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メメント・モリ

全体公開 4 7453文字
2016-05-29 15:33:51

サークルでいちばん最初に書いた作品。すなわちデビュー作。

Posted by @smbrfubuki

メメント・モリ

 当初の予定より早めに降りたのは明らかに失敗だった。
 正しくはタクシーのメーターの進み方に少し納得がいかず、ぼったくられそうだったので……時間には余裕があるし、適度な運動は寧ろ必要、と自分に言い聞かせながら、低めのヒールで恐る恐る、ひび割れたアスファルトを歩いていたのだが。
 北海道を侮っていた。試される大地のキャッチコピーは伊達ではないのだ。秋口の北海道は都内のそれと比べれば冷涼で過ごしやすいが、始終運動しているとなると話は別だ。額に浮いた汗が雫になって流れてくる。どこか、バス停でもいいから座る場所がほしい。
 心なしか海霧が曇り空に相俟って、アスファルトの両脇にそびえる丈の高い草を湿らせているように思う。あまり心地よいものではない匂いが鼻をついた。都会で生まれ育ったのが災いしてか、私の身体は生の自然に必ずしも癒しを覚えないらしい。
 一度鞄を置いて、立ち止まった。眼鏡を忘れたのでぼんやりとしか見えないが、鬱蒼と茂る褐色の草叢の向こうに、あばら屋と呼んでも差支えなさそうな簡素な建物があった。もう少し近くに寄ってみると、看板が出ていた。喫茶店らしい。
 座れる、喉の渇きも潤せる。コストパフォーマンスは気にしないことにした。結局タクシーに乗り続けるのと大差ない出費になる。私は自分の要領の悪さを苦笑しながら店に入った。
「いらっしゃいませ」
 女の人の低く落ち着いた声に出迎えられた。薄暗い店内に客は少なく、というか私しかいなかった。やはり人が来ないのだろう。このように何もないところで営業していては。
 しかし内装は私好みのオールドアメリカン様式で、硬めの木椅子に腰かけると急激に体の奥底から疲れが湧きあがってきた。
 メニュー表を開いていると、水が運ばれてきた。不愛想に置いて、そのまま戻っていく。ああこれは流行らせる気が元からないのだ、と思った。そういう例もある。都会にいるとあまり目にしないけど。
「すみません」
 声をかけるとにこりともせずに注文を取りに来る。
「アイスコーヒーをひとつ」
「畏まりました」
 言ってから、慌てて訂正する。
「すみません。……今のなしで、紅茶をひとつ」
 さっさと私のオーダーに二重線を引き、彼女は殴り書くように書き留めた。
「ホットで?」
「はい」
「ミルクとレモンは」
「ミルクでお願いします」
 呟くように畏まりました、と言い残して彼女は去った。接客業が嫌いなんだろうか。新鮮だ。私は浮腫んだ脚を伸ばし、机に突っ伏した。清掃は行き届いている。
 五分ほどそうして怠惰に過ごしていると、ティーポットとカップ、それからミルクと茶漉しと砂時計が運ばれてきた。やけに本格的だ。
「御待たせ致しました」
 順番にテーブルに並べて、最後にポットの陰から小皿を並べた。
「これは」
「クッキーですが」
「ではなく……何故?」
「お疲れのご様子でしたので。ご不要なら、下げますが」
「頂きます。ありがとうございます」
 このやり取りの最中にもやはり彼女はにこりともしなかった。どうもやりにくい。無関心かと思えばこんなサービス。根底では人が好き、とかそういうのだろうか。
 ひとまず私は冷たい水を飲んでから、熱い陶器に同じく熱い茶を注ぎ(上質なアールグレイの香りがした)、ちびちびと口に含んだ。やはり運動をやめると少し肌寒い。少しずつアールグレイを体内に流し込むうちに、心地好い温もりに包まれるようだった。
 結局ミルクを使わずに紅茶を飲み干してしまい、クッキーも食べつくして私は時計を見た。さほど時間は経っていない。このまま出てしまうのは惜しい気がして、不愛想な彼女に恐る恐る声をかける。
「すみません」
「はい」
「紅茶をもう一杯。ストレートで結構です」
……畏まりました」
 彼女はティーポットを下げて、奥へ引っ込んだ。私は大きく伸びをして、お腹を圧迫しないように突っ伏した。
 五分ほどして、またポットが運ばれてくる。
「あんまり美味しいので、つい」
「ありがとうございます」
「私、コーヒー党なんですけど、こんなに美味しかったら考えが変わりそうです」
 彼女は少しだけ手を止めて、光栄です、と呟いた。相変わらず表情は読めないが、心なしか物言いが柔らかい。よく見ると彼女は美人だった、というか、私の惹かれやすい顔立ちをしていた。切れ長の涼やかな目元。冷たい印象を与えるが、何か私の目を惹きつけてやまない。
「何か」
 そうやって見ていると彼女が言ったので、慌てて繕った。
「あ、いえ。よろしかったら、ご一緒にいかがですか。他にお客さんもいないみたいだし」
 口走ってからこれはかなり失礼にあたるな、と思ったけど彼女は表情を変えずにエプロンを脱ぎ、私の向かいに腰を下ろした。
「客はあなたが初めてです」
「え、と……今日?」
「いや。ここに店を開いてから。もう三日になりますが」
 それはそうだ、と思ったが黙っていた。私だってタクシーを降りなかったら気づきすらしなかっただろう。
「地元の方なんですか?」
「いいえ。長いこと、東京に住んでいました。母が亡くなったのを機に、北海道へ」
「お母様は北海道の方?」
「それも違います。母の遺言なんです。私が死んだら、北海道のはずれの、何もない海沿いの国道に店を出せと。元々、吉祥寺で喫茶店をやってたんですが」
「それは……奇妙な遺言ですね」
「まったくです。まぁ、私も東京に未練はありませんでしたから」
 彼女は明らかに客に出すための水をグラスになみなみと注ぎ、私に憚ることなく飲み干した。この分では喫茶店を営んでいたのは亡くなったお母様なのだろう。若く……見えるが、実質はそれほど若くはなさそうだ。若さでは片付かないこの不愛想さでは、いろいろな人間がいるとはいえ、さぞかし世の中を渡りにくいだろう。
 私も生きにくかった。寧ろ、生きやすい社会なんてあるんだろうか。そう思い始めると紅茶が渋く思えてきた。
「お客様こそ、どうしてこんなところへ?」
「それは……、納得できるような説明ができません」
「行先は?」
「この先に海岸があると聞いて。コテージも」
「それなら潰れたらしいですよ。その管理者の方がここの店舗を斡旋してくれたので、残念ながら」
「えっ……でも確かに予約取ったし……
「夜逃げに近い形だったと聴いてます。家族経営で、息子さんの代になってから芳しくなかったようです。田舎の人は、訊いてもいないことを丁寧に教えてくれますから」
 これは困った。どうしろというのだ。私は頭を抱えそうになったが、もう少し時間をおいて実際に行ってみようと思った。彼女がここにいるならタクシーくらい呼べるだろうし(実際電話があった)、そんなに焦ることはない。今からプランを練り直すのは面倒だ。
「お客様は、なぜ海に行かれるんですか。流氷にはまだ早いのに」
「『氷点』って、ご存知ですか?」
「ええ。三浦綾子の小説ですよね。かなり昔の」
「あの小説に感銘を受けたんです。あと、『海猫』。谷村志穂の」
「もしかして……妊娠なさってるんですか」
 挙げた小説の題名だけでそこまで推察されるのは意外だった。私はティーカップを置き、頷いた。
「それで、コーヒーをおやめになったんですね」
「自覚がまだなくて」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。でも」
 絞り出すような声になったのは気のせいではないと思う。そして察しのいい彼女ならなんとなく感じ取ったのではないだろうか。

「この子は祝福されて生まれてくる子ではありません」
 そう言った私の声は震えていてガタガタだった。こんなこと、自分の子に一番言ってはいけない言葉だと思う。だが不思議と彼女は、私の痛みをわかってくれそうな気がした。
「私、結婚していたんです。相手は高校の同級生で、五年付き合って結婚しました。幸せでした。周りの皆が結婚できないと騒ぐ中で、早々と幸せを手に入れて、勝ち誇ったような気分でいたんです。彼も優しくて堅実な人でした。私は看護師をしていますが、そのせいでなかなか時間が合わず、子供は授からなかったけど。満たされていました」
 彼女は二杯目の水を注いだ。話を聞いてくれているということだろうか。
「ちょうど半年前です。彼にがんが見つかりました。信じられなかった。同い年なんですよ。真面目な会社員で、なにひとつ悪いことなんてしてないのに。異様に進行が速くて、大した治療もできないまま彼は死にました。彼が死んだその日に、ショックで気を失った私に、栄養剤の点滴を打ってくれた医者が言いました。『妊娠してるよ。いつの間に?旦那さん、そんなことできなかったでしょ』って」
 彼女は今度はグラスを煽らず、テーブルの上に置いてその横で指を組んでいた。私はもう自分でも何を言っているかわからない興奮した頭で、さらに続けた。
「本当は一度だけ、主人と……。もう投薬治療は始まってました。抗がん剤の副作用が怖いからって、ちゃんと避妊もしました。でも、授かった。あんなにダメだったのに、これは奇跡だって思ったんです。でも、私の家族も主人の家族も……同僚も、親戚も、みんな信じてくれませんでした。そりゃそうですよね。それまでずっとできなかった子供が、投薬治療中の末期がん患者との間にできるなんて誰も信じてくれません。私だって逆の立場だったら信じません」
「それで、祝福されない」
「私しかいないんですよ、この子。男の子か女の子か、わからないけど。おじいちゃんもおばあちゃんもお父さんも、叔母さんもお母さんの友達もいない。ひとりなんです。そう思うと、申し訳なくて」
「申し訳ない?」
「彼とこの子に」
 そう言うと目頭が熱くなった。涙をごまかすために紅茶を飲んだが、既に冷めかけていた。
 彼女は少し顔を伏せて、私も母しかいなかった、と言った。
「私の話をしても?」
「あ、はい、勿論」
「あなたが謝る必要なんて何一つない。あなたが悔やんだところで、何も変えられない。あなたは母親なんです。その子の、たった一人の」
 ゆっくりとした物言いが心に突き刺さる。私はテーブルの下でかたく指を組んだ。
「私にも母しかいませんでした。母はあまり自分の過去を語らなかった。父親のことも言わずに死にました。きっと道ならぬ恋だったか、許されない理由でもあったんでしょう。母もあなたと同じ、看護師でした。でも私が生まれて、仕事を続けられなくて、喫茶店を開いたんです。私は幸せでした。母も幸せだと言っていました。あなたはまだ子供の顔を見ていないでしょう」
 ゆっくり頷く。その拍子に、涙がこぼれた。
 一度堰を切るとなかなか治まらず、紙ナプキンの吸水力では頼りなくて、彼女がタオルを持ってきてくれた。
「あなたが愛しさえすれば、その子は必ず幸せになります。たとえ一人になっても、愛された記憶は残ります。私は三十歳になりました。とうとう母も失ったけれど、あの記憶があれば、淋しさの極地でも最後に踏ん張れるんです。どんなに辛くても、今は一人でも、独りじゃないって」
 彼女の声を聴いていると不思議と落ち着く。深く息を吸って、涙を隠しながら、私はとても的外れな答えをした。繕った感想はいらないと思った。
……同い年なんですね」
「そうなんですね。いつですか、お誕生日」
「私ですか。五月十一日です。あなたは」
「そんなところまで母と同じなんですね。私は三月九日です」
 なんだか可笑しくなって、私たちは笑った。彼女の笑顔は思ったよりもとてもかんじがよくて、私は涙を必死で拭った。
 彼女のお母様、とやらに逢えないのが素直に悔やめる。
「お名前を伺っても?」
「すずです。涼しいという字を書いて、涼」
「いい名前ですね」
「あなたは?」
 個人的に「花」という捻りのない自分の名前が嫌いだったので、苗字を名乗った。それが偶然名前のような響きで、夫と繋がっているような気がして、どうしてもそう名乗りたかった。
「那波です」
「ななみさん。そこは被らなかった」
「そうなんですね」
 彼女の柔らかい笑顔に心が洗われるようだった。私は残りの紅茶を飲み干した。
「ひとつ、母に言いたいことがあります」
 私が紅茶を飲み干したのを満足げに見届けて、彼女は切り出した。
「何も全部墓場まで持っていかなくていいのにって」
「確かに。知らないことだらけですもんね」
「でも、母が語りたくないなら、いいかな、と」
「きっと打ち明けたかったはずですよ。特にたったひとりの娘であるあなたには」
「じゃあ、やっぱり死ぬのが早すぎたんですね」
 彼女は晴れない霧の向こうを遠い目をして見つめた。その横顔はやっぱり、素直に綺麗だと思った。



 それから店を出て、私は海岸へ向かって歩いた。
 私の体を気遣った彼女は送ると言ってくれたが、さすがにそこまで付き合わせるのは悪い気がしたので、連絡先を受け取る代わりに店の名刺を貰って出てきた。あれだけの紅茶の腕なら、場所にかかわらずもっと繁盛すると思う。
 霧も晴れ、日光のお蔭もあってか息苦しさはかなり軽減されたように感じた。足取りも不思議と軽く、そのため思ったよりもはやく目的地に着いた。海とコテージと僅かに点在した民家。ネットで見た通りの配置だ。
 そして件のコテージを思いきって訪ねると、普通に管理人がいて、予約も通っていた。
「歩いて来られたんですね。大変だったでしょう」
「途中の道に喫茶店があったので。そこで色々聴いてたんですよ、このコテージが潰れてるとか……奇妙な話ですよね」
「喫茶店?」
「ええ。女性がひとりでやってらっしゃる」
「そんなお店があるんですね?国道でしょう、あの草がものすごい」
「はい。あ、でも三日前に開店したと言ってたので」
「そうですか。僕、ずっと通ってるのに気づきませんでした」
「紅茶がとても美味しかったんですよ」

 コテージのオーナーは私より少し上くらいの男性で、とてもじゃないけどここを潰したり夜逃したりするようには見えなかった。真面目で温和、を形にしたような人だ。
 色々と嚙み合わないな。
 私は不思議に思いながら、通されたコテージの一室で、この子を育てるためには喫茶店もいいかもしれない、とぼんやり思ったのだった。
 どうせ看護師の仕事は続けられない。誰も子供の面倒を見てはくれない。それなら、私がずっと傍で育てればいい。
 そう決意して眼下の海を眺めていると、涼やかな風が吹いた。涼、と呟いてみる。改めていい名前だと思った。
 さっきまでの海霧が嘘のように、秋晴れの海はきらきらと輝いていた。











***


 涼は奇妙な客を見送ってから看板を仕舞った。営業時間には遠く及ばないが、「本日臨時休業」と紙を貼っておいた。霧はまだ深く立ち込めている。これ以上粘っても客は来ないと判断したのだ。
 なんだかさっきで気力を使い果たしたような気すらする。涼は母と二人で喫茶店を営んではきたものの、ずっと裏方に徹していたため客との会話に不慣れだった。
 やたらと紅茶を飲む客だった。しかも妊娠中らしい。あんなに素分を摂取して、足が浮腫んだりしないのだろうか。考えてみたが、妊娠はおろか他人との付き合いも経験のない涼にとっては蚊帳の外の出来事だった。
 ななみ、と言っていた。そういえばあちらの連絡先を聞くのを忘れた。上の名前もそうだ。しかし、あそこまで母親と状況の被る人も珍しい。あれで名前が「花」だったら完璧に母親だったのに。と、涼は少し残念そうにポットとカップ、自分の使ったグラスを下げた。
そして静かに食器を洗いながら、母もコーヒー党だった、少なくとも私が紅茶を淹れるようになるまでは、と思った。
 そしてその時、ほんの少し頭を掠めた疑念に、聡い涼は鈍感で居ることができなかった。


 五月十一日生まれ。
『氷点』も『海猫』も、母の本棚にあった。
 昔、看護師をしていた。
 何より、あの姿。
 気付けば涼は二階に駆け上がり、劣化しつつある背表紙のアルバムを本棚から抜き取っていた。
 涼が生まれ育った記録。二〇一二年三月九日の日付入りで、産後間もない自分と母が看護師の手によって映されていた。

 若かりし日の母は……「ななみ」そのものだった。

 そうだ、そういえば。かつて母は「那波」という印鑑を持っていた。これは何、と訊いた涼に、母は心なしか淋しい顔で「間違えて買った」と言った。小学生だった涼は、その文字を「なは」としか読めなかったのだ。しかしあれも十分「ななみ」と読めるではないか。
 そんなことがあるのだろうか。しかし、そう考えればすべての説明がつく。涼は力なくその場に座り込んだ。あれは母だった。母は「花」という自らの名を気に入っておらず、名を問われた時は必ず「常盤」と苗字で答えていた。あれが夫の死後間もない母だとしたら、夫の苗字を名乗ることは十分、有り得る。


 だとすれば。
 母は、どんな思いで生まれた娘に「涼」と名付けたのだろう。
 涼と出会った若かりし日の母は、きっと半年後の三月に元気な娘を産むだろう。誕生日を覚えてくれていたのだろうか。自分の娘に名づけるほど、私のことを覚えていてくれたのだろうか。 気に入ってくれたのだろうか。
 そう考えれば考えるほど、悲しくて嬉しくて、涼はその場から動けなかった。
 それはまるで、現在の自分までをも母に肯定されているようだった。
 それに、なぜ母がこんなところに店を構えるように言ったか。
 涼が次第に成長し、年を取る最中で、気付いたに違いない。将来必ず迷いこむであろう過去の自分を救う「涼」に。若かりし日の母に救いを示した同い年の女は、他でもない自分の娘であるということに。
 孤独に沈む自分を励ますために、また母の秘匿したままだった事実を教えるために、天が起こした奇跡と言う外なかった。
 涼が、まるで赤子のように大声で嗚咽を上げていることに気付いたのは、すっかり日が沈んで夜の帳がおりたころの話だった。
 
 海霧はずっと立ち込めていた。そしてずっと、重く湿った空気を醸し出していた。
END


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