@saeki_f
バンジークスが裁判所から出ると、外は雨が降っていた。倫敦特有の通り雨で、英国人であれば数分で止むものと心得ている。
用事が予定よりも早く済んだため迎えの馬車はまだ来ていない。しかし彼の家の御者は常に予定の時間よりも早く来るようにしているので、少し待てば来るだろうと予想したバンジークスは、裁判所の屋根の下で待つことに決めた。そこへ小さな影が現れる。
「うわあ、雨か……あれ、バンジークス検事」
倫敦へ来て日の浅い、日本人の弁護士。バンジークスは眉根を寄せた。龍ノ介の方も、気まずいような、しまったとでもいうような顔をしている。互いに相手のことが得意ではないのだ。バンジークスは日本人を好いてはいないし、龍ノ介はその敵意を向けられるものだから、自分から近寄ることなどなかった。単に不運な偶然が重なってしまっただけ。
「ええと、ぼくはこれで」
目を泳がせながら、龍ノ介はそそくさと雨の中へ駆け出していこうとする。不思議なことに、その背中を見るやバンジークスは声を上げていた。
「待て、弁護士」
背後からの声に、龍ノ介は黒い背中をびくりと揺らした。苦手意識を持たれていることはそれだけで充分に伝わった。バンジークスとて、そんな男を呼び止めるつもりなどなかったのだ。理由が自分でも分からないまま、言葉は口をついて出ていた。
次の言葉を待つ龍ノ介に対し、バンジークスは半ば諦めたように続ける。
「この程度なら十分と経たず止むだろう。急いでいないのならわざわざ濡れることもあるまい」
この東洋人が濡れてしまおうと、何であれば風邪のひとつでもひいてしまおうと、バンジークスには関係のないことだ。しかし声にしてしまった以上は何か言わねばと思ったのだった。これからしばらく降り続けるような雨ならまだしも、今出歩くのはあえて濡れに行くようなものだ。あくまでこれはごく常識的な気遣いだ。
龍ノ介は驚いた顔をして、次に困ったように微笑んだ。
「それでは、もう少し待ってから帰ることにします」
バンジークスはそこで、自分が龍ノ介を引き留めてしまったことに気付いた。好き嫌い以前に、検事と弁護士である。あまり近くに居るべきではないと思っているはずなのに、思考と言動が矛盾している。
調子の狂ったバンジークスに龍ノ介が尋ねた。
「あの、検事はお帰りにならないのですか? 馬車があるのでは」
「私が申し付けておいた時間より大分早くに用事が終わったのだ。迎えはまだ来ぬ」
それならば軒先で待たずとも、建物の中で時間を使えば良いのではないか。普通はそう考えるものだろうが、龍ノ介の考えはそこまで至らなかったし、バンジークスも龍ノ介が来たからといって屋内へ向かうことはしなかった。
「では雨が止むまでの間、お隣を失礼いたします」
つまるところ、雨が止むか馬車が来るかするまでは、この屋根の下で並んで待たねばならないということだ。ほんの数分だとは予想できたが、苦手な人と過ごす時間が途方もなく長く感じられるのは言うまでもない。会話の義務があるわけではないとはいえ、バンジークスは引き留めた手前もあり、気まずさを埋めるかのように龍ノ介へ言葉を投げた。
「いつもの法務助士はどうした」
「今日は簡単な調べものだけなので、ぼく一人で参りました。寿沙都さんはアイリスちゃんとお出かけしているのです。ああそうだ、二人とも雨が降って困っていないかしら」
自分も正に困っているところだろうに、ここに居ない他人の心配をする。随分なお人好しだとバンジークスは思った。
「貴公らを見る限り、心配されているのは貴公の方だと思うがな」
この弁護士の法務助士を務める淑女は、当の弁護士よりもしっかりとしているように見えた。ホームズが連れているあの少女に至っては、そこらの大人など顔負けの聡明さだとか。あくまで検事席から見た限りの話であるが、それを聞いた龍ノ介の顔を見ればバンジークスが言ったことも強ち間違いではなさそうだ。
「た、たしかに……家で手拭を用意して待っているかもしれません……」
「貴公、子供か何かだと思われているのか……?」
「わんぱくだと言われたことはあります」
バンジークスの記憶が正しければ、この日本人は二十歳を超えていたはず。成人男性が十代の婦女子らに世話を焼かれていると思うと、日本人に対する認識を改める必要性を感じる。
思わず歪めた口元に気付いてはっとした。私的に話すのは初めてだというのに、違和感がまるで無いのだ。龍ノ介はごく自然に、近寄り過ぎない程度の距離を取った。
もう少し話をしてみたい。先ほどまでどうでもいいと思っていたバンジークスが、僅かだが龍ノ介に興味を持った。法廷の外で交わす言葉は刃などではなく、意外にも心地よさを感じていたのだ。
天気とは実にままならないもので、バンジークスが次の言葉を掛けようとすると、街を包んでいた水音が次第に小さくなっていく。
「あ、止みましたね。雨」
「……そうだな」
龍ノ介はぱっと表情を明るくして、屋根の外へ出て雨足が弱まっていくのを確認した。バンジークスはもはや彼を止める理由など持ち合わせていない。それをとても惜しく思ったのだった。
「それでは、ぼくはこれで失礼いたします」
龍ノ介が一礼して今度こそ帰路に着いた時、バンジークスはちょうど迎えの馬車が向かって来るのを見た。御者は主人が待っているのを見とめると、濡れた石畳を急がせる。謝る御者に気にすることはないと言い、慣れた馬車に乗り込んだ。
馬の歩みに揺られながら、バンジークスはつい先ほどの出来事を反芻する。数分間の会話は、思ったよりも不快ではなかった。日本からの留学生は、裁判でこそ突飛な発想から場を混乱させる場合もあるが、根は礼儀正しく素直であろうことが窺えた。彼が日本人でさえなければ、好意的に思えただろう。
(日本人でさえなければ、か……)
その考えが目を曇らせている自覚はあった。しかしもし万が一、それが晴れることがあれば? バンジークスには龍ノ介がどのように見えるのだろうか。
答えの出ない空想を止めて、バンジークスは雲間から覗く太陽の光を見た。