災さんと鴉の女の子の話。
@san_ph7
彼女は丘の上から見える景色が好きだった。
常に黄昏に染まる世界を、漆黒の城を、その周りに広がる町々を見るのが好きだった。黄金色に輝く空の下で、ナイアメアンは従者もつけずに城を抜け出しては丘の上までよく通った。風が雲を流し、草原を波立たせ、彼女の髪をさらう。美貌を称される彼女だが、真に美しいものとは単一の存在などではなく、それらを内包するこの世界そのものだと、彼女自身はそう考えている。そして彼女の血を分けた兄が支配するこの世界は、いつも美しかった。
その日もナイアメアンは丘に登り、そのペリドットのように輝く瞳でいつもと変わらぬ美しい世界を見た。「美しい」といつも思うが、その美しさは日々異なり、時が空の色と季節を変え、様々に移り行く世界は彼女を飽きさせることはなかった。
服が汚れるのも気にせずに、草原の丘に腰を降ろした。膝を抱えて、ただじっとその光景を見る。日にもよるが、突然雨に降られたりすることがなければ彼女のこの”趣味”はおおよそ夜と呼ばれる時間帯になるまで続く。この世界の空が漆黒に染まることはない。暗くなったら帰る、が分からない彼女は、時々この場所でそのまま寝こけては侍従に大層叱られることがある。そうでなくてもただ時間を忘れてしまうこともままあった。気をつけなければ、と思うのだが、
「きれいだもの」
ぽつりと呟く。手近にあった名も知らぬ草を摘んで、そっと風に流す。地を撫でるように吹いたそれに乗って、丘を滑って見えなくなったかと思うと、ふわりと高く浮かび上がって黄金の空と世界の地平線との間をなぞった。
「ナイア」
何とはなしに満足げに微笑んだ彼女の後ろから声がかかる。
「おすわり?」
振り返り、その人がいることを確認した彼女は自分の隣の地面をぽんぽん、と叩いた。
「犬じゃないんだよ僕は」
文句をつけつつも素直に隣に座ったその人は、彼女の友であった。黒い大きな翼を背に持ち、砕けた転輪を頭上に頂くその姿、天使と呼ばれる生き物によく似ていると彼女は聞いたことがあった。以前そう本人に伝えると、形容し難い表情を作ったので少なくとも褒め言葉ではないのだろう、と彼女は思っている。
「また不用心に。従者のひとりぐらい付けたら。邪魔にはならないでしょ」
「嫌よ」
即答し、ぷいっとそっぽを向いた彼女の反対側からため息が聞こえる。こんなやり取りはいつものことだ。彼女が顔をそむけたままでいると、君の兄貴も大変だな、と少し投げやりな返事をされる。
「兄は今関係ないわ」
「……喧嘩でもしたの」
「聖界に行きたいって言ったら、また反対された」
彼女は膝を抱えて顔を伏せた。注意深く、ため息にならぬように吐き出された細く長い息が、何を言おうか少し考えているときの彼の癖であることを彼女は知っている。
「心配してるだけだ。ナイアが自分の傍を離れるのが嫌なんだろうし。ナイアもこの世界が好きだろ? 行かなくても」
「聖界は美しいのでしょう?」
彼女が顔を上げてそう言うと、彼は困ったように目を逸らした。この場所で彼から聖界のお土産話を聞くのも、彼女の楽しみだ。青い海と青い空の話。この世界とは違う時の流れ方。季節の移り変わり。雪。どこまでも続く砂の大地。空中に浮かぶ国。年中氷に覆われたままの森……。彼は自分の訪れた場所の話なら、聞けば聞いただけ話してくれた。特に何の飾り気もなく、ただ淡々と語られるその情景は、かえって彼女の想像と好奇心を大いに掻き立てた。
いつしか彼女の夢は、この世界と同じくらい美しいものを自分の目で見に行くことになった。けれどそれは、彼女の悩みでもあった。いつ何時彼女が兄に相談したところで返ってくる返事は決まっていて、それは時たまひどい兄妹喧嘩になったりもした。といっても、兄の方は冷静で、声を荒らげるのはいつも彼女の方だった。彼女には反対される具体的な理由が分からなかった。兄も、そして彼も、”彼女とこの世界にとって”危険であるということを伝えもしなかった。
隣のそのひとの顔をじっと見つめる。彼女や彼女の兄とよく似た、緑色の瞳をしている。整った相貌。動いていなければ稀代の彫刻家によって生み出された素晴らしい彫刻のように見えた。風に吹かれる黒い髪は毛先だけが不思議に金色をしていて、時折きらきらと光るのだ。彼はこの世界によく似合っていた。そして彼もまた美しいと彼女が思えるもののひとつだった。
「そんな風に見るんじゃない。駄々こねるみたいに」
見咎めたのか、彼は視線を無理やり逸らせるように彼女の頭を乱暴に撫でた。
「あれがそう言ってるなら、僕だってどうしようもない。あれは君の兄であり、王でもある」
「貴方だって魔王なのに」
「それこそ関係ない。僕等の間でも、君は大事だ」
そう言って、彼は黙ってしまった。自分が彼女に聖界の話をし過ぎたことを後悔でもしているのだろうか。緑色の瞳は地平線を映している。黄金色の空と地との境界がじわりと滲むように橙から赤へと変化していく。
「私、赤い色が1番好き」
彼と同じ方向を見ていた彼女はそう言った。
「意外だな。緑色かと思った」
「この空、あんまり赤い色にはならないのよ。綺麗でしょう? だから私、赤い宝石も好き。それに赤は、緑色とよく似合うわ」
貴方もこの空によく似合ってる、と彼女がそういうと、彼は難しい顔をしてやはり黙った。褒めたつもりだったのだが、難しいものだなぁと彼女は思う。兄の友人でもあるこの魔王は、あまり笑うことがない。兄といるときに少しだけ微笑むような顔をしたところを、それもほんの数回、見ただけだ。
私だってウィルの友達なのに、と拗ねるように言ったのをちゃんと聞いていたらしい彼は、何のこと、と彼女に尋ねた。
「兄さんといるときはそんなでもないのに、私といると貴方、寂しそうな顔するんだもの。何を考えてるの、なんて聞けないし、でももっと楽しそうにして欲しいし……私だって色々考えてるのよ」
「聞けばいいのに」
「聞いたってまともに答えたことないじゃない!」
そう言い放って、彼女は彼の頬をつまんでぐいぐいと引っ張る。彼は何も言わずに、なすがままにされている。抵抗しない代わりに真面目に答えるつもりもない、という意志表示にも見えて、ますます腹が立つ。その上彼女から逸らされたその瞳はやはり寂しそうなのだ。
「せめてこっち見なさい」
「ふ」
引っ張られていることで変な返事をした彼が、きちんとこちらを向いた。
「素直でよろしい。ほっぺたは、許してあげるわ」
彼女は笑って、彼の頬から手を離した。彼は少し赤くなった自分の頬をさすった。それから、実に言い難そうに、困った顔をした。何か言葉を探しているのを彼女も分かって、彼が何か言うのを待った。伏せ気味になった顔を長い前髪が遮る。風がその髪を揺らして、その隙間から一瞬、冷たく、しかし燃え上がるように輝く緑色が見えた。
「君が、僕のことそういう風に見えるっていうなら、そうなのかも」
弱々しいその返事。今まで聞いたことがない声の調子に、彼女も少し驚いた。
「……寂しいの?」
彼は返答をせず、今度こそ顔を逸した。
何故なのだろう。彼が魔王だから? 私達とは違うから? それともその姿が天使と呼ばれる生き物に似ていて、それが嬉しくないせいで? 彼の持つ翼は、ナイアメアンや彼の兄や、或いはこの世界に住まう民とよく似ている。似ているという事実は、本当にただ似ているだけで同じではない、ということでもある。また彼の兄も「魔王とは単一の種族であり、決してふたつとない存在だ」と言っていたことを彼女は思い出した。たったひとりの兄はけれど、彼女と血の繋がりがある。彼はどうだろう。家族がないのなら、やはり寂しいと感じるのだろうか。血の繋がりはなくとも、誰かが傍にいることでそれが和らいだりすることは、彼にとってはないのだろうか。
それが彼女や彼女の兄であっても。
こんなことを考えて、何だか自分まで寂しくなってきた彼女は、ぼんやりと赤く染まった地平線を見て、それから小さな声で歌い始めた。
黄金から橙に変わった空と世界を駆ける風の中に、声が響く。彼女から紡がれるそれは意味を成す言葉ではなく、ただの音だった。小さいが、しかし高く澄んだ声は、ほんの少しだけ聞くものに悲しさを感じさせる。兄ほどではないとはいえ、血縁に魔王を持つ彼女の魔力もまた並々ならぬものであり、その歌は彼女がもっとも得意とした魔法であった。彼女が悲しく感じたから、その歌もまた悲しい旋律になる。
彼女の歌を彼は黙って聴いた。しばらくして彼女が歌い終わり、あたりにただ風がそよぐささやかな音だけが聞こえるようになった頃、彼はようやっと口を開いた。
「なんて曲」
「えーと」
即興だったのだ。空を仰いで、彼女はちょっと考えた。
「……『ウィルが寂しそうなので何だか私も寂しくなるなぁと思ったときの歌』」
「何それ」
思わず苦笑した彼を見て、彼女は目を丸くした。
「何」
「笑ったわ、今」
「僕だって笑うときぐらいある」
歌は上手いけどそういうセンスはない、と言った彼の言葉にむっとした彼女は、彼の横腹を強めにつついた。けれど彼が今確かに笑ったことに、彼女は何だかほっとした。
「次はもう少し明るい歌で」
「歌えばいいの?」
「君の好きにしていいよ」
歌って欲しいって言えばいいのに、と思いながら、彼女は思いつくままに歌い始める。明るく軽やかで、温かい音色だ。寂しさを振り切るような、強さを感じる音でもある。音吐朗々と、世界のこの場所にだけ、彼と彼女にだけ聞こえる歌が響く。
空のどこともない場所を見ながら歌っていた彼女は、ふと彼が今どんな顔をしているのか気になって、横目でちらと見てみた。
緑色の真剣な眼差しをした彼と、目が合う。
突然止まった歌に、不思議そうな顔をした彼が言った。
「終わり?」
「なんでこっち見てるの」
「見るよ。ナイアが歌ってるから」
「だからって、そんなにじっとは見なくていいわよ。気が散って……」
「悪かったよ」
何故だか動揺している彼女に、そういうものかなぁと呟いた彼は、続いてこう聞いた。少し笑いながら。
「それで、今の歌は?」
「な、何が?」
「歌の名前。タイトル。題名」
「何でもいいでしょ」
「よくないよ」
よくない、と珍しく食い下がる彼に折れて、彼女は半ば自棄になってこう言った。
「『貴方の隣にはいつも誰かが傍にいるから寂しくない』の、歌」
一瞬だけ間を置いて、そう、と返事をして立ち上がった彼は、彼女のその答えを笑ったりしなかった。その顔はもう寂しそうには見えない。緑色の瞳が、空の色を反射して光る。
「帰るの?」
「帰る。もう時間だよ、ナイア。もう少ししたら君に迎えがくるから」
大きな両翼をばさりと広げた彼は、立ち上がった彼女の頭を今度は優しく撫でた。
「ナイアはいい子だ。ありがとう」
そう言って、彼はするりとその場から姿を消した。
丘を駆ける風が雲を運び、彼女の髪をさらった。地平線は真紅に染まり、一層輝いて見える。彼女の瞳には、いつもと変わりない美しい風景が映る。しかしその風景は、日々様々に異なった姿を見せる。今日も、いつもと同じ、けれど昨日とは違う美しさをナイアメアンは彼女の瞳と心とで捉えていた。