@smbrfubuki
自転車で通学できない距離の学校を選んだ罪というか、後悔のようなものは遅刻した時に痛感する。自分の気持ちがどれだけ焦ろうと、電車は定刻通りにしか来ないし、規定より速く走ることもない。確定で遅刻、とされる電車は何本かあって、自分が飛び乗った各停の電車はその当落線上の電車だった。いわゆる遅電。ちなみにこれが遅刻確定の便になると「チコでん」と略されるらしい。詳しくは知らないが。
同じ学校に通う中学生だった頃は、もう少しゆとりを持って行動できていたはずだったし、何より朝練があった。部活にもそこそこ気合を入れている私立校の練習はハードだ。毎朝走り込んで、汗だくになりながら着替えて、夕方まで授業を受けて。当然そんな日々がずっと続くと思っていたが、人生とは何があるかわからないもので、ほんの3年後の俺はこうして部活とは関係のないところで、単位をかけて走っている。いや、走らないと出席日数が、と考えるつまらない人間になってしまったのである。3年前の俺が今の俺を見たら少なくともいい顔はしないだろう。しかし歳をとるというのはそういうことだ。手を抜くこと、頑張りすぎないことに罪悪感を覚えなくなった時、人は大人になるのだと思う。そう自分を甘やかしながら、俺は秋晴れの都会の空をぼうっと車窓から見上げた。人の隙間から覗くほんのわずかな水色は、見ただけで寒そうで、ひんやりと感覚の少ない指先を頑張って擦り合わせた。
味蕾 01
「もう少し早く来い」
「うっす」
朝の担任からの連絡事項を聴き、一気に緊張の緩む朝の教室で、他の生徒同様に無駄口を叩き始めた俺に開口一番、ぴしゃりと冷や水のような言葉が浴びせられる。
返す言葉もなく軽く頭をさげると、下げた頭をぺしっと叩かれる。座席が前後なのだ。さして力の入っていないそれは、馴れ合いというのも憚られるくらいいつも通りの挨拶だった。
「自分で自分の足に負荷をかけてどうするんだ」
「二度寝の誘惑には勝てなかったよ……」
「怠慢だな。そのうち腹が弛むぞ」
「それは安心してくれ。まだ6つ維持してる」
割れた腹筋を見せようとシャツをスラックスから出したが、結構だと門前払いを食らってしまった。おとなしく再び席に着く。見せても減るものではないし、今更見せるものでもない。朝の喧騒の中で、誰も気に留めることのないありふれたやり取りである。男子校では極めて普通の。
「痛まないのか」
「ああそれはもう。今ならフルマラソンだって走れるよ」
普通の男子校生とは違う点を挙げるとするなら、目の前の盟友はこう見えて極めて心配性である、ということだ。世の中の男子校生の何割か、きっと似たような状況に陥っている奴はたくさんいるだろうが、かと言って吹聴して回るほど自分たちも向こう見ずではない。他人のふり、友達のふり、関心のないふりをしながら、こうして机の下で爪先をぶつけ合う事実を、知っている者はそう多くはない。
町本雄吾は俺の親友であり、級友でもある。学友というのも当てはまるだろうし、腐れ縁というのも正解。小学校の時から同じ塾に通い、同じ中学に合格し、同じように内部進学で高校まで上がってきた。常に一緒にいるのが当たり前すぎて、虚空に町本、と呼びかけたのも1度や2度の事じゃない。綺麗な顔をしている男だから、こんなむさ苦しい男所帯でも一目置かれているし、他校の女子からも評判が高いと聞く。俺にとってはただの心配性な友人だが、一部界隈から謎の熱を向けられているのも知っていた。
俺自身はというと、まあ自分で言うのは本当に気が滅入るが、町本とは人気を二分する存在であるらしい。品行方正なこいつとは違って遅刻ギリギリ野郎な訳だが、顔だけは母親に似てまぁまぁ整っている方に生まれついた。これまでの人生でそれほど記憶に残るいいこともないが、大きな損もしていない。ある意味、女のいない環境を選んで正解だったのかもしれない。うーん、朝の全力ダッシュ中とは全く真逆のことを言っている。要はこんな風に、俺は適当な人間だった。常にちゃらんぽらんならまだ筋も通っているが、手を抜くことを覚え始めた元いい子ちゃんのガキ、と言うのが妥当なところだろう。
俺は町本の机に突っ伏して伸びをした。邪魔だと払いのける真似すらせず、町本は突っ伏した俺の上に肘を置いて本を読み始めた。これもいつものことだ。何も代わり映えがしない、朝の日常。うるさいとも煩わしいとも思わない、ただのルーティーン。そして季節が冬になっていく、その肌寒さだけが迫ってくるようでため息が出る。寒いのは苦手だ。脚に良くない。
「なーそういやあ進路書いたか」
「もしかしてまだなのか」
「ん……迷ってる」
「どう考えても文系だろう」
「いやあ、理系の就職率捨てがたいじゃん。どうせ町本は理系だし、なら俺もそっちしよっかなって」
「呆れた野郎だ。友達の進路で自分の将来決めてどうする」
町本は遠慮なく俺の頭を肘置きにしている。ぞんざいなことだ。朝の読書の時間だと言うのに、読書もせず友達と駄弁るか、雑誌を読むか携帯を弄るか、そう言うクラスメートばかりに囲まれて実際に本を読むこいつは相当奇特だ。
「だってクラス離れるぜ。中2以来だ」
「そのくらい我慢しろ。友達がいないわけでもないのに」
「肘置かれても許すのはお前くらいだ」
町本は何も言わなかった。ただそっと、肘を退けた。そうこうしているうちにチャイムが鳴って、本をしまう。それ以上進路については話さないまま、授業が始まってしまった。
高校1年生の冬は来るべき進級と進路選択に揉まれて意外なほどに騒々しい。数学、古典、英語世界史、と指を折って数えているうちに放課後になってしまった。今日もまた代わり映えのしない日だったが、変わったことといえば担任に呼ばれたことだった。理由はわかっている。未だ進路希望を提出していないのは俺だけだった。
「正直に言うとな、お前がどっちに転ぶかで来年の学年団編成が変わる」
「は? そんなの言っていいわけ」
「ダメに決まってるだろう。他言無用だ」
言ってから口止めするのは本当にやめてほしい。俺はなるべく忘れるように初めから注意をそらして聞くことにした。
「学年上位は学校の合格実績に直結する。お前ももちろん例外じゃない。文系に行くか、理系に行くか。理系なら医歯薬コースに入れてやれる」
「興味ない……」
「そうじゃなければ国立理系コースだな。あるいは国立文系。お前の成績なら東大か京大に行ってくれないと困る」
紛いなりにも全国でも有名な私立の進学校としてはそうした体面も保ちたいのだろう。とはいえ、俺にとっては知った事じゃない。極めてドウデモイイ。だって、いきたいともさして思わない大学に偏差値につられて入って何が楽しいんだ、くらいに思う。多少人より勉強ができただけだ。どうしてそれで将来を決められなきゃならないんだろう。なんとも思わない先のことに、自分以外の意思が介在するのは極めて不快だった。
「向坂。お前、何かやりたいことはないのか」
「サッカー」
「……無理だろう」
「いいよ知ってる。マジレスやめて先生。強いて言うなら、そうだな、料理がしたい」
「だから真面目に……」
「料理部やらせてくれたら国立コース行く。成績も落とさない。それでいいなら」
なぜそんなことを口走ったのか、自分でもよくわからない。確かに料理はサッカーに次ぐ趣味ではあったが、実のところ将棋でもチェスでも写真でも吹奏楽でも、なんでもよかった。担任は大げさにため息をついたが、怒りはしなかった。それどころか俺の口からサッカーという単語が出たことに狼狽したようでもあった。
「で、文理は」
「……先生はどっちがいいと思う?」
「成績を見てると、どっちでも。やりたいことがないなら理系を勧めるが」
まただ。みんな誰も彼も同じことを言う。親も、担任も、そういえば先日進路指導のおっさんにもそんなことを言われた。
やりたいことがないなら理系。就職を考えると理系。数学ができるから理系。選ばせるふりをしながら巧みに誘導していく。理系科目は嫌いじゃない。特別好きでもない。だから自分自身迷っているのに、誰も目新しい理由を言わない。なんてつまらないんだろう。俺は生来、自分で言うのはだいぶあれだけど、かなり天邪鬼な方だった。そう皆が口を揃えて言うから、逆のことを言いたくなる。今朝の町本との会話もそうだ。あいつが勧めるから、あいつだけが勧めるから、あいつの前では理系に行くと言った。
「文系」
「……そうか」
「料理部やりたい」
「あーあーわかった。顧問の名前貸してやるよ」
担任は俺に甘い。きっと同情しているのだ。サッカーと口に出した時にあんなにつらそうな顔をするから、つられて俺まで辛くなってしまった。でもひがんでいるわけではなく、純粋にサッカーは好きなのだ。それは今でも変わらない。試合を見るだけで楽しい。きっと走って、止めて、蹴れたならもっと楽しいが、俺の今の脚はそういうオーバーワークには耐えることができない。
冬がまた来る。俺の脚がダメになった冬がまた来る。とりあえす担任との懇談を終えた俺は、微妙に痛む足を労わるようにゆっくり歩いて昇降口へ向かった。
「だからってなんで料理」
「料理好きだから」
「うちは男子校。しかも文武両道、質実剛健を掲げてる。そんな軟弱な部活通るのか」
「組織自体はあるんだよ、機能してないだけ。調べたら最後のOBは15年前に卒業してた」
町本は最近、帰る時間は必ず合わせてくれる。朝は俺の不手際もあって大概巡り会えないが、放課後なら一緒に駅まで帰れる。鎌倉の実家から通ってきている町本は反対方面だが、最近通っている塾が市街地にあるらしく途中までは電車も一緒だ。歩く速度は普通なはずだが、奴は意図していつもゆっくり歩く。それが俺に無理をさせまいと思ってのことだろうから、俺も焦ることなく、労わりながら歩くことができる。
町本は心持ち俯き、手袋をはめていない両手を擦り合わせた。節くれだった手は綺麗な顔とは不似合いなくらい男らしい。こいつは顔は綺麗だが、骨格は男らしいのだ。お家柄もあってか、家中では和装で生活することが多いらしくそれも大いに似合う。ただの華奢な男ではないのである。
「なあ町本。お前、副部長やらないか」
「拒否権はないんだろう。お前のことだから」
「ないな。拒否ったらまあ、面倒臭いことになる」
「自分で面倒くさいと言ってしまえるあたりがお前は本当に面倒くさい」
町本は擦り合わせた手のひらと手のひらの間に鼻を挟むようにして大きく息を吐いた。その所作がまるで中学生のうちの妹のようで、なんだか意図せず笑ってしまったが、奴の指摘は的確だった。そして嫌そうな顔をしていないことが何よりの肯定表現だった。
「会計くらいならしてやる」
「何言ってんだよ。お前も鍋を買うんだよ」
「俺は料理なんて真面目にやったことがない。中学の調理実習で焼き鮭を作ったのが最後だ」
「ああ、あの生焼けで3人病院送りにしたやつ」
「語弊だ。あいつらが自分で当たったんだ。俺は知らない」
生焼けを止めなかった方にも責任はあると思ったが、しかし自分の分だけ両面しっかりと焼いていたのを俺は今でも鮮明に覚えている。つまり最低限の危機管理能力はあるということだ。それならば十分見込みはある。いくら経験がないにせよ。
「できるよ。一緒にやろうぜ。言い出した以上、引けないし」
「なんでそんなことを言ったんだ」
「サッカーしたいって言ったら担任が悲しそうな顔したから」
町本も悲しそうな顔をする。終わったことだ。俺以外はどうしてみんなそんなに悲しそうな顔をするんだろう。こちらが居た堪れないだけだというのに。
「お前もかよ。だから料理やろうぜ。つうか、俺もうピンピンしてるし」
「平気なのか」
「平気だよ。お前がいてくれただろ」
事実を述べただけだ。きっとこいつがいなければ俺は今頃全てをぶん投げて人生をやめていたかもしれない。たくさん友達はいる。顔見知りもいるし、人脈は広い方だと思っている。それでもこいつは特別だ。俺の脚を代わりにやりたい、と泣いてくれたからではない。本当に切り落とそうとしたからでもない。事故にあって動けなかった俺の癇癪を間近で受け止めたからでもない。
ただ何も言わず毎日きてくれた。ただそれだけが、こいつを特別な友達にした。
「町本。高校生活、受験なんか考えてたらあっという間に終わる。だったらなんか始めたいんだよ」
「……興味がわけばいいが」
「沸くよ。絶対楽しくなる。食べるもの自分で作れると幸せだからな」
ほんの少し、微かに痛む脚を庇うのに必死で、そしてそれを顔に出すまいと取り繕うのに必死で、俺はその時町本がどんな顔をしているのか気づかなかった。
ほどなくして発足する二人だけの部活は、結果として俺の人生を、あいつの人生を、大きく変えることになった。でもそれが幸せだったのか、あるいは知らなければよかった道なのか、それは今でもよく分からない。ただ覚えているのは冬の夕方は日が暮れるのが早くて、寒くて冷たい空気はやっぱり一度粉々になった脚を揺さぶるように痛めつけて、俺は脂汗をかきながら盟友の顔も見られなかったということだ。
俺はあの冬、親友に恋をした。すでに広がった沼へ飛び込んでいく、わずか1週間前のことだった。
02へ続く