@smbrfubuki
この世の中に、2人とこんな漢字を書く人がいるとは思わなかった。枠線の中に均等に、一定の抑揚をつけて癖のある筆跡が躍っている。記された住所は大体、ここから自転車で10分ほど。なるほど近所の病院、確かにそれは間違いない。ここはそこそこ規模も大きいし、患者さんの口コミ評判だって悪くはない。同業者の中では極めて評価が高い方だ、と誇らしげに院長が自慢していたことを思い出す。わたしの手元に差し出された1枚の紙、いわゆる問診票だが……早くその内容を伝達しなければ件の人はいつまでも呼ばれないというのに、わたしは雷に打たれたようにその問診票を見つめていることしか出来なかった。バインダーから外すことも、項目の空欄に赤丸を入れて突き返すことも出来ずにいた。
誰よりもうまく書くことのできる他人の名前だった。代筆したことだってある、親しんだ並びの文字がそこに横たわる。
わたしは漸く気を取り直し、窓口から再度、その用紙を提出してきた男性を見遣った。神経質そうな横顔に、端正に後ろに撫でつけられた前髪、銀淵の眼鏡越しに文庫本を読んでいる。夏目漱石だって。高校生の時に現国で読んで以来だ。まじめ、堅物、几帳面。そんな印象を人に与えて余りあるその男性は、どう見ても知っている人ではなかった。容姿や顔の印象だけではない、耳の形も手の大きさも、全てが知る人とはまるで程遠い。そこで漸く他人であると判別することが出来る。赤の他人、全くの偶然。ただ名前が一緒というだけの人。そこでやっと問診票をバインダーから外すことが出来る。
「どうしたの? 大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫」
心配した同僚が声をかけてくる。へいき、と答えた声が上擦っていた。私は慌てて問診票を手渡す。同僚は何も言わなかった。もしかしたら気付いていないのかもしれない。そりゃそうか、ただの同僚の、大して良好な仲を築いていなかった元夫の名前なんて知らなくて当然だ。
わたしはさして気に留めないようにしながら、丁寧にその仕事を捌いた。今日のその人は、予防接種の申し込みをしてきている。近頃猛威を振るっているインフルエンザは、本音を言うならば少し接種時期として遅かったりもするのだけど、接種そのものをしないよりはいくらかましなのだという。医療事務のわたしにそんな詳しい知識はないし、言われるがままのただの受け売りなのだけど、子供にも実際そう言って説明をする。何事にも反抗して見せる時期の我が子は当然注射を嫌がり、母の心配も困惑もすべてどこ吹く風のようだった。病に苦しむ我が子の姿を見たくないのは当然のことだし、何より君が体を壊したらわたしは何もかも返上してきみについていなきゃいけないそれはつらいの、と訴えたい衝動をひたかくしにして騙し騙し注射を打ったのだ。細かいことはどうでもよかった。ただ健康が確約できるならば安いものだと思った。
きっとだからこの人も、そうした動機の下でここを予約したのだろうし、こんな平日の午前に訪ねてきているのだ。ああ、そういうところも、よく考えればまるで似つかない。
「鹿野さん。鹿野菜蕗さん」
その人を呼ぶ声が震える。まずは、検温をしてください。それだけの事務的な連絡を、これでお金をもらっておきながら、私の声は異様に震えてしまって役に立たない。怖い、つらい、懐かしい、いとしい、憎らしい、切ない。様々な形容詞がわたしの中を通り過ぎていく。そのどれもが不適切なものに思える。そんな、ちゃちでありふれた気持ちじゃなかった。終わりにしようってなったときに、どれだけわたしたちが拗れて罵り合って傷つけあったか、忘れたわけではないだろうに。
過去のことになればなるほど主観が強くなる。客観的事実がどこかに行ってしまって、その時の感情ばかりが生々しく喚起される。嬉しいことも悲しいことも一緒くたになって、過去という掛け替えのないものを形作っていく。その答え合わせをしてくれる人は誰もいない。自分でそれは違う、それは言い過ぎと、誰のためにもならない添削をすることしかできない。
鹿野さんは眼鏡の縁を軽く押さえて、すぐこちらへ来てくれた。アルコールの染み入った脱脂綿とともに電子体温計を渡し、微熱がないかどうか確かめる。発熱状態にあると予防接種を受けることはできない。
彼はスーツを着ていた。予防接種にこれほど不似合いな服装も珍しい。彼の検温が終わるまでに別の人の名前を呼ぶ。その間もわたしはずっと彼を見てしまった。
生え際の形。好むネクタイの柄。釦を外す手つきのぎこちなさ。鎖骨の浮き具合。胸鎖乳突筋の張り。伏せた文庫本にしおりを挿み直す所作。右手薬指の指輪……そこでハタと気づく。右手と左手の違いはあるが、いい年をした男の人が指輪をつけているなんて、理由は大体一つしかない。わたしは自分を恥じた。それはそうだ、あんなに紳士的な身なりの大人が独り身のはずがない。女が放っておかないだろう。仮に男の方が良かったとしたら男だって放っておかない。
ぴぴ、ぴぴ、と受付まで聞こえるくらいの小気味良い電子音が鳴った。鹿野さんはその体温計に表示されたデジタル文字を視認し、すぐさま脱脂綿で先端を拭き取った。そして緩んだ襟元を正し、ネクタイを締め直してこちらへ持ってきた。まあ、予防接種だけだったら確かに、内診はしないからいいんだけどさ。普通ならこのままもう一度、腹を捲って触診なりなんなりされるはずなのにと思うと可笑しかった。
「はい、ありがとうございます」
「あの」
「はい?」
「申し上げにくいんですが。僕の名前、ふき、であってなぶき、ではありません。ふりがなにも書いたんですが」
鹿野さんの指輪のついた方の手がわたしの手元の問診票を突く。確かに言われてみれば読みにくい字で仮名が振ってある。失敗した。わたしはかあっと顔が赤くなるのを耐えながら上ずった声ですみません! と叫んで頭を下げるしかなかった。
「いえ、いいんですが」
「よくないです……あの、本当にすみません」
「いいんですよ。こちらこそ紛らわしい名前で」
そう言ってわたしに微笑みかける鹿野さんは、まさに紳士としか言いようがなかった。なぜ読み間違えたかなんて、自分でわかっている。頭の中がそれでいっぱいだったからだ。情けない。そしていまだに、如何ともし難い大きな存在感でわたしの頭をいっぱいにしていく。別れた夫、最愛だった男、今はもう何処で何をしているか知らないけれど……それでも、やっぱりわたしには夫だったあなた、しかいない。
「すみません。急用ができてしまったので、帰りますね」
「はっ?」
「予約はキャンセルさせてください」
「え。そ、そんな! 困りますって……?!」
夫のことを考えていると目の前の鹿野さんはそんな突拍子もないことを言って立ち去ってしまった。わたしは必死にそれを止めようとしたが、同僚たちもあまりに予想外なことで口を開けてぽかんとその後ろ姿を見送ることしか出来なかった。
そうして、「しかのふき」さんは、どこかへ消えてしまった。
夢ではなかったと思う。何人かその姿を見ていたから。でも、まるで現実ではなかったみたいで、わたしは狐につままれたような顔をしてぼうっとしているしかできなかった。そして何故か唐突に夫に会いたくて仕方なくなった。なんで別れちゃったんだろ。馬鹿だったわ。わたしもあのひとも。そんなことを想ってしまって、ひそかな自己嫌悪に陥るのだった。
「身分詐称は犯罪だぞ」
「未遂だよ。いい人だったね、あなたの元奥さん」
「……。俺には勿体ない女だったよ」
「なんで別れたんだ? あんなに未練たらたらだったのに。うちみたいに憎み合って別れたんじゃないよな?」
「憎み合って別れたよ。だから引きずるんだ。合意してたらこんなことにはならない」
「菜蕗さんは優しいんだな。奥さんもそうか」
いつの間にか財布から抜かれていた身分証明、もとい保険証を奪い返し、鹿野菜蕗は苦虫を噛み潰したような顔をする。
行動力のある男だとは思っていたが、まさかこんな不当な手段で自分の別れた妻に会いに行くなどと思ってもみなかった。随分と回りくどい真似をするものだ。妻、いや元妻もさぞ辟易した事だろう。こんな珍しい名前の男で、しかし全く見た目の異なる奴が現れたら。
「もう気が済んだだろう。姫松さん、あんた悪ふざけが過ぎる」
「年寄りの道楽ってな。いやあ、スリリングだった。またやりたい」
「二度と御免だ」
「あんないい女でも捨てられちゃうんだから、菜蕗さんはよっぽど厳しいんだねえ。俺も気を付けないと」
「は。どの口が」
「でも似てた。同じ匂いがしたよ。同じ目をしてた。よく似てるというか、よく似てたんだな。あなたたちは」
「夫婦だったからな。でも今は違う」
「ほう?」
その先を急かすように姫松の口角が上がる。神経質そうな横顔は貼り付けるのがうまい。流石、元詐欺師専門の詐欺師だっただけのことはある。一生この男には勝てそうにない、と菜蕗……ほんものの「なぶき」は、緩んだ口元を誤魔化すように煙草を吸った。娘の前でも、嫁の前でも吸えなかった煙草の煙は、目の前の男の微かなコロンに少し似た残り香がした。
END