伝令くんと災さん。次の一手のために
@san_ph7
左目は柔らかなガーゼで覆われ、一時的に包帯で固定されている。出血と痛みは治まっていた。だが頭蓋の中で反響するような痛みの感覚はまだしっかり思い出せる。思い出したくもなかった、かつての友の声も。
心配そうな顔をしたままの彼の眷属を部屋から何とか追い出して、彼は訪問者と改めて対峙した。目の前にいるのは黒い影のような男だ。背には蝙蝠に似た巨大な翼が生えている。
「おはよう看取クン」
伝令の悪魔はそう言った。彼がまだ天使だった頃の彼の名前であり、使命の内容でもある。もう彼と”彼女”以外には誰も知らないような大昔のことで、本来であればこの目の前の悪魔が知っているはずはない。だから、彼は普段だったら眉を寄せて不快感を示しただろう。何故知っていると問うただろう。
だが彼は残った右目で、何の関心もないかのように悪魔を見た。
「聞かないよ。そういうものだろうお前は」
静かにそう言い放つ。返ってきた反応が想像していたものと違ったからか、悪魔はわざとらしく肩をすくめた。
こうして何でもないような顔をしているが、彼は今最高に苛立っている。先程まで見ていた幻覚の内容、カイのこと、これから起こること、この目の前の悪魔、左目、全てが腹立たしく映る。冷静さを欠いているらしいことを彼自身も自覚しているからこその返答だった。矜持というものもある。だが指し間違えるわけにはいかない。彼の目的は倒れる直前に考えていたことと同じだった。
伝令の悪魔。彼のことをよく知っているのだろう。
「悪魔は全員で何人いる?」
「6人。今はね」
問答は続いた。
邪神の使いとされる悪魔は6人。そのうちカイが合わなければならない残りの悪魔は3人ということになるのだろう。目の前の悪魔をじっと見る。愉快そうに彼を見つめている。
彼がこの空間で視認できる糸の数は夥しい。宙を漂う絹糸よりさらに細い繊細な光の糸が部屋を満たしている。煌めく糸の中には彼が知っている人物との糸も多くあった。
「随分、遠回しな手段をとるじゃないか」
彼が空中で何かを掴んで、それを目の前でひらひらと振る動作をする。
「悪魔のチケット。試練を課すのは何故だ?」
悪魔は笑いながら答える。
「神がいつでも会えるなんて状況がそもそもオカシイと思わないかい。キミだってよく分かっているだろう? 魔王が女神に会うなんて本来はほぼ不可能、あれはキミたちだったからできたコト」
「では試練を設けてまで”会わせたい”理由っていうのは?」
彼の中には邪神に関する記録というのはほとんどない。加えて聖界と違い魔界は魔王の数だけ複数の世界がある。魔界同士の交流も盛んであるところもあれば、そうでないところもあり、伝承や口伝の類は大体がその世界で完結してしまう。魂の宿命により魔王として在る者どもが創造主として邪神の存在を理解していても、一般の魔族にまで知られているかは疑問だ。というのも、聖界では隆盛ある女神教に対して、邪神教というのは魔界にはほとんど信者はいない。それは女神とは違い邪神は”信仰”を集めることが目的ではないということでもあり、裏を返せば駒や世界への干渉を嫌う、ひいてはゲームへの消極性を示している、と彼は考えていた。
この消極性というのはつまり、ゲームを終わらせる意思が邪神側にはないということだ、と彼は思っていたのだ。しかし目の前の遣いを見る限り、どうやらそれは違うらしい。
では選別を行い、邪神と、しかも勇者を引き合わせたい理由とは何なのか。
「しかも、よりによって囚獄の勇者へチケットを渡した」
彼のこの疑問に、獄へ繋がれた勇者を導く悪魔はこう言った。
「分かっていると思うけど、そんなにカンタンな話じゃないんだよ。何回試したって結局滅びてしまう。なら可能性をもった”ヒト”をふるいにかけるのがいいと思わない? 僕が彼を選んだ理由は、そうだな……。彼の祈りが、あのヒトの心を少しでも動かしたからだよ」
祈った。
「そうか」
「知らなかったの? 魔界の獄中で、勇者が邪神に祈るなんて聞いたコトなかったけど、そう、キミも知らなかったの」
彼が記憶を失う前にカイに対して行った過去の記録の遡行は不完全なものだった。けれど、何故この悪魔が囚獄の勇者の前に現れたのかはそれで納得がいく。本当に祈ったのだろう。きっと他には何もする手立てが、そのときはなかったから。
「知らなかったんだ? それとも、知るコトができなかった?」
伝令の悪魔が顔を寄せた。獣のような黄色の瞳から、言葉の端々から、嘲りを感じる。
「キミがぶっ倒れていた間に何があったのかボクには分からないけど……もしかして能力を失ったの?」
だとしたら傑作だな、と口元はますます歪んだ。
「その能力、元は女神から貰ったモノだろう? 使命を捨てたキミがさぁ、その能力をいつまでも持っていられるなんて、全くオカシな話だと思わない? 君は彼女の信頼を裏切り、ついに寵愛を受けた証まで失ったわけだ。
ねぇ、今どんな気分?」
「……どうして僕が能力を失ったと?」
そう言って、彼は左目を覆うガーゼと包帯を乱暴に剥ぎ取った。瞬間、彼は目の前の悪魔が僅かに表情を強張らせたのを見逃さなかった。
「失ったのではない。一時的に”元に戻っている”だけだ。僕が看取の天使として使命を全うしていたときと同じように」
彼は悪魔へにじり寄る。目を細め、まるでその瞳の向こう側を見透かすようにこう言った。
「ふぅん。妙な言い方をすると思ったらそういうことか。教えてやるよ。僕の使命は魂の記録を閲覧すること、だった。お前の魂に刻まれた7人目、大方そいつを思い出したんだろう? 全く難儀なやつだな、伝令の悪魔。
僕のこの目が恐ろしいか?」
するりと悪魔が彼から身を引いた。憮然とした面持ちで、或いは不可解なものでも見るかのような目つきで、彼を見ている。彼はニヤリと笑って、続けてこう言った。
「そいつと一緒にはするな。僕が今こうなっているのは、数百年以上前にかけられた呪いによるものだ。望んでこうなったわけではないし、これが原因で僕の目指すものを変えたりもしない。何だってやるさ。必要があればな」
何だってやる。それは真実本当にそのつもりだった。
「何だよその顔は? 僕がお前の思ったように反応しなくてつまんないって顔に見えるぜ。なら残念だったな。しかし僕の用事は済んだぞ」
「帰れってことね……。その前にひとついい?」
悪魔は魔王に問うた。
「キミが望む未来とは何?」
「そんなことか。
『神々を殺すこと無く、どちらの陣営の勝利でも敗北でもない』形でゲームを終了させる、それが僕達の目指す未来だ。決して理想や目標ではない、必ずこの世界が迎えなければならない、あるべき未来だ」
彼がそう答えると、伝令の悪魔はそう、と素っ気無い返事をして部屋を出ていった。
彼はしばらくぼんやりと訪問者が出ていった扉の木目を眺めていたが、思い出したように剥ぎ取ったガーゼと包帯を巻き直して左目を塞いだ。別段痛んだりすることは今はないのだが、勝手に外したとなれば彼の小さな眷属がまず怒る。
伝令の悪魔と話すうちに苛立ちはいつの間にか収まった。目的も手段も違えるべき時ではない。だが冷静な対応とは決して言えなかったし、それに何か意味があったのかと問われれば彼だってそっぽを向いて「知らない」と言いたくなっただろう。つまり、伝令の悪魔を欺いたことを。
包帯を外して分かった。彼の左目は失明してしまっている。恐らく二度と光を捉えることはないだろう。それだけなら別によかったのだが、最大の問題は過去視と未来視が全く使えないことにあった。呪いのせいなのは間違いない。だから彼が言った「能力が元に戻った」というのも、ただのハッタリだ。前後の状況から推察できそうなことを並べたら、丁度よくパズルが嵌っただけだ。
能力が使えないせいで、この咄嗟にとった行動が未来においてどのような作用を為すのか、彼にはさっぱり分からなかった。ただ、本当につまらない意地を張った自覚はあるので、この部屋にひとりきりだというのに非常に気まずくなって、彼はベッドに顔を伏せた。それから、この後起こるだろうことと、取るべき行動を思考する。
カイの状態について彼は把握がきちんとできていない。恐らく牢獄にいる本体もフィードバックでひどいことになっているだろう。それ以前に、外にいる分身も。即座に治療の措置を取らねばならなかっただろうが、恐らくあの未来視をした期日はとっくに過ぎている。だが囚獄の勇者の分身が死亡した感触がないのは、糸を握れば分かった。とあれば、第三者によって何らか処置が施されたと考えるべきだった。これは本体についても同じことが言える。
ともあれ、過去視及び未来視が使えないことで、限られた範囲でしか情報を得ることができないのは大きな痛手だった。早急に解決する手段を立てなければならないのだろうが……。
ため息をつく。
あまりにも多くのことが一度に起きて、混乱していると少しは思いたかったが、普段から途方もない数の情報に触れる機会のある彼が、自分に対してそんなことを思うのは許されないように思われた。
伝令の悪魔が彼の状態を知らないままならば、カイがこのことについて知ることもないだろう。そしてカイは今動けないはずだ。つまり現状、彼のこの状態で心配をかけることはない。少なくとも今この瞬間は。どのみち伝令の悪魔の持つ能力が彼と似たようなものであるならば、恐らくこの嘘もすぐに露見することになる。その時伝令の悪魔がどういう行動をとるのかについて、彼は考えないようにした。
ベッドに横たえた体を僅かに傾かせる。背中の翼が邪魔で寝返りなんて打てた試しがないのは知っている。
忌々しいのは、左目だけではないのだ。
進むほどに何かに阻まれるような気がしたのは、最後に行った未来視の結果に引きずられているせいなのだろうか。確かめようにも、この有様では対処もできない。歯がゆさを通り越して、何とも虚しい。
「何もするなって言われてるみたいだな」
ぽつりと、そう呟く。
それが目的だったのか。だが彼の内にある呪いは、そんなものでは済まないだろうことを彼も予感している。彼が歩みを止め絶望することを期待して、かつての友は呪いをかけたのだ。これだけで終わるとは思えない。
ただ、こちらだってそのまま素直に道を違えてしまうつもりなど毛頭なかった。
何だってしてやると、そう言ったのだ。
起き上がる。少なくとも、この目のままではカイに突っ込まれるに決まっている。あんな顔をしたカイを無理やり鏡の向こうへ送り出したのだ、きっとまた心配されてしまう。
「そういうのはな、僕の仕事なんだよ、僕の」
ひとりごちて、顔を上げた。カイが生きているなら何とでもなる。
立ち上がり、扉に手をかけて廊下へ出る。相変わらず窓の外には重たい灰色をした雲に覆われた空が広がっている。気温は低い。冬の季節はまだ長く、温かな春の片鱗すら感じられない。
カラン、カラン。廊下を行く彼の耳に、どこからか響く乾いた甲高い鐘の音が届いた。次に、突然前方から矢のように飛んできた白い物体が彼の胸へ追突するように着地すると、見る間にそれは人の形を成していく。どうしたのイヴ、と声をかける前に、彼の小さな眷属はこう言った。
「”お客さん”だぞ、へいか」
「それは分かってるよ。鐘が鳴ったから」
この世界に迷い込む者を感知するための魔術だ。もっとも、彼は城を空けていることが多いので、これを直に聴くのは実に久しぶりのことだった。
「今日はふたりいるんだ」
「へぇ、どんなお客さんかな?」
彼はイヴを抱えて廊下の窓から訪問者を確認するべく下を見た。
雪原をこちらへ歩んでくるのはふたり組だ。ひとりは金髪の髪をした女性。その両目は黒い布で覆われている。杖を付き、この雪でも足を取られぬよう慎重に歩いているのが分かった。聞こえているかは分からなかったが、彼はようこそ、と心の中で呟いた。
もうひとりはそんな彼女の横を少し心配そうに見守りながら着いてくる黒髪の青年。彼とは逆に右目を眼帯で塞いでいた。彼は知っている。青年の両目はきちんと見えているのだ。
「知り合いか?」
ふたりを見つめている彼に向かってイヴは聞いた。
「僕が呼んだのさ。迎えに行っておいで、イヴ。僕はお茶の準備でもしよう」
窓からすぐに飛び立っていく白い鳩を見送って、彼は踵を返した。
彼が蒔いた種は、きちんと芽吹いたらしい。眼前にすべきことが明確に現れたのは僥倖だ。何もできないかと思ったけれど、そうでもないらしいことを少しだけ嬉しく思う。運命とは、行動によってのみ変えられるものだ。
そして魔王は、勇者ふたりを城へ招いた。