1/14 フリーワンライ参加作。お題は蜜月の触れ合い、それを叶えるのが自分ではなかったとしても
こちらの作品と内容的に関連しています→ http://privatter.net/p/1743414
@smbrfubuki
思い出に変わる夜
蜜月の触れ合い、それを叶えるのが自分ではなかったとしても
凍てつくように寒い北緯56度の街。それが僕の故郷だった。
わずか2ヶ月ほどの夏があり、後の季節は全て冬。川も湖も凍り果て、人は屋内で本を読んで過ごすしか能のない我が祖国は、しかしながら僕が生まれてきた事実をどうにも変えられないように、変わることのないたった一つの故郷でもあった。
だが僕は祖国の冬が嫌いだった。憎んでいると言ってもいい。自然と関心がもっと西の国へ向き、肌に合っていたドイツ語を学び、どういう風の吹き回しか今こうしてドイツの大学で言語を研究している。
習い始めたばかりは訛りがひどかったが、今となってはそれも懐かしい。未だに巻き舌のできない異邦人の妻は、あなたの母国語が羨ましい、と頻りに口走った。
ドイツは良いところだった。寒いところは確かに寒いが、何より川が凍らない。それに僕らの住むモーゼル河畔地帯は気候に恵まれ、河岸に永久に並ぶ葡萄畑が物語る通り太陽の恩恵に恵まれていた。日照時間も長いし、雨だって多くはない。暑い日は辟易するが、木陰に入ってしまえばどうということはない。恋人だった彼女……今この話をしている現在、妻になってまもない人は温帯の日本出身だった。日本の夏は地獄よ、と眉を吊り上げる。夏が地獄なんて、と僕は笑った。夏が一年中続いてもいいと思っているのに。
僕らのハネムーンが南国になったのは至極当然な流れだった。ロシア人の僕と、日本人の妻。東南アジアを探って、一番英語が通じる国を選んだ。でも来てすぐにイタリアやスペインでも良かったね、と笑いあった。妻が地獄と形容した蒸し暑い夏を体感することになったからだ。
「ボリス。お水買って来た」
「ああ。ありがとう」
夜に女性を一人で歩かせるなんてと僕は断固反対したのだが、妻は何か豪胆なところがあって、暑さに参った僕の為に水を買って来てくれた。ハネムーンと伝えたからか、やけにだだっ広いホテルの一室、キングサイズのベッドの上で僕は完全に伸びていた。こんなに空気が暑くて、絡みつくようにベタベタしていて、不快な息苦しさに襲われるのは初めてだ。stickig(息がつまる)、と繰り返すと妻は大げさだと笑った。こんな環境で20年以上生きて来たなんて僕の妻は超人か何かなんだろうか。彼女はベッドサイドに僕のメガネを外して置き、あろうことか口移しで水を飲ませてくれた。おお、ハネムーンぽい。僕は感動した。そして同時に、そんなに積極的な妻を抱きしめる力すら湧いてこない自分の非力さを嘆いた。これだから、運動不足は。
「明日はこのまま寝ておく?」
「いや……レーシャは動物園に行きたいんだろう」
「フランクフルトでもいけるし」
「あそこじゃ蛇は首に巻けないだろ。それにトラムに乗って猛獣と遊ぶこともできない」
「猛獣とは遊ばないわ。それにトラムは夜。ナイトサファリの方よ」
どっちでも良かった。ハネムーンで花嫁の希望を叶えてやれず、彼女を満足に抱きしめることもできず、なんと情けない花婿だろう。僕はこっそり泣きそうになったが、これだからロシア人は暗いと言われてはどうしようもない。なんとか気持ちを奮い立たせて、行くよ、と絞り出した。
「ハネムーンでこんなことになるなんて」
「気張りすぎよ。いいって、十分楽しいし、見てほら。夜景も綺麗だし」
「レーシャはいい人だよねえ。ロシアの女の子だったらこの場で離婚されてると思う」
「私日本人だし。アジアに連れて来てくれたの純粋に嬉しいから」
「でも今日だってマーライオンのショーを見逃した。僕のせいだ」
「いいって。ボリス、私は気にしてないわ」
僕が抱きしめる代わりに彼女の非力な腕が僕を抱いた。彼女の慣れた香りにキュッと胸が苦しくなる。好きになるのに理由などいらなかった。ただ初めて会った時から彼女は優しく、美しかった。真っ黒な瞳に恋をした。お互いの国に行くのはとても面倒なのに、それでも好きにならずにはいられなかった。結婚できたのは、彼女が日本に帰る気をなくしていたから。そして……忘れたい人がいたからだと、僕はそう思っている。彼女から詳細に聞いたことはないが。
彼女の非力な腕に抱かれながら僕は窓の外を見た。そんな僕を気遣って彼女は部屋の照明をダウンライトに切り替えてくれる。邪魔するもののない港湾の夜景を見下ろし、ここが東南アジア一の経済大国であること、ゴミひとつ捨てることの許されない、厳格な美を遵守する国であることを思い出すのだった。
綺麗だな、と思う。同時に強烈な違和が僕の内側から湧いてくる。ここは自分の生きる場所ではないと囁かれている気がして、いつのまにかあの国が紛れもなく自身の拠点となっていることを痛感する。故郷へ帰ってこんな思いをしたら、僕はきっと一生ウォッカが飲めなくなるんだろうな。マヨネーズだって使えなくなる。我が故郷のマヨネーズ消費量は何たってギネス級だ。異邦人であることに慣れたからといって、帰る場所をなくすのはとても寂しいことだ。家族への連絡だって欠かしたことはない。いつだって離れていても家族のことは大事だ。……妻はそうではないけれど、いや、そうではないからこそ、僕は彼女と一緒になりたかった。
「ボリス。ごめんね」
「えっ」
「私が暖かい場所がいいなんていって。英語が通じるところがいいって……あなたを苦しめたわ」
「レーシャ、いや恵令奈。それこそ気にしないで、こんな機会でもないと絶対来なかったよ」
そっと妻の肩を抱く。そして口付けると、さっきの水のせいかひどく潤っていて心地いい。恵令奈、日本人の名で、ロシアにもとてもよく似た名前があって、僕は彼女のことをレーシャと呼ぶけれど……レーシャのわがままなんて、わがままのうちに入らない。愛しいものだ。僕はレーシャのためならなんだってできるだろう。いや、なんだってしてあげたくて、彼女の望みであればなんでも叶えてあげたくて、夫婦になった。
他人同士が、異邦人が、異邦人同士のまま、祖国を離れて一緒に生きている。僕らは全て能動的に選んで、こうして寄り添うことができた。愛しいレーシャ。その黒い瞳が何を見ていたとしても、誰を追っていたとしても、君の望みを叶えるのは僕だ。……これからはずっとそう。
「不甲斐ない男でごめんね。明日はもっと元気になって、君とこの街を歩きたい」
過去はどうでもいい。過去の君の願いを叶えるのが自分ではなかったとしても、明日の君の手を取るのは僕だ。
そう言い聞かせるように彼女の肩を撫で、髪を撫で、あいしてる、と覚えたての日本語を呟くと彼女は嬉しそうに笑った。僕の言う日本語は、彼女の使うロシア語と同じくらい僕を幸せにする。ヤーチェービャーリュブリュー。彼女の下手なロシア語は、まるで「Ja(はい)」とドイツ語で返事をしてから切り出すようで、滑稽だったがそれの3倍くらい僕を幸せにした。
アジアの夜は綺麗だった。彼女の生まれ育ったトーキョーもきっと、こんな綺麗で息苦しい夜なのだろう。早く行ってみたいな。そんな日を夢見て、蒸し暑い空気を吸い込んだ。
END