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【未来リョ桜】First Miss、Second Kiss

全体公開 88 51593文字
2017-09-03 16:17:50

1~3P本編 4Pオマケ

Posted by @R390001

 ────それは、文字通り天地が引っ繰り返るような衝撃だった。

 夜景の見えるホテルの一室。
 柔らかく整えられたベッド。
 そっと髪に触れる優しい指先。

 そうして、私の唇は、彼のそれでしっかりと塞がれていて──

 今の二人の状況を理解した瞬間、かぁっと顔面に血が昇る。
 心臓がドキドキして、今にも弾けてしまいそうだ。上手く呼吸が出来なくて、思わずぎゅっと瞼を瞑ると、髪を撫でる彼の指の感触とか、押しつけられた唇の熱さが余計リアルに感じられて、くらくらと目眩がした。
 胸が苦しい。互いに触れ合ったところから、自分のものではない肌の温度が伝わってくる。ベッドに付いた手は微かに震えていて、柔らかなシーツの中に、どこまでも深く沈み込んでしまいそう。

「リョーマ、君──、」

 ──ああ、一体。
 何がどうなって、こんな事になったんだろう──?


      †       †       †


 その日は、かつて全国一に輝いた青春学園の男子テニス部と、その関係者による同窓会が、都内のホテルの一角を借り切って催されていた。
 一晩泊まるだけでも、それ相応の対価が求められる格式高いホテルは、庶民にはまず縁の無い場所だ。同窓会の会場であるこのパーティールームも、きらびやかでありながら、決して華美に過ぎる事の無い上品な内装を誇っており、提供される料理やワインの数々も、一流ならではの贅沢な品揃えである。その光景は、中学時代の同窓会と言うより、もはや本格的な社交界の一幕のようだった。──もっとも、そこに集っている顔ぶれは、相変わらずの気の置けない賑やかな面々であったのだが。
……ちょっと、緊張するね。
 こんなに凄いところで食事する機会なんて、中々あるもんじゃないし」
 カチローの言葉に、横に立っていたカツオが頷いた。
「なんか、先輩たちや越前君がスポンサーになって、費用を出してくれたらしいよ。
 僕たちだけじゃ、とても借りられるようなレベルのトコじゃないからね。お金も勿論だけど、伝手だっているだろうし」
 桜乃は、グラスを手にしたまま、おずおずと周囲を見渡す。広い会場内のそこここで、見知った顔同士が互いの近況を報告したり、懐かしい昔話に花を咲かせていた。
……そう聞くと、何だか申し訳なくなっちゃうね。
 私なんて、テニス部の人間でもないのに、集まりにお邪魔しちゃって──」
「まぁ、向こうがいいって言ってんなら、いいんじゃね?
 越前も先輩方も、んな細かいこと気にするような人間でもねえだろ。お前らだって、合宿やら練習試合の手伝いやらで、色々駆り出される事多かったじゃねえか」
「そうそう。リョーマ様がせっかく招待してくれたのに、変に遠慮なんてしちゃ、かえって相手に失礼ってもんよ?」
……いや、招待したのは越前じゃねえだろ。一応、幹事は大石副部長になってるぜ。
 大体、アイツがそんな手間のかかる面倒なこと、進んでやるようなタマかよ」
「うっさいわね。いちいち、余計な口出さないでよ!」
 堀尾と朋香のそうした遣り取りは、中学生の頃と何も変わらない。グラスの影で、桜乃はそっと色づいた唇を綻ばせる。カチローとカツオも、顔を見合わせて小さく苦笑していた。
「多分、この会場になったのは、越前君や先輩たちの都合もあるんだと思うよ。
 セキュリティのしっかりした場所じゃないと、マスコミとかに話が漏れちゃうかも知れないからね」
「あー……なるほどなぁ」
「確かに、これだけ立派なホテルなら、情報や人の出入りもちゃんと管理してるだろうしね。部外者が、中に紛れ込む可能性も低いって事なのかな」
 カツオの冷静な指摘に、堀尾やカチローが大きく頷いた。それを聞いて、桜乃も何となく納得を覚える。
 テニスの世界でプロになったリョーマや手塚は勿論、かつての青学テニス部の面々は、芸能界などの華やかな舞台に進んだ者も多い。その彼らが、忙しいスケジュールを縫って、旧交を温める為に一堂に会したとあっては、目敏いマスコミには格好のネタだろう。そうした煩わしさを避けるには、多少費用が嵩んでも、高いセキュリティを誇る一流のホテルが適当だったという訳か。
「そんなの、別にどうでもいいわよ。それより、リョーマ様よリョーマ様! リョーマ様が日本に帰ってくるのなんて、何ヵ月ぶりかしら。
 ほら桜乃、早くリョーマ様のところに行くわよ!」
「も、もう朋ちゃんってば……
 リョーマ君、今は先輩たちとお話してるから、後にしようよ」
「あはは……小坂田さんは、昔と全然変わらないね」
「ったく、相変わらずやかましい女だぜ」
「何ですって──!? もういっぺん言ってみなさいよ、このバカ堀尾!」
 ──そうして、一同が騒がしいお喋りに興じていると、ふと横から穏やかな声がかけられた。
「やあ、みんな。楽しんでるかい?」
「あ、不二先輩──!」
 グラスを片手に、にこやかに笑う青年は、かつて青学の『天才』と呼ばれた不二周助その人だ。中学時代から、女子に絶大な人気を誇った柔和な美貌は、あれから数年を経て、繊細な甘さを失わないままに、男性らしい精悍さをも帯びて、ますます人の目を引きつける魅力に溢れている。
 慣れない雰囲気に、どうしても固くなってしまう桜乃達とは対照的に、すらりとスーツを着こなした立ち姿は、ごく自然にその場に馴染んでいた。
「不二先輩、お久しぶりッス!」
「ほんと、みんな久しぶりだね。
 竜崎さんと小坂田さんも、今日は来てくれてありがとう。二人とも、元気だった?」
「はい、お蔭様で!」
 にこやかに笑う朋香の隣で、桜乃は慌ててぺこりと深く頭を下げた。
「あ……あの、ほ、本日は、お招き頂いて、本当にありがとうございました」
「ふふっ、僕は特に何もしてないよ?
 このホテルを確保したのは越前だし、後の細かい手配は、大石とタカさんが全部やってくれたからね。お蔭で、こっちは楽させてもらったよ」
 悪戯っぽく微笑む不二。とは言え、恐らく彼もこの会場を押さえる為に、幾ばくかの出資はしているのだろう。カメラマンとして順調にキャリアを重ね、また芸能人顔負けなその美貌もあって、不二は業界でも一際目立つ存在である。
 不二の何気ない言葉に、堀尾が繋がった眉をはね上げた。
「え、ここって、越前の希望だったんスか?」
「うん、前に何度か泊まったことがあるらしくて、気に入ったみたい。
 越前も、色々忙しい身だからね。せっかく帰国しても、実家に戻れずに、ホテル泊まりになることも珍しくないんだって」
「こんな素敵なホテルを用意してくれるなんて、さっすがリョーマ様ね!
 堀尾、アンタもちょっとはリョーマ様の甲斐性を見習いなさいよ」
「ほっとけ!」
 飽きもせず始まった二人の口喧嘩に、カツオとカチローは肩を竦め、桜乃は小さくため息をつく。もっとも、彼らが顔を合わせれば、小競り合いになるのはいつもの事で、放っておいても、そのうち堀尾が朋香に言い負かされて終わりになるのが常だった。或いは、これはこれで、一種のコミュニケーションと呼べるのかも知れない。
 言い争う二人から離れた不二が、そっと桜乃の隣に寄ってきた。彼は僅かに身を屈めると、声を潜めて尋ねてくる。
「──竜崎さん、越前とは話せた?」
「え……? いえ、あの……まだ、です。
 リョーマ君も、先輩たちといろいろお話ししたいと思いますし、後で、ちょっとだけでも挨拶出来ればいいかなぁ、って……
 桜乃の視線の先では、件の青年が、人の輪の中心に居るのが見えた。中学生の頃は、桜乃とほとんど変わらない身長だったリョーマだが、今は周囲の殆どの先輩達よりも背が高い。明らかに頭一つ二つは飛び抜けているので、多少距離があっても、自然と彼の姿は視界に入ってくる。
 リョーマは、先輩の桃城と、恩師であり桜乃の祖母でもあるスミレの二人に、さっきからしきりと絡まれているようだった。桃城にぐいぐいと首を締められ、その上スミレの注ぐワインを強引に勧められて、迷惑そうな顔をしながらも、何だかんだと彼らに答えている。
「ほらぁ、アタシの酒が飲めないって言うのかい? あのチビ助が、ちょっと会わない間に、随分とえらくなったもんだねえ」
……先生、飲み過ぎっスよ。
 もういい年なんだから、少しは自重したらどうっスか」
「おーい越前、バァさんがせっかく酌してくれてんだ。ここは、有り難く頂くのが礼儀ってモンだろ? 断っちゃいけねえな、いけねえよ」
「はぁ……分かりましたから、桃先輩、ちょっと背中から下りてくれません? 重いんで」
 リョーマは、子供の頃からクールで愛想の無い性格だが、決して付き合いの悪い方ではない。今も、肩に伸しかかってくる桃城の相手をしつつ、スミレに渡されたワインのグラスに、渋々ながら口を付けている。妙なところで律儀な彼の姿に、なんだか微笑ましさを感じてしまう。
 不二は、黙って桜乃の方を見ていたが、やがてその口許に、ふっと優しい笑みを浮かべた。
「向こうが落ちついたら、越前とゆっくり話すといいよ。
 彼も、すっかり世界的な有名人になっちゃったし、こんな機会でも無いと、今後は中々会うことも出来ないだろうしね」
「はい、ありがとうございます」
 そう言った桜乃は、もう一度、不二に向かって深々と頭を下げる。
 顔を上げると、こうこうと白く灯る光が目に飛び込んできて、それが酷く眩しかった。


      †       †       †


……ふぅ」
 化粧室で手を洗った後で、口紅を軽く引き直す。もともと薄めのメイクしかしていないので、食事の後でも、手直しする必要はあまり無かった。化粧をするようになって、初めて知った事だが、自分の顔立ちはメイクでかなり派手になってしまう作りらしく、一度加減が分からない頃に、雑誌の手本通りに色を乗せてみたところ、やたらと目立って街で声を掛けられまくったので、それからは、なるべく控えめの仕上がりを心掛けている。
「────」
 鏡の中には、うっすらと頬の赤くなった面が映っていた。歓談の合間に、それなりの酒量を飲んだ筈だが、ほとんど酔いらしい酔いは回っていない。微かに朱のさした目元だけが、口にしたアルコールの気配を示していた。
 華奢で儚げなその印象から、下戸と思われる事も少なくないが、酒豪である祖母の血筋もあって、桜乃は意外とアルコールには耐性がある。親友の朋香の方が、まだ酒に弱いくらいだ。とは言うものの、人見知りで生真面目な彼女は、あまり自分から好んで酒席に顔を出す方ではなかったが。
……全然、話せなかったなぁ)
 はぁぁ、と長いため息をついて、桜乃は冷たい鏡に、ぴたりと額を押しつけた。金属質のひんやりとした感触が、触れた皮膚から熱を奪い取っていく。
 不二が気を遣って勧めてくれたものの、結局、リョーマとはほとんど会話を交わせないままだった。リョーマが桜乃たちの傍に来た時も、ほどよく出来上がっていた堀尾たちが、先に絡みに行ってしまい、彼と話した事と言えば、『リョーマ君のテニス、ずっと応援してるね』『……サンキュ』という、ほんの二言三言だけだった。
(残念だけど……しょうがないよね。
 後で、もうちょっと時間取れるかもしれないし……
 そう独りごちると、鏡の中の自分がそっと睫毛を伏せた。
 ──実を言えば、リョーマが渡米した後も、桜乃は何度か彼と会った事がある。大抵は、帰国した相手からの連絡で、他愛もない買い物に付き合ったり、時々テニスをしたりする程度の、友人としておかしくない距離感の接触だった。
 しかし、さっき不二が言った通り、リョーマもプロとして本格的に名が売れてきた以上、今までのように軽々しく会う事は出来なくなるだろう。そう考えると、今日このまま話せないで終わるのは、少しばかり名残惜しい気もする。
……とりあえず、戻らなきゃ)
 ふう、ともう一度大きく息を吐き出した桜乃は、軽く前髪を整えると、そのまま踵を返して、化粧室を後にした。
 会場に足を踏み入れると、ざわざわとした喧騒が耳に押し寄せた。だいぶアルコールが回った所為で、浮かれている面子が増え、声の音量が大きくなっているのだろう。少し離れたところでは、何かツボに嵌まる事でもあったのか、桃城と菊丸の二人が、腹を抱えてげらげらと大笑いしている。
 周囲を見回してみるが、親友の姿は近くには見当たらなかった。多分、他の誰かと話をしているのだろうが、長身の連中が多い会場内では、女性としては平均的な身長である朋香の姿は、回りの人影に埋もれてしまって、すぐには見つけられない。
「朋ちゃん、どこにいるんだろう……?」
 そう呟いた桜乃が、朋香を探そうと一歩を踏み出した、その時だった。

「竜崎」

 不意に、真横に立っていた誰かに呼び止められる。
 掠れた声は、桜乃のかなり上の方から降ってきた。首を巡らせてそちらを見上げると、こちらにじっと注がれる猫のような目と、互いの視線がぶつかり合う。
 中学時代よりもずっと高くなった身長。すらりとした長い手足が、モデルのように綺麗な形で組まれている。そうして、まだ少年のあどけなさを残す端正な面差しが、桜乃の方に真っ直ぐ向けられていた。
「リョーマ、君?」
……ん」
 入り口に凭れるようにして、そこに立っていたのは、彼女が今の今まで思いを馳せていた、越前リョーマ本人であった。オーダーメイドとおぼしきスーツを纏った青年は、体重を背中に預ける格好で、深く扉に寄り掛かっている。
 ──顔が赤い。先刻まで、周囲から寄ってたかって杯を勧められていたようだし、もしかすると、かなり酔っているのだろうか。良く見ると、目線もどこか不安定で、吐き出す息も熱を孕んでいるようだった。
「リョーマ君、大丈夫?」
 心配になって近づくと、彼はのろのろと身を起こした。重い瞬きを二、三度繰り返した後で、前触れもなく差し出された手が、桜乃の方に伸びてくる。
「ちょっと……こっち、来て」
「え? あ、あの、リョーマ君……っ、」
 広い掌が、彼女の手首を掴んだ。途端、そこからじんわりと伝わってくる湿った体熱に、桜乃は思わず息を飲む。
 厳しいトレーニングで擦り切れ、鍛え上げられた掌は、ごつごつとした固い皮膚に覆われている。その表面はじっとりと汗をかき、桜乃の肌よりもずっと上昇した温度を帯びていた。そのくせ、強張った指先だけが妙に冷たく、そのアンバランスな体温分布は、明らかな体調の異変を伝えている。
 やはり、相当に酔っているようだった。多分、周囲の喧騒やアルコールの匂いに耐え切れなくなった彼は、新鮮な空気を求めて、一人会場の外に足を向けるところだったのだろう。そうして、たまたま出くわした桜乃に、口裏合わせでも頼むつもりだったのか。
「リョーマ君、具合悪いの?
 あの、ちょっとだけ待っててね。今、誰か、先輩呼んでくるから」
 桜乃の言葉に、リョーマは端正な顔をきつく顰めた。ぎゅっと捕まえた手首を強引に引っ張って、彼はそのまま、相手を外の廊下に連れ出そうとする。
「別に何ともないし、全然平気。
 ……それより、早く付いてきてよ。他の連中に見つかったら、面倒だから」
「で、でも……
 すっかり困惑してしまった桜乃は、へにょりと眉を下げて、仏頂面のリョーマを見上げた。ついさっきまでは、彼と話せないのを残念に思っていた筈なのに、やっと会話が出来たかと思えば、こちらの都合など省みない一方的な要求である。──つくづく、酔っぱらいというのは手に負えない。
……困ったなぁ)
 強気な彼の事だから、うっかり飲み過ぎて体調を崩してしまったのを、他の人間には知られたくないのだろうが──しかし、桜乃一人では、とてもではないが、これだけ体格差のある長身の男性を、まともに支えて歩く事は出来ない。本人は『平気』と言い張っているものの、呂律も微妙に怪しいし、万が一転んで怪我でもしてしまったら、テニスプレイヤーとしての生命に関わってしまう。
(うう、どうしよう……
 ──と、その時。
 様子のおかしい二人に気づいたのか、グラスをテーブルに置いた大石が、大股でこちらの方にやって来た。彼は桜乃の隣で足を止めると、心配そうな顔で、彼女とリョーマを交互に見やる。
「二人とも、どうかしたのか?」
「あ……大石先輩」
 頼りになる先輩の登場に、ほっとして肩の力を抜いた桜乃とは対照的に、リョーマは露骨に苛立ちを浮かべてそっぽを向いた。リョーマに手首を掴まれたまま、桜乃は真横の大石を見上げると、小声で事情を説明する。
「あの、リョーマ君、ちょっと酔っちゃって、具合が良くないみたいなんです。
 申し訳ないんですけど、どこか休める所とか無いでしょうか? その、私じゃ、リョーマ君支えて歩けないので……
「そりゃあまずいな。まったく、英二も桃も、調子に乗って飲ませ過ぎたんだろう。後でしっかり言っとかないと。
 ──越前、大丈夫か?」
「────」
 大石の問い掛けに、リョーマは無言のままだった。あからさまに不機嫌な顔つきで、彼はむっつりと唇を引き結んでいる。しかし、大石は後輩の不遜な態度を気にした様子も無く、てきぱきとした調子で話を進めていった。
「越前、確か、今日はこのホテルに部屋取ってただろう?
 まずは、ベッドで少し横になった方がいい。他の連中に知られたら、部屋に押しかけかねないし、今のうちに、こっそり抜け出した方が良さそうだ」
 そう言うと、大石は背後を振り返る。会場内は、いっそうの盛り上がりを見せていて、入り口近くの遣り取りに目を止めている者は殆ど居なかった。唯一、少し離れた所で話していた手塚と不二が、こちらに気がついたようだが、聡い二人は、すぐに大体の状況を理解したらしく、桜乃たちに向けて、静かに頷きを返してくれる。
「後は、手塚たちがフォローしてくれるだろうから、心配いらないよ。
 ──さあ、行こう越前。竜崎も、面倒をかけてすまないな。先に戻っててくれ」
「はい、あの……大石先輩、リョーマ君のことお願いします。──って、あの、リョーマ君……?」
…………
「ご、ごめんね、リョーマ君……その、手、離して貰えるかな?」
…………。」
 だが、リョーマから答えは返ってこなかった。桜乃の訴えを聞いているのかいないのか、一向に手首を解放する気配は無い。それどころか、肌に食い込む指先には、いっそう力が込められて、掴まれた所が、僅かな軋みを感じるほどだった。
 見ると、彼は相当にだるそうな様子で、先刻よりも深く扉に寄り掛かっている。目は辛うじて開いているものの、瞬きの間隔が長くなり、ひどく眠たげな表情だ。時折、はぁ、と落とされる吐息が、アルコールの濃厚な色を帯びている。
 頑として桜乃の手を離そうとしないリョーマに、大石が苦笑した。
「ははっ、こりゃ仕方ないな。
 ──竜崎、悪いけど、越前の部屋まで一緒に付いてきて貰えるか? コイツも、その方が安心だろう」
 早く休ませてやらないとな、と言われると、桜乃としても異を唱えることは出来ない。彼女はこくりと頷いて、ふらつくリョーマの隣に立つ。ぐったりと気だるそうなリョーマから、何とか部屋のキーを受け取った大石が、その広い背中を支えて、三人はそのまま会場を後にした。
 この一角は、そもそも一般客が立ち入れないエリアなのか、長い廊下にはまったく人けが無い。辺りはしんと静まり返っており、パーティールームの喧騒だけが、扉の向こうから途切れなく聞こえてくる。
 ──リョーマに手を掴まれたまま、桜乃はひどく落ちつかない気分で、明るい廊下を歩いていった。
 リョーマを挟んで直ぐ反対側には大石が居るし、彼に手を取られているといっても、全然浮かれた心地にはならない。むしろ、ここまで前後不覚になっているリョーマの体調が、ただひたすら心配だった。この分だと、自分が手を握っている相手が誰なのかも、もう良く分かっておらず、単に不安定な足元を凌ぐ為に、適当に近くにあったものに掴まっているだけなのかも知れない。
「────」
 エレベーターを待つ間も、リョーマはずっと無言だった。時折長い息を吐いては、重そうにかぶりを振る。やがて、低い唸りと共に上昇してきた手狭な空間に、桜乃と大石は、リョーマの体を支えながら、彼を真ん中にしてゆっくりと乗り込んだ。


      †       †       †


 大石の先導で足を踏み入れたのは、最上階のエグゼグティブルームだった。こんなグレードの高いホテルの部屋になど、残念ながら桜乃は、一度も泊まったことは無い。緊張でこくりと喉を鳴らしつつ、彼女は恐々とリョーマの借りた一室を見回す。
 部屋の中は広く、シックな作りだった。いわゆるビジネスホテルにありがちな、利便に偏った無機質さではなく、どこまでも瀟洒で贅を尽くした雰囲気が漂っている。壁面に嵌め込まれた大きな窓からは、眼下の華やかな夜景が一望できた。当時から天才的なテニスの腕を誇っていたとは言え、それ以外はごく当たり前の中学生だったかつてのリョーマからは想像もつかないが、今の彼は、こうした一流のホテルに身を置くのが相応しい立場なのだろう。
 荷物はきちんと片づけられていて、散らかっているものは一つも無い。中学の時のリョーマは、どちらかと言えば、身の回りの整理整頓には無頓着な方だったので、それが少しばかり意外だった。
「ん……
 大石によって、ベッドに運ばれたリョーマは、そこでようやく桜乃の手を離した。処置を行う大石の邪魔にならないよう、彼女はベッドの傍から離れて、二人の様子をじっと見守る。
 靴を脱がせ、スーツの上も袖から抜き取ると、大石はそれを傍のサイドテーブルに置いた。上質な生地の上着を取り上げた桜乃は、皺にならないよう、手早く形を直してハンガーにかける。あの頃はほとんどサイズの変わらなかった彼の服は、今では彼女のものより二回り以上も大きくて、それが何故か、妙に寂しく感じられた。
「大石先輩、リョーマ君は……?」
 おずおずと大石に尋ねると、リョーマの襟元を緩めていた彼が、こちらを振り向いて優しく笑った。
「ああ、とりあえず、急性アル中の心配はなさそうだ。さすがに、そこは越前もプロだから、酒の量はしっかり自制してるだろうしね。
 単に、飲むペースが早過ぎて、ちょっとアルコールに当てられただけだろう。このまま暫く休んでいれば、気分も落ちつくと思うよ」
「そうですか……良かった」
 大石の答えに、桜乃はほっとして肩の緊張を解く。医学生として専門知識も豊富な彼が言うのだから、間違いは無いだろう。ベッドの上に横たわるリョーマに目を遣れば、楽な姿勢を取った事で、負担も幾分軽くなったのか、さっきよりも表情が和らいでいるように見えた。
 大石は、尚もリョーマの脈を測ったり、熱を確認したりしていたが、やがて彼の上から身を起こすと、桜乃の方に顔を向けた。
「ちょっと体温が高いから、少し冷やした方が良いかもな。
 下で氷を貰ってくるから、その間、越前の様子を見ててやってくれないか。すぐ戻ってくるから、心配はないと思うけど、何かあったら携帯にかけてくれればいいから」
「は、はい」
 同窓会の幹事である彼の電話番号は、招待の時に添えられていたから、桜乃もちゃんと携帯に登録してある。ぴっと姿勢を正して、大石の頼みに大きく頷くと、彼は昔と変わらない穏和な口調で、じゃあ、行ってくるよ──と言い残し、そのまま急ぎ足に部屋を出ていく。

 室内には、目を閉じたリョーマと、桜乃の二人きりだけが残された。

 薄明かりの部屋を満たす、張りつめた沈黙。
 物音一つしない静寂の中で、微かな呼吸の音だけが、規則的に響いている。

 大石が出ていった後も、桜乃は何となく身動きが出来ないまま、その場にじっと立ち尽くしていた。広い室内の中央には、座り心地の良さそうな革張りのソファもしつらえてあったが、部屋の主であるリョーマに断りもなく、勝手に腰を下ろすのは気が引ける。当の本人は、そんな些細なことを、一々気にしたりはないだろうが。
……リョーマ君)
 彼女の視線の先で、ベッドに身を横たえたリョーマは、朱の散った瞼を深く閉じていた。スーツの上着を脱いで、シャツ一枚になった上半身は、細身ではあるが、しなやかで理想的な筋肉のついた体のラインを、うっすらと浮かび上がらせている。ボタンが二つ三つ緩められた襟元から、彼の鎖骨が覗いているのが見えて、その光景に居たたまれなくなってしまった桜乃は、リョーマの上からそうっと目を逸らした。
…………
 その時、ふと彼の唇から、小さな呻き声が聞こえた。
 まだ、どこか苦しいのだろうか。大石は心配いらないと言っていたが、もし様態が悪化するようなら、彼に急いで連絡を取らなくてはならない。
 慌ててリョーマの枕元に駆け寄ると、桜乃は真上から相手の顔を覗き込んだ。さっきまでひどく火照っていた頬は、だいぶ不自然な赤みも抜けて、平常通りの顔色に戻っていたが、それだけで彼の体調を判断する事も出来ない。
「リョーマ君、大丈夫?」
…………
 相手の名前を呼びかけると、不意に、ぱちりと目が開いた。
 光度を抑えた仄かな間接照明の中でも、猫のように輝く大きな瞳。その視線が、何かを探すように小さく彷徨った後で、ようやく真正面から桜乃を焦点の中央に捉える。
 ──彼女と目が合った瞬間、リョーマはふわり、と唇を綻ばせた。
 何年も前から彼を知る桜乃であっても、一度も見た記憶の無い、それはひどく穏やかで、──胸がしめつけられるみたいに、どこまでも綺麗な笑顔だった。

……なに、そんなトコに突っ立ってんの。
 こっちおいでよ、ほら」

「え──?」
 まったく予想外の事を言われて、一瞬、理解が追いつかない。てっきり、『ここは何処なのか』とか『もう大丈夫だから、下に戻る』みたいな事を言い出すものだと身構えていたのだが、リョーマから告げられた言葉は、完全に桜乃の思考を飛び越えた内容で、どう返事をしていいのかも分からなかった。──もっとも、酔いが回って昏倒した人間に、起き抜けからまともな対応を要求する方が、無理な相談というものかも知れないが。
「あ、の……リョーマ、君?」
「────」
 きょとんとして瞳を瞬かせる桜乃に、焦れったさを覚えたのだろうか。リョーマは片方の肘をついて、ベッドの上に半身を起き上がらせると、さっき会場でそうしたように、腕を伸ばして、彼女の手首をぐいと掴んできた。
「わ……っ、きゃあっ!」
 そのまま、力に任せて強引に引っ張られ、バランスを崩した桜乃は、姿勢を立て直す事も出来ずに、ぐらっと足をよろめかせる。ドレスに合わせて、いつもよりも高いヒールを履いていたのが災いした。そうでなければ、後一歩のところでギリギリ踏み止まれたのだろうが──生憎、爪先立ちの不安定な足元は、突然の衝撃にあっさりと崩れ、均衡を失った体が、どさりと男の胸の上に倒れ込む。
 弾みで、ふわっと長い黒髪がシーツの上に散らばった。背中にリョーマの腕が回り、宥めるように二、三度肩を叩かれる。
「り、リョーマ、君……っ、」
 いきなりの展開に、口から心臓が飛び出そうだった。全身がかっと熱くなり、ばくばくという鼓動の音が、耳の奥底で雷鳴のように鳴り響く。シャツ越しの素肌の熱さや、リョーマが纏っている香水の匂い、そうして、くらくらするようなアルコールの残り香が入り交じって、その濃厚な空気に、目の前がぼうっと眩んでゆくのが分かった。
 ──とにかく、このままではまずい。リョーマは半分寝ぼけているのだろうが、自分の体重が彼の上に乗っかったままでは、相手に変な負担がかかってしまう。そうでなくても、リョーマにぴったりと密着しているこの状況では、羞恥と緊張感から気が遠くなりそうだった。
「ご、ごめんなさいリョーマ君、すぐ退くから……っ!」
 焦ってリョーマの腕から逃れようとすると、耳元でくすくすと笑う声が聞こえた。
「別に、そんな逃げなくてもいいじゃん。
 どうせ誰も見てないんだし、今更気にしなくてもいいでしょ」
…………、」
 その声色は、中学の頃より低くなったとは言え、紛れもなく聞き覚えのある青年のものだ。それなのに、甘ったるい熱を孕んだ囁きは、とてもあのぶっきらぼうな相手が紡いだものとは思えず、声だけが良く似た、まったく知らない誰かの言葉のような気がする。

 どうして。
 どうして。
 どうして────

 すっかり混乱し、半ばパニックに陥りかかった桜乃とは対照的に、リョーマは悠然としたものだった。彼は、ドレスの背中に腕を回したまま、桜乃の重みごと、再びシーツの上に体を預ける。そうして、男の器用な指先が、落ちかかる黒絹の髪を、するりとなめらかに滑っていった。
 腰までの黒髪を、きっちりお下げに編んでいた子供の頃よりは、やや短く切り揃えたものの、今でも背中の半ばほどの長さはある。染めても巻いてもいない艶やかなストレートヘアを、一掬いだけ頂点できっちりと束ね、後は自然に流した髪形は、清楚なパールピンクのドレスに良く似合っていた。
 桜乃の髪を撫でながら、リョーマがまたくすりと笑う。元々整った顔立ちの彼は、そうやって柔らかく口許を緩めると、溢れるような男性的な色香が滲み出て、どこか妖艶な雰囲気さえ感じさせる。
……髪形、変えたんだ?
 結構似合ってんじゃん、ソレ。たまには、そういうのすればいいのに」
「あ、あの……
 まるっきり会話が噛み合わない。口調はしっかりしていて、呂律も元通りに直っているが、言っていることは支離滅裂だ。困惑した桜乃は、すぐ近くにあるリョーマの顔をおろおろと見下ろす。
 多分、彼は今も酔いが覚めていないのだろう。比較的酒に強く、大学の飲み会などでは友人の介抱役に回る事も多い桜乃は、酔っぱらいの言動というものを良く知っている。普段は落ちついた性格の人間が、酒が入った途端に、訳の分からないくだを巻き始めたり、やたらめったら周囲の異性を口説き出すというのも、ままある光景だ。──リョーマがそういうタイプの酒癖だったというのは、確かに少々意外な発見ではあるが。
 相手の状況を何となく察した桜乃は、うるさく騒ぐ心臓の上にぎゅっと拳を押しつけて、一度大きく深呼吸をした。そうして彼女は、いつも酔った友人を介抱する時のように、努めて落ちついた声でリョーマに呼びかける。
「あ……あのね、リョーマ君。
 今急に起きちゃったら、また気分悪くなっちゃうかも知れないから、もう少しここで寝てた方がいいよ」
 もうすぐ、大石先輩が戻ってくるから──と言いかけた桜乃を遮って、リョーマが彼女にぐいと顔を近づけてきた。
 睫毛が触れ合うほどの距離。それだけは中学生の頃から変わらない、勝気な色を帯びた大きな猫目に、狼狽した自分の顔が映り込んでいる。
 髪を撫でていたリョーマの掌は、いつの間にか、桜乃の後頭部をしっかりと捕らえていた。そうして、彼女の視線を、自分の正面に固定させたまま、アルコール交じりの甘い囁きが、濡れた唇から吐き出されて──

「へえ、今日は随分と大胆だね。
 アンタの方から、ベッドに誘ってくれるなんて、初めてなんじゃない?」

「──え、」

 数秒の、──空白。

 脳細胞が一瞬で漂白されたように、思考が止まる。呼吸も血流も脈拍も、絶対零度の息吹にさらされて、瞬時に凍りついてしまったようだった。さっきまで熱く火照っていた頬も、見る見る体温を失って、体の末端が冷たくなってゆく。
「あ──の、」
 リョーマの言っている事が、さっぱり理解出来ない。──いや、言葉の意味自体は分かる。純情だった中学生の頃ならばいざ知らず、友達の恋愛話や、雑誌やテレビなどでその手の情報に触れた今となっては、まだ実際の経験こそ無いものの、最低限の知識くらいはある。
 ただ、リョーマがそれを自分に対して告げる意味が分からなかった。言うまでもないが、彼と自分は、ベッドに誘いをかけるような仲では、間違ってもあり得ない。中学から今まで、多少の交流は続いていたが、あくまでも友人の繋がりを出ないレベルであり、男女の関係を匂わせるものは、二人の間のどこにも存在しなかったのだ。ベッドはおろか、桜乃は彼と手を繋いだ経験すら無い。
 ──その、はずなのに。

 何を、言って──?

「ねえ……もう、余計なことはいいじゃん。
 これ以上、お預けはナシにしてよ。俺、そんな気の長い方じゃないんだよね」
 動揺する桜乃をよそに、ゆるりと瞬きをしたリョーマは、背中に回した手に力を込めて、更に深く彼女の体を抱き込んできた。
「リョーマ、君……っ、」
 半分ベッドに乗り上がった片足から、ぽろりとヒールが脱げ落ちる。横たわる男の腹を跨ぐような恰好で、強引に体を引き寄せられた所為で、ドレスの裾が太股近くまで捲れ上がっていた。傍目から見れば相当にあられもない姿だが、残念ながら今の桜乃に、それを気に留める余裕は残っていない。
 そのまま、リョーマの顔が近づいてくる。見惚れるほど整った面差しが、呆然と見開かれた彼女の視界を、いっぱいに塗り潰した。甘ったるい男の吐息が唇を擽り、その熱っぽい温度に、ぞくりと背筋が痙攣する。体は固く冷え切っているのに、彼の手が触れたところだけが、焼けた火箸を押しつけられたようにじくじくと痛く疼いていた。
「目──閉じて」
…………、う……
 いくら鈍い桜乃でも、ここまで来れば、彼が何を求めているのかははっきりと分かる。頭の奥でガンガンと警報が鳴り、全身が勝手に震え始めた。自分が今感じているのが寒けなのか、それともアルコールの熱で火照っているのか、もはやそれさえもまともに認識出来ない。

(だ、め──、)

 早く。
 早く、突き放さなければ。

 大声で強く呼びかけたなら、きっとリョーマは正気に戻る。そうすれば、我に返った相手は、直ぐに桜乃の体を手放して、自分のしでかした間違いを謝ってくれるだろう。
 ちゃんとそう分かっていて、でも、どうしても声が出ない。彼の名前を口にしようとするのに、まったく唇が動かせない。まるで、リョーマの体熱に当てられた喉が、ひりひりと焦げついてしまったみたいだった。

 ああ──やっぱり、無理だ。
 私には、彼を止めることなんて出来ない。

 だって。
 きっと、それは。

 もうずっと昔から、心のどこかで私が望んでいた、ただ一人の──

「ん……っ!!」
 初めて知るその感触は、溶けるような熱と、刺じみた鋭い痛みを同時にもたらすものだった。
 薄くルージュを乗せた桜乃の唇に、自分のそれをきつく押しつけたリョーマは、一度口を離すと、今度はゆっくりと感触を確かめるように、時間をかけて互いのあわいを絡めてくる。
 僅かに半開きになった桜色の唇に、濡れた舌先が滑り込んだ。そのまま、ぴったりと口をリョーマのもので塞がれる。アルコールの濃度を帯びた呼気が、じわりと染み込んできて、口移しに飲まされる酒精の残り香に、そのまま酔いしれてしまいそうだった。
「あ……リョーマ、君……っ、」
「──ん、もっと……
 背中に回された彼の手が、乱れたドレスの生地をなぞり上げる。そうして、剥き出しの肩を包み込んだ掌が、素肌の手触りを楽しむように、その円い輪郭を撫でさすった。逆の手はしっかりと桜乃の後頭部を固定したまま、彼は尚も貪欲に、震える女の唇を貪っている。
 ──リョーマと、キスしている。
 そう思うだけで、世界が足元から崩れていくような目眩に襲われた。これは単なる都合のいい夢で、目が覚めたら、リョーマとの距離は、以前と変わらない同級生のものに戻っているのではないか。──そんな不安を覚えてしまうほどに、今の状況には現実感が無い。
……ふぁ……っ、」
 また、唇が離れた。恐々と目を開けると、ほんの数センチの先に、同じように瞼を開いたリョーマの顔があった。二人の間を儚い糸が繋ぎ、ちゅ、と音を立ててそれを吸ったリョーマが、紅潮する桜乃の面に、ひどく艶かしい視線を注ぐ。
 頬に、そっと熱い掌が添えられた。そうして、リョーマの強い瞳に捕らえられると、彼が酔っていることも、もうすぐ大石が戻ってくる事も、もうどうでも良くなってしまいそうだった。
 魅入られたようにリョーマを見つめる桜乃の前で、彼はふっと笑った。そのまま、相手の唾液で濡れた唇が、ゆるゆると開かれていって──、

「──■■」

 知らない、名前を呼んだ。

 頭から、冷や水を浴びせられたようだった。
 ぼんやりとした靄のかかっていた視界が、瞬時にしてクリアになる。愕然と目を見開いた桜乃は、反射的に思い切りリョーマの胸を突き飛ばした。背中に回っていた腕を強引に払いのけて、転がるようにベッドから飛び下りる。
……っ!」
 桜乃に押し退けられても、リョーマはほぼ無抵抗だった。もし彼が本気で腕に力を入れていたら、いくら彼女が必死でもがいたとしても、絶対に振りほどく事は出来なかっただろうから、やはりリョーマもまだ、夢現の狭間に居たのだろう。
 そのまま、彼女はシーツに転がったハイヒールを引っ掴むと、無我夢中でベッドに横たわるリョーマから距離を取った。夜景の映る窓際まで、ほとんど這うようにして必死に辿り着くと、彼女は壁にうずくまって、震える体をぎゅっと抱きしめる。
 悪寒が止まらない。足元から昇ってくる冷気が、全身を容赦なく包み込む。知らず知らず涙がこみ上げてきたが、桜乃は必死でそれを押し殺した。間もなく戻ってくる大石に、泣き顔を見られてしまったら、事情が彼にも伝わってしまい、リョーマに迷惑をかける事になりかねない。
(私……、私、なんで……っ、)
 今、リョーマが口にした名前は、明らかに彼女のものでは無かった。──考えるまでもなく、当たり前の話だ。リョーマが、ただの同級生である桜乃に、あんな熱っぽいキスを求める理由が無い。彼は恐らく、夢の中で、桜乃と別の誰かを取り違えていたのだろう。
…………、う……
 苦しげな桜乃の嗚咽を余所に、リョーマはまた眠っていた。夢の中で甘い口づけを交わしたことで、すっかり満足したのかも知れない。静かな寝息の音さえ聞きたくなくて、彼女はきつく手で両耳を塞ぐ。
(リョーマ君……誰と、キスしてたつもりなんだろう。
 きっと、私の知らない人だよね……
 ──実のところ、さっき彼が正確には何と言ったのかは、桜乃にはほぼ聞き取れてはいなかった。アルコールとキスの余韻で、まともに回らなくなっていた舌は、くぐもった不明瞭な音しか紡ぐことが出来ず、その音節とアクセントから、何となく人の名前だろうと察せられただけに過ぎない。
 ……ただ。
 目の前で動いた唇のかたちが、明らかに彼女の名を呼ぶ時のそれとは異なっていた。あの時、リョーマの双眸に映っていたのは、間違いなく自分の顔だった筈なのに、彼の意識は桜乃を通り越して、別の誰かに向けられていたのだ。
(もう、やだ……やだよ、こんなの……
 耳を閉ざした桜乃は、胎児のように身を丸くして、その場に縮こまる。苦しくて、苦しくて、息が出来なくなりそうだった。水に上げられた魚みたいに、はぁ、と無様な喘ぎを繰り返しているうちに、段々酸素が足りなくなって、意識が朦朧としてくる。


 ──いっそ、ただの夢なら良かった。
 ──こんな現実を突きつけられるくらいなら、朝が来れば跡形もなく消えてしまう夢の方が、どれだけ救いがあっただろう。


      †       †       †


「──き? 竜崎、どうしたんだ? 大丈夫か?」
「あ……
 ふと、肩を揺さぶる遠慮がちな感触で、桜乃の思考は現実に引き戻された。
 背中が冷たい。ガラス窓に素肌を押しつけるように凭れていた所為で、触れていたところはひどく冷えきっていた。のろのろと面を上げると、目の前に屈み込んで、こちらを覗き込んでいる男と視線が合う。
「大石、先輩?」
 そこには、心配そうな顔をした大石の姿があった。いつの間に部屋に帰ってきたのだろうか、全然気づく余裕も無かった。
 彼の手には、まだ氷の袋がある。リョーマを手当てするために持ってきたものの筈だが、室内に足を踏み入れた途端、窓際でうずくまっている桜乃の姿が目に入ったので、とりあえずリョーマは後回しにして、真っ直ぐこちらの方に駆け寄ってきたのだろう。
「本当に、どうしたんだ? 顔色が真っ青だぞ。
 ──ひょっとして、越前と何かあったのか?」
 思わしげに尋ねてくる大石に、桜乃は慌ててかぶりを振った。壁に寄り掛かるようにして、どうにかその場に立ち上がると、乱れていた髪やドレスの裾を整える。大石の肩ごしに、リョーマの寝姿がちらりと視界を掠めたが、彼女は唇を噛んで、その光景から目を逸らした。
「いえ、その……私も、思ったより酔ってたみたいで、ちょっと目眩しちゃって……
 でも、もう大丈夫です。窓の近くにいたら涼しくて、だいぶすっきりしました」
「しかし──」
 大石は納得していない様子だった。部屋を出る前はまったくいつも通りだったのに、十五分と経たぬうちに、青ざめて力無く片隅に座り込む彼女の姿を見れば、いらぬ疑いを抱くのも当然だろう。
 大石に、これ以上余計な心労をかけたくは無かった。彼は昔から優しい人で、後輩である桜乃にも、何かと気を配ってくれる事が多かった。もし大石が事実を知ったら、彼はきっと、桜乃を傷つけたリョーマの醜態を、決して許しはしないだろう。
(ダメ、絶対にばれないようにしなきゃ……
 大石先輩に心配かけられないし、リョーマ君にだって、迷惑がかかっちゃうもの)
 そう自分に強く言い聞かせた桜乃は、何とか強張った表情筋を動かして、にこり、と笑顔らしきものを作ってみせた。根っから素直な性格の彼女は、今でも決して嘘や演技は得意ではないが、さすがに中学生の頃よりは、幾分外面を取り繕うことが出来るようになっている。
「あの、私なら本当に平気です。ご心配かけちゃってすみません、先輩。
 私、先に戻ってますから、リョーマ君のこと、お願いしますね」
……竜崎、」
 大石は、尚も何かを言いたげな顔つきだったが、桜乃はそれを遮って、深々と頭を下げた。そのまま彼の横を通り抜けて、リョーマの眠るベッドには目もくれないまま、一目散に扉に向かう。
「────」
 部屋を出るまで、大石がじっと心配そうにこちらを見つめている気配がしたが、桜乃は決して、そちらを振り向く事は無かった。
 もし、視線を後ろに向けた弾みに、もう一度でもリョーマの顔を見てしまったなら、今度こそ、涙を耐えられる気がしなかった。

 ──会場に戻ると、桜乃の姿を見つけた朋香が、ぱたぱたとこちらに駆け寄ってきた。大胆に肩と背中を晒したデザインのドレスを纏い、泣き黒子を強調するような艶っぽいメイクを施して、大人の女性の色香を漂わせる朋香だが、こういう振る舞いは、元気溌剌だった中学生の頃とあまり変わらない。
「桜乃、どこ行ってたのよ! もう、ちょっと目を離した隙に、リョーマ様まで居なくなっちゃうし、堀尾はうるさいし──って、ちょっと、どうしたの、桜乃?」
 親友の沈んだ表情に、目敏く気づいたのか。一度言葉を切った朋香は、回りの人間から桜乃の姿を隠すように、彼女の正面に仁王立ちすると、声を潜めて囁きかけてくる。
……何かあったのね。
 アンタ、ひどい顔になってるわよ。一体どうしたのよ?」
 大石とは違い、桜乃の異変を、確信をもって断定する口調だった。桜乃とは付き合いも長い上、朋香はこれでかなり勘が鋭く、相手の感情にも敏感な人間だ。大石相手にはどうにか誤魔化したものの、朋香には通じないだろう、と悟った桜乃は、こくりと小さな頷きを返す。
「あ……うん、その……少しだけ……
「どうしたの? ひょっとして、リョーマ様に関係したこと?」
……ごめん、今は、ちょっと、……無理、なの。
 後で、ちゃんと、話す……から、ごめんなさい、私──今日は、先に帰るね。
 あの、おばあちゃんに言ってくるから、朋ちゃんは楽しんでて──」
 桜乃がそう言いかけたところで、ぐいと乱暴に腕を掴まれた。見ると、朋香はむっとしたように眉をしかめて、桜乃の顔をきつく睨み付けている。
「何バカなこと言ってんのよ。
 そんな状態のアンタを、一人で放っておける訳がないでしょ。私も一緒に帰るから、さっさと支度してきなさい。竜崎先生には、私が言っておくわ」
「い、いいよ、そんなの悪いし……
 せっかくの同窓会なのに、自分の都合に付き合わせて、朋香まで抜けさせてしまうのはあまりに申し訳ない。必死に遠慮しようとする桜乃に、朋香は腰に手を当てて、ふんと鼻を鳴らした。
「どっちにしろ、リョーマ様が居ないんじゃ、これ以上長居したって仕方ないわよ。
 もう十分に楽しんだし、そろそろ堀尾の相手するのも、面倒になってきたトコだしね。かえってちょうどいいわ」
「朋、ちゃん……
 朋香はそう言うが、それが桜乃に気を遣わせない為の方便だという事も、彼女には良く分かっていた。桜乃と同じように、朋香も青学テニス部の先輩たちとは親しくしていたし、因縁の相手である堀尾とも、時に口喧嘩しつつも、何だかんだと根は仲が良い事を知っている。例えリョーマの姿が無くても、本当はまだここに残っていたいのが本音だろう。
 唇を噛んで俯く桜乃の頭を、優しい手がそうっと引き寄せた。リョーマの力強い指とはまったく違う、繊細で柔らかな指先が、冷え切った桜乃の心を溶かすように、黒絹の上を撫でていく。
「馬鹿ね、そんな顔しないの。
 私はアンタの親友でしょ? だったら、つらい時くらい、ちゃんと素直に甘えなさい。ほんっと、アンタは昔から変なところで強情っぱりなんだから」
……うん、ありがとう。ごめんね、朋ちゃん」
 そのまま、桜乃はそっと朋香の胸に頬を寄せる。朋香は何も言わずに、縋り付いてくる親友の体を抱きしめてくれた。


 しみ込んでくる朋香の温度は、火傷しそうだったリョーマの体熱とは対照的に、泣きたくなるほど優しかった。


      †       †       †


 窓の向こうから聞こえてくる、車のエンジン音で目が覚める。
 ──ひどく不快な覚醒だった。鉛でも飲み込んだように胃が重く、ちゃんとベッドで横にならなかった為に、体のあちこちがギシギシと軋んでいる。昨日、朋香に付き添われてホテルから帰宅した後、メイクも服装もそのまま、ぐずぐずと泣き疲れて眠ってしまったので、夕べの疲れはまったく取れていなかった。
「朝……?」
 腫れぼったい目を擦って、桜乃は時計を見た。──八時半。いつもなら、とっくに朝食を終えて家を出ている時間だが、幸い今日は大学もバイトも無い。いずれにしろ、もし用事があったとしても、こんなボロボロの姿では、みっともなくてとても人前には出られなかっただろう。今日が休日で良かったというしかない。
 大学進学を期に一人暮らしを始めた部屋は、八畳一間の生活空間と、それとは別にキッチンスペースがついた、ささやかな間取りだった。──とは言え、都内の女子大生の独居住まいとしては、月々の家賃を考えに入れると、十分に余裕のある方だろう。桜乃の学友でも、もっと狭い六畳の部屋や、中には四畳半の一室で暮らす強者も少なくない。
 いつもはやや手狭な室内も、今日はやけにがらんと広く感じられる。夕べ、桜乃を送ってくれた朋香が、そのまま泊まってくれると言ったのだが、その申し出を遠慮した為で、一人きりで取り残されたような心地になっていたのかも知れない。朋香の気持ちは有り難かったが、混乱しきった頭では、とてもまともに話が出来るとは思えなかったので、後日の約束にしてもらったのだ。
……ふぅ」
 全開にした熱めのシャワーを頭から浴びて、一通りの身支度を整え、思い切って部屋のカーテンを開けると、少しだけ気分がすっきりした。重いけだるさはまだ残っていたが、一度目を覚ました以上、だらしなく二度寝する気にもならず、桜乃はずるずると体を引きずって、ベッドに背中をもたせ掛ける。
……なんか、あっけない、なぁ)
 フローリングに足を投げ出して、桜乃はぼんやりと天井を振り仰いだ。緩く束ねた生乾きの黒髪が、寄り掛かったベッドの上に散らばる。
 決定的な失恋の瞬間が、こんなにもあっさりと訪れるものだなどと、昨日までの彼女は、まったく思ってもいなかった。恐らく当の相手は、結果的に桜乃を振った事さえ、ろくに気づいてはいないだろう。会場から姿を消した彼女に対しても、きっと気に留めることすら無く、今頃は既に、アメリカに戻る為、空港へと向かっている筈だ。
 はぁ、とため息をついて、桜乃は腕を目に押し当てる。昨夜、散々涙が枯れるまで泣いたというのに、またじわっと熱いものがこみ上げてきて、彼女は慌ててそれをごしごしと拭い取った。
「勘違い、してたのかな。……私」
 絞り出すような言葉が、唇から漏れる。
 ──中学生の頃から、時々リョーマにテニスを教えて貰っていた桜乃は、彼が渡米した後も、時々連絡を取っていた。ごくたまに、彼の方からちょっとしたメールや電話が来たり、一年に一度くらいは、帰国したリョーマと出掛けた事もある。
 そのささやかな関係に、桜乃が淡い希望を繋いでいなかったかと言えば、多分嘘になるだろう。だがそれは、かつての同級生であり、恩師の孫として縁のあった相手との、あくまでも社交辞令の範囲を出ない交流だったのだ──と、彼女は昨日、嫌というほど思い知らされた。
……髪形、変えたんだ?
 結構似合ってんじゃん、ソレ』
『へえ、今日は随分と大胆だね。
 アンタの方から、ベッドに誘ってくれるなんて、初めてなんじゃない?』
 あの、浮かされたような甘い声。熱情を閉じ込めた瞳。彼女の髪を滑る指先はどこまでも優しく、それでいて、この先に起こる事への焦れったい期待を帯びていた。
 あんなふうに強い腕で抱きしめられ、唇を塞がれて、リョーマから想いを囁かれたことなど、桜乃は無論一度も無い。いつだってクールで、自信に満ちた笑みを浮かべる傲慢なテニスプレイヤーとは、まったく別人のような態度だった。きっとあの姿が、彼が唯一心を許した相手にだけ見せる、リョーマのもう一つの素顔なのだろう。
(リョーマ君に、あんなに親しくしてる女性ひとが居たなんて、知らなかった……
 桜乃は、震える指で自分の唇をなぞる。彼に奪われた口づけの痕は、焼き鏝を押し当てられた火傷のように、ずきずきとひどく痛んだ。決してそんな事がある筈も無いのに、唇に触れた指先が、滲む血で赤く濡れているのを、彼女は確かに見たような気がした。
 ──彼が、夢の中で本当にキスを交わしていたのは、どんな人なんだろう。
 ──あの時リョーマが呼んでいたのは、一体、誰の名前だったんだろう。
「ごめん……、なさい」
 酩酊していたリョーマの意識に滑り込んで、自分がその女性に成り代わってしまった事に、桜乃は息苦しい罪の意識を覚える。それはもしかしたら、失恋の痛みそのものよりも強く、強く、ギリギリと彼女の心臓を締めつけ、激しい疼きで責め苛んだ。何より、例え間違いであったと分かっていても、一瞬でも彼からのキスを喜んでしまった自分が、恐ろしく浅ましい人間に思えてしまって、到底許せそうになかった。
……ごめん、なさい……、リョーマ、君……、私……
 ぎゅっと拳を握って、桜乃は何度も何度も、掠れた謝罪を繰り返す。
 か細いその呟きは、ガラス越しの朝の喧騒にかき消され、誰の耳に届くこともなく散り散りに千切れていった。


      †       †       †


 どれくらい経っただろうか。
 突然、明瞭なチャイムの音が、静寂を縫って、狭い室内に鳴り響いた。はっと我に返った桜乃は、慌てて反射的に時計の方を振り返る。
 随分長いこと物思いに耽っていた気がしていたが、実際は、まだ三十分も経ってはいないようだった。時計の針は、九時をやや過ぎた時刻を指し示している。
(誰だろう……?)
 桜乃は小首を傾げて、玄関を見やった。非常識な訪問時間という訳ではないが、休日の朝から、誰かが訪ねてくるような心当たりもない。落ち込んでいた桜乃を心配して、朋香かスミレが様子を見に来たのかとも思ったものの、二人をはじめ、友人や家族がやってくる時は、必ず事前に連絡を入れてくれる筈なのだが──
 ピンポーン、と、二度目のチャイムが鳴った。今の沈んだ気分とは裏腹に、それは底抜けに能天気な明るい音階だった。
 どちらにせよ、誰かが玄関先に来ている事は間違いないし、このまま無視するのも気が引ける。まだ水気を帯びた髪をざっと手で整えると、桜乃はその場を立ち上がって、玄関の方へと急いだ。
「はい──」
 チェーンを掛けたまま、そろそろと薄めに扉を開ける。
 ドアの向こうに立っているのは、若い男のようだった。──勧誘か、或いは何かのセールスだろうか。もしそうだったら、適当にお茶を濁してお断りしよう──と思ったところで、ぶっきらぼうな言葉が、狭い隙間から投げつけられる。

「──遅い」

 息が、止まりそうになった。

「え──な、何で……っ、」
 声が喉に引っかかってしまって、上手く言葉にならない。ぱくぱくと口を無意味に開閉する彼女を、予期せぬ訪問者は、じろっと不機嫌そうな眼差しで一瞥した。
「悪いけど、早く中に入れて貰える?
 どこにマスコミの目あるか分かんないし、そうじゃなくても、最近は誰でもスマホで写真撮れるから」
 面倒なんだよね、と目の前でぼやく男は、紛れもなく、昨日ホテルで挨拶もなしに別れた筈の、越前リョーマの姿だった。夕べのフォーマルなスーツとは違い、シャツにジーンズというラフそのものの恰好だが、スタイルの良い長身の青年には、それが誂えたように良く馴染んでいる。周囲の人目を避ける為か、帽子を目深に被り、胸のポケットには、さっきまでかけていたのだろうサングラスが、無造作に突っ込まれていた。
「竜崎」
 チェーンで繋がれたままの隙間を恨めしげに見やって、リョーマが彼女の名を呼ぶ。さっさと扉を開けて欲しいのだろう。有名なプロテニスプレイヤーである彼が、朝早くから、一般女性のアパートを訪ねている状況をスクープでもされたら、少しばかり厄介な事態が発生するのは間違いない。
 しかし、当の桜乃は、それに答えるどころではなかった。すっかり混乱してしまった彼女は、悠長にチェーンを外すような思考の余裕など無く、ただ呆然と目を見開いて、相手の面を見つめ返している。
「ど、どうして、リョーマ君……
 確か、今日の午前中の便で、アメリカに戻るって……
 途切れ途切れにそう尋ねると、リョーマがはぁ、とため息をついた。どうやら、ある程度の現状を教えてやらないと、桜乃のパニックが収まらないことを理解したのだろう。彼は帽子の鍔を持ち上げると、青ざめた彼女の顔を見やって、無愛想に事情を説明する。
「ちょっと用事が出来たんで、予定変更した。
 まだスケジュールには余裕があるし、明日の朝の便で帰るつもり」
「用事──?」
 きょとん、と小首を傾げた桜乃を真正面から見据えて、リョーマは一言ひとことを区切るように、はっきりと彼女に告げる。

「──アンタに、話があって」

 刹那。
 ドクン、と心臓が嫌な悲鳴を上げた。

 どくどくと鼓動を早める胸を、ぎゅっときつく片手で押さえ込む。喉が塞がれたように呼吸が苦しくなって、桜乃は思わず、喘ぐように大きく息を吸った。さっきまで必死に押さえ込もうとしていた痛みが、無数の針を飲み込んでしまったように、体の中でじくじくとまた疼きを上げる。
(まさか、リョーマ君、昨日のこと覚えてて……?)
 彼がわざわざ予定の航空機を変更してまで、桜乃の部屋を訪ねてくる理由など、それしか考えられない。
 リョーマは、果たして何を言うつもりなのだろう。酔いに任せて、一方的に望まぬキスをしてしまった謝罪だろうか、──或いは、マスコミに情報が漏れないよう、桜乃に口止めを頼むつもりなのか。
 彼は今まで一度も、その手のスキャンダルを起こした事は無いし、何度か週刊誌に写真を撮られた時も、結局は仕事の相手だったりと、単なる飛ばし記事で終わっていた。それなのに、ここに来て、実際には本命の女性が居た事が公になっては、プロとしてのリョーマの活動にも、決して少なくない影響が出ると思われた。不可抗力とは言え、彼の恋人の存在を知ってしまった桜乃にも、その事実を黙っていて欲しいと思うのは、リョーマにしてみれば当然の話だろう。
……っ、」
 相手の動揺を知ってか知らずか、リョーマは扉の間に足を突っ込んで、やや苛立ったように声を低くした。
「ねえ、いい加減部屋に入れてくんない?
 この荷物持ったまま、延々玄関先で立ち話って、正直ちょっときついんだけど」
「あ……ご、ごめんなさい」
 ギリギリ顔が見える程度の隙間しか空いておらず、ちょうど長身の青年の陰になっていて気づかなかったが、なるほどリョーマの後ろには、彼のものであろう大きなスーツケースが鎮座している。わざわざ訪ねてきてくれた顔見知りの知己を、チェーンで締め出したままにしておくのも申し訳なくなり、桜乃は慌ててカチャカチャと留め金を外した。
……どうも」
 スーツケースを引きずったリョーマが、大型の猫科の獣のような身のこなしで、するりと玄関の中に入ってくる。その場でごく当たり前のように靴を脱ぐ青年のしぐさを、桜乃はぼんやりと眺めていた。アメリカ育ちで、現在の拠点も向こうに置いているというのに、彼のこうした立ち居振る舞いは、日本に住んでいた時の習慣が、妙に色濃く残っている。
「荷物、ここに置いといていい? 玄関のスペース、かなり占領しちゃうけど」
「そ、それは構わないけど……でも、この部屋、私しか居ないから、申し訳ないんだけど、中に上げるのはちょっと……
 少しだけ待ってて貰えれば、今支度するから、どこか外でお話しできそうなところに──」
「なに、ひょっとして、人のこと警戒してんの?
 別に、何もしないから安心してよ。そこまで、余裕なくがっついてるつもりも無いしね。
 どっちにしろ、外に出るのは論外。マスコミに見つかったら面倒だ、って言ったでしょ? 急な予定変更だったから、何の対策もしてきてないし、アンタだって、俺と連れ立って歩いてたら、絶対記事のネタに巻き込まれるよ」
 そう言ったリョーマは、部屋の主である桜乃を置き去りにして、我が物顔で中へと上がり込んでしまう。
 相変わらずの傍若無人な態度だ。呆気に取られていた桜乃は、慌てて踵を返すと、彼の広い背中を追いかけた。
 ──リョーマは、部屋の中央に立っていた。八畳一間の部屋は、彼が昨晩泊まっていたハイグレードのホテルから比べると、はるかに手狭なスペースで、何となく気が引けるのを感じてしまったが、リョーマはまったく気にした様子も無く、きょろきょろと物珍しげに周囲を見回している。部屋の片隅に立てかけられたラケットバッグに目を止めると、彼はふっと柔らかく双眸を細めた。
「へえ、綺麗にしてんじゃん。
 一人暮らしなのに、掃除に手抜かないの、ほんとアンタらしいよね」
「り、リョーマ君、困るよ……っ、」
「まだ言ってんの? 往生際悪いよね、アンタも。
 ──あ、コーヒーかなんかある? 朝早かったから、まだ眠くてさ」
「うう……インスタントしか無いけど、いい?」
「何でもいいよ。あ、ブラックでお願い」
 こちらの困惑に構うことなく、ぽんぽんと立て続けに要求を並べられて、桜乃はつい頷きを返してしまう。強引で一方的な相手の物言いを、元々控えめでおとなしい性格の彼女がはねつけられる訳も無い。
(しょうがないなぁ……もう)
 結局、いいように彼に押し切られてしまった桜乃は、肩を落としてキッチンへと向かうのだった。


      †       †       †


 湯気を立てるコーヒーカップを二つお盆に乗せて、部屋へと戻る。
 帽子を脱いだリョーマは、白い折り畳みテーブルの前に腰を下ろしていた。一人暮らしを始める時に購入したそれは、長身の青年には些か窮屈なようで、台の下に収まり切らなかった片足が、床の上に投げ出されている。
 ここ数ヶ月は、メディアでしか見ることの無かったリョーマが、自分の部屋に当たり前のように居座っているというのは、ひどくちぐはぐで、現実感の無い光景だった。まだ夢でも見ているような気になって、桜乃は軽く頭を振る。
「どうぞ、リョーマ君」
「ん、サンキュ」
 カタリ、とコーヒーカップをテーブルに置くと、彼が無造作に手を伸ばしてくる。こちらが腕を引っ込めるよりも早く、リョーマの指先が、すうっと彼女の手の甲を掠め──その、ほんの一瞬の何気ない触れ合いに、夕べ自分の手首を掴んだ指の感触がはっきりと蘇って、桜乃は思わずびくりと身を引いてしまった。
……っ、」
 幸い、コーヒーカップは僅かに水面に波を立てただけで、零れることは無かった。あからさまに挙動不審な桜乃の姿に、リョーマが呆れたように肩を竦める。
「何もしないって言ってんのに、そこまで大げさに人のこと避けなくてもいいじゃん。
 なに、俺ってそこまで信用ないわけ?」
「あ、えっと、そういう訳じゃないんだけど……
 相手の詰問に、桜乃は困り果ててもごもごと口ごもった。彼から目を逸らしたまま、自分のコーヒーカップをテーブルに置いて、対面にぺたりと座り込む。
……どうしよう……
 今の彼女を苛んでいるのは、決してリョーマへの不信感ではなく、他に親密な相手の居る男性を、一人暮らしの部屋に招き入れているという後ろめたさなのだが──その事実を、自分から口にするのも躊躇われた。リョーマにしても、恋人の存在は周囲に伏せているのだろうし、己が知っている事を彼に伝えてもいいものか、どうにも判断がつかない。
 俯いてしまった桜乃を前に、リョーマはガリガリと乱暴に髪をかき回した。はぁ、という長いため息の後で、彼は再び口を開く。
「でも、まぁ……この手の事には鈍いアンタが、そこまで露骨に警戒してるってことは、やっぱ俺、夕べアンタに何かしたんだ?」
「え──、」
 思わぬ一言に、桜乃はがばっと顔をはね起こした。
 リョーマは、猫のように大きな瞳で、こちらをじっと窺っていた。昨日は彼女を素通りして、他の誰かを見ていた筈の視線は、今は間違いなく桜乃の姿を焦点に捉えている。
「あ、あの……リョーマ、君、それって……
 てっきり、昨夜の一件について、桜乃に対しての謝罪なり、或いは根回しなりに訪れたのだと思っていたのだが──この口調では、どうやら彼の記憶は曖昧なようだった。
 そうであれば、リョーマがどこまで覚えているか分からない以上、自分の側から迂闊なことは言えない。桜乃を他の女性と間違えてキスしたことも、それによって、恋人の存在をかつての同級生に知られてしまった事も、リョーマにしてみれば取り返しのつかない失態だろう。
 上手く言うべき事がまとまらず、混乱したまま黙り込んでいると、桜乃の無言をどう解釈したのか、コーヒーを一口啜ったリョーマが、訥々と事情を話してくれた。
「あの後、部屋で目覚ましたら、大石先輩が、竜崎の様子が変だったって言ってて。
 ……こっちも、何となく心当たりってか、ぼんやりだけど身に覚えがあったし、会場に戻ってアンタ探してたら、もう帰ったって言われてさ。
 慌てて電話したんだけど、何度かけても全然出ないし、正直焦った」
「え……、ご、ごめん、ちょっと待ってね」
 そう言われた桜乃は、あわあわとバッグの中から携帯を取り出し、履歴を確認する。
 画面には、多くの電話やメールの件数が表示されていた。朋香やスミレは勿論、様子のおかしい桜乃を心配したのだろうか、大石からの着信まで残っている。
 そして、その中に混じって、リョーマの名前もあった。夕べから今朝にかけて、数件の電話着信。昨晩、パーティー会場に入る時に、マナーモードに設定したまま、切り換えるのも忘れて眠ってしまったので、彼からの呼び出しに気づかなかったのだろう。
「あ……ごめんなさい。私、携帯、会場からずっと音切ったままにしてて……
「いいよ。どうせ、そんな事だろうと思ってたし。
 それで、しょうがないから、予定ずらしてここに来たってわけ」         
 言葉を切ったリョーマは、またコーヒーカップに口をつける。喉仏が上下に動くのを、ぼうっと見つめていた桜乃は、ふと我に返って彼に疑問をぶつけた。
「でも、リョーマ君、どうしてここが分かったの?
 私、リョーマ君に、このアパートの場所とか、話した事あったっけ……?」
 大学進学と同時に一人暮らしを始めたことは、何かの折りに彼に伝えた覚えはあるが、詳しい住所まで教えた事は無かった筈だ。桜乃の実家ならばともかく、このアパートの所在地や、まして彼女の住む部屋番号を、予めリョーマが知っていたとはとても思えない。
 桜乃の問い掛けに、それまで悠然としていたリョーマは、少しばかり気まずげな顔になる。彼はカップをテーブルに置くと、桜乃から僅かに目線を逸らして、ぽつりと呟きを漏らした。
……小坂田に聞いた」
「え……と、朋ちゃん!?」
 思わぬ名前が出てきて、彼女は思わず大声を上げてしまう。びっくりして目を見開いた桜乃を一瞥すると、リョーマはテーブルに肘をついて、ぼそぼそと後を続けた。
「大石先輩や乾先輩あたりなら、ひょっとしたら知ってるかもと思ったんだけど、俺が聞いてもまず教えてくれないだろうし──バァさんには、ちょっと……さすがに聞きづらかったし。
 仕方ないから、アドレスの中探して、小坂田に連絡取った。アイツ、中学の頃から番号変わってなかったみたいで、昔無理やり渡された奴、まだ生きてたから。
 ──まぁ、アイツに電話するなんて、今回が初めてだったんだけどさ」
 目の前の青年は、中学の頃と変わらない仏頂面で、はぁぁ、と重い息を吐く。
「アンタの住所教えてくれって頼んだら、なんかえらく怒られたし、目茶苦茶渋られたけど、散々拝み倒して、どうにか教えてもらった。
 小坂田、アンタの事随分心配してたよ。住所聞き出した時も、アンタに何かしたらただじゃおかないとか、十本くらいまとめて釘刺されたしね」
「あ……、」
 リョーマの言葉に、はっとした桜乃は、手に持ったままだった携帯を操作して、一番新しいメールを確認した。
 送信者の欄には、朋香の名前があった。中を開くと、短い文章が目に飛び込んでくる。
『勝手な事して悪いんだけど、リョーマ様をアンタの所に派遣したから。
 何があったか知らないけど、きちんと二人で話し合いなさい。結果は、後でちゃんと報告してね』
 姐御肌で面倒見の良い、朋香らしい心遣いだった。じわり、と瞼の奥が熱くなるのを感じて、桜乃はそっと両手で携帯を握りしめる。
(朋ちゃん……
 普段であれば、いくら憧れの君であるリョーマの頼みであろうと、朋香も絶対に桜乃の居場所を彼に教えたりはしなかっただろう。一人暮らしの女性の家を、男性に案内するというのは、それだけで重大な意味を帯びてくる。
 しかし彼女は、昨夜のパーティー会場で、大きなショックを受けた桜乃の様子を目にしている。詳しい事情は、まだ朋香にも話せていないままだが、その原因がリョーマにあることはほぼ明白だった。
 普通の大学生である桜乃はともかく、プロのテニスプレイヤーであり、それ以外にもモデルやCMなどの仕事も抱えているリョーマは、日々過密なスケジュールに追われている。今話し合う機会を逃せば、次に二人が会えるのは、いつになるか分かったものではない。──そう判断した朋香は、迷った末に、自分の責任で、桜乃の居場所を彼に教えることにしたのだろう。また、例えそうしたところで、リョーマが桜乃を傷つけるような真似は、間違ってもしないだろう──と、その面では、彼を信用していた事もあるのかも知れない。
 リョーマは、桜乃の気持ちが落ちつくまで、しばらく待ってくれていたようだった。やがて彼は、大きく肺から息を吐き出すと、投げ出していた足を元に戻して、きちんと姿勢を正す。
 強い光を宿した瞳が、真正面から桜乃の顔をじっと見据えていた。

「で、本題なんだけど。
 ──昨日の夜、あの後、何があったの」

「あ……、」
 その問い掛けに、桜乃はびくっと肩を震わせる。自分の背中に回った彼の腕と、甘く切ない響きを帯びた囁き、そうして唇に押しつけられた生々しい熱の感触が、まだ覚めやらぬ酔いの残滓のように、記憶の狭間から浮かび上がってきたが、彼女は必死でそれを意識の底に追いやった。
 ──あれは、彼の恋人だけが見られるリョーマの姿だ。
 ──ただの同級生でしかない自分が、勝手に覚えていて良いものではない。
「べ、別に、何も無いよ?」
 リョーマ君、酔っててつらそうだったから、大石先輩と一緒に部屋まで連れてっただけで──」
……あのさ、竜崎」
 にこり、と笑みを作って、何とか状況を取り繕おうとすると、撥ねつけるような声で続きを遮られた。じろっとこちらを睨みつけたリョーマは、苛立ちもあらわな調子で言い募る。
「そうやって、すぐ分かる嘘つくの止めてくんない?
 さっきからやたらと人のこと警戒してるし、大体、ほんとに何も無かったなら、昨日だって先に帰る必要なかったじゃん。
 ──それに、その目、泣いたんでしょ? 自分で気づいてるか知らないけど、かなり腫れてる」
…………!」
 桜乃は慌てて瞼を押さえた。シャワーを浴びてだいぶすっきりしたものの、まだむくみが幾分残っていたらしい。昨夜の帰宅後は、一晩中ずっと泣き明かしたようなものだから、当然と言えば当然の結果だろう。ごしごしと無意味に目元を擦りつつ、彼女は懸命に言い訳を並べ立てる。
「ち、違うの! これは、その……ちょっと飲み過ぎちゃって、お酒が残ってるっていう
……っ、」
「いいから、そうやって変に隠そうとしないで、ちゃんと正直に言ってよ。
 言い逃れとかする気ないし、やった事には責任も取るつもりだから」
 それは多分、彼なりに出来る限りの誠意を込めた申し出だったのだろう。しかし、リョーマのその気遣いが、余計に桜乃の心臓をキリキリと締めつける。
 ──彼自身はろくに覚えてすらいない、ただ一度の失態を理由に、相手に何らかの責任を取って欲しいとは思わなかった。他に恋人の居るリョーマに、そんな重荷を背負わせたくはないし、自分だって、こんな遣り方で彼に目を向けて貰うのは、あまりにも惨め過ぎる。
「ダメ、だよ……そんなの、リョーマ、君……っ」
 上手く声が出ない。視界が狭まり、呼吸が苦しくなってくる。はぁ、と大きく喘ぐように息を吸ったが、収縮した肺は上手く酸素を取り込めず、吐き出し切れなかった澱だけが、いつまでも胸の底に溜まり続ける。
「竜、崎──?」
 目の前で、不審そうな顔をしたリョーマが、桜乃の名前を呼んだ。思わず彼の顔を見た桜乃は、その瞬間、絶望的な事実を再びはっきりと突きつけられた。
 ──ああ、違う。
 ──昨日は、そんな動きじゃなかった──
 面を青ざめさせ、小刻みに体を震わせる桜乃の姿に、何を思ったのだろうか。リョーマはぎゅっと眉を顰めると、テーブルの上に身を乗り出して、こちらに顔を寄せてくる。眇められた猫目が、彼女の見開かれた双眸を探るように覗き込んだ。
「やっぱ俺、あの時、アンタに──」
……いいの、気にしないで、リョーマ君」
 両膝で拳をきつく握りしめ、桜乃は途切れ途切れに言葉を絞り出した。僅かでも気を緩めると、泣きだしてしまいそうなのを堪えて、必死で何気ないそぶりを装う。
 にっこりと明るく微笑んでみせたつもりだったが、それはどうやら失敗したらしい。痛ましいものを見るように表情を歪めた彼に構わず、桜乃は何とか昨夜の一件を誤魔化そうと、懸命にそれらしい事実を並べてみせた。リョーマが追及を諦める気が無い以上、少しでも穏便な方向に話を逸らさせるしか無い。
「あのね、ほんとに大したことは無かったよ? リョーマ君、私が誰か良く分かってなかったみたいで、ちょっと寝言みたいの口走っただけだから。
 夕べ、リョーマ君だいぶ酔ってたし、うっかり他の人と間違えちゃったのもしょうがないよ」
「は──?」
「私こそ、考えなしに近づいちゃってごめんなさい。うなされてたみたいだから、ちょっと心配になったんだけど──ちゃんと、手当ての出来る大石先輩がいるんだから、先輩が戻るまで待てば良かったんだよね」
 桜乃の前で、リョーマはひどく難しい顔になった。随分と冷めてしまったコーヒーを一口啜って、桜乃はえへへ、と軽く笑ってみせる。
「その、私、全然大丈夫だから。
 リョーマ君忙しいのに、わざわざ気を遣って貰ってごめんね。回りにも絶対喋ったりしないから、安心して?」
 ──それはきっと、今の桜乃に言える精一杯の強がりだった。
 自分の気持ちを押し殺す事が、苦しくないと言えば嘘になる。だが、下手に話を拗らせて、リョーマと気まずくなりたくはなかった。桜乃は、今でもリョーマのテニスが、他のどのプレイヤーよりも好きなのだ。例え、彼と個人的な繋がりが薄くなってしまったとしても、そのテニスを応援する資格まで失いたくはない。
 と。
 それまで深く考え込んでいたリョーマが、不意に顔を起こした。彼は桜乃の方をじっと見据えて、重々しく口を開く。
「──ねえ、ちょっと待って。
 さっきから聞いてれば、間違えたとか、他の人がどうとか、アンタ、何訳の分かんないこと言ってんの」
……え?」
 ぱちくり、と目を瞬く桜乃。
 リョーマが何を言ったのか、良く分からなかった。きょとんとしてこちらを見やる彼女の顔に、自分の意図が伝わっていないことを悟ったのか、半眼になった青年は、尚も強い口調で言葉を重ねた。
「夕べは、確かにアルコール回ってたし、半分頭寝ぼけてたけど──でも、あの時、話してる相手がアンタってことくらい、ちゃんと認識してたんだけど。
 どこから、他人と間違えたって話が出てきたわけ?」


 それは、思ってもみない宣告だった。
 リョーマの言ったことが、脳に届くまでに十数秒を要した。完全に停止した思考が、冷えきったエンジンのようにのろのろと動き出し──そうして、どうにか理解が追いついた瞬間、ざあっと全身の血が音を立てて逆流する。
 限界まで見開かれた瞳に、真剣な面差しのリョーマが映し出されていた。
……う、そ」
 抑揚の無い呟きに、リョーマが呆れ顔でかぶりを振る。
「嘘じゃない。
 ってか、こんな事で嘘ついてどうすんの」
「え……だって、じゃあ、何でキス──」
 ショックを受けて呆然となった桜乃は、思わずその素直な疑問を口にしてしまう。『キス』という露骨な単語に、相手は特に驚いた様子も見せず、平然とした態度で答えた。
「ああ、やっぱアレ、夢じゃなかったんだ?
 夢にしちゃ、なんかやけにリアルだと思ったんだよね。目覚めた後も、しばらく唇にアンタの感触残ってたし」
 リョーマの生々しい告白に、青ざめていた頬に、かああっと熱が集まるのが分かった。中学生の頃良くそうだったように、顔を真っ赤にしてあわあわと取り乱す桜乃を見やって、彼はふっと目を細める。
「そっちの意志抜きで、勝手にキスしたことは謝るけど。
 でも、別に誰かと間違えたりはしてない。何でそんな事思い込んでんのか知らないけど、俺はちゃんと、アンタとしてるつもりだったから、そこは誤解しないで」
……っ!」
 相手の告げる一言ひとことが、乾き切ってひび割れた心に、少しずつしみ込んでくる。彼の言葉に縋ってしまいそうになって、リョーマを見つめたその瞬間、──ずきん、と、何かを警告するように、胸の深いところで鋭い軋みが悲鳴を上げた。
 ──そんな筈が、無い。
 ──そんな都合のいい話が、ある訳ないんだ。
 ──だって、だって……っ、──
ギリギリと心臓が痛む。腫れた目元に、また嫌な熱が滲んでくる。正面の青年の顔から視線を逸らすと、彼女はぎゅっと両腕で自分の体を抱きしめた。
……違う」
「竜崎?」
「違うよ……そんなの、信じられない……っ、」
「ちょっと、どうしたの──」
 明らかに様子のおかしい桜乃を見咎めたのか。対面に座っていたリョーマが、腰を浮かせて、彼女の隣に回ってくる。宥めるようにそっと肩に手を置かれた一瞬、その温かな感触に拒絶反応を引き起こした体が、ばねのように大きく跳ね上がった。
「や、だ──!」
 そのまま、桜乃は何とか相手から離れようと、彼の胸に手をついて必死にもがく。突然暴れ出した桜乃に、リョーマはぎょっと目を見開いたものの、直ぐに彼女の体を引き寄せて、何度も繰り返し背中を撫でてきた。それは、夕べのような男女の距離感ではなく、癇癪を起こした子供をあやす時のそれにも似た、穏やかなしぐさではあったが──桜乃の動揺は収まるどころか、ますます混乱を加速させるだけだった。
「落ちついて、竜崎。
 これ以上は何もしないから、ちゃんと話を聞かせて」
……っ、離し、て──!」
 無我夢中でリョーマを押し退けようとするものの、昨日は簡単に外れた腕は、今はどれだけ桜乃が力を入れても、まるで鋼鉄のようにびくともしない。最後には、疲れ切った全身が先に音を上げて、桜乃はリョーマの両腕に抱き抱えられたまま、ぺたりと力無く床に座り込んでしまった。
 ぜいぜいと荒くなってしまった桜乃の呼吸が、いつものペースを取り戻すのを待って、リョーマが静かに尋ねてくる。
「ねえ、なんでそんなに、嘘だって思うの?」
 優しい声だった。機嫌を損ねても、桜乃を責めてもいない。緊張の糸が切れて、抵抗する気力も尽きてしまった彼女は、リョーマの問い掛けに、震える唇で途切れとぎれの言葉を紡いだ。
「だって……リョーマ君、あの時、絶対……私以外の誰かを見てた、もの。
 髪形変えたんだ、とか、私に聞いてきたし……
「──ああ」
 桜乃の言葉に、リョーマはうろたえた様子も無く頷いた。彼の手が、緩くまとめた水気の残る黒髪にそっと触れる。そうしてリョーマは、事も無さげに彼女に告げた。
「アンタって、お下げの印象が一番強く残ってるから。
 たまに会う時も、こうやって大抵結ぶとか束ねるとかしてたし、昨日みたいに下ろしてるの珍しかったから、そう言っただけ」
…………でも、じゃあ、──あ、アンタから誘われるの、初めてとか、そんなこと言ってたのは……?」
 さすがに、彼が言ったそのままの台詞は、気恥ずかしくて口に出来なかった。『ベッドに』という枕詞が付くと、明らかに意味が限定される。
 リョーマは、ちょっと気まずそうな顔をした。涼やかな目元に、ほんの微かに朱の色が差す。彼は小さく咳払いをしてから、訥々と事実を説明する。
……あの時は、完全にアルコール回ってて、前後の時系列とかゴチャゴチャになってたから。多分、もうとっくに、アンタとそういう関係になってたつもりだったんだと思う。
 ──その手の夢見るの、昨日が初めてじゃないし」
 最後は、殆ど聞き取れないような小声だった。よほどばつが悪かったのか、桜乃の上から露骨に目線を逸らした青年の腕に、ぐっと力が籠もる。彼の胸に、殆ど密着するように頬を押しつけられて、どくどくと打つ相手の鼓動が伝わってきた。
……リョーマ君)
 このまま、目を閉じて、彼の体温にすべてを委ねてしまいたくなる。けれど、まだたったひとつ、心の奥深いところに突き刺さったまま、溶けることの無い冷たい刺が残っていた。
 それを口にするのは、ひどく怖かった。もしかしたら、今までよりもずっと深く、重く、自分の心を傷つける事になるかも知れない。夕べ、桜乃を見つめたリョーマが、彼女の知らない名を呼んだ瞬間、身体中の血が凍りついてしまったようなあのショックが、痛みを伴ってはっきりと蘇る。
 ──でも、それがリョーマの真実なら、例えどれだけ苦しむ結果になるとしても、本当のことを言って欲しい。
……っ、」
 桜乃はぎゅっと唇を噛んだ。真っ向から顔を上げて、リョーマの目を挑むように見つめる。そうして、意を決した桜乃は、昨日からずっと鉛のように胸に淀んでいた澱を、言葉にして彼に突きつけた。
……リョーマ君、──キス、した時、私じゃない人の名前、呼んでた」
「は──?」
 一瞬の空白の後、リョーマは呆気に取られたように、その猫目を大きく瞠った。
 しかし、それは彼女が予想していたように、図星を言い当てられた驚愕とは異なっていた。まったく思ってもみない事を言われた、という唖然とした表情で、リョーマはまじまじと桜乃のことを凝視する。
「そんな訳ないじゃん。なんかの勘違いじゃないの?
 俺は、ちゃんと竜崎に話しかけてたつもりだったし、ベッドでキスしたのも、間違いなくアンタ相手にだったよ。──まぁ、途中大石先輩も居たから、ずっと二人きりって訳にはいかなかったけどさ」
「で……でも、確かに、別の人の名前で……
「だから、そっちの聞き間違いだって。こっちも、何言ってたのか良く覚えてない部分あるし、なんか他の言葉を勘違いしたんでしょ。
 大体、それ、誰の名前だったって言うの。まったく心当たり無いんだけど」
……えっと、その、ちゃんと聞こえたわけじゃないんだけど……でも、唇の動きが、全然違ってたよ。
 さっき、『竜崎』って呼んでくれたの見てたら、ああ、昨日は私の名前じゃなかったんだ、って、はっきり分かっちゃって……
 強情に言い張る桜乃に、リョーマはしかめっ面をして応じていたが、突然何かに思い当たったように、はっと強く息を飲み込んだ。桜乃を抱きしめたまま、完全に固まってしまった青年に、彼女はおずおずと面を起こして、相手の様子を窺い見る。
「やっぱり、リョーマ君……、」
「違う! ──ってか、自分でそこまで言っといて、何で分からないんだよ……っ!」
「ふぇ……?」
 八つ当たりのように怒鳴りつけられて、思わず子供の頃のように幼い疑問符が漏れてしまう。リョーマは片手でがしがしと乱暴に自分の髪をかき回すと、どこか恨みがましい目で、桜乃の事をじろりと見やった。
「とにかく、それはアンタの誤解。そうじゃなかったら、わざわざ乗る便変更してまで、アンタの部屋に押しかけたりしない。後で、電話かなんかで謝って終わりだよ。
 いくらスケジュールは間に合うったって、色々面倒な調整もあるし、朝っぱらからコーチやマネージャーに、めちゃくちゃ文句言われる羽目になったんだから。──ま、アンタのトコに行く為に、帰国延期したって知られたら、あんなもんじゃ済まなかったかも知れないけどね」
「うぅ……ご、ごめんなさい」
 桜乃の方には何も非は無いのだが、不貞腐れた調子でそう言われると、つい謝ってしまう。はぁ、と息をついて、頭から手を下ろしたリョーマは、そのまま桜乃の体を強く抱きしめてきた。
 コーヒーの香りが漂う朝の部屋で、二人はしっかりと身を寄せ合う。
「──まだ、俺の言ってること信用できない?」
「そ、そういう訳じゃないんだけど……
 でも、あんまりいきなりで……リョーマ君、そんなそぶり、全然見せたことないし……
 独り言のような桜乃の訴えに、リョーマは小さく息を吐いた。
……まぁ、ある程度成績出せるようになるまでは、テニスに集中したいってのもあったし、長い間放っといたのは悪かったと思ってる。
 けど、一応これでも、そっちと切れないように、繋がりは作ってたつもりなんだけど。時々連絡入れてたし、帰国したら会いに行ったりしてたじゃん」
「そ、それはそうだけど、その……ただの友達感覚っていうか、先輩達や堀尾君とかと、同じようなものだって思ってて……
「プライベートで連絡取ってた女は、身内以外じゃアンタだけ。変に誤解されたりとか、万一マスコミに嗅ぎつけられて、記事にでもされたら後が面倒だし。
 小坂田にだって、今回初めて連絡した、って言ったでしょ。アンタ、ほんとつくづく、その辺鈍過ぎ」
「う……
 リョーマに言い込められて、もじもじと黙り込んでしまった桜乃を一瞥すると、彼はぼそぼそと後を付け加える。
「元々、今回の帰国で、アンタに伝えるつもりだった。
 あの部屋取ったのも、パーティー中に時間作って、アンタを呼び出す為だったし。──まぁ、飲み過ぎて、大石先輩までオマケについてきたのは、俺の誤算だったけど」
「え……そ、そうなの?」
「そうじゃなかったら、あんな分かりやすく雰囲気満点の部屋なんか取らない。
 もうちょっとシンプルな作りの方が、俺としては性に合ってるしね」
 そう言われて、桜乃は夕べ彼が泊まっていた、エグゼクティブルームの内装を思い出す。
 夜景の見える大きな窓と、豪奢な革張りのソファ。中はきちんと片づけられており、柔らかな間接照明に照らされた室内は、ロマンチックな映画の一場面に出てくるような光景だった。クールなリアリストで、どちらかと言えば身の回りには無頓着な青年には、何処かそぐわないような気がしていたが、あれは、リョーマが桜乃の為に設えた部屋だったのか。
「あ、あの、私……
 追い詰められた小動物のように、おろおろと視線をさまよわせる相手の姿に、リョーマはふっと唇を緩めた。中学生の頃から、桜乃が大好きだった自信たっぷりの笑みを口許に引くと、彼はしっかりとその華奢な体を抱き直して──

「遅くなってごめん、竜崎。
 ──俺は、アンタの事が好きだよ」

 ──今度こそ。
 間違いなく、正面に居る彼女の名を呼んで、その告白を口にした。

 しばらく、沈黙が続いた。
 坂道を転がり落ちるような一連の展開に、桜乃はすっかり混乱を来していた。顔はおろか、耳たぶや首筋まで真っ赤に染めて、彼女はただぱくぱくと口の開閉を繰り返す。
…………、」
…………ねえ」
 気の長くないリョーマにしては、かなりの間辛抱強く待っていたものの、やがて一向に返事が戻ってこないことに焦れたのか、ぐいっと桜乃の顎を持ち上げて、無理やり自分の方を向かせてきた。
「竜崎、答えは?」
「ふぇっ!? あ、あのっ、ご、ごめんなさい……っ!」
「は──!?」
 睫毛が触れそうな距離で、リョーマが愕然とした声を上げる。見るからに不満そうな眼差しで睨み付けられて、自分が咄嗟に口走ってしまった言葉が、お断りの定番文句である事に思い当たった桜乃は、慌ててそれを打ち消した。
「あ、ち、違うの、そういう意味じゃなくて……っ!
 その、私、今頭がいっぱいで……、え、えっと、何て言ったらいいのか……もうちょっと落ちつくまで、少し待ってもらえないかな……?」
……はぁ。まったく、アンタらしいよね。
 あれだけ散々人の後付いて回ってたくせに、いざってなると変に尻込みするんだから」
 そう言ったリョーマは、桜乃の瞳を覗き込んで、悪戯っぽく囁いた。
「でも、まぁ──時間はまだ残ってるし、いいよ。他ならぬアンタの頼みだし、少しだけなら待ってあげる。
 俺がアメリカに帰るまでには、ちゃんと答え聞かせてよね?」
「え……でも、リョーマ君、確か、明日の朝の便にしたって……この後、どうする予定なの?」
 桜乃の問い掛けに、彼女を抱きしめたまま、男は大きく肩を竦めた。
「どうするって言っても、もうホテルチェックアウトしちゃったし、今から同レベルのホテル確保するの、どう考えても難しいし。
 ──当然、泊めてくれるよね、竜崎?」
「ふぇぇぇぇっ!? え、あ、あのっ、り、リョーマ君!?」
「だから、何もしないから安心してって。そんなパニックになってるアンタに、無理やり手出すほど酷い人間でもないし。
 ま、そっちが許してくれるんなら、これっぽっちも遠慮する気は無いけどね。一応、それなりに用意はしてきてるから」
 ちらり、と彼の目が、二人の背後にあるベッドに向けられる。その妙に艶っぽい視線と、意味ありげな言葉に込められた真意を悟って、ただでさえオーバーヒート気味だった桜乃の思考回路は、完全にキャパシティを突破してしまった。
「うううう……、む、無理、です……っ」
 ふしゅうう、と、頭の天辺から湯気でも出そうな勢いで、彼女はリョーマの腕の中にへなへなと沈み込む。リョーマはくっくと喉を鳴らして笑っていたが、やがて優しく桜乃の黒絹に指を絡めると、そのつむじに唇を寄せてきた。
「竜崎」
 温かい感触が、髪に触れる。彼女の肢体を抱く片手に力が込もり、そのまま、二人の隙間がまったく無くなってしまうほどに、強く強く抱きしめられる。
 ──そうして。

……好きだよ」

 すぐ耳元で告げられたその声は、夕べ桜乃が聞いた通り、たった一人の大切な人だけに囁きかける、あの甘く蕩けるような響きを帯びていた。


      †       †       †


 同窓会会場となったパーティールームは、賑やかな盛り上がりを見せていた。周囲の面々は、すっかり垢抜けて大人になったり、対照的に中学生の頃とほとんど変わらなかったりするものの、数年前の日々がつい昨日のことのように、あちこちでお喋りに花が咲いている。
 相変わらず、耳を覆いたくなるような喧しさだが、半分仕事絡みの肩肘張ったパーティーとは違い、良く見知った面子ばかりなのは、随分と気が楽だった。スミレや手塚と挨拶を交わした後で、適当に回りの人間と話していたリョーマの元に、つと不二が近づいてくる。
「やあ越前、こんばんは。
 君の活躍はよく見てるよ。ここのところ、調子が良さそうで何よりだ」
……どうもッス」
 女性顔負けの美貌は、中学生の頃よりも磨きがかかっているように感じる。昔から趣味であったカメラの道に進んだ不二だが、リョーマとは面識もある上、テニスに造詣が深いこともあって、時々一緒に仕事をしたりと、他の先輩よりは顔を合わせる機会が多かった。今はすっかりリョーマの方が身長も高くなったものの、この一癖も二癖もある先輩には、未だにまるで頭が上がらない。
 しばらく他愛もない話をした後で、ふと不二が、さりげなくリョーマに尋ねてきた。
「そう言えば越前、竜崎さんとは連絡取ってるかい?」
……はぁ。まあ、それなりに」
 気の無さそうな後輩の返事に、不二はくすりと笑った。──勘の良い不二の事だ。さして関心の無いそぶりを装ったところで、リョーマの本音が何処にあるかなど、彼にはとっくにお見通しなのだろう。
「そう? ならいいんだけど、そろそろ放っておくのも危ないんじゃないかと思ってね。
 あの子、中学の頃から可愛かったけど、大学生になって、一気に綺麗になったしね。前、偶然仕事中に街で会った時なんか、うちのスタッフが竜崎さんのこと気に入っちゃって、写真のモデルにならないか、って口説き出したりしちゃってさ」
「な──」
 そんな話は初耳だ。ぎょっとして不二を見ると、彼はまるでリョーマの反応が分かっていたかのように、穏やかな笑みを浮かべていた。
「ああ、大丈夫。竜崎さん困ってたみたいだし、僕から断っておいたから、安心していいよ。
 ──でも、いつでも僕や、他の誰かが見ててあげられる訳じゃないからね。そろそろ、きちんと腹を決めないと、越前も後悔する事になるんじゃないかな?」
 先輩からの忠告だよ、と言い置いて、不二はその場を離れていく。彼はそのまま、会場の反対側でたむろしている、かつての一年生達のところへ歩いていった。不二と会話を交わす桜乃の横顔を見ながら、リョーマは深々とため息をつく。
……そんなの、今更言われなくたって分かってるってば)
 お互い十分大人になった今、中学時代の恋愛とも呼べないような曖昧な関係に、いつまでも甘んじていられないのは、リョーマ自身が一番身にしみて良く理解している。
 桜乃本人は、そうした状況をわざわざ伝えてはこないが、先程の不二のように、かつての先輩や同級生などを通じて、彼女がそれなりに男性に言い寄られていることを知っていた。一方のリョーマはと言えば、華やかなスポーツ界に身を置く容姿端麗のプレイヤーとあって、あちこちから誘いの声がかかるのは日常茶飯事である。身の振り方に気をつけて、慎重に振る舞わないと、いらぬ面倒に巻き込まれる可能性が高かった。そろそろ、ある程度の交際関係を明らかにしておかないと、望まない相手から外堀を埋められる危険もある。
 その為に、今日はわざわざ幹事の大石に話を通して、このホテルを確保したのだ。自分一人ではまず選ばないような、雰囲気たっぷりのエグゼクティブルームを指定したのも、パーティの合間を縫って、桜乃をそこに連れていくつもりだったからだ。──まあ、身内のスミレや朋香をはじめ、これだけ周囲の目がある以上、そのまま朝まで一緒に過ごすのは、残念ながら不可能だろうが、少しの間話をするくらいなら大丈夫だろう。
 ──アメリカに渡ってからも、彼は時折桜乃と連絡を取っていた。もっとも、彼女が十回メールをくれるうち、彼がそれに返すのは、精々一度か二度の頻度だったが。テニス漬けで純粋に時間が無かったこともあるし、元々筆不精で、メールの遣り取りが得意でなかったという理由もある。
 それでも、時にはリョーマの方から電話したり、帰国の時に約束して、二人で出掛ける事もあった。──桜乃と最後に顔を合わせてから、もう一年近くになるだろうか。ここ最近は、プロのテニスプレイヤーとして多忙を極めるようになったリョーマは、あまりプライベートの時間を取る事が出来ていない。成人式の時だって、日本には帰れなかったほどである。
「────」
 彼はワイングラスに口を付けながら、じっと遠くの桜乃を見つめていた。未だに1.5の優れた視力を誇る双眸は、これだけ距離が離れていても、はっきりと彼女の輪郭を捉える事が出来る。
 淡いパールピンクのドレスは、清楚なラインながら、両肩を大胆に出したデザインで、隠しきれない色香を漂わせている。長い黒髪は、上の方だけをまとめて、残りは自然に流しており、今でもお下げのイメージが強かったリョーマにしてみれば、その髪形がひどく新鮮に映った。うっすらとメイクの施された唇が、不二の言葉に答えてふわりと笑う。
 そうして、リョーマがぼうっとその場に立ち尽くしていると、不意にどさっ、と背中に重いものが乗っかった。慌てて振りほどこうとすると、それより早く、するりと彼の上から逃げ出した相手が、猫のように軽やかな身のこなしで、リョーマの正面に回り込んでくる。
「ねぇねぇおチビ、そんなに竜崎のこと見つめちゃって、どうしたのー?
 あ、まさか、不二と仲良く話してるからって、妬いちゃってるとか?」
 菊丸だ。昔と変わらない人懐っこい喋り方で、彼は下からリョーマの顔を覗き込んでくる。
「はぁ? なんでそうなるんスか」
「畜生、越前の奴……っ、俺なんか、未だに一人も彼女が出来ねえってのに!」
……はぁ。そりゃ気の毒っスね、桃先輩」
「くそ、こうなったら自棄酒だ! 越前、お前も付き合え!」
「な──ちょ、何で俺が……、」
「なんじゃ? リョーマ、せっかくの同窓会だっていうのに、全然飲んどらんじゃないか。
 どれ、ここは一つ、アタシが直々に酌をしてやるとしようかね」
「いや、ちょっと待って、先生──」
 ──そうして、スミレやら先輩やらに寄ってたかって酒を注がれ、気がついた時には、なんだかやたらと顔が熱くなっていた。下手に飲み過ぎないよう、ギリギリの線で酒量を調整していたので、具合が悪くなることはなかったが、体中がかっかと火照り、心臓がばくばくと早鐘を打っている。
……まずい)
 完全に、酔っぱらった。
 自分ではあまり意識していなかったものの、気心の知れた学生時代の顔ぶれに囲まれて、すっかり緊張が緩んでいた為、いつもよりもアルコールの回りが早かったのだろう。仕事の付き合いで顔を出すパーティーでは、同じペースでグラスを空けても、気が張っている所為か、ここまで酔ってしまうことはまずあり得ない。
 もう一つ、あまり認めたくはないが──これから桜乃に大切な話をする事を思うと、どこか心が高ぶっていて、その気持ちを紛らわすために、つい飲み過ぎてしまった面もあるのかも知れない。とても人には聞かせられないほど、情けない話ではあるが。
 いずれにせよ、このままでは色んな意味で使い物にならない。少し夜気に当たって酒を抜こうと、彼は会場の外に足を向けた。

 ──その時。
 揺れる視界の中を、捜し求めていた淡い桜の色彩が、花びらのようにふわりと過ぎる。

「竜崎」

 反射的に呼び止めると、幼い頃のままの真ん丸な瞳が、驚いたようにこちらを向いた。
 さっき、一言ふたこと会話を交わしたものの、それは殆ど社交辞令のようなもので、ちゃんとこうして正面から向かい合うのは、今夜のパーティーではこれが初めてだ。
 桜乃は、戸惑い顔でリョーマを見上げている。濡れたように長い睫毛が、目の前でゆっくりと瞬かれ──そうして彼女は、自分の名を呼びかけて、大丈夫? と心配そうに尋ねてきた。
 どうやら、今の自分は、端から見るとよほど危うい状態らしい。確かに視界はぐらぐらと揺れているし、頭の奥が熱を持っているのが分かるが、意識自体は十分しっかりしていて、思考もさほど鈍っていない。そんなに悪酔いした訳ではないので、しばらく時間を置けば、そのうち血中のアルコール濃度も薄まるだろう。
「ちょっと……こっち、来て」
 腕を伸ばして、桜乃の細い手首を掴むと、彼女は大きく息を飲んだ。男性に手を取られて恥ずかしがっているというより、こちらの体調をひどく案じているような表情だ。桜乃はリョーマを見上げると、小首を傾げて彼に問い掛ける。
「リョーマ君、具合悪いの?
 あの、ちょっとだけ待っててね。今、誰か、先輩呼んでくるから」
「別に何ともないし、全然平気。
 ……それより、早く付いてきてよ。他の連中に見つかったら、面倒だから」
 ぐいぐいと腕を引いて外へ連れ出そうとするが、桜乃は中々それに応じようとしない。リョーマの体調が不安な以上、誰かの手を借りないと、自分一人では支え切れないとでも思っているのだろう。気が弱く流されやすい性格に見えて、彼女は案外頑固な一面がある。
(大丈夫だって言ってんのに……ほんと、昔っから、変なトコで融通利かないよな、コイツ)
 そうして、二人が言い合っているうちに、その気配に気がついたのか、近くのテーブルから大石がやってくるのが見えた。桜乃はほっとしたように肩の力を抜いたが、対照的に、リョーマは顔を顰めてそっぽを向く。
(あー……やっぱ、邪魔入ったか)
 とは言え、大石もリョーマのことを心配して来てくれたのだろうし、あまり失礼な態度も取れない。はぁ、とため息をついたリョーマは、大石に促されるがまま、彼に部屋のカードを手渡した。どちらにしろ、そろそろ立っているのも辛くなってきたし、ここは少し休んで気分を落ちつけてから、改めて桜乃に声をかけた方がいいかも知れない。
「さあ、行こう越前」
「────」
 大石の言葉に促されて、リョーマはふらふらとその場を後にする。
 ──ただ、掌にしっかり捕まえた細い手首の感触だけは、熱に浮かされた意識の中でも、絶対に離す気にはなれなかった。


      †       †       †


 不意に、ぱちりと意識のスイッチが入った。

 背中が、ひどく柔らかいものに沈み込んでいる。周囲は薄闇に包まれていて、ここが何処なのかも、今がいつなのかも良く分からない。唐突な覚醒は、まるでそこから世界が始まったかのように、時間の感覚からぷっつりと切り離されていた。
(あれ……俺、何で……?)
 体を包む心地の良い感触は、多分上質な寝具のそれだろう。自宅のベッドで横になっているうちに、そのまま眠ってしまったのだろうか。ぼんやりした頭を抱えたまま、ごろりと寝返りを打とうとしたのだが、なぜか全身がひどくけだるく、思うように体が動かせなかった。
…………
 身を捩った弾みに、思わず低い呻きが漏れる。それを聞きつけたのか、誰かが慌てて枕元に近づいてくる気配がした。ふわっと良い匂いが鼻孔をくすぐって、薄明かりを遮るように、顔の上に人の影が落ちる。
「リョーマ君、大丈夫?」
…………
 転がる鈴にも似た、優しい声色。
 泥のように重い瞼を開けて、真上を見ると、良く知った少女の顔があった。──少女? いや、彼女はもうとっくに、そう呼ばれる年代を通り過ぎて、今は大人の女性になっている筈だ。その証拠に、すぐ目の前にある柔らかそうな唇には、ほのかな紅の色が塗られている。

 ……頭が重い。

 ……記憶が、混濁して──いる。

(なんで、コイツが俺の部屋に……?)
 一瞬脳裏を掠めた疑問は、考える間も無くすぐに解けた。
 ──ああ、そうだ。さっき、俺が自分でコイツを連れてきたんじゃないか。何が気に入らなかったのか、相手は随分ためらっていた様子だったが、俺が手を引いてやると、結局何だかんだと素直にここまで付いてきたのだったか。
 まったく、なんでそんな肝心なことを忘れてたんだ。今回日本に戻ってきたのは、それが目的のようなものだったのに。
 本当に──飲み過ぎってのは、ろくな結果を招かない。

……なに、そんなトコに突っ立ってんの。
 こっちおいでよ、ほら」

 そう呼びかけると、相手はびっくりしたように目を瞬かせた。しばらく待ってみたが、まったくこちらの促しに応じる気配は無い。
 いい加減焦れったくなって、彼女の腕を強く引っ張ると、その華奢な体が、自分の上にふわりと羽根みたいに倒れ込んでくる。じたばたともがく細い肢体を抱きしめて、──逃げなくてもいいじゃん、と耳元で囁くと、彼女はびくっと身を硬直させて、そのまま完全に固まってしまった。

 薄いドレスの生地越しに、その素肌を撫でる。
 柔らかくて、気持ちがいい。
    
 何度も触れたことがある気がするのに、
 一度も触れたことが無いような気もする。

 ── 一体、どちらが夢で、どちらが現実なんだろうか。

……髪形、変えたんだ?
 結構似合ってんじゃん、ソレ。たまには、そういうのすればいいのに」

 お下げもコイツらしくて可愛いけど、そうやって下ろしたのも似合ってると思う。珍しく、素直に相手を褒めた俺の言葉に、彼女はますます困り果てた表情で、おろおろと俺を見下ろした。こくり、と目の前で小さく呼吸を飲み下すと、ソイツは何かを言いながら、俺の体を懸命にベッドに押し戻してくる。
 随分と大胆なことだ。一緒に出掛けても、ろくに手を繋いだ経験さえないのに、まさか彼女の方からこちらを押し倒してくるだなんて、期待以上に出来過ぎたシチュエーションだ。
 自然と口許がつり上がる。火照りを帯びた女の体を、しっかりと両腕に抱き込んで、俺は彼女の潤んだ瞳を覗き込んだ。

「へえ、今日は随分と大胆だね。
 アンタの方から、ベッドに誘ってくれるなんて、初めてなんじゃない?」

 ──あれ……
 ──初めても何も、俺、コイツと寝た事なんて、あったっけ──?

 もう、その境界も、段々とおぼろげになっていく。
 もしかしたら、ただ都合のいい夢を見ているだけなのかも知れない。

 でも今は、この確かな重みを、どうしても手放したくなくて──

 俺の腹の上に乗っかった彼女は、もはや泣きそうな表情だった。ドレスの裾がまくれ上がり、視界の端に白い太股がちらちらと見え隠れする。胸板に押しつけられた張りのある感触と、ベッドの端に転がったハイヒールが、この先の甘い展開を予感させる。欲望をダイレクトに刺激する生々しい光景を見せつけられて、身体中の血が沸騰しそうだった。
 ──もう、限界だ。
 真っ赤に染まった頬に手を滑らせて、そのままきつく唇を押しつける。相手の口から、悲鳴とも嬌声ともつかない吐息の残滓がこぼれ落ちたが、それすらも奪うように深く唇を絡め、アルコール交じりの熱い呼気を、口移しに吹き込んだ。
「あ……リョーマ、君……っ、」
「──ん、もっと……
 たっぷりと彼女の唇を味わった後で、一度顔を離す。
 視界の中には、綺麗な女性の顔が映っていた。幼い頃からずっと知っていて、大きくなった今も、あの頃の純粋な面影を残した、決して見間違いようのない、俺にとってたった一人の女。
 ふっ、と自分の口許が緩むのが分かった。そうして、お互いの視線を絡めあったまま、彼女の頬に手を添えて、俺は出来る限り優しく、相手の名前を口にする────

「──桜乃丶丶


      †       †       †


……普通は、気づいても良さそうなもんだけど」
 ぼそり、と恨めしげに小声で呟くと、腕の中に居た桜乃が、──どうしたの? と首を巡らせてこちらを見上げてきた。緩く編まれた黒髪に、化粧っ気の無い顔、緩い七分袖の部屋着らしきワンピースという恰好は、まったく色気が無さそうでいて、妙に煽情的な雰囲気を漂わせている。白く浮かび上がる鎖骨のラインから、そっと目を逸らしたリョーマは、ぼそりと無愛想に呟いた。
「なんでもない。ただの独り言」
「そう……なの?」
 不安げに見上げる桜乃の頭を撫でると、彼女は目を細めて、リョーマの胸に頬を寄せてきた。
 あの時、リョーマが実際は何と言っていたのか、まだ教えて貰っていない事で、桜乃の内心に小さな痼が残っているのは分かっている。だが、今すぐ事実を伝えてやる気にはなれなかった。自分が、他の女を口説いていたと勘違いされていたのは、いくら傍若無人なリョーマでも、結構ショックを受けるレベルで心外だったし、その事に対するささやかな意趣返しのつもりでもある。
 それに、いずれ彼女が真実を知った時に、どんな顔をして驚いてくれるのかも気になった。その楽しみは、もう少しだけ先に取っておきたい。
「リョーマ、君?」
「ん、悪い。ちょっと考え事してた」
 一人物思いに耽るリョーマに、桜乃がおずおずと呼びかけてくる。彼は殊更悪びれた表情を作って、にやりと笑ってみせた。
「──それよりさ、竜崎。
 せっかくだから、夕べのやり直しさせてよ。流石に、アレがアンタとのファーストキスってのは、いくらなんでも後味が悪いし。
 部屋に連れ込んでまでキスした相手に、一目散に逃げられたとか、そんなの、男として立つ瀬が無さ過ぎでしょ」
「ええっ!?
 で、でも、リョーマ君、さっきはもうちょっと待ってくれるって……っ、」
 ぎょっと目を見開いた桜乃は、リョーマの腕から逃げ出そうとして、あわあわと慌て始めた。ベッド脇のラケットバッグが示す通り、今でもずっとテニスを続けているのだろう彼女は、その華奢な見た目のわりに、女性としてはそこそこ馬鹿に出来ない筋力を持っている。
 しかし、勿論、プロのアスリートであるリョーマには通用する筈も無い。彼は、桜乃の無駄な抵抗をあっさりと封じ込めて、上気した面に顔を近づける。
「告白の返事は待つって言ったけど、キスまで待つって言った覚えは無いよ。
 別に、そこまで一々気にしなくてもいいじゃん。どうせ、昨日一回してるんだしさ」
「そ、そういう問題じゃ──」
 我ながら、身勝手極まりない要求だ。桜乃はすっかり困惑した表情で、大きな瞳をふるふると頼りなく揺らしている。
 彼女がこういう表情を浮かべたなら、あと一押し頼み込めば、多少の無理難題でも、必ずこっちの言う事を聞いてくれる。それは、中学時代からの、リョーマの経験から来る確信だった。彼はコツン、と互いの額を押し当てると、声を顰めて囁きかける。
……それに、俺としても、他の女としてるなんて勘違いされたままなのは、すっごい不本意だから。
 責任取って、夕べの記憶、アンタが上書きしてくれるでしょ? ねえ、竜崎サン」
「うう……ご、ごめんなさいぃ……
「じゃ、決まりね。……はい、目閉じて」
 ためらう相手を強引に説き伏せると、リョーマは彼女の答えを待たず、その半開きの唇に、自らの口を近づける。
「ん……っ!」
 二人の唇が触れ合う直前、いきなり桜乃の体がびくっと跳ねた。その動きに、ほんの微かながら、怯えと拒絶の気配を感じ取って、リョーマは一度顔を離す。
 桜乃は震えていた。リョーマの胸にしがみつくようにして、彼のシャツを握りしめた指先が、小さな戦きを繰り返している。それは、自分自身でも無意識のことだったようで、あ……、と呟く声には、隠しきれない戸惑いが滲んでいた。
……竜崎?」
「ご、ごめん……なんか、ちょっと、焦っちゃって……今、落ちつくから……
 その頬は熱く染まっており、瞳も艶めいた色に濡れて、彼からの口づけを待ち焦がれているようなのに、胸板に添えられた手だけがひどく冷たい。──それは、昨日のキスの記憶が、どれだけ彼女の心を深く抉ったのかを、否応なしに物語っていた。リョーマは、苦い息を吐き出すと、円い両頬を掌で包み込んで、ほんの微かな感情の揺らぎさえも見逃さないように、桜乃の瞳の一番深いところを覗き込む。
「ゴメン、竜崎。──俺、相当アンタのこと傷つけたと思う。
 でも、夕べも、俺が見てたのはちゃんと竜崎だけだから。アンタが、俺とキスしたくないって言うならしょうがないし、今は我慢するけど、それだけは信じてほしい」
「リョーマ君……
 桜乃は、暫く黙っていた。長い睫毛がゆるりと瞬かれ、良く磨かれた窓から差し込んだ光が、そのはずみにきらきらと散る。

 長い、──長い沈黙。
 八畳の部屋を満たす、二人の呼吸音と、微かなコーヒーの残り香。

 ──そして、ようやく。
 心を決めたように、大きくひとつ頷いて顔を上げた桜乃は、リョーマにしっかりと視線を合わせると、数年越しの恋心を言葉にして伝えてくれた。

「うん。ありがとう、リョーマ君。
 ……あのね、私も、ずっとリョーマ君のこと、大好きだったよ」


 彼にとってはただの儚い夢であり、彼女にとっては痛みと刺だらけだった最初のキス。
 その目に見えない傷痕を、ゆっくりと癒していくように、二度目のキスは、温かな体熱と、泣きたくなるような愛しさを伴って、二人の境界線をどこまでも溶かしていった。


【オマケSSS】

「──って訳で、今後はある程度、決まった交際相手がいることはオープンにしてくつもり。
 今まで、その手の話は一切否定してたから、いい加減回りやマスコミの勘繰りがうるさくてさ。余計なスキャンダルで、テニスの邪魔されたらたまったもんじゃないし。
 もし、メディアにそういう話が出ても、それは100パーセントアンタのことだし、今回みたいに変な勘違いしないでね」
「うう……ご、ごめんなさい」
 桜乃の誤解も解け、ようやく気持ちが落ちついたところで、リョーマがこれからの話を切り出した。彼は、桜乃が淹れ直したコーヒーを一口啜ると、相手に言い聞かせるように一つずつ注意事項を並べる。
「アンタの具体的な情報は出さないようにするし、こっちでも対策はしとくけど、万一マスコミに嗅ぎつけられるような事があったら、何も答えないで無視しちゃっていいよ。
 あとは俺の方で何とかするから、ちょっとでも気になる事があったら、下手に遠慮しないで、直ぐに連絡入れて。話が大きくなってからじゃ、かえって後始末が大変だから」
「う……うん。分かった。
 私も、回りにばれないように気をつけるね。……あ、でも、朋ちゃんにだけは話してもいいかな? 今回のことでも、いっぱい心配かけちゃったし……
 朋香は中学時代からの一番の親友で、リョーマと桜乃の関係も良く知っている。昨日の一件でも、朋香には随分と心配やら面倒をかけてしまったし、そもそもリョーマが桜乃の家までやって来れたのも、間を取り次いでくれた彼女のお蔭だ。
 おずおずと尋ねた桜乃に、彼女の心情を汲んだのか、目の前の男はあっさりと頷きを返してくれた。
「あー……まぁ、小坂田だけになら構わないよ。
 俺も、先輩たちには、最低限根回ししとかなきゃなんないだろうし──あと、バァさんにも、一応筋は通しとかなきゃならないか……
 乱暴に髪の毛をかき回したリョーマは、そのままばつが悪そうに目を伏せる。
「──なんか、ゴメン。
 付き合い始めから、いろいろ制限かける事になっちゃって」
「え? そ、そんな事無いよ!」
 桜乃は、慌ててふるふるとかぶりを振った。拳をぎゅっと握りしめて、気まずげな青年の顔を一心に見上げる。
「それだけ、リョーマ君が人気あるって事なんだもん。
 リョーマ君のテニスを好きな人が、いっぱい居てくれるお蔭なんだから、私もすごく嬉しいよ」
 それは、紛れもない彼女の本音だったが、桜乃の言葉を耳にしたリョーマは、ひどく形容しがたい複雑な表情を浮かべた。しばらく彼女をまじまじと見つめていた青年は、やがて深いため息をつくと、大仰なしぐさで肩を竦める。
……ま、アンタらしいけどね」
「リョーマ君?」
 きょとん、と目を瞬く桜乃に、なんでもない、とぶっきらぼうに返すリョーマ。彼は、マグカップに残ったコーヒーを一息に飲み干すと、ふう、と背中をベッドにもたせ掛けた。
「──さて、面倒な話はここまで。
 せっかく降って湧いたオフだし、有効に使わなきゃね。次は、いつこんな機会があるか分かったもんじゃないし」
 そっちは用事無いの? と聞かれて、桜乃はこくりと頷いた。
「うん、大丈夫だよ。
 今日は大学もバイトも休みだし、明日は二限からだから」
「ふぅん? じゃあ、明日の朝までは、二人でゆっくりできるわけね」
 あからさまな含みをこめたそのニュアンスに、中学生の頃より多少成長したとは言え、基本的には今でも純粋培養の桜乃は、残念ながらまったく気づく事は無かった。
「あ……でも、リョーマ君、外には出られないんだもんね。
 じゃあ、ちょっと早いけど、お昼ご飯でも作ろうか? ありあわせになっちゃうから、あんまり大したものは出来ないんだけど……
 そう言って、その場を立ち上がろうとした彼女の手を、前触れも無くリョーマが強く引いた。不意をつかれて足元をよろめかせると、そのままふわりと相手の胸に抱き寄せられる。
 粗いシャツの目を通して、彼の体温と、規則的に打つ心臓の鼓動が伝わってきた。
「それより、俺としては、先にもっと欲しいものがあるんだけど」
「ふぇ……?」
 ──コーヒーのお代わりでも欲しいのだろうか。そう思った桜乃が、そのまま彼に尋ねてみると、何故か深々と重いため息を吐き出された。
「アンタって、昔っからこういう事には鈍感だったけどさ……いくらなんでも、さすがにちょっと鈍過ぎない?」
「え……えっと、リョーマ君?」
 じろり、と恨みがましい目つきで桜乃を一瞥したリョーマは、彼女の華奢な腰にしっかりと手を回すと、一言ひとことを噛んで含めるように告げる。
「夕べのホテルと違って、今ここに居るのは俺とアンタだけ。お互い一滴も酒入ってないし、どっかの誰かが邪魔しに来ることもない。明日の朝までは、完全に二人きりってこと。
 このシチュエーションで、飯とかコーヒーとか、何でそういう選択肢が真先に出てくるの」
「あ……、」
 どこか不貞腐れたようなリョーマの表情に、桜乃もようやく、彼の言葉に込められた意図を理解する。途端に、かぁっと顔が熱くなるのを感じて、彼女はあうあうと言葉に詰まってしまった。
 見るからに動揺し、おろおろと視線を彷徨わせる桜乃の姿を、リョーマは暫く目を細めて眺めていたが、やがて両腕に力を込めると、ぎゅうっと強く彼女の体を胸の中に抱き込んだ。
 今までの、どこか遠慮がちだった優しい接触とは違う、熱を帯びた抱擁。──その目眩がするような甘い拘束感は、一度だけ覚えがある。それは、昨夜のベッドの上で、アルコールの回ったリョーマが桜乃を抱きしめた時の感触そのものだ。
 一段低くなった彼の声が、耳たぶを擽る。
……ねえ、竜崎。
 次は、いつ会えるか分からないんだから……いいよね?」
 つう、とワンピース越しに背筋をなぞられて、全身の皮膚がぞくぞくと粟立つ。体中から力が抜けていくのを感じて、桜乃は思わず、リョーマの肩にぎゅっとしがみついた。
「で、でも、リョーマ君、さっきは、何もしないって……っ、」
「アンタの同意があるなら話は別。
 ちゃんと、それなりに用意はしてきた、って言ったでしょ。一応こっちとしては、初めからその辺は折り込み済だし」
 あっさりとそう切り返されて、桜乃は息を飲む。ううう……と無意味に唸っていると、つと眉間に皺を寄せたリョーマが、桜乃の顔を覗き込んできた。
「──なに、そんなに俺とじゃイヤ?」
「う……嫌っていうか、その……あんまり、突然過ぎて……頭、混乱しちゃって……
 さっき、リョーマ君が来てくれるまでは、もう、二度とリョーマ君に合わせる顔無い、って思ってたくらいだから……
「別に、こっちは突然のつもりは無いけどね。
 大体、合わせる顔がどうとかって、そんなのアンタが勝手に勘違いしただけじゃん。それで人のこと遠ざけられても、俺の方が困るんだけど」
「ふぇぇ……
 ジリジリと、言葉と膂力の両方で次第に追い詰められていく。夕べとは違い、明瞭に自分の意志をコントロールしているリョーマが相手では、その力強い腕を振り切ることは勿論、どうにか上手く言いくるめて、この場をやり過ごす事さえ出来ない。
「竜崎」
 リョーマが、彼女の名前を呼んだ。軽く、触れるだけのキスを落とすと、リョーマは桜乃の揺れる瞳を逃さないように、しっかりと双方の焦点を合わせてくる。
「夕べも言ったでしょ? 俺、そんなに気の長い方じゃないんだよね。
 ──あまり焦らされると、アンタの身がもつかどうか、正直保証出来ないよ?」
「り、リョーマ、君……、」
……また、しばらくは会えないんだからさ。
 ちゃんと、アンタが俺のものになったっていう実感が欲しい。……また、夢の中の出来事扱いされたら、いい加減たまったもんじゃないし」
…………
 結局、初めから、彼の求めを拒むすべなど無かったのだろう。リョーマの方も、桜乃が本気で拒絶しない限り、微塵も引き下がるつもりはないようだった。根負けした桜乃は、震える瞼を何とか閉じて、彼の口づけを受け入れる。


 ──だけど。
 いざ本番を迎えてみると、あまりの恥ずかしさと、全身が軋むようなとんでもない負荷の連続に、何が何でもリョーマの要求を退けなかったことを、彼女はほんの少しだけ後悔する羽目になったのである。



      †       †       †


 数時間後。

「竜崎、大丈夫?」
「うう……ち、ちょっと、しばらくは……動けない、と、思う……
……ゴメン。俺もよくこういうの分からないし、上手く加減出来なかったかも」
 昼下がりの室内で、ベッドに身を横たえた桜乃は、体のそこここに残る痛みにうめき声を上げていた。彼女を抱き抱えたリョーマは、ばつの悪そうな顔で、しきりに相手の白い肌を摩っている。
 ──リョーマの手に抱き抱えられて、ベッドに運ばれた桜乃だが、そこからの過程は、
あまり順調とは言えないものだった。
 キスから愛撫の流れまでは、恥じらいつつも夢心地の幸せな気持ちでいられたのだが──やがてその淡い快感も、圧倒的な苦痛の波に飲み込まれてしまった。何しろ、ただでさえ初めての行為な上、お互いの体格差である。リョーマを受け入れようと思うほど、体が勝手に緊張してしまい、実際に体を繋げるまでには相当の時間と手間を要した。ぽろぽろと涙を流して歯を食いしばる桜乃の姿に、何度かリョーマが続きを中断しようとしたほどである。
 ──それでも、しばらくリョーマに肌を撫でて貰っていると、だいぶ体が楽になってきた。大きくひとつ息をつくと、彼女は裸の胸にそっと額を押しつける。
「あの……ごめんね、リョーマ君。
 私、こういうの、初めてで……その、どうしたらいいか、全然分からなくて……上手く、出来なかったから……
「なんでアンタが謝るの。こういうのは、普通男の側がリードするもんでしょ。
 それに、いきなり最初から上手くやられたら、そっちの方がショックでかいんだけど」
「うう……そ、それは……そう、かも……
 リョーマはふっと笑って、すっかりほどけた桜乃の黒髪に指を絡めた。
「──まぁ、ゆっくり慣れていけばいいじゃん。
 まだ、いくらでも時間はあるんだし。今は中々会えないけど、アンタが大学卒業したら、向こうで一緒に暮らしてもいいしさ」
「え……い、一緒に、って……
「ま、その辺の細かい話は、そのうちおいおいね。
 ……今は、もうちょっとこうさせて。次に会うまで忘れないように、ちゃんと、全部覚えておきたいし」
 リョーマの腕が、ほっそりした彼女の裸身を引き寄せる。はぁ、と熱いため息が首もとにしみ込み、男の長い足が、乱れた毛布の中で、桜乃の足を絡め取る。
(リョーマ君と、こんな事してるなんて……嘘、みたい……
 恐る恐る、彼の背中に手を回すと、更にきつく胸の中に引き寄せられた。まるで、大切な宝物をしっかり抱きしめる子供みたいに、桜乃の体を抱くリョーマの腕に力が入る。


 午後の光が満ちる八畳間。
 二人の姿を外界からすっぽりと覆い隠す、薄いレースカーテン。


「そう言えば、リョーマ君……ひとつだけ、聞いてもいい?」
「何?」
 うつらうつらとしていたリョーマは、桜乃のその問い掛けに、重い瞼を上げた。見ると、桜乃は思いの外真剣な表情で、じっとこちらの方を見つめていた。
「あ、あのね? あの時、本当はなんて言ってたのかなぁ、って……
 リョーマ君、なんか心当たりあるみたいだったし……
……ああ」
 ──まだ、その事を気にしていたのか。もうすっかり誤解も解けて、わだかまりも消えたものと思っていたのに。
 とは言え、リョーマが夢現に口走ったその一言が、桜乃の心を深く抉り、彼女をショック状態に陥らせたことは紛れもない事実だ。彼がアメリカに戻る前に、最後の刺を抜いていってやらないと、いつまでもその傷口は癒えることなく痛み続けるだろう。
「あのさ、竜崎。……まだ、気づかないの?」
「ふぇ……?」
 長い睫毛を瞬かせる彼女の手を取ると、リョーマは、そっとその指先に口づけた。そうしてそのまま、ほっそりした指を、自らの唇の上に押し当てさせて──

 さ、
 
 く、

 の、

 ────と。

 夕べ、自分が呼んだ女の名前を、ゆっくりと紡いでみせた。

……っ!」
 彼の目の前で、見る見る桜乃の顔が真っ赤に染まる。さっきまでの行為の余韻が、やっと引いてきたところだったのに、耳たぶや首筋のあたりまで、また新しい熱がかっかと灯っていた。
 この様子だと、どうやら、夕べの記憶と、今のリョーマの唇の動きを重ね合わせて、それが同一のものであると理解したのだろう。ようやく最後のしこりが解けたのを見て取って、リョーマはそっと彼女に尋ねてみる。
「納得した?」
……はい……
 こくり、と小さく頷く桜乃。羞恥と体熱に潤んだ目で、上目遣いに睨まれるが、生憎まったく迫力は無く、誘っているようにしか見えなかった。
「だって……でも、それなら、最初から教えてくれたって……
「──あのさ。俺だって、他の女口説いてたとか思われたの、結構ショックだったんだけど。
 あんな誤解されたら、少しくらいやり返したくなっても当然でしょ」
 そこまでいい加減な男に見えたわけ? とぼやくと、桜乃はへにょりと眉を下げた。あうう、と言葉にならない唸りを上げる相手の体をしっかり抱きしめて、リョーマはくつくつと笑い声を漏らす。
「じゃあ、誤解も解けたとこで、……もう一回、しようか?」
「えええ……っ!?
 そ、そんなの無理だよ……っ! 私、しばらくは動けないって……っ、」
「さっきので大分コツ掴めたし、今度はアンタに出来るだけ負担かけないようにするから。
 本気できついならちゃんと止めるから、安心してよ」
「ち、ちょっと待って、リョーマ君……っ、や、ダメ……っ、……!」
 彼女の抗議を塞ぐように、熱い唇が被さってくる。
 ──そのまま、『桜乃』ともう一度名前を呼びかけられて、火傷のように引きつれた痛みの記憶が、他ならぬリョーマ自身によって、優しいぬくもりの温度に書き換えられていくのを感じながら、彼女は甘い諦めと共に目を閉じた。


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