@na_na_mi_p
刺すようなつめたい風が鳴く。
バルコニーから眼下に望む石畳の道は、街の中心に立つ時計塔へと続いている。鈍色の石を敷き固めたその道が青く染まって見えるのは、石畳の隙間を埋めるように蔓延る氷の木々のせいか、或いは――。
視線を空へと向けてみる。幾重ものベールのように空に横たわる薄い雲と、その向こう側に浮かぶ世界樹が視界に映る。正しく彩られた風景。『今は』、私の眼が正常なのだと判った。
太陽が、月が空に在るように、空に根差す蒼碧の大樹を仰ぎ見て、胸の前に手を組む。それから、ゆっくりと目を閉じた。
見上げればいつも変わることなくそこにある世界樹へ祈りを捧ぐのは、常ならば、殊更に思いを込めてのことではない。物心ついたときから刷り込まれた慣習は、果たして信仰と呼ぶに値するのか。――否、そのような思考を差し込む余地があるのだから、答えは既に出ている。
けれど、今だけは。
たった一つの奇跡にすがることを、どうか許してほしい。
ひとつの願いを心の中で繰り返し、ゆっくりと目を開けた。
「おとうさん」
あどけない声に振り返れば、不思議そうに見上げる茜色の硝子玉の瞳があった。
RiL-23――リル。やわらかな金糸の髪から、小さな爪の先まで緻密に、繊細に作り上げを、そして『心』を植えつけた、世に二つとない人形の少女。
「世界樹においのりしてたの?」
「ああ」
「じゃあ、私もするっ」
そう言って、たたたっと足音を響かせて私の隣に並んだリルは、めいっぱい顔を上げて世界樹を見上げた。小さな手を組み合わせ、ぎゅっと目を瞑る。
そのいとけない仕草に、ふっと口許が緩んだ。
――祈りというものを、ついぞ正しく教えられなかったという苦笑でもあった。リルは恐らく、この動作そのものを祈りと捉えている。目に見えない心の内に抱く想いこそがその本質とは思っていまい。
仕方ない。なにしろ私自身が、これまで正しく世界樹へ祈った試しがなかったのだから。
世界樹は、ただ其処にある。それ以上でもそれ以下でもない。叡知を超える存在への畏敬こそ抱けど、一人の人間としての切なる願いを託したことは、これまで一度としてなかった。そんなものは自分の手で叶えるものだと思っていたし、叶えてきたつもりだ。
その最たるものが、このリルの存在だといえよう。
ひとつの命の創造に近いと、名も知らぬ誰かが評した。それほどにリルの心はヒトのそれそのものだった。
この豊かに育った、いとけない心に。これから私は別離を教え、孤独を教え、滅びゆく街に独りきりで放り出すことになる。
だからこれは、初めて捧げた『祈り』だった。
いつか必ず、凍てた大地は解けるだろう。
決して私が辿り着くことはできないその未来に、温かな幸いが在るように。願わくはそこに、揺るぎない愛でお前を導く者があるように。
高く堅牢な時計塔が、時を越えて、凍てゆく樹海の向こう側へ、お前を守り抜く『方舟』となるように。
「おしまいっ」
一通りの所作を終えたリルは、「ちゃんとおいのりできたよ」と言わんばかりに、誇らしげな表情で私を見上げてきた。
頭を撫でてやると、満面の笑みが咲く。
――ずっと、こんな時間が続けばいい。それが、それこそが心からの願いだった。けれどもそれは叶わないと判っている。大地を、街を、この『眼』を緩やかに侵食していく終焉の色は、それを許してはくれない。
せめてこのいとけない笑顔を、きらめく瞳を、ずっと、ずっと忘れずにいよう。この眼に映る世界が樹海に沈むまで、時計が止まるその日まで。
息を吐き、凍てた空気を吸い込んで、私はリルに告げた。
「リル、あの時計塔の中を見せてあげようか」
何も知らない少女の茜色の瞳が、ふわりと歓喜に見開かれていく――。