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それはまぶしく

全体公開 1 16070文字
2016-11-21 00:50:22

最善はときに残酷だなって話

「あ」
と、思ったよりも大きな声を出したカイに、周りの人間は一斉に振り返った。
「え?」
その中に、声を上げる要因となったその人の姿も混じっていた。普段は結い上げる赤い髪をそのままにしているので一瞬女性かと見まがったが、カイは間違えてはいないようだった。
ばちり、と青い瞳と視線が合う。
フードの隙間からのぞいた青い瞳は驚きに見開かれている。
その人はカイの正体に気づいた瞬間、足を止めてきょろきょろとあたりを見回した。しかし頭上を見上げて、苦笑いを浮かべると、カイに顔を向けた。
「・・・こんにちは」
なぜかぎこちない笑顔を浮かべる男に、カイは首を傾げて、「こんにちは」と言葉を返した。
「アベルさんも外に出るんですねぇ」
とある一件でかかわることになった勇者の側近は、その言葉にやはり苦笑した。
カイは仕事を探してふらりと立ち寄ったに過ぎない。女神教を国教とするこの国は、勇者が働くには最適である。
そんな国の、首都から少し外れた郊外で、とある国の図書館で司書をしているアベルを見かけるなどとは思いもよらなかった。彼は図書館の運営を担う立場にいるはずだ。その立場の彼とこんなところで顔を合わせるとは思わず、カイは少し驚いてしまう。
思わず声を上げたカイに、彼はぎこちなく笑って見せるばかりだった。
「ええ、まあ。半分仕事なんですが、部下に『上司が働いていると休めない』と怒られてしまったので・・・。気に食わない妖精退治も兼ねて、主人の土産話を探していたところです」
人通りのある市場で出会った彼はそう言って、店先をちらりと眺めると、カイに視線を向けた。
「てっきりいつもあの方と一緒なのかと思っていました。今日はおひとりなんですね」
カイの『相棒』のことを指しているらしい。
彼の主人が魔王としての通り名も知っていたことを考えると、ずいぶん遠回しな言い方なようにカイには思えた。
けれど魔王の名を出さないのは聖界ではある種の常識である。かすかに感じた違和感はそのままに、友人の姿を思い浮かべて苦笑を返した。
「はは・・・保護者とちゃいますから。そらぁ、よおけ一緒にいますけど、あいつかて黒い羽を隠すのは大変やろうし」
そう言った瞬間、カイの目にも明らかにアベルの顔色が変わった。
(え、なん・・・)
どうしたのかと聞くより先に、耳に届く声があった。
「く、黒い羽・・・?」
そうつぶやいたのは、屋台を構える店先の店主である。
顔色を悪くする店主に、アベルは一瞬だけ眉根を寄せた。
(え・・・)
店主が何か口を開こうとする前に、アベルはにっこりと笑う。
「やだなあ、カラスじゃないんだから、黒い羽なんて例えたらかわいそうですよ。確かに腕が黒いなんて趣味の悪い義手ですけど」
と、わざとらしく言い放ったアベルは、ここじゃなんですから、と言ってカイの腕をつかんだ。そのまま歩き出した彼に、カイは何も言うことができないまま引きずられた。
店主の顔色の悪さが、いやに目の奥に残っている。
なぜだかその顔が、とても嫌なものに思えた。
もし、何か困っているなら話を聞くべきだと思いもするが、聞いたらいけないことがそこにはある気がした。
(黒い羽て・・・)
その言葉だけで、顔色が悪くなる。
それを示唆することを、カイは知らないほうがいいのではないかと思う。
いや、カイとて聖界で生まれ育っている。知る、知らないまでもなく、この事態がどういうことか、わかってはいた。
「この国で、あの人の話はタブーです」
アベルは足を止めないまま、カイの思考を読んだかのようなつぶやきが耳に届く。
「あの人て、ウィ・・・俺の友達の?」
人通りが多いところを抜けて、細い路地に入ると、彼はようやく足を止めた。
カイに向き直ると、そうですよ、とアベルはため息交じりに肯定した。
「この国は女神教の原理主義が国教です。魔王に一度、国が滅ぼされた後に新しい王朝ができて現在まで続いていて、女神教にすがらずにいられなかったという側面があります。ですから、国民も皆、信心深いんです」
基本的に魔王の話は禁句ですよ、というアベルの言葉に、カイは眉根を寄せた。
なるほど、過去の遺恨が巣くっているというのはよくわかる。
魔王の話を出してはいけないというのも。
だが。
「それにしても、なんや、過剰反応しすぎやないですか」
黒い羽、と言った瞬間の話だった。
あの店先の店主が、顔色を悪くしたのは。
それを思い返せば、納得できずにカイの顔が自然と曇る。
「・・・初めて会った時も思いましたが」
アベルは理解できない、という顔をするカイを咎めるように片眉を上げた。
苦し紛れのような表情をするアベルは、まずいものでも口にしたかのようだ。

「あなたはあの黒い方が、聖界でどのように思われているかに、自覚がなさすぎる」

へ、とカイは思わず目を丸くしてゆっくりと瞬く。
苦々しい顔をしたアベルは、静かに視線をそらした。
「私の生まれは、強力な魔法使いを輩出する貴族でした。国教、とまではいきませんでしたが、女神教が主教です。とはいえ、私の国では原理主義でもなかったし、女神教が過激なわけでもありませんでした。私は、そこで一般的な聖界での常識と知識を教育されました」

そんなレベルの国で教育された私だって、あの黒い方は恐ろしいのです。

その言葉がまさしく暴力のように、カイを殴りつけた。
鉄の塊で鐘をたたいたかのような音で、カイはその言葉を理解するのに時間を要した。
「あの方は、聖界では下手をすれば魔王よりも恐ろしい存在なんです。女神教の中では、とくに不幸の象徴。子どもの寝物語にさえなるような人です。実態の如何はともかく、あの人自身がどうかもともかく、恐ろしいものと『認識されている』という事実を、理解しておいたほうが良いです」
アベルが苦々しい顔で話す言葉のすべてを、カイは聞かねばならなかった。
カイとて、黒い翼の使者の話は耳にしたことがある。それこそ、寝物語にさえなっているような話だ。
黒い羽を持つ天使は、いつも悪者で終わる。
そんなことは、知っていた。
(せやかて)
出会った当初の彼は、カイには悪者には見えなかった。
翼は色のない彫刻で見る天使のようだった。
砕けた石灰色の転輪も、ただきれいなだけで、破滅をもたらすなどとは考えられなかった。
それに話してみれば、困れば手を差し伸べてくれるし、やさしい部分もある。捕まって腕が奪われたときは、わざわざ迎えに来てもくれた。
(せやかて、そんなやつやない)
言い返したいが、アベルとて本意でないのはその苦々しい表情から理解もできた。
おそらく、彼は心配していっているのだ。くぎを刺すような言い方で、苦しむような言いにくそうな表情をしながらも、カイが自覚していないことを指摘してくれた。
だからここで言い返すのは八つ当たりだと言葉を飲み込む。
耳が麻痺して拒みそうになる言葉を理解すればするほど、カイはたまらなくやるせない気持ちになった。
それは、神々の意図を聞いたときのような、どうしようもなさがあった。
カイにとっては大切で、やさしい友人。いろんなことを話してくれて、手伝ってほしいと頼んでくる。
その不器用さを知っているだけに、彼の実像ではなく、見た目ですべて悪いものとされてしまうことが悲しかった。
不器用な彼が、そう言われるまでの経過を思う。
きっと、そういう風に言われることもしたこともあるのだろうとカイは思う。
自分と出会うまでの間、彼の創造主を救いたくて、どうにかしようとして、出来なくて。
それでも、あがいていた。
彼の風評がその経過の一端であるかもしれないと思ったとき、カイは彼の途方もない孤独に気づいた。
(・・・あいつは、これまで、こんな風に言われるまで、どう)
こうして悪いものにされるまで、彼は傷つきはしなかったのだろうかと、過去に思いをはせる。
なりふり構ってないように思えてならなかった。彼は悪いと言われようと、ゲームに対して必死だったのではないか。
そう考えると、カイは彼のこれまでがますます気になった。
大まかなことは聞かせてもらったけれど、もっとたくさんのことを知りたいと思う。
「・・・私にとっては、わりあい話しやすい、物の道理を理解されている方ですが、図書館が特殊なのです。普通の国ならば、あの方は総攻撃を食らうでしょうね」
アベルの言葉がカイに突き刺さった。ぐさり、とまるで抉るかのような言葉は、確実にカイの心を射抜いていた。
致命傷に至らない痛みは、その瞼の裏に黒く美しい翼をちらつかせる。まるでその姿が傷のように、ちくりちくりとカイを突き刺してきた。
見た目だけで判断するなとわめき散らしたいような気分を抱えて、カイは俯く。
何と言えばよいのかわからず、視線を逸らした。
こうして見た目だけでそう判断されるまで、彼は何をしたのだろう?
天使としての救済を期待されたのだろうか。
それを裏切り続けた結果が『悪いもの』だろうか。
(あいつは、何をおもったんやろう・・・)
人間の勝手で期待されて裏切られたかもしれない彼。
そして『悪いもの』にされた彼。
それでも彼女が愛した世界を、どうにかしたいとあがく彼が、たまらなくさみしいもののように思えた。
自分と出会うまでの間の、その途方もない時間を、思って。
カイは、視界を揺らがせた。
「逃げろー!」
そうしていると、そんな声が聞こえた。
二人して大通りに目を向ければ、馬に乗った騎馬隊らしき人々が、首都とは反対のほうに向かってかけてゆく。
「不幸が来たぞ!」
一気に慌ただしくなった通りのほうからそんな声が聞こえて、カイはアベルへ視線を戻した。
「すまん、俺、行かんと!」
自分は勇者だから、何かが来たというならば、行かねばならない。不幸という言葉が引っかかったが、誰がどうであれ、自分ができることもあるだろう。と、即座に思考を切り替えると、アベルは顔をゆがめた。
「・・・いやな予感がします。私も、ともに行きます」
何を感じているのか、アベルはとても嫌そうな顔をしながら、カイの隣に並んだ。
「・・・無理せんでも、ええですよ」
そんなに顔をゆがめるぐらいなら、と気をつかったのだが、アベルは、私は魔法が使えますから、とほほ笑んだ。
「私の主人ほどではないですが、そこそこの実力はあります。契約している精霊もいますし、力にはなるでしょう」
どうせ、帰りがてらですから、と苦笑するアベルに、それじゃあ、と甘えることにした。
一人よりも二人のほうがいいだろう、とカイが走りだせば、アベルも遅れることなくついてきた。



「・・・君ねえ」
苦々しく名指しされた緑の鴉は、アー・・・と情けない声をあげてがっくりと首を垂れた。
「罠にかかってるのに、僕を呼ぶってどういうことだ?君、元魔法使いじゃなかったかな?」
つけつけと嫌味を言う彼の言葉が刺さったように、鴉はますますしょんぼりとしたように頭を下げた。
黒とも見まがう深い緑の色をした鴉は、空中で何かに埋まったように固まっていた。彼の目には、透明で薄い赤のガラスのような膜の中に、その鴉が突き刺さっているように映っている。
薄い食紅が混ざった氷のようなそれは、鴉が穴を開けてしまったようで、空中でそこに挟まった鴉の周りはぱきぱきとひびが入っていた。
そして彼もまた、その鴉と同じように、その薄紅色をした膜に突き刺さるように空中にいた。
「はあー・・・ほんとに、君って救いようがないよね」
つけつけと嫌味を向けていれば、鴉はア゛ア゛!とばたばたと翼をはためかせて何かを主張した。
鴉がばたばたと動くたびに、ぱきぱき、とひびが入ったことに彼は顔をゆがめた。
「ばか!動くな!結界が壊れる!」
その言葉にはっとしたらしい鴉はぴたりと動きを止める。
彼は苦々しい顔をして、鴉に目を向け、鴉もまた弱り切ったように黒い翼のある男を見上げた。
お互いに見つめ合って、言葉を探すこと数秒。
「・・・そんな顔するな。僕だって考え中だ」
と、答えた黒い天使に、ですよね、とでも言いたげに鴉はアー・・・とまた頭を垂れる。
そんな鴉を尻目に、彼はどうしたものかと顔を歪めずにはいられなかった。
彼は聖界の上空を何の気なしに飛んでいた。何の意図もなく飛んでいたと言えばうそになるけれど、知り合いのもとを巡り巡り、そして最後に友人はどこにいるものかと、そう深く考えずに飛んでいた。
そうしたらとある国の上空で、アー、と鳴く鴉の声を聴いた。
鴉だけにどきりとして、もしや知り合いでは、いやいやそんなはずは、と思いつつ、高度を下げた。
それが間違いだった。
高度を下げた先にいたのは、とある図書館の主の使い魔だった。
かつて友人が救おうとして、それを拒み、死に憧れてそれを救いとして死んだ男のなれの果て。
死んだ末に悪魔になるのは『可能性』でしかなく、それを見ていた彼はわずかなものとして知っていた。
望めばなれる『悪魔』という人ならざる者の道に、喜んで落ちていった男が、とある国の結界にとらわれていた。
『アー!アーァー!!!』
無視して帰ろうかと思ったが、鴉姿の悪魔は目ざとくこちらを見つけたらしい。悲痛な泣き声を上げて呼ぶような真似をしてきたので、結界に触れないようにその悪魔のもとに近寄った。
『君、なにしてるんだ・・・』
一応そうして声をかけた。
よく見れば、ガラスのように硬いようなものに突っ込んでいる。
これが結界そのものだろう、薄い赤をしたそれはなんだか嫌な感じがした。ぱき、と鴉が顔をのぞかせる周りから、ひびが入っている。
『ァ・・・ス、ケ、テェ・・・』
ぱくぱくと水揚げされた魚のように嘴を開くそれが、言葉をひねり出した。
ずいぶんと悪魔の体を使いこなしているようで、声帯だけ人間のものへと変えたのか、確かに「助けて」と言った。
助けてと言われて助ける義理なぞあるものか、と彼は口走りそうになった。
(だって、これは・・・)
関わった当初から、ずいぶんと気に食わない存在だった。
友人は散々言葉を尽くして、これを救おうとした。死しか見えぬ愚か者だと彼なら捨て置くものを。
そんなものに友人は死以外の、他の道を提示し続けた。
だというのに、その手すべてにご丁寧に一つずつハイタッチをして拒絶した男が、中途半端で気に食わない。
(・・・ちがうな)
あるいは、己とよく似ているからこそ気に食わないのかと、そうも理解している。
とはいえ、いろいろ気に入らない理由をさておいても、彼は人でなく、そうそう善いものでもない。本当に、どこを探しても義理などなく、利益もない。
彼の主人に貸しを作る必要もない。
本なら借りたが、書類提出、などと言う対価を要求されている。
(捨て置こう)
よし、友人探しに戻ろう、と彼が決意したとき。
『アー!ア゛!!!!』
鴉がばさばさと暴れた。ぱきぱきといやな音がする、と顔を上げたときには、もう遅かった。
『え?』
ぶわ、と透明な、手のようなものが膜から伸びていた。
赤いそれは、血でできたように、ぐわと彼に襲い掛かった。
とっさに、翼で払おうとした。
しかし、遅かった。
ばきん、と翼にそれが張り付いた。触れれば硬くなり、次々と内側に取り込もうとしてくる。
『え、ちょ!』
逃げ出そうと思えば簡単だった。けれど、するするとまとわりつく赤い手から、するりと光の糸が伸びてきた。
視ようとなんてしていないのに、するりと伸びてきた線から、悲鳴が聞こえた。
(これ・・・)
この赤さがなんであるかを理解させられた彼は、眉根を寄せて動くことをやめた。
動けば、結界を壊すことになる。
この程度の結界なら壊せるが、壊してしまうと少々面倒くさい。
そして冒頭へと戻り、どうするかと悩んでいたのである。
(どうするかなー・・・)
とはいえ、のんびりと悩んでいる時間はない。下ではぞろぞろと人が集まり始めているからだ。鎧を着ている姿を見る限り、この国の衛兵かなんかだろうとあたりをつける。
魔法で結界に介入して、自分だけ逃げる、という方法が無難ではある。
だが、それをしようとするには、あまりにも時間が足りなすぎる。
はあ、めんどくさい、と思ってため息を吐いたとき、「んな!」という聞き覚えのある声がした。
ちらりと下を見れば、見知ったサングラスをかけた男が、目を見開いてこちらを見上げていた。
ついていないのは自分だけではないらしい、と彼はうっすらと笑った。



声を上げたカイの横で、アベルは片手で顔を覆った。
なんとついていないのだろう、いやな予感はよく当たる、と気力を一気に何かに持っていかれた。
(・・・まあ)
しかしすぐに表情を消すと、手をどける。見上げた先には、黒い翼をはやした不幸の象徴と、新緑の鴉が、赤い膜に挟まっている。
言いたいことは山ほどあるが、ある意味予想通りではあるので、アベルにさしたる動揺はなかった。
「な、なんであいつ、何もないとこで固まっとんねん・・・」
となりでそう言う彼にはこれが見えていないのだろうな、とアベルは頭上を覆う赤を見上げる。
(この赤はまさしく狂気。こんな国は潰してしまおう)
アベルは至極冷静に、そう思った。
となりの善き勇者には悪いが、アベルはこの国の存在が、もはや許せない。
殺気だつ兵士が、頭上の二匹に恐れを抱くことがアベルにはおかしくて仕方ない。
(間違っているのは、お前らのほうだよ)
さっさとあの結界から魔王が抜けてくれれば早いと思うが、善き勇者に感化されているのだろうか。あまりえげつないことをする気はないようだ。
そうするとアベルは魔王よりもえげつないことになる、と気づいたものの、彼は笑わなかった。
アベルがえげつなくて残酷なのは今更だ。
地獄に落ちるも上等。彼は、自分の主人さえ良ければいくら国がつぶれようとも構わない。主人が離れがたいような鳥かごのためならば、いくらでもゲスになれる。
となりの男には叱り飛ばされそうだが、アベルの主人が純粋で、無垢で、籠の鳥の中の鳥だからこそ、アベルは下衆であっていいのだ。
主人ができないことをして、判断するのがアベルだ。
(この国は、あの子の国には必要ない)
そういった判断ができるからこそ、そばに置いておかれているという部分すらある。
国がつぶれるということは犠牲が出るということだ。何も犠牲がないまま、変革は起こせない。
けれどそれもすべて、巨大な図書館でさえずる己の主人のため。
今回、カイに半分仕事だと言ったのは、この国に来たのは外交問題でトラブルが生じていたせいだった。その話し合いの経過を聞きに来たのである。
そんなつもりはなかったが、交渉の場にでるはめになった。だから半分仕事になってしまった。
結果としてアベルはこの国の狂気を見ただけだった。
長年、勇者に献上品をしてきた国だった。そうすることで、対等ではありながら、勇者からの庇護を得ていた。地理的に自国であるビブリオテカとは、小国を挟んでいる。
そのうち小国は飲み込んで地方扱いにしようかと思っていたが、それより先にこの国を飲み込む羽目になってしまうと計算が狂う。
しかし交渉は難航中だ。この国の狂気を理解した分、アベルは穏やかに関係を取り持つ気が失せていた。
今回、とある資料をよこせと言ってきたのだ。
そのことが、外交トラブルとなった。
その資料とは『勇者を作る実験』の資料。
何度も言った。
『勇者は作るものではない』と。
アベルの主人然り、隣にいるカイ然り、作ってできるものではない。神の気まぐれな『選択』によるものだ。
作ってできる、というレベルではない。不老不死、蘇る、というあれらが、人の手によるものなどではないのだ。
まさしく、神の御業。
神に愛され給う者の、恩恵。
それなのに、『あなたの国は勇者を作り上げたではないか』と糾弾までしてきた。
おまけに、防壁の結界は、こんなに赤いもの。
(潰そう)
冷静に思ったところで、隣にいたカイが顔をこわばらせていた。
「悪魔め!」「あんな不幸を呼ぶモノは、さっさと殺せ!」「「「こーろーせ」」」
恐怖にかられた民衆の、魔王に対する糾弾だった。
その糾弾の渦にいるカイの横顔が、どんどん青くなっていく。
(やめておけばよかった)
その横顔を見て、アベルは後悔する。
もし、と思っていた。
もし、不幸だというのが、カイの仲の良い黒い翼の人なら。
それはもしという可能性でしかなかった。魔王と呼ばれるものであるなら、別の人であってほしいと思っていた。だが、アベルの勘が当たっていたら彼にとってはひどいものを見ることになるだろう。そう思っていた。
だからついて来たが。
(来させなければよかった)
仲の良い友人が、こうして殺せと言われているのを見て、平然としていられる人ではない。
黒い翼の人は何を考えているのか、無表情で衆愚を見下ろしている。
「黒き不幸を退けよ!」
鋭い声に、魔法の気配を感じた。
アベルが見渡すと、すでに魔法使いの集団が列をなしている。
となりを見れば、青ざめたカイが同じものを視界にいれているようだった。
アベルは、走り出して攻撃の前に立ちそうな彼の腕をつかむ。
「なん・・・」
「私の話を、聞いてくださいますか」
うろたえるカイに、しっかりと目を合わせる。
強く握って訴えれば、彼はああ、うん、と返事を返した。
「あそこにいる鴉は、あなたもご存知の、デュークです。私は、主人の使い魔たる彼を助ける責務があります」
「え!?あれ、デュークなんか!?」
はい、と頷いて、頭上を見上げた。黒い翼の魔王は、動く気配がない。
ならば、こちらが残酷になるまで、とアベルはカイに視線を戻した。
「半分、仕事と言いましたが、この国にケンカを売られています。なので、あなたはあの黒い方とともに逃げてください。あの方は、きっとこの国に張り巡らされた結界を憂慮しているだけですから」
アベルは少し目を伏せた。
ここで自分が結界を壊せば、あとでなぜあの魔王が結界を壊さなかったのかを知ったカイに怒られるどころでは済まない。
それでも、アベルにはこれが一番、近道で効率的な最善の策だった。
いっそあの魔王がこの国の結界を壊すどころか、国さえすべて破壊してくれたら話は早いとアベルは思う。
しかし、かつてならいざ知らず、今の黒きひとには無理だろう。
「あなたにはあの方を逃がすために、していただきたいことがあります」
アベルは一枚の紙を渡して、それを首都のほうで壁に貼り付けてくれと頼む。
「・・・これは」
「召喚式です。撹乱して逃がさなければ、あの魔王はここで人と戦う羽目になる」
あなただって、勇者なのだから、苦しい選択を迫られるでしょう、と言うと、カイは目を伏せた。
善い人である、と思って、アベルは微笑んだ。
自分の主人ももう少し善悪を学んでほしいと苦笑して、行ってください、と返事を聞かずに腕を離した。
「・・・せやけど」
ためらうカイに、アベルは本を取り出してページを開く。
「この国はね、だめなんですよ。説得してどうこうできるような国ではありません」
言いたくはなかったし、言う必要もないと思っていた。
けれどアベルは顔をそらして、口を開いた。

「この国では、前王朝が滅びたのは、黒い翼の主がしたことだという伝説があります」

事実かどうかはさておいて、国民たちには伝説などと言う眉唾ものではない。
単なる歴史的事実として、受け止められている。
だからこの国で魔王に関する話題は禁句だし、何より不幸の主の話は厳禁だ。
歴史とは曖昧であるが、衆愚はその事実を知らない。いつだって為政者の都合のいいものが真実で、研究者の解明はそのあとを行く。
「私は、あなたにできることがないなんて言いません。あなたには、あなたにしかできないことがある」
いつかのデュークの話を聞いたことを思い出して、アベルは素直にそうこぼした。
「あなたがなるべく人を救う道を選びたいと、思って行動できるのは、あなたにしかできないことです。私には、最善を選べても、最良は選べない」
最善は最良ではなく、時に残酷な決断でもある。
だが、アベルは最良の手段はとれないし、ときには最悪の手を打つこともある。アベルにとって大事なものはただ一つだけだから、それ以外をすべて最悪にする手を、アベルは迷いなく選べる。
けれどそうする以外の手を放棄してしまったし、そうせざるを得なかった過去の延長のような部分もあるし、報いがないことに、たまに空しくなる。
だから、そうではないカイを見ていると、心配にもなるが、背中を押したくなる。それも彼の人柄ゆえで、アベルの主人にはないものだ。
他の誰でもない、彼ができること。
言い換えるならそれは、アベルにしか選べない手段があることと同義だ。
「無意味な争いを避けるために、私に協力してください。あの方を逃がして、争いを避けるには、必要なことです」
カイを見つめて、そう言った。
善き勇者は、ぐ、と唇をかみしめると、すまん、と言い置いた。
「今は、任せろしか言えへん」
「かっこいいですね。お任せします」
こうして話している間にも、着々と攻撃の準備は進んでいる。
決意を固めた顔の彼に、アベルは力を言葉に乗せて、それと、と口を開いた。
「『あなたは、この国には、一週間は戻れません』」
その言葉に反応することなく、任された、という彼の背中をアベルは見送らなかった。すぐに魔法を唱えて、これからの算段を立てる。
言葉に反応して、ぶわ、と地面に巨大な円が光とともに浮かぶ。そこにいくつも書き込まれた文字に、人々がどよめいた。
「・・・すいませんね」
少しだけ後悔を滲ませ、アベルは青い瞳を伏せた。
「俺は、あなたと違ってよき人ではないんです。・・・勇者がほしいという国に、こんなものを見せてしまうぐらいには」
人を先導するのも、操るのも、大したことではない。アベルは、最良の結果を導かずとも魔法を使えばいいだけなのだから。
それが人からどれほど残酷だと悲鳴をあげられようと、己の主人が箱庭から出ていってしまうよりは、小鳥のさえずりよりも小さな音だ。
よく見てくれ、とアベルは心の中で叫んだ。
国の重鎮たちがほしいという実験の結果を、アベルが過ごして、主人が受けたなれの果てを。
「笑みを、イリュドリョウス」
あ、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――!という怪物の産声を耳にしながら、アベルは暗い瞳でぎしりと軋ませるように笑った。



「・・・大丈夫なんやろうか」
それからカイは、とある湖畔にいた。女神教の強い国で騒ぎを起こして、そこから顔見知りの男に伝言を頼まれた。
『黒い方が傷ついたようだから、追って手当をいてほしい』
それだったら自分の世界に帰っているのでは、と思ったが、傷ついたと聞いては心配にもなる。アベルに任せてしまったのは申し訳ない気もしたが、魔物だという赤茶の馬まで彼に用意されていた。
(なんとも、手際のよい御仁やなあ・・・)
深緑の鴉は案内人で、やけに人懐っこい赤茶の馬はあっという間に元いた国から遠ざかった。移りゆく景色を日が茜色に焦がすころ、ようやく馬はスピードを落とした。
ぱかぱか、と湖畔に来たところで、休憩にしよか、という声に、馬は喜んで足を止めた。
馬に礼を言いながら休ませていると、なあ、と背後から声がした。
振り返れば、緑のフードをかぶった男が立っている。
「もし、あの黒い方にあったら、本当に申し訳なかったと伝えてくれ」
彼が苦笑してそう言うのに、カイは首を傾げた。
「俺はまったくあの人を巻き込むつもりなんてなかった。だけど、結果的に巻き込んでしまったのは俺だから」
「どういうことや?」
首を傾げた彼に、デュークは苦々しい顔をした。
「あの結界、お前には見えていなかったようだけど、あれは人の命を使って作られていたんだよ」
「え?」
聞き返して詳しいことを聞こうとする前に、全くアベル様は本当に恐ろしいお方なんだから、と言うままデュークは言葉をつづけた。
「まさか、俺が結界に突っ込んだら壊れるなんて脆弱なものだとは思ってなかったけど。どういう使われ方かは知らないが、まず楽に殺してもらってはないだろう。魔法が使えるものには、あの国の空は赤く見えていたはずだよ」
赤は狂気のいろ、と誰かが言っていた言葉を思い出す。
人の命を使って行う魔法は、基本的に厳禁だ。それぐらいはカイとて知っている。
そんな狂気の渦巻く中に、アベルは一人で残ったというのだろうか。
「・・・お前にできることはない」
カイがどうしようかとできることはないかと考え始める前に、昔、違う立場で言われたことを、同じ男はもう一度口にした。
カイが顔を上げると、デュークは視線を伏せていた。
「せやかて」
「俺は何度でもいう。アベル様は、あの国を手中に収めるだろう」
それが最善策だから、と口にすると、男は鴉の姿へと転じていた。
彼に何かを伝えようと口を開いた瞬間、すぐに翼を広げると、羽ばたいていってしまう。
「行ってもうた・・・」
茜色に頬を染める空を見上げて、鴉が黒い点となっていくのを見送る。
木々の黒い影が伸びて、湖に赤と黒のコントラストを描いている。二色の世界に放り込まれてしまったような中、ぼんやりしていると、馬が顔を寄せてきた。
「ほんまに人懐っこいなあ・・・。ありがとぉ、走ってくれて」
赤茶けた色をした馬に触れられていると、けがをしているという友人が気になった。
いつもふらりと現れるけれど、自分から探しに行くということをあまり考えたことがないと気づく。
カイにとってはやさしい友人の新たな一面を知ったせいだろうか。どこか気疲れが残っていた。
けれど知った情報を記憶するために意識を手放すのも、なんとなく惜しかった。
自然が作り出す黒と赤が混ざり合う世界をもうしばらく眺めて、それから友人を探しに行こう、と立ち尽くす。
言い訳がましく思ってしまうのは、アベルに言われたことが耳に残っているせいだ。
『あなたには、あなたにしかできないことがある』
けれど断然、お前にできることはないと言われるほうが多いと思うと、足が重くなる。
(ほんまやろか)
と、そう思わずにはいられない。
必死で、誰かを傷つけることもいとわずに生きていた。黒い天使のそんな一面を知って、彼がよく言うように凡人の自分がしてあげられることを考える。
むしろ、してもらっていることのほうが多いのではないのかとさえ考える。この間はどうやら膝を借りて寝ていたようだし、囚われていたときは助けに来てくれたし、そのあとは奪われた腕をもとに戻すために付き添ってくれた。
自分は力が足りないと心底思うと、足が止まった。
「・・・ウィルのことも、なんも知らんしな・・・」
あんなに聖界で厭われる面があることを、カイは知らなかった。
一人でずっと必死だったのは知っていたが、そしていろんなことを話してもらったが、まだまだ知らないことも多いということに気づいてしまった。
「は?ぼくの名前を、ぼくが自主的に教えたのは、君が初めてだけど??」
ふわ、と視界に黒い影が下りた。
顔を上げれば、砕けた宝石の輪を戴く天使の友人がいた。
なんだか納得しないような顔をしながら、口の先をとがらせている。
遠目で見たときは無表情だったが、カイを見下ろす呪いを秘めた石のような緑の目は柔らかく細められている。
黒い髪の間からのぞく眼が、怪物と言われる緑の色であり、そして美しい木漏れ日の色だった。故郷でのある日の森の青さのような、懐かしい日々を彷彿させる。
あたりは、黒き支配が顔をのぞかせ始めていた。頬を染める空の赤さを奪うような残忍さで、夜の帳が落ち始めている。
黒と赤のコントラストの世界は、終わりを告げようとしていた。
そんな中で、宝石のような緑が、一際鮮やかだった。
サングラス越しでさえ、その緑の苛烈さに目を奪われる。
その眼に呪いの力があるというのなら、とうにカイは呪われているのではないかとさえ思う。
「大体、君、どうしてあのアベルと一緒にいたのさ。また何か変なことを吹き込まれ」
「ウィル」
思わず遮ってしまい、カイは続く言葉を探した。
そしてすぐにけがをしていると聞いたことを思い出す。
「ケガ、してるて・・・」
ああ、大丈夫だよ、と彼は明るく笑った。
その笑顔によかったと笑みを返すと、カイはなんと続ければよいのかわからなくなってしまった。
べつに、彼の悪評を聞いて、引いたわけではない。
けれど聞いたことから、知らないことが多いと思ったし、自分が彼にできることなどあるのだろうかと迷ってしまっているだけだった。
「あの国にいたってことは、ぼくのことをいろいろ聞いたんだろう?」
俯くカイにそう言ってきたウィルに誤解がないよう、ちゃうやで、と慌てて否定した。
「聞いたことは、あんまりよくない話ばっかやったけど、それで怖いとかやなくて、あの」
ただ、と続ける言葉がなんとなく気恥ずかしく、顔をそらす。
「い、意外と、俺、ウィルのこと知らんなあ・・・て、思ってもーてん・・・」
ぼそりとつぶやいた言葉に顔を上げると、顔をしかめた天使がそこにいた。
「はあ?ぼくがしたいことも、名前も、おまけに膝の寝心地を知ってるのも君ぐらいだけど!それでも知らないっていうわけ!?」
「せ、せやかて、あの国では、なんや滅ぼしたことになっとるやん!俺、聞いてへんもん!それに・・・」
今日、逃がしてくれたアベルを思い出して、カイは顔をそらした。
「俺、今日は戦わずに済んだけど、もし、ああして勇者と魔王てぶつかったら、ウィルと戦わんとあかんやろし、無力やなあ・・・て」
なあ、と思わずウィルを見上げて、その緑の瞳を見上げた。
「俺にしかできないことて、なんやろか・・・」
むしろ、あるのだろうかというほうが正しい、とカイは肩を落とした。
もし、今日のようにぶつかっていたら、自分はアベルのように回避する策がとれたのかと思う。
はあ、と目の前の黒い天使が、重たいため息をついた。
それに反応して顔を上げれば、仕方ないなあ、と言いたげに苦笑している。
そして、ウィルはぎゅ、と鼻をつまんだ。
「いひゃい」
「ぼくにだって、ぼくにしかできないことがある。できることは限られているから、一人じゃないできないこともあるさ」
でも、一人が無理なら、誰かに力を貸してもらえばいいだろう。いつもの君のように。
そう言って、彼はカイの鼻から手を離した。
「ぼくは君が言うように、長い時間を必死になって、そしてようやく気づいた。僕が考える選択肢以外を選ぶためには、一人じゃだめなんだって」
だから君がいるんだろう、と黒い天使は夜が侵食し始めた中で、輝くように笑った。
「それに、アベルも言っていただろう?アベルが選んだのは、最善であって、最良じゃない。彼は、とあるものを犠牲にしたんだよ」
へ、とカイは思わず聞き返した。
黒い天使は眉尻を少し下げ、痛ましいような顔をした。
「結界に使われた命と、自分自身さ」
「結界に、使われた、いのちと、自分自身・・・?」
どういうことだ、とカイが問えば、ウィルはあっさりと種明かしをした。
「あの結界は、人の命をつかってできていたのさ。だから、血なまぐさくて、異常に魔のものの侵入を拒んだんだよ」
ウィルが動かなかったのも犠牲になったひとの意志の強さゆえだ、と知らされて、カイは愕然とした。
「そして、結界を壊したものは、その怨念が攻撃をしかけるという仕組みでね。まあ、帰り際にサーカス団が見えたから、人々の恨みは大丈夫だろう」
「・・・アベルさんは・・・」
あの人は自分を犠牲にしてカイを助けてくれたのだろうかと思うと、なんで言ってくれなかったのかと唇をかみしめる。
いや、狂気が渦巻くなかで残っていったのだ。それぐらいは振り返って、立ち止まって考えてもよかっただろうに、なぜか今になってからでしか頭が回らない。
「彼には彼の事情があったのさ。ぼくは結界を壊したくなかったけど、結界のために犠牲になった人々はすでに体のない亡霊だ。どんな方法でその命が使われたのか、ぼくにはわからないけど、でも、亡霊を救うにはきっと、ああするしかなかったんだろう」
「それが『最善』の策なんか」
想像以上に硬い声が出たことにカイ自身が驚いて、目を見開いた。
「アベルさんは、どないしたんや。見てきたんやろ?」
糾弾するように、そうしても仕方ないとわかっているのに、ひどい言い方になった。
ウィルは静かにカイの額に触れた。両手で包み込むようにされると、なぜだかぼんやりとしていた思考が晴れ始める。
その瞬間、一度あの国に戻らねばならないのではないか、と思考が回り始める。
「見てきたよ。あいつは、言葉以上だね。自分を犠牲にする気だったろうに、実際は無傷だった。でも、結界が壊れたらあの国は、中心がおしまいだ。一週間もたたないうちに、あの書館の勇者の国に落とされるだろうね」
「国を潰す気なんか!?」
ますますもって戻らねば、と動かしそうになる体を額の二つの手が遮る。
「これがアベルの言っていた『最善』の策なんだよ。僕らと利益を天秤にかけたうえでのね。アベルは、一番『簡単に』解決できるからとその手を選んだだけのことさ」
簡単だから、アベルは己を犠牲にしようとしたし、亡霊を犠牲にした。カイのことを思いやりつつ、ウィルも逃げられるように策を立てた。
国が終わったところで、あの場では取りうる『最善』の策だった。
私は最良の策は選べないと言っていた彼の言葉を思い出す。
「俺の選んどるもんは、『最良』なんやろか」
少なくとも、犠牲は少なくしたいとは思っている。だが、結果としていつもぎりぎりであることは否めない。
一概に、アベルの取りうる手段を否定することはできなかった。
アベルには『最良』の選択肢と『最善』の選択肢が見えていて、ウィルの言葉を借りるなら、天秤にかけたうえでその選択肢を選んでいる。
カイにはその『最善』の選択肢が見えない。だが、見えていたとして、天秤にかけたところで、とりうる選択肢は変わらないのではないのかと思う。
「・・・君には君にしか見えない景色がある」
そう言う黒い天使を見上げた。
彼はカイの顔を覗き込むような姿勢になっていた。思ったよりも近い位置にあった木漏れ日のような瞳を眺める。
「君は、君にしかできないことがわからないと言うなら、それを探せばいいんだよ」
君は一人じゃないんだからさ、と静かに言葉が降り注ぐと、そっと額に乗せられた手が離れていった。
離れていったぬくもりを探すようにカイは振り返る。
あたりはとうに暗くなっていた。
湖に映る、銀の砂をまいたような静寂があたりを包んでいた。それを背後にたたえる黒い天使が、緑の目を細めて、月明かりの下で笑っている。
たしかに、こんなに幻想的な光景を見られるのは自分だけだろうなあ、と思うとカイは彼の言葉に納得した。
「せやな!俺にはウィルもおるさかい」
あの国にもどろか、とカイは背後で見守っていた馬に向き直る。当然のように一緒に行こうと誘われた黒い天使が、照れたように半眼になっていることなど、善き勇者は知る由もない。


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