@kyuri_akita
「はあ?おい、今、なんつった?」
ぐるぐると唸る白い虎を前に、アベルは隣で食事をする子どもに目を向けたまま、振り向きもしなかった。
二人と一匹が居座るのは、図書館内部の一角にある、職員用の大食堂だった。広い屋内には食事の良い香りが漂っている。机と長い椅子が並ぶ食堂内のいくつかの席には、職員が雑談に華を咲かせながら、ひと時の休憩をとっていた。
いくらでも収容できそうな広い食堂の一角は、幹部用に個人スペースが設けてあった。
そこの一角でテーブルを囲むアベルと、白い虎に目を向ける職員はいない。
通路から隠れるようにしてアベルの隣に座る少年は、普段は見せない手で、スプーンをグーで握りしめてスープを啜っている。赤いトマトのスープに入っている野菜のカケラを、不思議そうに眺めてから口に運ぶ様子が、かわいくて仕方なかった。
久しぶりに見る光景に、アベルが頬を緩めて眺めていると、向かい側でドン、と音がした。
視線だけを向けると、白い虎が歯を剥き出しにして威嚇している。ドン、という音は、虎が自分の前足をテーブルに勢いよく乗せた音だった。
「おい、アベル」
「ニーナが食べ終わってからでいいか?」
すぐにニーナに視線を戻したアベルがそう言うと、ウゥ…と唸り声を混ぜながら虎が吠えた。
「耳と口だけこっち向けろっつってんだよ‼話をしだしたのはおまえだろ⁉」
いい加減にしろ、という言葉に、アベルは仕方なく意識を虎に向けた。
「ニーナの記憶がなくなって、それにイルドリョウスが関係している、と言った」
そして冒頭の質問に答えると、彼は器用にしかめっ面を作ってぐるるる…と唸った。
「記憶ないって…マズいだろ、外交予定は?」
「2日後に戦の魔王さまのご予定がある」
書館の勇者のもとには、色々な人が訪れる。各国の王族や外交官とは滅多に会わない彼の元を訪れるのは、勇者や魔王だった。
「…戦の魔王さまか…あのお方はどうなんだ?」
「ニーナとは割合仲良くやってるし、知識提供をしているから、不戦条約を結ぶ手続きをしている」
そう言っても、白い虎の顔は冴えなかった。心境がわかるだけに、わかってる、とアベルは返した。
「いくら仲良く見えても魔王は魔王だ。この隙を突かれるとも限らない。ニーナに早く戻ってもらうために、できることはするよ」
パンを一個丸々かじる幼い子どもは、会話の意味などわかりもしないのだろう。
魔王に対抗できるのは勇者だけ。だからこそ、ビブリオテカのように勇者が国の中核たりえていれば、勇者と国は表裏一体だ。勇者は国であり、国とは即ち勇者である。
人びとに必要なのは、記憶のない、魔法も使えない子どもではない。
書館の『勇者』である。
パンが上手く食べれずに四苦八苦する子どもの細い肩には、この国を背負っていた。この国を背負うということはつまり、この国で生活すると人々も背負っているということだった。だからこのまま放っておけば、アベルはよくとも、国が滅ぶ可能性すらある。
「ニーナなんて、ただの子どもなのにな」
苦々しくそう口にする虎に目をやれば、その視線は頬張るパンをもぐもぐと咀嚼する子どもに向けられていた。
白い虎の言葉に、肯定も否定もできなかった。
「・・・とある学者は、勇者を人間の無意識化の象徴だといった」
一口サイズにカットされたフルーツに伸びる小さな手を眺めながら、アベルはそう口にした。
「勇者に与えられた二つ名は、人間が無意識に持ちうる欲求であり、その無意識化の集合体が、勇者なのだと。たしかに二つ名は、それぞれの勇者の特性をよく表している」
だが、と口に運ばれるみずみずしい果実が飲み込まれてゆくのをぼんやりと視線で追い、その続きを呟いた。
「その論点の帰結は、だからこそ、勇者は人類のために戦い、尽くすべきだというところに着地した。勇者は人類の無意識の集合体であり、人類の代表なのだから、人類を守護し、人類のために尽力せよ、と」
ふん、とアベルの向かい側に座った白い虎は、鼻を鳴らした。
「それじゃ、勇者は人間の道具だって言いてえのか」
「勇者に人間という個性を見出さないのは、この国のあり方とて同じことだろう。この国は、『勇者』を利用している。必要なのは、ニーナじゃない」
小さな子どもは、パンを一つと、スープを半分ほど残して食事の手を止めた。眠たそうに目をこすっている。
「・・・ま、ニーナも、必要なのはこの国ではなく、本だもんな。ちなみにその論を提唱した学者は、うちにいんのか」
いない、と答えてから、アベルは眠たそうなニーナに、自分の膝をたたいた。それでわかったのかわかっていないのか、ニーナはアベルの膝の上に座る。
「で?お前はなぜ、イルドリョウスが関わっていると断言できるんだ?そこにいる記憶のないニーナが、偽物ではない可能性は?」
さすがに同僚だけあって冷静な意見に、アベルはニーナを支えるように抱きしめた。
「イルドリョウスが、契約者のニーナ以外では唯一、俺の声に反応することは知ってるな?」
ふん、と息を吐くようにして、白い虎は同意を示した。
契約した魔物は契約者以外のものがいくら呼びかけたところで、基本的には反応しない。それは諸説あるが、基本的には契約者以外の呼びかけが聞こえないとする説が一般的だ。
そういう点を踏まえても、イルドリョウスは普通の魔物とは違った。血を分けた兄弟であるアベルの声だけには、反応するのである。
文字通り、アベルとイルドリョウスは血がつながっている。
イルドリョウスの実験に使われた魔法使いは、アベルの実兄だった。
「俺がいくら呼びかけても、イルドリョウスが姿を見せない。契約がおかしいと言われて俺もいろいろと魔術で探ったが、たしかに契約が捻じ曲げられている」
「そんなことは可能なのか」
不可能ではない、とアベルは机の上にあったカップを手に取った。
「魔法使いと魔物の契約のつながりを奪う魔術は、禁術の一環として存在する。とはいえ、そのつながりを本当に奪うには高度な魔術知識と技量と魔力が必要だ。俺だってできない。実際にできるのはニーナぐらいだろう」
カップに満たされた紅茶で喉をうるおせば、なるほど、虎が唸った。
「イルドリョウスが関係しているのはわかった。それに犯人がニーナであろうこともな」
だろうな、とアベルも苦笑して同意した。
「ニーナからすれば、それより簡単な、契約を『捻じ曲げる程度』にレベルを落とすなど造作もない」
と、ニーナが犯人説の根拠をつけ足せば、白い虎もうなずいた。
記憶をなくす前のニーナは、魔法のエキスパートと言っても過言ではない。彼は、こと魔力を使う魔法技能に置いては比肩するものがいないほどの実力を持っていた。
「それと、ここにいるニーナが偽物ではないとは、俺は言い切れない」
だが、そんなことはどうでもいいんだ、とアベルは苦笑した。
はあ?と虎が片眉を上げて不機嫌そうに鼻の上にしわを寄せる。
「どうでもいいだろう?最終的には、ニーナを『殺せば』すべて解決する」
眉根を寄せていた虎はその言葉を正確に読み取ったらしい。
「・・・ますます、『勇者は道具』でないと言い切れん」
勇者は何度死んでも生き返る。それは文字通り、体は光となって、教会で再生するのだ。
けがも、異常状態も、すべて回復した状態で。
飢えて死んだとしても、万全の状態で回復する。それが勇者という生き物だった。
腕で抱えたニーナはうつらうつらと半分ほど寝ていた。それを抱きしめられる間の幸福を味わいながら、アベルは子どもを見下ろす。
アベルの神さまのような、大事で強くて偉大で哀れな、勇者。
あまたのあいを向けられながら、愛を知らぬこども。
「ちゅう」
と、アベルが思考に耽りかけたところで、わざとらしいような鳴き声がした。
視線を向ければ、そこそこ大きなネズミが、机の上に乗ってアベルを見上げている。ネズミはなぜか、赤いガラス細工でできたような、バラの花を持っていた。精巧にできたそれは宝石のようでありながら、不格好な茎が、むしろ群生していたのではないかと思わせるような自然さだった。
白い虎は牙をむいたが、アベルはそれを片手で制した。
「エヒャ、何かわかったのか」
こくりとネズミが頷き、報告してもよろしいですか、と声がする。
頼む、といえば、ちゅう、と鳴いた後、ネズミが口を開いた。
「爆発を起こしたのは、魔法結晶学者の家でした。本人は当時家にいなかったので、事情聴取したところ、書館様に魔法結晶について話を聞かれたと証言しています。爆発については、書館様からいただいた、魔力結晶の花が散ったようだということが判明しました」
やっぱりな、とアベルと虎は顔を見合わせて苦笑いした。
「花が散る際に爆発すると知らなかったということですので、もう少し事情聴取をしてみようかと思います。それと、書館様がほかにももう一輪、花を落としたようです」
はあ、とアベルは笑い交じりにため息をついて、腕の中の存在を見下ろした。
落としたというか、置いたというかだな、とアベルは片眉を上げた。おそらく書館の意図的なものだろうとアベルは見当をつける。
「エヒャ、花の在処は?」
「それですが、魔獣学者のリサ様が保持しておられました。どうやら拾われたそうで、落とし物と勘違いして、籠の中に入れておいたそうです」
こちらは事情をお話して、花だけ回収しておきました、という言葉に、なるほどなあ、とアベルは薄く笑った。
リサのもとに行った際、ニーナが籠の中身を気にしていたのはこのためだったのだろう。
書館の勇者が記憶をなくしたのは本人の所業であるらしい。こうしてアベルたちにヒントを残しているのがその証拠だった。
「ありがとう、エヒャ。悪いんだが、イルドリョウス、勇者の白翼の魔物の居場所はわかるかな」
大丈夫です、という返答が帰ってきて、さすがだな、と虎が唸る。
「爆発した欠片を拾い集めた結果、アステリー学派の古ジョエ語が使われていました。解読した結果、『白き魔物は、禁止目録に』と書かれていましたので、そちらかと。一応、回収した花もお届けしましたので、お受け取りください」
赤いガラス細工は、魔力の結晶らしい。こんな花を作るぐらい、書館の勇者なら簡単なことだろう。
彼の所業だと言われれば、アベルは納得もできるというものだった。
ネズミから花を受け取り、ありがとう、と伝えれば、小さな生き物は、ぺこりと頭を下げた。
「犯人は、どうやら勇者らしい。探す命令は取り下げる。事実確認だけ、正確に頼むよ」
了解しました、とネズミは頭を下げると、失礼します、と机を降りて走り去っていった。
その背中を見送ると、さて、行くか、とアベルはニーナを抱き上げた。小さな体は、睡魔に負けたらしい。腕の中で動かない温もりに顔を緩ませて獣に目を向けると、彼は歯をかみしめた。
「・・・どこに」
憮然とする白い虎に、わかっているくせにとアベルは微笑んだ。
「閲覧禁止エリアだよ」
その言葉を出された虎は、仕方がなさそうに立ち上がったアベルに続いた。
禁止目録へ向かう道すがら、それにしてもすごいな、と白い虎が感想をこぼした。
「何が?」
魔法を使えばすぐの距離だが、そうすると魔力に過敏な子供は目を覚ましてしまうだろう。となりを歩く虎も、体を動かすことが苦にならないタイプなので、アベルは久しぶりに図書館の中を急かされることなく歩いていた。
「エヒャだ。あれは憑依してるのか?」
さきほどのネズミのことを言っているのだろう。
ちがうよ、とアベルは苦い笑みを浮かべざるを得なかった。
エヒャが異様な卑屈さを身に着けた元となったもの、そのものだ。非常に珍しくが、扱いが危険な代物でもある。
「・・・エスタブリッシュアイ。『支配階級の眼』よりは、そちらのほうに聞き覚えがあるんじゃないか?」
えっと虎はあんぐりと口を開けた。人など一瞬で殺してしまいそうな鋭い犬歯が、その口からのぞいている。
「エスタブリッシュアイは、実在しないんじゃないのか?あんなの伝説級の代物だぞ。人を、そうと意識させずに屈服させ、従え、支配する魔眼、だったか?」
その通りだよ、と苦笑すれば、はあ?と虎は顔をしかめた。
『エスタブリッシュアイ』は、存在しているかどうかもあやしいと言われるものだった。伝説に近く、また秘宝の比喩ではないかとも言われている。
「おいおい、冗談だろ?エスタブリッシュアイは、その眼があれば、一人で魔界一つ、征服ができるとも言われる代物じゃねーか。視界にいれたものすべてを無意識化で屈服させて、支配し、操ることができると言われてるふざけたおもちゃだぞ」
全くその通りだよ、とアベルは片方の眉を上げた。
「そう。視界にいれた生き物は、例外なく支配下に置き、操ることができる眼。欠点らしい欠点がなく、対策もなく、かつてはこの眼の保有者の奪い合いで、聖界の半分が動乱へ落ち、世界が荒廃したと言われる悪魔のような眼だ」
学者の中では、そもそもその眼を持っているのは人間ではなく魔族だ、とか、魔族の目のことを比喩している、など憶測が飛び交っている。
「それをエヒャが?あのエヒャが?うちの学校在籍時代は、落ちこぼれだったじゃねーか」
図書館で抱える学校に在学していたエヒャは、落ちこぼれで有名だった。
魔法の学科と実技がある学校の制度の中で、とくに魔法の実技が不得手だったのだ。なのに、退学しそうなほど実技の成績が悪くても、なぜか退学にならなかった。
だからエヒャはそういう意味で、非常に有名だった。
「退学しそうな生徒に関しては、俺の部署が面接をしている。学校内で実技ができないとはいえ、入学試験はクリアしてるわけだからな」
そこで知ったんだよ、といえば、虎は顔をしかめてアベルをにらんだ。
「そんな危険なものを、よくもまあ」
放置しているな、と、とげとげしく言う白い獣に、大丈夫だよ、とアベルは弁解した。
「『支配階級の眼』をもつエヒャを調べて、初めて分かったんだが、あの眼は、魔法使用範囲が広すぎて、常に魔力を消費して眼の能力備蓄を作ってる。だから、エヒャは実技がうまくいかないんだ。持ってる魔力を、その眼にほとんど使われてしまうから」
だから魔力回路を分けて、目のためのものと、普通に使えるものの二つあるのだとか、足りない魔力を補うために魔力吸収をよくする刺青を入れた、などと言った専門的な話をしたが、虎は興味なさそうだった。半眼になって、アベルの話を聞いている。
「エヒャの話はともかく、危険だ。そんなチートみたいな能力を放置しているなんて、ニーナは何を考えてるんだ」
白い虎の憤慨した様子に、アベルは笑って、だって、と言葉をつづけようとして、あることに気づいた。
(だって、エヒャをそのままにしてるのは・・・)
「・・・ああ、くそ。やられた」
その言葉は、どこか楽しそうな声音が含まれていた。実際、やられたなあと笑うアベルの顔は楽しげですらある。
どうしたんだ、という白い虎に、アベルは流し目を向けた。
「忘れてた。ニーナは、記憶封じの魔法を、編み出していたんだった」
「はあ!?」
あんぐりと口を開けた白い虎は、反射のように動きを止めた。
数歩歩いてから気づいたアベルは、後ろを振り返って、素直にすまんと謝った。
「といっても、エヒャの能力の対抗策だ。その過程で生まれたものなんだが」
はあ、と重たいため息をつきながら、白い虎は再び歩き出した。
「エヒャも一枚噛んでるんじゃないんだろうな」
どうだろう、とアベルは苦笑しつつ、それはないと考えていた。
エヒャのことさえ『ヒント』にしたのは、もとからそう長い間、ニーナがこの状態でいるわけではなかったということだ。ニーナが誰かの協力を仰ぐときは、自分の手の届かない範囲のことがほとんどだ。
前にとある非合法のオークションを潰した時も、図書館外で起こったことだったから、彼は色々な人に事情を話したにすぎない。
彼は一人で考えたことを、気まぐれに実行する。それはニーナの暇つぶしであり、ささやかな『遊び』だ。自分が正しいのかどうかを測る、実験ともいえるが。
とはいえ、それにしては少々手が込みすぎていた。ヒントをばらまき、わざわざアベルに解決させるように仕向けるとは。
(本当は何か、別の部分に目的があるんだろうな)
ニーナは気まぐれに人を使い、そして色々なことを使って『実験』をする。
その行為の半分以上が、人を操っているのだ。魔法を一切使わずに、タイミングや動きを予測して扇動している。
本人が意識していようがなかろうが、結果的には人を動かすのが非常にうまい。その点では、魔法以上に才能があるといえるだろう。
書館の勇者には、大きな体も、強い筋肉もない。
だが、それ以上に、それらを補って余りあるものが確かに備わっている。
天賦の才かと言われると、断言はできない。彼は好きで本を読み、その知識を応用しているにすぎないのだから。日々の研鑽のような、それでいて趣味でしかないものが、彼に力を授けている。
「・・・でも、エヒャは自分の目に対する対抗策を知らない。聞きたくないと言った」
ほお?と虎は興味深そうな声を上げた。
「普通の魔法使いなら知りたいだろうに」
「・・・あの子の母も相当な目にあったようだからな。『支配階級の眼』は、遺伝的な特殊魔法だ。エヒャは、支配者の頂には孤独しかないことも、己の能力が恐ろしいものであることもよくわかっている。だから、自分にも欠点があり、勇者には及ばない弱い人間でありたんだってさ」
やさしいといえばいいのか、甘いといえばいいのか、とため息交じりに息を吐いた白い虎に、アベルはやはり苦笑した。
「まあ、ここに来るだけはある」
苦々しく虎はこぼして、ふん、と鼻を鳴らした。
自分はただの人間だ。
という気持ちを抱いて、『書館の勇者』に救われるものは、この図書館では珍しいことではない。
『書館の勇者』に狂気的なあこがれや信仰を持つ者の多くが、まるで『化け物』のようであり、そんな自分が恐ろしくて耐えられない者ばかりだ。
他人を脅かすような強さが耐えられずに行きつく先に、『勇者』は立っている。
『人間』の強さの先。殺しても死なない、まるで化け物のような生き物。
いくら手を伸ばしても届かない先に、『書館の勇者』は立っている。救われるものの多くは、『書館の勇者』に挑み、敗れ去り、強者から弱者へと転じて心酔する。
自分は敵わない。ああ、自分は化け物などではない。これこそ本物の、化け物なのだ。
と。
そんな事実に感動する。
「ついたぞ」
ぼんやりと思考に耽っていたアベルの意識を引き戻すように、白い虎は声を上げた。
どこのドアも通過していない。ただ歩いていただけだが、そこは一つの部屋だった。
この室内がつながっている場所は、実はどこにもない。ドアも階段もないこの部屋は、この部屋を管理するものが自在に空間をつなげる。つなげた階段の麓で人の出入りを管理する白い虎は、この部屋そのものだった。
一見何もないような、星空の浮かぶ暗い空間。
この部屋には、外部に漏れれば聖界を揺るがしかねない事実が詰まった、閲覧が禁じられた記録が押し込められていた。
そんな部屋の中で。
ばさり、と白い生き物が首を上げた。
顔は、アベルによく似ている。けれど髪も目も白く、色素はどこにもなかった。
腕は両翼とも白い。背中にも対になって、いくつもの翼が生えていた。胸元は中心が一文字に裂け、緑の茨があふれている。あふれた茨は、ぞるり、と動き、膝の上に乗せた小さな少年を寝かせる籠を作っていた。
「・・・」
この魔物を前にして、アベルは名前を呼ぶことができなかった。
膝は、とうに鳥のそれへと変わり、羽が生えている。とても人間とは呼べるものではない。
だが、アベルには成長する長い時間、ともに過ごした人そのものだった。
「アベル」
「わかってる。大丈夫だ、ジャック」
傍らにいる白い虎の気遣いに眉根を下げた。
そしてこちらを眺めるイルドリョウスのそばまで歩いてゆく。魔物の作り出した、茨の中で眠るように横になる子どもの上に、アベルが抱えるニーナをそっと重ねた。
ぶれるようになりながらも、二つは合わさる。そして眠ったままの少年を眺めて、アベルは少し笑った。
「・・・いい夢だったよ」
ありがとう、とこぼすと、アベルは書館の勇者が置き去りにしたガラス細工の花を、彼の胸元に手向けた。
「・・・魔は理、本流は我が身を伝い、宝を築く」
一番初めの、最初にアベルが教えて書館が習得した魔法。
魔力を結晶にするその言葉を唱えれば、ぱき、とアベルの空中に、赤い結晶が浮かぶ。宝石のような輝きを放つそれらに反応して、胸元にあった赤いガラス細工のような花は、すう、と子供の胸元に吸い込まれた。
ぱきん、とアベルが唱えて作った結晶が、砕けた。
ガシャン、と床に落ちて奏でる破壊音と、きらきらと光る欠片の中、ゆっくりと少年が目を覚ます。
青い瞳は、彼が見ることがない空のよう。ぼさぼさの髪は、相変わらず無造作に跳ねている。白いワイシャツに、首元にまいたリボンには、彼を勇者たらしめる証が光っていた。
「ア・・・ァ」
白い魔物が、そんな目覚めた少年の顔を覗き込んで顔をすり寄せる。少年は視線を向けると手の見えない袖で、顔をなでた。
「おはよう、ニーナ。さて、なんでこんな回りくどいことをしたのか、きっちり説明してもらおうか」
遊びにしてもすぎる、というアベルの言葉に、ニーナは上半身を起こした。
「なんだ、レディは何も話さなかったの」
そうして訥々と話すあたり、記憶に支障はないようだった。無感情にイルドリョウスをなだめるその姿は、見知ったものだ。
「アベル、前に僕に本気で怒ったろ?」
俯いてそういう少年に、アベルは片眉を上げた。
「・・・そんなことあったか?」
「あった。黒い天使を使って、神に至れる可能性を考えたとき」
ああ、そう言えばそれでケンカしたな、とアベルは顔をしかめた。
未来を視る、という能力を持つ黒い天使を発見したニーナがしようとしていたことを、能力を持つ本人から忠告された。
『気をつけろ』
そんな忠告を告げられただけだったが、不幸の象徴たる本人から言われては確かめないわけにはいかない。
アベルが問いただせば、それはあまりにもかわいそうで、悲しい望みだった。
「僕は、前の王がやったことを、すべてなかったことにしたかった。だから時間に干渉できる力がほしかった」
ただでさえ化け物と思われるような存在だ。だというのに、ニーナは本当に、人類をやめようとした。
「アベルが人間をやめる必要がなくなるように。アルバも死なないように。バーデは心を壊さずに済むように。ジャックは虎の体を使わずに済むように。マリアは眠らずに済むように。イルドリョウスは人の姿であらずに済むように」
すべて、過去の悲劇で起きたことを、なかったことにしたい。
という、悲劇を理解したが故の、こどもの哀れな願い。
多くの人を助けたい、という、『勇者』としてはふさわしく、まるで夢を見るこどものような戯言。
しかしそれらを本気で実行しようとし、またそれだけの力を有しているのが、『書館の勇者』だった。
アベルはその戯言を、ふざけるなと怒った。
「なぜいけないのか、わからなかった。だって、僕があの王を殺しても、みんなは喜んでも、元には戻らない。アルバは生き返らない。アベルも戻せない。バーデも記憶できない」
でも、レディに言われた、とニーナはイルドリョウスを見上げた。
「誰も、そんなことは望んでないって」
イルドリョウスは、体に生える翼で、抱きしめるようにニーナに触れた。
魔物と混ぜられた、アベルの兄であるアルバの意識は残っていない。
けれど、アルバは、彼が残した手記は、どこまでもこの子どもを慈しむものだった。
「僕がみんなをもとに戻したいと、思ったように、僕がここにいなくなったら、みんなはぼくを戻したいと願うと言われて、気づいた」
僕がしようとしたことは、きっとみんながしようとすることだと。
「そんなことは望んでない。でも、僕はみんなを救いたかった」
だから、アベルの一番の望みを知りたかった、とニーナはこぼした。
「僕が救いたいと思うことが、僕だけのものなら、しなくてもいい。だって、みんなを救いたいと思うことは、ただ本がほしいと思うのとは違う」
だから、アベルの望みを聞いて叶えたのだと、小さな魔法使いはこぼした。
アベルは彼の成長に、少々言葉を探した。
記憶をなくしたような状態が、アベルが知っていた当初の子供だとするなら、今の彼は色々なことを経験して、ずいぶんと成長したようだ。
きっと助けたいと願うことも、かつてあったことが悲劇だと、ようやく理解できたのだろう。
「・・・俺の望みは、どうだった」
アベルの言葉に、うん、と書館はふわりと空中に浮いた。
「明日、筋肉痛になりそうだ」
「歩け」
「いやだ。こけるし」
ふ、とアベルは息を吐いて小さく笑った。
「そんなもんだよ。俺の望みは。べつに俺は、まあ、よかったとは言えないが、悪くはない今だと思っている」
あのことがなければ、俺は不幸の主にお目にかかることも、きっとなかった、といえば、少々不満そうにニーナは口の先をとがらせた。
「アルバートは最後まで、お前の幸福を祈っていた。バーデはお前のことは覚えてられるし、そんなお前がいとおしいという。みんな、よくはなかったが、悪くはないだろう。お前が救いを与えたから」
「・・・まあ、俺は虎の体に意識を埋め込まれちまったが、こいつ、結構いいやつだしな。ジャックとして新しく生まれたようなもんだ。…たまに異界の人間が入り込んでくると驚かれるけどな」
白い虎は、はっと器用に笑う。
ふうん、と少年は興味なさそうにイルドリョウスの翼に埋もれると、顔を隠した。
「・・・じゃあ、やめる」
拗ねたようなしぐさに、外にも出していないのに、ずいぶんと人間らしくなったものだと、アベルは思った。
そんなことがうれしくて、アベルは顔を緩めた。自分のやったことが、すべて報われているような気がした。
出会った当初からずいぶんと長い、遥かな時間を経て、何も知らなかった子供はその手に宝石をたくさん抱えたらしい。
それは、初めて魔法を見せたときのように。
小さな欠片の積み重ねなのだろう。
アベルの手にも抱えたそれに、たしかに幸福というものを感じていた。