@ayame0601s
彼らの友人である鶯丸が来てから、私の中でバンパイアという存在が、より一層身近なものになってしまった気がする。
髭切と膝丸と共に過ごすこの生活も、いまだに緊張感はあるものの、少しずつ日常として馴染んできていた。
仕事に集中している間は彼らを忘れる事が出来るし、家に帰っても時間を共にするのは夕飯の時だけだ。その時は他愛ない話をする程度で、だんだんと髭切に対しては慣れてきたように感じる。膝丸……に対しては、相変わらずだけれど。
膝丸は、自ら私に話しかける事をほとんどしない。それでも、避けている、という訳ではなく、私が居ようが居間には来るし、自分のペースは乱さなかった。
しかし、避けてはいなくても、嫌われているのは伝わってくる。
たまに合う視線は鋭く射ぬくようなもので、更にごくたまに交わす一言二言の会話も、ひどくぶっきらぼうなもの。
やっぱりどうしても、彼に対する恐怖心や苦手意識は拭えなかった。そのためか、彼の溢す言葉には、いちいち過敏な程びくついてしまう。
「煩わしいな」
それは、いつものように朝食をとっていた時だった。ふと溜め息と共に聞こえてきたその言葉に、びくりと肩が跳ねる。
ほとんど反射のようなものだった。パンにジャムを塗っていたその手を止め、恐る恐る膝丸を見る。
もしかして、自分に言っているのではないかと思ってしまったのだ。けれど彼と目が合う事はなく、私の視線はただの一方通行なものに終わる。
ソファーに座っている膝丸は、どうやらテレビの内容について呟いたらしかった。
「ああ、今日は随分と賑やかそうだねぇ」
髭切の呑気な声が、斜め前から聞こえる。彼は読んでいた新聞から、テレビへと視線を向けていた。
釣られるようにして、私もテレビへと顔を向ける。そこに映っていたのは、奇怪なメイクや格好をした人々の群れだった。
今日は10月31日。所謂、ハロウィンだ。
テレビに映っているのは、おそらく昨日のものだろう。毎年のように、この時期の街中は人で溢れかえっていた。
膝丸はどうやら、この人混みに対して言っていたらしい。
「君はさ、今日仮装したりするの?」
突然そう問われ、テレビから髭切へ視線を向ける。頬杖をつく彼は、微笑をたたえながらこちらを見ていた。
彼の問いに、いいえ、と首を横に振る。
「今日は、仕事なので」
「終わった後とかしないの? 今日ってそういう日なんだよね?」
「そうですね……でも私は仕事も遅いので、真っ直ぐ帰ってくるつもりです」
言いながら、楽しみのない人生だと思われやしないか、と不意に心配になる。けれど髭切は、その様に受け取らなかったようで、「うん、今日はその方がいいかも」と穏やかな口調で言った。
「昨日も、結構騒動があったみたいだし」
そう言った彼は、再びテレビを見やった。ニュースでは、いまだにハロウィンについて話している。
大勢が集まってしまうと、人間というのは心の箍が外れやすくなってしまうのだろう。今年に限らず、毎年ゴミの問題だったり、迷惑行為だったり、騒動が問題となっている。
昨夜はどうやら、派手な喧嘩が起きて怪我人が出たらしい。
「僕達は今日、遅くなるけど。君は普段通りにしていてくれていいから」
付け足したその言葉に、ハロウィンに参加してくるんですか? なんて冗談でも言おうかと思ったけれど、言葉を呑み込む。おそらく、一連の事件についてだろう。
ただ、分かりました、とだけ頷いた。
彼らは今夜、遅いらしい。それなら帰りに少し寄り道しようと、朝からそう考えていた。
寄り道と言っても、ただ自宅に行くだけだ。今まで住んでいた、賃貸マンション。私物はある程度持ってきたつもりでも、生活しているとどうしても足りない物が出てきてしまい、それらを取りに行くつもりだった。
仕事が終わり、いつも帰る方向とは別の方角へ足を向ける。むしろ、こちらの方が帰り慣れた道だった。
彼らから解放されて、日常が戻るのは一体いつなのだろうか。そもそも、解放される日は本当に来るのだろうか……。
そんな事をぼんやり思いながら慣れ親しんだ道を帰れば、いつの間にかマンションに着いていた。予め持ってきておいた鍵を取り出し、部屋に入る。そこでふと、気がついた。
電気を一時的に止めているのだ。
なぜもっと早くに気づかなかったのかと、後悔する。夜のこの時間、明かりがなければ、部屋の中は入るのを躊躇うほど真っ暗な闇で包まれていた。けれどせっかく来たのだからと、携帯のライトで照らしながら、素早く必要な物だけを持ち出した。
自宅からあの兄弟の家へは、電車を使う必要がある。その際、どうしても繁華街を通り抜けなければいけなかった。
そこはもう、人波でごった返していて。今朝、テレビで観たような光景が広がっている。
普段の街中では見ないような、奇怪で様々な格好をした人々がひしめく。中にはもちろん、吸血鬼の格好をしている人もいた。それはおとぎ話でよく見るような、黒いマントだったり、強調された牙だったり。一連の事件があるからといって自粛するどころか、むしろ少し多い気もする。
本当のバンパイアはそんな格好をしないと知った時、あの人達はどう思うのだろう。特徴など全くなく、私達人間と、同じ姿形なのだと。
しかし逆に言える事は、それならこの人混みに紛れ込んでいても、全く分からないわけで。
そう思ってしまうと、少し怖くなり始める。この世界には、あの兄弟以外にもバンパイアが息を潜めているのだから。もしかしたらこの場に、問題となっているカルト集団が居るかもしれない。もしそうだとしても、見た目では全く分からないわけで。
一度考え始めてしまうと、この人混みがどうしようもなく怖く感じてしまい、早くその場を後にしようと歩みを進める。
ふと、そんな時だった。ちらりと見えた後ろ姿に、思わず二度見する。
目を止めてしまったのは、ただただ、その人のスタイルが良かったからだった。
すらりと背の高いその姿に、キャメルのトレンチコートがよく似合う。後ろ姿からでもスマートなのは一目瞭然で、この人混みの中でも目立っていた。モデルさんなのだろうか、と、目を見張ってしまうほど。
沢山の人が行き交う中で、異彩を放っているようにすら見える。
けれど、そう思ったのはほんの一時だった。なぜなら、ふんわりとしたその髪型は、見覚えのあるもので。
──髭切、さん。
おそらく、彼だ。その隣にも、人混みではっきり見えずとも、誰かが居そうな雰囲気だった。
反射的に目を逸らして、彼らから離れるように歩みを進める。あの兄弟だと認識した途端、心臓がざわめきだした。体は緊張し始める。
ハロウィンの夜に、人ならざるものが紛れ込んでいるのを、目の当たりにしてしまった。
わざわざ、ここで会わなくてもいいだろう、と、焦るようにその場を後にした。
結局少し遠回りをして、予定時刻よりも遅めに彼らの家に着いた。予想通り、彼らはまだ帰って来ていない。
彼らはあそこで、何をしていたのだろうか。膝丸がテレビの人混みを見て、「煩わしい」と言った理由は、今夜あの場に用事があったからだったのかもしれない。
彼らの用事なんて、一つしか……そう考えそうになって、やめた。あまりこの件について、考えすぎない方がいい気がする。
その後も一人で夕飯を食べて、お風呂に入って。日付が変わる頃になっても、彼らは帰ってこなかった。
いくら遅くなると言っていても、まさかここまで遅くなるとは思っていなくて、少しばかり心配になる。いつも、日が変わる前には帰っていたのに。
けれど私が心配したところでどうしようも出来ないのだと、そう自身に言い聞かせて、眠る事にした。
この日は、とても月の綺麗な夜だった。空気は透き通るように澄んでいて、漆黒の夜空を、月の光が淡く包み込む。部屋の電気を消せば、空から溢れ落ちたその光が、室内へと入り込んだ。
こんな日にカーテンを閉めるのは勿体ない。今日はこのままで寝よう、と、カーテンを開けたまま眠りにつく事にした。
月明かりに包まれ、おまけに布団はふかふかで。穏やかな波に体を委ねたような心地よさに、意識は段々と沈んでいった。
どのくらい、時間が経ったのか分からない。ふと、沈みきっていた意識が浮上する感覚を覚えたのは、いきなりの事だった。
あ、目が覚める──頭の片隅でそう感じ取ると同時に、夢の中から現実へと引き戻される感覚。
まさか、もう朝なのだろうか……どこか遠くの方でそう思いながら、ゆっくりと瞼を開ける。
朝日のような、光は感じない。まだ夜の気配をぼんやり捉えながら、目を開けば。
誰かが、そこに居た。
頭は急速に覚醒し始める。誰かが、私を覗き込んでいる。その事実に、驚きと恐怖がごちゃ混ぜになって一気に押し寄せた。
思わず悲鳴を出しかけたその瞬間、突如、口元を手で塞がれる。まるで押さえつけるかのようなその動作に、恐怖は更に膨れ上がった。
怖い──誰……?
頭が働くより先に、感情が支配する。どうしようもなく怖かった。突然の事すぎて、ひどく困惑もしている。
けれど徐々に、視覚の情報が脳で処理され始めていった。
目の前にいる彼も、少し驚いているように目を丸くしている。その微かな表情も認識できるくらい、やっと頭が働き始めた。
彼は小さく息を吐くと、静かに微笑んだ。
「驚かせちゃってごめんね。ただいま」
その声はとても柔らかく、優しいものだった。
──髭切さん、
声を出せない代わりに、心の中で彼を呼ぶ。
一体、これはどういう状況なのか。理解が追い付かず、混乱している。
彼はしばらく、どこか困ったように私を見ていると、ふとその口を開いた。
「trick or treat」
突然降ってきたのは、発音のいい、ネイティブな英語。その言葉の意味を上手く呑み込めず、ただ瞬きをして、彼を見上げる事しか出来なかった。
髭切はそんな私を見下ろすと、ゆっくり口元から手を離す。
塞がれていた圧迫感が取れ、静かに深呼吸した。
「trick or treat」彼は、もう一度口にする。
思わず、え? と疑問を溢してしまった。
「今日、ハロウィンだよ。覚えてる?」
穏やかに微笑みながらそう言われ、必死にその言葉を呑み込もうとした。
ハロウィン……と頭の中で復唱する。
確かに、そうだ。今日はハロウィンだった。今朝、テレビを観てその話をしていたぐらいだ。
それは、なんとか思い出したものの。
「え、あ……はい、まあ。というか、え?」
「ハロウィンらしく、襲いに来たよ」
「はあ……はい?」
声は掠れたものしか出なく、ちゃんと彼に届いているのか分からないほどだった。
けれど、今はそんな事よりも。どうしても、状況に追いつけていない。
「お菓子くれなかったら、悪戯していいんだよね?」
その言葉に、ただただ呆然としてしまった。
「え、」
「お菓子、持ってる?」
「え? いや、持ってない、ですけど……」
「そっか。うん、ならしょうがないよね」
そう言って、彼は目元を和らげて笑った。
置いてきぼりにされたまま、話だけが進んでいる。
この会話の意図が、分からない。しょうがない、とは?
「な……え? ちょっと、待って、ください」
目の前にいる人物は認識出来たものの、現状は把握しきれていなかった。
冷静になろうと、順を追って考える。
「あの、なんで、髭切さんがここに?」
ここは、私の部屋で。私は、そこで寝ていて。目が覚めたと思ったら、目の前に髭切がいたのだ。
そこまでは、何とか理解出来たのだけれど、肝心な理由の部分が理解出来ていない。
「だから、悪戯しにきたよ」
私の質問に、髭切は普段の調子で答える。
悪戯──今日は、ハロウィンで。
私は、お菓子を持っていなくて。
彼は、仮装こそしていないけれど、吸血鬼で。
ハロウィンのこの夜、お菓子を持っていない私のもとへ、悪戯をしにきたと彼は言う。
脳が、やっと働き出した。段々と本当の状況を理解し始め、心臓が忙しなくなり始める。
髭切はそんな私を見ると、くすりと笑みを溢した。
「声あげちゃダメだよ」
彼は自身の唇に人差し指を宛がうと、そう言った。その言葉に先を予測し、息を呑む。
髭切は視線をふっと伏せると、私の首筋に手を添えた。ひんやりと冷たい指先に撫でられ、体は緊張から強張る。
まるで、場所を確認するように。優しく撫でられたかと思えば、薄く弧を描いた唇が、そこへと静かに落とされた。
冷たく柔らかい唇が、首筋に触れる。次の瞬間、甘い感覚が背筋を走り、ぞくりと肌が粟立った。
ただ、唇が肌に触れているだけだというのに。まるで愛撫をされているような錯覚を起こすほど、伝わってくるものは脳を蕩けさせるもの。
これは、膝丸に血を吸われた時と、同じ感覚のものだった。けれど違うのは、髭切は一瞬で終わらせてくれないという事だ。
彼が唇を食むように動かす度、吐息を漏らしてしまいそうで、必死に耐えた。
まるで、ゆっくり味わうかのように。私にとっては焦らされているかのような感覚に、甘美な刺激が体を巡る。
体が、これ以上求めてしまいそうだった。それはさすがにまずい、と、彼の肩を押したものの。それが逆に、駄目だったのかもしれない。
髭切は、私の抵抗を認めないとでも言いたげに、薄く開いたその唇から、肌へと舌を這わせた。
「んっ、」
思わず甘えるような声を出してしまい、咄嗟に抑える。恥ずかしさから、顔に熱が集まり出した。まさか、こんな声を彼の前で出してしまうなんて。
それでも彼はやめてくれない。舌を這わせながらの口づけを何度も落とし、追い討ちをかけるように、私の耳をその長い指で弄ぶ。なぞるように撫でられればそれだけで快楽となり、もうこれ以上、我慢できなくなりそうだった。
そんな時、首元で鳴った、小さなリップ音が耳に届く。それが終わりの合図であるかのように、髭切はゆっくりと離れていった。
ただ彼を見つめれば、返ってくる視線はとても艶めかしく、私を見下ろすその熱を帯びた視線に、不意に子宮が切なく疼く。
こんなにも色気のある男性を今まで見た事がないと、思わず思ってしまうほど、彼のその顔は艶麗なものだった。
そんな彼に見惚れてしまいそうになって──ふと、気づく。
私を見つめる髭切は、何かをじっと考え込んでいるかのようにも思えた。
「髭切、さん」
恐る恐る、彼の名を呼ぶ。すると、ふと我に返ったかのような表情をした後、小さく笑った。
「気分は?」
突然問われ、呆気に取られる。
「大丈夫?」
続けたその言葉は、私を気遣うものだった。
まさかそう問われるとは思ってもいなく、はい、と、つい答えてしまう。
大丈夫か大丈夫でないかと問われれば、本当は、あまり大丈夫ではないのだけれど。私の答え聞いた彼は安心したように表情を緩めたものだから、何も言えなくなってしまった。
そんな、何とも言えない感情が表に出ていたのかもしれない。髭切は、ふふ、と笑みを溢す。
「ご馳走さま。おやすみ」
そう言われたかと思えば、今度は、額に唇が落ちてくる。
それはまるで、子供にするかのような、軽く優しいキスだった。
何が起こったのか呑み込めず、目を見開く。
一体、今、何が──。
固まる私を見て、髭切は目元を細める。
そしてそのまま上体を起こせば、彼は静かに部屋から出ていった。