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『アイ』を埋める

全体公開 遊戯王ZEXAL(Pixiv未UP) 7 4 18379文字
2017-05-11 16:59:41

Ⅳが「ゲッ」って言った所から始まるドールロマンスⅣ璃緒。
前半は裏曲。3pからの表曲が本編。

『アイ』を埋める (裏曲)


夕陽が落ちた頃だった。

弟と二人並んで道に影を落として、紅茶を買った袋を下げた帰り道。
Ⅳは、不意に視線を持って行かれた、暗い脇の路地先で。

『ソレ』と、目が合った。

無いの、無いの

ぐすぐすと泣く小さな少女
逢魔が時の薄闇の中から、ソレはⅣに向けて手を伸ばしていた。

汚れたドレスのスカートを広げて、帰る場所がわからないと泣いて手を伸ばす。
少女がⅣに向かって伸ばした指先は、カタリと鳴いた。

Ⅳは、先を歩く弟の後ろで
誰にも気付かれず、ひとつ、その睫毛をゆっくり瞬いて
その少女を、見つめた。

眼玉にハマった紅い硝子球が、Ⅳを捉えていた。
キシキシ油の切れた音のする手は、Ⅳに伸ばされて。
伸ばされた汚れた指は、球体関節だった。

さびしい

カタカタカタ、鳴いた少女に
Ⅳはまた一つ、ゆるりと瞬いた。
Ⅳは、黙って右手の荷物を左に持ち替えて
唇が紡いだのは、うちに来るか、という吐息のようなテノール。

Ⅳは、少女の伸ばした汚れた指に、
そっと、黙って差し出した、
右の小指を、絡めた。

先を歩いていた弟が、付いて来ない兄にふと振り返った。
弟が道に影を伸ばして、ことりと首を傾げて翡翠の目を瞬く。
?どうかしましたか、トーマス兄さま」
「いんや」
左手の荷物をがさりと持ち直して歩幅を大きくしたⅣは、何事も無かったかのように足を前に出した。
弟が笑って「早く帰らないと父さまたちが待ちくたびれてしまいますよ」と帰路に足を弾ませる。
そうだな、とⅣは答えて、何も言わずに弟に並んだ。
「えっ?兄さま、そのお人形どうしたんですか?」

Ⅳが抱えた右の脇。
白の服が汚れるのも構わず抱えた、足の欠けた薄汚れたアンティークドールに。
Ⅲは驚いて、首を傾げて目をパチパチ瞬いた。
Ⅳはただ淡々と、何もなかったように弟に告げた。
「さっき、拾った」

Ⅳの手の中で、小指に絡んだ関節がカタンと鳴った。

<ヒトで無いモノに優しいⅣの話>




「トーマスは相変わらずだね」

トロンはどこか諦めたように微笑んで、ふう、と憂うようにティーカップをカチャリと置いた。

「相変わらず、"人でないモノ"に優しいね、あの子は」

相対するのは、凌牙

人形や、犬
凌牙と璃緒、そして、トロンに。


「あの子は昔からどこか道を外れたものに惹かれる子だった。空想遊びに夢中になっているかと思ったら、どうやら本当に"視えて"いたようでね。────あの子の部屋のドールコレクションは、昔からいつの間にか増えたり減ったりしているんだ」

トロンは懸念を払うように重く首を振った。

「キミとしては、色々と思う所もあるだろうけれどね」

大目に見てあげてくれないかなぁ

ぐい、凌牙は、紅茶を一気飲みすると、
ガチャン、と置いて席を立つ。


「選ぶのは、あいつらだろ」






───大丈夫だ、オレの部屋に暖炉は無いよ。

ゆすり、ゆすり。長椅子に座ったまま、体を前後に揺らして、まるで幼子を宥めるように、Ⅳは。部屋の中でドールを揺する。
汚れた髪に櫛を。土にまみれた片足に白湯を。
欠けた眼には、『アイ』を。
「ここにブリキの兵隊は一人もいない。お前はここに居たっていいんだからな」

火の気の無い部屋で、Ⅳは美しい声でそう、謳った。
「さぁ、おやすみ」



ブリキの兵隊人形には、片方の脚がありませんでした。
というのも、一本の さじから25体のブリキの兵隊が生まれたので、最後の一体はスズが足りなかったのでした。
ですが、この兵隊人形は、いつも欠けた片方でしゃんと立っておりましたし、恋にだって落ちました。
おもちゃの紙のお城のいちばん向こう、美しい紙のバレリーナは、いつも一本足ですくっと踊っておりましたので、片足の自分のお嫁さんにピッタリだ、と兵隊人形は思ったのでした。
けれど、兵隊人形は、おもちゃにすっかり飽きてしまった男の子に「もう要らないや」と暖炉に捨てられてしまいます。熱い、熱い、ブリキの心臓が溶けてしまうようでした。
そんなとき、ひらり、窓から風が入り込んで、紙のバレリーナが暖炉に飛び込みました。
『ああ、来てくれたんだね、ありがとう』
燃えて溶けていく中で兵隊人形は言いました。
すっかり火の消えた暖炉からは、ハートの形のスズが一個だけ、塊で見つかりました。
───アンデルセン童話、ブリキの兵隊より

《片側の不倶人形と、炎と美しいバレリーナ》




◇ ◇ ◇

────アイしているよ、Ⅳ。やってくれるね

そこは 赫々 あかあかと燃えていた。

炎の夢は幾度目だかわからない。
肌を焼く痛みも、喉を焼く苦痛も、目を潰す灼熱も。もう脳に刻まれて消えない。消えてはいけない。
だから、何度も悲鳴を上げて飛び起きる。飛び起きられないまま悪夢に捕まる。ずっとその繰り返し。生きている時間の三分の一を、トーマスはいつも火に巻かれて烙印を押されて過ごしている。それがきっとせめてもの罰なのだ。

炎の苦痛は耳を焼いて、悲鳴に吸い込む息が激痛を生む。

『いいよ、勝たなくて』

ブリキの人形は、男の子に捨てられて火に焼かれて死んでしまうのでした。
めでたし、めでたし。もうお終い。とっくに無様に終わったお話。

右眼の傷が燃える。灼熱で炙られて針で刺されたようだ。痛い。痛い。
かぶりを無茶苦茶に振っても、火が消えない。
助けて、助けてくれ。
燃える指を縋って伸ばして、冷たい冷たい声が降る。

『キミには失望したよ』

ああ。


片目の虚ろにアイを。どうか、どうか、埋めて下さい。
とうの昔に無様に捨て損なった、 うろが夜ごとただれて痛むのです。

捧げて捧げて渡し損ねた アイをどうか捨てさせてください

アイ を バラバラに壊すのなら あぁ

Mein Vater, mein Vater マイン ファーター マイン ファーター ,どうかもう火の消えた土の中で眠らせて



◇ ◇ ◇

シューベルト『魔王』

マイン ファーター(お父さん、お父さん)、魔王が僕を殺しにくる。
父に悲鳴を上げ続ける息子は、魔王に「可愛い子、愛しているよ」と告げられるまま、魔王に攫われ父の腕の中で息絶えるのだった。




『アイ』を埋める


「あら?」
風紀委員会が中止になった金曜日。いつもより早く下校した璃緒は、少し遠くまで買い物に足を伸ばした先で、見知った顔を見つけた。

キャスケット帽と、少し暗く色の付いた細長の眼鏡。
変装してはいたが、人波を歩く赤い後ろ髪は間違いなく見知ったもので。
璃緒の声に振り返ったⅣは、璃緒を見た瞬間に「ゲッ」と声を出し、顔を引きつらせた。

軽く手を振って会釈で通り過ぎようとしていた璃緒は、その「ゲッ」を聞いて一瞬で目が座る。Ⅳは口を手で覆って「しまった」と言わんばかりに目を泳がせてソロソロと逃走を計るが、つかつかと踵を鳴らして歩み寄った璃緒は、逃げる間も無くⅣのもみ上げを引っ掴んだ。
「ちょっと!女性を捕まえて第一声が『ゲッ』って何ですの『ゲッ』って!」
「いや今捕まってんのオレの方イテテテテッ」

Ⅳを取っ捕まえて、璃緒はむくれた。
璃緒だって、珍しく完全オフスタイルのⅣを、引き留める気は無かったのだ。
だが、つい最近、凌牙の立会いの下、互いに再戦を果たして一つの決着を見た二人の間柄に、Ⅳの第一声はあんまりだったので、偶然の出会いは会釈で終わる柔らかな袖すりあいから、チンピラに捕まる哀れな子羊の図に完全にすり変わっていた。
むくれた璃緒にガッサガッサ揺さぶられて、Ⅳは「ちょ、待っ、待ったっ」と荷物を庇って体を丸める。そのとき初めて璃緒は、Ⅳが持つには不釣り合いな、その荷物の存在に気付いた。

細長のカーキ色の大きなドラムバッグだ。
Ⅳの腰回りを大きく越えるバックは幅80センチはあるだろうか。平たくて、水平を保って持っている。まるで中に壊れやすい高価な物が入っているような庇い方で、璃緒は大きさと形からバイオリンのようなものを連想した。
「楽器か何かですの?」
璃緒はⅣを捕まえていた手を離して訊ねる。問われたⅣは、その言葉に困ったように「いやそうじゃ、ないんだが」と言い淀んだ。

煮え切らないⅣの態度は、触れられたくないというより戸惑ったようで、迷ったように口を開けかけて閉ざしたⅣに、璃緒は小さく膨れた。
「そうやって隠すんですわ」
はっと顔を上げたⅣに、璃緒は背を向ける。
「オフを邪魔してごめんなさいね!私だって、引き留める気は無かったんですわよ。ただちょっと、見かけたから声をかけようって、それなのに貴方ったら、」
ツンケンした声を出しているつもりだったのに、なんだか言っていて少し哀しくなってしまった。

言葉に滲んだ湿り気。踵を返した璃緒に、Ⅳはハッとして腕を掴む。
パシッ、捕らえられた細い腕。
「あー」とか「うー」とか、意味のない声を出して、片手が開いていたら自分の髪をぐしゃぐしゃに掻き回していただろう様子で頭を振って、Ⅳは拙く口を開いた。
「このあと、時間空いてるか?」


「誘い方が完全にナンパですわよ」
「うっせえ我ながらちょっとアレだと思ってたとこなんだよ傷口に塩塗るんじゃねえ」
Ⅳが行くはずだったのは、人形屋だという。古いアンティークの扉の前に立ち、からんころん、と扉が開いた。顔の無い人形、目玉だけがテーブルにずらり。ギョッとする璃緒に、Ⅳが苦笑いする。
「だから普通のヤツにはあんまり気味の良いもんじゃねえぞって言ったってのに」
前に所用でどうしても弟の手を借りる必要があったときに連れてきたが、似たような反応だったとⅣは苦笑する。おまけに、たくさんの美しい人形は、どことなく『どれも視線が璃緒を追う』のだ。

そんな璃緒を尻目に、Ⅳは店主に声を掛ける。Ⅳが抱えていたドラムバッグのジッパーがゆっくりと引かれ、中から取り出されたのは、汚れた真紅の髪のドールだった。いくつかやり取りをして、「そうか」とⅣは少し落胆したように呟く。
ドールはずいぶん汚れていて、左手の小指が欠けていた。顔の半分も穴が空いて潰れていた。Ⅳが抱え直すと、ドールは片目でパチン、と瞬きする。
あまりにもリアルで、璃緒は少し気味が悪く思い、後ずさった。だが、ちらり、と見たドールは、位置を変えたはずなのにこっちを見ている。瞬いたその目は、ゆら、と、揺れた気がした。
璃緒はぎょっとして、何度も瞬きして、周囲に視線を逃すと、気付く。周囲の美しい人形たちは、けれど璃緒を見ているようなのだ。

璃緒は思わずⅣのそばに身を寄せた。
「あの、ちょっと、その……見間違い、じゃ、ないような、気がするのですけど、この子たち、その、目が……
「ああ、お前も目が合ったか?」
柔らかく笑むⅣは、けれど苦笑した。
「追い目は好き嫌いが分かれるからな。やっぱりお前は苦手か」

「『追い目』?」
「ここのドールたち、視線が追ってくるだろ。虹彩が深くて色彩が強い、透明度の高いアイで起こる、光の錯覚みてえなもんだな。ガラスなら良くあることで、何も怖がるモンじゃねえから、あんま気味悪がってやるな」

まぁ、ここのアイは、とびきり追い目するように計算されてる特別製だがな。
と、Ⅳはどこか楽しそうに、喜ばしいことを話すように目元を高揚させて笑った。
まるで子供が飛行機を指差すような無邪気な少年らしいⅣの表情は、初めて目にするもので、璃緒は目を丸くした。
「すげえことなんだぜ。追い目は個体差が激しいから狙って造形しても確実じゃねえんだ。それをこの精度で創り続けるってのは、高い技術と愛情に支えられて──って、悪りぃ、興味ねえよな」

驚いて押し黙っていたこちらの沈黙を、戸惑いと取ったのだろうか、璃緒と視線が合った途端、Ⅳは高揚した目線をすうっと静かに波引かせて、あっという間に消してしまった。

Ⅳはそっとドールを包んで、再びバッグへ収めて横たえる。
璃緒は「その子は?」と尋ねた。
「少し前にうちに流れて来たんだがなどうにか元のアイを入れて治せないかと思ったんだが、難しいみてえだ」

中で完全に軸が折れちまってるし、中を取り出すには頭を開けるか顔を潰しながら中を抜かねえとでも、それはな。嫌がるだろうから。

Ⅳは人形の手を優しく取って、バッグの中で組ませる。手付きは幼い子供をあやすように優しい。
璃緒が「わかるの?」と尋ねると「いや、何となくそう思うだけだ。おかしいって笑っていいぜ」と苦笑した。

「オレの好きなモンを気味悪がらなかったのは父さんだけだからな

そんな声をポツリと漏らして、Ⅳは。

滲んだものは苦笑と諦観だ。璃緒は気を取り直して、そうじゃないんだと伝えるために、たくさんのことを尋ねていく。
Ⅳは、訊ねられるたびに、少し驚いたように目を見開いて、そうしてから、ひとつずつ指差して滑らかに答えていく。

人形創りには高い技術が必要なこと、手を掛ければ掛けるほど応えてくれること。
人形を買うのは購入とは言わず『迎える』と呼ぶこと、修繕に預けるのは『里帰り』と呼ぶこと。
持ち運びは赤子のように手足と顔におくるみをすること。ドレスは色移りを避けるために下に布やラップを巻いて保護すること。一度日に焼けて変色したら色を戻すには削らねばならないこと。
あまり頻繁にシャンプーしてはかえって痛んで埃が付きやすくなること。関節の修理は難しいこと、眼球の交換には色々と方法があること。このアイはガラス製、こっちのアイはシリコン製。この細長い道具はアイの穴のサイズを変えるためのもの。この粘土は眼球の固定用。こっちは人形の髪をシリコンで覆って艶を出すためのトリートメントで、こっちは埃を落とすためのダチョウの羽。こっちは人形のメイクをするための絵の具で、眉から下睫毛、唇にチークまでコツがあること。手足のネイルに留まらず、臍や関節や筋肉の筋にも薄く色を入れること。服作りは人間よりもサイズが厳密で難しいことや、造形は芸術で数学でもあること。黄金比を追い求めるロマンに、美しさと永遠を創り出す瞬間美。
Ⅳに一つ一つ指で指し示されながら一緒に巡る、その店内は、もう璃緒にとって不気味なものではなかった。Ⅳの目を借りれば、暗く窓のない古い不気味な店は、今のⅣの目の色と同じようにキラキラした遊園地だった。

訊ねれば訊ねるほど、Ⅳの口からは璃緒の知らない世界と知識が飛び出して、まるで答えられないことなど無いようで。

人形にまつわる逸話や童話、怖い話に温かな話、つける名前や由来の意味、魂の在りかの捉え方。Ⅳの話の中には、それを通して多くのドールを愛する人々の考え方や愛情が透けていて、本当に心から人形が好きなのだとわかる表情と口ぶりに、璃緒はⅣの見たことのない顔を知ることに夢中になっていく。

ふと気付けば、陽がすっかり傾くほど時間が経っていた。Ⅳは気付いて、璃緒を帰宅へ送り出そうとするが、璃緒は「待って」とⅣを引き止めた。
Ⅳの手には店で買ったパテが。
「ねえ、そのパテ、さっきの子に?」
「あ? ああ、せめて折れた指を先に治療してやろうと思ってな。顔はまた今度、他の職人に見せてからだな」
「そうじゃあね、Ⅳ、もう一度だけそのバッグ、開けて下さらない?」
「あ?」
Ⅳが開いたドラムバッグには、さっきと同じ姿のままバッグを寝床にしたドール。
Ⅳが少し傾ければ、パチン、と開くドールの目。けれど、その綺麗な紅い目を、もう怖いとは思わなかった。
璃緒は微笑んで、ポケットから折りたたんだハンカチを取り出した。
「さっきは気味が悪いなんていってごめんなさいね」
璃緒がハンカチの間から取り出したのは、ペンギンのプリントの可愛らしい水色のばんそうこう。
Ⅳが目を大きく見開いて見つめる中で、璃緒はドールへ向けてにこりと笑顔を返した。
ドールの折れた小指に巻かれていく水色の可愛いばんそうこう。璃緒は巻き終わると満足そうに、Ⅳを見上げて笑う。Ⅳは目を細めて、璃緒に礼を言った。
「サンキューな。こいつも──きっと喜んでる」
Ⅳの視線は夕焼けに濡れて優しい色をしていた。


その後、しばらく月日が経ってから、ピロン、と璃緒のDゲイザーにⅣから着信があった。
この前のドールが『里帰り』から帰ってきたから、見に来ないか、というものだった。

真昼の日曜日。初めてⅣの家に足を踏み入れた璃緒は「ようこそ、お姫さま?」なんて茶化しながら紳士的にお辞儀をするⅣの手で豪邸の門を開かれ、広々としたゲストルームに通される。
そこは、まるでおとぎ話の中のお城にだって引けを取らない絢爛さで、美しい布張りのソファに刺繍のテーブルクロス、静かな室内には美しいクラシックが柔らかに流れていた。時間がゆっくりと温かなお湯になって流れてるみたいだ。
Ⅳに淹れられたダージリンの紅茶とオレンジピールのパウンドケーキに舌鼓を打ちながら待つ。奥の間の扉をゆっくりと開けたⅣが連れて来た、見違えるほど美しく修理されたドールに、璃緒は驚いて「わぁ!」と感嘆の声を上げた。



黒のゴシックドレスは豪華で愛らしく、裾はフリフリで刺繍が細かく、靴はコウモリの小さな羽。汚れていた深紅の髪は鮮やかに色を増して艶やかに編み込まれて結い上げられて、髪を覆うヘッドドレスは服とお揃いの黒のフリルに髪と揃いの深紅の薔薇のコサージュ。顔は綺麗に埋められて滑らかで頬には愛らしいチークが、唇にはぽってりとぷるりと震えるような潤沢なグロスリップ。右の目元には美しくアイシャドーが入れられて、潰れていた反対の目にはゴシック調の細工の細かな黒の眼帯が当てられてより豪華さを増していた。
黒に白薔薇の刺繍の手袋は右手だけ。左の小指には璃緒が巻いたばんそうこうが巻かれたままで、水色のばんそうこうの上から赤い細いリボンが可愛らしく蝶々に結ばれてうさぎの風船に繋がっていた。


「結局、左のアイは入れなかったんだ」
少女にするように紳士的にドールを璃緒の反対側の席に座らせると、お菓子のテーブルに、それはもう美しい絵ができあがった。

甘いお菓子の積まれたバスケット。その前に座る可愛らしい人形。今にも指を伸ばしてお菓子と紅茶に手を伸ばしそうで、ドールは行儀よくちょこんと座って美しく微笑んでまたパチン、と瞬き。
顔は潰れている部分だけ直して、目には美しい黒の飾り眼帯と黒のゴシックドレスを誂えて。
他の全部が美しく着飾り埋められている中で、反対の手には白の手袋がされているのに、小指には璃緒のばんそうこうが当てたまま。そこだけが隙で。
「その方が、こいつも喜ぶと思ったんだ」と。Ⅳは笑う。

「うちなら他の『友達』もたくさんいるからな、もう寂しくないだろ」
そう呟いたⅣに、璃緒は他にも多くのドールがⅣの部屋にいることを知る。

こんなにも美しく着飾られた宝石のようなドールがたくさんあると聞いて、せっかくここまで来たのだもの、見たいに決まっている。
そう言われたⅣはビックリしたようにパチンと瞬いた。それはこの深紅の髪のドールの仕草によく似ていた。
最近こそ見慣れてきたけれど、やはり人形のように美しい顔立ちの男性なのだった。

Ⅳは困ったように「そりゃあ、あー、うー……お前なら、構わねえけど」と、自分の髪をぐしゃぐしゃと搔き回す。
「むしろ、お前が嫌なんじゃねえかと、」
「どうして?見たいですわ」
「いやそっちじゃなくて、そういうことじゃなくてだな、あーいや、まぁ、気にしねえなら良いんだが、凌牙に言うなよ」

今日は他の家族が誰もいない広い豪邸。
廊下の奥の部屋。璃緒が招かれたのは、Ⅳの寝室だった。
Ⅳの部屋のドールギャラリーを、璃緒は招かれて初めて見ることになる。

壁一面に並んだ飾り棚には、たくさんのドールたち。どの子もどの子も、宝石のように美しく、ハロウィンのようにめかしこみ絢爛で、まるで美しいファッションショーのミニチュアを見ているようで、璃緒は感嘆する。
ドールたちはゴシック調の黒ロリータファッションや、ハロウィンのような仮装で包帯を巻いたドールも多い中で、よく見れば美しいだけではなくて多くがどこかに怪我をしていた。けれど、腕を丸々交換するのだって簡単なドールに、Ⅳはそれをしない。できるだけ元のまま、埋めたり着飾ったり、それが気にならないように手塩に掛けている。

「美しいモンはいくら見てても飽きねえよ」

Ⅳは笑う。棚にはどの段にもハシゴが付いていた。それを見て璃緒が「これは?」と尋ねると、Ⅳはバツの悪そうな顔をする。梯子が付いている理由は、オレがいないとき、自由に動けるように。面食らった璃緒は、顔を逸らすⅣを見ていた。
大事なのは、ドールが動くとか動かないじゃなくて、オレはお前たちが動いたって怖がらないって、メッセージをあげることなんだと。

実のところ、この深紅のドールだってⅣの『裾を引いて』Ⅳの元へやってきたドールなのだから、人で無いモノに関わりやすいⅣは人形が心を持っていることも時に動くことも知っているのだけど、それを自分に特別な事じゃなくて、当たり前だけどなかなか人前に出さないだけだと思っている。誰でも、ドールに愛情を注げば、そういうふうに動けるドールなら動くし、そういう力が無いドールだって、そんなふうに動きたいときもあるんだと。

人形は自分じゃ自由に動けない。だからこっちが汲み取ってやらなきゃならないんだ。Ⅳが追い目にあんなに高揚したのは、人形に「目で追う」という自由をあげることが愛情である、という認識が、あのアイの制作者と同様にあるから。

璃緒はこの、Ⅳの秘密の小部屋でたっぷりとドール鑑賞を楽しみ、堪能する。
Ⅳは「凌牙には言うなよ、ぜってー鼻で笑われるに決まってんだ」と言う。璃緒はⅣとの秘密の要求に少し高揚する。

帰った璃緒は、凌牙に尋ねられる。
「ヤツんとこ行ってたんだって?IIIが言ってた」と、火事の諸々を思う凌牙は、璃緒に尋ねるのだが、璃緒は「ふふっ」と笑って、唯一の友と呼ばれる凌牙も知らないこと、優越感に浸りながら凌牙に「ひみつ」と茶目っ気と色気を出して指を唇に置いたので、凌牙は「!?」となり、それにまた璃緒は腹を抱えて笑った。
「じゃあ、おやすみなさーい凌牙」
「!?いやオイちょ」
バタン、と締めた部屋のドアの向こう側で璃緒はまた笑った。



ぽかんと口を開けて璃緒の部屋の前で中途半端に手を出したまま固まる凌牙は、すれ違った璃緒の楽しそうな表情に、高揚した頬に、悟る。アレは璃緒が凌牙に見せる顔だ。アレは、アレは。

じわり、じわりと脳内に湧き上がる確信に、凌牙は「うっそだろ」と呆然と呟いた。
がばり、凌牙は頭を抱えてその場に座り込んだ。
「おい、待てよ、ウソだろ、マジか、マジなのか、お前らそう転んだのか、いや、いや、ウソだろ?」

茫然としたまま無意識に手がDゲイザーのダイヤルに伸びる。短縮ダイヤル4番を呼び出せば、 『凌牙か?どうした?………オイ?おーーい?凌牙?』というⅣの間の抜けた声がスピーカーから流れてくる。この世の終わりのような声で凌牙が「Ⅳ…………」と何を言いたいのかも解らないまま言い淀んだので、自分はどうやら思った以上に混乱していたらしい。
画面越しの『おーい?凌牙?おーい??』という訝しむような軽い声が耳から耳に抜けていく。
「璃緒が……」と口をついて出た声に、Ⅳがあきれた声を出した。
『オイオイ、まぁたケンカして締め出されたのかぁ?先週もやったばっかじゃねえか、何回やりゃあ気が済むんだよ。あー、まぁ気にすんなって、ちょっくら反抗期っつーか、あっちもいい加減お兄ちゃん離れの時期なんだろ』
「るせぇぇぇええ!テメエに兄貴と呼ばれる筋合いはねぇ!!」
『急に何キレてんだ!?』

◇ ◇ ◇

足を滑り込ませるシーツと掛け布団の間。足をくすぐる滑らかなリネンの感触。目を閉じれば、今日見た様々な美しい光景がよみがえる。
ドレスは美しく手をかけられ、どれも少女たちの顔立ちや瞳や髪に無二なほどに似合う、どこまでも彼女たちを引き立て楽しませる服たち。ドールに添えられた小さな風船、ゆらゆら揺れて、ドールたちの瞬くたびに、睫毛の先でラメの星が揺れる。貰ったそれを、しっかり握って離さないドールたちは、心なしか嬉しそうにゆらゆら揺れて、どこからかクスクスと笑い声がする。耳朶をくすぐるのは私の笑い声だった。いつの間にか、あふれるドールの中で私はドールの一人の仲間だった。ケーキにマカロンにフルーツタルト、キャンディにゼリー、あふれるお菓子に、おもちゃの紅茶。甘い甘い香りにくすぐられる。大きな手のひらが空から降って、手を繋いだドールを攫って、お姫様にするようにエスコートしておもちゃの椅子へ座らされる。手を引くのは、笑う金の髪の人。

凌牙は唯一の友。じゃあ、私は。私は、彼の何になるのだろう。
眠りに落ちる刹那、そんな疑問が脳裏に過ぎったけれど、絢爛な夢に揺すられて忘れてしまった。


そうして、しばらく後の日曜日。璃緒はⅣと出掛けることになる。あの深紅のドールを、里子に出す話が出ているのだという。
Ⅳの部屋には多くのドール達がいて、修繕の機会の度に、店を通して写真がいくつか出回っているのだという。それが一人のコレクターの目に止まり、譲り受けたいという話になったそうだ。
Ⅳはいつだか見たあのお忍びスタイル。キャスケット帽に、腕にはカーキの大きなドラムバック。あの時を彷彿とさせる格好だ。そして璃緒は、ちょうど近くに用があったので、合わせて一緒に行くことにしたのだった。
ドール達の服に詳しいⅣは、人の衣装にもそれなりに詳しい。璃緒がちょうど新調しようとしていた服に似合いの小物のブランドがあるからと、互いの用事のついでに連れていってくれることになったのだった。
道すがら、璃緒は「あら?」と凌牙のメールを確認して銀行の前で足を止める。
「Ⅳ、ごめんなさいちょっと待ってて下さらない?もう、凌牙ってば」
「構わねえぜ。けど────あいつ、気付いてて邪魔してんじゃねえだろうな……
「?」
ボソッと呟いたⅣの声は聞こえない。璃緒は家事の振込をして、付き合ったⅣも二人して銀行から出てきた。
談笑する二人は、けれど────腕を出して猛スピードで向かってくる二輪に、気付かなかった。
「ガッ!?」
すれ違いざま、バイクはⅣの頭を殴りつけた。一瞬のことで、何が起きたのかわからなかった璃緒は、道にすがり落ちたⅣに名前を叫びながら、Ⅳが伸ばす指の先を知る。バイクの主が落ちたⅣのドラムバッグを引っ付かんでいる。ひったくりだ。
「────ッ!!待ちなさい!!」
「っ!?よせ!深追いすんな!」
頭から一雫赤い血を流しながら、Ⅳが璃緒の背中に叫ぶ。
急発進しようとするバイクに、璃緒は飛んだ。勢いよく回転したハンドバックが、バイクの進行方向へぐるんと回り込んで飛び込んだ顔を殴りつける。
バランスを失って斜めに速度を落として地に足をつけたひったくり犯に、璃緒が飛びついてドラムバックを引っ掴んだ。
「返しなさい!」
叫んだ璃緒は、ドン、と突き飛ばされて。
離さなかったドラムバッグごと大きく突き飛ばされた璃緒は、ゴウ、と迫る車に、え、と一瞬息が止まった。
璃緒が突き飛ばされた先は、反対車道のど真ん中。

「璃緒ッー!!」
叫んだⅣの悲鳴が遠かった。世界がスローモーションのように迫る。
額を殴る風、迫る大型車。つんざくブレーキの音。

アスファルトに両手を付きながら、スローに流れるすべてを見ていた0コンマ。
璃緒の腕の中から、ドラムバッグがぐらりと歪んで

ジッパーを飛び出して、ドールが転げ落ちた。

「あ


轟音。世界が音で引き裂かれる。

ガードレールにぶつかってクラッシュする車、煙を上げるその先。
Ⅳはガードレールのこちら側で、真っ青によろけて「璃、緒」とかすれ声を上げた。よろり、一歩踏み込んだ先で、大破した車の煙の向こう、回り込んだ先に、車道にへたり込んだ璃緒がいる。
「あ……
ガクガクと膝の笑ったまま、璃緒が真っ青な顔で口を開いてこちらを振り向いた。生きている、生きて
「ッ!」
Ⅳは駆け出した。飴のようにひしゃげたガードレールを飛び越えて、璃緒の手を取る。
ドクン、手の中で鳴った脈と熱が、Ⅳに実感を与えた。
「璃緒……璃緒ッ!!お前無事で!怪我は!?」
「あ……
カタカタと肩が震える璃緒は、立ち上がろうとして、ずるりとまたアスファルトにへたり込んだ。ニーハイの膝は擦り剥け、血が出ている。
璃緒は口をパクパクとさせて、喉でつっかえたみたいに首を横に振って、「ぁ」とまたかすれ声を出した。
「あ、の……こが、」
璃緒の視線の先を追って、Ⅳは振り返って気付く。カーキのドラムバッグから飛び出した、美しく着飾ったドレスは車の右タイヤに絡め取られ、腕だけを車体の間に残しながら、無残に潰されていた。

あの瞬間、開いたジッパーから飛び出したドールは。
急ハンドルを切る車の前に転がり落ち、タイヤの前輪に絡め取られてタイヤを止めたのだ。

カーブに強制的に入った車は、璃緒のつま先数センチにブレーキ痕を残して、璃緒の真横のガードレールに激突した。
ドールがなければ、今頃ああして潰されていたのは璃緒の足の方だった。

ガクガクと襲ってくる震えに、璃緒が一粒涙を落とした時、
混乱した璃緒の口から飛び出した言葉は、「ごめ……な、さい」だった。
璃緒の震える体は飛びつくようにかき抱かれ、大きな体で抱きしめられた璃緒は、震える背中を抱かれながら、璃緒よりさらに震える体に強く痛く抱きすくめられて。
璃緒のぐちゃぐちゃになった頭に、ようやく届いたⅣの言葉は、震えるような「ありがとう」というかすれ声だった。
がしゃん、とクラッシュした車体から運転手が出てきて璃緒たちの無事を確かめる叫び声がする。顔半分の潰れたドールがこちらを観て微笑んだまま、運転手が降りた揺れに合わせて、ぱ、ちんと鈍い瞬きを落とした。


それからの話。病院と、警察の事情聴取の後に、深夜にさしかかってから璃緒を神代邸に送り届けたⅣは、璃緒を凌牙に引き渡すなり玄関先で凌牙に土下座した。
「ちょっと、Ⅳ……!」
「おい、Ⅳ。判ってんだろうな」
「ああ」
仁王立ちする凌牙の声は冷ややかだ。
対するⅣも顔を上げない。
「おい、ツラ貸せ。殴らせろ」
「わかってる」
璃緒は青い顔で「ちょっと、凌牙!やめて!」と悲鳴を上げるが、凌牙は介さず、璃緒の頭をくしゃりとすれ違いざまに撫で付ける。
「疲れただろ、部屋で休んでろ」
「待って、悪かったのは私なのよっ、凌牙!」
「説教はその後だ」
ピシャリと言い渡す凌牙に、璃緒は固まって、結局、Ⅳへと顎をしゃくって連れ立って玄関を出て行く兄とⅣの二人を、止めることができなかった。

そうして玄関へ戻ってきた凌牙は、刺々しい空気を纏っている。玄関に上がりざまに、凌牙は自分の右手に指輪をはめ直していた。それに引き続いて家に入ってきたⅣの右頬は、強く腫れて赤くなっていた。璃緒は顔をくしゃりと歪めて走り寄る。水に濡れたハンカチをⅣの頬に添えて、眉を落として璃緒に笑みを返してみせるⅣを痛々しく唇を引き結んで見つめながら。
「右手でなかっただけ甘ぇと思えよ」
「ああ」
Ⅳは抵抗しなかった。

そもそも、今回のひったくりは、身なりの良い服を着たⅣが、銀行から大きなドラムバッグを抱えて出てきたのが一つの誘引だった。ターゲットになりやすい状況は揃っていたのだ。
結局、ひったくり犯はあの場の騒動で捕まって。璃緒は、Ⅳの忠告を聞かずに無茶をした自分が、一番責められるべきで、Ⅳに非は一つもないと、そう思っていた。自分の怪我は、自分だけが責を追うべきことだ。

一方、Ⅳと凌牙の間では、いくらか璃緒を挟んで違う事情がある。
璃緒の体には火傷がある。理由は言うべくもなく、そして凌牙は、璃緒の火傷消しと璃緒の目の治療に、璃緒が目覚めるまで遺産からかなりの額を引き落として使用していた。凌牙は、それを璃緒に告げておらず、それを、璃緒とⅣが決着を付けたのち、Ⅳから申し出た一つのけじめとして、凌牙はⅣからかなりの額の金銭を受け取っているのだ。
最初、金を差し出したⅣに、凌牙は地を這うような声を出して「金で解決できると思ってんじゃねえだろうな」と、ドスを効かせた。けれどⅣは、凌牙の前で頭を下げたまま、「俺の自己満足に付き合わせて悪いとは思っている。不快にさせてすまない。だが、俺の引き起こしたことだ、お前たちにかけた負担は、僅かな範囲でもできる限り償わせて欲しい」と、そう頭を下げ続けていた。これが仮に、WDCの直後であったなら決して受け取らなかったであろうそれは、けれど今は。Ⅳという男をよく知る凌牙は舌打ちした。無下に出来ない真摯さに、これ以上金の貴賎を問う事は非礼だった。こうして凌牙の前に差し出すものが、一点の曇りもないことは疑いようの無いのだ。金の出所を不躾に問うほど、凌牙は落ちぶれてはいなかった。
これは、けじめだった。二人が前に進むための。

璃緒とⅣ。当人の間でついた決着。
もう一つ。璃緒を挟んだ凌牙とⅣの間にも、一つの決着をみるべき時期だった。

もう、とっくに。凌牙とⅣの間だけの関係性は、前に進み始めていた。二人の間には、友、という名前の繋がりが、とっくに生まれていたから。
けれど、ずっと。璃緒を挟んだ互いの気持ちだけが、宙ぶらりんのまま行き場を失っていた。凌牙は、自分を不正にはめたⅣをとうに許していた。Ⅳは、自分を切り捨てて利用したナッシュの生き様を受け入れていた。
でも。妹を傷つけた相手としては。
火傷を負わせた者の身内としては。
互いに、どれほどお互いに分かりあっても、許し許されるには、足を留まらせるものがあった。璃緒が眠っていた間、決して前に進まなかった関係。けれど、璃緒とⅣが決着をつけたことで、凌牙もⅣも、これを前に進めるべき時期がきたのだ。そう、お互いに、思っている。

ふー、と。凌牙は、目を閉じながら、長い長い、息を吐いた。
「なぁ、Ⅳ」
凌牙は、深い、深い息の後。目を閉じて、項垂れるようにⅣの前で緊張を解いた。
今まで、一言でも余計なことを言えば張り倒されそうなほど、ピリピリと威圧的な空気を纏っていた凌牙の覇気は跡形も無かった。

「俺はな、もう、正直、償いだとか、復讐だとか、そういうもんは、疲れたんだ」

深いため息とともに『璃緒の兄』からただの『凌牙』へと移り変わっていく凌牙の気配に、Ⅳは顔を上げる。
項垂れる凌牙の脳裏には、璃緒の笑顔がある。そして、それは何度も、何度も。凌牙の前で失われているのだ。
「もう、あいつが傷付かなきゃ、それでいいんだ
深く項垂れた、凌牙の沈痛な声。深く深く、傷ついた悲痛なほどに祈る声。
それは、凌牙がさらした、たとえようもないほどの本音だった。
璃緒の兄としてⅣに向き合うときではありえない、Ⅳ、という友の前でさらす凌牙の傷だった。

Ⅳは、それを目の当たりにして、くしゃりと顔を歪めて
口から飛び出しそうになった、すまない、という言葉を、ぐっと飲み込んで深く頭を下げた。

「なぁⅣ。あいつは負けず嫌いなんだ。だから、またそう遠くねえ内にお前に挑んでいくと思う。あいつはまだまだだ。てめえから一勝もぎ取るにはまだ遠い。だから……てめえがいなかったら、悔しがるし、悲しむ」

あいつの心も体も、髪一つ傷つけさせないでくれ。
凌牙がⅣに託した弱音はそれだけだった。
Ⅳは、友としてそれを聞いて、承った。
オレの目の届くところでは、全霊を尽くして、璃緒に悲しい思いはさせない、そのための努力をし続けると。髪の毛一筋だって、傷つけさせないために力を尽くすと。
償いではなく、友との約束として。Ⅳは凌牙とそう言葉を交わした。凌牙は、それを信用した。
Ⅳと凌牙の、二人の間に生まれた信頼関係に基づく、ケリの付け方だった。
凌牙はⅣの謝罪と金を受け取って、Ⅳは凌牙からの信頼と約定を受け取った。
これまで長く長く引きずり続けてきた、璃緒のあの火事を巡る凌牙とⅣの一連は、これをけじめに前へと歩き出した。


だから。今回の事件。
それだけ豪語しておいて、璃緒があと一歩で取り返しのつかない大事を負うところだったこと、怪我をしたことを、凌牙は怒った。
怪我は璃緒に責任のあることで、その責任をⅣに全部おっかぶせたわけじゃなくて、
ただ、約定と凌牙の全幅の信頼に応えられなかったことを、一発殴らせろと、そう言ったのだ。そしてⅣはそれを正しく受け取った。

そして、本当は、璃緒に怪我を負わせたのを誰よりも悔いているのはⅣで、
それはもう今、Ⅳの中でⅣ自身はⅣの手によって滅多刺しにされていることだろう。だから凌牙は殴った。Ⅳという男を知っているから。そういうけじめがなければ、自分を責めすぎて道を踏み外す男だと、知っていたから。誰にも責められないことは、辛いことだ。凌牙はそれをよく知っている。
凌牙は、Ⅳを殴ると、胸倉を掴んで釘を刺した。
「おい、Ⅳてめえ、これで璃緒の前から姿消そうなんぞするんじゃねえぞ」
!」
図星を突かれたⅣは、凌牙に盛大に舌打ちをされ、どん、と胸ぐらを放された。
「ふざけろよ、言っただろ」
途中でサレンダーすることは許さないと。睨んで、Ⅳを解放した凌牙に、Ⅳはまた、くしゃりと、眉を落とした。凌牙がⅣという男をよく知っているように、Ⅳもまた凌牙という男をわかりすぎるほどに知っていた。

そうして、家の中に入った二人に、璃緒はⅣの頬を冷やして、凌牙は玄関を通過してリビングに入るなり、テーブルの上のバイクの鍵を引っ掴んで玄関外へととんぼ返りしていく。すれ違って靴を履く凌牙に、璃緒が戸惑ったように口を開く。
「凌牙?」
「送って来る。お前は戸締りして待ってろ」
「え?」
「んなフラついてる阿呆を放り出すほど無情じゃねえ」

裏からバイク回してくる。
そう言って扉を閉めた凌牙の背の怒気はすっかり洗い流されて、もうⅣに怒ってはいないのだと璃緒に伝わる。
そんな凌牙の態度に、璃緒は何度も何度も凌牙の出て言った方とⅣを困って見比べた。
一方、Ⅳは少し気の晴れたような顔で、喉をクッと鳴らして、「あいつは、優しいからな」なんていうから、二人だけでわかりあってる男たちに、状況が読めない璃緒はすっかり混乱して「なによ、わけわかんないわよ!」と涙ぐんだ。
Ⅳは眉を落として、苦笑を落として、玄関先で座り込んだまま、Ⅳは璃緒の頭に手を伸ばして、
一度、ためらうように手を止めて、
それから、腫れ物に触るように、そうっと、璃緒の頭を撫でた。
顔を上げた璃緒は、Ⅳのコーヒーを含んだようなほろ苦くて優しい視線にかち合う。
「怖い思いさせて、悪かったな」
璃緒が目の前で事故にあって、よっぽど怖い思いをしたのはⅣだって同じで、もしかしたらそれ以上だったかもしれなくて。
璃緒は胸に去来する色んな思いに喉を塞がれて、「私のセリフじゃない、ばかぁ」と、頭を撫でられながら、涙ぐむのだった。
今回の騒動は、これでおしまい。幕引き。

さて、その後のことだが。
派手に擦りむいた璃緒の脚の傷がかさぶたになる頃。Ⅳは「傷跡に良いから使ってくれ」と香水みたいな美しいパッケージに包まれたクリームを置いていく。
璃緒はⅣの厚意に、気軽にキャップを開けて使わせてもらうのだけど、
そのフタのブランドを見て凌牙がギョッとする。
凌牙と目が合って察した璃緒は固まった。
「あの、凌牙……?」
「聞、かねえ方がいいぞ」
「つまり?」
…………それ、モノホンなら、俺のバイクの頭金と同じくらいだな」
「!?……ッ!?」
という小事件があって、璃緒がⅣの家に押しかけて「受け取れないわ!っていうか、ちょっと!?聞いてないわよ!?」という押し問答があって、延々々々々押し問答して最終的にデュエルまでして焦れたⅣが「だーっ!」と璃緒の手からひったくって「わかった!じゃあオレがオレのモンどう使おうと勝手だな!?」となり、売り言葉に買い言葉で、璃緒は気付けば椅子に座らされて傅いたⅣに左足にそのクリームを塗られることになる。
「えっ、えっ」
「オレが勝ったんだから文句ねえな?」
と最終的に居直ったⅣに、璃緒は真っ赤になって左足を手入れされ、その後、璃緒は二度デュエルを挑んで負けて同じパターンになってとうとう茹ってギブアップした。
迎えにきた凌牙のバイクによろよろ乗って撤収した璃緒に、凌牙はちらっとⅣに視線をよこして、受けて立ったⅣは、凌牙になんともまぁ「イラっとする顔」をしやがったので
(あ、コイツ開き直りやがった)
と、ここから、この先長きに渡る、凌牙とⅣの仁義なきデュエルのゴングが高らかに開始を告げ鳴り響くのだが、閑話休題。

さて。璃緒の足の傷がすっかり艶やかに消え切った頃。
体の半分を完全に車に潰されてしまったあのドールは、わずかに残っていたパーツだけを残して、体のほとんどを別の素体に入れ替えて修繕された。
綺麗なロングだった髪はほとんどをタイヤに毟られてしまって、ヘッドに植え直した髪は千切れて残った髪に合わせて赤のショートに。唯一無事だった、綺麗だった右目のアイ。
誂えた黒のドレスも無残にちぎれてしまって、今は軽いショートボブになった髪に合わせて、アイドルみたいな赤のふんだんなリボンのジャケットに白のフリルのドレスだ。頭にはちょこんとウサギのミニハット。




修繕不能だと最初の職人には言われたことを知っていた璃緒は、Ⅳにそのドールをお目見えされ、目の端にじわりと涙を浮かべた。
「触れていい?」
「もちろん。お気に召すままに」
そう戯けたように、白手袋のⅣから、璃緒の腕の中にドールは託された。
前に抱いた時より少し軽くなったそのドールを、璃緒は掻き抱いた。
「ごめんね、ありがとう」と、そう抱きしめた璃緒を見つめる、Ⅳの視線は優しい。

「なぁ璃緒。こいつに名前つけてやってくれねえか」

告げたⅣの声音は優しく、璃緒は顔を跳ね上げる。
璃緒を見下ろすⅣの視線は、ドールたちの髪を結う時と同じ柔らかな色をしている。
腰に片手を置いたまま小首を軽く傾けて璃緒を見つめるⅣの視線は温かい。

「本当は里親に名付け親も兼ねてもらうつもりだったんだ。里子の話はチャラになっちまったし、だからこいつにはまだ名前が無え。お前がつけてやってくれ。こいつの新しい誕生日の記念だ」

「いいの?私で」

「ああ。そいつが一番いい」

「喜んでくれるかしら」

「喜ぶだろ。こいつもきっとお前が好きだろうからな。とびきりいい名前を頼むぜ」

少年のように笑ったⅣの視線は変わらず温かみにあふれて優しい。

璃緒はさっきまでの涙ぐんだ表情を忘れたように、花が咲きほころぶような笑顔を見せた。


璃緒はドールの小指に水色のリボンを巻く。あの時の絆創膏はそのままだ。
「一生懸命考えたの。気に入ってくれるといいのだけど
微笑むⅣ。頷く璃緒は、ゆっくりと笑って口を開いた。
「貴女の名前は────」

[episode of my doll. アイを埋める]



自室で紅茶を傾けるⅣは、手元に写真。
笑った璃緒と、璃緒に抱かれた真紅の髪のドールの前に置かれたケーキとろうそく。あふれるような幸せを切り取った写真。
写真を手にとって、Ⅳは呟いた。
「やっぱ、いくら見ても飽きねえな」
Ⅳは小さく笑った。





Ⅳの家を出てから、璃緒は。
脳裏に蘇る記憶に、ふと、気づいて、足を止めて、振り返る。

『喜んでくれるかしら』
『喜ぶだろ。こいつもきっとお前が好きだろうからな』


………こいつ、『も』?」

頬を、かぁっと熱が走った。

my doll <俗語>:美しい女性、愛する人。恋人への呼びかけ。ハニー。マイスイート。

<アイを埋める End.>

(PV presented by kurosagi sama)


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