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Vergiss mein nicht.

全体公開 1 3257文字
2016-10-29 23:33:15

10/29 フリーワンライ参加作 恭輔と唯子、美袋兄妹の対話編

Posted by @smbrfubuki

Vergiss mein nicht. / 忘れるということ

 
 実体のあるものを打ち捨てるためにはどうすればよいか。答えは簡単、その形をなかったものにしてしまえばよい。
 紙ならば燃やす。石ならば砕く。不法投棄という手段もある。川や海や山の奥なんかに、こっそりと投棄してあとは忘れてしまえばいい。視界から消して、手元から遠ざけていれば、そんなものなど初めからなかったような錯覚にさえ陥る。
 でも思い出は違う。いくら頭から追い出そうとしても一緒だ。忘れようと努めれば努めるほど、頭の中の容量を食いつぶしていく。たちのわるいウイルスのようなものだ。
「恭ちゃんはほんっとに人のことよく覚えてるよね。どうやって覚えてるの?」
「ゆいが覚えてなさすぎるんだろう。君はもう少し他人に関心を持った方が良い」
 偶然近くまで来ていて、自由時間もあると言うことだったので、たまに通っているイタリアンに連れて行った。都会は便利だ。食えないものがない。なんでも食べたいものを食べることが出来る。近頃は休店法も少しずつ緩和されてきているように感じるし(それが生活を豊かにしているかどうかはさておきだ)、日本の病的なまでの利便性をこの国も少しずつ踏襲しているのかもしれなかった。オープンテラスの店は10月最後の土曜日、今日が恐らく最後のオープンテラスだろう。喩えるなら日本の冬ほどの冷たい風が吹き抜けて、いとも容易くトマトクリームソースのパスタを冷ましていく。思えばエビを食べるのは久々だ。内陸の国に住んでいると魚介類は随分とご無沙汰になってしまうのだ。
「興味がないわけじゃないんだけど。顔は覚えてる」
「僕は寧ろ逆だよ。人の顔こそ覚えていない」
「恭ちゃんは女の人の顔ほんとうに見ないもんね。毎回違うタイプの美人と付き合ってる。で、長続きしない」
 妹の指摘はいつだって正しい。が、肯定してしまうのも癪だった。
 顔を見ていないのは、顔を見て判断する前に言い寄られるからだ。じっと女に見据えられるのが僕は苦手だった。苦手なのはそれで本当に動けなくなるからだ。哀惜を込めた眼差しに同情してしまう。共感性が高いのかもしれなかった。貴方に気がある、と目で訴えかけられるのに弱すぎて、苦手なのだ。そうやって口説かれると殆ど反論の余地がない。僕が恋に堕ちるより先に、彼女らは僕を落としにかかる。考える隙すら与えないほど迅速に。
 目が、手が、口元が全身で感情を訴えかける、あの感覚。恋がこれから始まるのだと、教えられるようなあの感覚。この年になっても読み切れない。好意を寄せられるのには慣れているはずなのに、いつもどこかで油断をする。その油断に彼女らは上手くつけ込むのだ。
「元カノの誕生日覚えてるの不幸だよねえ」
「そうだな」
「なんで覚えてるの?」
「さあね。忘れようと思って忘れられるものでもないだろう。ゆいは逆に忘れられるの」
「覚えてたいけど消えちゃうの。正直、次の男が出来るまでは好きでいたいんだよ。でも、そうじゃない。いつも消えちゃうの。仕事とか研究とかそういうのにかき消されて」
「そっちの方がいいんじゃないか。僕は正直、こんなの抱えていたくないよ。一秒でも長く持ってたくない」
 エビを噛みしめる。微かなガーリックの風味とトマトの酸味が心地よくて、いつ食べてもここは美味いな、と思う。
 日本人の多い街だ。だからもしかすると日本人の好みに寄せてあるのかもしれなかった。この街では醤油も、カレールーも、ラーメンだって手に入る。ドイツの中の日本。僕は経緯と侮蔑を込めてそう呼んでいる。自分の仕事がこんな街にあるのも、そうしたコミュニティと全く無関係ではないくせに。
「忘れちゃうのって怖いよ。毎回新しい恋人と同じことしてるのに、してから気付いちゃったりしてね。それもしんどい」
「ゆいも僕ほどじゃないけど長続きはしないからね」
「言わないでよ。毎回全力なんだよ、これでも。あーあ、結婚できるのかな本当に。どうしよう、ずっとひとりだったら」
「それはそれで……いいんじゃないかな」
 投げやりなように聞こえたかもしれないが本心だった。日本の大学を飛び出し、単身この国で情報工学の研究を続ける妹が、一応の結婚願望を持ちながらもやはり自身の生き方を棄てられないのは兄の僕から見ても明らかだった。犠牲にしなければ成り立たないとは言わないが、犠牲にした方が楽なことだって世の中にはたくさんある。
 色恋よりも大事なことがあるように見える。でも大事なのは、彼女にとってまだそれが「いちばん大事」ではないということだ。ままならない。
「恭ちゃん。忘れるってね、すごいよ。一度した価値判断とか、意思決定とか、全部振出からだもの。私はそうなの。わかんなくなって、全部捨てちゃってるみたいで。それはそれで寂しくなるのよ。だから忘れずにいるの羨ましい。その人に恋してたこと、忘れないでいたい。私も」
 妹はいつになくしおらしかった。その時、もしかするとこの旅行自体が、出張や研修などではなくて実は傷心旅行なのではないかと下種な勘繰りをしてしまった。忘れたくない、と泣きながら本当に忘れてしまうなんて僕には想像がつかない。早く追い出して、頭の容積を確保して、無駄なことを考えまいと努めながらもコーヒーの飲み方の好みや癖のあるへたくそなドイツ語を忘れられずにいる。全くもって馬鹿げていた。そしてそうした楽園に遊ぶ彼女の姿を、ありありとまるで眼前にあるかのように思い浮かべることができる。
 僕が忘れてしまえば済む話なのに。誰も彼女の存在など知らないし、誰にも引き合わせていないし、彼女の声を聴いたのは僕だけなのに。
「恋って難しいねえ、恭ちゃん」
「そうだね」
 つらいのはきっとお互いにそうだ。妹は、忘れてしまえば済む話であっても絶対に忘れたくはないのだ。片や、忘れてしまいたくて仕方ないのに、絶対に忘れられない。心の中の一区画を永遠に支配しているような気配すらする。それは果たして幸せなのだろうか。過去のことを、過去のことのように話せないのは幸せなのか、それとも。
 答えは出そうになかった。僕は酸味を緩和するために炭酸水を口に含んだ。妹のドイツ語は彼女よりも格段に上手で、我が妹ながら耳の良さを感じた。炭酸水をもう一本。グラスを二つ。そう頼みながら、すっかり平らげてしまったパスタの皿を差し出す。
 空っぽの皿は汚れていた。ソースまで綺麗にフォークで絡め取っていた彼女のことを思い出して、僕は少し笑った。
 あんなところまで愛しいと思った。愛しいと思うたびに僕の心が彼女に奪われたままになって、行き場もなくずっと住み続けている。甘ったるいコーヒーも紅茶も断った。無防備にも電車の中でよく寝るから、遠出をするときには一緒に居なければいけなかった。検札をやり過ごそうとして、僕の肩口で狸寝入りをして強面のおじさんに凄まれたことも、眠そうな伏し目がちの目も、忘れたことなどない。忘れられるはずなんてなかった。
「でも、そんなに忘れたいんだったら、次に会える時は忘れられてるといいかもね。結構、気が楽かも」
「一理あるね」
 僕は最後のエビを頬張った。そして勇気づけようとしてくれる妹の心優しさに感謝しながら、彼女の目を思い出す。
 美しい睫毛と重い瞼、最期に見開かれた瞳。真っ赤に濡れていて、不謹慎乍ら綺麗だと思った。すべて覚えていた。
「はあ。私も次は、ひとつひとつ記録取って覚えておこうかな。忘れちゃわないように」
 どこか他人事のような妹の言葉がやけに心地よかった。でも僕はきっとそうはならない気がした。人は忘れることで前に進むのかもしれない。僕はいつになったらこの恋を忘れられるのだろう。忘れられる時が来たら、彼女のことも忘れてしまうのだろうか。それは少し寂しいな、と思った時点で、本当は忘れる資格なんてないのかもしれなかった。


END


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