@smbrfubuki
弛んだ背中
人の男に恋をするなんてどうかしている。そう息巻いていたころの若かりし私は、今の私の姿を見たらどう思うのだろう。
追う側で、必死だった女が、追われる側になり、また別の必死さと向き合いながら生きている。それは言葉にすればただレトリックを持て余しているだけだが、私自身の自我に関して確かな経年を感じさせるに十二分である。少なくとも正しく生きよう、責められず真っ当に、誰にも迷惑をかけず、などと思っていたころの自分が、今の私を見たら絶望してもおかしくない。それくらい、人間というものは本来的にひっくり返るようにできている。
人の男には、見慣れない傷跡や必死なほどの痕跡が体中の至る所で厭味ったらしく残されている。それは歯型であったり、鬱血痕であったり、引っ掻き傷であったりするのだが、こういう牽制は通じる相手にやった方がいいだろうな、と私は冷静に思った。少したるんだ二の腕を枕にして、どうしようもなく重くなる瞼を擦ってなんとか相槌を打つ。男は三十の大台を前にして体中から油断が滲んでおり、かつてどれだけ食べても太らなかった痩せ形の体躯の所々に皮が余るようになっていた。私は体中の皮が柔らかく弛む前の男と関係を持ったことはなかったが、叶うことならば誰の痕跡も残されていない頃に男を堪能してみたかった。しかしいくら嘆こうと時は不可逆、誰かの歯形が付いた、食べかけの男を啜り、咀嚼し、甘ったるくじゃれついて見せるしか術を持たない。そこには一抹の悲しさがある。人の男に恋をした生き物に特有の、明日を持たぬ寂寞がある。
「延長する?」
「あたし払うよ」
「いいよ。俺ももう少し居たいし」
付き合いの長い男がベッドの中ではこんな声を出す。笑う時とも憤る時とも違う、声音と吐息を折衷したような頼りない囁き。耳朶を打つ感触が気持ち悪いほど心地よく、私は耳を塞ぐように寝返りを打つ。もっと普段のように大きな声で、粗野で品のない声で喋ってほしい。私の知らなかった声で、私の本能に囁きかけるのはやめてほしい。身が持たないからだ。
「ちょっと痩せた?」
「うそ」
「触った感じそんな気がした」
「今日、食べるの早かったから、胃が膨らんでないだけよ」
「そんなもん?」
鎖骨の下を武骨な指が行き来する。子供をあやす、おしめを変える、よき父の手が薄汚れた女を慈しむように撫で摩るから、思わず笑ってしまった。擽ったかったのではない。ただ彼は面白がってもっと触れてきた。私は暫く笑った振りをしなければならなかった。
「本当に、綺麗な体」
「ありがとう」
「どうやってるの? 何か特別なことしてるの」
「ううん。真っ当に生きてるだけよ」
「真っ当にねえ。こういうことしてても、真っ当なのかな」
否定してほしそうに問いかけるから、鼻で笑って見せる。そしていつの間にか肋骨を押し込むように愛撫していた手を取り、半ば強引に指を絡めた。それ以上は触れるなと、言外に滲ませながら。誰と比較して美しいと言ったのかは、言わなくてもわかる。だから私も真意は言葉にしない。正当性の有無も話題にはしない。
「あなたの体はちっとも綺麗じゃないね」
「酷いな」
「働いてる人の体。守るものがある人の体。傷ついても良い身体。褒めてるのよ」
「そうだなあ。痛いのは嫌だけど、いつの間にかそうなるもんだろ。自分の意思とは関係なく守るもんが増える。男に生まれついた宿命ってやつだ」
どこか誇らしげにそう言って見せる彼は、あの痩せぎすだった背中に僅かに乗った肉を寄せるように揉んだ。私が恋をしたあの日の頼りない背中はもう何処にもない。誰の背でもない。私の脳裏にだけ、焼き付いている。薄暗い保健室の灯りと、消毒液の匂いと、恥じらうように体操着を脱いだ彼の声音が一緒に回想されて、ああ恋しいな、と一瞬だけ思った。
善く在りたかった。少なくとも正しく生き、責められず真っ当に、誰にも迷惑をかけず日々を営みたいと思っていた。だから彼が人のものにならんとしていたとき、格好をつけて善悪を秤にかけ、自分の心に嘘をついた。悪い方にばかり傾く秤が、その時を境に私の心に棲みついている。
「じゃあ、私は奪う生き物?」
「俺の大事なものを奪うのかあ。それも望むなら仕方ないか」
「ふふ。信頼してるのね。私のこと」
「してるよ。きっとお前はそういうことしないって信じてる」
「当然じゃない。好きだもの」
朗らかに笑って見せると彼が安堵の表情を浮かべる。気づいていないだろうけど、上を向いたときにだけ見える顎の裏側、うっすらと生えてきた髭に紛れるようにしてキスマークがついている。唇一つあれば鬱血させることなど容易い。奥さんが噛みついて、吸い付いて、引っ掻いた使い古しの体に、便乗するように私も傷を残した。これだけ愛された痕跡を残していれば、もしかしたら自分の付けた傷と私の付けた傷の見分けもつかないかもしれない。それでなくとも間抜けな女だ。こんな間抜けな男を媒介に牽制を仕掛けたところで痛くも痒くもない。そんな女だから、こんな間抜けな男に浮気をされる。お似合いだ。お前らはそうやって、手を取り合って騙し合っていればいい。
「妻より好きって言ってくれるお前が好きだよ。なんで昔はこうならなかったんだろうな」
「今、こうなるためじゃない?」
少し柔らかい胸元に口づけてそう言うと、彼は嬉しそうに私を掻き抱いた。抱き合う感触は、私が恋い焦がれたそれではない。同じ声で、同じ中身で、それでもほど遠い、あの日の彼。私は気づいている。彼があの頃のままであれば、きっと、一生こうなることはなかったと。
「今が幸せだからいいよな」
「……うん」
目を閉じるとそこにはあの日の彼がいる。恋い焦がれた痩せぎすの背中がある。あの背中が、もし手に入るなら、他には何も要らないのに。平行な蚯蚓腫れの走る背を、そっと掻き抱きながら心の中で呟いた。
END