お話『決断』の後。災さんと囚獄さん。何てことはない、ただの朝の話。
@san_ph7
そこは暗い闇の中だった。彼はぼうっと立っている。何の光もない。彼は自分の姿さえ視認することができない。背中の翼は重く、彼をそこから動けなくさせる重しとなり、彼をそこに縛り付けた。
どこにも何もない、ただ暗い空間の上から、少しずつ砂が落ちてくる。思わず両手を開いた。わずかに光る白い砂だ。さらさらと流れ落ちる砂は、彼の手のひらや指の腹にひっかかって、積もっていく。やがて彼の手から溢れだした。掬いきれなかった、彼が掬いたかったものが、指の間から、砂となって零れていく。流れ落ちる砂を、ただ見ていることしかできない。彼は手を握ることもできない。握ったら今彼の手の中にある砂も落ちてしまうから。だからただ、それをじっと見つめる。
指の間から零れた砂は、彼の足元に小さな丘を作った。降り積もったそれは、段々と大きな山となり、彼の足の甲を覆い、足首を包み、膝を、腿を、腹を、肩を埋めていく。肺が圧迫され、呼吸ができなくなる。彼は息を止めてしまいたくなった。
突然、足元がふわりと浮いたような感触がしたあと、彼の体は砂の中に飲み込まれた。砂の中を底へ底へと落ちていく。その途中、何百もの、何千もの、声を聞いた。
「いかないで」「さようなら」「どうして」「お願い」「もういいから」……
たくさんの声を聞きながら、落下していく。やがてひとつひとつは聞き取れなくなって、ただ砂の流れる音になった。
彼の体は砂の層を抜け、更に暗闇のずっと奥深くへ、降りていく。重力に任せ、彼は抵抗もせずに落ちていった。そうして落ち始めてどれくらい経つ頃か、彼の体は突然強い衝撃を伝えた。一番底についたようだった。
砂も見えない、冷たい底に、うつ伏せのまま動けない。浅い呼吸を繰り返す。翼が重い。呼吸を止めしまいたくなる。
――もうやめよう。
目を瞑る。すると、瞼の裏に光を感じた。目を開ける。彼の視界には、闇の底ぎりぎりを這うようにして漂う、線があった。細く、今にも途切れてしまいそうなか細い光の線だった。手を伸ばす。それに触れる。少しだけ温かい。
誰かいるのか。
光の線へ、意識を集中させる。線を辿って、その先へ。視界がぐんと遠くなる。そしてその場所を見つけた。……そこは檻のようだった。
中にいる人物が身動ぎをして、金属の擦れる音がなった。もうずっと長いことそこへ繋がれているようだ。ここから出ることは永遠に叶わないように思われるその場所で、彼は囚人を覗き見た。暗い灰色の瞳は、最初は地面を見ていた。それからすぐに、顔を上げた。
彼は見た。色を持たぬ彼の瞳が光ったのを。彩度のないそれが確かに宝石のような輝きを持ったのを。その瞳がもたらした一瞬の輝きは、鮮烈な衝迫を彼にもたらした。幻のような瞬間だった。しかし彼は闇の一番底で、確かに見たのだ。
意識を自分へ返す。視界が戻ってくる。体は相変わらず重く、翼は重りのようだった。彼の目には相変わらず、今にも途切れてしまいそうなか細い光の線が映っている。触れれば温かく、糸の先は囚人と繋がっていることが分かる。
手を握る。糸の他には何もない。何もないが、そのお陰で手のひらをついて立ち上がることはできそうだった。体を引き起こす。まだ起こしただけだ。闇の向こうを水平に見る。一体どれくらい離れた先に囚人がいるのか、全く分からない。
けれども確かにそこにいる。
***
「おはようさん」
呼びかけられて、彼は夢から起きた。背もたれのない椅子の上に膝を抱えて眠っていた彼は、自分を包むようにしていた翼をばさりと動かして、ちらと目の前の彼を見る。檻の外にいる方の囚人を。相変わらず、そんな状況にあることを微塵も感じさせないで、なんてことはなく普通に笑う彼を。
「……ん」
眠たげに、雑に挨拶を返して、ばさりと翼を動かし視界を遮った。ウィル、ともう一度呼ばれる。何だか妙にむず痒くなって、彼は膝を抱えて少し小さくなった。
「なんや、まだ眠いんか? それならおれ、先に」
「一緒に行く」
全て言い終える前に、彼は立ち上がってそう言い放つ。カイはちょっと驚いて目を丸くしたあと、置いていかへんて、と苦笑した。首の金属製のチョーカーが光る。窓から差し込む暖かな朝日を得て、目の前の人を明るく照らす。チョーカーに嵌った暗い灰色をした石は、彼の瞳と同じ色をしている。こうして見ると、何てことはない、何の変哲もないただの石だ。価値があるようで、ないような。
何てことはないカイにとっての瞬間が、彼にとって価値のある一瞬であったように、それは見るひとによって有り様を変える。彼は獄中のカイに会いに行った時、その瞳の中に、ダイヤモンドのようなファイアを見たのだ。きっとそんなことを言ったら、カイは笑うだろう。幻覚だったのかもしれないと、彼も思った。でもその一瞬が、確かに彼を変えたのだった。
そんな風に思われていることなど、当然カイは知る由もなく。彼ももちろんそんなことを話すつもりはない。ただ、脳天気なその笑顔を見ていると、少し腹が立つ。彼がカイの頬をつまんで引っ張る。
「ちょ、な、イタタタ」
ええ、置いていかへんて、いうたのに、何なん? おれまた何かした? と動揺するカイを見て、彼は笑った。カイは特別なことなどしているつもりはないのだろう。しかしウィルはそこに価値を見た、たったそれだけだ。
そして言う。今度は彼にちゃんと聞こえるように。
「おはよう、カイ」