@satomi8429
砂漠に吹いていた灼熱の風は、木々の隙間を通り抜け、都のはずれに届く頃には心地良い温度となって頬を撫でる。
洗いざらしの乾いた借り物の着物は、汗を流し泥のように眠ったあとの体にさっぱりと馴染んだ。
裏手の石段は、壁のおかげでちょうど日陰になっている。猫が横切る他は誰も通る者のいない、ぽっかりと静かな空間だった。
腰かけて膝を伸ばす。十代に入ったばかりの、子供っぽさのだいぶん残る、なんの変哲もない二本の足。
何もかも嘘みたいだ、と少年は思った。平和すぎる異国にいると、そう錯覚しそうになる。自分はただのちっぽけな少年で、家には家族が待っていて、この旅――なんの旅だかはさておいてとにかく――が終わればまた国に帰り平凡でありふれて幸福な日常に戻るのだ、という錯覚だ。無論、即座に少年の中のもう一人の少年が否定する。成すべきことがあるからここにいるのだ。
少年は足から目をそらし、しかし視線のやり場に困り、抱えた膝に顔を伏せた。
「どうしたの」
柔らかく流れるような声が背中から聞こえた。
ぽかぽかと温かい、ひだまりのような明るさを含んだ声。実際、背中には午後の陽が当たり、こんな時でもなかったらまどろみたくなってしまうような春日だった。
「柳宿さん」
振り返ると、薄い唇の端をきゅっと持ち上げて柳宿が笑った。紅を引かずとも華やかな顔立ちは、しかしなんともいえない迫力があった。優し気なたれ目にきりりとした眉、線の細い身体に宿る能力が怪力だなんてにわかに信じられない。そんなことを考えていると、「ここ、」という言葉と共に、細い指が張宿の額に伸びた。
「力、入れすぎよ」
あっけにとられる張宿をよそに、柳宿は隣に腰を下ろす。短く刈られた芝の間から覗く、小さな白い花がふわりと揺れた。
朱雀召喚の失敗、という事件は、誰からも何も言われずとも張宿の呼吸を浅くさせる。関係者に話しかけるのにも、だから常に一瞬の躊躇を伴った。もっともそんな足踏みをしている場合ではないことは重々承知しているので、なるべくーーできる時はーーそんなことは考えないようにしているのだけれど。
だから、なぜ今、彼にこの話をしようと思ったのかわからない。話しやすい雰囲気だったからかもしれないし、とにかく誰かに話を聞きたかったからかもしれない。
「柳宿さんは、七星士の能力をどうやって使っているんですか」
「どうやって……?」
声が震えたかもしれない、と思ったが、柳宿はそんなことは気にもとめていないようだった。
「なにも考えてないわよ、そんなの」
「なにも……?」
あっけらかんと即座に切り返した柳宿の言葉に、張宿は疑問符をつけて繰り返すしかなかった。
「うーん、どうやってもこうやってもないのよね。自然になっちゃうのよ」
だから困るのよ、と柳宿は冗談交じりに溜息をついて見せた。
「こないだもつい力んだら宮殿の柱壊しちゃってねー。あ、星宿様には内緒よ」
自然に。
そうなのだろう。会って間もないが、みな息をするように自然に能力を使っているように見える。
やはり、自分だけ。
「でも、どうして?」
ふ、と語調が変わったのに身構える。優しげで、例えば翼宿や鬼宿と話す時とはまったく違う。何も言っていないのに見透かされているような気持ちになって、張宿の心臓は大きく跳ねた。
「……皆さんいろんな能力があるようなので、どうなんだろう、と興味があって」
まさか自分がいまだ能力を自在に操れないからだなどとは言えない。嘘がちくりと胸を刺した。「そう」とあっさり言って、柳宿は話題を変えた。
「ねえ、ちょっと上見て」
「?」
「いいから、ほら」
柳宿の意図はわかりかねたが、言われるままに上を向く。まぶしさが何度かまばたきを誘った。
「何が見える?」
「え」
「ほら」
「……空です」
「どんな空?」
「青くて……でも雲も見えます」
「雲はどこに?いくつ?」
「右はしに、細長い雲が二つ」
「それから?」
「樹の葉っぱが見えます。上のほうに、少し」
「それから?」
「鳥が、群れになって飛んできました」
なんの鳥だかわからないが、風とともに黒い影が視界を横切っていった。
「そう。それから?」
「……あ、蝶が」
視界の左上から斜めに、くっきりとした黄色の蝶が、音もなく羽を動かしゆっくりと飛んでくるのが見えた。大きく浮いては小さく戻る、そのくりかえしでどんどん進む。ふうわりふうわり。
――と、いきなり背後に人が立ったかと思うと、なんと、口の端に指を入れられ、唇がぐいと真横に引っ張られた。声を発する間もなく、その指が唇ごと上に持ち上がる。
「ふ、ふひほはっ……!?」
「いーから、いーから。ほら、口開けてごらんなさい」
言われるままに口を開くと、鼻から下だけ大口を開けて笑ったような恰好になった。
「そう、それ」
しなやかな、しかし力強い指が離れ、張宿の口はそのままの形で残った。視界には空の青。葉の緑。蝶の残像。静かな日差し。
「上向いて、笑ってごらんなさい」
薄絹を重ねた装いの似合う、艶やかな彼はそう笑んだ。
「困りごとなんて吹っ飛んじゃうから」
「まじないかなにかですか!?」
そんなことは初めて聞いた。断言するその口調に、半ばすがるように勢いこんで尋ねる。
「別に。そんな気がするだけよ」
根拠はない、と即答する柳宿は、しかし自信に溢れていて、張宿は素直にうなずいた。さっきの名残で笑った口の形のまま、今度は意識して口の端を持ち上げる。
「そうそう。その調子」
柳宿が子供のように小さく手を叩く。張宿もつられて、今度は自然に笑みがこぼれた。
どちらからともなく顔を見合わせ、それからもう一度上を向く。
空にはもう雲も蝶もなくて、ただ抜けるような青が広がっていた。
「笑ってなさい、笑ってれば道は開けるってもんよ」
少年は閉じた瞼の中でその声を反芻する。
空の青。
葉の緑。
蝶の残像。
静かな日差し。
抱えていた膝を解き、顔を上げて天を仰ぐ。痛いほどそらした首。
口の端に指を入れ、くいと曲げて上へと引っ張る。指をはずし、頬をめいっぱい引き上げる。
その視界には、染まりそうなほどまぶしい青が映っていた。