神代凌牙の死亡歴更新
@fu_re_re_ra
昼下がりの晴天で耳をつんざいたのは、鼓膜が破れるようなブレーキ音だった。
居眠り運転、だったそうだ。
何の変哲も無い日曜の真昼だった。Ⅳと珍しく休みが合って、埠頭でデュエルをした帰り道。
ほんの少し先の公園のアイス屋の看板を目指して、交差点に差し掛かった、一瞬。
この交差点は、と。脳裏に浮かんだ光景に、少し足を引き摺られて立ち止まった、刹那。
「凌牙?」
交差点の途中で、Ⅳが振り返る。
横断歩道のこちら側で止まった事に、意味なんてなかった。
悲鳴。
往来のド真ん中に突っ込んで来るトラックと
一瞬遅れて振り返った Ⅳのやつの間抜け面が
スローモーションみたいに見えた時
思わず 身体が動いちまって
突き飛ばした手のひらの向こうで
あいつが目を見開いて
何かを必死で叫ぶのを
馬鹿みてえにゆっくり流れる一瞬の中で
聞いていた
「凌牙ーーッ!!」
身体が一瞬、気が飛びそうに熱くなって
後はもう
何も見えない暗闇の中
【the 10days fantom】10日間の亡霊
(幽霊になった凌牙の話)
目覚めはブラウン管のスイッチを入れるように唐突だった。
ブツン、と何かの配線が切れたような音がして、唐突に目が覚めた。
そして目を開けたら。
何故か。
見知らぬ部屋でⅣのヤツが
目の前で、逆さまに天井に座り込んで、腰を抜かしていた。
「……は?」
どこだココ。
つか、この状況は何だ。
凌牙は頭が真っ白になって、お見合いよろしく逆さまのⅣと数秒見つめ合うという間抜けな状況になった。
我を取り戻したらしいⅣが口をパクパクさせ、床に座り込んだまま凌牙を指差した。
Ⅳの指先が、凌牙を指して逆さまに滑った。
凌牙は、あれ、と眩暈を感じた。視界がおかしい。
「おいⅣ、ここ、どこだ」
「りょ、凌牙?」
「あん?」
「か、神代凌牙?」
「は?それ以外のなんだってんだ、つか、ここどこ、」
戦慄いたⅣの青い顔に、また、眩暈。
違う、おかしい。調度品が、全部逆さに天井に張り付いている。
椅子も、クローゼットも、テーブルも、紅茶のカップまで。
「りょ…」
それ以上の思考はかき消された。
何故か凄まじい勢いで立ち上がり、天井を逆さに突進してくるⅣによって。
「は?」
「凌牙ァァ!」
感極まったⅣが抱き着かんばかりに突進してきて、凌牙はゾワッと総毛立った。何コレキモい。
凌牙が硬直した一瞬に、Ⅳは突撃してきて、
そして何故か
凌牙をすり抜けて、後ろの壁に激突した。
「…は?」
避ける間も無かった一瞬
走ってきたⅣを避けようとして、反射的に突き出した腕は。
するり、と
Ⅳの金の裾を、通過した。
何の感触も、残さぬまま。
壁に激突して座り込んだⅣに、
凌牙はやっと違和感の正体に気付いた。
重力の向きが、解らない。
視界が逆さだ。
天井に立っているように見えていたⅣは、床にただ立っているだけ。
調度品も、何もかも、凌牙が逆さなのだ。
ぐらん、と、ひどい眩暈が襲った。
まるでプールの中で平衡感覚を失ったように、体がぐるんと回転する。逆さの視界が、戻って、判った。浮いている。
「トーマス兄さま!?大きな音がしましたが、どうか、」
「III?」
凌牙の問い掛けは無視された。
部屋の扉を押し開けてきたピンク頭を見て、凌牙は、ああ、ここはヤツの部屋なのか、とようやく理解が追い付いた。
見渡せば、品ある調度品も机の上の紅茶も、サイドテーブルの上に広げられたデッキも部屋の隅に置かれたビスクドールも、どれもこれも確かにⅣが好んでいそうな物だった。知らなかった、今まで一度も足を踏み入れたことは無かったから。
十字傷の当の本人は、顔を真っ青にして座り込んで、ヒュ、と息を吸い込み損ねていた。
「ミハエル…っ凌牙が」
真昼に幽霊にでも遭遇したような顔で凌牙を指差した。途端、IIIの顔が訝しげな物からさぁっと青くなる。
「み、え、ねぇのか? ここに、確かに」
Ⅳの顔からみるみる血の気が引いていく。見かねた凌牙の「おい、III」という呟きはやはり無視され、IIIの視線は凌牙を素通りして悲鳴を上げた。
「兄さまがおかしくなった!!」
とうさまぁ!クリスにいさまぁ!と建物中に響き渡る素っ頓狂な大声で叫んだIIIに、凌牙は反射的に両耳を抑えた。突如家族にSOSを出したIIIに、遠くからガタガタ、と騒めく音がする。
「どうした!?」
遠くから野太い声が聞こえた。Vの声だとすぐに判った。一気に喧騒に包まれた屋敷の中で、凌牙はただ唖然としていた。
IIIが、Ⅳの肩をがしりと掴んで揺さぶった。
「トーマス兄さまお気を確かに‼︎ お気持ちは判ります、でも兄さまがおかしくなっても凌牙は浮ばれません!」
「いや浮かばれないっつか、むしろ浮いてんだけど」
「トーマス兄様まで凌牙の後を追ったら僕は…!」
「いや俺ここにいるけど」
「ミハエル…いや、おかしいのはオレなのか? 都合の良い夢を見てんのか…?」
「だから!!俺ここにいるんだけど!!」
凌牙の叫びは華麗に無視された。
部屋に文字通り飛び込んで来たVが「何があった!?」と叫んで最早カオスであったし、凌牙の耳は既に限界だった。
いくら叫んでも全く意に介さないV達に、凌牙は耳を押さえながら焦れて叫んだ。
「だぁ!話が進まねえ!Ⅳこいつら追い返せよ!」
座り込んだⅣが、電撃に打たれたように震えた。
揺さぶられるままだったⅣはがばりと凌牙を見て、紙のように白くなった顔で、らしくもなく凌牙の顔色を伺いながら慌てて弟や兄を部屋の外へ押し出した。
「トーマス!?」
「トーマスにいさま!?」
「わり、ちょっと、ちょっとだけ待ってくれ!頼むから…!」
無理やり兄弟達の背中を押して扉を閉めて鍵を掛けたⅣは、ドン、ドンという扉を叩く音を背に、はぁ、はぁと荒い息で、縋るように凌牙を見た。
それは、まるで目を離せば凌牙が何処かへ行ってしまうとでも言いたげな必死な様相で、凌牙は訝しんだ。Ⅳは、よく見ればこけた頬に真っ黒な隈を携えていた。
「お前、何でそんなに痩せてんだ」
悲愴な顔で表情を引き攣らせたⅣが、喉で叫んだ。
「お前が…!!」
悲鳴じみたⅣの声に、凌牙の瞼の裏で光景が弾けた。
この悲鳴を、最近どこかで聞いた。
どこか、どこで
耳に唐突に音が蘇った。
布を裂く悲鳴、ブレーキ音
体に走る激痛、灼熱、そして、Ⅳの絶叫
幻聴を振り払って周囲を見渡して、気付いた。
壁のカレンダーが2ヶ月も先を指してる。
Ⅳが、今にも倒れそうな血の気の引いた白い顔で、こちらを見ていた。
(そうか)
凌牙は呟いて、自分の手のひらを掲げた。
手の向こうに薄っすら透けたⅣの顔を見て、ようやく悟った。
「Ⅳ、今日、事故から何日だ」
問いかけた凌牙に、Ⅳがひゅう、と引き攣れた顔で、悲愴に、喉がつっかえたようにたどたどしく日付を告げた。凌牙の最後の記憶からカレンダーは二つ進んでいた。
その日付に、凌牙は、ああ、とⅣの表情の意味を知った。
「なるほどな」
俺はまた、素直に死にそびれたか
今日は、凌牙が事故に遭った日から49日だ。
「そうか。俺、死んだのか」
「死んでねえ!!」
Ⅳが猛烈な勢いで顔を上げて叫んだ。
あまりに悲痛な声だった。
「死んで、ねえよ…!!」
「ここに、ここにいるだろ、お前! 死ぬなんて言うな、頼む、頼むから…!」
「Ⅳ、お前」
血反吐を吐くような声で床に縋ったⅣに、凌牙は頭を殴られた気がした。
絶句した。
知らない、知らない、こんなⅣは。
こいつはいつも、もっとムカつくくらい強かだったはずだ。
こんな、床に縋り付いて泣くような、男ではなかった。それなのに。
「どいて」
ドーン
轟音。
扉は木っ端微塵だった。
拳法の構えのように掌を突き出したまま、トロンが破片の向こうでにこやかに笑っていた。仮面の向こうの視線が、そら恐ろしいほどにまるで笑っていなかった。
「どちら様? うちの息子を惑わせるのは」
ふおん、とトロンの手の中で、紋章が明滅した。明確に何かを排除する力だ。
背後に立つVが、トロンと共に強烈な敵意を飛ばしていた。
「『何か』居るね?」
Vが回り込むようにⅣの近くに寄って、俊敏にⅣを背に庇って遠ざけた。
こいつらに向けられるギラギラした敵意の視線を、かえって酷く懐かしいと思った。凌牙は嘆息した。
「驚いたな。何となくあんたは、何でも見えてるような気がしてた。お前にも見えねえのか、俺は」
トロンは応えない。厳しい目で構えた紋章を消さない。
「クリス」
「分かりません」
「父さま、本当にそこに居るんですか? トーマス兄様の言う通り、凌牙が……」
「油断するんじゃない。まだ、僕は信じてない」
苛烈な視線だ。トロンの敵意が、ビリビリと肌を焼いていく。それを、心地いいと思った。いつも人を食った様にのらりくらりとしていたのに、いざとなればこんなツラも出来るのか。
息子を庇ってそんなツラが出来るなら、最初から、そこにへたり込んでいる息子に、もっと見せてやれば良かっただろうにと、場違いなことを思った。
「トーマス、君に見えているものを言いなさい」
硬く鋭く飛んだ声は、命令だった。Ⅳが兄の背後に押しやられながら、びくりと肩を跳ねさせて「ぁ…」と強張った声を零した。
「りょ、凌牙が、いる。いつもの、服だ。どこも怪我してねえ、浮いてて…足も、ある」
「オイⅣ、俺の声聞こえてんのは、てめえだけか」
「あ、ああ、りょう…」
「返事をするんじゃない!トーマス!」
叱責が飛んだ。Ⅳは雷を落とされたように硬直して打ち震えた。
「何しに来たの。もしたとえ本物だとしても────うちの子連れて往くなら、消すから」
高次の存在に干渉できる力だ。
一度はアストラルすら消してみせた紋章の力は、いとも簡単に凌牙を塵一つ残さず滅ぼすだろう。バリアンだった時ならいざ知らず、こんな心もとない姿では、きっと一瞬だ。
アストラルに浮き方を習っとくべきだったかもな。
凌牙の脳裏に浮かんだのは、そんな他愛無い感想だった。
凌牙は、自分を貫く敵意を、自分でも驚くほど穏やかに、受け止めていた。
冷静になれば、自分の異常さが解る。
両手を見ればトロンの視線がくっきりと手の向こうに透けているし、浮かんでいる自分の足元には影が無い。窓にも映らない。そこには、へたり込んだⅣの背中が独りで映っているだけだ。
少し気を失って、目を醒ましたような感覚だったのに、世界は様変わりしていた。
どこかに引っ張られているような気がする。
死神の迎えだろうか。身を委ねたら、どこへ逝くのだろう。バリアン世界も、既に亡い今。
(……もう、ここは)
凌牙の生きていくべき世界ではないのだろう。
ほんのわずかな時間、目を固く瞑って、脳裏に浮かんだ様々なことに覚悟を決めた。
幸い、というべきだろうか、死ぬのは初めてじゃない。
もう戻れないのだと、覚悟を決めるのは。
拍子抜けするほど簡単だった。
「Ⅳ」
ビクリ、とⅣの肩が跳ねた。
出来るだけ慰めるような調子で、声を出したつもりだった。
「最期に璃緒の顔が見たい」
絶望したような顔に、困った苦笑を返した。
「なんでテメェのとこに化けて出たのか判らねえが、まぁ、成るようになったのかもな。まぁいい、それより璃緒だ。いつまでいられんのか判らねえが、多分そう永くねえ。感覚的にわかる。遠目で良いんだ、いまいち動き方が判らねえ、案内してくれ。あいつはいま家か? 俺が居なくても、ちゃんとあいつはやっていけてるのか」
青ざめていくⅣの顔を見かねたのだろうか、トロンが眦を厳しくして、手の中に力を込めた。
トロンの手にエネルギーが収束する。
額に鋭く浮かび上がる紋章に、Ⅳが蒼白になって「待ってくれ、父さん!」と叫んだ。
時間か、と凌牙は思った。
一目見れれば僥倖だったが、まぁ、仕方がない。
「遺言を。あいつに」
ひゅっ、と、息を呑んだ音が、聞こえた。
「『俺をちゃんと忘れて、幸せになれ』と」
悲鳴が部屋を裂いた。
立ち上がりかけたⅣの腕を、Vががっしりと抑え込んで、Ⅳが動けずにもがいた。
「やめてくれ!」
「おやめください!」
トロンの前に、飛び出したのはⅢだった。
生身で力の砲弾の前に立った華奢な体に、トロンが慌てて紋章を握り潰したのが分かった。
「どきなさい、ミハエル!」
「嫌です!」
両手を広げて、嫌々と首を振るⅢを前に、慌てて止めた紋章の光が薄らいでいく。
ガバッとIIIが猛然とこちらを振り返って、縋り付くように叫んだ。
「君があんなことになってから、トーマス兄様、何も食べてくれないんだ!」
胸を突くような、甲高い悲鳴じみた叫びだった。翡翠色の瞳に絶句するような哀しみを乗せて、Ⅲは叫んだ。
「遊馬がずっと哀しんでる! 璃緒さんはどんどんやつれて、大丈夫って笑うんだ! 誰も何もしてあげられない、君じゃなきゃ!」
「……っ」
慟哭を叫ぶIIIに、凌牙は何も言えないでいた。
「ねえ、そこにいるんでしょう? いてよ、ねえ、凌牙、帰ってきてよ! ふざけるなよ、みんなをこんなに哀しませて、一人で勝手に居なくなったりしないで!」
「……Ⅲ」
凌牙は、眉を落とした。
三度目の奇跡は起こらない。もう、死者は還るべきだろう。それを諭す声を、凌牙は持たないけれど。
「……そういうの、やめろよ。……聞こえねえのか、Ⅲ」
「返事をしてよ、ねえ! 凌牙なんでしょう、そうだと言ってよ! お願いだよ!」
わぁっ、と泣き出したIIIに、崩れ落ちた肩をトロンが抱き寄せ寄り添った。
トロンの凌牙を通り抜ける視線は厳しい物だが、泣き伏すIIIの肩を抱く手を緩めることはせず、再び紋章の力を取り出す事はしなかった。
「クリス、今すぐカイトを呼んで」
Vがその意味を察して、ぴくり、と僅かに困惑を見せた。
Vの背後に抑え込まれていたⅣが、活路を見出したようにパッと表情を明るくして言いすがった。
「父さ、」
「勘違いしないで」
ピシャリと言い捨てられた語気の荒さに、Ⅳが再び鞭で打たれたように強直する。向けられる視線はⅣを一瞥せず、凌牙の方を苛烈に刺し貫いて外れなかった。
「信じてないからね、君が凌牙だって」
凌牙はひっそりと眉を落として、苦く嗤った。思わず口をついて出た。
「俺が『神代凌牙』だって、証明できるやつなんて最初から居ねえよ」
トロンの耳には届かなかったらしく、眉一つ動かさないまま言葉は空気になった。
ひとり、それを聴いたⅣだけが、何とも言えない表情でこちらを見ていた。
◇ ◇ ◇
「シャーク、」
遊馬が、見るなり涙声で声を詰まらせて、くしゃりと表情を崩した。
ボロボロと止めどなく泣き出した遊馬に、触れられないのが分かっていて、手を伸ばす。するりとすり抜けた手が、もどかしかった。
「遊馬…」
「シャーク、シャーク…!ばっきゃろー…!」
拭えない涙を前に、凌牙は困ったように眉を落とすばかりだった。
いま凌牙は、アークライト邸の広い一室で、フォトンチェンジまでしたカイトの頭頂部を上から眺めている。
瞬く間に凌牙はカイトの前に引きずり出され、カイトが様々な機械を取り出すのを棒立ちで見ている羽目になった。
駆け付けたカイトと入れ替わりに、Ⅳが自室から強制退室させられると、凌牙もそのままⅣに引きずられるように隣室に移動することになった。
どうやら今の凌牙は、Ⅳから一定の距離を取ることが出来ないようだった。
延々と続くかに思われた機械によるサーチを終えたらしいカイトが、重々しく口を開いた。
「何も感知できん」
フォトンチェンジを終えたカイトが睨んだ空間には、何一つ異常の無いただの空白が浮いていただけだったようだ。
結果を告げられ厳しい目を絶やさないVに、いよいよⅣが頭の中身を疑われ始めた頃に、カイトが「確かめたいことがある」と言って遊馬を名指しした。
遊馬はカイトが連れて来た。
何も知らずに呼び出された遊馬が、部屋を開けるなり驚愕して「シャーク⁉︎」と叫ばなければ、いよいよⅣは病院送りだっただろう。
「シャーク、なんで……!」
「そうか、お前には見えるのか、遊馬」
遊馬が、戸惑ったように何度も凌牙とカイトの間を行ったり来たり見上げた。
遊馬の視線は、トロンのように凌牙を通り抜けることはなく、真っ直ぐに凌牙の視線を射抜いている。
遊馬にはハッキリ凌牙が見えているらしかった。ますますアストラルじみている。
今のところ、凌牙を視認しているのは、遊馬と、Ⅳと、トロンの三人だけだった。
「は、はは」
緊張の糸が切れたように、Ⅳが部屋の隅でずるずると壁にもたれて座り込んだ。
顔を片手で覆って、口元だけで歪んだ笑みを浮かべる。
「いよいよアタマがイカれたかと…」
「同意見だったがな」
カイトが斬って捨てた。
「オレには分からん。異世界の力なら感知できるはずだ。これで見えないということは…バリアンとは違う、人知を超えた力によるものだと、結論付けざるを得ない」
「バリアンの力じゃなくて、幽霊ってことか?」
遊馬が眉を落としてカイトにそう言って、困惑した表情で凌牙を見上げた。
「遊馬、ほんとにそこに凌牙がいるの?」
IIIが、赤く掠れた目元で遊馬にそう尋ねた。
遊馬はIIIの様子を気遣いながらも、「う、うん」としっかと首を縦に振った。
「アストラルみたいに、浮いてる」
凌牙は、現状を捉え損ねて、遊馬に問い掛けた。
「なあ、遊馬、俺は……いや、それより璃緒は」
「? シャーク?」
遊馬が、ワンテンポ遅れて「え?」と首を傾げた。
意味もなく自分の耳の横を叩いたかと思うと、遊馬が目を見開いた。
「シャーク、声出せねえのか?」
「何だって?」
今度は凌牙が、瞠目する番だった。
「シャーク、もしかして」
「遊馬、おい、まさか」
驚き、困惑した凌牙に、遊馬も同時に、同じ結論に達したらしかった。
「ごめんシャーク」
遊馬が表情を改めて、真剣に言い募った。
「おれ、シャークが何言ってんのか、全然聴こえないんだ」
凌牙は顔をしかめた。
Ⅲが、遊馬に寄り添うように近付いて、尋ねた。
「遊馬には、どんな感じに見えてるの?」
「うまく言えねえけど、アストラルみたいな感じ。ちょっと透けてる」
遊馬はそう言って、Ⅳを振り返った。
「シャーク、なんか口パクパクさせてる。Ⅳには、聞こえてんだよな?」
「……ああ」
Ⅳは、言葉少なに答えた。酷く低い声だった。
部屋の隅で力尽きたように片膝を抱えて座り込んで、けれど視線だけギラギラと片時も目を離さず凌牙を見ていた。凌牙が背を向けているのに、チリチリと背中が焼けるような苛烈さだった。まるで、少し目を離せば消えてしまうとでも言いたげな必死さで、それが凌牙はひどく居心地悪かった。遊馬が訊ねる。
「なあ、Ⅳ。シャークはなんて言ってるんだ?」
「……」
Ⅳは、しばし逡巡するような表情を見せた。
「……妹に、会わせろと」
遊馬もⅢも、それを聞いて困ったようにお互いを見合わせた。
妙なリアクションだった。
「それは……どうしようね」
「璃緒さんに、伝えるべきだと思う?」
「オレは、伏せておくべきだと思う」
間髪入れずに言ったⅣに、凌牙は片眉を跳ね上げた。
「おい、Ⅳてめえなに言って」
「だってよ」
酷くくぐもった、病んだ声だった。
「未練が無くなったら、消えちまうかもしれねえじゃねえか」
今にも泣き出しそうな悲痛な声だった。
遊馬とⅢが、怯んだように続く言葉を失ったのが分かった。
カイトが顔をしかめた。
「このまま様子見、というわけにもいかんだろう。状況が動く可能性もある」
カイトが、組んだ腕を指先でトントンと叩きながら、場を代表するように言った。
「アストラルのときとは状況が違う。取り憑かれることが、時間とともに肉体や精神に何も影響を与えないとは言い切れん」
Ⅲの表情がさっと強張った。
有無を言わさぬ重圧のある声で、カイトは言った。
「打てる手は打つべきだろう」
明確に言い切ったカイトが、けれども、次の瞬間には、眉間を揉んで疲れたように呟いた。
「とはいえ、どう説明すべきか……」
◇ ◇ ◇
「なんの、冗談ですの……?」
ひどく硬い声だった。
バリアンの異変を幾度も察知した璃緒ならば、何か掴めるかもしれないというアテは外れた。
璃緒の視線は、凌牙を捉えずに素通りした。
驚いた凌牙は、璃緒を見下ろしながら、こんなときになってようやく気付いた。
「お前の力、消え掛かってるのか」
トロンの時には感じられたバリアンの力が、璃緒から欠片も感じられない。
あの戦いから数ヶ月。ヌメロンコードによって人として再び生を受けた自分たち。
時間とともに、自分たちバリアンの力は薄れて、ただの人と変わりなくなっているようだった。
こんな時でなければ、手放しで祝福してやれた。
ただ神代璃緒として、平凡に生きていける生を。
神代の家のドアを開けた璃緒は、明らかにやつれていた。頬はこけて、どれだけ寝ていないのか目は落ちくぼんでいて、髪は痛んでボロボロだ。
気丈に振る舞っているが、正直、見ていられなかった。
凌牙にとって誤算だったのは、璃緒がひどく攻撃的な表情をしていたことだった。
璃緒の眼は、限界まで追い詰められたものが見せる、特有の切羽詰まった敵意を持っていた。
「どういうつもりですの……」
地を這うような声音だった。
拙く懸命に説明しようとする遊馬を半ば突き飛ばすようにして
璃緒が急に、黙り込んだままのⅣの襟首を掴み上げたので、凌牙はギョッとした。
「お、おい、璃緒……? ッ、よせ!」
「璃緒さん!」
パンッと強く頬が張られて、Ⅳはされるまま黙り込んだ。
「ふざけないで!!」
璃緒がⅣを平手打ちした。
一堂、しんと静まり返る。
泣き出す璃緒
「帰って…」
すすり泣きが、誰の耳にもはっきり聞こえた。
「帰ってよ!!貴方の顔なんて見たくない!!」
腫れた頬を庇いもせず、Ⅳは諦観を滲ませた目で、ただ断罪を待っていた。
葬式のように重くなった空気に、そこに居合わせた誰もが黙って唇を引き結んだ。今の璃緒とⅣを引き合わせるということが、こうなってもおかしくないと、誰もが薄々思っていた証拠だった。
「バカにしないで…!そんなこと、信じると思いますの!?」
凌牙ひとりだけがあぜんとして、取り残されたようにやっと気付いて、蒼白になった。
会いたいなどと無責任に言うのでは無かった。今の璃緒とⅣにとって、引き合わせるのがどれほど酷か。
誰一人驚いた様子がなく唇を噛み締めていることそれ自体が、それほどまでに璃緒が追い詰められていると、凌牙以外の全員が知っていた証拠だった。
「……ッ!」
凌牙は必死になって頭を回した。
Ⅳを攻撃的に睨む璃緒の眼は、説明された凌牙の件をⅣの妄言だと信じ切っている証だった。
三度の転生で共に在るほどだ、璃緒と凌牙の縁は深い。それを赤の他人には見えて自分には見えない幽霊などと言われれば攻撃的にもなるだろう。
せめてⅣの妄想でなく凌牙が真にここにいると信じさせなければ、今この瞬間、Ⅳと璃緒の関係性が決定的に壊れるのは明らかだった。
そして、黙ったまま弁明しようとしないⅣは、それを罪人のように受け入れようとしていることも明白だった。
「おいⅣ!」
〝 それ〟を聞いて、Ⅳは困惑したようにうろりと凌牙を見上げた。
「凌牙……?」
「いいから!いま言った通りに、言え!」
「バカにしないで…!そんな話、信じると思って…!」
「ブーゲンビリアの、花畑」
途端に、璃緒は雷に打たれたように打ち震えた。
「って、言ってる。意味は、分からねえが…」
Ⅳは、ただ困惑と謝意を視線に滲ませて、控えめに言い添えた。
璃緒は、瞠目して固まっていた。
璃緒と凌牙の間でしか分からない言葉のはずだった。
璃緒との間に必死に割って入った遊馬も、Ⅳを庇おうとしたⅢも、成り行きを見守っていたカイトも、硬直して目を限界まで見開いた璃緒が、わななくように唇を震わせたのを、緊張した面持ちで、黙って見ていた。
「どうして、それを……凌牙が、あの約束を人に話すはずないのに、けど、なら、どうして」
混乱した様子の璃緒をみて、Ⅳは
璃緒を痛ましげに見つめたかと思うと、静かに視線を斜めにやった。
璃緒は、それにつられて、視線を斜めにやった。
そこにいた凌牙と、つかの間、目が合った。
「そこに、いるの? ほんとうに?」
ふらり、と璃緒が一歩前に出た。
凌牙は、受け止めてやろうとして、腕を広げたが、それをすり抜けて、璃緒は泣き崩れた。
「どうして見えないの…!」