@satomi8429
地上ではないくせにやけに現実感のある地面はざらりとしてつめたい。ところどころ乾いてひび割れているのは、座りこんだ俺の心がそのように在るからなのか。
もう何もしたくない。誰とも会いたくない。話したくない。触れられたくない。食べたくもない。いっそ残った右目も、耳も、口も、手足も、なにもかもなくなってしまえばいいのに。一刻も早く死が訪れてくれないかとそればかり願っていた。
それなのに、あの砂かけババアは容赦なく俺を地上へ蹴り落とした。
***
地上は夏の終わり、虫たちがこれを最後と大合唱している夕暮れだった。落とされた拍子に枝にひっかかってあちこち裂かれた簡素な上衣は夕立のせいでずぶ濡れになり、以前よりもいっそう突き出た肩甲骨に不快にはりついた。日没後には湿った風がごうごうと吹き、体温を奪っていく。
「でもあそこよりはましだ。」
俺は自分に向かって呟いた。ババアとそれにまとわりつく幼女たちになんのかんのと話しかけられ返事を要求されるよりは。現実以上に妙な現実感のある世界に繋がれているよりは。本能の赴くまま、里を避けて山へ山へと分け入る。誰にも会わずに済むように、常に人気のなさそうな方向を選ぶようにした。
なぜここに居るのか?ババアに蹴り落とされたからだ。なぜ歩き回っているのか?歩いて来い、と言われたからだ。ババアの要求はいつも意味不明かつ問答無用だった。今まで何度かたてついてみたことはあるが、ことごとく踏みつけられて結局思惑通りにさせられた。そのうち逆らう気力もなくなり、胸の中で反抗心を燃え立たせるだけになっていった。どうせ奴はどこまでもお見通しなのだ。芳准はむすっとした顔のまま、拾った木でこしらえた杖を黒々と柔らかい地面に突き立てた。
***
地上に来てから何日が過ぎただろう。昼も夜も同じような景色が広がり、すでに今日と明日の区別も曖昧だ。体が重くなり、目がかすむ瞬間が増えたことが、時間の経過を物語っていた。数日前にはあったはずの空腹という感覚すら、今ではもうよくわからない。
「おい」
ふと、慌てたような声が耳を叩いた。ババアではない。
「おい!大丈夫か!」
重い瞼をこじ開けると、かすむ視界の中にいたのは壮年の男だった。狩りの途中だったのか背中に死んだ鹿を背負っており、男の顔の向こう側に見える空が青い。ということは、自分の体が仰向けになっている、ということなわけで―。芳准はしばし状況把握に時間を要した。体の感覚に意識を走らせる。どこも痛くはないが、倒れて意識を失っていたということか。
「よかった、殺しちまったかと思ったぜ。」
―殺してくれてよかったのに。
反射的に思ったが、口に出すことはしなかった。正直なことを言うと、ずっと口をきいていなかったため口が乾いてうまく回らなかったのだ。いや、ともごもご応えるだけで精一杯だった。大丈夫、ということを示そうと地面に手をついて立ち上がろうとしたが、その途端体が傾いだ。
「おっとあぶねえ。何日も食ってねえって顔だな。俺んちに来いよ、すぐそこだから。」
支えた腕は現実的で力強く、生きる力を備えたたくましい腕だった。白くて細く、半分死人のような自分の腕とは正反対だと思った。
「こいよ。」
高い声に下を向くと、目の前の男に似た造作の幼子が見上げており、安心しきったように小さな手で芳准の指先を掴んだ。喉元まで出かかった放っておいてくれ、の一言は、その大きな瞳によって封じられてしまった。
山を下るとそこは小さな村だった。歩いている人は少なかったが、昼餉の支度の頃合なのかあちこちの家から湯気が上がっている。不意打ちされた平和な村の風情に足がすくむ。小さな手に手を引かれているので振りほどくこともできずついてきてしまったが、もう無理だ。顔を上げると前を行く男の背で揺れる鹿と目が合った。
「…やっぱり俺はここで」
「あんた坊さんなのか?心配すんなって、この鹿は売りもんだ。肉を食えなんていわねぇからよ。」
鹿を見て気分が悪くなったのかと思ったらしい男が豪快に言った。歩みがのろくなるたびに小さな頭が見上げてくるので、ついに断りきれずに男の家で炉辺に腰をおろすことになってしまった。
(俺は何をしているんだ。)
親友を殺し全てを失って、七星士だなどと生を強制され、死んだも同然で生きているのに。
(何も変わっちゃいないじゃないか。)
何が七星士だ。その中身は優柔不断で情けない李芳准のままだ。
「まあ食えよ。残りもんだけどよ。」
ぐるぐると詮無いことを考えていると、先の男が椀を差し出した。湯気の立つ椀の中の表面を、ふわふわと白いものが覆っていた。両手で椀を包むと、鼻腔を刺激する出汁の匂いに、忘れていた空腹という感覚が堰を切ったように押し寄せてきた。
「坊さんでも豆なら大丈夫なんだろ。白いのは豆腐だから心配ねえよ。」
「…いただきます。」
椀をすすると、味の染みた豆腐が咀嚼どころか舌と上顎を使う必要もなく、優しくとろとろと喉をすべり落ちていく。世界にこんなに美味しいものがあったのかと思った。芳准のとなりにぴったりとくっついて様子を見ていた幼子がそれを見てにこりと微笑んだ。
「うまいだろ。うちのゆし豆腐は紅南国一だからな」
食べたくなどないと思っていたのに体はそれを欲し、触れられたくないと思っていたのに小さな手に心を溶かされ、死という甘い幻想に縋りながら、結局のところ生きることしかできない。芳准は、今は字の出ていない膝を片手で掴んだ。
この肉体を背負っている限り生きるしかないのだ。ならば生きてやろうじゃないか。役目を果たせというのならば役目のために、李芳准ではなく七星士井宿として。
なかばやけくそのような気持ちでそう決意すると、ようやくわかったか未熟者め、と、勝ち誇ったようににやりと笑うババアの声が頭に響いた。
………………
大遅刻ですが、井宿お誕生日おめでとう。
毎年毎年お誕生日のたびに、幸せになってくださいと願っています。
願っているけど暗くてごめんね。
紅南国をイメージする時はだいたい琉球王国なので、今回の主役はゆし豆腐です。
さっき食べた、ゆし豆腐風になってしまったおつゆが美味しかっただけです。