな友達ならいらないと思うの。そんなの友達だなんて思いたくない。……だって、息苦しそうじゃない」
 またしても祐美子は声を弱弱しくさせながら、その言葉を言い切った。整然と並ぶアルファベットから彼女に視線を戻すと、祐美子は驚いた。夏目さんはとろけるように目を細めて微笑みながら、ただじっと祐美子を見つめていた。彼女だけじゃなく、他の誰でも見たことのない、人生で初めて見る表情だった。
「ありがと、ね」
 短く、それだけ。彼女はそれ以上何も言わなかった。戸惑いの中で自分の顔が赤くなっていることを自覚して、祐美子は突然そんな顔しないでよ、と八つ当たりのように彼女を心の中で責めた。それからはずっと英語の授業を真面目に受けていたけれど、授業の終わりかけに夏目さんが今日も一緒に帰ろっか、と内緒話みたいに楽しげに言うものだから、祐美子は今までに見た彼女の微笑みを思い出してしまってちょっと恥ずかしくなった。うん、と短く返事して、それから六時間目は放課後を楽しみにあれこれ想像するだけの時間にしてしまった。
 その放課後、祐美子のスマートフォンに初めて、家族と使用人以外の人の連絡先が増えた。家に帰ってからずっと夏目さんのメールアドレスと電話番号を眺めてはどうしようもなく頬を緩ませて、祐美子はベッドの中でも用もなくスマートフォンを眺め続け、スマートフォンを握ったまま眠った。

 それから、祐美子はときおり夏目さんとともに帰路に着いた。月曜日が一番多くて、火曜日と木曜日はたまに。水曜日と金曜日は陸上部の練習があるのでほとんどなかったけれど、一度祐美子が運悪く美化委員の仕事で残っていたときには一緒に帰った。大抵は本の話をしていたけれど、その時々で授業や勉強の話もした。作家の名前の由来がどうだとか、小テストがどうだとか、他愛ないそれが祐美子にはとても新鮮で、わけもなく楽しかった。駅前で運転手に電話するときにはちょっとだけ苦しさを感じたけれど、それ以上に一緒に帰る時間の楽しさは祐美子にとって重要だった。メールや電話はすることがなかったけれど、夏休みが近いという話題になるたびに夏休みになったらメールするねと言ってくれる夏目さんの言葉が嬉しくて、祐美子はその度にスマートフォンを握りしめたいような気分になった。

 かくして訪れた夏休み、今まではどうせ家でも勉強はやることになるのだし、と特に何とも思っていなかったというのに夏休み三日目に何故か寂しいと感じて、祐美子は思っていた以上に夏目さんと一緒に帰れることを楽しみにしていたのだと気づいた。
そうしてちょっとした寂しさを抱えて過ごしていた夏休み二週間目の初めの日、本当に夏目さんからのメールが届いた。体調崩してないよね? 私は元気に練習三昧してるよ、から始まるそのメールはごくたまに絵文字が現れる程度で女子高生らしい飾り気はあまりなく、その内容も最近あったことが彼女の視点で彼女の思ったように、乱れの少ない会話調の日本語で綴られているといった感じで、どこか手紙じみていた。それがなんだか夏目さんらしく思われて、文面を見ながら祐美子は笑みをこらえきれなかった。祐美子の返事は残念なことにほとんど家で勉強しているために大したことは書けなかったけれど、更にその返信がもらえたので彼女のメールへの感想は好意的に受け入れてもらえているように感じて、祐美子は嬉しかった。
それからの祐美子は夏目さんからのメールを心待ちにして、その期待を勉強へのやる気にしていた。夏休みに入って二週間とちょっと、期待通りに何通かのメールのやり取りをして過ごした時間は祐美子の経験した夏休みの中で最も毎日が楽しく感じられた。

その夏目さんとのメールの中に祐美子が興味深い文面を見つけたのは、夏休み四週間目、八月に入ってすぐのことだった。彼女が、陸上の大会に出るのだという。それも、二年生で大会に出るのは彼女だけらしいのだ。一週間後にあるというその大会に出られたらいいと思いながら練習はしていたけれど、まさか二年の自分が出られるとは思わず、発表されてから五日たった今でも嬉しさよりも戸惑いが勝っているのだと、夏目さんは打ち明けてくれた。
それってすごいことだ、と月並みな感想を抱きながら、祐美子は大会に出る彼女の姿を想像した。他の人達はみんな三年生、きっと高校生活で最後の大会だ。そのぴりりとした緊張感に包まれて、夏目さんが彼女たちと同じスタートラインに並び、身をかがめて走り出す準備をする。その視線はゴールだけを見据えて、ただ走り出すときを待つ。ぴいんと張り詰めた緊張感が最高潮に達した時、ピストルの音が鳴って、矢が放たれるように一斉に選手が走り出す。そうしていつか見たように、夏目さんの走りはどこか厳かで綺麗なのだろうな、というところまで考えて、祐美子は思う。
見たい。非常に見たい。祐美子はあまりスポーツには明るくないけれど、ぼんやりと覚えている彼女の走る姿は美しかったから、その姿をまた見たいと思ったのだ。そういえばどうして陸上部の練習を見に行かなかったのだろう、どうして気づかなかったのだろうと祐美子は今更思い至って後悔した。それなら後悔しないように、と言い訳めいたことも考えながら、メールの返信を綴る。いつものように感想を思いついたままに書いてはちょっとだけ整える。一通り感想を書きおわると、祐美子は一つ深呼吸して、また指を画面に滑らす。その大会って、私は見に行ったら駄目かしら、と最後の一行に入れて、ふーっと長く息を吐き出す。それからその一文を変えようか変えまいか、いっそのこと消してしまおうかと三十秒ほど考えて、深呼吸を一つすると、祐美子はそのままメールの送信ボタンにかるく指を触れた。正常にメールが送信されたことをしっかりと確認してしまうと、スマートフォンを胸の前に握りしめて椅子の背もたれにぐっと体重を預ける。返事が早く来てほしいような、でもやっぱり来てほしくないような、とかく落ち着かない気分だった。祐美子はまた長く息を吐き出すと、スマートフォンを握る力を強めた。背もたれに寄りかかるのはお行儀が悪いと気づいて慌てて体を起こすけれど、だからといって気分が落ち着くようなこともなく勉強が手につくような状態ではなかったので、休憩と称して長めのお茶の時間にしてしまおうと祐美子は椅子から立ち上がる。スマートフォンを机の上に置くと、ずっと握りしめていたせいで手が汗っぽくなっていたことに気付いてちょっと恥ずかしく思いながら、祐美子は自室から厨房へと向かった。
祐美子が予定通りに長めのお茶の時間をとってから自室に戻ると、夏目さんからの返事が届いたところだった。震えるスマートフォンを手にとって彼女からの返信を読むため指を滑らす。よければ見に来て、という文字と一緒に大会の詳しい日時と場所が書かれているのを見て、祐美子は思わずやった、と声をあげた。大会の日時と場所をゆっくりと一度口にして、それから大会の日時と場所を頭の中でくり返す。早速お父さまに許可をとらなければ、と考えながら、祐美子の頬はずっと緩んでいた。

指おり数えて楽しみに待っていた大会当日、祐美子は早めに会場に着いていた。楽しみだったあまりつい、というのもあるけれど、彼女と会えたりしないかなという淡い期待もあった。その会場は広く、ふらふらとあてもなく歩いたりしたらきっと祐美子は同じ場所に戻ってこられないだろうと思って、入り口の見える位置まで車で送ってもらったことを感謝した。この調子では試合の始まる前に彼女と会うことはないだろうな、とちょっとだけ残念に思いながら観客席へ向かおうとすると、後ろから声がかけられた。
「橋爪さん」
「え?」
「来てくれたんだ」
 ちょうど会えないだろうと思っていたところだったものだから、祐美子は驚いてしまった。夏目さんはいつものようににっこりと笑って話しかけてくれているけれど、その肌が日に焼かれてすこし色を濃くしているのを見て、私の知らないところで変わってしまったのかと考えてちょっとだけ祐美子は寂しくなった。
……うん。ふふ、ずいぶんと焼けたね」
「あー、外で練習してるとどうしても、ね」
「頑張っている証拠だし、格好いいよ」
 彼女がばつが悪そうに首元を掻くので、祐美子は思ったとおりにその日焼けを褒めた。何故かちょっと悔しいけれど、彼女が大会のために、晴れ舞台で走ることにかけた時間をそのまま表した勲章か何かのように思えて、彼女に似合っていると思えた。
「あ、りがと」
 彼女は驚いてから困り笑いを浮かべて、それからとろけるように微笑みを浮かべた。どうしてまた突然こんな表情をするの、心臓に悪い! 祐美子は前と同じく八つ当たりのように、心の中で彼女に悪態をつく。けれど、今までに見た彼女の表情で一番に好きなのはこの微笑みだともわかっていて、決して口には出せなかった。
……ね、時間平気?」
「うん、私は大丈夫、というかなんというか……夏目さんこそ大丈夫なの?」
「うん、といってもそんなに長くはとれないけど。ちょっと付き合ってくれる?」
「うん、いいよ」
祐美子がそう返すと、夏目さんはじゃあこっち、と言って会場にぐんぐん近づいていく。祐美子は彼女の背中を追って歩いていく。けれど彼女の歩みは意外と一歩一歩が大きくて、祐美子はいつのまにか早足になっていた。会場に入るのかと思ったけれど、目の前にあった入り口を通り過ぎていこうとするので疑問に思い、立ち止まって尋ねる。
「どこに行こうとしているの?」
「んー、とね」
 問われた彼女は言いながら振り返る。すると、祐美子との距離が思った以上に空いていたのか、驚いたように目を見開いてから立ち止まった。そうしてふっと笑うように息を吐いて、困り笑いを浮かべる。
「私が、落ち着ける場所……かな?」
その声がすこし震えているように聞こえて、夏目さんがすごく緊張しているんじゃないかと祐美子は気づいた。三年生の選手に交じって大会に出てその走りを披露することになるのだから、当たり前だ。その当たり前に、祐美子は今、気づいた。
それから祐美子は何も言えなくなって、ただ会話もなく二人で会場の近くを歩いていた。どうやら会場の外壁に沿って歩いているらしい。段々と入り口から遠くなって、人影がまばらになっていった。どこまでいくのだろうと祐美子がちょっと不安に思い始めたころ、夏目さんはぼそりとあったと呟いた。あったって、一体何が? と祐美子が疑問に思った直後には、彼女が小走りで何かに近づいていた。その先にはが蛇口が並んでいるので、お目当ては水だったのだろう。そうして彼女が蛇口をひねる様を見ながら、祐美子はゆっくり歩いて彼女に近づいた。
……ごめんね、ここまで歩かせちゃって」
「いいよ、そんなに遠くなかったし」
 水を飲み終えたらしい彼女が口を手の甲で拭いながら発した言葉に首を横に振って答える。心の中だけで壁に沿って歩くだけだから迷わないし、と付け加えて祐美子は口角を上げて笑った。彼女は短く息を吐くと、祐美子から視線を逸らして言った。
「水筒、持ってきたんだけどね。落ち着かなくて。普段は学校の水道で水飲んでるから、同じように水飲んだら落ち着かないかなー、なんて」
……うん」
「橋爪さんも見に来てくれるから、きっと大丈夫って思ったんだけど、なんか、ダメだった」
……うん」
 いつもの会話ともメールとも違う、思ったことを全部ストレートに言葉にしているような喋り方だったし、その声にはたしかに緊張ゆえの硬さがあった。二人の言葉がぽつぽつと、放たれては耳に届いて、そして薄れていった。夏目さんの緊張とプレッシャーと、自信と、それゆえに何か失敗したらという不安が、痛いほどに祐美子にはわかってしまって、下手なことが言えなかった。大丈夫だよ、心配ないよ、夏目さんなら大丈夫。どれも素直に思ったことなのに、何ひとつとして声にはできなくて、思っては祐美子の心に重く溜まっていった。こんな時に何も言えない自分がひどく不甲斐なくて、情けなくて、申し訳なかった。遠くの街路樹から聞こえる蝉の声とまばらな人の声とが耳には入っているのに、汗の伝う音が聞こえるのではないかというほどに澄んだ沈黙が降りていた。
 そうしてお互いに何も言えなくなってしまってからしばらく、夏目さんは祐美子に目を向けた。すると一瞬驚いた表情をして、そして何かを察したのか、ふっと笑うように息を吐いてから口を開いた。
「ね」
 その声がさっきと違ってずいぶんと明るく柔らかいので、祐美子はすっかり驚いてしまった。
……うん」
「手、借りてもいいかな?」
「え、うん?」
 彼女の態度の変化にも言葉にも、祐美子はどうしてと疑問が湧いてしまって、その戸惑いが現れるように意図せず語尾が上がっていた。それに気付いているのか、彼女はわざとらしく笑顔を向けてから、立ち尽くす祐美子の左手を迷わず掴んだ。祐美子はぎょっとして動けなかった。彼女は掴んだ祐美子の左手を持ち上げて、包むように両手で挟みこむ。そうしてそのまま彼女がじっと手を見つめるものだから、祐美子もつられて重なった手を見つめた。彼女の血色のよい手が、祐美子の真っ白な手を覆い隠していた。じわりと、八月のうだるような熱気の中で触れ合った手が、すごく熱く感じられた。あついとか、恥ずかしいとか、いろいろと言いたいことがあったのに、手を見つめる彼女の表情があまりに真剣なので、祐美子はまたしても何も言えなかった。けれど、夏目さんが、きっとこれで走れるようになるのだからまあ、いいかな、と思えた。
どれくらいそうしていたのかはわからないけれど、そう長くはなかったように思った。突然夏目さんがもう行かなかなきゃと言って手を放して、もう大丈夫、ありがとうね、とすぐに続けて、祐美子に背を向けて歩きだした。その顔が、声が、思った以上に穏やかで気楽な感じだったので、祐美子は本当に大丈夫なのだと思えた。けれど左手に熱のような重みのような何かを感じて、彼女の緊張や不安を思い出した。きっと彼女は今、それを祐美子と分かち合って、そうして大丈夫だと思ってくれたのだと思った。祐美子はそれが嬉しくて、頬を緩ませて笑った。頑張ってきてね、と大きい声で呼びかける。すると彼女はこちらを振り返って、うん、頑張ってくる、行ってきます! と笑顔で手を振ってくれるのが見えた。そうしてまた前を向いて早足ぎみに歩いていく。夏目さんのその姿は、走るのを見るのが楽しみだと自然に思わせるものだった。

かくして見た夏目さんの走りは、遠目で見たのにあまりにも綺麗で鮮烈だった。神聖で清らか、厳かと思っていたけれど、それだけじゃなくて研ぎ澄まされて光り輝く刃のような、どこか鋭い感じでもあったのだと祐美子は気づかされた。それがスポーツの美しさの本質、とかそういうもののように祐美子は思えて、夏目さんって本当にすごい、と月並みな感想と共に感動を覚えた。

大会が一通り終わって、確かに速い人や運動能力の凄い人は沢山いたし競っているのはそこなのだけれど、美しいと思える人は夏目さんだけだったな、と祐美子は振り返った。順位がどうとかはよく覚えていなかったけれど、彼女が表彰台に上るようなことはなかったので大活躍というわけではなかったのだろう。それでもその美しさが損なわれるようなことはなく、じんわり滲むような眩しさを含んで祐美子の胸にしっかりと刻みこまれた。
色々あるだろうし、と帰りは彼女にお疲れさまと格好良かったという旨だけをメールして、顔は見ないで帰った。車中で返信がきて、すぐに確認する。ありがとう、橋爪さんのおかげ、と書いてあるのを見て祐美子は左手がかっと熱くなった。いやでも、それのおかげと言ってくれているのだから、何も恥ずかしがることじゃない。そう思い直すとちょっと落ち着いたけれど、やっぱり左手がなんとなくむずがゆくて、特に用もなくスマートフォンの画面をぼうっと眺めた。正確には、スマートフォンを持ったまま、その向こうの左手を、何も考えずただ意識していた。そうしてはっと、まだメールが読み途中だったことを思い出して画面に意識をもどす。走っている時の感覚がいつもよりすごく良かったけれど、それでもやっぱり大会ともなるとレベルが違うしもっと頑張らないと、というようなことが書いてあって、祐美子は感心してしまった。あれだけすごいのにまだすごくなるつもりなのか、夏目さんって陸上に関しては向上心の塊なのだわ。そう新しい発見をして祐美子は短く画面をスクロールする。そこには、こう書かれていた。実は練習ばっかりであんまり宿題進んでないんだけど、近いうち付き合ってくれない? 場所は今日の会場の隣の図書館辺りで、と。

日取りは大会の三日後、祐美子が夏目さんの疲れが十分に抜ける辺りの近いうち、と考えて提案した日だった。特に何かあるでもなくあっさりと、じゃあその日で、と決まったことが、祐美子は嬉しくもありちょっと寂しくもあった。でも友達付き合いってきっとこういうものだ、とその初めての感情に祐美子は肯定的でいられた。今日も相変わらず快適な車窓の向こう、気が付けば遠目に三日前の大会の会場があり、近くの街路樹からか幾重にも重なる蝉の声が広がっていた。図書館がもうすぐ近い合図だった。
入り口の見える位置まで送ってもらって、運転手に礼を言ってから車を降りる。すると、車の去った向こうに夏目さんがいて、しっかり祐美子と目が合う。しまった、と思った。
……おはよう」
 先に声を発したのは夏目さんだった。ああ、また困り笑いさせてしまった。そんな表情させたくなかったのに。私のせいで、また。祐美子は焦る。
「お、はよう」
「そしたら、行こっか」
「あのね」
 彼女が変わらず無理して笑うものだから、たまらず声が出た。
……う、ん」
 驚きと戸惑いがしっかりとわかる表情と声色だった。祐美子は深呼吸をしてもう一度声を放つ。
「あのね、私の話を聞いてほしいの」
……うん」
 お互いに表情は変わらなかったけれど、何かが伝わったと思えた。外にいるのも暑いし行きましょうか、と祐美子が促すと、うん、と素直な返事が返ってきて、二人は図書館へと歩いた。
 学校の図書室よりずっと広い面積に、祐美子たちの背丈の三倍ほどに大きくて本のぎっしり詰まった本棚がいくつもと、勉強にも読書にも申し分のない大きさの机、それから椅子がずいぶんとあるそこは、市立図書館にしてはずいぶん大きなものに思えた。比較的人の少ない場所に適当な席を見つけて、お互い隣りあって座る。向かい合っていないのは、机が壁に向かっているものだったからだ。祐美子が右で、夏目さんが左。図書館であることもあり、入ってからここまでは、一言も会話がなかった。エアコンの作動音が小さくしていたのと、その音を掻き消さんばかりに窓の向こうで蝉が鳴いていたのと、足音とページを繰る音だけが耳に届いていた。
「それで、私の話なのだけれど」
「うん」
 着席してから一呼吸おいて、祐美子が話し出す。特に小さな声を出すようなことはしなかったけれど、元から声の大きい方でも声の目立つ方でもないので心配ないはずだと思った。そうして実際に出た声も特に大きすぎるということもなく、けれど彼女の耳にはしっかり届いたようだった。
「私が、友達が……少ないのは、橋爪家にいるからだと思っているの。もちろん、今はその、私が引っ込み思案だというのもあるのだろうけれど。でも、最初はそうじゃなかった。小さな頃は、私の性格なんて関係なく、橋爪家……お嬢様、だからだったと思うの」
……うん」
 彼女の方に目を向ければ、思った以上にしっかり祐美子の話を聞いてくれているようだった。
「私、小さな頃は病気がちで、私立の学校に通っていたのだけれど、小学一年生のときはほとんど出席できていなかったの。それは橋爪というかお母さまの血筋の方の遺伝らしいのだけれど。あ、それで、その、私立だし」
「うん」
「周りのみんなはお受験をするために、って子が多くて。その上最初の頃の私は一年のときのお勉強すらろくにわかっていなくて。それだけでもずいぶんと深い溝だったと思うのだけれど。それにね、先生方が何でもかんでも『橋爪さんだから』って言うのよ。褒めるときにも、貶すときにも、笑うときにも、悲しいときにも。それは段々と皆にもうつっていって。」
……うん」
「『橋爪さん』というのはね、頭が悪いけれど家がお金持ちで、そのおかげでちょっとは使えるところのある人、っていう意味になったの。私に何かすごいところがあってもそれは全部お金のおかげ……ってね。もちろん、はっきりそう決まったわけじゃないのよ。でも、それは確かにそういう意味だったと思う。明確ないじめだとか、そういうものではなかったけれど、でも」
……う、ん」
「でも、私はそういう意味で呼ばれていたから。周りのみんなとは確実に違う、そういう家のお嬢様だから。だから……友達と呼べるまでに、親しくしてくれる子なんて、一人もいなかった。でも、わかっているの。私が『橋爪さん』だからだ、って」
「うん」
「生きている世界が違うとか、きっとそういう言葉になるのだと思う。確かに夏目さんも見た通り、普通の人にはない便利さを享受しているもの、それは、わかるの」
「うん」
……でもね」
 祐美子が話す間、じっと彼女は祐美子を見ていた。視線を向けずともわかるほどしっかりと。その視線を受けたまま、祐美子はふーっと長く息を吐いた。
「私だって、みんなと同じところの一つくらいあるわ。お嬢様でも、『橋爪さん』でも、なにも特別なんかじゃない。みんなと同じ……ただの十六歳なのに」
「うん」
「だからね」
 祐美子はしっかりと夏目さんに視線を向ける。ずっと変わらず、彼女の瞳には祐美子の姿があった。
「もし、夏目さんが……私と友達になってくれるつもりがあるのなら、特別扱いしないで。ずっと今までの通りでいて。……お願いよ」
 言い終わると同時に、重苦しく息を吐いて顔を俯かせる。最後の言葉は弱弱しくて、祐美子は自分がずいぶん臆病に思えた。
「いいよ」
 優しくて柔らかい声が上から降ってきて、祐美子は顔を上げる。あ、あの微笑みだ。気づいて祐美子は目が離せなくなった。緊張と嬉しさでどきどきしていた。
「あたしの話も、聞いてくれる?」
……うん」
 そうして彼女は語り始めた。
「あたし、すごく中途半端なんだ。本読むのは好きなんだけど、だからって勉強ができるってわけじゃないし。陸上部だから運動部だしなんか趣味合わなそうって本読むの好きそうな子には思われてるんだろうなーって、わかってはいるんだけど」
「うん」
「でも、それでもいちいち話し言葉までちょっとこう、かしこまる? みたいなの面倒でやってられないし、陸上は好きだから絶対にやめたくない……というかやめられないし。だからパッと見だとどうしてもチャラい方? に見えちゃうんだよね。それでも、やめられない」
「うん」
「それでね、チャラい方のところにいるとね、疲れるんだ。すごく。勉強は相当まずい状況にでもならなきゃ普通はやらない、やるのは頭おかしい。趣味で本読むなんてもってのほか。そういう子たちばかりなんだ。」
……そっか」
 祐美子にはそんな世界が存在するなんて、というほどに縁遠い話だった。友達付き合いって、こんなにも複雑だったのか、と眩暈がしそうだった。
「だから純文学の話なんてできるわけない。でもね、純文学の話ができるような子はきっとあたしを友達にはしたくない、というか怯えてたり後ろめたく思わせたりしてる自覚はまあ、一応あるから……まあ、うん。」
「うん」
「だから、本の話はガマンしてる。橋爪さんとは話せてるしね。ただ、まあ、きっとあの子たちが知ったら、きっと蔑まれんだろうなーって思うと、良い気分ではない、かな」
「うん」
寂し気に揺れる夏目さんの瞳がしっかりと祐美子を捉えると、彼女は花が綻ぶように、優しく微笑んだ。
「だからね、あたしも。仲良くしてほしいな。……お願い」
「もちろんよ」
 祐美子はすぐさま返事した。
「そしたらさ」
「うん」
「名前で、呼んでもいい?」
 息が止まる。実はお互いを名前で呼び合うことに、祐美子はひっそりと憧れていた。
「うん……あの、私も名前で呼んでもいいかしら?」
「もちろん」
祐美子は嬉しくて、ただじっと夏目さんをみつめた。彼女もまた、祐美子をじっと見つめていた。
「彩、さん」
「なあに、祐美子」
それだけ言うと、ふっとお互いに笑って、もう一度名前を呼んだ。それから言葉もなく、お互いの瞳にお互いの姿を映す。祐美子は涙が出るのではないかというほどに、嬉しさで満たされていた。どのくらいそうしていたのかはわからないけれど、ふっと同時に息を吐きだす。それから、先に言葉を発したのは彩さんだった。
「宿題、やろっか」
「うん」
 わけもなく二人は笑顔を交わす。それからはお互いに教え合いながら、祐美子は自分の勉強、夏目さんは宿題を進めていった。祐美子は国語や社会が得意で彼女に教えることができたけれど、彩さんは意外にも数学や理科、特に物理が得意らしく、祐美子が詰まっていたところをわかりやすく教えてくれた。その会話の中で、呼びかけるときに、お互いの名前が口に出るたびに、祐美子は幸せで頬が緩むのを感じていた。
 日が暮れる頃には、ずいぶんと彼女の宿題は進んでいた。もうだいぶ進んだしそろそろ閉館時間だし帰ろう、という話になって二人で図書館を出る。
「今日はありがとうね、祐美子のおかげでだいぶ進んだよ」
「ううん、私も彩さんのおかげで勉強進んだから。こちらこそありがとう」
「ん、役に立ってたならよかった。……そしたらあたし向こうに自転車置いてるから、バイバイ!」
「うん、それじゃあね!」
 彼女はいつもの帰路と同じように祐美子に手を振って歩いていく。いつもは寂しく心苦しいだけのこの瞬間に、今まではなかったこれからを感じて、祐美子の心は安らいだ。

 何通かのメールのやり取りをして過ごした夏休みも終わり、二学期が始まった。彩さんは相変わらず悪口を言っていた彼女たちと一緒にすごす時間が多かったけれど、一緒に帰ったり二人組を組むような授業時間にはペアを組んだり、祐美子と一緒にいる時間も一回一回はみじかいながらも頻繁にあった。それに、祐美子と一緒にいる時間には無理をしないで笑ってくれているような気がして、喜ばしかった。今までの人生で、一番しあわせな日々だった。
 そうして九月も終わりが近いというときの帰り道だった。
「そういえば、彩さんって誕生日はいつなの?」
 突如として、彩さんのそういう基本的なプロフィール、みたいなものを知らなかったな、と思って祐美子は尋ねたのだけれど、彼女からは予想外の答えが返ってきた。
「ん、と。……十月五日だよ」
「もうすぐじゃない! ……言ってくれればよかったのに」
……だって、言ったら」
「うん?」
 彼女が歯切れ悪く言葉を区切るので、祐美子は先を促すように相槌を打った。
「言ったら、誕生日プレゼントねだってるみたいじゃん……
 ちょっと拗ねたような顔で目を逸らす彼女が微笑ましく思えて、祐美子は頬を緩める。
「気にしなくていいのに」
「もう、祐美子笑わないでよ……
「彩さんが変なこと気にするからだよ」
 笑わないでと言われて緩んだ頬が引き締まるわけもなく、一向に機嫌を直すそぶりのない彩さんに、祐美子は笑って告げる。
「誕生日、きっと彩さんに似合う素敵なものを贈るわ。だから……期待していて?」
……あり、がとう」
 すると彼女はこの上なくおどろいた顔をして、それから、とろけるような微笑みを浮かべた。それがとても嬉しくて、祐美子は自然に口角が上がるのを感じた。

 そのやり取りをしてから数日後の土曜日、祐美子は百貨店をうろうろと彷徨っていた。理由は言うまでもないが、彩さんの誕生日プレゼントを買うためだ。彼女に似合いの素敵なものを、と考えて、ハードルを上げた自分がちょっとだけ恨めしくなった。けれど、そんなこと言っていなくても悩んでいただろうし、そのことで悩む時間にプレゼントをどうするかで悩んだ方がずっといいと気づいて、とりあえず目の前の商品をじっと眺めた。
 そのとき丁度目の前にあったのは香水だった。スポーツをするからあまり使わないだろうしイメージに合わないかな、と祐美子は思った。けれど、その並んだ壜の中に自室にあるランプに似た形の物を見つけて、あ、いいかもしれない、と思い直す。読書している彼女の机の上に香水壜があって、その光に溶け込むように香水の香りがしている。祐美子の中で想像されたその情景は、彩さんにこれ以上ないほどに似合っているように感じられて、祐美子は香水がいいと思った。
 そうして見始めた香水だが、実をいうと祐美子も使うときはお母さまが選んだものをそのまま使っていたので詳しいことはよくわからない。何の香りがする、だとかが書いてあるのだけれど、それがどんな香りなのかわからないのだ。このときだけはパーティーの身支度を全部他人任せにしていたことが悔やまれたけれど、わからないものはわからないのだから仕方ない。結局祐美子はその字面だけでどんな香りだろうかと一生懸命想像するしかなかった。
 そうしてふっと目についたのは「安息香」の文字だった。説明書きから壜に目をもどすと、それは最初に目についたランプの形のものだった。もう一度説明書きを読む。トップノートはオレンジ、ミドルノートはフェンネル、ラストノートは安息香、とあるけれど、正直オレンジがかろうじてわかる程度で他はさっぱりだった。トップとミドルとラストとあるのだから時間で香りが変化するのだろうか、となると最後に安息香、というのが香るのか。祐美子はそう思案して、続けてこう思った。この香水の香りで、私を思い出して、そうして彩さんが安らいでくれればいい。そう思うと、すっとその壜を手にとっていた。歩み寄ってきていた店員さんにこれを頂けますか、あとプレゼント用のラッピングをお願いします、と言って会計を済ませながら、祐美子は不思議で仕方なくなっていた。どうして私を思い出してほしいだなんて、そんなことを考えたのだろう、と。帰りの車の中、窓からすっかり色づいてきた木々をぼんやりと眺めながらも、ずっと祐美子はその疑問を頭の中にぐるぐると巡らせていた。

 ついに十月五日、彩さんの誕生日当日を迎えた。祐美子は朝に教室についたときに彩さんがまだいなくてちょっとがっかりしたり、そうかと思えば教室に彼女が入ってきてからはずっとドキドキしっぱなしだったり、とにかく落ち着かなかった。お昼休みにクラスメイトがおめでとうと言って騒ぐ中に祐美子はいなかったけれど、先に今日は一緒に帰ろうとメールで言っていたし、祝う気持ちを疑われることはないだろうと思っていた。
 かくして訪れた放課後、一緒に帰るのに祐美子は先に校門で彩さんを待っていた。誕生日で色々囲まれたりしそうだから外で待ち合わせしよう、と決めていたのだ。言われてみれば、一緒に帰るのは大抵放課後の人がいないときにお互いに会ったときだったと祐美子は思い出した。それがどうしてなのかは祐美子にはわからなかったけれど、きっと彼女なりの理由があるのだろうと考えた。
「ごめん、お待たせ」
 そうこう考えていたら彩さんが来ていた。
「ううん、そんなに待ってないから」
「でも最近寒くなってきたでしょ」
「でもまだまだ暑いから」
 言いながら祐美子はそういう気遣いをしてもらえることが嬉しくて頬を緩めた。
「こういう時が一番体調崩しやすいんだよ? だから気を付けた方がいいのは変わりないの」
「なるほど……善処するね」
「わかればよろしい」
 彼女が満足げに笑いながら歩き始めて、祐美子もそれに着いていくように歩き始める。ゆっくりとしたその歩調は、おそらく祐美子に合わせられたものだ。だから、きっと祐美子にはわからないような行動も、その理由はきっと彼女なりの気遣いなのだろうと祐美子は考えた。
 そうして楽しく喋りながら歩いていく。香水瓶のことが頭にちらついては何故だか恥ずかしくなって、祐美子は駅までそれを渡せなかった。そうして駅にたどり着いてしまうと、秋を感じさせる涼しい風が抜けていった。
「あの、ね」
……うん」
 駅に着いてからの短い沈黙に耐えかねて祐美子がプレゼントを渡そうと声を出すと、その声は思ったようにまっすぐなものでなく、ずいぶんと震えていた。彩さんはそれにおどろいたような気色を見せたけれど、一瞬あとには笑って祐美子の言葉を待っていた。
「お誕生日、おめでとう。彩さんにきっと似合うと思ったから、これ」
 そう言って祐美子はラッピングされた袋を差し出す。中の香水壜が、ずいぶんと重く感じられた。
「ありがとう」
 彼女は嬉しそうにそれを受け取ってくれる。意外と重みのあることに驚いたらしい様子で袋をしっかり持つと、開けてもいいかと尋ねてくれた。
「いいよ」
 祐美子は彩さんの手にプレゼントが渡ったのを見届けると、穏やかに満たされた気持ちになれた。そうして、そのままの気持ちで申し出に応える。彼女が袋を開けて、そうしてさらにその中にあった箱を開ける。かくしてその掌に現れたのは、祐美子の選んだ、あの香水だ。
「壜の形がランプみたいで、読書家の彩さんにぴったりだなあって思って。実をいうとあまり香りの事は詳しくないのだけれど、最初はオレンジの香りがして、その後はフェンネルっていうちょっと勇気が出るような香りと、安息香っていう甘くて落ち着けるような香りがするのだって。……きっと、安息香の香りは、本を読んでいる彩さんに似合うだろうな、とも思って」
 心の中でそうして私を思い出してくれたらいいと続けて、祐美子は後ろめたさからか胸が締め付けられるように苦しいように思われた。祐美子の心中を知ることもなく、彼女は口を開いた。
……ありがとう、その、あたしも香水とかよくわかんないんだけど、でも……すごく、嬉しい」
 目を細めて彩さんは微笑む。また胸がきゅっと苦しくなって、でも嬉しいというのはしっかりわかっていて。どうしてこんなことを思うのかまったくわからなくて、祐美子は戸惑った。けれど、この表情がやっぱり一番好きだと感じたから、今は何もわからなくてもいいと祐美子は思った。

 そうして冬を迎えた。ときどき彩さんと一緒にいると胸がきゅっと苦しくなるようなことがあってその度戸惑ったけれど、ずっと楽しく一緒にいられる唯一の友達を心配させたくはなかったし、何故か言ってはならないような気がして、何も言えなかった。もう幾度目かの帰り道に、冬休みにもメールするね、と言われたときにも嬉しさが胸の痛みを伴うものだから、祐美子ははっと何かに気付きそうになって、そうしてそれに蓋をした。

 過ぎ去っていく冬の気配に、来年度は彩さんと同じクラスになれるだろうか、なんて考えていた二月終わりごろの夕食時。その衝撃は祐美子を襲った。耳を疑ったけれど、お父さまに限って言い間違いをするなんてことはないだろう。だから、きっとそれは本気の、本当だ。それでも、信じたくなかった。
……あの、お父さま。今、なんて」
 お父さまが久しぶりに夕食に出席されると聞いたときにはいったいどんな話をするつもりだろうかと祐美子は少々身構えてはいたけれど、まさかそんなことがあるとは誰が思っただろうか。
「いや、相手がお前にぞっこんでな。見合いもすっ飛ばして今にも娶りたいというのでね、家柄も能力も財力も申し分ないし、私から見て娘を預けるに値する人物だ、私は実際そうなってもらおうと思っている。……流石に二学年の終わりまでは学校に通ってもらおうと思っているが、卒業はさせてやれん。それでも向こうは構わんと言っているし、あとはお前が同意するだけだ」
 機嫌良さそうにワイングラスを傾けるお父さまの顔は良く知っている、商談がうまく行ったときのそれだ。だから、この縁談もきっと、そういう何かが絡んでいるのだと悟ってしまった。お父さまがこちらに視線を向ける。一つの会社を束ねるトップの、支配者の、顔だ。
「何か異論はあるか」
……いえ」
 他に、何を言えることがあろうか。お父さまの決めたことを、祐美子ごときが変えられたことなど、一度でもあっただろうか。それでも、まさか、金持ちの家に生まれたからといって、自分が時代錯誤にも十七で政略結婚させられるなんて、誰が思うだろう。そんな、そんなことになるなんて、誰が思うだろう。夕食を胃に流し込むように完食すると、祐美子は申し訳ありませんが体調がすぐれないのでお先に失礼しますと言って、食堂を後にした。
 自室に戻ると、祐美子は崩れ落ちるようにベッドに転がって泣いた。ひどい。かみさまは、ひどい。ただ、隣に友達としていられるだけで良かったのに、声を交わすことも瞳を向けることも、同じ場所にいることさえも奪ってしまうなんて、ひどい。そうして泣いている間、祐美子の頭に浮かぶのは彩さんのことばかりだった。
 ああ、きっと早くに認めてしまえば良かったのだ。私は、彩さんに恋をしていると。突如としてそう祐美子は思って、そうしてその正しさに頭が割れるのではというほどの衝撃を受けた。どうして、どうしてもっと早くに気付かなかったの、気づけなかったの、そう自分を責めた。それから自らの状況を思い出して、また涙を流した。つらく、長い夜だった。

祐美子は決してそんな状態で彩さんと何も思わず接することができるというような人間ではない。翌日、何か様子がおかしいと思ってくれた彼女が祐美子に声をかけてくれたけれど、祐美子はちょっと体調が悪いだけだと言って、それ以上は何も言わなかった。それでも、何か心に引っかかっているような様子だったと思ったものだから、期待を込めて、それから覚悟を決めて、一通のメールを綴った。

修了式の終わったあと、全部ぜんぶ、話します。
もうそれからは会えなくなってしまうけれど、それでも、私の話を聞いてくれる?

要領を得ない、稚拙で短い文章だったと思う。けれど、それ以上に何を書けばいいのか、祐美子にはわからなかったものだから、そのままのメールを、彩さんに送った。かくして来た返事はわかった、というのと修了式後の待ち合わせ場所だけで、いつも以上に簡素なものだった。
それからは教室の中でたまには廊下で、お互いに何度か目が合ったけれど、何も言葉にはならずにただ時間だけが過ぎていった。

修了式は、ただ退屈に教職員の声が流れていってすぐに終わった。まだ桜は咲いていなかったけれど、風はもうずいぶん柔らかくて、春の空気がそこに佇んでいた。祐美子にとって、高校生活最後の日だった。
 修了式が終わって、教室でも担任の先生が長々と何かを話していた。彩さんの方へ視線を向けると、表面上は先生の話をよく聞いているように見えて、何かもどかしそうに時間が過ぎるのを願っているようだった。こういう細かい仕草がわかるようになったことが、祐美子には嬉しくも、寂しくも思われた。
先生の話もそれでは楽しい春休みを、で結ばれて、今日の日程はすべて終わった。クラスメイトは三年になったらどうするとか、今日の帰りはどうするとか、そんな話をする声で華やいでいた。祐美子は誰からも話しかけられることなく、教室を後にする。そうして心の中で、教室と先生と、友達でもなんでもないクラスメイト達に、さよならを告げた。

彩さんとの待ち合わせ場所は、鐘楼の入り口だった。確かに生徒にも教師にも、鐘楼に近づくような人はいない。入学したてのときならともかく、入れもしないただの白い鐘のあるだけの塔に近づくもの好きがいるとは祐美子は思えなかった。だから、話をするのに丁度いい場所だと思っていた。重みのあるカーンという鐘の音が上から響いてきて、この音を聞くのもこれで最後だと祐美子はしみじみ思った。

「お待たせ」
「そんなに待ってないよ」
かくしてやってきた彩さんがいつも通りだったから、祐美子もいつも通りに返事ができた。それじゃあ行こう、と彼女が鐘楼の扉に近づくので祐美子はびっくりした。
「鐘楼って入れないと思うのだけれど……
思わず発していた祐美子の声に、彼女は振り返って悪戯っぽく笑う。そしてその顔の隣で揺らしている手には、金属の鍵があった。
「事務室からちょっと失敬してきちゃった。ダミーの鍵も吊るしたからしばらくばれないと思うよ」
そう言って当然のように鍵を開ける彼女は、芯の通った感じがして、こんな姿も見せるのか、と今更になって祐美子は新しい発見をした。それで彩さんと別れがたく思ってしまって、胸が苦しく、重たく感じられた。
そうして入った鐘楼の内部は、そのほとんどが階段だった。外観に違わず内部も真っ白で、四角く開けられた窓のようなところ以外に光源がなく、まだ陽の落ちるような時間ではないのに妙に薄暗いのが、鐘楼という言葉の雰囲気に合っていた。
ぐいぐいと先に向かう彼女に着いていくように、祐美子も階段を上っていく。どこまでいくのだろうと祐美子が疑問に思うと、この辺でいいかと彼女がつぶやいた。階段の途中、次の踊り場が近いところで、彩さんは壁際に座った。隣、おいでよと彼女は隣の空いている床を軽くノックした。じゃあ遠慮なく、といってそこにお邪魔すると、目の前には四角く開けられた部分から青い空が見えた。彼女はふっと短く笑うように息を吐くと、初めて話したときのように困り笑いを浮かべた。
「嫌われてるんじゃなくて、よかった」
「そんなこと! 絶対にないわ。私、彩さんが好きよ?」
祐美子がちょっと拗ねた調子で言えば、彼女はちょっと驚いた様子を見せてから、それはよかった、と笑った。久しぶりに話した上に、普段よりもずっと近い距離にいるものだから祐美子はどきどきしてしまって、それが余計に悲しく思われた。
「それで、その……話っていうのは? それに、会えなくなるって?」
祐美子は息が詰まった。彩さんは真剣な調子で話してくれていた。何となく、後戻りができないというのは察してくれているようで、ありがたいような申し訳ないような、後ろめたい気持ちになった。いつしか、祐美子の顔は俯いていた。
「あのね」
「うん」
「私、私ね、彩さんと一緒に、この学校を卒業、したかったの」
 祐美子の視線は彼女と下を行ったり来たりした。いつものごとく、声は段々と震えて、弱くなっていった。
「うん、あたしも、祐美子と一緒に卒業したいよ」
聞こえた言葉が予想外で、祐美子は彼女に視線をしっかり向ける。困り笑いを浮かべて、祐美子をじっと見ている彩さんがいた。きっと、伝わっていないのではない。伝わっていてなお、彼女は祐美子と一緒にいようとしてくれているのだと思えた。それが嬉しくて、同時に、叶えられないことがひどく悲しかった。
「ちが、違うの……どうしても、どうしてもなの……!」
祐美子は泣きそうになってしまって、顔を俯かせた。彩さんは祐美子の背中を優しくさすってくれて、祐美子は落ち着くために深呼吸をした。一回、二回、三回。もう一度深呼吸をするとだいぶ落ち着いていて、泣くことはなさそうだった。そうして気づく。彼女から、何かいい匂いがするのだ。
「ごめん、彩さんもしかして香水か何か……
そこまで言って、祐美子は初めて思い当たった。祐美子が彩さんに贈った、あの香水じゃないか、と。
「うん、祐美子がくれたやつ。正直つける機会全然なかったんだけど。……でも、今日はつけてた方がいい気がして。」
ただ、嬉しかった。全体的に甘い、けれど複雑な芳香に、確かフェンネルも安息香も甘い香りがするのだったと祐美子はぼんやり思い出した。自分は彩さんにとってそれほどには大事な人だと言われているようで、それだけで祐美子は幸せになれた。だからだろうか、祐美子はちょっとだけ、彩さんからの思い出がもっと、ほしくなった。
「ねえ、もし」
……うん」
「もし、彩さんが、私を好きだと、少しでも恋として私を好きだと言ってくれるのなら」
 俯かせた顔に、彩さんが視線を向けているのが見てもいないのにわかっていた。言葉を区切ると、一呼吸おいて、祐美子はまた言葉を紡ぐ。
……キス、してくれないかしら」
 言ったのはいいけれど、祐美子は顔を上げられなかったし、返事を聞くのも怖かった。どうして言ったのだろうなんて後悔していると、ぼそりと彼女の声が聞こえた。
……こっち向いて、目、閉じてて」
 自分で言いだしたくせに、祐美子は驚いて顔を上げる。優しく祐美子を見つめる彩さんと、目が合った。それから言われた言葉を理解して、慌てて、心臓がどくりと音を立てて動くのを聞きながら、目を閉じた。
 瞼の暗闇の中で、輪郭をなぞるように指が滑らされた後、両手で顔を支えられたのが分かった。心臓が壊れるのではないかというほどにうるさかった。それからふっと、短く笑うように息が吐き出されて、祐美子と彩さんの唇が、重ねられたのが分かった。彩さんの唇が思ったよりも冷たくて、思った以上に祐美子は自分が緊張していたのだと知った。
唇と手が離れたのを感じて、祐美子は目を開ける。彩さんは、祐美子を見つめながら、とろけるように微笑んでいた。
私達ってもしかして、ものすごい遠回りをしていたのではないかな、と祐美子は思った。もう、いつからお互いに恋をしていたのだろう、と。そうして、祐美子は告げるために口を開く。
「彩さん、私ね、あなたが大好きよ」
「うん、あたしもね、祐美子のことが好きだよ」
 その言葉だけで、お互いどれだけ満たされたことだろうか。その喜びを分かち合うように、二人は手を繋いだ。そうして、繋いだ手に視線を向けて、笑い合う。
「わっ」
 身体を押される力に祐美子が驚くと、彩さんが祐美子の肩に頭を預けていた。ダメ? と小声で囁かれるけれど、その声色は少しも断られる気のない響きをしていた。もちろん祐美子も断る気はなかった。いいよ、と頬を緩ませて返す。と、彼女は本当に嬉しそうに笑った。そうして二人で空を見ながら、そのままの姿勢でぽつぽつと話したいことを、思いつくままに喋った。たまに鐘の音に邪魔されるのも、時折訪れる沈黙も、すべてが二人には幸せに思えた。

どれだけの時間が経っただろうか、カーンと大きく鐘の音が鳴って、もうずっと暗くなって夜になりゆく空の、ピンクと藍色のグラデーションが祐美子の目に入る。そろそろ、門限が近い。そうして、祐美子は一瞬怖くなって、ぎゅっと強く彩さんの手を握る。
「どうしたの」
……もう、行かなくちゃ」
思ったよりも平坦な声が出ていたけれど、交わった視線でお互いにすべてが分かっていた。彼女は頭を肩から上げて、背筋を伸ばしてこちらを見つめた。顔を俯かせて、じっと繋がれた手を見ると、祐美子はふーっと長く息を吐いた。
「ごめんね」
 言い終わると、祐美子は彩さんを見つめる。彼女も祐美子を見つめていた。お互いの瞳にお互いが映っているのがわかると、祐美子は握った手はそのままに、立ち上がって三歩ほど階段を下りた。もう暗くて弱い空の光に照らされた彼女の目には涙が浮かんでいた。
「ありがとう」
 握ったままの彩さんの手に口づける。そうして、祐美子はゆっくりとその手を放した。抵抗なく、あっさりと離されたその手の先、彼女の涙が頬を滑り落ちていた。お互い何も口にせず、ただ見つめあう。
「それじゃあ、ね」
 そう言い終わって一呼吸置くと、祐美子は彩さんに背を向けて、階段を下りていった。しばらくの後、荒くなった息遣いが祐美子の耳に届いて、引き返して、彼女を抱きしめたくなった。けれど、祐美子はそうしてはならなかった。それをしたら、祐美子はそこからきっと動けなくなってしまう。それに、彼女を置いてきた祐美子には、そうする権利すらもないように思われたのだ。

鐘楼から下りて、校門へ向かって歩いていく。すっかり春の空気になったとはいえ、夜が近いからか少し肌寒く感じられて、祐美子は身震いした。そうしてふと気づいて、立ち止まる。左肩からかすかに、でも確かに、安息香の香りがしていた。祐美子は泣きたくなった。それは、祐美子と彩さんがお互いに、確かに恋をしていた証だった。さっきまで左肩にあった頭の重みと手のぬくもりが、今でも心にこびりついて、愛おしくてたまらなかった。祐美子は、右手の人差し指を唇に滑らせて、彼女との口づけを思いかえした。きっと祐美子はその感触、それからフェンネルと安息香の香りを一生忘れられないだろう。
忘れられないのだから、この恋を胸に抱いて、私は生きて死んでゆこう。ふとそう思うと、祐美子は一つ深呼吸をした。安息香の香りがまた、鼻腔を軽くくすぐった。私は一生この恋をこの胸に抱いて、精いっぱい引きずって、ずっと彩さんを想って、そうしてこれからを生きてゆこう。そうしたら、隣にはいられなくても、きっと寂しくない。祐美子はそう心に浮かべて、ゆっくりと一歩踏み出す。まだ真っ黒にはなりきらない夜空に、ちらちらとおぼろげに星が瞬いていた。その空の下を、かすかな安息香の香りと共に、祐美子は淀みなく歩いていった。


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