前半は囚獄さんと喧嘩。後半は翡翠さんと合流。illegal move=チェスにおける反則手のこと。即座に失格にはならない。ルールを飛び越えたい3人の話。
@san_ph7
彼の世界は、今日は荒れていた。風雨が窓ガラスを叩き、ビシビシと嫌な音を立てる。時折、暗雲の隙間を縫うように稲光が走り、部屋の中にあるものとふたりの人物の陰影を強く浮かび上がらせた。
ここは彼の世界の城の中、談話室である。部屋の一番奥の壁には暖炉があり、魔法をかけられた炎が絶えることなく揺らめいていた。床には毛足の長い絨毯が敷かれ、あちこちに大量のクッションと椅子、ソファが置かれている。先ほどまで晴れていた上にこの世界は今は昼間であったので、窓を覆うはずの重たい厚手のカーテンは開けられている。
ふたりの人物はこの暖炉の手前に座っている。ひとりはこの世界の主である災の魔王。頭上に割れた天輪を頂き、背には壁のようにそびえる大きな黒い翼がある。髪は黒から毛先に向かって金に変わり、その風貌は聖界で聞く伝承の『黒い天使』とよく似ていた。
もうひとりは彼の友人である囚獄の勇者。名をカイという。淡い色の髪を後ろでひとつにまとめ、その目をサングラスで覆っている。首に金属製のチョーカーをつけており、瞳と同じ色の灰色の石が嵌っていた。
ふたりはこの世界で行われている、神々の遊戯を止める術を探していた。女神側の駒である勇者、邪神側の駒である魔王がそれぞれに陣取り合戦をするこのゲームは、気の遠くなるほどの長い時を経ても、未だに終わる気配はなかった。その上彼らの求める終了条件は、どちらの陣営の勝利でも敗北でもない、かつ"神殺し"を含まない形で終わらせる、というものだった。その条件でゲームを止めようというのだから途方もない話だったが、それを現実にするため、まず手掛かりを探して現状できることの洗い出しから話合いは始まった。
そのうち、彼はカイがチョーカーを気にしていることに気がついた。この証には勇者を女神の間まで転送する力があるという。けれど、カイはこの証を女神から授かってから一度も復活することなく覚醒してしまった。その本体は今は魔界の大牢獄にある。今彼の目の前にいるカイの体はいわゆる分身だった。本体にあるはずの証は首枷に変わり、そうしてここに元の証があるように見える。だから、証が複製ではなく本物である証拠もなく、分身であるカイが女神の間に行けるかどうかも分からなかったが、可能性としてゼロではない、という結論をカイに伝えた。今までに試みたことがないのならば、尚更だった。
だが、彼はすぐにカイに言うべきではなかったと後悔した。可能性を提示した後、深く考えこんだカイが、女神の間へ行くことを実行しようとしているように彼には見えた。
「まさか行くつもりなのか?」
「ん、行けるんやったらやらん理由もないやろ」
カイは話してくれた。少し前、書館の勇者のいるビブリオテカ国を訪れたこと。勇者の証や自分の状態について知るために、資料を求めたこと。それから書館の勇者に会い、分身のできることは本体ができることとそう変わりないのではないか、という感触を得たこと。そして、いつだか彼が腕を落とすことになった原因の、ある男が生きていた、ということ。
思わず眉を寄せた。ふたつのことでだ。オルハザルと呼ばれたその男がどうして生きていたのかは分からなかったが、カイのことである。自分がかつて救えず、その男自身も自らの破滅を願って死んでいたものだと思っていたのだ。きっと大喜びしたに違いない。以前だったらもっと嫌な気持ちになったかもしれないが、彼はもうカイと同じ未来を目指すことを決めていたし、そのために再会の喜びに水を差してしまうことの方が嫌だった。だからそのことについて、追求するつもりはなかった。
もうひとつが問題だった。女神の間に行って何をするつもりなのか、想像に容易い。カイはいつだって、誰も傷つかない方法があればそれを選択してきた。女神と話すつもりなのだろう。でもそれはまずい。
「何故歴代の勇者がこのゲームを止められなかったのか」
彼はカイをまっすぐ見つめた。
「止めたい者がいなかったわけでもない。けど誰も彼女を止められなかったんだ。そんな簡単な話じゃない」
「まぁ、いきなりそないなことできると思ってへんし、まずは話聞きに行くだけや」
「話を聞きにいくだけって……あのな、カイ。彼女は君たちをゲームの駒として扱っているんだぞ。ゲームの駒が『なぜ』とプレイヤーに問うのか? そんなことをしたら」「せやけど、一番それをよく知ってるのは女神様やんか。この証が使えるのかもしれんなら、やってみる価値はあると思うねん。もし行けるなら手段が広がるし、女神様の話も聞ける。やって損はないやろ」
そう言って脳天気に笑ったカイに、彼は感情の制御を手放してしまった。
「馬鹿か君は!僕の話を聞いていたのか!?」
激昂し立ち上がる。突然血相を変え険しい表情で自分を見下ろす彼に、カイは驚き目を見開いた。一度堰を切ってしまったら、感情はもう濁流となって流れ出てしまう。
「いいか、ゲームが開始された頃から止めようとする勇者がいなかったわけがない! では何故今もこうしてゲームが続いていると思う?! 真実を知り、ゲームを止めようとしたものは皆消されたからだ! 彼女がゲームを止めたくないから! それに君のその体が不確定要素すぎる、よしんば女神の間に行けたとしても天罰をその身に受けて滅ぶだけだ! 二度と復活できない可能性もあるし、本体は無事でもフィードバックはどうする! 君の本体があれだけ衰弱しているのに、それに耐えられるのか!?」
「て、天罰……!? 話すだけやんか、なんでそんな、物騒なことになるん?」
あまりの剣幕と、「天罰」という言葉に怯んだカイは、そう言う。カイが知らないのも当然だ。かっとなって怒鳴ってしまったのはまずかったと、彼は語調が荒くならぬよう、声が震えぬよう慎重に言葉を選んでカイに伝えた。女神側の駒のペナルティについて。ゲームの進行を止めようとする者、または所属する陣営を変えようとする者は、女神から直接制裁を受け、魂ごと消滅し二度と復活できないということを。
これでカイが止まってくれればいいと、彼はそう思った。しかし、
「そんなら尚更、分身でいけるだけ他の勇者よりワンチャンあるやんか! 本体かて、遅くなればなるほど弱っていくだけや!」
カイは引き下がらなかった。彼は唇を強く噛んだ。そうだと思っていた。カイは自分にできることがあるなら、代償を支払うことに躊躇しない。それに本体は魔界にあるのだ。女神の加護の及ぶ範囲は聖界だけで、そこは彼女ではなく邪神の領域なのである。恐らくそこまでは彼女の鉄槌は届かない。しかし、ダメージのフィードバックは確実にあるだろう。本体の残り時間を縮めることに他ならない。得られる情報を得ることができるとは彼には思えず、仮に得られたとしても、彼にとって分身とはいえカイという人間をひとり失うことを、情報とは天秤にかけられなかった。
「じゃあ聞くけど、君のその体、分身だという根拠はどこにある? 君は本当にあの日分身を逃がしたのか? ここにいる君が本体だという可能性は!? 勇者が説得を試みた事例がなかったわけない、同じ轍を踏んで無駄死にするだけだ! 平々凡々の君ひとりで何が変えられる!」
揺さぶりをかけたつもりだった。それはカイの能力故に、分身と本体の一体どちらが本当であり真実なのか、疑問に思ったことがあるはずだと。けれど、カイにとって今ここにいること以上の真実などないと、彼も分かっている。カイも椅子から立ち上がり、彼に向かって反論した。
「おれのこと何を買い被ってんのか知らんけど説得なんてレベルでもないわ、話聞きに行くだけやボケ! それこそおれなんかの力じゃなにも知らなきゃ何も変わらんやろ! そんなのもダメなんやったら、まるで女神様が話のわからんひとみたいやないか……!」
そんなはずないと、カイだってそう思いたかったに違いない。だから、そうだよ、とは言えなかった。怒っても、カイのことを心配しても、止められそうにない。お願いだからやめてくれと、飛び出かけた叫びをぐっとこらえて、彼は静かに言った。
「君が牢で見た血塗れの天使は、あれは僕の友人だ。僕がまだ彼女に仕えていて、あれがそういう役目を負ったと知ったとき、何度も嘆願したんだ。何度も話した。聞いてはもらえなかった。ただ優しく微笑むだけで」
カイは牢獄で確かに出会っている。彼の一番古い友達。彼が救うことを諦めてしまった友達。その天使は彼のことをもう覚えていないし、その体ももう何回も新しいものに変わってしまっている。だが彼はカイと出会った。もう一度希望を持ちたかった、その大地な友達を救うことにも。だからここで、カイを失うわけにも、古き友人の心を折ることも、彼は絶対に認めるわけにはいかなかった。
「ゲームが始まって、彼女は変わってしまった。なぁ、彼女が君を裁かなくても、彼が君を殺しにくるぞ。僕の友人に、またつらい責務を負わせる気なのか……?」
カイは緊張の糸がふつりと切れたように、言葉を失い、それから椅子に座った。彼は握ったこぶしから力を抜くことができず、ただ黙ってカイの言葉を待った。
カイはしばらく思考し、それから困った顔をしてこう言った。
「その言い方はずるいやん……。おれの友達でもあんねんで。わかった、行くなら手を打ってから、もうちょい調べてから、やな。焦ってまた取り返しつかないことになってとかなわんし」
はぁ、と。彼は呼吸をすることを思い出して、それから崩折れるように椅子に腰掛けた。顔を両手で覆って、勘弁してくれ、と声には出さず呟いた。本気で恐怖を感じた。ふたつのものを一片に失う心地だった。手のひらは汗をかいて、冷たい。
ぱちぱちと、炎の弾ける音がする。風雨が窓ガラスを強く叩いていたのが、やがて少し大人しくなった。ざあざあと、粒の細かい雨が低く垂れ込めた灰色の雲から降り注いでくる。早鐘のような鼓動も落ち着いて、彼は顔をごしごしこすって、ようやっと目の前の人を見た。カイは俯いて、こちらの視線に気づいたのか顔を上げた。こんなやり取りの後だ、お互いすぐに何でもない顔なんてできそうもなかった。
「よぉ考えてみたら」
カイは居住まいを正した。
「見通し甘すぎたんやな。とめてくれとったのにひどいこと言うとこやったわ。ごめん」
そう言って、彼を見つめる。暖炉の炎に反射して、サングラスの奥の瞳は見えづらかった。でも、本当にそう思っているのだろう。
「僕も、熱くなって……悪かった」
ぽつりと、そう言う。
――それが僕にとってひどいことだって、カイは分かってて。
僕はそれを、どうすることもできない。
雨脚がまた微かに強まった。当分雨は止みそうになかった。
***
カイを聖界に返した後、彼はしばらく考えた。
これからのこと。つまりゲームを終了させるために、何が必要なのか。何しろ彼らはたったふたりで、きっとこんな衝突がもう二度と起こらないという確証もない。そして今の出来事で分かってしまった。カイがもし次に分身を代償に何かを得ようとしたとき、彼だけでは止められない。彼はカイに例え分身であっても死んでほしくはなかったが、何かを得るために、それを選択しなければならない瞬間もきっとあるだろうことを分かってもいた。ただそれは、そう簡単に選択肢として手の届く範囲に置いていいものではない、と彼は考えている。まして、彼の本体はこうしている間にも徐々に衰弱している。何度でも使える手というわけではない。せめてそれをするときは、大牢獄からカイを奪還するか、もしくはカイの本体の状態を悪化させないための処置が必要になるだろう。ただそれは、今すぐというのは無理な話だった。
暖炉の前、椅子の上で片膝を抱え、ぼんやりとしていると、
「ご機嫌麗しゅう、魔王陛下」
ちらと顔を上げると、眼鏡をかけた男が立っていた。ネスタ、と彼が掠れた声で呼ぶと、男は笑った。彼の近くの椅子に掛ける。この男は、自分のことについて一切の素性を明かさず、しかし彼の計画のために己の力を振るうのを喜びとして、彼の配下に収まった者だった。いつだかその計画を放棄することを伝え、ここに残るかと問うたときは、彼の幻覚症状の経過を見たいなどと言って、しっかり彼の傍に残ることを決めた。彼はよく知っている。この男の楽しみが、あらゆる事物の変化と観察にあることを。そうして、その対象に決して優しくはないことを。ただ優しくはないが、この男には血の繋がらない3人の子供を愛するだけの心があることを、彼はまたよく知っていた。その上、付き合いも人間の寿命を遥かに超えたものになりつつあった。つまるところ、彼は頭を冷やすために男の"優しくしない優しさ"に甘える事にした。
男にカイに突然激昂したことを指摘され、からかわれつつ、静かに会話のやり取りをした。恐らくこちらの意図など分かっているだろう。その上で乗っかっているように思える。何せ男は途中からずっとニヤニヤ笑っているのだ。ただあまり腹は立たなかった。長い間、彼は男にこんな風に頼ったことなどなかった。おかしな頼り方ではあるが。
それを信頼と呼ぶべきだろうか?
「――大体、貴方はいつも説明不足なんです。ちゃんと話せば、大丈夫ですよ」
男は彼を散々からかった末に、そう結んだ。説明不足。それはきっと、そうなのだろう。カイにちゃんと説明すれば、あんなふうに衝突せずに済んだかもしれないと、彼は素直にそう思った。思ったが、あの瞬間はきっとどうにもならなかったと、また少し気分を落ち込ませた。こうして考えてみると、無駄に年月だけ重ねて中身は全く青いまま、成らぬままなようにも感じる。情けない。だがずっと落ち込んでいるわけにもいかなかった。
そもそも、彼がカイに世界の真実を話したのは、ひとりではできないことをカイと共に考えて行動していきたいと考えたからだった。あの牢獄での幻のような瞬間が、彼に多大な影響を与えたのはその通りだったが、彼はカイに対して奇跡や偶然を期待したわけではない。彼はそういったものを待つのが嫌いだった。またたきの間に指の間から砂が零れるように、彼の運命が彼の意志では変わらないように、待つことは何も変えられない。運命を決定づけるのは常に行動である。そして何もかもを一度は諦めてしまった彼を、そうとは知らずに引き起こしたのがカイだ。彼が目指す未来には、カイが必要だった。目指す未来のその先で、彼の大事なものたちと、カイと共に生きるために。
――ちゃんと話せば、大丈夫ですよ。
女神相手に今はそれは通じないだろう。しかし彼の対話したい相手は、今は女神ではない。彼は立ち上がり翼を広げた。
「いってらっしゃい」
にこやかに、男は声を掛けてくれた。楽しくてしょうがないという顔だった。単に彼を面白がっているというのが大体だろうが、1割ぐらいは彼のことを気にかけて、そう言ってくれただろうか。その1割があるかどうか、信じていいものか彼は逡巡したが、振り返ってこう言った。
「ありがと」
驚いた顔をした男の次の反応を見ることなく、彼は移動した。
***
「君と会うときは、大体森の中だね」
翼を畳み、ふわりと地面に降り立つ。空の髪をしたその人が、二つ名と同じ色をした瞳を彼に向ける。気配を感じていたのか、翡翠の勇者は驚きもしなかった。もう何度目の邂逅になるのか彼は数えなかったが、この勇者は出会った頃から何やら切れない因果を感じる人間だな、と思う。
「何をしにきた?」
翡翠は警戒していた。彼は苦笑する。実力で見れば、拮抗などとんでもない、恐らく全力を尽くしても翡翠に勝つことなど彼には不可能だろう。だが会う度、翡翠はこうして彼に対して隙を見せたりはしなかった。それは彼と翡翠が魔王と勇者であるということでもあったし、彼はそれが翡翠にとって一種の礼儀のようなものではないかと思っていた。そして事実どうあれ、そういう対応をとってくれる翡翠のことを、彼は嫌ってはいない。
「君に会いにきた」
僅かに首を傾いだ。長い髪がさらりと揺れる。彼が翡翠に会うとき、目的を告げたことなどなかった。
「何故」
協力して欲しい、と彼が続けると、翡翠は訝しげに眉をひそめる。
「話したいことがあるんだ。それは、ここでは駄目な話だ」
「私に、話したいこと」
ならどこでならいいと彼に問う。彼は自分の世界を提案した。女神の目の届かぬ場所。しばし思案した後、
「……協力するかどうかは話を聞いてから判断することになる。それでも良いならば聞こう」
ひとまず首肯をひとつもらい、彼は少しほっとした。内容を聞かぬうちに是と言ってもらえるわけがなかったのは当然だろう。
ひとまず移動するために、彼は何もない場所を手で空を切った。指先を追うように光が走り、宙に縦の亀裂ができる。彼はそこへ手を突っ込んで、それを無理やり押し広げた。空間の裂け目は人ひとりぶん通れるくらいの大きさになる。その向こうは鏡のように周囲の景色を映していたが、目の間にいるはずの彼や翡翠の像はない。躊躇なく、彼はその向こう側へ体を通らせた。表面は石を投げ込んだ水面のように波打ち、彼の体が完全に消えると、やがてまた何事もなかったかのように平らかになった。
「翡翠」
反響する彼の声を亀裂の向こう側から聞いた翡翠は、鏡面に指先をつけ、それからするりと通り抜けた。空色の髪の端が消えると、亀裂は上から糸で縫われたかのように閉じられ、やがてそこには何もなくなった。
***
曇天の彼の世界を翡翠の勇者が訪れた。
「ようこそ、僕の世界へ」
彼は翡翠を談話室へと通した。暖炉の前の椅子をふたつ向かい合わせ、翡翠を対面に掛けるように促す。相対す緑と翠。
「改め断っておくけど、この会談が決裂しても君を襲ったりしない」
返り討ちになりそうだし、と笑っていう。翡翠は目を細めた。
「そんな冗談を言うために私を呼んだわけではないだろう」
「冗談だと感じてもらえたならよかった。僕もまだ死にたくはない。本題に入ろうか」
彼は翡翠色の瞳を見つめた。ここから先は、本当に冗談事などではない。彼は待つのは嫌いだった。分が悪い勝負をすることも同じくらい嫌いだった。ゲーム初期から生き続ける半ば生ける伝説と化したこの勇者が、これから話すことに何を思いどう返答するか、実のところ彼には分からなかった。ただ、この提案をうまく運ぶためにあれこれと策を練るよりかは、翡翠の善良さに賭ける方が良い結果を生むだろうことを感じてもいた。打算でどうにかなる相手でも未来でもない。最善を尽くすべき瞬間が今ここにあった。
その為に、何をどう話すべきか。
「君も長生きしてるから分かると思うけど、この世界で行われている"ゲーム"の話だ。君は、どこまで知ってる?」
翡翠は彼を見つめ、しばし思案した。
「ゲーム、か。チェスのことならよく知っているが、わざわざ魔界にまで連れて来て話す事だ。"神々のゲーム"の話で相違無いだろうな。私の知っている事などあまりに少ないだろう。神々は勇者と魔王を使い、世界全てを使った陣取りゲームを行う。そのゲームはどちらかの陣地が消滅するまで行われ……生き残った陣営の神が勝利する」
神。邪神と女神のためのゲーム。何もしなければこのまま永遠に続いていくだろう遊戯を止める為の次の1手に、彼は翡翠の勇者を選んだ。
「うん、僕の知るゲームの内容と同じだ。そしてこうして移動したのは、女神側の駒にはペナルティが課されるから」
彼は立ち上がり、部屋の隅に置いてあった小さな丸テーブルと、木製のチェス盤と駒を運んできた。それらを翡翠と彼との間に置く。駒は黒と白の塗料が塗られていたが、その所々は剥げ落ちていた。懐かしい日々を思い出す。よくこうして友人と暖炉の前で勝負をしたものだった。一瞬の感傷を振り払い、彼は駒を配置した。白と黒のキング、いくつかのポーン。この盤面にはゲームのチェックメイトを目指す為の特別な戦力など存在しない、というのが彼の考えだった。すべからく、勇者と魔王はただの歩兵だ。ゲームの停滞と継続を狙うために考えられたゲームバランス。
「つまりゲームを止めようとすると、もしくは陣営を移動しようとすると」
翡翠の側に置いた白のポーンを彼の側にひとつ移動させた。彼がポーンを指先で二度叩くと、バキンという音を立てて駒に亀裂が走る。
「天罰が下る。君は……どう思う?」
ポーンの亀裂を指でなぞる。見る間にそれは修復され、元の姿に戻った。そのポーンを元の位置に戻す。盤面に落とした視線を再び翡翠色の瞳へと向ける。
「このゲームを止めたいと思ったことはあるかい?」
「止めたいと思ったことがあるか……だと?」
その問いかけが翡翠の勇者にとってどんな意味だったのか。けれどその人は眉根を寄せ、厳しい眼差しを彼へ向けた。これだけの真実を知っていて尚、翡翠の勇者でさえ盤上の駒のひとつなのだ。一体どんな思いでこの世界を生きてきたのか。彼には知る由もないことだった。
「……いや、そうだな。そう思った事もある。それで、そのことを私に聞くためにここに呼んだのか?」
「そうだ」
「……協力してほしい事とは何だ」
いっとう真剣な色を帯びた視線が彼を突き刺した。この世界のことを想う者の瞳だと彼は思った。きっと大丈夫だ。そう感じることに、根拠などなかった。
「僕はゲームを止めたいと考えている」
見ての通り、と彼は続けながら、黒のポーンを前へ進ませた。黒のポーンは彼の指によってマス目ふたつ分前へ進められ、カツンと音をさせて盤面に接触した瞬間、その色は灰色に変わった。
「それも、どちらの陣営の勝利でもなく、かつ二柱の神々を殺すことなく、このゲームを終了させたい。それは、僕らだけじゃきっと駄目なんだ。僕は魔王だから、邪神側の陣営だ。僕のようなものがこんなこと言うのは、変な話に聞こえるかもしれない。けど本気だ。決して冗談でも遊びでもない」
緑色の瞳が暖炉の炎を反射して光る。翡翠は目を逸らさなかった。
「信じられないかもしれないけど、僕はかつて天使だった。女神に仕え、ゲームの始まりもこの目で見ている。魔王として転生した後、聖界で気の遠くなるほど長い時を過ごした。僕の救いたいものを救うために、魔王としての力を使い」
思い返す。手のひらから零れる砂を追って落ちたこと。あらゆる運命を狂わせたこと。それでも救えなかった彼の大事なものたちのこと。深い悲しみの底で何もかもを一度諦めたこと。
「……結果、多くの命を奪ったよ。何もかも取りこぼして、自棄になって世界を滅ぼそうとも思った。君と手合わせしたときも、あれは八つ当たりだ。君に殺して欲しかった」
彼は僅かに微笑んだ。痛みに耐えるような悲しげな笑みだったことを、彼自身は知ることはない。
「でも、そうだな、今は死にたいとは思わないんだ。また希望を持てるようになった。僕はみんなと一緒に生きていたい。誰もゲームに運命を狂わされず、まっとうなひとつの人生を生きて欲しい。でもそのために、彼女や、彼女の大事なあの人を殺すのは嫌なんだ。
もう誰の命も諦めたくない。だから、このゲームを終わらせるための、最適解を出したい。僕だけじゃ駄目なんだ。君の力を貸して欲しい」
彼の話を翡翠の勇者はどう思っただろうか。計算も策も何もない、彼の正直な気持ちをただ話しただけだった。疑おうと思えばどこまでも疑える話でもあった。嘘偽りない言葉がいつも正しく相手に伝わるとは限らない。それに彼は自分の感情をいつだってできるだけ隠して生きてきた。だからこうして今翡翠の勇者に話したことだって、うまく言えたかどうかは分からない。しかしこうすること以外で、誠意を伝える手段も証も彼は持っていない。何より、今はまだ遠い理想のようにしか思えないゲームの終了条件と、それを一緒に目指してくれないかという提案に、翡翠の勇者が諾と答えるか。それ自体を見れば分の悪い賭けだった。
ただ彼は、翡翠の勇者の善き心を信じたかった。
「お前は、存外に若い事を言うのだな」
しばらくの沈黙の後、その人の口から出た言葉はそんなことだった。
「死にたがっていたお前を、何がそうさせた? 誰も殺さず、誰も傷つけず、ゲームを終わらせるという理想を抱かせたのは、何だ?」
理想。そう、まだ理想だ。手の届く、いや目に見える、スタートラインにさえ立っている気は彼にだってしなかった。ただ彼をまっすぐに見つめる翡翠色の瞳に対して、目を伏せるつもりはなかった。それを現実にするために、彼は翡翠の勇者と話しているのだ。
「理想だけでは何も変えられない。たとえ、最適解が見つからなかったとしても理想に溺れない自信は、あるか」
彼は沈黙した。次の言葉をゆっくり、慎重に探した。翡翠側の白のポーンをひとつ手に取り、ポーンの移動ルールを無視して、盤面の中心へマス目に沿わずそれを置いた。その隣に、色の変わった灰色のポーンを並べる。
彼は強く微笑み、翡翠の勇者にこう言った。
「……友達ができたんだ。変な奴でさ、牢獄の底に繋がれているのに、深く絶望しても希望を語る目は死ななかった。僕はそいつからもう一度立ち上がる勇気を貰った」
暗い獄中で灰色の瞳が彩度をもって輝いた瞬間を思い出す。それはただのきっかけだった。けれどそれが本当に幻であったとしても、きっと彼はカイを信じて世界の真実を話すことを選んだだろう。
心が死なない限り、希望もまた死なない。これは奇跡でも偶然でもない。彼はそれを待つことは嫌いだった。何故なら全てを一度諦めていたから。待つことは彼を救ってはくれなかった。だから彼を引き寄せたのはカイの方だ。カイの行動が、カイ自身の運命を変えたのだ。運命は行動によってのみ変えられる。彼の見えない糸に割り込んできたかのように思えたイレギュラーは、その実全くの逆で、彼の方こそ呼ばれたのだ。そしてカイはその行動で彼に希望を示した。目指したい未来を気づかせてくれた。彼もまた、カイの行動する力を信じた。
「犠牲を全く出さずに済むだなんて思わない。今もまさに、誰かが犠牲になっているのだから。でも犠牲を出すことを最初から選択肢に入れることは、他の可能性を諦めることだ。あらゆる可能性を提示し尽くしてその選択肢しかないのなら、それが選択しなければならない未来。理想ではなく、あるべき未来で、それが最適解だ。……挫けない自信がないとはちょっと断言できないけど、もうひとりじゃない。僕が折れても、そいつが立ってればいい。それなら僕もまた立てるから」
彼はカイの中に希望を見たが、カイだけに希望を背負わせるつもりなどなかった。希望と代償と痛みを分かち合い、共に歩むことを選択したのだ。翡翠ともまた、共に歩みたいと願った。彼は真実と誠意を持って、翡翠にそれを話した。
「……ふっ、そうか。友達、か」
翡翠の勇者は笑っていた。彼は翡翠と出会ってから随分立つが、こんな表情は初めて見る。ぽかんとした表情で翡翠の次の言葉を待った。翡翠は自分の側にある白のポーンをひとつ手に取り、それを灰色のポーンの隣に置いた。盤上の真ん中に、3つのポーンが揃った。
「少しだけ、昔を思い出した。随分と青臭い理由だが、それで納得しよう。……私の力を貸そう。私に何ができるか、それは君が決めてくれ。 今までも、そして今からも。私は、この世界を救う為に生きているのだから」
翡翠の勇者は、彼らと共に行くことを選んでくれた。
「よかった……ありがとう翡翠!」
彼はそういうと、はぁと長く息を吐いて、固く緊張させたままだった体を弛緩させた。またひとつ、目指すべき未来を現実にするための一手を動かすことができた。
そうだ。翡翠は彼の言うことを信じてくれたのだ。ならば彼もそれに応えなければ。
「えーと、そうだな、信頼の証に。僕の名前はウィル。真名をウィリデルクス。よければ覚えておいて」
彼は自分の名前を名乗った。彼がチェス盤の上に置いたポーンを灰色に置き換えたように、恐らく彼は今後こうした同じ未来を目指すものたちに対して、魔王を名乗ることは適切ではないような気もしたのだ。彼のあり方というのは、彼の知っている魔王という存在とは全くかけ離れたように思えた。ではそれを何と呼ぼうか? どうありたいかが肝心だと彼の友人は言った。別に第三勢力というわけでもないしな、と彼はひとり心の中で呟く。ならそれは、ひとまずは彼の名前でいいだろう。
「真名……そうか、ウィル。私の名前は、忘れてしまったな。もし、私が君を、そして君が私を本当に信頼してくれた時、その名を思い出そう」
彼はそれを聞いて頬を掻いた。
「まぁ最初から全部信じてくれってのは無理があるよね」
志を同じくした、相互に信頼し合える仲へ、まずスタートラインに立てただけでも喜ばなくては。ここからだ。
彼は立ち上がり翡翠の勇者へ手を差し出した。
「でも、僕の話信じてくれたから、イエスと言ってくれたんでしょう? ありがとう、翡翠。嬉しいよ。真名を証に立てたんだ、君の信頼にも必ず応えよう」
差し出された手を見て、翡翠は眩しそうに目を細めた。立ち上がる。彼の手をしっかり握ってくれた。長い長い時を戦い続けた、戦士の手だった。
「真名の重要性を、私はよく知っている。だからこそ私の真名は……いや、やめておこう」
頭を振った翡翠が、もう一度まっすぐその翡翠色の瞳で彼を見つめた。
「その言葉が、真であると信じているよ」
優しげに微笑んだその人へ、彼はもう一度ありがとう、と伝えた。
「さて、君にもそいつと会ってもらわないとな。これからすべきことは、そこで話そう」
先の見えない道を行く旅に地図がもたらされ、希望を分かち合う仲間が増えた。彼の行動は翡翠の勇者を引き寄せた。退魔の力を持つその勇者が、一寸先の闇を切り祓ってくれる心強さをもたらしたような気がして、彼はまた決意を新たにした。