リシェラティア(http://lycieratia.web.fc2.com)はマルチエンディングだと思ってます。そんな一つのあり得た結末。※ほんのり流血表現あり。
@na_na_mi_p
「わたし、帰らなきゃだね」
ぽつぽつと開いた淡い色の花々が香り立つ、草原の真ん中で。
暮れゆく陽を背に、リアナはそう言ってふにゃりと笑った。
どんな顔をしたらいいのかわからなくて取って付けたみたいな、ちぐはぐな笑顔だった。
それ以上見ているのが辛くて、レオルは視線を逸らすようにうつむいた。
――約束を、していた。
『彼女』が、そしてきみがあいする、名づけられたこの世界のために。
そして、きみのために。
きみが好きだと言ってくれたこのうたで、この竪琴の音色で。あるべき場所へときみを送ろう。
雪が解け、春を告げる小さな花たちが顔を出す、ここがその約束を果たす場所。
はじめて、実感を持って想像する。『彼女』の夢が紡いだこの箱庭の外へ、リアナを還すということ。
かたちなきものたちを空の彼方へと還すのと同じように、リアナという少女は、永遠に自分の傍から居なくなる。
やわらかに揺れる髪や、くるくると表情を変える花色の瞳。手を伸ばせばそこにある確かな温度や、ひたむきな言葉を紡ぐ声。
そのひとつひとつが、全部、ここから消えてなくなる。
本当に?
ほんとう、に?
レオルは顔を上げ、もう一度リアナを見た。
そうして、ふいに交わった視線。たったそれだけで、継ぎ接ぎの微笑みはぐずぐずに崩れ、泣き出しそうな瞳だけが残される。
レオルは一つ息を吐き、首を横に振った。
「うたえないよ、それじゃ」
「……え?」
「そんな迷子みたいな顔したおまえを、一人で放り出せるかよ」
春の始まりをうたうような強い風が、リアナの髪をなぶり、その表情を隠していく。
そっと手を伸ばし、その髪をかき上げて。花の色をした瞳を、まっすぐに見据えて。
レオルは、静かに問いかけた。
「かえらなきゃいけない、ってずっと言ってるけど。リアナはどうしたい? ほんとうに、かえりたいって思ってる?」
「……だって。かえらなきゃ、いけないんだよ。そうじゃないと『あの子』の夢が、この世界が、壊れちゃう」
「それでも、ここにいるのはリアナだ。リアナは、リアナだろ」
覚えず荒くなった声音に、リアナは、小さく肩を震わせた。
潤んだ瞳が、まっすぐにレオルを映す。
応えるように、レオルは頷いた。
「リアナがどうしたいか、だよ」
――いかないで、と。
口をついて出そうになる言葉を押さえつけて。
せめて微笑おう、とレオルは思った。
どうかリアナが、まちがえないように。
いちばん幸福な選択ができるように。
「俺は、おまえが一番望むことを叶えたい。おまえが選ぶなら、どっちだっていいんだよ」
たとえ、離れていくのだとしても。
リアナが心からそれを望んで、選ぶというのなら。
その願いを叶えられるのはレオルだけ。そのためにこの竪琴が、うたがあるのだから。
「わたし、は」
すぅ、と涙が一筋、リアナの頬を伝い落ちるのを。レオルは静かに見つめていた。
「……れたくない。はなれたく、ないよ」
けれどもその声が、ひどく心細げに、ふるえていたから。
手を差し伸べるように。
ずっと押し留めていた言葉が、こぼれ落ちる。
「かえりたく、ない?」
落としてしまった過ちの糸を、少女は、すがるように掴んだ。
小さく、けれど確かに頷いたリアナの。その華奢な身体を引き寄せて、強く、つよく抱き締めた。
――たったひとつの分かれ道が在ったとしたら、それはあの瞬間だったのだろうか。
だいじょうぶ。一人でいかなくていい。ずっと一緒にいる、ずっと一緒に行こう。
泣きじゃくる少女を腕に抱いて、幾度となく繰り返した言葉にはなんの力もないけれど、それはどこか自分自身に言い聞かせるようでもあった。
泣き疲れたように静かに眠るリアナの、冷えた頬をそっと掌に包みながら、レオルはひとり、月のない冴えた星空を睨み据える。
リシェラティアと名付けられた、この世界の。すべてが、『彼女』の視ている夢だというのなら、どうしてこんなにも彼女を、無慈悲に傷つけるのだろう。
どうして、守れないのだろう。
なんのためにこの竪琴を奏で、うたを紡ぐのか。
果ての森に生まれついた宿命のためじゃない。答えはひとつだった。リアナを、傍にいるこの少女を、その笑顔を、彼女がわらうこの世界を護るため。
だけど、そのひとつも叶わないというなら。
この音色も、このうたも。
(……いらない)
弓なりに彫った古木に、細く縒り合わせた糸を渡した竪琴。たったそれだけの簡素なつくりだというのに、その弦はレオルの指だけに応え、音を紡いできた。
その、ぴんと張られた糸に指の腹をあて、ありったけの力を込めて。
「っ、……」
細い糸は刃の一閃のように指先を切り裂いたけれど、ただそれだけのこと。
ずっと必死に守ってきたけれど、壊れるのはあまりにあっけなかった。
その虚しさに、乾いた笑いが漏れる。それからひとしずく、涙が頬を伝い落ちた。
長い夜が明けた。
あるべき道を外れたはずの世界に、それでも変わらぬ朝が来る。
穏やかに降り注ぐ日差しに、泣き腫らした瞼をゆっくりと持ち上げたリアナは。褪せた血の痕がそこここに残されたレオルの手を見て、小さく息を呑んだ。
詰問するような眼差しが、レオルを捉える。
言葉もなく、見つめ合った数秒。それだけで、リアナは何かを悟ったようだった。
「わたし、ここにいていいの?」
ほぅ、と息を吐くような甘い声だった。
レオルは答えなかった。答えることができない。
それでも、花の咲くように、やわらかにリアナは微笑んだ。
その温かさは。傷ついた指先の痛みよりも深く、深くレオルの胸の奥を抉った。
「……ちがう。ここにいるしかなくなったんだ。俺が、そうしてしまったから」
おまえの可能性の半分を、この手で永遠に奪ってしまった。もう二度と戻らない。そうだというのに。
「なのに。なんで、そんなふうに笑うんだよ」
リアナは、ひどく不思議だといわんばかりに、ふわりと首を傾けた。
「もうずっと、絶対にレオルと離れなくていいんでしょう?」
「……もう二度と、かえれないのに?」
「だって、ここにはあなたがいる」
そっと伸ばされた両手が、鈍く疼く指先に触れ、包み込んでいく。
そのとき初めて、自分の手がひどく冷えきっていたことに気づいた。
「これは、わたしが夢みたこと。レオルはわたしの願いを叶えてくれたんだよ。出会った日から今日までずっと、ずうっと」
指先を包んでいた温もりは、頬へと伸ばされ、かわいた涙の痕をそっと辿っていく。
「だから、もう泣かないで」
触れた膚が、こんなにも温かいということ。
――ああ、リアナはここにいる。
守り続けよう。この温かさがずっと、世界の終わるまでここにあるように。
「リアナ」
「なあに?」
甘やかな声が応える。
そっと抱き寄せて、レオルはその耳元に囁いた。
――たった一人のきみへ、揺らぐことのない想いを。
ずっと傍にいて、守り続けよう。
はじめから、二人きりで閉じた世界のように。
ゆるやかに死んでいく世界の、それでも一番温かい場所を、与え続けよう。
物語が閉じられる、その日まで。
いくつもの朝と夜を繰り返した。
咲き綻んだ花は実をつけることなく朽ちて、つめたい風にさらわれていった。たったひとつの音色が支えていた世界は、風化していく瓦礫のように少しずつ、少しずつ崩れていく。
すがるように繋いだ、互いの手だけは離さずに。時を数えることすらなんの意味も持たない、そんな日々をどれだけ過ごしただろう。一瞬でもあり、とても永い時間でもあった。
命の尽きる最後の瞬間まで、彼女は笑っていた。
幸福だと微笑み、愛と祝福だけを紡いでいた。
崩れ落ちそうなほどに軽いその亡骸を抱いて、口ずさむのは、もう何の力も宿さないレクイエム。涙はとうに枯れ果てた。
風がやむ、音が凪ぐ。空が落ちる。瞼を下ろすように、世界がゆっくりと閉じていく。
そうして一つの夢が、ひとつの命が。
永遠に、その時を止めた。