災さんと女神様
@san_ph7
いかなるものとして私が誕生したのか。
最初の記憶は、彼女の瞳だった。
不思議な色の瞳をしたそのひとが、私を抱きとった。この世界の優しく穏やかな感情を全て内包したような熱をもって、その腕で私をしっかりと。
「ようこそ、世界へ」
その時の私ときたら、目に映るものの他には何も分からない、きれいにまっさらな身で生まれてきたので、ただ黙って彼女のことを見つめるしかなかった。空の色が夕暮れに近づくにつれ橙に移り変わっていくような色合いの瞳が、私を見た。
その柔らかな抱擁は、人間の母親が赤子を初めて抱くようなものだった。細くしなやかな指が、私の額を撫ぜた。それは最初の祝福だった。指先から伝わる熱さが皮膚の下をすり抜けて、頬から喉へ伝い、腹の底へ落ち、手足の先まで満ち満ちた。途端、体の芯は灼熱し、或いは嵐のように暴風が吹き荒れ、凪いだ海が突如として波うねり波濤が岩を砕くように、今まさに羽化したばかりの真新しい器を引き裂こうと、幾千の衝動が私を襲った。受け取ったそれはあまりにも多すぎて、空っぽだった私の中から火傷のような痛みを伴って溢れ出た。
気がつけば、私は彼女にしがみついて、声を上げ泣いていた。赤子が生の歓喜を泣き叫ぶように、私もまた熱い涙を流しながら言葉にならない何事かを叫んだ。まだ表現する術を知らぬ体から発せられるそれは、痛みに恐怖したのかもしれないし、生を受けたことに感極まった末の声だったのかもしれない。或いは生まれくれば必ず訪れる死を、等しく生き物が迎える結末を予感して。
そうしたあらゆるものがないまぜになったまま、それは私と彼女の鼓膜をしばらく震わせ続けた。止めどなく流れる涙を、私の叫びを、彼女は優しく微笑んだまま見つめていた。
彼女との出会いとは、そういったものだった。
私は彼女から初めに感情を与えられた。彼女が今まで感じたことの全てを、私は受け取った。それから言葉を覚えた。次に事物の名前を。そう物事には名前があるのだ。すべて存在には名という"まじない"がかけられている。それがそこに在るべきための座標のようなものだ。
当然、私は自分の名を問うた。
金の細く柔らかな髪を揺らして、彼女は笑った。すっ、と指で示した先、白い空間に突如として赤い光りが溢れた。それは彼女の瞳と同じ風景をしていた。光は水平線に沈む太陽になる。初めて見る美しい夕焼けに私は息を飲んだ。しばらくすると、太陽は溶けるようにその形を崩した。そして完全に沈みきる直前、鮮やかな緑色の閃光が空間を裂くように走った。驚き私が彼女を見上げる。優しく微笑んだその人の、形のよい唇がゆっくりと動いた。
「貴方の名前は、ウィリデルクス。貴方の瞳と同じ色をした、あの光。昼と夜とを分かつ境界線。見た人を幸せにする、緑色の閃光」
幾度か口の中でその言葉を繰り返す。それから慎重に、その言葉を呟いた。
「ウィリデルクス」
「そう。それが貴方の名前」
祝福を授かった私が、次に疑問に思ったのは彼女の名前だった。
「貴方の、名前は?」
「私の?」
彼女は少し思案して、首を振った。
「いいえ。名前がある貴方が羨ましい。名前というのは生まれたときに与えられるものよ、私たちに与えられたのはこの世界だけだったから」
どこか、寂しそうに笑った。それがどうしてだか悲しくなって、私はこう言った。
「ではこの世界に名前がついたとき、それが貴方の名前になるのですね」
それを聞いて少し驚いた彼女は、またいつもの優しげな微笑みに戻った。
「そうね、きっと。誰もが知ってる、素敵な名前がつくといいわ」
頬を温かい手のひらが撫でた。切望ともとれるその答えの、その裏に隠された真なる意味など、そのときの私には分かりようもなかった。ただ、愛おしげに触れてきたその手のひらから感じられる、いいようのない感情が焼け付く痛みのように走って、私は彼女に抱きついた。彼女は黙って私を受け入れて、そっと抱きしめ返してくれた。
しばらくすると、私は特別な目を与えられた。魂を見通し、刻まれた記録を視る瞳だ。私は魂の終着地の管轄者として、聖界で肉体を失った魂を迎える使命を受け、ゲームが始まったあともしばらくは使命に努めていた。
それもまた貴方から授かった祝福でもあった。
遠く懐かしい日々の記憶はひどく古ぼけて、広げようと手に取る度に薄く埃を被る。それほど恐ろしい時が流れた。僕は何もできないまま。埃の下に、幾度も指でなぞった痕がある。開きたくても、開けなかった。
かつてこの世界を憂い、貴方を忌避するように遠ざかったこと、それでも僕のわがままを聞いてくれたこと、あのとき貴方は何を思っただろう。己を呪い、全てを白紙に戻そうと願い、立ち上がれず絶望のまま停滞したのを、きっと貴方は知らない。僕を立ち上がらせたものが、貴方が気まぐれに命を救った小さな少女や、少女を守る勇者や、或いは貴方の目には分からなくなった、向こう側の世界に囚われたままの僕の友人が、それら全てが貴方が愛した人間で、世界だったこと、それを知ったら何と言ってくれるだろう。
幾年ぶりに貴方の像にこの地で祈ったとき、僕は自分の記録を手に取った。埃を被った、古く温かい記録。僕の中にあったのは、それを最初にくれたのは、確かに貴方だった。僕は確かに愛されていた。たくさんのものを貴方から貰った。
貴方を想い、貴方を信じている。貴方はまだこの世界を愛しているのだと。
僕も今再び、この世界を愛そう。
貴方に会わなければ。
会って伝えなきゃいけないことがあるんだ。