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いくつになってものめない

全体公開 2 3719文字
2016-07-09 23:34:38

7/9 フリーワンライ。お題は「甘い紅茶と苦いコーヒー」

Posted by @smbrfubuki

どちらも売り切れていたから、結局コーラを買った。炭酸は別に嫌いではなかったはずだ。久々に会う友人の好みを遠い記憶の向こうから揺り起こして、栓を開けながらベンチに座る。しかしこう、いつまでも暑いと何をする気力も雲散霧消するもので、俺は汗の浮かぶ額にハンカチを滑らせた。前髪が長くなっている。センター分けでごまかすにもそろそろ限界だった。夏は短髪に限る。目の前の友人は夏仕様に少し髪を短くしていて、もじゃもじゃの癖毛が心なしか短い。形の良い耳がよく見えた。

「このくそ暑いのに。いっそ水の方が良かった」
「自販機で水買うとか高等遊民だなお前」
「物のたとえだよ。東京と違うんだ、水道の水でも飲んでるさ」

文句を言いながら小銭を突き返してくる友人は、流れる汗を乱雑に拭いあげた。男所帯の奴はこれだから品がない。大学生の頃はもう少し、内側から滲み出る気品のようなものがあって、なんとなく人が寄り付かないような、そういった風情で誰からも浮いていたこの美形が、である。雑な手つきでワイシャツの首元を緩めてぱたぱたと扇いでいるさまを、同級生の女の子たちに見せてやりたい、と少しだけ思った。順が順であることには変わりがないのに、10年以上の歳月は人の性質をこんなにも容易く変容させてしまう。

「ってか、売り切れか。まいったな」
「どうする? この先コンビニあったか?」
「記憶にねえな。引き返してスーパーか何か寄るならそれでもいいが」
「このタイミングでねえならいらねーって言ってんじゃね? 何年前の話してんだよってさ」

揶揄うように言うと順は黙ってしまった。たかだかコンビニの入荷が会話まで奪ってしまう滑稽さにいっそ笑えるが、しかしながらそこのコンビニにそれはなくてはならなかったので、というかこの10年一度もそんなことがなかったので、俺も少し驚いたのだった。
順は一瞬のうちにコーラを飲んでしまった。喉が渇くと文句を言った割にはいい飲みっぷりだ。俺は置いていかれないように丁寧に蓋を閉め、順の運転する助手席に乗り込んだ。少し休んだだけなのにえらく熱い車内に辟易する。夏はこんなものとはいえ、蒸し風呂のように毎回熱いのだけは本当にどうしようもない。

「あっちーな」
「上着完全にいらないよな」
「まあ、しかし省くわけにもいかないからなぁ」
「見りゃわかんだろ。こんな黒いネクタイ」
「どうだか? 最近はそういうカラーコード的なのもだいぶ衰退してるって聞くし」
「日本の伝統だぜ。冠婚葬祭のマナー」
「祐介は地味にそういうことホントうるせえよな」
「職業柄っつうか……信用商売だしな」

大学時代に同じ学部にいたのに、今や順と俺の暮らしは真反対だ。片や、国家権力を行使し治安維持に尽力する警察官。片や、法と倫理の狭間で力なき者に報酬次第でと甘言を振り撒くあくどい探偵。何にも庇護されることのない、何にも与しない商売は人の評判と信用が第一だ。故に、常識を欠いた振る舞いや逸脱した姿勢は明日の暮らしに影響する。制服に袖を通していさえすれば、初対面の相手に説教口調で詰め寄れる職業とはわけがちがうのだ。俺は奴らを、正義のやくざとこっそり呼んでいる。法を遵守するヤクザ。きっと当人たちが聴けばいい気はしないだろうが、そう囃し立てる気もないのでこっそりそう呼び続けることにしよう。

「今日の怠慢が明日の飯に直結すんだよ。公務員にはわからねえ世界な」
「そりゃそうだ。今回有休取るのにどれだけ大変だったかも自営のお前にはわかんねえだろ。それと一緒だよ」
「確かになあ。まあでも、法事みたいなもんだろ? それでもだめか」
「忙しい時はそんなもん歯牙にもひっかけてくれねえな。今はひと段落したからな……でもまぁ、1週間前ならほぼ無理だった」
「変えたくて変えれる用事でもねーのにな。死んだ日なんざ毎年かわんねえよ」
「それ。ま、こんな遠くまで墓参りに来てる俺らがわるいっつうか」

自嘲気味な口調がいきなり強さを増したクーラー音にかき消される。どうしてこう、夏の盛りが近づくと、少しずつ死の匂いがしてくるのか不思議で仕方ない。おそらく盆と、終戦記念日のせいだ。御巣鷹山の墜落事故なんかもそうだったし、原爆投下もそうだ。夏はずっと死の匂いがしている。蚊取り線香からしてもう辛気臭いし、俺は夏が嫌いだった。できれば夏は日本にいたくないほどだ。そんな金はないが、南国にでも逃亡すれば夏のことが好きになるだろうか。
でも10年前から夏が夏として人並みの体温を手に入れるようになった。焼かれるだけの夏ではなく、写真に封じられたのでもない、血の通った夏。それは俺と順が、約束をしたわけでもないのに、どちらから言い出したかも覚えてすらいないくせに、こうして車を走らせて東京から3時間ほどの山道を墓参りに行くようになったからだ。

それまでの俺は夏が嫌いで、ついでに言うなら夏なんて季節を齎すこの世界そのものが嫌いだった。まともに子供を育てなかった親も嫌いだったし、あんなに愛しておきながらあっさり逝った姉のことも大嫌いだった。姉は自分の夫と、おしめが取れたばかりの息子と、出来の悪い弟を残して不治の病に斃れ、3人の男をこの上なく不幸にした。高校3年生の夏のことだ。受験に失敗して、第一志望から3つほど格下の大学へ進学した。そこで出会ったのが順だ。順もまた、夏が嫌いだった。
キャンパスの木陰のベンチで、砂糖の味しかしないような甘ったるいミルクティーを飲みながら泣いていた順。学科一の美男子と噂になっていた、気品あふれる良家の子息は、泣き虫で感傷的で寂しがりで、いつも妹のことを想って泣いていた。
死の匂いを厭うて、俺たちは出会った。そして、互いの代わりに、死と夏と姉妹を想うことにした。順は俺と同じ年に妹を亡くしていた。まさに不運としか言いようのない死に方で、ざっくりと抉り取られ、日常が色褪せたのだと感情のない唇で述べたことを今でもよく覚えている。

俺たちは同じ熱を奪われ、同じ夏を失い、同じ心をなくした。信を置いたはずの親が何よりも役立たずの愚物だったことも、最愛の姉妹がいなくなっても世界がまわって同じ朝が来ることも、逆に何度同じ朝を迎えても朝の数が喪失を埋めてくれることなどないことも、痛切に理解した。お互いの存在がそれを証明した。人は客観的に己を見つめることができない。自分よりも滑稽で可哀想な男を、知覚するときまた自分も滑稽で愚かな若者に成り下がった。鏡合わせのようなものだった。順ほどの美しい男でも、悲嘆にくれるとこうなるのかと奇妙な感慨に襲われた。そして未来永劫、失われたものが戻るはずがないであろうことも、俺は正確に理解した。

「祐介」
「ん?」
「今更だけど……妹が死んで、気がくるって、墓さえ立てなかった両親の代わりに、姉ちゃんの墓入るかって言ってくれたのは本当に嬉しかった」
「だってなあ。ひとりぼっちは寂しいじゃんか。俺らもそうだっただろ」
……ありがとう」

失ったものを埋めるには、同じく失ったものを掛け合わせればいい。そう子供じみた理論で、傷ついて感情をなくしたガキが、傷ついてボロボロのガキとつるむようになった。ひとりで山奥に埋められた姉ちゃんの小さな骨壷は、もうひとつの小さな骨壺と仲良く鎮座している。泣くことも忘れるくらい感情を殺した俺たちが、たったいちど、納骨の時だけはわんわん泣いた。姉ちゃんと、順の妹が死んでからちょうど1年の夏。19歳の夏のことだった。
そして毎年この日に、2人が好きだったものを備えようと言った。

「あーあ。しかし、もういらねえのか。いらねえなら来年から考えちまうな」
「なんでだよ。偶然だろ?」
「そういう偶然って恣意的なもんだと思うんだよな。人知を超えた所業の、熱いアピール」
「相変わらず順は若干オカルト趣味だよなあ」
「飽きたって言われてえんだよな。だって、あいつが10歳の頃から、まだ味覚変わんねえのかって……そう思うとなんかさ。俺、もうあんな甘いの、あいつのこと想ってても飲めねーのにさ」

出会った時に飲んでいた甘ったるい紅茶は妹の嗜好品。
俺がつられて飲むようになったブラックコーヒーと同じだ。姉の気配が漂うようで、どうしてもやめられないあの真っ黒で安っぽいえぐみ。

「コーラ飲めたじゃねえか。大丈夫だろ」
……もう飲まないほうがいいんだ、俺もさ」
「ばぁか。飲めよ。がぶがぶ飲んでやれよ。もう飲みたくても飲めねえんだからさ」
「もういらないって言ってほしいんだ。もう……大人だから、飲まないって……

失ったものは戻らない。土台のない積木は積まれない。わかっているのに、頭では理解しているのに。
クーラーが遠ざけた夏がまた近くなる。喉の乾く、利尿作用と暴力的な甘み。俺たちが買い求め、彼女らを乞うて飲むそれは、淡い死の味がしている。きっとそうだ、だから追い求めてしまうのだ。俺は呑みかけのコーラをまた口に含んだ。いくつになっても俺はあまり得意じゃない、と思った。



END


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