@ayame0601s
タクシーに乗り込んだ後、髭切に言われた通り、なるべく遠回りして帰宅した。
乗車中、窓の外で移り変わる景色をただ視界に入れながら、先程までの会話を思い出す。
今日の彼は、幾分柔らかい雰囲気に見えていたのに。それこそ、殺されそうだった事を忘れるぐらいに。
けれどそれが変わったのは、あの電話の直前だ。変わったというか、戻ったというか。
弟との別行動を訊ねたあの時、彼は後ろを気にしていた……気が、する。その直後、鳴った携帯。相手は、弟の膝丸だったのだろうか。彼は私を見送ったあの後、膝丸と合流したのかもしれない。一体、何をしに……?
そこまで考えて、軽く頭を振る。考えたって分かるはずもなく、むしろ考えない方がいいかもしれない。あまり良い予感がしないのは確かだった。そう思わせるような雰囲気を彼は纏っていたし、その雰囲気は、私の胸の奥にある恐怖心を呼び起こすには十分なものだった。
結局この日、夕飯までに彼らは帰ってこず、一人で昨夜のカレーを食べた。昨日と違い緊張感がまるで無く、カレーも2日目とあってか、熟成されて美味しく感じる。
あの二人が居ると、体の細胞全てが緊張しているような感覚だけれど、今は筋肉も弛緩していて、こんなにも違うものなのか、と苦笑が漏れる。一人って楽だったんだな、としみじみ感じ、こんな時間もこの先あまり持てないのかと思うと、自然と溜め息が出た。
彼らが帰ってきたのは、8時を過ぎた頃だった。
入浴も済ませたし、早々に自室へ上がってしまおう。そう考えながらまさに洗面所から出た途端、想像より少し早めに帰ってきた彼らと鉢合わせてしまった。
洗面所から廊下に出たちょうどその時、つい先程帰ってきたであろう髭切と膝丸が、玄関からこちらへと向かって来るところだった。
彼らの姿を捉えた途端、ああしまった、もっと早く済ませておくべきだったと後悔するも、直後襲ってきたゾクリとした悪寒に、体が硬直する。
兄弟は、兄でさえも表情が無く、殺伐とした空気を身に纏っている。
彼らから放たれている冷気に、肌が総毛立った。
「ただいま」
髭切は私に気づくと、いつもの笑みを作って言った。けれど、冷たい瞳は少しも笑っていない。
一瞬のうちに喉が渇き、恐々と口を開いた。
「おかえり、なさい。早かったですね」
「うん。事がすんなり運んだから」
話しながら近づいてくる彼に、つい後退りたくなるも、あまりあからさまな事はするべきでないと我慢する。
髭切の後ろにいる膝丸に目をやると、彼は私を見下ろす目を細めた。逃げ出したい衝動を抑えながら、目を逸らす私に「夕飯食べた?」と髭切が訊ねる。
膝丸から逸らした視線を、髭切へ戻した。
「あ、はい。明日は仕事なんで、もう二階へ上がろうかと」
「そっか。ゆっくり休んでね。おやすみ」
そう言って視線をこちらへ向けながら、彼は私の前を通り過ぎた。おやすみなさい、と軽く頭を下げた時、鼻を掠めたにおいに、ハッとする。
視線を床へ落したまま、膝丸も通り過ぎた事を確認すると、静かに彼らの背へと目を向けた。
鉄の、におい。
彼らから漂ってきたのは、血のにおいだった。
*
次の日からは、比較的穏やかに過ごす事が出来た。
私が起きて一階に下りる時には、兄弟はすでに居間で各々くつろいでいた。
兄はテーブルで紅茶片手に新聞を読み、弟はソファーに座ってテレビを観る。それが彼らの日常のようで、私はそこでいそいそと朝食を食べる、という図が定着してしまった。
最初の頃は、朝食をコンビニで買って会社へ行こうかと思ったのだけれど、居間を覗いた時に見えたパンとジャム類に、その選択肢を渋々胸の奥にしまう。テーブルの上に置かれたそれらは、人間の食べ物を好まない彼らが、わざわざ私のために用意してくれたものだろう。
「おはよう」と私に笑顔で挨拶してくれる髭切は、朝日の効果もあってか柔らかい表情に見えるし、せっかく用意してくれたのだからと、高価そうなジャムを堪能する事にした。
日中、特に家でくつろぐ彼らは、本当に普通の人間のように見えた。私達と、何一つ変わらないような。まさか人間の血を飲み、その姿で何十年も何百年も生きる生き物だとは到底思えないほど、その外見だけでは判断できない。
この二人をバンパイアだと認識していても、時々ふと、信じられないような、疑問に思ってしまう時がある。
世界中を探せば、彼らのような存在が、他にもまだいるなんて。人間社会に溶け込みながら、長い時を渡り歩く存在が他にもいるとは、いまだに実感の湧かない部分があった。
けれど私は、その事実を再び目の当たりにする事になる。
それは、休日の昼間の事だった。
彼らの友人──もちろん、人間よりも長い時を過ごしてきたバンパイアなのだけれど──が、家を訪ねてきたのだ。
玄関のドアを開けると、そこには居たのは大層なイケメンさんで、彼は私を見るなり目を丸くした。
私が玄関のドアを開ける事になったのは、たまたまだった。普段、誰かが家のベルを鳴らしても、極力出ないようにしている。この家の主は兄弟であり、私はあくまで飼われている身だからだ。
それなのにこの日、来客を出迎える事になってしまったのは、居間に行ってしまったためだった。それに加え、兄弟が忙しかったためでもある。
話は、来客が来る数分前に遡る。
この日、休日にも関わらず仕事を家に持ち帰る羽目になった私は、自室でパソコンとにらみ合いっこをしていた。まさか休みの日まで仕事とは、と拒絶反応を起こした脳みそが、シャットダウンを起こしかける。
しょうがないので眠気覚ましにコーヒーを淹れようと、仕方なしに居間へと降りると、そこには髭切と膝丸が二人並んで、食い入るようにテレビ画面を見ていた。
いつも昼間は出掛けているのに、今日は珍しく家にいる。そして部屋には「ファイヤー!」「アイスストーム!」などという、テレビから発せられた、なんとも懐かしく可愛らしい声が響き渡っていた。
そう、二人はなんと、ぷ○ぷよをしていたのだ。
「く……っ! 兄者、やってくれたな」
ジュゲム! までで連鎖が止まると、膝丸が悔しそうに言った。そんな彼を見て、目を見張る。
冷たくて恐怖の対象でしかない膝丸が、ゲームに夢中になって、悔しがっている。
対する兄、髭切も、笑顔は絶やさずに、本気で弟と対戦している。
そんな二人が夢中になっているのは、何度見てもぷよぷ○だった。あまりに可愛らしいギャップに、知らずと立ち止まってしまったけれど、我に返ってコーヒーを淹れるべく準備を始めた。
「兄者、これでも食らえ!」
「うわっ」
膝丸は2プレイヤーなのだろう。いてっ! やったなー! から始まって連鎖が続き、最終段階の「うわぁぁー」というセリフが響いている。確か、ある程度連鎖が続くとセリフがそこから変わらない事を思い出し、何回かその「うわぁぁー」という叫び声を耳にした。
一体、何連鎖したのだろう。大分打撃になったに違いない。
「ありゃー。参ったね」
「どうだ。勝負あったな」
「ん、まだ分からないよ」
髭切がそう言った直後、兄の反撃が始まった。弟に負けじと続く連鎖。なんだろうこの攻防、すごいな、と思わず感心する。こんなにも簡単に連鎖って出来るものだっただろうか、なんて思っていた、その時だった。
ピンポン、と玄関の呼び鈴が鳴る。
誰か来た、と兄弟に目配せするも、あいにく二人ともゲームに忙しい。そんな中、再び呼び鈴が鳴る。
どうしよう、でも私が出るわけもいかないだろう、とソワソワしていると、弟に攻撃を仕掛けながら「ごめん、出てくれるかな」と髭切が申し訳なさそうに言った。
私、飼われている身なんですがいいんでしょうか、という言葉は呑み込み、代わりに、「分かりました」と一言返して玄関へと出向く。
そしてドアを開けると、そこには大層なイケメンさんが居た。
膝丸のように長めの前髪は右目を隠し、あらわになっている左目は、私を注視する。オリーブ色の瞳と髪色は日本人のそれではなく、おまけにこの恐ろしく整った姿形は、居間でぷよ○よをしている兄弟を彷彿させた。
イケメンさんは数回瞬きをして、固まっている。たまらず「あの……」と声をかけると、彼は、はたと我に返ったのか口を開いた。
「すまない。どうやら間違えたようだ」
「えっ」
謝罪の言葉を述べた彼は、踵を返して帰ろうとする。そんな彼に対し、咄嗟に声を張った。
「あ、の! 髭切さんと膝丸さんに用があったのでは」
私の呼びかけに、足を止める。そして振り返った彼は、再び目を白黒させて私を見た。
「ああ、そうだが……ここは、やはり彼らの家か?」
「はい。二人とも中に居ますよ」
どうぞ、と中へ促す。そんな私を不思議そうに見た彼は「……邪魔をする」とどこか上辺で呟いた。
居間へ彼を案内すると、一段落ついたのか、連鎖の声はもう聞こえなかった。
晴れ晴れとした笑顔の髭切と、その隣で落ち込んでいるようにうなだれていた膝丸は、私達が部屋に入るとこちらへ視線を向けた。
「久しぶりだね。待ってたよ」
髭切が来客に向かって言う。その後、私に「出てくれてありがとう」と声をかけたため、お役目は終わったと彼らに軽く会釈をし、いそいそとコーヒーを淹れる準備に戻った。
コーヒーを淹れながら、彼らを盗み見る。古くからの知り合いのように、彼らの表情は穏やかなものだった。だとすると、あのイケメンさんも、バンパイアなのだろうか……そんな事をぼんやり考えていれば、髭切が「ああ、そうだ」と思い出したように口にした。
「紹介するね。彼女、僕らの同居人」
いきなり話題がこちらに振られ、びくりと体が震えた。
視線が私に集まる。飼い人、というわけではない、同居人、という紹介の仕方に若干驚きつつも、私は会釈をし、自身の名前を名乗った。
私の名を聞き取った彼は、同様に会釈を返した。
「俺は鶯丸。よろしく頼む」
客人と挨拶を交わす。これはまた、髭切や膝丸同様変わった名前だと思いながら、鶯丸と名乗ったその人の整った顔を見た。
彼はこの状況に理解が追いついていないような、腑に落ちていないような、なんともいえない表情をしていた。
そんな彼の心情を察してか、膝丸が口を開く。
「鶯丸、彼女は人間だ」
膝丸は簡潔にそれだけを言った。いくらなんでもそれだけでは説明不足では、と思うも、私自身が追加説明をできるわけもなく。
それにこの言い様、やっぱり彼も兄弟と同類らしい。
鶯丸は、膝丸や髭切と、私とを交互に見る。その後「そうか」と呟いた。
「何か事情があるんだろうが、まあ細かい事は気にしないでおくか」
そう言って、微笑んだ。
え、それでいいのだろうか、と思ったけれど、彼は本当にそれでいいらしく、先程までの不思議そうな表情は消えていた。ただ単に、私が本当に人間かどうかを確かめたかっただけなのだろうか。
鶯丸は私からテレビ画面へと視線を移すと「ところで、それはなんだ?」と問いかけた。それに対し、髭切が「ああ、これ?」と答える。
「これ、弟が買ってきたんだ。ふよふよ、だっけ? そんな感じの」
「兄者、惜しいが正解はぷ○ぷよだ」
聞こえてきた会話に、思わず二人を凝視してしまった。そのやり取りは、普段の二人からは想像も出来ないようなもので。
どこからつっこめばいいのだろう、とりあえず髭切のどこか抜けた発言もそうだけれど、え……そのぷよぷ○、膝丸が買ってきたんですか……?
心の中で沸いた疑問を察知したのか、はたまた驚きのあまり二人に注いだ視線が強すぎたためか、膝丸は私へと目をやった。勢いよく視線がぶつかり、反射的に体が硬直する。
私と目が合った膝丸は、訝しげに眉をしかめるものだから、その視線から逃れるように目を逸らした。
膝丸がぷよ○よを……と半信半疑で頭の中で呟きながら、自分用のマグカップにコーヒーを注ぐ。
「あ、しまった。ごめん忘れてた」
ふと呟かれた髭切の言葉に、そっと彼へ視線を向けた。彼は苦笑しながら鶯丸に言葉をかけていた。
「君のために茶葉を買ってくるの、すっかり忘れてたよ」
「ん? 茶は無いのか」
「うん。僕達、普段はお茶飲まないから。紅茶ならあるけど」
「俺は茶が飲みたい」
眉を下げながら言う鶯丸は、相当お茶が飲みたいらしい。
「コーヒーもあるぞ」とこちらを横目で見ながら言った膝丸の言葉にも、鶯丸はあまり気が進まないように見える。
彼は大層、残念そうに肩を落とした。
「あの……私、買ってきますよ」
彼が、あまりにも残念そうにしているから。思わず出てしまった申し出に、視線が一気に私へと集まった。
注がれた視線にたじろぐ。三人とも美形だからか、その目力に圧倒されてしまい、言わなければ良かったと若干後悔した。
居心地が悪く、紛らわすようにもう一度口を開く。
「夕飯の食材も買いに行くので、ついでに買ってきます」
本当は、夕飯はある物でなんとかしようと思ったけれど、ついでの理由をこじつける。
「いいの?」という髭切の言葉に頷いたタイミングで、鶯丸が口を挟んだ。
「そうか。なら俺も行こう」
予想外な言葉に、彼へと目をやる。鶯丸は、こちらを見て微笑んでいた。
そんな彼の言葉に、これまたニコやかに髭切が「うん、それがいいよ」と言う。
「お茶、こだわりあるもんね。行ってらっしゃい」
そう言われてしまったら、断れるはずもなく。どこかで似たような場面があったのを思い出しながら、私は鶯丸と買い物に行く事となった。
二人きりで、しかもさっき初めて対面した人との買い物は、さぞかし気まずいだろう。
そう身構えていたけれど、初対面特有のソワソワとした居心地の悪さは、案外あまり感じずにすんだ。彼の持つ雰囲気のためかもしれない。
雀を見て「可愛いな」と呟いたり、穏やかな空を仰いで「こういう日は、庭で茶を飲みたい」という言葉は、なんとも和やかな気持ちにさせてくれた。
そのため変に気を張る事もなく、たとえ会話が途切れても、彼は自分が感じ取った事を自分のペースで呟くものだから、無理に会話をしなくては、という焦りも生まれない。
本当にのどかな、老後はこんな感じなのかと錯覚するぐらい穏やかものだった。
「あの兄弟に目をつけられるとは、君も災難だったな」
帰り道、鶯丸はふと思い出したように言った。
彼も髭切と同様、さりげなく買い物袋を持ってくれたり、道路側を歩いてくれたりと、とても紳士だった。そしてそれがやっぱり自然体なのだから、あの兄弟と同じくらい生きているのなら、年の功……からなのだろうか。
彼の言葉に「目をつけられたというか」という前置きをして、今までの経緯を話す。
全て聞き終わった後、彼は「それもそれで災難だろう」と言って笑った。
「まあ関わってしまった事は災難だが、殺されなかった事は不幸中の幸いだったか」
「そう、ですね」
「あの兄弟は、基本的に容赦ない。仲間内には気立てがいいが、その他には情けをかけないからな」
その言葉に、そうなんですか、と相づちを打ちながら、路地裏に追い詰められたあの日の事を思い出す。
あの日の事は、時々夢にも出てくるくらい、私にとってトラウマになっている。それほど本気で殺されると思ったし、恐怖を感じた。だからあの時殺されなかったのは、確かに不幸中の幸いだったと思う。
「確かにあの兄弟は、無情な所もあるが」と鶯丸は続ける。
「弟はああ見えて優しい面もあるし、兄の方は見た目通り、滅多に怒る事がない奴だ」
「え……あ、そうなんですか……?」
「ああ。見たところ君は気に入られているようだし、よっぽどの事がない限り大丈夫だろう」
「はあ……」
笑みを溢して言う彼に、曖昧な返事しか口から出てこない。彼の言う事を、すんなり信じる事か出来ないのが本音だった。そこで、ふと思う。
あの兄弟には警戒心が拭えないのに、どうしてこの人は大丈夫なのだろう。同じバンパイアなら、恐怖の対象のはずなのに。
直接何かされたわけじゃないからか、それとも、あの兄弟のような冷酷さをまだ目の当たりにしていないから、だろうか。
「あの……貴方は、二人の仲間なんですよね?」
確認するように問いかけてみると、隣を歩く彼は私を見下ろし、目を見開いた。しかしその後すぐ相好を崩し、小さく吹き出す。
「はは。今頃だなんて、君は面白いな」
「一応、確認しておこうかと」
「ああ、俺もあの二人と同じだ。そうは見えないという事か?」
「そうですね……あまり」
「そうかそうか。なら、試してみるか」
「……へ?」
予想外な言葉に、間の抜けた返事を返す。目元を和らげた鶯丸の視線とかち合った。
「え、試すって、えっ?」
「あの兄弟と同じ事をすれば、証明できるだろう?」
「え! いや、あの、遠慮しておきます」
「まあ、こんな道端ではしないさ。また後で」
かみ合っていない会話をしながら、彼は穏やかに、しかしどこか楽しそうに笑った。
鶯丸の「試す」発言を聞いた後、私の胸の内には彼に対する警戒心が生まれてしまい、どこか落ち着かない気持ちに支配されていた。にも関わらず、当の本人は言った事すら忘れたようだった。
帰ると早々にお茶をいれ、再びぷよぷ○で熱戦を繰り広げている兄弟達の近くに座り、お茶を啜ってその様を眺めていた。その三人の様子は、どう見ても普通の人と変わりない。途中、兄弟に誘われ、参戦している鶯丸の姿は、久しぶりに会った気心知れた友人との時間を楽しんでいるようだ。
その様子から、私にはもう接触してこないように見える。
さっきの発言はきっと冗談だったのだろうと解釈し、内心でホッとしながら、温め直したコーヒーを手に二階へ上がった。
仕事も一段落し、椅子の背凭れに凭れながら伸びをする頃には、部屋の中は窓から差し込んだ茜色の夕陽で染まっていた。
あれから何時間経ったのだろう。集中し、酷使した目を労るように目頭をマッサージした。疲れが一気に襲ってくる。このままベッドにダイブしたいところだけれど、そろそろ夕飯の準備をしなくてはいけない。
一人暮らしなら、確実にベッド行きだった。そのまま軽く眠ってしまっただろう。けれど、カレーを一緒に食べたあの日から、髭切とは食事を共にしているため、そんな事は出来ない。
そういえば、鶯丸は食事どうするのだろう……そう考えていた時、部屋にノック音が響いた。あまり部屋をノックされる事がないためビクリとしつつ、はい、と答える。
「失礼する」と言いながらドアを開けたのは、鶯丸だった。
「ああ、起きていたか。あまりに静かだったから寝ているのかと思った」
彼の浮かべた笑みは、柔らかいものだった。
何故だろう……この人の話し方と声は、妙に安心する。
「仕事が終わらなくて」と言いながら立ち上がろうとした私を彼は制し、部屋に入ってくると、机に湯飲みを置いた。
小さく湯気が漂う緑茶の水面には、茶柱が立っていた。
「わっ! すごい、茶柱立ってるじゃないですか」
「さっき君のためにいれたら、たまたま浮いてきたんでな。そのまま持ってきた」
「え、私に?」
「思ったんだが、少し疲れているんじゃないか。茶でも飲んでゆっくりするといい」
その言葉に驚きつつ、ありがとうございます、とお礼を言う。鶯丸は笑顔のまま「無理をすると、良い事なんてないからな」と続けた。
「人間では今、過労死が流行っていると聞いたが」
「流行っているというか……そういう話もぼちぼちあるみたいですね」
「長く生きられないのに、大変だな。もっとのんびり過ごせばいいものを」
「生きていくためには、働かないといけないですから」
鶯丸の言葉に苦笑しながら答える。それを聞いた彼は「そうか……」と何か考えるように視線を上にずらした。
「君は、あの兄弟に養ってもらっているんじゃなかったのか?」
「うーん、養ってもらっているというか、飼われているというか……」
そう言いつつ、でも食費だったり光熱費だったりは払ってもらっている事を思い出す。
せめて半分でも払うと申し出た時、「君を飼うってそういう事だから」と髭切に言われて、頑なに拒否された。
「今は確かに養ってもらってますけど」と訂正しながら言葉を続ける。
「彼らと一緒に過ごすのは、彼らがこの街にいる間だけですし」
「そういう契約か」
「契約……まあ、はい。なので仕事は辞められませんね」
私のその言葉に彼は、何かを言いたげな表情を寄越した。
「君は……いや、今のままの方が生きやすい世の中か」
「え?」
「いや、気にするな。独り言だ」
そう言って、さて、と呟く。
「俺はそろそろ帰るとしよう」
「あ、そうですか……会えて良かったです。バンパイアにも、貴方のような方が居ると知れたので」
すっかりバンパイアが恐怖の対象になっている私にとって、彼のように穏やかなバンパイアもいる事は、少し印象が良くなった。といっても、この短時間で彼の全てが分かったわけではないし、彼も人間の血を吸う事は変わりないのだろうけれど。
けれど、買い物に行った時に彼の口から呟かれた言葉の一つ一つは、本当に温かく、和むものがあった。
それにしても、ここまでバンパイアの存在をすんなり受け入れるようになってしまったなんて。少し前の私だったら想像もしていなかったな、なんて内心で苦笑していた、その時。
鶯丸は思い出したように「あ」と言葉を溢した。
「そうだ。すっかり忘れていた」
そう言ったかと思えば。
彼は手を机に置くと、椅子に座る私を覗き込むように、腰を屈めた。
いきなり近づいた距離に、心臓が跳ねる。
「なっ……あ、の、なんでしょう」
「俺の事を証明する約束だったな」
「え! いや、約束はしてませんし疑っていないので大丈夫です」
焦りから、早口でまくし立てる。けれど彼にとって私の訴えはどうでもいいのか、いきなりスッと手を伸ばすと、私の首筋に指先で触れた。
体に、緊張が走る。
鶯丸は目を伏せ、私の首筋に視線を落としている。夕陽が、彼の睫毛の影を頬に落とした。作り物のような、美術品のような美しさに、心臓は早鐘を打ちつつも言葉を失う。
「この痕は、どちらのものだ?」
唐突に質問され、我に返った。
彼の触れている左側の首筋と、痕、という言葉から、頭の中で答えを繋ぎ合わせる。
「これは……髭切さんが」
「ああ、兄の方か。弟は君の血を吸わないのか?」
「いえ、そんな事はないんですけど、」
言いながら、ふと思った。弟は兄よりいささか強引に、それこそ咬み殺されるのではないかという勢いで首に触れるものの、そういえば吸った痕がつかなかった。
その違いに思考を巡らせていると、鶯丸はクスリと笑った。
「なるほどな。彼は大分、独占欲が強いと見える」
そう言い、細められた目元にドキリとするのも束の間。
彼は、私の首元の髪をかき分けると、そのまま首筋に顔を埋めた。
流れるような自然な動きに、抵抗を示す時間もなく。彼の髪から香る、ほんのり甘く優しい香りが鼻を掠め、首筋に添えられた唇の感触で、やっと状況を理解した。
彼の唇が、肌を食むように動いた瞬間、甘い疼きが全身へ広がる。神経が蕩けるような感覚。脳にまで浸透していくそれは、情事の時に感じるものと同じで、思わず鼻に抜ける吐息が漏れてしまい、咄嗟に抑えた。と同時に、混乱しつつ鶯丸の肩を押す。それに従うように、彼はゆっくりと私から離れた。
この感覚は、膝丸に血を吸われた時のものと同じだった。
あの時は一瞬だったけれど。ただ唇が触れているだけなのに、強すぎる感覚に困惑する。
乱れた息を無理やり整えてから鶯丸を見上げると、彼は親指で唇をぬぐっていた。
「ご馳走さま。気分は悪くないか?」
至って普通の声色で、普通の笑顔で彼は言った。獲物を仕留めるような瞳でもなく、かといって悪びれた様子もなく、今まで話していた会話と同じトーンだった。
その普段通りの調子に、どう対応すればいいのか困ってしまった。いきなり血を吸われた事に抗議したいものの、こちらの気分を気遣う優しさを見せられては、なんと言っていいのか分からない。
「気分は……大丈夫です、あまりクラクラしてないですし」
「そうか。なら良かった」
「でも、あの、いきなりで驚きました」
結局、控え目に言ってみたものの、彼は「ああ、すまなかった。今度はちゃんと前置きをしてからにしよう」と、良い笑顔でそう言った。その様子に、なんとなく体の力が抜けていく。
恐怖の感情を抱かないのは、やっぱり彼のこの雰囲気が影響しているに違いない。
感じる妙な脱力感に、小さく息を吐いた。
「さて。滅多に怒らない髭切が、どう反応するか楽しみだな」
そう言って、彼は満足そうに顔を綻ばせた。
どういう事か分からず、理由を聞いてもいいものか悩んでいると、彼は「あまり無理するなよ。それじゃ、また」と言って部屋を出ていった。
なんとも不思議な人だった。緊張はしたけれど怖さは感じず、貧血もあまり感じていないため、本当に血を吸われたのか疑いたくなる程だったけれど。
その後、夕飯の支度をする私を見た髭切は、私の首元に目を向けると、微かに眉を寄せていた。