貿かー。お酒の話。
@san_ph7
氷を入れたグラスが暖色の明かりに照らされてキラキラと輝いた。ふたつのグラスの片方には、琥珀色の液体が、もう片方にはアングレサイトの様な透き通る黄色の液体が注がれる。液面がグラスの半分までくると、貿の魔王は彼女の杯へボトルを傾けるのを止めた。続けて、カラフェから液体が注がれた。無色透明のそれが注ぎ口から滑り落ちる。アングレサイトはグラスの中で砕かれて、ごく薄い黄色になった。不思議そうにその光景を見ていた彼女に、魔王はこう言った。
「……ただの水ですよ、貴女すぐ眠くなるじゃないですか?」
気遣いに礼を述べると、魔王はふんと鼻を鳴らして、グラスを彼女にもたせる。エスコートと言うには、いささか作法のまとまらない、よく言えば親しみのあるもの同士で許されるラフな注ぎ方であったのは、ここが彼ら夫婦の居室だからである。
山よりも高いプライドを持つ目の前の御仁は、社会的にも高い地位を持つ紳士である故に、彼女と結婚してからも相応しい行動を心掛ける事を忘れることはなかった。こそばゆいやら嬉しいやらでどぎまぎしていた彼女も、差し出されたその手を取り微笑し歩み出るくらいはできるようになった。
彼なりにいい夫であるように振舞っているというのもあったのだろう。しかし如何せん彼がそういう人となりである為か、部屋へ戻れば開襟シャツのボタンを外してスカーフを緩め、だらりと彼女に体を預けることもまたしばしばあった。彼女は、この紳士たらない彼が大変面白く愛おしいのだ。
だから、彼が対面のソファに座るのをよして彼女の隣にさも当然そうに腰を下ろしてくつろいだのを見て、彼女はついに笑ってしまった。怪訝そうな顔するその人に、彼女は指輪の光る左手を顔の前で振りながら「いいえ、陛下、何でもありません」と言うので精一杯だった。
カラカラと氷を鳴らしながらグラスを回す隣の彼の動作を見て、何となく真似をしてみる。彼も言ったとおり、彼女は特別酒に強いわけではない。それを自分でもよく知っている。酒を飲むよりも飲ませる方が得意なのは、彼女のこれまでの生き方にとってそうしたことが重要だったからだ。
隣の魔王をちらと見る。琥珀色の液体を口元へ運んで、少しだけ飲んだ。彼が酒に酔って前後不覚になっているところなど、見たことがない。勧められれば勧められただけ飲んではくれるだろうが、酔いはしないだろう。濡れた唇を舌でぺろりと舐める。見られていることに気がついた彼は、なんですか、と微笑んだ。ひどく造作の整った顔は艶っぽい動作を助長して、彼女をどきどきさせた。彼女にとっては美しくて格好良くて素敵な旦那様だ。本当は方方に自慢して周りたいぐらい彼のことが大好きなのだが、世間ではそれを「惚気け」というし、そんなことができる相手は戦の魔王夫人ぐらいなものだった。
「飲まないんですか?」
彼の顔に見惚れていた彼女ははっと気がついて、ようやっとグラスの中の液体を飲んだ。
柑橘の香りが広がって、飲み干せばほのかに甘さが残った。おいしいですと素直に彼女が伝えると、彼はもうひとくち飲むように促す。ひとくちだけ口に含んで、
「ストップ」
と止められたので、言われたとおりそのままにしていると、彼の顔が近づいてきた。
唇が重なり、舌が割り込んでくる。中の液体を引きずり出すように、腔内を舌が這う。数度抜き差しされ、はずみで口の端から零れていく。唾液と混ざった液体を彼が音を立てて吸って、唇はやっと離れた。
「甘いですね……どうしたんですか? 顔が赤いですよ」
楽しそうに笑った彼には、頬を上気させて、口の端から零れた酒を拭くこともできずに放心した彼女がよく見えた。彼が親指で伝い漏れた筋を拭ってやると、彼女はうーと唸ってそのまま俯いた。その様子を見て、魔王は更に愉快そうに口角を上げた。彼はこうして彼女をからかっては、それを肴にして酒を飲むのをたまにやるのだ。恥ずかしがったり少し怒ったり、酔いがまわってぼんやりしたり甘えにきたりする彼女を見るのが、彼にとってはたまらない楽しみのひとつでもあった。
顔を伏せたままの彼女の頬にグラスを押し当てる。ひゃ、と小さく叫んで少し弾んだ彼女が、恨めしそうな目を彼に向けた。わざとらしく肩を竦めた彼に怒ったのか、彼の持つグラスをひょいと奪う。
「ちょっと」
「交換です」
自分のもつグラスを代わりに持たせる。少し不満気な彼がグラスを弄んでいる隙に、カラスは杯をぐいと煽った。止める間もなかった。あ、と彼が声を上げた頃には、グラスの中身は空っぽだった。途端に口を抑えてむせた彼女を見て、空になったグラスに水を注いでやる。
「何してるんですか貴方は」
「強いお酒だったんですね……」
それはそうでしょう、と魔王は呆れ気味に言った。彼女は酔いが回ったのかおぼつかない手で水を飲む。元々上気していた顔が、もっと赤くなって、瞳は潤んだ。それがなんだか行為中の彼女の様子を思い起こさせて、彼はグラスを置いて彼女の体を引き寄せた。突然体を引っ張られ、中身が零れないよう両手で持っていた彼女が所在なさ気にしているので、グラスを取り上げてやる。彼女は彼に体を預けたまま、空いたその手で彼の手をぎゅっと握った。
「い……いつも」
彼の腕の中で、彼女が小さく呟く。
「陛下は、陛下はお仕事いつも頑張っていらっしゃるし、かっこいいし、その、素敵な旦那様だって私、いつも思っていますから…」
突然、妻がそういうので、ちょっと面食らった夫は目を丸くしてもじもじしている彼女を見ていたが、しばらくして、これ以上ないぐらいにっこり笑った。
「それから?」
「え?」
「続けて」
彼が嬉しそうにしているのを見て、彼女も嬉しくなった。恥ずかしかったし、それに酒の勢いというやつではあったけれど、普段言えないことを言ってしまうにはいい機会だと、彼女はそう思った。
「陛下がこの前、ドレスを買ってくださったの、嬉しかったわ。それから、最近色んな所に連れて行ってもらえて、それもとても嬉しいの。お城は綺麗だったし、湖の上を歩いたのも素敵でした。それから――」
滔々と話し始めた彼女の言葉を、彼は頷き、時折、「それで?」「へぇ、そう思ってくれてたんですか」「ありがとうございます、続けて下さい」と相槌を打った。実に穏やかに笑いながら。それらはほとんど彼女が彼にしてもらったことで、ふたりの思い出だった。彼女にとって真に彼が素晴らしいと思える点というのは、彼が自分を幸せにしてくれるというところで、それについて感謝しているし、だから貴方は素敵な旦那様なのだと、彼女はそう言いたかった。止めどなく溢れる彼女の嬉しかったことや楽しかったことを彼は一言も聞き漏らさなかった。
そのうち、眠たくなったのか声の音量が下がってきた彼女をぎゅっと抱きしめると、
「もうおしまい?」
実に惜しそうに彼女の耳元で囁く。くすぐったそうに身を捩った彼女の様子を見て、彼女の体を抱き上げた。へいか、と回らない口で小さくそう呟いた彼女に微笑むと、彼は彼女をベッドまで運んだ。
「眠いのでしょう? もういいですよ、続きはまた今度聞かせてもらいますから」
そう言った彼に、待って、と彼女は彼の手を引いた。彼女よりは大きくて、すらりとした細い指が、彼女の頬を撫でた。
「まだ何か?」
「陛下、私、だから、貴方のことが大好き」
熱に浮かされ、頬を朱に染め瞳を潤ませて、彼女はそう言った。
「私、貴方と結婚できたことが一番の幸福だと思っているの……貴方が大好き、大好きよ、愛しているの……」
うわ言のように、でも彼をじっと見つめて。
彼はそんな彼女から目を逸らすことができずに、しばらくその黄緑色の美しい瞳を眺めていた。彼の胸中を去来していたのは、彼が仕立てさせた見事な白いドレスを着た彼女の姿だった。
「愛し、慈しみ……」
それはほんの小さな声だったので、彼女の耳には届かなかった。うとうとし始めた彼女のその隣に横になると、その体を力いっぱい抱きしめた。知っていますよ、とお決まりのように呟くと、彼女の髪を柔く撫でた。
「おやすみ、エル」
眠りに落ちる寸前に聞いた魔王の声は、凪いだ海のように穏やかで優しかった。