@ayame0601s
「ありがとうございましたー」
間延びした店員の声を背に、コンビニの自動ドアをくぐった。
街灯が、道を心許なく照らし上げる。自分のヒールの音と、手に下げたコンビニ袋が擦れる音しかしない程、辺りは静寂に包まれていた。
夜風に当たったせいか酔いが醒め始め、少しずつ恐怖が顔を出す。
コツ、コツ、と、コンクリートを鳴らすヒールの音。やけに大きく耳に届くそれは、緊張感を煽る。他の足音はしないか神経を尖らせ、意味なく何回も辺りを見渡した。
行きは酔っていたためか、そこまで怖くなかった。けれど帰りは冷静さが生まれ、途端に恐怖が体に纏わりつく。
行かなければ良かった、と今更ながらに後悔した。喉の渇きなんて、我慢すれば良かった。鶴丸がこの事を知ったら、きっと怒るだろう。
そんな事を思いながら、こぢんまりとした公園に足を踏み入れる。ここを横切れば、家までだいぶ近道になるからだ。
街灯はあるけれど、その明かりはなんとも頼りない。暗闇にわずかな明かりが混ざり、公園はぼんやり浮かび上がる。
昼間は子供達で賑わう此処も、夜の闇に支配されると不気味な場所になっていた。
風が吹き抜ける。その拍子に、ギィ、とブランコが揺れた。
思わず肩が跳ねる。足を止め、ブランコを注視した。錆びた音を発しながら揺れるブランコには、他に不審なものがあるでもなく、風が止むとそれに合わせて揺れは小さくなっていった。
こんなにビクビクするなら、公園に入らなければ良かった。草むらにさえ、何か隠れていそうで怖い。
早く、通り過ぎてしまおう。
そう思い、歩き出そうとした、その瞬間だった。
いきなり、ガサッと草をかき分ける大きな音に、息を呑む。
私から見て、右斜め前方の方角からだった。
何かが勢いよく飛び出すような音。続いてバタバタと地面を踏み鳴らす聞こえ、思わず視線をそちらへ向ける。
女の人が、走っている。
ここからは少し離れている上に、暗いため見えにくいけれど、ただならぬ様子ではない。
そしてその人の背後からもう一人、暗闇からいきなり、誰かが姿を現した。そのすぐ直後、二人がもつれて倒れる、派手な音が耳に届く。
背後から追いかけていたその人は、逃げていた女性に馬乗りになる。
下にいる女性は、抵抗するように激しく動く。けれどそれは、馬乗りになっている人物が押さえつける事で、いとも簡単に制された。
そしてその人物が、女性に覆い被さった、次の瞬間。
小さな金切り声が、微かに聞こえた。
それは、闇に吸い込まれるようにして一瞬しか聞こえなかったけれど。喉から張り裂けるような、断末魔にも似たその悲鳴に、足が竦んだ。
女性の体が、硬直したように反っている。
その上に跨がる人物は、女性の首元に顔を埋め、覆い被さったままだ。
──女性の首元に、顔を埋めて。
これまでのニュースが甦る。
遺体は、血液をほとんど抜き取られた状態で。
ある専門家が言っていた。
これは、バンパイアの仕業だと。
首筋には、咬まれたような傷痕があるのだと──。
女性の硬直していた体が、動かなくなった。
一秒一秒が長く感じた。金縛りにあったかのように、その場から動けない。
この場から、立ち去った方がいい。直感がそう告げる。あの人物に、見つからない方がいい。早く。あの人が、他に気をとられている間に。静かに、此処から立ち去らないと──。
そう思っていた、その時。
ドサリ、とすぐ足元で音が立った。
咄嗟に視線を下へやると、さっき買ったコンビニ袋が、地面に落ちている。
緊張で指先まで神経が通ってなかったのか、あろう事か落としてしまったらしい。
ハッとして、視線を前に戻す。
馬乗りになっていたその人が、ゆっくり、体を起こした。
その人の柔らかそうな髪が、風に揺れる。
そしてこちらへ顔を向け、私の姿を捉えた。
──っ!
咄嗟の判断だった。
目が合った瞬間、私は踵を返し、勢いよく駆け出した。
まずい。目が合った。とても危険な気がする。あの人に捕まると、きっと殺される。
恐怖に駆り立てられるように足を動かす。震える体に、無理やり鞭打った。
ヒールで上手く走れない。でも今はそんな事を言っていられない。
早く、早く。とりあえず、さっきのコンビニへ。此処からだとすぐ近くだ。早く、誰かに助けを呼ばないと──。
公園から抜け出し、あと少しでコンビニに着くところだった。
目の前に、誰かが立っている。さっきの人ではなさそうなその人影に、ホッとした。
「す、すみません! 助け……っ」
言った口を、すぐにつぐんだ。
ぞわりと、悪寒がしたからだ。
走っていた足を、少し緩める。
目の前に、人が立っていた。スラリとした体格のその人は、私を見ている。
助けを乞おう。けれど、この人、何かが違う。
違和感を覚えていた時、その人の瞳の奥が、妖しく光った気がした。
瞬時に悟る。この人、危険だ。
足を止め、後ずさった。
長めの前髪で隠れていた片目が、風であらわになる。
私を射ぬくその瞳に、背筋が冷える。
コツ、と、その人が一歩前に出た。それが合図だったかのように、私の体は再び走り出す。
怖い。なぜか分からない。でも、殺される、その感覚が私を支配する。
必死に走った。足がもつれる。うなじから背中にかけて走る悪寒から逃れるように、ただひたすら足を動かした。
家からどんどん遠ざかる。どこに向かっているのか、分からなくなった。行こうとする先々で、先程の人影が見え、私はその度に進路を変更する。
そして誘導されるように、細い路地裏へ足を運んでしまった。
しまった、と思うも、後ろから追ってくる感覚。引き返せない。
そのまま足を進めた。
どうか、この先どこかに繋がっていますように。行き止まりではありませんように……。
けれど、その願いも虚しく。立ちはだかる壁に、絶望感が襲った。
心臓が、恐怖と焦りで忙しなく脈打つ。頭の先から足先まで、血液がすごい勢いで駆け回っている。すがるように、辺りに目を配らせた。どこか、出口は。でも後戻りする以外、出口が見当たらない。
体が震える。泣きたくなるのを、必死に堪えた。嫌だ。死にたくない。それなのに、出口が他にない。
その時、靴の音が響いた。
暗い路地裏に、ゆっくりとした歩調の音。
それは、一人だけのものではない。
心臓が軋む。恐怖で体が強ばる。じわじわと、着実に獲物を追い詰めるようなそれに、息が詰まった。
背後に立ちはだかる壁に、ピタリと背中をくっつけた。どこか逃げ場所がないかと、必死に目を走らせるも、この袋小路の出口は一ヶ所しかない。
その唯一の出口から、二人、暗闇から静かに姿を現した。
「失敗したねぇ。見られちゃうなんて」
一人がそう言う。穏やかな口調に、柔らかい声色。
公園にいた人物だと、すぐに分かった。
顔には苦笑を貼り付けている。
「兄者、殺そう」
もう一人が、口を開いた。
その言葉に、心臓が震え上がる。
この人は、行く先々で道を塞いだ人物。この二人、グルだったらしい。
私を捉える二人分の瞳が、暗闇にぼんやり浮かび上がった。
怖い。逃げなきゃ。けれど私の足は、地に根を張ったように動かせず、体は震える事しかできない。
そんな間にも、彼らはどんどん私と距離を縮める。
「うん、そうだね。殺っておこうか」
兄者と呼ばれたその人は、微笑をたたえ、私から目を離さずそう言った。
ゆっくり、私に近づく。
嫌だ。来ないで。怖い、死にたくない……!
その思いだけが頭を占める。歯が、カタカタと鳴り出した。涙が視界に膜を作り出す。
「女性が、こんな夜中に一人で歩いていたら危ないよ。物騒な事件が起こっている事、知らないの?」
緩和な笑みを浮かべながら、小首を傾げるその人は、歩みを止めない。
その人から少しでも離れるように、背中で壁を強く押した。それで壁が動くはずもないのに、それしか出来ない。
「怖い? 大丈夫。すぐ終わるから」
すぐ目の前まで来たその人は、目元を柔らかく細めた。
けれど、その瞳は冷たくて。
温度のない視線に、体が縛り付けられる。
スッとその人の手が、私の首元に伸びてきた。
冷気を纏うその手に、肩が跳ねる。心臓を、内臓を鷲掴みにされているような感覚。
いよいよ、殺される。
溜まっていた涙が溢れ落ちた。
死にたく、ない──。
「あ……の、」
震える声を、絞り出す。最後の足掻きだとは、分かっていた。
目の前の男性は、伸ばしたその手を止める。そして不思議そうに片方の眉を軽く吊り上げ、私を見やる。
止まった。話は、聞いてくれるのだろうか。カラカラになった喉から、無理やり声を外に出す。
「あ、の……何でも、します。何でもします、から、命だけは」
恐怖から、言葉が途切れ途切れになってしまった。
これで助かるとは、あまり思えなかった。けれど、何もしないで殺されるよりは、何かにすがれるなら、すがりたい。
男性は先程の笑みを消し、じっと私を見つめる。
感情が読み取れないその表情に、思わず目を逸らしたくなるも、我慢する。目を逸らしてはいけない気がした。恐怖心は、ずっと胸の中に居座っている。震える歯を抑えるように、唇を強く噛み締めた。
男性は、薄く唇を開く。
「何でも?」その唇が動いた。
一瞬、理解が遅れる。まさか、希望が見えるとは思わなかったからだ。けれど理解した途端、私は彼の気が変わる前にと、その問いかけに頷いた。
目の前のその人は、それを見届けると「うーん」と考えるように、視線を上へ泳がせる。
「それじゃあ、君は僕達が飼う事にしよう」
予想もしてなかった言葉に、目を見開く。
男性は、微笑んだ。
かう……飼う?
「兄者!」
男性の後ろから、声がした。咎めるような声。その声の主も、こちらに近づいてくる。
兄者と呼ばれているその人は、声の主へ視線を移した。
「何だい?」
「兄者、冗談だよな?」
「いや、まじめだけど」
その言葉に、もう一人の男性は眉をしかめたまま、目を丸くする。
「本気か?」
「うん」
「こいつに、俺達の正体がバレたんだろう」
「そうかな? 君はどう思う?」
目の前の人は、そう私に問いかける。その時、寄越された視線に、背筋が凍りついた。
嘘は、許されない。
その鋭い視線に、小さく、首を縦に振った。
その人は、私の答えに満足するように、笑みを深めた。
「ありゃ。バレちゃったみたいだね」
「それなら尚更、此処で殺しておこう」
「うーん」
「兄者!」
対照的な二人を、ただ見ている事しか出来ない。
兄者、という呼び名から、この一見柔らかく見える人が兄で、その兄の意見に反対している人が弟なのだろうか。
兄らしき人は、弟に向かって口を開く。
「大丈夫だよ。この子、嘘はつけないから。きっと飼いやすい」
「そういう問題じゃないだろう。嘘がつけないなら、簡単にバラす可能性もあるぞ」
「まあ、その時は殺そうか。今日死んでおいた方が良かったと、思えるくらいの殺り方で」
その言葉に、うなじの毛が逆立った。
冷淡な微笑みを、私に向ける。
「僕達がこの街にいる間、一緒に暮らしてもらうよ。生活は通常通りでいい。ただ、たまに少し血を分けてもらおうか」
笑みを絶やさないその人を、注視する。
血を、分ける。
この人達が何者なのか、なんとなく、本当に曖昧な予想でしかなかったけれど。
その言葉で、よりはっきりした認識へ変わった。
男性は言葉を続ける。
「もちろん、誰にも僕達の事を言っちゃだめだよ。もしバラしたら、さっき言った通りだから」
さっき言った通り。頭の中で、その言葉を噛み締める。
今日死んでおいた方が良かったと、思えるくらい。
もしバラした時、どれだけ残虐な殺され方になるのか想像すると、ゾッとした。
「いいね?」
彼の問いに、大きく頷く。体の震えは止まっていない。
「うん。いいこ」
そう言って、私の頭に手を置いた彼は、私と目線を合わせるように軽く屈んだ。思わず、その動作に戦慄する。
彼の瞳と、間近で視線が合った。
暗くて分かりにくいけれど、色素の薄そうな瞳は、日本人のそれではない。
ただ、その瞳の奥は、ひどく冷めたもので。人間のものでもないように感じる。
この場で殺される事は無くなったのだろうか。
静かに視線をずらし、弟らしき人へ目をやると、彼は不快感をあらわにして私を見ていた。
咄嗟に、視線を避ける。
「君の名は?」
すぐ目の前の人に聞かれる。一度唾を飲んで、怖々と自分の名を答えた。
私の名を耳にした彼は、確かめるように呟いた後、自分の名を口にした。
「僕は髭切、で、こっちの弟が……」
「膝丸だ」
膝丸と名乗ったその人は、素っ気なく言い放つ。
髭切、と、膝丸。
てっきりその風貌から、ましてやバンパイアという事から、外国人だと思っていたけれど。イメージとかけ離れた組み合わせに呆気に取られていると、不意に名前を呼ばれ、髭切と目を合わせる。
「これからよろしくね」
そう言うと、彼は私の頭に置いていた自身の手を、私のうなじへ滑らせる。
心臓が緊張したのも束の間、彼は唇を、私の首筋へ這わせた。
ひんやりと冷たい彼の唇が、首元に触れる。
そして痛みも感じる事なく、いきなりふっと、目の前が真っ暗になった。