@kyuri_akita
ふわり、と甘い香りが鼻孔をくすぐり、意識がそれた。文字を視線で追うのを、瞳を閉じて終える。
片膝をつきながら、お世辞にも客人を迎えるとは思えない体勢で本を読んでいた。紺の髪はぐしゃぐしゃのまま、しばらくは訪問の予定もないからと、ろくに風呂も入っていない。そんなことを思い出しながら、甘い香りに視線を向けた。
その先には一人の女の子がソファにきちんと腰かけている。
「・・・来ていたなら、こ、えを」
かければよかったのに、と続けようとして、小さくむせる。
けほ、と咳き込むと、座っていた彼女が慌てて立ち上がった。
「だ、大丈夫かえ?」
気にするな、と手を振って、机に置いてあったティーセットに魔法を使う。
魔法がかかったポットの水は温まり、勝手にお茶を入れ始めた。
飲まず食わずでひたすら本を読んでいたせいで、うまく声が出ない。客人もいることだし、ちょうどよい、と彼は本を閉じた。
「やあ、ブランカ」
久しぶりというほどでもない客人に声をかけると、彼女は口元をにっこりと曲げた。
東の国にあるキモノという衣装に似ているが、彼女の服は至るとこにレースが並んでいる。明るい緑のそれの丈は短く、ドレスのようにさえ見えた。
それだけでも人目を惹きそうな服装ではあるというのに、彼女は狐を模した白い面で顔の上半分を覆っていた。
聖界では見慣れぬ桜色の髪色といい、その姿だけ見れば、まるで本の中の異界の神のようだ、と書館は思った。
(まぁ)
勝手に動くティーセットを眺めながら、彼女ならば神のように崇められることさえあっただろう、と膝の上に頭を置いた。
立ちつくす彼女を観察していれば、ブランカはしばらくうつむいてから、意を決したように顔を上げた。
「今日はな、妾の好きな花を持ってきたのじゃ」
はい、と差し出される一輪の花を眺め、これはどうすればいいのだろう、と書館は考えた。
さすがに花ぐらいは見たことがある。こうして手折られた花が、長くは持たないことも知っている。
差し出したまま、首を傾げるブランカは、この花を受け取って欲しいのだろうかと考えて、書館はその一輪を受け取った。
「・・・ありがとう」
にぱ、と笑う彼女に、これでよかったのだと知る。
小さな花は、甘い香りがした。近くにいる彼女もいつもこの花のような香りがした。紙が発する埃の混じったような香りとは違う、嗅ぎ慣れぬにおい。
「隣にすわってもええかえ?」
どうぞ、と本を魔法で宙に浮かす。彼女の分の隙間を確保すると、ちょこん、と隣に腰掛けた。
「この花はの、妾が好きな花畑でもあまり見かけぬのじゃ。きれいであろ?」
「はなばたけ・・・」
明るく喜々として語られるその光景を、書館は知らない。
花畑が好きだという彼女のその眼に映す光景を、想像もできない。
花がきれいだという、その言葉の意味さえ、書館にとっては理解しがたいものである。
入れ終わったお茶の入ったカップを、目の前に置かれたローテーブルに乗せる。一つは自分のほうに寄せ、そのまま喉をうるおした。
「そうじゃ、花畑にはの、いろんな花があっての!」
この花がいいとか、あの花がいいとか、そういう話はたくさん聞いている。ならばと、受け取ったままの花を眺めて、魔力を展開した。
声による詠唱すら必要しない、魔力の構築。書館が初めに教えてもらった魔法は声で魔法式を唱えるものだった。
それを遠くの日のことだと思うほどには、書館は時間を経ていた。
「な、なんじゃ!?」
魔力を感知したのか、床が光り始めたことにブランカがうろたえる。足を引っ込め、座ったまま、書館に抱き着いてきた。
なぜ怖がるのかわからないまま、書館はすぐに魔法を使い終えた。
ぎゅっとますます強くなる力に彼女を見上げてみると、強く目を閉じていた。
「・・・ブランカ、もう大丈夫だよ」
そうして声をかければ、おそるおそる、面の下で片目を上げる。
しかしすぐにぱっと両眼を開くと、わあ、と声を上げた。
床に広がるのは、一面の白い花の群れだ。雪が降り積もったような花々が、絨毯のように部屋を覆い尽くしていた。
「え?どうしたのじゃ?」
反射のように席から立ち上がって、地面をさくりと踏む。そうすれば白い花が散った。
足元に地面はなく、ただ白い花びらで覆われている。
「ちゃんと花だよ」
ほら、と近くに生えている花を一本手折って渡すと、彼女は何か壊れ物でも受け取るかのように、そっと手をさし伸ばしてきた。ぎゅ、とブランカはそれを胸元で大事そうに握る。
「・・・きれいじゃな」
ささやくような声に、ちくりと何かが走った。あまり動かない情動のその近い感情だけを、書館は知っている。
自分が知るそれであるはずがないと、書館はごまかすように顔を伏せた。
「・・・君、すきだって言ったろ」
え?と振り向く彼女が、首を傾げる。仮面でどうせ顔もわからぬと、久しぶりに眺める幻想の白い花畑に目を向けたまま、膝を抱えた。
「はなばたけ」
「・・・えっと」
どういうことだと言いたげな彼女に、書館はため息交じりに僕が作った、と告げた。
「花をくれたお礼。君、花畑好きなんだろ?だから作った。僕の魔法で」
「わ、妾のために・・・?」
「君以外に誰がいるんだ?」
質問を質問で返して、ようやく書館が顔を上げると、彼女が固まっていた。どうしたんだとよく見れば、何やら耳が赤くなっている。
「耳が赤いけど、どうし」
「あ、なんか見たことない!見たことない花が!!み、見てくる!!」
聞く前にそう言って背を向ける彼女に首を傾げて、書館はぼんやりと彼女を眺めた。
花がきれい、と言われても書館には理解できない。水がなければ枯れてしまうものとしか認識できない。
だから、きれいだというその言葉をこぼす彼女に対して沸き上がった情を確定したくはなかった。
それは本を読んでいるときに騒がれるような、ひどく耳障りな言葉を聞いているような、そんな感覚に似ている。
あるいは、かつて多くの人間を屠ったときのような。
「すごいの!こんなこともできるんじゃな!」
そう言って嬉しそうに笑う彼女がいる光景は、ひどく幻想的だった。
一面の白い花の中にいる彼女は、ただいるだけで鮮やかだ。目に毒でもありそうなほどの光彩を放つ彼女が跳ねているうちは、まあいいかと考えるのをやめることにした。
「・・・所詮、魔法だから偽物だけどね」
はしゃぐブランカにそう付け加えると、彼女は動きを止めて振り返った。
「ここにあるものの、何が偽物なんじゃ?」
いま、この瞬間だけが真実だろう、そう告げる彼女に、書館は少しだけ目を見開いた。
「きれいじゃな、こんなにきれいなら、偽物でも本物でもよい」
そんなことを言う彼女に、本当に?と尋ねた。
「まるで人間のような人形がいてもそう思うのかい?人間のように、息をして血を流す、人間ではないものでも?」
うーん、とブランカは首を傾げた。
「妾には難しいことは分からぬが・・・それとて、その一つだけじゃろ?偽物ではないと思うが」
そう言われて、赤い髪の側近を思い浮かべた。
ぎりぎりまで人間に迫った人形である彼。壊れた腕はつけかえればよい人形。けれど、その体は血を流して感情に従って涙をこぼす。
まるで人間のような、偽物の彼。
「そこに、偽りはないのであろ?」
その言葉が追撃のように書館に刺さった。
(ああ、そうだ)
彼の心にも行動にも、プログラミングされたものでもない。
(思うより、気にしていたらしい・・・)
長い時を経て気づいた事実に、はあ、と盛大なため息をこぼした。
彼女に指摘されなければ気づかなかったのではないか。いや、もしかしたら別の誰かによって気づかされていたかもしれないが。
「ブランカ、君はすごいね」
何がじゃ?と首を傾げる彼女に、書館は素直に、また多くの友人に言うように、視線を向けた。
「もっと、ぼくにいろんなことを教えて」
それは他意なく、教えを乞う言葉にすぎなかった。だが、彼女にはいろいろな部分に色々な意味がつけられてしまい。
ぶわああ、と顔を赤くした。
そんな行き違いがあるとも知らない書館は静かに首を傾げるのだった。
二人の行き違いは、しばらく解けそうにない。