@smbrfubuki
ふわふわと、ふわふわと、海月のように漂って生きられたらいいと思っていた。先のことなんて誰にもわからないのなら、今を正しく生きるのがいい。今を生きれば、そしてそれが積み重なれば、いつの間にか未来にたどり着いているだろう。未来は無条件に輝かしいものでも、誰もが希求する恒久の平和でもない。ただ現在の延長線上に、現在の自分を少しだけアップグレードして、もしくはダウングレードして配置するだけの話だ。
今の正しさなんて、自分が決めればいいと思っていた。自分だけが自分の正しさを知っている。不遜で思い上がった自分を、自分だけが諫めても良い。人に言われるのは窮屈だった。悲しいくらいに、私は人から値踏みされるのが嫌いだった。何かを恐れるように、価値づけを嫌った。
「来てくれる……かな」
だからこれはそんな私への戒めであり、分相応な未来のひとつだった。あのころ思い描いた未来にこんな地図があっただろうか。こんな言葉があっただろうか。
いくら問いかけても内なる私は返事をしなかった。ただ、胸の内でどす黒く渦巻く気持ちがびっくりするくらい重苦しく胸を締め付けた。肺が、心臓が、苦しくて呼吸をやめそうになる。
味のしない、高いばかりのコーヒー。その横に遠慮がちに差し出された結婚式の招待状。郵送にしてくれたらよかったのに、会って渡したかったから、などと勝手な事情を叩き付けられる。目の前の女はもはや敵でしかなかった。それが悲しくて、腹立たしくて、同時に吐き気がするほど愛しかった。
「どうして行くの」
「……来てほしいの。どうしても」
「あんた、自分が何言ってるのかわかってるの」
「わかってる。わかってるよ。だから、会ってお願いしたかったの」
「馬鹿げてるわ。おかしくなったんじゃない? 私がいまさら、どんな顔してあんたの男に会えっていうのよ」
語尾が震えていて、慌てて繕うように鼻で笑った。ついでに煙草に火をつける。かちかちと何度も鳴らしてしまったのは威嚇ではない。上手く火が付かなかったのだ。
彼女は私が煙草を吸うのを極端に嫌った。やめてよ、子供産めなくなるよ。子供なんて産むと思ってるの? 女と付き合ってるのに。そう返すと何も言わなくなるあたり、彼女は気づいていたのだ。自分がいずれ結婚して子供を産む女であることも、私が結婚して子供を産むという選択を全く念頭に置いていないということも。
紫煙を吐きかけるような無粋な真似はしなかったが、細々と吐き出した息にせき込みそうになって、思わず少し息を止める。本当に窒息して死んでしまいたい。心臓も肺も、それが吝かではないことは、既に自分でよくわかっている。
「本当に勝手な女よね。私とやっていけないって、子供が欲しいから男にしますって、そう言って別れた女を今度は結婚式に呼ぼうっていうの」
「……ごめんなさい」
「謝って済ませる気? どこまで私を馬鹿にしたら気が済むの」
「馬鹿になんてしてない」
「これが馬鹿にしてるんじゃなかったらなんなのよ」
私は煙草を咥えたまま目の前の紙を掬うようにして持ち上げ、びりびりと真っ二つに破いた。さすがに感情的過ぎたかと思ったが、彼女は何も言わずに俯いているだけだった。ああ、怒られたときの表情、変わらないな。私が癇癪を爆発させたときはいつも、こうして俯いてやり過ごそうとしていたっけ。そう思うと懐かしくなって、その年に見合わない柔らかな前髪を撫でたくなったりもしたけど、それをごまかすように紙片をテーブルに投げ捨てた。危うくコーヒーに紙片が浸されるところだったが、知るものか。どうせ砂の味がするのだ。そんな不味いコーヒーはいらない。
「あんた、私のこと、好きなの?」
「っ……」
「好きなんでしょう。好きだからこういう傷つけ方するんでしょう。子供みたいね。言ってやるけど、私はあんたのことなんてこれっぽっちも好きじゃないから。あんたみたいにひどい女、もうとっくの昔に記憶から抹消してるわ」
言いながら心が死んでいくのを感じる。ざっくりと傷つけられて血を流している心は、同じように傷つけ返さないと気が済まないようだった。私は慎重にナイフを使った。言葉のナイフを研ぎ澄まして、かつて愛した女を殺そうとしている。自分がつらいから人を同じように傷つけようなんて、それこそが子供の所業なのに、その矛盾を彼女は指摘しなかった。ただ嵐が過ぎるのをじっと待っていて、それがまた言いようのないほど腹立たしかった。
「もう帰る。二度と連絡しないでね」
「待って」
「しつこいのよ」
ぞっとするほど低い声で恫喝する私に彼女がひるんだ様子を見せる。そのまま紙幣を一枚置いて席を立ち、真っすぐ店を出た。一度も振り返らなかった。だから、彼女がそのときどんな顔をして私を見ていたのか、何を最後に言おうとしたのか、何をしようとしたのかを私は知らないままだ。煙草の煙が目に染みて少しだけ泣いた。なんてひどいよる、と夜にさえ憤る私はおそらく平静を保てていなかった。行儀の悪い歩き煙草を暫くやらかして、喫煙スペースの灰皿に乱暴に煙草を突っ込んだ。今や、私の唇に啄まれるのはこの煙草くらいである。それが最後の喫煙になった。
未来のことなんてわからない。誰にもわかるはずがない。
私は3日後、真っ黒なワンピースに身を包んで抹香臭い無機質な空間にひとり座り続けていた。式典は終わった。係りの人に退席を促され、漸く部屋の外へ出る。人影は既に疎らだ。悲嘆に暮れていた見覚えのある男も、私の姿を見止めて何も言わなかった。かける言葉がきっとなかったのだ。事前に恋人を失っていた女と、その女から恋人を奪って幸福の絶頂にいたはずの男の対比は、自分のことでなければ指をさして笑っていたことであろう。
先に失っていた。だから奪われたのではない。そう自分に言い聞かせなければ、とても立っていることはできなかった。
彼女は既に息をしていなかった。私よりも先に、その心臓と肺は呼吸をやめてしまった。詰められた頬の詰め物や、まるで蝋細工のように色味の薄い唇は、既にそれがこの世のあらゆる事物との関連をやめてしまったと物語るようでとても見ていられなかった。胸の上で組まれた手は固く解きようがない。二度と目覚めないことを知るのに、これほど説得的な姿はないだろう。
参列者は皆、前途洋々たる彼女の行く末を想って泣いたし、それを完遂できなかった哀れなる女を想って更に涙を流す。もうすぐ結婚式だったのに。そう繰り返されるすすり泣きの声がいつまでも残響する。彼女は様々な人に想われ、慈しまれていた。だから誰のものにもならなかったのだろうか。
私は憔悴しきった男を視界の端に追いやり、ふらふらと表へ出た。暑い。夏の日の葬列はどうしてこうもやりきれなくつらいのだろう。蝉の声の中に二度と帰らない人を想って泣くために、夏の昼間は静寂が似合うようにできているのかもしれない。私はライターを持ちながら、煙草を持っていない。あの夜から煙草を買えなくなった。彼女に遠慮しながら燻らせた煙が、彼女を思い出してつらいのだ。
罰が当たったのだ、私を捨てた罰だ、と吐き捨てられたらどんなにか楽だったかわからない。でも、私は愛していた。愛してしまった。あんな女を。子供が欲しいからと最愛の人をこっぴどく傷つけ、ぼろ雑巾のごとく捨て、更には結婚式に来てくれと言ってのけるような人でなしを、しかしながら、いやだからこそ、愛していた。
あの愚かしさが愛おしかった。私だけのものだったのだ。あんなに愚かな女を愛したのは私しかいない。今までも、きっとこれからもそうだ。
抜けるような空の青さに視界が歪んでいく。空を見上げているせいで零れ落ちない涙が、眼前を歪ませて潤いの中に太陽を閉じ込める。
予定されていた恋の死と、予想外だった彼女の死。先のことは誰にもわからない。誰にも、自分自身でさえも。
そう思うとなんだか今を生きることすら苦しくて嫌になって、私は見上げたままの空から視線を逸らすことができなかった。つう、と頬を伝った一筋の雫。勿論雨など降ってはいないし、それは驚くほど熱い涙だった。人を想って、人の死を偲んで、私はこんな涙を流すことができる。彼女がもう二度と出来ない様々な未来を、私はこの身で体現することができるのだ。
それが一番いやだと思った。
「あなたの未来が見たかった」
結婚式に出ると言ってやればよかった。あなたの幸せに私がいないからって、拗ねてしまった我が身を呪う。最後に笑った顔を、目に焼き付けられなかったのは私が子供だったからだ。やり直すとまでは言わなくても、おめでとうと言ってやることがなぜ出来なかったのだろう。あの時と、現在に、線を引いたのはどうしてだろう。
行き場をなくした心は、飼い主をなくした犬のように私につながれたままだ。ふわふわ、ふわふわと憧れ歩く心は、きっとこれからも彼女に掴まれたままだ。時が変わるまで、大丈夫かと道行く人に声をかけられるまで、私は憚ることなく涙を流し続けた。人が定められた死へと歩む、大いなる予定死へ呪詛の言葉を吐き続けながら、狂ったように彼女の名を呼んだ。
END