凋叶棕さんのC92新譜「音」を聴いての、無駄に長い所感です。重度ネタバレと勝手な思い込みで構成されています。音楽CDでネタバレとかsy
@puzukith
RD-Soundsは「もののあはれ」の作家である。
敢えてそう言ってみたいと思う。
既に野分の頃も過ぎた。
夏は遠くなったが、未だ私の心を掴んで離さない一枚のCDがある。
さる八月、凋叶棕のC92新作、「音(omoi)」が頒布された。RDWLナンバリングとしては、実に二十五作目となる一枚だ。
これまで凋叶棕は、ほぼ年に三回のペースでアルバムもしくはミニアルバムを発表してきた。しかし、現在のように一作におけるテーマ性が色濃くなるのはRDWL-0003の「謡」以降である。
(「謡」では多彩なキャラクターのエピソードが語られ、それらを阿求が「忘れ得ぬ物語」として包み込んで幕が閉じられる)
それ以降、凋叶棕はあらゆる視点から東方世界を描き出そうと試みてきた。幻想郷の終焉を俯瞰した「遙」、嘘をテーマに解釈というインタラクティブ要素を付加した「騙」、恐怖を主題に新旧の東方世界を衝撃的に繋げた「屠」等は本領発揮といった感があるし、原作への深い敬意を込めた「奉」「掲」「伝」、二次創作への偏愛を昇華させた「薦」、if世界のメタ視点から我々自身を反射させる「喩」、24作目にして24時間を象徴する「隨」など、多彩な領域に果敢に切り込んでこれたのは、まさに同サークルが東方と共に歴史を重ねてきたからでもある。
幻の「祭」も含めると、実にほぼ10年。
十年一昔と言うが、この十年で私たちは何を憶え、何を忘れたのだろうか。そもそも何を忘れたのか、貴方は思い出せるだろうか。もし仮に思い出せたとしても、その色は当時と変わっていないだろうか?
「音」は、そんな忘却をテーマとしたCDである。
前置きが長くなった。「音」の話をしたい。
内容に触れる前にまず、音楽的に素晴らしい完成度であった。
ツイッターから察するに、ここ数作、RD-Soundsは新しい機材環境における制作を行ってきたようだ。環境への適応のためかリミックスに若干のばらつきがあるように感じていたのも事実だったが、今作では、全体が高質にまとまった形で底上げされた感がある。環境が熟成したということなのだろう。時に苛烈に、時に柔和に、時に涙を流すような怒涛の12(?)曲は、「音」の名を冠したアルバムに本当に相応しかった。

さて、CDを手に取ると、はなだひょう氏によるジャケットに目を奪われる。標本箱にピンで張り付けられた稗田阿求は、まるで翅を広げた胡蝶に似ている。夜を翔ぶ蝶が意匠になっていた「謡」との対比を連想させる。
また、標本箱の左下には本作タイトルの「音」が表記されている。これも目を凝らすと「憶」の心を示す部分が掠れて消え、「音」だけが残っていることが分かる。裏には象徴的な博物の数々。相変わらず想像力を掻き立てられる仕様だ。
更にブックレットを開くと、これが本当に「博物誌」であることが分かる。細緻な点描に、生物の横断面。いずれも博物画で用いられる手法だ。全体的に人体解剖図的なモチーフが使われている。そこに血液のような染みがあるのは、気の所為ではないだろう。
では、順に博物誌を紐解いていこう。
1.失われし記憶
深く水底から浮かび上がるようにアルバムは始まっていく。
古い音源を意識したイントロに、重厚な弦の響きが重なる。それは記憶の澱が浮かび、また沈んでいくように入り混じっていく。最後にノイズを乗せながらピアノが溶けていくのは、「忘れ得ぬ物語」を彷彿とさせる。新しくも懐古的な、切なさの漂う導入部である。
2.唄片の人魚
近年RD-Soundsが得意とするキャッチーながら哀愁を誘う一曲。個人的には光収容氏のバッキングから転調する所がお気に入り。
悲恋の末に人魚姫になった誰かの唄と考えると「水底のメロディ」と対になっている印象を受けるし、水面に消えた少女というモチーフからは別名義ではあるがFeuille-Morteの「river」を連想させる所もある。当然、「唄片」は泡沫や詩片と掛かっているのだろう。
基本的にキャラに姓名がついているWin版東方において、何故かわかさぎ姫だけが通称のような名前なのかは謎だったのだが、特に話題となっているのを見たことがなかった。その静かな水面に、そっと一石を投じている曲でもある。
東方本編で、わかさぎ姫は「私たちを忘れて久しいんだわ!」と言う。この私「たち」というのは一体何を指す複数形なのだろうか。
実は「わかさぎ姫」というのは、何らかの「集合体」としての総称なのではないかと、この曲からは感じさせられる。
すなわち彼女もまた、泡のように忘却された無数の物語を弔うための、泡沫の歌姫の一人なのだ。彼女の石拾いもまた、かつての意味が喪われることによって、忘却という弔いの一つになっているのかも知れない。
なお背景には、魚類の鰓だけでなく、人間の気管や脈管などが網状に連結されている様が描かれている。これもまた、わかさぎ姫が少女たちと連続した存在であるとシンボリックに印象付けているように思える。
3.インパーフェクトメイド
跳ね回るマレット。背後の破裂音が、恐らくは「謡」の「或いは暢気な〜」の導入と対になっているであろう一曲。「或いは暢気な〜」がまさに安楽探偵ばりに椅子に座って待っているレミリアを想起させるなら、こちらはその影で駆け回っている咲夜の奮闘をイメージさせる。こうやって過去作が繋がる様を空想すると楽しい。
本作は歴代のアルバムの中でも特に「おもい」構造となっているので、こういう一曲が挟み込まれるのは箸休めとして大いに機能している。
ただ、そんな思いを吹き飛ばすような、Twitterで見た「過去ではなく、全てを忘れてしまうようになった将来のメイドなのでは……」という解釈が余りに衝撃的だった。忘却がテーマになっているからこそ、一つの切り口としてこっそり推していきたい。
4.アリスのわすれもの
アリス哲学。
虚ろな表情のアリスが怪綺談三面アリスばりに両側に上海人形を侍らせているのだが、どうも主体は悪戯じみた笑みを浮かべる旧作アリスのようである。シノショウジョの指から延びた何やらの紐が、マーガトロイドに絡みついている。多くの感覚等を司る、脳幹の神経系を模しているのだろうか。
さて、旧作アリスとWin版アリスは連続性を明言されながらも、在り方に大きな解離がある。そこをどう結びつけるかは、アリス愛好家の長年の悩みであり嗜みでもあった。
この曲では、Win版アリスに対しての潜在意識として、根幹としての旧作アリスが存在を主張する。その関係性が、終盤で「不思議の国(すなわち幻想郷)」と「鏡の国」として隠喩されているのも興味深い(何故なら、鏡の国のアリスのラストは「主体と客体の不確かさ」が描かれているのだから!)
本曲のもう一つの聴きどころは、七色の魔法の解釈だ。
旧作アリスが操る魔法は黄、赤、紫、緑、青の五色。Win版では七色。しかし、この七色が実際何色なのかは実は明言されていない。
東方で七色なら、赤橙黄緑青藍紫? そこには再考の余地がある。なぜなら「所詮巫女は二色 その力は私の二割八分六厘にも満たない」からだ。そこには赤と白が含まれている可能性がある。そうすると、黄、赤、紫、緑、青と、後二色は?
言うまでもなく、この曲では「はじまりのクロ」「おしまいのシロ」だ。
すなわち、白、黄、赤、紫、緑、青、黒の七色。アリストテレス「デ・アニマ」の感覚論における、「すべての色彩は光と闇、白と黒を基本とし、色は白色光が媒質を通過することによって暗くなるときに発生する」という色彩論の引用である。始まりが白ではなく黒なのは、綴を思えば大変納得。
いやあ、思った以上に「“アリス”トテレス」でしたね(駄洒落か)
後、個人的趣向として軽率なことを言うとマリアリよりアリマリが比較的好きなのだけど(完全を目指す者が何故か不完全な者に惹かれる流れ、大好き)、だから七色が白黒に無意識的に惹かれてしまうんだったらいいなぁと思う。
.interlude
ところで話は変わるが、忘れられた記憶は、何処へ行くのだろうか。
たとえば古い精神分析理論では、忘却とは抑圧の結果、記憶が無意識に押し込められたものであると説明したりする。
だとすれば、無意識を漂い、その底に沈んでいる記憶を掬い取ってしまうような地獄めいた少女がいれば、どうなるだろうか。生存のため忘却したはずの、無意識の底に刻み込まれた恐怖(トラウマ)を思い出させられてしまうほど、おぞましいことはない。
さっきから何かノイズ混じりの低音が聴こえる気がするのだが、終盤の深く転がり落ちていく所が好き。遠くでまた立ち上がって彷徨っていく所も。
ところで伝というCDがありましたが、ココロを失った結果として、この不穏が生まれたのならそれはそれで興味深いよね、と。
……えっと、何の話だっけ。そうだ。音の話に戻ろう。
5.Spirited Away
神隠し。今や死語となったそんな怪奇が、まことしやかに信じられていた時代があったという。
幼女菫子が怯えながら逃げ惑っている背景は、恐らく肺臓。駆け回る少女の浅く早い吐息、弾む鼓動。そんな恐怖。
最近菫子ちゃんがアレコレ可哀想なので、またカッコつけてる菫子も聴きたいなぁと。そうラストオカルティズムの申し子は思う。
6.長き夢の果て
神霊廟のキャラクターは他作品と比較して感情移入しにくいのでは、という指摘を見たことがある。恐らくそれは、余りにもぶっ飛んだ思考について、我々が思いを巡らせにくいからなのだろう。それを反映してか、彼らの過去を遡及する二次創作も散見される。
まあしかし、ぶっ飛んでいるのは実は記憶だったとしたら、案外納得いかなくもない。
アンビエントな雰囲気の強い、荘厳な曲である。長い夢の旅路で風化していった強い決意。神の末裔とか、歴史要素を丁寧に拾い上げている所もポイントが高い。
しかし布都ちゃんとってもカッコいいんだけど、お前やっぱり一番肝心な所を忘れてんじゃねーか……という感。
7.NO buts.
こちらも旧作からのご登場。何を忘れているのかは判然としないが(魔法を盗んだことか、それとも結構無茶苦茶やってたことか)、なんかもうそういうの「細かいことつべこべ言うな!!」って感じでぶっ飛ばしてるのがとても幽香りんって感じで良い。
そういや旧作でも花映塚でもなんか忘れっぽかった気がする。
8.curse upon me!
きりさめまりさの「最初の魔法」は何か? という刺激的な解釈を与える一曲。
何というか「名付け」は原始かつ最も強力な魔法の一つな訳なので、半ば自覚的にそこにまりさ(魔梨沙? 万理沙?)ちゃんが踏み込んだのだとすれば、とっても楽しい感がある。
そして自分の芯と聞く耳ぶっこ抜いて微笑んでるキミ、コロっと曲調が変わる所含めて、めっちゃサイコパスか……って思ってしまってゴメンナサイ。
9.emergence
格好良さと悲壮さ。前曲と見事に対になった、羽化した抜け殻としての骨。
最も縛られているものが、最も自由であるという背反が痛い。
ところで、emergence→二色蝶と聴いた後になにいろ小径を聴くと「やっぱりこの子もサイコパスなの?」って感じる反面、やっぱりこっちの感情豊かなのが本来の霊夢なんだな……つら……って(いずれ退治される可能性がある小鈴と、退治された後の霊夢の表情を)思うのが最近楽しい。
10.嘔吐、又。
本作のキラー(多義)ナンバー。がっつり本格的にぶっ叩いてきたトランスはnayutaさんの良いところを最高に引き出していて、とにかく直感的に気持ち良くヤバい。
背景にあるのは消化管だろうか。臓器の無い空虚さに暴食を詰め込む芳香の行動を繋げ、けれども詰め込めきれずに嘔吐してしまう所がほんとオートマタで上手い。彼女のルーツの一つであろう都良香の和歌が虚しく響く。
11.モローズフィロソフィー
何となく忘れられている綿月……ではなく、恐らくはハースストーンで「使用人を沢山持って隠れているのに、結局自分で手を下してしまう」という設定を持つモローズが、綿月姉妹にドンピシャでハマってしまった感がある。
嘔吐でぐらつく頭をそっと静かにしてくれる効果があるので、是非夜のラウンジとかで弾いて頂きたい。
12.忘らるる物語
天空璋頒布日と同じ収録時間の、全てを包含するラストトラック。
多義的な解釈が可能であると同時に、この曲を語ることは、とても難しい。何故なら、この曲は「物語」となって記録されることを拒絶しているからだ。
本アルバムでは、幻想少女が「忘却することで自身を保っている」様が描かれている、といっても良い。人はまさに適切に忘れることによって先に進む。忘却は残酷な心の動きでもあるが、同時に救済でもある。
しかしながら、稗田阿求は九代目のサヴァンである。
確かにそこには「物語」が残るだろう。けれども残せば残す程、本来付随していた彼女自身の数々の想い、願い、そんな心の動きは掬いようもなく抜け落ちて変質していく。それこそがまさに前作「隨」で描かれたような、他愛なくも大切な時間であるのに。
「憶」いは、「心」を失うことにより、ただ「音」として残っていく。
その音はきっと、美しく、残酷だ。
「隨」では、ある平凡な一日のことが描かれた。私たちの凡庸な日々、誰かとの刹那の関係性。
私は古今和歌集における、小野小町と小野貞樹による贈答歌を思い出した。
「今はとてわが身しぐれにふりぬれば 言の葉さへに移ろひにけり」
「人を思ふ心この葉にあらばこそ 風のまにまに散りもみだれめ」
人の儚さを嘆く者に、人の想いの強さを返す恋歌。
「音」は、まさにこの恋歌の遣り取りの狭間にある。
無常なる心の移ろいと、今此処に在る存在としての詩片。
振り返れば、凋叶棕は常に東方を描こうとしつつ、同時にいつか喪われるかも知れないものと向き合い続けてきた。「遙」に代表されるような終わりと向かい合おうとするスタンスは、世の無常を識るからこその、孤独な抵抗である。
いつかこの素晴らしい日も、美しい音楽も、輝かしい思い出も。全て色褪せていく日が必ず来る。今はまだ言語化すべきではないことも含めて、それはどうしようもない真理である。
ならば己はどうするべきか。それでも陳腐な愛の永遠を祈り、世界の全てを記録しようとするのか。刹那に全てを任せ、火花のように駆け抜けるのか。
記録と忘却。その相克。是も否も言えず、愛という言葉の思考停止に依ることもできず、立ち尽くす時。
花に包まれた阿求は、まさに今、花葬されんとする胡蝶である。その夢がいつか枷から解き放たれる。
そこに遺っているのは、音(omoi)なのだろうか、心(omoi)なのだろうか。
誰も問に答えきることはできずに、その狭間に立ち尽くすしかない。過ぎ去っていくもの、掬い取れないこの今の今を目の前にしながら。
「音」は忘却をテーマにし、その裏打ちとしての切ない永遠を描写することで、逆説的に一回性の尊さを照射する。私たちが真に希求する、何かを。
SF作家のケン・リュウは言う。
「もののあはれ」とは、“an empathy for the inevitable passing of all things”、即ち、一切避け難く過ぎ去っていく全てのモノへの共感の情であると。
RD-Soundsは「もののあはれ」の作家である。
やはり私は敢えて、そう言ってみたいと思うのだ。
追伸:全てを忘れてしまったアナタへ→タビノウタ