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終章を終えて振り返る監獄塔、巌窟王エドモン・ダンテスという物語の意味

全体公開 100 16 16407文字
2016-12-26 21:41:59

追記/加筆修正しました

Posted by @inugilius

終章を終えて振り返る監獄塔、巌窟王エドモン・ダンテスという物語の意味

※7章のキングゥのこととか完全に失念してたので後で一部書き直しますが、言いたかった要旨は大きく変わりません。
※ゲーティアがマシュ、巌窟王エドモン・ダンテス、キングゥに目をかけたのは「被創造物」だからでしょう。使い潰される。特にマシュと巌窟王エドモン・ダンテスは「人間」に使い潰される存在であるので。
こうなると別に巌窟王エドモン・ダンテスの実在人物要素はあんまり関係なくなってくる気もしますが。
その辺練り直して書き直します。

※上記を踏まえて書き直しました!!!!!!!!!!!!!!!!

※誤字や文のねじれの修正。文体の統一。ちょっと加筆。ちょっとおまけ。



終章が終わって、自分の中で巌窟王エドモン・ダンテスについてのことがすとんと腑に落ちたので書きます。
一応自分なりの根拠はありますが捏造や妄想で補完してる部分や飛躍も多いことをあらかじめお詫びします。

この文章はあくまで解釈です。
「私はこう捉えました」以上でも以下でもないため、考察ではありません。
根拠を提示するのは、自分の中の思考プロセスを明確化して、誰でも理解して納得できるような形に近づける為です。
「どうしてこう感じたのか?」という理由を自分が納得できるように記したものです。
真実に近づく為ではなく、あくまで、始めに「感じたこと」ありきの文章になります。








【前提1:モデルの人物について】
前提として、巌窟王エドモン・ダンテスには実在の人間の要素が含まれていると思っています。
ただし、本人そのものでもありません。
あくまで記憶や経験はエドモン・ダンテスであると思いますし、能力や性質としてはアヴェンジャーというクラスとモンテ・クリスト伯及び翻案作品などから構成されています。
あくまで人格や感性の「芯」「土台」が実在の人間で、存在全体からいった比率としては1割がいいところでしょう。
それでも確かに含まれているのが大事です。


根拠を挙げていきます。

そもそもリアルの世界でもモンテ・クリスト伯にはモデルが存在します。
「復讐とダイヤモンド」という事件の記録です。
ピエール・フランソワ・ピコーという靴屋の男が金持ちの女と結婚することを友人に妬まれ、ありもしない罪をでっち上げられて逮捕され投獄されました。獄中で世話をした神父から財宝を遺贈され、釈放されてから姿と名前を偽って自分を陥れた友人とその家族を死に追い遣ります。しかし、最後の一人に逆に捕まり、財宝の在処を吐けと監禁拷問され、そのまま殺されました。
詳しくは前にまとめを作ったのでどうぞ。

モンテ・クリスト伯のモデル「復讐とダイヤモンド」 - Togetterまとめ https://togetter.com/li/973507

英語版wikipediaも参考に。
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Pierre_Picaud

後で詳しく書きますが、型月におけるモデルはピエール・フランソワ・ピコーそのものではないと思います。ただ「復讐に邁進し、愛も救いもなく死んだ」という点はポイントになると思います。「バッドエンド」というところがポイントです。

次に物語や伝承が主体となった英霊にも関わらず人属性であること。
一応、ナーサリーを例にして別の理由から人属性であることを説明することはできますが、一つの考え方として「実在の人間の要素が含まれる」と主張する根拠にもなり得るでしょう。

巌窟王エドモン・ダンテスが「人属性」である理由の仮説~ナーサリー・ライムを添えて~ - Togetterまとめ
https://togetter.com/li/997011


監獄塔の台詞においても
巌窟王エドモン・ダンテスが口にした
「男の人生は物語となった。或いは物語こそが男の人生であったのか」
「かつて男は復讐の神を叫んだが、哀れ、ソレに成り果てたのだ」
……だろうな。性質の悪い小説家めの所行で、遍く世に広まった話ではある」
という純粋な登場人物であるエドモン・ダンテスにしては疑問のある言い回しや、
恩讐知る亡霊の群れの
「アヴェンジャー……アワレ な、ワタシ、ヨ!」
という呼びかけもまた彼が無名の死霊と同類であることを示唆しているように思えます。


また、マテリアルにおける「出典:『モンテ・クリスト伯』?」という純粋な物語出身鯖ではないような表記、「ファリア神父の実在が確認されており……」という史実と物語を比較し繋げ絡めるようなフレーズもあります。


また、Fakeにおいてもデュマが「(自分の父親以外にも)モンテ・クリストにはモデルが存在する」という話を仄めかしています。


これらの根拠から、「巌窟王エドモン・ダンテスには実在の人間の要素が含まれる」ということを前提にして以降の話を進めます。





【前提2:モンテ・クリスト・ミトロジー】※追加
巌窟王エドモン・ダンテスの宝具。
『巌窟王』モンテ・クリスト・ミトロジー。
強靭な肉体と魔力による攻撃。
常時発動型の宝具の宝具であり、自らのステータスやクラスを隠蔽、偽の情報を見せることが可能です。

ミトロジーとは「mythologie」
英語では「mythology(ミソロジー)」
意味は「神話(体系)」「伝承学」「神話学」

監獄塔で、エドモン・ダンテスという男の話をした後に、巌窟王エドモン・ダンテスは言いました。
「物語は至上の喝采を浴び、無数の想いを受け、復讐の神話となった」

私は『巌窟王(モンテ・クリスト・ミトロジー)』を
「『モンテ・クリスト伯』を中心とした復讐譚の体系を表す概念」
だと解釈します。

モンテ・クリスト伯には沢山の翻案作品があります。

FGOにおいても、

巌窟王という名前など
 →黒岩涙香の「巌窟王」
宝具『虎よ、煌々と燃え盛れ』
 →「虎よ!虎よ!」
監獄塔第一の扉「黒髪鬼」
また、原作のエドモン・ダンテスは黒髪であるのに対して、巌窟王エドモン・ダンテスが白髪である理由
 →「白髪鬼」
「ウェイター!彼にコーヒーを!」
 →アニメ巌窟王

など、多数の翻案作品・派生作品の要素が盛り込まれています。

上記したように、彼はモンテ・クリスト伯以外の数多の作品の影響を受けている以上、彼は単純にエドモン・ダンテスというキャラクターががサーヴァントとなったという訳ではないでしょう。
そもそも真名が「巌窟王エドモン・ダンテス」でもあります。
恐らく、名に冠された「巌窟王」は「復讐譚の象徴」「復讐鬼の偶像」「復讐の神」を意味するのでしょう。

つまり巌窟王エドモン・ダンテスは、「モンテ・クリスト伯を中心とした復讐譚の総体」です。それもあくまで一面ではありますが。
ナーサリー・ライムが「絵本の総称」であり、「子どものたちの夢からできた英雄」であるのと似たようなものです。





【ゲーティアは何故気まぐれを起こしたのか?】※大幅な加筆修正
ここから先はかなり飛躍した話になります。

監獄塔の第七の扉において
「貴様のただ一度の気まぐれ、ただ一度の姑息な罠は、ここにご破算となった!」
と巌窟王エドモン・ダンテスは言います。

終章においても監獄塔及び巌窟王エドモン・ダンテスのことについては
「統括局(※ゲーティア)め、浅ましい復讐者を利用するとは……!貴様のただ一度の気まぐれが、このような英霊を我が領域に招いたのだ……!」
と称されます。

巌窟王エドモン・ダンテスはオガワハイムを特異点にしていいと譲り受けられたにも関わらず、仕事を断り勝手に魔改造し、そうして無碍にしたにも関わらず、監獄塔は没収されずにそのまま続けて役割を与えられます。
これはかなり寛大な措置と言えるのではないでしょうか。

では何故、巌窟王エドモン・ダンテスに対してこうも気にかけたのか?


シナリオ中においてのゲーティアの気まぐれは4章での介入・終章におけるマシュへの永遠の誘い・監獄塔でしょう。
気まぐれとは言われてはいませんが、自ら特異点に出向いている7章におけるキングゥとのやりとりもここに含めることにします。
4章でも特に気にしているのはマシュであるようので、つまり別個に対応しているのは「マシュ」「巌窟王エドモン・ダンテス」「キングゥ」です。

この三人の共通点は「意図的に創造された存在」です。
特にマシュと巌窟王エドモン・ダンテスは「人間の都合によって生み出された存在」です。

つまりそれは「ソロモンによって創造された」魔神ゲーティアと同類であるとも言えるでしょう。


巌窟王エドモン・ダンテスはある一面において、復讐の神です。

彼は監獄塔で言いました。
「等しく、正当な憤怒こそが最もヒトを惹き付ける。
時に、怒りが導く悲劇さえもヒトは讃えるだろう。
見事な仇討ちだ、とな。
古今東西、老若男女の別なく。
復讐譚を人間(オマエタチ)は好み、愛おしむのだ」
「そう在れかしと誰しもが言うのだ。
憎め、殺せ、敵の悉くを屠り尽くせと期待し続ける!ならばオレはそう在ろう!
人間(オマエタチ)が請い願うままに、世界に復讐する!」

「誰か」は無名の人間でありながら、「復讐の神話」たる「モンテ・クリスト伯」の原典・オリジンであったが故に、復讐の神へと祭り上げられました。

無名の亡霊。
エドモン・ダンテスであることを否定しながら、エドモン・ダンテスの経験しか語ることができないところを見ると、「誰か」が己が何者であったのかというのは覚えていないのでしょう。
あるのは実感だけ。

死者であり英霊であり、実感はあるが記憶はない、「誰か」はそんな曖昧な状態です。
もはや自分自身の復讐を遂げることは叶わないでしょう。

人間であった「誰か」を差し引いたとしても、あまり良い話ではありません。


監獄塔においてジャンヌは言いました。
「世界とヒトを憎悪し続けるようにと定められた哀しくも荒ぶる魂、アヴェンジャーよ」
巌窟王エドモン・ダンテスの怨念は本物ですが、それよりも存在の前提として怨念を抱くものであると規定されているのは間違いないでしょう。

「復讐の神」「永遠の復讐者」として人理に刻まれ、人間の為に復讐を謳い続ける存在。
人間の憎悪と憤怒と怨恨を肯定し賛美するだけの存在。
黒き怨念を抱えた人間の為の存在。
復讐譚に心躍らせる人間の為の存在。
終わりなき世界への復讐を行い続ける存在。

永遠に勝利の味を知ることもできず。
永遠の復讐者である故に、結末へと辿り着くこともなく、無限に苦難の過程を走り続ける。

それはある意味、人類の奴隷、使い潰される存在と言っても良いでしょう。


復讐という不幸の連鎖。永遠に循環し続ける呪いのシステム。人類にとっての毒。
殺し殺され、喪失と死を重ねる行為。
巌窟王エドモン・ダンテスの存在意義は、ゲーティアの否定する「死と断絶の物語」です。

ゲーティアは思ったことでしょう。
「人理焼却が完了すれば、そのような悲劇は完全に消滅する。
そもそも、そのような無為の極みであるものを肯定する必要が何処にある。
故に、おまえはそのような事をしなくてもいい。すべきではない」

だからゲーティアは気まぐれを起こし、巌窟王エドモン・ダンテスに働きかけたのではないでしょうか。
人間の無為に付き合わされ、使い潰される復讐の神に。




余談ですが、面白いと思う所があります。

マシュ、巌窟王エドモン・ダンテス、キングゥに対してのゲーティアの主張はとても噛み砕いて言うと
「そんな押しつけられた辛い使命なんて果たさなくていい」
「それを果たしたところでお前達は幸せになれない」
ということです。

ティアマト神に作られ、人類を滅ぼし新たな世界を築くという共通した使命を抱いたキングゥにさえ、最後に告げたことはといえば
「ただし、彼女が、本当にそんな事を望むのならば、ね」です。
その存在意義を果たしたところで本当に幸せになれるのか?
そう躊躇わせる台詞です。


ゲーティアはソロモンに生み出されはしましたが、しかし、ソロモン王は魔術を一度しか使わなかった為に、ゲーティアがその力を発揮することはありませんでした。

本来のゲーティアは「人理焼却式」ではありません。
「人理補正式」です。
人間の営みをよりよくするために作られたものです。
しかし、その作られた目的を果たすことが一度もできないままでした。

そしてその抑圧された願望が解放されたとき、「人理焼却」という暴挙に出た。
今こそ人類をよりよく、幸福に導こうと。
究極の形で。

つまりゲーティアの行動の根底にあるのは
「自分の存在意義を果たしたい」という願いです。
他の三人の存在意義と生まれた意味を否定していたのに、願っていることは結局は同じことでした。

その矛盾気づかないまま
「どうしてそんな辛い使命を背負って縛られるのか?」
と三人に対して嘆いたのです。

そういう矛盾もなんだか愛おしく思います。




※※旧解釈部分※※

ゲーティアはビーストⅠ「憐憫」です。「人が人を哀れみ失望するという奢り」。
それが全ての根底にあります。
その上で、マシュは「哀れみを覚えながらも失望に至っていなかった存在」だったのでしょう。だからこそ極点に誘われた。

そこから考えて、巌窟王エドモン・ダンテスもまたゲーティアにとって「哀れみを覚えながらも失望に至っていなかった存在」だったのではないか?という風に考え始めました。

「これは既に完成された呪いの循環(システム)だ。魔術の王がオレに押しつけた人間(オマエタチ)の負債だ。他人(りんじん)が居るかぎり恨み、殺し、その犠牲者の憎しみが次の糧を生み出す。つまり永遠だ。無限、無間に生きる地獄だ」
オガワハイムでの台詞ですが、終章で語られるゲーティアが憎む世界のシステムそのものです。
そして巌窟王エドモン・ダンテスは「復讐の化身」。つまりこの永遠に循環する呪いのシステムそのものです。
ゲーティアの思考をしてみれば嫌悪し否定してしかるべきものでしょう。
しかし、ここまで目にかけている以上は何かしら理由があるはずです。


なのでこう考えることにしました。
巌窟王エドモン・ダンテスに含まれる実在の人物は「無辜の罪により収監された囚人」であり、同時に「復讐の罪を犯すことすらできずに死んだ」のではないかと。

ここはもう完全に妄想補完なのですが、
「誰か」は復讐者でありながら「復讐を果たすことなく死んだ」故に、「永遠に復讐の過程の上で固定された存在」「復讐を夢見続ける存在」です。
故に、本来は救われ復讐者を辞した「エドモン・ダンテス」を「永遠の復讐者」として固定する為の要素、「モンテクリスト伯に連なる復讐譚の総体」である「巌窟王」の核となる存在として霊基に取り込まれたのではないかと思ってます。

これはリアルでモンテ・クリスト伯のモデルとなったピコーとは全く異なります。
ピコーは自分で相手を殺しまくった容赦のないアヴェンジャーならぬリヴェンジャーであったので。復讐相手の家族とはいえ殺したり酷い目にあわせまくっているので。

まぁただデュマにモンテ・クリスト伯のアイディアを与えた以上は、脱獄に至ったか脱獄寸前まで至ったか何かしらドラマチックなことがあったのは間違いないでしょうが、その詳細は今は考えても仕方がないと思うので置いておきます。
ただ、リアルにおいてモデルの話はググれば出てくる程度の知名度があるのに、デュマを狙って召喚する為にそこそこ調べたであろうマスターの署長がモデルの存在を知らなかったのもリアルと違う可能性を示唆しているのかなぁと思います。
リアルのモデルである「復讐とダイヤモンド」はフランス警察の公的な記録ですし、今じゃインターネットのアーカイブにも載ってるレベルなので……

別に正当なる憤怒による復讐をしたのでもいいのでしょうが、流石に殺人や罪を犯してたらここまで入れ込まないだろうなぁ……という感じです。
もうこの辺は都合の良いように解釈しました。マテリアルか何かでヒントください。

そんな「無辜の罪で囚われた男」が死後に「世界一有名な復讐者」のモデルにされたというどうしようもない不可抗力の影響で、英霊として「永遠の復讐者」に取り込まれ巻き込まれ縛られて「復讐の神」として奉られているというのは、「憐憫」に値するのではないでしょうか。


※※旧解釈部分終わり※※


余談ですが、憤怒を持たないジャンヌに怒り狂う巌窟王エドモン・ダンテスと、
人間の無為な生に怒り狂うゲーティアは中々似た者同士な感はあります。

正当な復讐の権利があるのに行使しない、
無為であるのに死への恐怖を抱き続ける。

一応、巌窟王エドモン・ダンテスは救済しようとしたジャンヌと天草を認めて敬意を払っているので、ちゃんと相手のことを認めた上で相容れないというスタンスなのですが。

他にも、
巌窟王エドモン・ダンテスは人間を「オマエタチ」と呼び、
ゲーティアや魔神柱も人間を「おまえたち」と呼ぶ辺り、人間との距離感が似通った部分もあるのではないかと思います。

何より、巌窟王エドモン・ダンテスは人間が大好きですし、ゲーティアが人理焼却に至ったのも人類愛の裏返しでした。

ただし、巌窟王エドモン・ダンテスが「人間」の一面と視点を持つのに対して、
ゲーティアは人間ひとりひとりを見ながらもその視点に立つことができなかったのは絶望的な断絶であり、絶対的な違いです。






【オガワハイムについて】※追加
ゲーティアにオガワハイムを特異点化しても良いと言われて断ったのにも関わらず、オガワハイムは撤去されるどころか巌窟王エドモン・ダンテスの手に委ねられたままでした。


巌窟王エドモン・ダンテスはオガワハイムにサーヴァントを集めて捕らえ、普段は見せない「悔恨」「憎悪」「憤怒」などの裏側の面を発露させていきました。
他にも大量の死霊と亡霊を集めてもいました。

オガワハイムでに対する巌窟王エドモン・ダンテスの言及はこのようなものです。
「彼らは生ある時は報われず、無念から死を迎える事も叶わず、
安寧を捨て、“無”を選んだ敗北者。生に見捨てられ、死から置いていかれたもの。
……そう。名前もなく姿もない怪物ども。彼岸にすら行き場のない魂に、安息を。
(※ガイヤの怪物並になった死霊のことを指している)
地獄が彼らを拒否するのなら、新しい地獄を作る。
この塔は怨嗟に満ちねばならん。それが我が信仰にして存在意義」
「これは既に完成された呪いの循環(システム)だ。魔術の王がオレに押しつけた人間(オマエタチ)の負債だ。他人(りんじん)が居るかぎり恨み、殺し、その犠牲者の憎しみが次の糧を生み出す。つまり永遠だ。無限、無間に生きる地獄だ」

まさにこの世に地獄を作る行為です。
しかし、巌窟王エドモン・ダンテスの行為は単純な悪意によるものではありません。
黒き怨念を肯定するからこそ、それを集めただけ。発露させてやっただけ。
闇を抱えたサーヴァントに変質する機会と場所を与えただけ。

巌窟王エドモン・ダンテスは憎悪と憤怒と怨念を祝福します。
どんなに醜かろうと、それがその人間を構成する要素であり、欠かすことも否定することもできないものだからです。
倫理と秩序の為に否定されるものを、否定せずに肯定するからこその行為です。
無為な死を重ねたのではなく、どんな悲惨な死であれ有意義な死であると知るからこそ、死を集めて重ねたのです。

ゲーティアは全く理解できなかったでしょう。
「これだけ怨念と怨嗟を集めるということは、さぞ人間が嫌いだろうに、何故自分の思想を理解しようともしないのか?」
「何故人間に復讐しないのか?」
と。

行い自体は傷つけるだけの行為なのに、人間を否定しない。
巌窟王エドモン・ダンテスが人間大好きであるなど想像もできないでしょう。
それでも、行い自体は人間の害になるものなので、人間と敵対していると判断した。
敵の敵は暫定的味方。

だからこそ、オガワハイムは巌窟王エドモン・ダンテスの手に委ねられたままでした。
そして、監獄塔を与える事にもゲーティアにとって反対する要素はなかったのでしょう。




【監獄塔という救済二次創作】
あくまで監獄塔の趣旨は主人公を殺す狩り場であり罠ですが、「無辜の罪で囚われた男」に「愛と自由と救済」を与えて「復讐の連鎖を断ち切る」ためのものでもあったのではないでしょうか。

モンテ・クリスト伯の結末は、愛によって復讐を止めて未来へ歩み出すもの。
恨み恨まれる呪いの連鎖を断ち切るものです。

ゲーティアは恐らく復讐の化身たる「アヴェンジャー 巌窟王」を「エドモン・ダンテス」に変えるという筋書きを書きました。

冠位指定により覚醒した人間を対応した魔神柱に配役するように、監獄塔でもサーヴァント達と主人公に役割を与えました。

恐らくゲーティアが書いた本来の配役はこうです。
「巌窟王エドモン・ダンテス」=「エドモン・ダンテス」
「ナイチンゲール」=「エデ」
「主人公」=「ファリア神父」

大罪もジャンヌや天草のお陰で本来の配役とズレがあるでしょうが今回は割愛します。

本当は邪魔者である主人公をファリア神父として始末し、巌窟王エドモン・ダンテスが監獄塔を脱出して終わる筈だったのでしょう。
補足するなら、ゲーティアは「死ねば無意味」と断じるのでファリア神父の残したものとか意義は考えずに「ファリア神父は死ぬ」ということしか考慮していないのだとは思います。

マイルームでも再三「俺はエドモンではない」「我が名は巌窟王」と主張するので、巌窟王エドモン・ダンテスの自認が「自分はエドモン・ダンテスではない」であるというのは、彼というサーヴァントの基本仕様であるとは思います。

マテリアルにおいても、
「真名こそエドモン・ダンテスだが、マルセイユの海の男であった『エドモン・ダンテス』と自分は別人であると彼は認識している。
なぜなら『エドモン・ダンテス』はパリに於ける凄絶な復讐劇の果てに悪性を捨てたが……サーヴァントとして現界した自分は『復讐鬼の偶像』で在り続けている。
ならば自分はエドモンではない、と彼は言う。」
と明言されています。

しかし、特に監獄塔において「オレはエドモン・ダンテスではない!」「その名で呼ぶな!」と強く主張するのは、自認との差異だけではなく、監獄塔における配役に対する反抗の表れでもあるのでしょう。

ナイチンゲールを「エデ」ではなく「メルセデス」と名付けたのも、重要ではあるものの「愛と救済」に直結しないキャスティングへのすり替えなのではないでしょうか。








【二人が選んで描いた結末】
監獄塔では七つの大罪を冠したサーヴァントが裁きの間で待ち構えています。
それは単純に主人公を始末する為の戦力でもありますが、
「人間の逃れられぬ醜悪な悪性。罪と汚濁。人間はかくも愚かしく無為である。絶望せよ」
というゲーティアの意図も含まれているでしょう。
否定されるべきものでありながら、決して否定し根絶できない負債であると。
それを抱え続ける人間は間違いであると。
地獄において学ぶべきことなどなく、ただその無為さに溺れて死ねと。

しかし、巌窟王エドモン・ダンテスは言いました。
「死なぬかぎり――
生き残れば、おまえは多くを知るだろう。
多少は歪んではいても、此処はそういう場所だからな」
胸の内に潜む黒い感情と罪にも意義はあるのだと。
それが存在すること、それを学ぶことは決して無駄なことではないのであると。
黒き怨念を肯定する巌窟王エドモン・ダンテスは、地獄の試練に意義を与えました。


そうして監獄塔の七夜目で主人公と巌窟王エドモン・ダンテスは戦いの果てに、主人公は希望を託されて自由になり、巌窟王エドモン・ダンテスは希望を託し無辜の罪人たる主人公を解放しました。

「主人公」=「エドモン・ダンテス」
「巌窟王エドモン・ダンテス」=「ファリア神父」

ゲーティアの描いた筋書きとは全く違う、配役のすり替わった結末です。

運命とシナリオを二人は自らの手でねじ曲げて書き換えました。
だからこそ「共犯者」であり、言い換えるのなら彼らは「共作者」です。
「監獄塔に復讐鬼は哭く」という「巌窟王エドモン・ダンテスの物語」の演者にして作者です。
第七夜の大罪は「傲慢」ですが、与えられた筋書きと配役を蹴り飛ばしてねじ曲げて、勝手に生きて勝手に死んだ二人の行いもかなり「傲慢」だと思います。


巌窟王エドモン・ダンテス、そして「誰か」が望んだのは「愛と救い」ではありませんでした。
「誰か」が生きた意味、「誰か」が生きた人生から、「復讐」と「怨念」は切っても切り離せません。
どんなに醜悪で間違いで悲劇で不幸なことであっても、それこそが「彼の生きた証」であり、それを否定されれば本当に無為になってしまう。
それは死よりも辛いことです。
だから「愛による救済と復讐の放棄」なんて結末は認められなかった。
「醜かろうと悲劇だろうとこの黒き怨念こそが我が人生。未来へ行く者へ希望を託した以上、これ以上望むことは何もない」と。

彼は復讐譚そのもの、復讐の神ではありますが、同時に彼に内包された「誰か」もまた「復讐譚を愛する人間」であり「復讐の神に救われたもの」です。
復讐の神に祭り上げられた義務と性質によって復讐を肯定しているのではなく、自らが復讐譚に救われ、それがどれだけ素晴らしく、自らの人生を肯定してくれたものなのかを知った上での信念です。

だからこそ、全身全霊に賭けて「愛と救済」を拒まなければならなかった。
それをルーラーの2人や恩讐知る亡霊の群れはアヴェンジャーという在り方を哀れみましたが、それでも自分の存在は決して不幸などではないと。

マシュもまた、提示された「永遠」を「命の歓びは今を生きる者に宿るもの」と言って否定しました。
「結局死ぬのなら意味はない」と断じられては今までの全てが無為になってしまうからです。

二人とも「生きる意味」「生きた意味」を無にしない為に、ゲーティアの与えようとした「幸福」を拒否しました。


「誰か」が惨めに復讐も果たせず愛も救いもなく死んだ結果は変えようがないでしょう。
でも、「無辜の罪人を導き、自らの死によって解放し、希望を託した」という「意味」と「ラベリング」を変えることで、希望に満ちた結末を迎えることができました。

「自分を否定してまで手に入れる甘ったれたハッピーエンドなど願い下げだ」という意地、
「それでも自分の死に意味があって良かった」という救い、
「自分たちを陥れた相手に対する意趣返し」という復讐を全部叶えた、
完全無欠のトゥルーエンドです。

ゲーティアが書いたシナリオが「ハッピーエンド」なのだとしたら、二人が書き上げたのは「トゥルーエンド」です。
確かに完全無欠に幸福な訳ではないけれど、罪と苦痛と死に塗れていても、あの二人はありのまま目を逸らさずに受け止めて受け入れて、何一つとして否定しなかった。


余談にはなるのですが。
巌窟王エドモン・ダンテスは「復讐譚の総体」という一面もありますが、そんな彼が「彼自身の為の物語」を得られたことは、とても特別なことなのだと思います。





【終章で巌窟王エドモン・ダンテスと名乗った意味】
終章で巌窟王エドモン・ダンテスが駆けつけた時に
「我が名は復讐者、巌窟王エドモン・ダンテス」
と名乗ります。
ここを除いて、マイルームでも他のどんなシナリオでも彼は頑なに「エドモン・ダンテス」とは名乗りません。

恐らく監獄塔第七の扉で主人公の「エドモン・ダンテス……」という呼びかけに
……その名で呼ぶのか、おまえも。オレを。認めよう!おまえはオレを殺してくれた!おまえはオレに勝利を導いた――
と答えたのが影響しているのでしょう。

ゲーティアの配役である「愛により救済される存在であるエドモン・ダンテス」は拒否するが、主人公が己を「エドモン・ダンテス」であると感じているのなら。
これほど信頼し、己の全てを否定せず受け止めた主人公が言うのなら。
それならば認めようと。
自ら希望を託した我が半身の目と判断ならば信じよう。
こういった全幅の信頼があるのだと思っています。





【ゲーティアという究極ハピエン厨】
閑話休題。

謂わばゲーティアは「キャラが死んだら作者に『なんで殺した!人でなし!』と詰め寄るのを通り越して、『推しが幸せになれない世界なんて要らない』と地球破壊爆弾持ち出した、死と不幸を絶対許さない究極のハピエン厨」なのだと思います。
しかも推しは全人類。しかも個々人をひとりひとり見ています。

人類史をが巨大で見事な織物なのだとしたら、俯瞰して紋様を愛でるマーリンやギルに対して、ゲーティアは繊維の1本1本のわずかな汚れやもつれも許せなくて発狂するタイプです。
それは全部丸ごとやり直した方が早いと判断するのも無理はないでしょう。

作家組がゲーティアに対してボロクソにこき下ろすのも、
「起伏の無い物語はつまらない。幸福と不幸を行ったり来たりするエネルギーこそが大事なのに、完璧に均等に均せとは。完璧に幸福で代わり映えのしない永遠の物語など拷問以上の拷問だ。これだからド素人は困る」
という超ミクロ視点に対する呆れなのではないでしょうか。

もう少しマイルドなら、推しに対してモンペになり過ぎて「推しが死んだの前提にして続く世界とか滅べ」となっているオタクのようなものですし、ある意味それは感情移入と共感がなければ思いもしない事なのです。
やはりゲーティアは「人類悪にして人類愛」の存在なのでしょう。
ただ一つ不幸だったのは、ゲーティアは魔神であり人の視点を持たなかったことです。
思い遣っているようでその実全く分かっていなかった。
それなのに一人一人に寄り添えるだけの凄まじいスペックがあった。
故に、幸福を願っているようで、自分の価値観を一方的に押しつけるだけになってしまった。
思い遣りという感情ではなく論理と理屈によって殴りつけるだけになってしまった。




【ゲーティアと巌窟王エドモン・ダンテス】
そんな究極過激派ハピエン厨のゲーティアですが、彼は敗れます。

巌窟王エドモン・ダンテスはかつてゲーティアをこう評しました。
「オレは恩讐によって在きるものだが、あの男は、オレとは本質から違うモノだった。怨念を持たない者に、オレが手を貸す道理はない。よってヤツの依頼は断った。」

そして、かつて巌窟王エドモン・ダンテスに、本人にとって見当違いの幸福を押しつけようとしたその存在は。
人の殺し殺され恨み恨まれるシステムを一切消去しようとした存在は。
「人間の一生なんぞ、憎悪と絶望の物語だ!そんなもの、見ていて楽しい筈がない……!」 と嘆いた存在は。
高みから見下ろして一方的な価値観と解釈を押しつけようとした存在は。
限りある命を得て、その刹那の人生においてひとつの結論に達しました。

「我が怨敵。我が憎悪。我が運命よ。どうか見届けてほしい。
この僅かな時間が、私に与えられた物語。
この僅かな、されど、あまりにも愛おしい時間が、
ゲーティアと名乗ったものに与えられた、本当の人生だ」

それはつまり「黒き怨念こそが我が人生である」ということです。

玉座から主人公の元へ至る間に、マシュだけではなく巌窟王エドモン・ダンテスのことも少しは考えたのではないでしょうか。

「意地を通す為だけの戦い。なんと無為なものだろう。
だが、今ならば、理解できる。
憎悪も、憤怒も、恨みも、憎しみも。
せめて一矢、一筋でも、傷を、証を残すためだけの戦い。
そういう生も、あるのだな」


私は残念ながら巌窟王エドモン・ダンテスを引けなかった人間なのですが、
巌窟王エドモン・ダンテスを本当の最終決戦に立ち会わせたマスターは、彼の心底嬉しそうな高笑いが聞こえたのではないでしょうか。

「クハハハハハハ!やっと話が分かるようになったか!では貴様も猛り吼えるがいい!虎の如く!!復讐の神、黒き怨念の具現として、オレは貴様の憎悪と憤怒を祝福する!!!!」





【おまけ:ゲーティアとソロモン】
マシュと巌窟王エドモン・ダンテスに対してゲーティアが抱いた疑問は
「どうして他人から押しつけられた不条理な運命を受け入れ、肯定し、それを全うしようとするのか」
というものでしょう。

それはもしかすると、ゲーティアがソロモンに対してずっと問いたかったものなのかもしれないと思いました。
ゲーティアが一番、その生の無意味さに怒り狂い、哀れみ、救いたいと願ったのは、気づいていなかっただけでソロモンだったのかもしれません。
ソロモンに自由がなかったというのは、今回の最後に知ったことのようですが。

オガワハイムで式が言っていたように、
「好きな相手に裏切られたから恨むんだ。どうでもいい相手になら、何をされても無視するさ」
というか。
あれだけ怒り狂って恨んだのなら、思うところはあったのではないでしょうか。

やはりゲーティアは致命的にズレていただけで、一面においては人間より人間らしい存在であるように感じます。
人類悪は人類愛。




【終わりに】
巌窟王エドモン・ダンテスの存在はかなり多面的で多層的で複雑だと思います。
なのでここで語ったことは「モデルの人物」という一側面を強く押し出した解釈です。

「オレ」「俺」「巌窟王(オレ)」「復讐者(オレ)」「私」
とかどんだけ一人称あるんだっていう。
アヴェンジャーとしての面、エドモン・ダンテスとしての面、復讐者としての面、モンテ・クリスト伯爵としての面、復讐の神様、その他翻案作品の主人公っぽい面とか。
なんかもっと色んな面から掘り下げられる人は頑張ってください。
私も頑張ります。

ずっとずっと巌窟王エドモン・ダンテスは何者なのだろう?
「お前は誰だ」って問い続けてたんです。
ずっとあの3月からずっと「お前は誰だ。お前は誰だ」ってずっと巌窟王エドモン・ダンテスのこと考えてたんです。
結局「お前はお前」以上でも以下でもないと頭では理解してたんです。
それでもすごく不安だったんです。

でも、終章を読んですごく安心しました。
本編を経た巌窟王エドモン・ダンテスは何があっても揺るがないし、揺らがないし、大丈夫なんです。
もう希望に満ちたエンディングと答えを得たのだから。得ていたのだから。
彼自身の素晴らしい希望に満ちた物語を得たから絶対大丈夫なんです。

しかもその上で、どうして魔術王は巌窟王エドモン・ダンテスを召喚して監獄塔やったんだろう?というのも自分なりに納得できて、
しかもそのゲーティアが巌窟王エドモン・ダンテスの存在の意味、「誰か」の生きた意味を理解できたっていうサプライズまできて。
本当に良かった。嬉しかった。

私のこの解釈が間違っていないか、巌窟王エドモン・ダンテスやゲーティアや全ての物語をちゃんと誤解なく正しく受け止めてられるかは、正直まだめちゃくちゃ不安です。
「誰か」については本当に分からないので……
っていうか書き直しましたけどほんと被創造物のことすぽーんと忘れてました!!
ごめんね視野狭窄で!!!!!!

でも巌窟王エドモン・ダンテスが「答え」と「希望に満ちた自分の物語」を得られたということだけは確信できるので。
本当に良かった。嬉しい。よかった。ありがとう。


以上が私が達した結論です。
本当にめちゃくちゃこじつけ極まりないんですがこれが私の答えです。

ありがとう巌窟王エドモン・ダンテス
ありがとうFate/Grand Order
なにもかも否定しなかった優しくて美しい希望の物語よありがとう。
監獄塔は常設しろ。


【追伸】
沢山の方にこの解釈を読んで頂けて大変嬉しく思います。
この解釈が、読んでくださった方のFGOの物語に彩りを与えられたのならこれに勝る喜びはないです。
巌窟王エドモン・ダンテスが本当に大好きなので、もっと多くの人が彼のことを考えるきっかけになれたら最高です。
本当にすごく素敵なんです、巌窟王エドモン・ダンテス。
だから、興味が出たならもっと彼について考えてみてください。
出来る範囲でいいので!!
私は小説書く根気も絵を描くだけの画力もなかったので、語りと解釈でぶん殴りました。
思ったことを呟くだけでいいので。
考えるだけでも、ウワーーーーッ!!って叫ぶだけでもいいので!!
巌窟王エドモン・ダンテスに興味関心を抱いている人がいっぱいいるというだけで最高に幸福ですので!!!!

偉そうなことを言っていますが
「へへへ、自分の解釈で色んな人の頭をぶん殴るのは楽しいぜゲヘヘヘ」
という蛮族めいた気持ちです。
もっと自己解釈の鈍器を振り回してこうぜ!!!!
用法用量を守って楽しくフリースタイル解釈ダンジョンしようぜ!!!!!
もっと私をあなたの解釈で殴ってくれ!!!!!


【覚え書き】
今にして思えば、監獄塔の第一夜での「絶望の島、監獄の塔へようこそ 先輩!」という呼びかけもマシュと似たポジションという前振りだったのかもしれない。


ゲーティアが「誰もいない極点。……誰も望まない虚空の希望(ほし)を目指し続けたもの」って言う辺りで、お前もまた希望を抱いた存在なんだな……ってめちゃくちゃに心を掻き毟られた。






【全然関係ない飛躍したおまけ:絆礼装の話】
シャトー・ディフ。
生きて出た者は一人もいない、監獄塔。
監獄塔イベントにおいても、再三に渡って繰り返されるフレーズです。

それは単にゲーティアの作った監獄塔の話だけではなく、マシュやジャンヌが語っている以上、Fate世界の史実においてもそれは事実なのでしょう。

シャトー・ディフから生きて出たのは唯一人。
モンテ・クリスト伯という物語上においてのエドモン・ダンテスのみ。


故に、此処を生きて出た者がもしもあれば───
その者は、無限の怨嗟を背負う事になろう。
ヒトでありながらヒトではないモノになるだろう。
人間性のことごとくを超克した、
暗黒の鬼が如き者が顕れてしまうに違いない。

「そうだ! それこそがオレだ!
 地獄に堕ちて、地獄を喰らって生き延びた者!
 他の誰でもないオレだけが!
 恩讐の彼方より顕れ出でて!
 復讐を───この手で、成し遂げるのだ───」


絆礼装においても「シャトー・ディフ」から脱獄したとは一言も書かれていません。
復讐を成し遂げたとも。

巌窟王エドモン・ダンテスは、何故「エドモン・ダンテス」なのか。
何故、復讐者としての全盛期であろう「モンテ・クリスト伯爵」ではないのか。

本当に勝手な想像になるのですが。
「誰か」はシャトー・ディフの獄中で死んでしまった。
あるいは、脱獄する寸前、もしくは脱獄したその直後に死んでしまったのではないかなと思います。

しかし、何らかの経緯があってその死はデュマに伝わり「モンテ・クリスト伯」に昇華されました。
同時に、モデルとなったことで「誰か」はエドモン・ダンテスの概念に内包され、その瞬間に「脱獄した」。
肉体は死んでいても、怨念だけが生きて脱獄を果たした。

「誰か」にとっても「エドモン・ダンテス」にとっても、モンテ・クリスト伯に連なるあらゆる復讐譚にとってもシャトー・ディフこそが原点。
彼のあらゆる側面が重なり合う一点なのかなと思います。


これは本当に個人の趣味というか「そうだったら美味しいのにな~~」という妄想なので、気軽に流してください。


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