Blind(http://privatter.net/p/1612746)で本体の目が見えない時期に、昼間の大牢獄で色んな方とお話。
災の魔王様、望の魔王様、翡翠の勇者様をお借りしました。
@chuchuhakokaina
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Chapter1:囚人の来訪者を装うもの(災の魔王)
こつり、こつりとゆっくりとした足音が大牢獄に響くのを聞いて、反射的に瞼を開けようとする。痛みはだいぶ引いているし、ぼんやりと輪郭が見えるようになってきたものの、あまり意味はないと再び目を閉じる。
分身が外で眼球に蓄積してしまったダメージのせいで、囚獄の勇者カイの本体は、いま目が見えない状態だった。大牢獄は暗く、あまり見えるということに意味がある場所ではない。しかし、元々盲目というわけではないこともあり、せめて負担をかけずに養生させようと思ってもついつい瞼を開きそうになることがあるのは悩みどころであった。
足音はそのまま近づいてきた。いつも話をしてくれる、夜半の来訪者といえば、カイには1人くらいしか思い浮かばない。この大牢獄に閉じ込められた多くの勇者から事情を聞き、悔い改めるように説得して回っている、優しいひとだ。
「…ええと、こんばんは?」
どこかこちらを探るような青年の声に、カイは少し違和感を覚える。
彼との会話はたいてい目的もない雑談だし、カイはいつもこの時間にここにいて動くことはない。彼が自分に対して話しかけるにあたって、遠慮すべきことや特別に探りたいと思うことなど、そう多くはないはずだ。
「こんばんは。いつもおおきに。今日はもしかして何か変わったことでもあったん?」
注意深く聞いてみる。もし言いたくないことならば、はぐらかせるような軽い言い回しで、言いづらくとも誰かに聞いてほしいことがあって話しかけてきたのなら、そのきっかけになるような言葉で。
「…僕のことなら、大丈夫です。それより、その、貴方のお話が聞きたいな」
「おれ?」
カイは首をかしげる。じゃらり、と鎖の音が鳴る。
「ここで僕と話していることって、分身の体で、外で経験していることですね」
「んー?せやで。あんまり上手く話しとらんときはごめんな。体がふたつもあると色々ごっちゃになってあかんねん」
「そ、うですか。あまり冒険の経験がないから、いつもお話を聞けて嬉しいんです。…昨日は、なにかありましたか?」
いつも通りに雑談がしたいというのなら、これほどまでに不自然な話の運びもないだろう。短い付き合いでわかるくらいにこの青年らしくない方法で、彼はカイの言葉に対応した。
「うーん、昨日?昨日はアレや、まだ3日前に受けた依頼は途中なんやけど、移動中に黒い翼の天使にまた会ってなー。いつもよりはちょい長めに話したわ。いうておもろいことがあったわけではないんやけど…」
普段話すことは、とりとめもないとはいえ、終わった依頼やちょっとしたエピソードとしてネタになる出来事を語ることが多い。本当になんでもない一日のこと、というのを語るのは少し難しいことに気づく。難しいというのは、多くの曖昧な細部があるからだ。自分の魂は、心のこと、体のこと、それ以外のことも含めたあまりに沢山のことを外から牢獄に持ち帰らなければならなくて、細かなものを道中取りこぼしてしまうのだ。
なにが面白いのか、オチもなにもない口の無駄のような話を、青年は真剣に聞いている。いつだって彼は話を真剣に聞いてくれるが、今日もカイの話を聞きに来た、というのはあながち誤魔化しでもないのかもしれない。ただし彼がカイの言葉から読み取ろうとしているものは、カイの話したこと以外のことなのだろう。あるいは、カイ自身に関わることなのかもしれない。いずれにせよ、何も隠し立てするようなことはなかった。ただ歯抜けた部分をとりつくろうこともできず、ろくでもない話をするだけであった。
「んー、やっぱあんまり最近のこと話そうとするとおもんなくなるもんやね」
「いえ、そんなことは」
「こっちにいるときにおもろいことでもあれば話のタネにもなるんやろうけど。会う人もアンタくらいしかおらんねん」
すると、青年は少し考えて答える。
「面白いことがあるかは分かりませんが、たまには日のあるうちにこちらの体にいるのもいいのかもしれませんね。夜にはそうでもないかもしれませんが、昼間は僕のように出入りする人が、いないではないのです。もしいつか此処から出たいと願うなら、色んな人と知り合うのは、悪いことではないでしょう?」
いわれてみれば、ふたつの体に慣れてからは、昼は外で人助けをし夜は大牢獄に戻るという昼夜二交代制を崩したことはなかった。もしも昼間に誰かくるのであれば、青年のアドバイスはもっともなことだった。ただ、彼がカイに脱獄のような身の振り方を示唆したことは一度もなく、このやりとりは彼との会話の違和感を助長させた。
とはいえ、彼の提案は魅力的に思えた。それは脱獄という観点からではなく、自分が捕まっているこの世界と、会ったことのない人々を知るということは、大切なことだと思うからだ。いつかこの世界の魔王に許されて出られればいい、とも思うが、かなりの確率で終の棲家になる場所かもしれないのだし。
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Chapter2:囚人の罪を問うもの(望の魔王)
意識が立ち返り、体に分身からの情報と刺激がいきわたる。とはいえ、今日は分身を使用していた時間が短く、大したフィードバックもなく、記憶もおおよそ空白がない。依然として痛む目を注意深く開き、夜に目覚める時とは違い牢獄にわずかな明るさがあることに気づき急いで目を閉じる。
依頼がひと段落つき、きちんとした宿も取れたところで、先日の話を思い出した。すぐにその機会に恵まれるとは限らないのに、新しく誰かに出会えるのではないかと期待する。たしかに夜より周囲の囚人の動く気配があり、何か用向きがあって訪れる人があるのなら昼だろうと納得する。物音を聞いているだけで、まるで普段の静まり返った場所とは違う場所のような心地で面白くもある。
しばらくそうしていると、ぱたぱたと軽い足音が階段を下ってくるのがわかった。この場所にはそぐわない、子供のような身軽さだ。初めて会う昼間の来訪者の気配に、思わず体を起こすと、鎖がじゃらりと音を立てる。
「あ」
その音でこちらに気づいたのか、その人物は足を止めた。予想にたがわない、少年のような声。
「動いてる」
「…こんにちは?」
とりあえず挨拶をしてみると、格子戸の前でしゃがみこむ衣擦れの音がする。少年は、こちらを見ているのだろう。どうにも居心地が悪い。
「ねえ。牢くんに、傷をつけたんだよね」
ごくごくおさない声だが、値踏みをするような冷静さと、妙な威圧感がある。
「『ろうくん』て、ここの魔王のことやんな。…せやね、大したケガにはならんかったと思うんやけど」
カイは、自身がこの大牢獄に囚われるきっかけとなった場所、嘆きの谷を思い出していた。思えばその時カイが選んだ行動は、短絡的だった。苦痛に満ちたあの谷で出会った子供に聞いて、悲劇をもたらしたのは大きな黒い鳥の魔物であったことはわかっていた。しかし、周囲の村の聞き込みと探索で分かったのはあの集落の近くにあった魔界ゲートの存在だけだった。情報が少なかったのが、嘆きの谷の悲劇がずいぶんと昔に起きて、決着がすでについてしまった出来事だったからだということを知ったのはつい先日だ。黒い鳥の魔物は、かつてあの集落を永遠の惨劇にしばりつけ、惨劇はそのままに既に死んでしまっている。術者が死んでなお解けない永遠を望まれた呪いは、何をもってしても解けない。終わりのない悲劇に踏み込んで、それがまだ取り返しのつく、終わらせられるものだと勘違いをしたカイが、力不足だったのだ。
その勘違いのままにゲートに入り、先にあった魔界の王を問い詰め挑みかかった。黒い鳥の魔物の主のようにふるまっていたという狼の魔物と特徴が合致しただけだというのに。嘆きの谷の惨劇自体が、ずいぶんと昔の出来事だ。魔物の寿命が長かったとしても、ここの主の父か、祖父の世代だろう。客観的に見て、身に覚えのないことで攻撃されてケガさせられたのでは迷惑極まりない。もっとも、大した攻撃もできずにここにこうして捕まったわけだが。
「牢くんにけがをさせた、悪い勇者。ぼく、許さないんだから」
ぞっとするような怒気と圧力のこもった、少年の言葉が返ってくる。あどけない子供のような声が、恐怖を助長して、背筋が凍るような寒気をもたらした。この少年は、もしかしたらとても力の強い魔族なのかもしれない。
「あの魔王と友達なん?」
そっと息を飲み込んで少年に問う。返事はない。当然だと思う。自分だって、友人が理不尽に怪我をさせられて怒らないわけはないのだから。
「ごめんなぁ、言い訳でけへんわ」
短剣の受け流しや斬り付けも、長剣の刺突も、カイの剣は早い。自分を捕縛しようとする檻をすり抜けながら、必死で攻撃しようとしたことは覚えている。その時に、もしかしたら彼の毛皮を傷つけるほどの傷が一度くらいは入ったかもしれない。涙で視界がぼやけたあとに突然現れた分身を使って、攻撃と盾役の手数を増やして、それでもここの主にはかなわなかった。
彼を攻撃したことは、本当のことだ。そして彼に怪我をさせたかもしれないことも。それについて、自分は何もやっていないだとか、そんなつもりではなかったのだとか、ありきたりなごまかしや厚顔な言い訳は出来なかった。許してほしいなどということも出来なかった。
「そう」
その一言は、抑揚なく牢獄に響いた。しかし、何かをこちらに問うような、それでいて深く悲しむような、不思議な響きだった。自分の何が、彼を怒らせるばかりでなく、悲しませてしまったのか、カイは申しわけない気持ちになる。
ぱたぱたとその場を軽い足音は駆け去った。最初の来訪者は、短絡的に分にそぐわないものを望んだカイが犯した愚かな過ちを、証明する者だった。
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Chapter3:囚人に未来を示すもの(翡翠の勇者)
少年が立ち去ってから、どうも分身に戻る気も起きず考えにふけってったカイは、カツカツと迷いのない足音を聞いて我に返る。
奇妙なことに靴音こそするものの不用意な体の動きや衣服の音がせず、おそろしく洗練された動きをしていることが想像される。薄目を開ければ、少年が来たときよりも随分と暗くなっている。その薄暗い廊下を、すらりとしたシルエットの人物が歩き去ろうとしていた。痛みをこらえて観察したところで、ぼやけた視界では、その人が帯剣していて、明るい色合いの長い髪をしていることしかわからない。ただ、随分と実力があることは予想できた。
「こんばんは、おねーさん強そうやけど、捕まらんのやね。ここの魔王と友達なん?」
声をかければ、ぴたりとその人物が足をとめる。その人がここにいて、今まさに動きを止めたことが分かっても、依然として気配が分からない。
「友達か、さてどうなんだろうな……。すまない、私には貴方を出してやることはできない。これもまた、契約だ。あと私は女ではない。男だ」
穏やかで礼儀正しい口調と、それにしっくりと似あう優しい声音。出してもらうことをお願いしたくて声をかけたわけではないが、第一声にそれを言った反応に、色々な場所で助けてくれと言われ慣れていることを察する。間違いなく勇者だろう。
「あー、おねーさんはおにーさんなんか。すまん、いまちょっと、あんま、よぉ見えんくて。なんやわからんけど、約束なら破ったらあかんね。それに、危ないこともしたらあかんよ。ええねんええねん。動かれへんけど生きとるし。優しいんやね」
失礼な間違いには、顔をあげて閉じた瞼を示して詫びてみせる。するとその人は少し思案するように口を閉ざし、静かに答える。
「たしかに私は出してやれない……。だがこのまま牢に繋がれて居れば、魂は天に昇らぬまま消滅する。一刻も早く、外に居る『分身』を使って脱獄の手段を見つけるべきだ。……私に言えるのは、ここまでだ」
カイは驚いた。初めて会った人間で、自分の状態の不自然さを、こちらからなにを語ったわけでもないのに見抜けるものはそう多くはない。なにせ分身を作り出す力は、きちんと学んで得た魔法の力ではない、本人にも理屈のわからない謎の力である。この牢獄には無数の勇者が囚われている。もしこの世界の魔王から事前にそういう能力を持つ勇者がいるのだと聞き及んでいたとしても、自分がそれだとすぐに思い当たるのなら、恐るべき察しの良さというべきだった。
どこか緊張がゆるんだような心地になる。強く、賢明なこの人には、何を言うべきか言わないべきかについて、この人を案じて足りない知恵を回す必要はないのだ。大した秘密があるわけでもない自分が何を口走ったところで、この人が危険になるようなことには決してならないという直感がある。
「おにーさん、分身のことも知ってんねやなぁ。おおきにな、せやけどおれの方は後回しでええねん」
現状目の見えない、しかもだんだんと衰弱の始まってきた本体が今出て行けたところで、実際邪魔なだけである。それに、今まで通り只々冒険者としていろいろな人を手助けしていくだけだったら、分身のままでも十分だった。ここの体が使い物にならなくなるまで、という自分の期限は短いようにも思えたが、他の誰かに危険を冒してほしいと願い出るほどに、自分が長く冒険者をすることが価値あることにも思わなかった。むしろ、自分を助けたいと行動を起こしてくれるような人がいるのなら、その人こそ多くの人のために価値ある選択をするのだと、カイは思っている。
本体の死、魂の消滅、そういった差し迫ったわけではない先々の恐怖を、学もなく自分について深く考えることの少ないカイが想像することは難しかった。その恐怖よりも、自分が短絡的に「ここから助けてほしい」と言うことで誰かが危険な判断を起こすことのほうが、余程すぐに、身近にありそうな恐怖であった。ここの牢を司る魔王はとても強い。無駄に囚人でいたいわけではないが、この牢獄はあまりにも出るということが困難すぎた。
「せやな……だれもかれもが自分のやりたいことをやろうって行動できるような、そんな『平和』な世界になって、分身が外でやれることもなくなったら、ここの魔王になんとか出してもらえんかお願いしてみよか。迷惑かけてごめんなさいて言うて」
口に出した願いよりも先に、本体が使い物にならなくなることは容易に想像できた。しかし、それならそれでいいのだ。出来る限りのことをやるのは、どういう結果になるにせよ悪いことではないだろう。力が足りないことは十二分に知っていた。絶望の中に希望をみて、何がいけないのだろうか。カイの生き方の習慣にも等しい人助けが、自分の望む未来にどれほどの役に立つのかもわからない。しかし、自分の目標の直接の役に立ちなどしなくても、その場にいるその人の助けにはなれるのだ。その人が何か自らの選択を果たせるようになるのなら、その人のところから物事は変わっていくだろう。
自分が望む『平和』を為すには、自分だけではなく誰かの力が当然必要だろうし、全ての人が望んだってたどりつかない結末なのかもしれない。しかし、たどりつけない結末に意味がないなどとは、思わないのだ。自分が得られるものにしか意味がないのなら、手に入れて認識できることにしか価値づけできないのだとすれば、人間にとって人生の意味などなくなってしまう。なぜなら死は往々にして突然訪れ、人は死んだらそれでおしまいで、ゴールにたどり着いた後に幸せだったとか、悲しかっただとか、評価を下すことなどできはしないのだから。
こちらの気持ちを知ってか知らずか、目の前の人は嘆息した。
「貴方がそう思うのなら、それでも良いのかもしれない。だが、貴方に。貴方の分身に助けられた人は、それを聞いてどう思うのだろうか?」
その人の言葉の意図がわからずカイが黙っていると、静かな言葉が続く。
「……その様子だと、貴方の目標にたどり着くまで体が持たない事は分かっているのだろう」
「願いを叶えたいならば、まずは自分を救うといい。 幸い、外の貴方は自由だ」
「眩しすぎる希望は、目に映っているだけでは意味が無い」
梢を打つ秋雨のように、確たる「忠告」が降ってくる。自分のことを考えずに、他人のことは考えられない。自分をないがしろにしたことはなかったはずだ。しかし、自分について考えが足りていなかったことは、まぎれもない事実であった。
「もし、」
と、さぐりさぐり、カイはつぶやく。
「もしおれが誰かのところに手を伸ばすのに、力が足りなくて。選択さえできないほどの多くの代償が必要で。どうしてもここから出なければ、何もかも打つ手がなくて。そういうときに、おれ自身どうなるかわからんような、分の悪すぎる賭けに、レートも見ずに全財産ベットしてしまうような人がおったら、ちょっと考えてみるわ」
そういう人は、おれなんかがなんて言ったって、賭けてしまうだろうから。そんならその人もあわせて、なんとかせなあかんやろ。そういって笑う。
鉄格子の向こう側から、ひそやかに微笑むような気配がした。そして、迷いのない足音は立ち去って行った。
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Episode:冒険者を見守るもの(災の魔王)
目を開くと、そこには朝に目を閉じたときと同じように安宿の天井が広がっていた。日はとっぷりと暮れていて、窓の外には夜が訪れている。夜の空を見るのは久しぶりだった。手早く身なりを整える。冒険者の宿はいつの時間もそこそこに動く人の気配がある。とくに遠慮することもなく、軋む薄いドアを開いて、外に出た。街であれば、この時間でも仕事はあった。どこにだって助けを求める人はいた。
昼間の牢獄を訪れたのは、今日だけで2人。たしかに夜と比べれば多くの人がやってくる。そして、2人と話した内容は、短くともカイに色々と考えさせる材料の多いことだった。今のことに力を尽くすことで目に入らなくなっていた、「かつて自分がやったこと」と「これから先の自分のこと」。
夜向けの仕事を斡旋してくれる酒場はこの街では、カイがとった宿から少しばかり離れた、貧困地区の近くにある。段々と灯りは少なくなる一方で、人の気配は多くなる。それらをかき消すように、ひときわ鋭い羽音を聴いた。見上げれば、そこには夜空に散る星屑のような輪を頭上に掲げた、天使が浮いていた。大きな黒い翼が夜陰に紛れて、少しばかり普段よりも小柄に見える。
「やぁこんばんは、夜に見かけるとは珍しいね。囚獄の勇者」
「こんばんは、びっくりしたわぁ。天使は夜も寝ないんか?神出鬼没なのはええけど、あんまり無理したらあかんで」
夜遊びをする子供を咎めるような言葉をカイがかけると、不満そうな顔で降りてきて隣に立つ。
「君だってこうして夜に動いてるでしょ柄にもなく。…なにかあったのかい?」
探るような口調に、おや、と思う。同じようなテンションで、同じような聞き方で、昨晩話しかけられた覚えがある。思えば、大牢獄の夜の来訪者の声は、この友人の声とよく似ている。
とはいえ、この友人が大牢獄に来るわけはない。カイは彼に自分は事情があって分身を使っていると、人助けをしている分には困らないが記憶や身体に日常生活で不便なこともたまにあるのだと、愚痴ったことくらいはあるが、本体がどこにあるかという話はしたことがない。そもそも、自分がどういう理屈で分身と本体が分かれていて、ここにいる自分がなんなのかすらわからないままに、安易にここに本体が捕まっている、などと言ってしまえば、友人がいつその旺盛な好奇心を発揮して、あの脱出困難な牢獄を訪れようと思ってしまうか。そういった不安もないではなかったのだ。
「うーん、なにっちゅうか、いうておもろいことがあったわけやないんやけど」
周囲に人影はなく、饐えた匂いのする川沿いには錆びた閂が嵌った鎧戸のおろされた、汚らしい倉庫が立ち並ぶばかりだ。冷える季節でもないし話すならここでいいや、天使が土手に座り込み、つられるようにカイもその隣に腰を下ろす。
「昼間に本体のほうにおったら普段と違う人と会うチャンスがあるかもしれへんで、ってアドバイスくれた友達がおって。……ああ。いや、うーんもうこれ面倒やしウィルになら話してもうてもええか」
ちょっと長くなるけれど、と話し始める。カイも少し口に出して話すことで、整理をつけたいことだった。これまでのこと、また、今の自分がどういう状態で今自分が認識できることの、なにが本当なのか。そしてそれを、今後どうするべきなのか。友人はその相手に最適だった。いつも幸運を運んでくれる、信頼のおけるこの友人は、厳密にいえば幸運を運んでくれるわけではない。色々なものを見守る目とその知恵で、物事がうまく働くように好意で手を尽くしてくれているのだと、カイは思っている。カイにとって真に幸運といえるのは、この天使が自分を見守ってくれる機会が多いということだ。
嘆きの谷で見た人々の絶望から始まった、あの牢獄に捕まるまでの短く、しかし酷く説明の難しい道程を、カイは語った。そして、昼間の牢獄での出会いも。
「まぁどうこうするわけでもないんやけど。大牢獄の外に出たところで、少し養生して、今こうして外でやっていることを本当の体でやるだけや。おれが何か行動して、選んで、そうやって生きていくのに、別に本当の体かそうでないか、って大した問題とちゃうから。それにそもそも、捕まったのも自業自得やん?そんなんなのに、出られん場所から危険を冒して無理に出ようとすることもないねんな。ただ、先のこともちょいちょい考えなあかんと思って」
なんや人生相談みたいになってしもた、とカイは笑う。すると天使は、いつになく真面目な顔で話を始める。
「その友達の言葉に僕も同感だな。己の為すべきことを見つめるのもいいけど、周りに何があるのかちゃんと見たほうがいいと、彼はそう言ったんじゃないか?それから君は大牢獄の中で、ふたりめの人物からも可能性の提示をもらったはずだ。それこそ、定められた未来だと君が考えるのには、まだ早いのだろう。君が君の思うことをするために、どこにいても変わらないというのは、君らしいけど」
彼の言葉をカイは黙って聞いている。物事の外側をなぞるような、なんともとれる話ぶりはいつものことだが、今回も例によって、肯定も否定もできない。
「君は、本当にそれでいいのか……?」
言葉よりも何かを伝えたいというような雄弁な緑色のまなざしは、こちらへの心配と複雑な心境を伝えてくるようで、なんといっていいのか分からなくなる。それでいいのか、と言われれば、いいと思ってやってきたのだ。確かに彼の言うように、カイの見えていないこと、知らないことは、あまりにも多すぎた。それでも、いつだってカイは自分でこうしたいと思うことをやってきた。
「選ぼうと思えば、どんな選択肢だって手に取れる。過去は変えられないが、ここから先は違う。君はそれがまだ見えてないだけだ。もう少し、君の近くを、周りをよく見ろ。見えるものを全て拾って、その上で決めたなら、君の好きにするといい。でも、今はまだ違う」
「どんな選択肢だって手に取れる」と、そう言いながら、彼が言っているのは、今ある選択肢をとれという話ではない。「新しい選択肢を生み出せ」ということだった。これは、とても難しいことだとカイは経験上知っている。認識できていないということは、ないものと同じだ。無から有を生み出せと、彼は当然のようにカイに提案している。
もしかしたらまた、自分は読み違えているのかもしれない。と、そうカイは思った。天使からここまでいわれるほど、自分に力があったことはないし、相手もそれを良く知っているはずだ。それでも、もしも自分が読み取った意図で彼が言ったのなら、できないこととは言いたくない。
「せやな、もっと出来る事、増やせたらええなぁ」
立ち上がって月並みな感想を言う。選択肢を増やすということは、つまり出来る事を増やすということだ。間違った理解ではないはずだ。となりでばさりと羽を広げる音がする。
「糸を繋いでこい、カイ」
その一言を残して、黒い翼の天使は飛び去ってしまった。自分もまた、いつも通りに仕事をするために、酒場に向かって歩き始める。
⇒続く