鐘は貴方の為に。魔王会議編です。前編とします。視の魔王様、堕の魔王様、牢の魔王様、望の魔王様等お借りしました。
@san_ph7
「いなかったんですか」
いなかったよ、と彼は答えた。逆さまのままで。
この世界の主、視の魔王は嬉しそうにも、つまらなさそうにも見える顔をして、その額の第三の目で空中に囚われた訪問者を見やった。魔王の住む宮殿内には侵入者対策のためか至るところにトラップが敷かれている。彼は不用意にもそのひとつに引っかかった。足首には縄がかかり、宙吊りになっている。
不満そうに口をへの字に曲げた哀れな”ハングドマン”は、腕組みをして片目だけで友人にこう言った。
「君のことだから足首の縄を切ったら別のトラップが作動するかと思って」
「ああ、それは面白いですね。今度試してみます」
彼がため息をつくと弾けるように縄は解けた。急速に落下するかと思われたそれは空中で体勢をくるりと変えて、危なげなくふわりと地面に着地する。夜色と金色が混じった不思議な髪が揺れ、背に負うた巨大な翼がわずかに羽ばたく。そして萌える葉よりも濃い色をした瞳が目の前の魔王を捉えた。
「どうして引っ掛かったのかは聞いてくれるな」
視の魔王が何か言う前に、ややぶっきらぼうに彼は言い放った。それを聞いた魔王はやはり嬉しそうにもそうでないようにも読み取れる、つまり何を考えているのか分からない穏やかな顔で少しだけ首を傾げた。
頻繁にではないが、彼にもこうして他の世界の魔王と交友する機会はあった。視の魔王とはただの茶飲み友達だと彼は認識している。だが彼は随分長い間友人の元を訪ねることがなかった。久しぶりにここを訪れるとき、彼はその訪問の目的が遊びではないこととか、長いことろくに顔も見せなかったことを妙に気にしたものだが、会ってみれば何のことはなく、視の魔王はただ本当にいつも通りだった。
「生き物ですからね」
宮殿内を歩きながら視の魔王はそう言った。成果が得られなかったことに対するコメントらしい。それはそうだろうな、と思う。生き物は足やヒレや翼や、それから時間さえあればその場からは動いてしまうだろう。ましてこちらの事情など、向こうは知る由もないのだ。
彼はこの魔王にひとつ頼み事をしていた。人探しだ。この久しぶりの訪問の目的はそこにある。
かの魔王の額を見つめる。獣の色をした大きな黄色い瞳は、どこでもない場所を眺めているように見える。この第三の目は、世界のどんな場所であろうとも魔王にその景色をもたらしてくれる。動かずして大量の情報を得ることができる視の魔王に捜索を頼むことは、彼にとってはひとつの最適解だった。何しろ探しびとは生物で、会ったのはただの一度きりだったからだ。
彼は自分と”縁”のある人物との光の糸が見える。諸事情で左目を失明し、確かに過去や未来を読むことを封じられてはいたが、運命の糸を視認することができる能力までは失っていない。加えて、彼は同一の世界に対象が存在するならば、糸を使ってその場所まで転移することができる能力を有していた。彼の把握する糸というのは、人物ふたりの間に自然発生する行動の記録だ。たった一度の接触であってもそれは変わらない。だから、本来であれば視の魔王の手を借りるまでもなかったはずだった。
問題は、どの糸がそうだったのかが分からない、という点にある。糸は相互間の記憶であり、魂の記録の一部だ。例えば人間同士で、大昔にたった一度すれ違っただけのような人物と何十年かぶりに再会しても、よほど記憶に残る出来事でもない限りまず思い出すことは難しいことだろう。日常の瑣末な事々のひとつひとつを覚えていられるほど、人間の頭脳の容量は大きくはない。人非ざるものの最たる存在、魔王の彼であってもそれは同じことだった。”全てを覚えている”ことは、不可能だ。
従って、この光の糸は彼が記憶を保持できなくなると風化していく。彼が膨大な時間を生きすぎた弊害である。些事であったと認識はしていなかったが、しかしこんなことがなければ思い出すはずもない存在だった。周囲に目を凝らせば、輝度も太さも様々な光の糸が浮かび上がる。この明るさは却って視界不良だ。そして、目的の糸を自分がまだ視認することができているのか、果たしてそれがこの洪水のような量の糸のなかにまだ存在しているのか、彼にはまったく分からなかった。
「いいさ。次に賭けるよ」
彼は頭を掻いてそう言う。次と言ったが、正直これ以上のあてなど、この視界不良の中からあるかも分からない糸を探し出す方法ぐらいしかない。
「突然きて探してくれなんて、悪かった。でもありがとう、シノ。いるのが分かっただけでも成果だ」
いるなら会えるだろ、と呟く。いるにはいるのだが、果たしていつ会えるのか。いつか、では遅すぎる。時間は待ってはくれないのだ。
難しい顔をしている彼の横で、シノ、と呼ばれた魔王はそれを聞いてほんの少し弾んだ。この友人はそのあだ名を気に入ってくれているらしい。名前のない魔王を呼ぶときに、いつだか戯れに彼がそう言ったのだ。
見つかるまでやるのかと聞かれて、彼は首を横に振った。これ以上友人の手を煩わせたくない。実はこれで3度目である。視の魔王に世界からその人物の痕跡を見つけてもらい、座標を頼りに聖界のどこかへ彼が移動する。しかし何度行っても、見つけることはできなかった。恐らく、それは単に相手が動くからというだけではない。その人は驚くほど魔力が薄く、人間の中に紛れてしまえば普通の方法では見つからないのだ。
彼が探している狂の魔王という人物は、そうした厄介な性質をもつ魔王だった。
「では諦めるのですか」
「諦めやしないけどさ。問題を解決する糸口のひとつが望み薄になっただけだよ。他にも方法がないわけじゃない」
様々な手段が考えられる。しかし実際それらが適切であるかどうかは、彼には分からなかった。
先日、彼の友人である囚獄の勇者に会いに行ったとき、彼は優しい勇者がどうしようもなく精神を傷つけられていることに気がついた。原因自体は例の”赤い森”であったが、分かったところで彼に対処ができるわけもない。緊急的にその場しのぎの処置を施して、彼は勇者の狂気を解くためにその魔王を探すことにしたのだ。二つ名の通り、狂の魔王は”人間の狂気”を喰らいながら聖界で活動する魔王だと彼は記憶している。蛇の道は蛇である。直接的な対処はともかくとして、なにがしかのヒントを得ることができたなら、囚獄の勇者の助けになるだろうと考えていた。
だが、収穫はなかった。
「そう都合よくはいかない、か。どうしようかな。聖界には精神医療の発達した国はなくはないけど、あんなフツーじゃない経緯でどうにかなったやつ見せてもどうしようもないし。そもそも見せて治療ができても治癒とか寛解にいくまでどれほど時間がかかるか。それじゃあ遅い。大体……」
ボソボソ、ぶつぶつ呟きながら歩く彼を見て、もうひとりの魔王はしばらく考え込むような動作をして、それからああ、と何か思い出したように言った。
「魔王会議」
彼はぴたりと足を止めて、驚いたように梟王を見る。
「確か少し前に手紙がきていました。あなたは確か、狂の魔王とは最初会議で会ったと言っていませんでしたか。向こうがどこへ行くのかその行き先を私達は知りませんが、行ったことがある場所は知っていますよ」
「そっか。彼も魔王だし。でも、シノ。君が知る限り、彼は最近は会議に行ってないんじゃないか?」
「だとしても、次の会議にくるかこないかということも、私達には分かりませんよ」
彼は顎に手をやった。会議なんて単語が浮かびもしなかったのは、彼がそれに最後に参加したのが人間の寿命じゃ足りないほど遥か大昔のことだったからだ。確かにシノの言うとおり、こないとも限らない。行ってみなければ。それに、狂の魔王が現れることがなくても、魔王会議にはそれこそたくさんの魔王が集まるのだ。何か取っ掛かりが見つかるかもしれない。
彼は視の魔王に再度礼を述べた。今度はお茶請けを用意して、間の開かないようにくると約束をする。その際、視の魔王は彼から渡された”対価”について尋ねた。彼はこの頼み事をするときに、前払いでとある物を進呈したのだ。人間の手のひらほどの楕円の形をした板で、漆黒の色をしているのに、日に透かすと玉虫色に光る。珍しいものである旨は伝えてあったが、何やら満足そうな顔をした視の魔王の様子に安心して、彼は禄に説明もしていなかったことを思い出す。
「あれね。あれは、聖界で古代竜と呼ばれている種の、竜の鱗だよ。……化石じゃないぜ。僕が拾ってからずっと持ってたやつだ。フフフ、シノは聖界へ魔王が大侵攻した時代があったのを知ってる?」
今度話してあげる、と彼が笑うと、視の魔王はええ、と答えた。
「私があなたのことを忘れる前にきてください」
次はそんなに久しぶりにするつもりはないよ、と言って、彼は視の魔王と別れた。
****
遷移した先は、光の溢れる森の中だった。見上げれば青い空が広がり、鳥のさえずりすら聞こえる。ここは魔王議界と呼ばれる、主なき世界だ。この場所を治める魔王はいないが、魔界のひとつではある。
視の魔王から魔王会議の情報を受取り、彼は開催日に合わせてこの場所へきた。彼の世界からはたった一度だけこの議界に繋げたときのゲート座標が残っていたために、彼は別段苦労するようなこともなくこの世界を再び訪れることができた。
森を抜ければ、整えられた庭園が広がる場所へ出た。平和な世界だ。ともすると聖界のどこか、と言われても違和感はない。魔王議界はその性質上”非戦地帯”である。彼は周囲を見渡して、ほとんどが記憶にない光景であることを改めて認識した。懐かしさすら覚えない。
道を進んでしばらくして、目の前に建物が見えてくる。聖界に存在する女神教の神殿とよく似た作りの建造物だ。繊細な模様の彫られた白い石柱が屋根を支えている。入り口では小さな魔族がきらりと光る鎌を携えて、じっと彼の方を見つめていた。
何だか場違いな場所に来てしまったような感覚に襲われて、しばらくぼんやりとその光景を眺める。すると、背後からじわりと空気に濃い圧力が滲むような気配を感じて、振り返った。空間の裂け目から、するりと細く白い腕が伸びる。
「や」
彼の肩を親しげに叩いたその人は、一見して小柄な天使のように見える。金糸の髪をした少年はにこりと微笑んだ。だが、その人が天使のように見えた認識は、一瞬で覆る。頭上に浮かぶ、夜を切り取ったような暗黒から覗く赤い瞳。背に負う白い翼の一部は羽根が抜け落ちている。何より、湿気を孕んだ異常に濃度の高い魔力が天使のような姿から発せられていることに、ただの人間でも強烈な違和感を覚えるだろう。
彼が懐かしい名前を呼ぶと、その人は閉じているように見えた双眸をうっすらと開き、どこかからかうような口調でこう言った。
「それで、珍しいじゃないか。どうしてここへ?」
その人、二つ名は堕の魔王として知られる彼の友人は、彼がまだ女神の傍にあった頃からの知り合いである。堕の魔王もまた元は天使であった。彼はこの目の前にいる友人がいかにして魔王となったのか、実は詳しいことを知らない。共通の友人であるアルビレオが彼と堕の魔王を繋ぐ接点だ。彼らにとっての大事な友人のために、人知れず苦悩してきた彼の事情を彼は話したことがなかったし、彼もまた何故友人が自分と同じく魔王となったのかは分からなかった。けれど絶対に捨て置くことのできない存在があることで、彼らはお互いの抱えたものは分からなくてもお互いが友人として在ることを許した。彼はアルバと会うことを避けてはいるが、堕の魔王はしばしば無二の親友と自分の世界で会っているらしく、その様子を知るために彼は度々魔王の元を訪問している。要は、彼らというのは互いの触れざるべきところを弁えた上で、旧知の仲であるという不思議な関係をしていた。
彼は友人に軽く事情を説明した。狂の魔王を探すという名目ではあるが会議に参加しにきたということ、それは最近彼らの間でも話題に上がる”お人好しの勇者”のためであるということ。それからもし狂の魔王が見つからなくても、あの勇者の狂気を解く手立てが見つかればそれでいいと考えていること。
堕の魔王は少しの間黙り込んで、まぁ来ているなら書記さんがチェックしているだろうし、と彼を誘って建物の中に入ることにした。すれ違うときに鎌を携えた小さな魔族を見やれば、ちらりとこちらを見返しただけで、後は宙を舞う手のひらほどの蝶に視線を向けていた。
重厚な扉を開けた向こうは、長い廊下だった。幅は広く、人型の魔物であれば4人並んで歩いても問題なさそうだ。右手側の扉の前に、検問のように構えた机があり、椅子には白銀色の髪に浅黒い肌をした男が座っている。
「書記さんやっほー」
堕の魔王が馴れ馴れしく手を振ると、書記さんと呼ばれた男は羽根ペンを動かしていた手を止めて、顔を上げた。じっと彼らを見つめる。見つめて、一度頷いた。
この男の様子に、彼は強い既視感を覚えた。この浅黒い肌の様子に邪神の使いである伝令の悪魔を思い出したからだったのか、それとも彼が思い出すことができない古い記憶のせいだったのか。しかし、それにしても何か、ひどく引っかかるものがある。それが何なのか、全く分からない。
突然消化不良を起こしたように、難しい顔をした彼を堕の魔王はしばらく眺めた後、横腹をつついて移動を促した。書記の男は持っていた名簿に記録を書きつけた後のようで、顔を上げずに書類の整理をし始める。
彼らは男から離れた位置で立ち止まり、堕の魔王はくるりとこちらに向き直った。
「変な顔して」
「うん……」
「具合悪いの?」
ぶんぶんと顔を横に振ったが、彼は本当かよと言いたげに眉間に少し皺を寄せた。彼は、一瞬、堕の魔王にも”こんなこと”がなかったか聞きたくなったが、やめた。そういうことは、弁えているはずだ。ともすると踏み込んではならない領域にかかる話かもしれなかった。違和感とは違う。噛み合っていないわけではない。逆なのだ。彼が覚えている既視感は強烈に”噛み合っている”。
友人は眉間の皺を自分の手で伸ばした後に彼の腹をべしべしと叩いて、お腹出してるから、冷えたのかもよと、風邪とか、と冗談を飛ばした。
「君だって腹丸出しだろ」
魔王が風邪なんか引くかよ、と彼が苦笑しながらいう。いやいやそんなことないぜ、と大真面目にいう友人の話を横ではいはいと聞き流しながら、彼らは会議室の前の扉まで歩いていった。扉には黒いプレートが掛けられ、金字で会議室の番号が振られている。
「書記さんの名簿見たけど、狂の魔王のとこチェックついてなかったよ」
「まだ来てないか、これから来るかのどっちかだけど」
ちらと友人の方を見たが、その人は首を横に振った。
「いいや。最近は見てない。僕も毎回参加しているわけじゃないし、タイミングが合わないのかも。まぁそもそも、真面目に毎回会議に出てくるやつなんて本当に少数だからね」
会議の開始時刻までは少し時間があった。堕の魔王は廊下の奥の方を指差し、自由に閲覧可能な資料室があることを教えてくれた。議場には書庫もあり、必要なものがあれば議長に取り出してもらうことも可能なのだそうだ。
「君、聖界ばっかうろうろして、魔界の事情あんまり詳しくないんじゃないの? 僕は君が探しているものはよくわかんないけど」
「まぁ確かにね。時代に取り残された気分?」
僕は中入って狂の魔王のこと聞いておくから、と言って友人は扉に手をかけた。
彼は堕の魔王に礼を述べると踵を返した。
「……ウィリデルクス、君は」
その背を見つめる魔王がそう小さく呟いたのを、彼が聞くことはなかった。
古い紙の匂いのする空間だった。資料室は薄暗く、埃の匂いがする。彼は書架の中から薄い冊子を取り出して適当に開いてみた。どうやら議会の議事録のようで、幾つかは何故か雑談の内容すらまとめてある。彼は周囲を見渡した。かなりの量がある。書架に収められている資料は議事録の他には、魔界の情勢などが詳しくまとめられたものもあった。目的のものを探すには骨が折れそうである。彼は諦めて、恐らく年代順に並んでいる書架の古いものから冊子を選んで情報を流し読みすることにした。
彼の知らないことがたくさんあった。確かに、堕の魔王の言う通りだった。彼は、これをとても不思議な気持ちで読んでいた。まるで、別の世界の……自分のいる世界とは違う、どこか遠いところで起こった出来事のように感じられる。昔の出来事だからというわけではない。彼はそれぐらい、魔界に馴染みがない。ここにあるものたちは古い記録だが、彼にとっては新しい知識だ。無論、読んだ先から全て覚えていくわけにはいかないが、それでも新鮮な気分にはなった。
しばらく、ただひたすら頁を繰った。紙の音が、彼の他には誰もいない資料室に響く。
そうしていると、ひとつしかない出入り口の扉が開く音、それからコンコンと木が床にぶつかるような音がした。ノックのように聞こえるが、恐らく足音だ。誰だろうと首を巡らせるが、背の高い書棚に阻まれて姿を確認できない。音は段々とこちらへ近づいてくる。コンコン、コンコン……。
ぴたりと、音が止まる。彼のすぐ近くまで来たようだ。特に警戒する必要もないだろう。魔王か、そうでなければこの世界の議長や或いは書記のような存在であることは容易に想像できる。
「やぁ、こんにちは?」
姿の見えない存在に彼は呼びかけた。書架の影からこちらを伺うように、桜色の瞳がちらりと覗いている。背は低い。よく見れば頭部からは鹿のような角が生えている。彼はこの小さな来訪者に見覚えがあった。
「おまえ……?」
首を傾いだその様子に、彼は微笑んだ。
「望の魔王、御機嫌よう。陛下は資料室にどんな用事が?」
視線を外し、手元の資料に目を移した。身を隠したままの魔王はじっと彼を観察している。彼は勇者の様子を見にしばしば大牢獄を訪れるが、この望の魔王とはその牢獄でたまに出会うことがあるのだ。無論、姿を見られている。
「おまえ、黒いのだな? 牢くんのとこで見たぞ」
「何のことかな」
いささか責めるような口調だった。牢くん、というのは大牢獄の主である牢の魔王のことだろう。彼は当代の牢の魔王とは正式に接見したことがない。牢の魔王の知り合いでもない人物が何故鉄格子の外をうろうろしているのかと、望の魔王でなくても疑問に思うだろう。といっても不正な手立てを使って大牢獄に侵入しているわけではない。当代がないだけで、それ以前の代で彼は牢の魔王と交流していた時期がある。深い付き合いではなかったが、双方の世界を繋ぐゲートはその当時設置された。お互いの承認がなければ行き来することはできないものだ。
彼がまた静かにページをめくっていると、望の魔王はぽつりと呟いた。
「にてる」
「……へぇ。誰に?」
「断罪」
古い友人の二つ名である。彼は勇者だ。あまり、似ていると言われることはなかった。何しろふたりを共通に知る人物などほとんどいないのだ。同じく魔王となった旧友からもそんなことを言われたことはない。それはそうだろうと思う。あまりにも見た目はかけ離れている。彼は”彼女”譲りの揺蕩う金糸など持ち合わせていないし、雪よりもずっと白い翼なんてものもない。
だから、突拍子もないことを言われたものだと感じて、彼はくすくすと笑った。
「彼は僕のこと、知らないと思うよ」
「おまえは知ってるのか?」
「さぁ?」
ぱらり。ページをめくる。
「ここで何してるんだ?」
「読書」
指が薄い紙を掬い、右から左へ、頁が移動する。
「これらは誰かの記録だな。記憶ともいう。誰も覚えていないかもしれないことを、誰かに伝えるためにこういうものは在る。誰にでも見える形で記されていることは、特定でない、多くの誰かのためにとって便利だな。僕からしても、ここに書かれていることは新しいことばかりだ。知らないことが多いからね」
ぱらり。
「一方で、誰かにとっては新しいけれど、誰かにとっては古いものだ。僕らは全てを覚えていられないわけだから、こうやって書き記す。忘れてしまっても、思い出せるように。忘れてしまっていることを、忘れないために」
そして、忘れていることを忘れてしまったら、もう二度と思い出せないのだろう。
妙な顔をした魔王に、でかい独り言だよと彼は笑った。
「それで望の魔王。君はここへ、何をしに?」
「!」
そういえば、という顔をして望の魔王は書棚の影を飛び出して、彼の見える範囲から消えた。横目でそれを追い、それから冊子をめくる作業に戻る。しばらくは足音も聞こえていたが、そのうちに静寂へ掻き消えた。どこかに隠れているのか。
冊子を手に取り、適当に開いて、気になる箇所を読む。分かっていたが、情報収集というよりこれではただの暇潰しである。さっきから開いている冊子の中に、狂の魔王の一文字すら出てこない。そういえば、随分奥にある書架の中から彼は冊子を手に取っている。もしかして、この棚の年代は狂の魔王という存在が発生する前なんじゃないか、と思い、おもむろに移動する。
こんなにのんびりしていいわけはないと彼も思うのだが、包帯だらけの勇者が焦燥に駆られて無茶をし、看護にあたるもうひとりの勇者が苦労している様を思い浮かべれば、まぁ、もう少し忘れたままでいいのではないかとも思う。少なくとも、分身の身体が完全に癒えるまでは、彼は囚獄の勇者にかけた忘却の呪いを解くつもりはなかった。
扉に近い方の書架まで移動し、彼はまた適当に冊子を手に取り始める。
そういえば望の魔王は隠れたままなのか、移動する彼の視界には映らなかった。隠れる、というのは、単純に考えれば誰かから逃げるためか、もしくは遊びのどちらかだ。彼には後者に思えた。望の魔王には、きっとかくれんぼをする遊び相手ぐらいいるだろう。そして、かくれんぼには――。
そんなことを考えていると、ぎいと軋む音を立てて、扉が大きく開いた。
「――ああ、鬼がきた」
「あ?」
低い声が、怪訝そうな響きを持って彼の耳に届いた。
獣の王とは、一説には獅子であるという。聖界では権力の象徴として紋章などにもよく描かれる。鋭い牙を持ち、そして強いだけなら人間の命を脅かす野生動物など他にもいるのに、何故こうも獅子が好まれるのか。だがその金の被毛を纏った野獣を人間が打ち倒すことこそが、武力と栄誉の誇示であると人間の王や或いは騎士はそう考えるらしい。恐らくその毛皮は、ただの黄金よりも輝かしいものなのだろう。
さて、彼も魔王だからよく知っているが、獣型の魔王は獅子でなくても様々なものがいる。扉から入ってきた鬼は獅子ではないが、魔界の王だ。大牢獄の主にして、狼の王。
「こんにちは、牢の魔王」
「……誰だ、てめぇは」
警戒を隠しもしない声色で問われたので、彼はまた笑ってしまった。彼は牢の魔王をよく知っているのだ。
「誰だろうね。はじめまして、鬼ではなく狼か。もしくは保護者かな。ここに敵はいないよ、牢の魔王。魔王議界は非戦地帯だ。争いはご法度」
でも、かくれんぼはアリだ、というと彼は背の高い書架の向こう側の方をちらりと見た。
「でもほら、僕はゲームには参加してないし、教えられないよ”鬼”さん。それはズルになる。だから自分で探して」
ぱらり、と持っている冊子に目を落とす。胡乱なものを見る目で彼を睨んで、それから恐らく書架の向こう側のどこかにいる魔王に声をかけた。
「望。会議始まるぞ」
だが呼びかけに答える声はない。彼は持っていた冊子を書棚に戻した。ため息をついた牢の魔王の横をすり抜け、彼は廊下に出ようとする。すれ違いざまに待て、と呼び止められ、彼は振り向いた。
「何者だ?」
「何者、か……。さぁどうだろうね、牢の魔王。僕がここに在ることがひとつの答えではあるが、その問いから察するにそれは君の望むものではないということだ。そしてそれについて語るには、何しろ時間が無さすぎる。だって、会議、始まるんでしょ?」
「名乗らねぇのか」
「自己紹介が欲しいだなんて君も案外礼儀にうるさいんだねぇ!」
それからくるりと背を向ける。
「災の魔王。どーも、仲良くしなくていいよ」
昔から仲良くできなかったし、と彼は心のなかでひとりごちた。もっとも、彼の知る狼の女王は歴代の牢の魔王の中ではかなり”彼と”対話できる部類ではあった、と彼は思っている。
適当に手を振って、会議室の方へ歩き出した彼の背を牢の魔王はしばらく睨んでいたが、やがて背後に小さな気配を感じて、視線を下げた。片角の魔王は、手の出ていない袖で牢の魔王の脚にまとわりつくと、黒いのもう行った? と牢の魔王に尋ねた。
「黒いの?」
「うん」
望の魔王は廊下のずっと向こうを歩く黒い大きな翼を桜色の瞳で見て、
「やっぱり似てる」
そう呟いた。