@ayame0601s
朝が、来てしまった。
目が覚めて一番にそう思うと同時に、体に気怠さが襲ってくる。これから、一日が始まるというのに。寝不足による気持ち悪さが込み上げ、寝起きは最悪だった。
昨夜、髭切のいきなりな訪問の後、結局寝付けずにいた。
寝ようとしても、脳内では直前の出来事が何度も何度も再生され、その度に心臓は忙しなくなり、頭は妙に冴えてしまって。
髭切がわざわざ訪ねてきた事は、これが初めてだった。そもそも思い返せば、髭切に血を吸われたのは、彼らに飼われてから初めての事だった。出会いの時に一度吸われたきり、全く無かった事を思い出す。
彼は昨夜、お腹がすいていたのだろうか。だからわざわざ、「食事」をしに訪ねてきたのだろうか──そんな考えばかりが、ずっと脳内を駆け回っていた。
おまけに、翌日も仕事が控えていた。そのため、早く寝ななければ、という義務感も相まってしまったのだろう。体が変な興奮状態にあり、やっとの思いで寝付けても、眠りはとにかく浅いものだった。
そのまましっかりした睡眠を取れないないまま、迎えてしまった朝。
窓から入り込む朝日が、寝不足の体にひどく染みる。それでも、もう起きなければと、怠い体に鞭を打った。
顔を洗って、化粧をして身なりを整えて。いつもならその後、普通に取る朝食も、この日は躊躇いが生まれ、どうしようか非常に悩んでしまった。
髭切と、何となく顔を合わせにくい。
けれど一緒に暮らしている限り、いつかは必ず顔を合わせなくてはいけない。それなら変に避けない方がいいだろう、と、結局いつも通り居間へ向かった。
居間を恐る恐る覗いてみれば、二人はいつもと変わらない様子で、それぞれくつろいでいた。
「おはよう」
テーブルで新聞を読んでいた髭切が、私へ笑みを向ける。それは、普段と全く変わらないもの。そこに私が持っている気まずさは、微塵も滲み出ていなかった。いつもと同じ穏やかにも見える雰囲気を、彼は纏っている。
膝丸は、相変わらずこちらに一瞥を向けるだけだ。
「おはよう、ございます」
彼らに挨拶を返した後、席につく。何も変わらない、普段と同じ朝だ。
その後も特別何かを話すでもなく、昨夜の事が話題に出るでもなく。
そこで実感してしまった。ああやっぱり、彼にとってあれは単なる「食事」だったのだと。
そう思えば、こんなに意識してしまった自分が馬鹿らしいと、内心で苦笑した。
それからしばらくは、毎日が穏やかに過ぎていった。相変わらず彼らは頻繁にどこかへ出掛けているようだけれど、それが私に関わる事なんてなく、私は私の生活を送っていた。
ただ、ここ最近で一つ、不安を煽る事があった。
それは、会社から帰っている最中の事だった。
一人で道を歩いていると、やたらと背中にぞわぞわした嫌な感覚が走る。咄嗟に後ろを振り返るも、そこには誰もいない。
誰かに見られている。確信は持てなくても、胸の奥から恐怖がせり上がってくるような。
気のせいかもしれない。気のせいだったらいい。けれど念のため防犯グッズを常備し、なるべく残業しないようにした。
それでもやっぱり、怖いものは怖い。帰る途中だけでいいから、誰かと電話をしていたい程だった。
仕事帰り、そんな思いで携帯の電話帳を開く。友達に電話してみようか、でも迷惑になるかな……悩みながら画面をスクロールしていると、振動と共に映った着信画面に、思わずびくりとした。
画面には、鶴丸、の二文字が表示されている。
ボタンを押し、耳に当てた。
「……もしもし」
「おっ、早いな。暇人か?」
携帯越しに、鶴丸が笑った。その声は、飲み会ぶりのもの。
ついこの前聞いたはずのものなのに、なんだか久しぶりに聞くように感じる。
彼の声がすとんと胸に落ち、そこからじんわり安心感が広がっていく。
「鶴丸……」
「ん? どうした、元気ないじゃないか」
「鶴丸」
「ん」
「あの」
「おう」
「……あのさ、」
「なんだなんだ」
「……、……どうしたの?」
「おい、随分溜めてそれかよ」
そりゃこっちのセリフだ、と鶴丸が苦笑する。
鶴丸の声を聞いた途端、全てを言ってしまい衝動に駆られた。
携帯の向こうにいる彼の存在に、張り詰めた緊張がほどけていく。何故か無性に泣きたくなり、全てを話して、すがってしまいたい。
けれど、話してはいけないと、冷静な自分が辛うじて制御した。
「元気ないように聞こえたのは、最近少し疲れてるからかも」
「仕事忙しいのかい?」
「うん。ちょっと」
「そうか。でもまあ、今は電話にすぐ出られるくらい暇人って事だな」
「鶴丸と同じだね」
「なら暇人同士、飲みに行こうぜ」
明るく笑う鶴丸の誘いに、断るわけもない。むしろ、とても有り難かった。友人とのやり取りに、心の底から安心感がわいてくる。
鶴丸の誘いに二つ返事で答えると、帰宅しようとしていた足を反対方向へと向けた。
行きつけのバーに着いた時には、既に鶴丸の姿があった。
彼にしては珍しく、ワイシャツとベストといったフォーマルな姿だ。少し長い襟足の髪は後ろに纏めている。
鶴丸は一見軽そうに見えるも、若くして社長の立場をとる人だった。大学在学中に起業し、卒業後も社長として続けるという、カリスマ性が彼にはある。
普段の彼と接しているとつい忘れてしまうけれど、彼は所謂、天才と呼ばれる部類に入る人だ。
「よっ。早かったな」
バーの隅のテーブル席に座る鶴丸は、私に気づくと、軽く手を上げる。普段と違う雰囲気の彼にどこか緊張しながら、私も挨拶を返した。
「待たせちゃってごめん。それにしても珍しいね、スーツなんて」
「ああ。今日は取引先との会談だったからな」
いやぁ疲れた疲れた、と彼は首を回す。
マスターにいつもの物を注文すると、私も彼の前に腰掛けた。
「今日の会談はどうだった?」
問いかけながら席につけば、鶴丸はニッと口角を上げる。
「まあ、ぼちぼちってとこだな。いつものように驚きを提供してやった」
悪戯っぽく笑う彼につられ、私も顔が綻んだ。
鶴丸は昔、よく取引先の人から見下されると愚痴を溢していた。それは彼の若さだったり、外見が理由ではあるのだけれど、事業の中身を全く見てくれないのだと悩んでいた時期があった。けれど彼の努力もあり、そんな外見的偏見を物ともしないようなプレゼンで、数々の契約を手にしてきている。
今では自分の第一印象が微妙なほど、プレゼンで驚かせる事ができるのだと、楽しそうに語るほどだった。
「それでは社長様。会談も上手くいったようなので、奢っていただけるんでしょうか」
「きみ、普段俺の事を社長と思ってないくせに、ここぞと乗ってきたな」
「まあまあ、そう堅い事はおっしゃらず」
「全く、現金だなあ」
いつものやり取りに、心が晴れていくようだった。楽しいし、安心する。ずっと続けばいいのに、と思いながら、乾杯したお酒を口に含んだ。
どうやら私は、相当疲れているらしい。いつもなら大丈夫な量でも、すぐに酔いが回った。幸い、気持ち悪いわけではなく、むしろストレスから解放されているような心地よさがある。
鶴丸は相変わらずアルコールに強いようで、顔色が変わっていない。酔っていてもいなくても、彼は明るいから、いつも会話は弾む。
そんな彼はふと、笑みを抑えた表情になった。そして「なあ」と、会話を切り替える言葉を溢した。
「何か、悩みがあるんじゃないか?」
鶴丸は、いきなりそう言った。突拍子もない質問に、不意をつかれる。
真っ直ぐこちらに向けられた琥珀色の瞳は、確信を持っているように見えて、私は思わずその瞳から目を逸らしてしまった。
意味もなく、グラスに入った丸い氷をかき混ぜてみる。
「悩み、は、そりゃあるよ。人間だもの」
「byみつ〇」
「そうそう、み〇をさん」
「奢ってほしければ、その悩みを言った方がいいぜ」
鶴丸に視線を戻すと、頬杖をついている彼は、にやりと笑った。この人は、昔からこうだ。タイミングを計るのがとても上手い。そして私は、何度も彼に助けられていた。
けれど、今回に限っては話すわけにはいかない……話してはいけないと、必死に制御しようとするも。つい、甘えたくなってしまう。
「悩みは……仕事の事ぐらいかなあ。あと、出会いがない」
酔っていても、まだ冷静さは失っていないらしい。なんとかそれっぽい事を口にし、誤魔化すように笑ってみせた。
鶴丸には、きっと見破られているのだろう。嘘だろうそれは、本心はどこにあるんだ、と、私を見る瞳がそう言っている。
けれどこれ以上は言えない意を込めて視線を返せば、彼は観念したのか、小さく息を吐いた。
「仕事の事は愚痴ぐらい聞いてやれるが、出会いはまあ……ご愁傷様」
「え、聞いておいてひどくないですか。そういう鶴丸はどうなの」
「出会いか?」
「出会いはあるんでしょ、どうせ」
「まあな」
「あ、なんかむかつく」
笑う鶴丸を見ながら、良かった話題が逸れた、と内心でほっとした。
「まあ、出会いはさておいてさ。鶴丸は悩みないの?」
このまま、話題を鶴丸へ移してしまおう。そう思って発した言葉に、鶴丸は頬杖をついたまま、視線を横に向けながら考え込んだ。
そんな彼をまじまじと眺めながら、容姿にも恵まれ、社会的立場もあればそりゃ出会いはあるよな、とぼんやり考える。
「悩みというか、気になってる事はある」
視線をずらしたまま、鶴丸は言った。
「気になってる事?」と先を促すように聞けば、彼は考えながら口を開いた。
「最近の事件の事なんだが」
まさか、彼の口から今、その言葉が出るとは思ってもいなく。一瞬にして、私の中で緊張感が生まれた。
「事件って、あの連続殺人事件?」
恐る恐るそう聞けば、「ああ」と肯定が返ってくる。
「体内の血をほとんど抜き取るなんて、人間に出来る事じゃないよなあ」
「……どうしたの。この前、吸血鬼なんて信じてないって言ってたのに」
「信じてないとは言ってないんだが」
逸らしていた視線を私に戻した鶴丸は、困ったように笑った。
そのどこか力無い笑顔は、悲しそうにも見える。
彼のこんな表情を、私は今まで見た事がなかった。いつも明るく楽しそうに笑う彼とは対照的なその表情に、言葉を失ってしまう。
何か、言わないと。そう思った矢先、ふと、この前見たネックレスが脳裏に浮かんだ。
「十字架のネックレス……」
思い浮かんだままにそう呟いてみるも、そこから先は何と言おうか迷った。
鶴丸は私の言葉に少し目を見開くと「これかい?」と、ネクタイを緩めた首元から引っ張り出してみせる。
本当は、大学時代からつけている事なんて知っていた。
華奢なラインの十字架は、その辺に売っているような物とは違う。輝きもデザインも綺麗で、それがまた鶴丸に似合っているものだから、彼を見ると何回かは目を奪われていた。それを知られるのが何となく恥ずかしくて、この前は知らないふりをしたのだけれど。
「これは、幼い頃から身につけている」
十字架に目を落として呟く鶴丸は、遠い昔を思い出しているようだった。彼の幼い頃の話は、少しだけ聞いた事がある。
「幼い頃、から?」
「ああ。孤児院に居た事は、前に話しただろう?」
「うん」
「その時からだ」
そう言った後、どことなく神妙な面持ちだった鶴丸は一変して、いつもの茶目っ気のある笑顔を私に向けた。
「少しは俺に興味が出たみたいだな」
どうやら、この前の事を根に持っているらしい。と同時に、鶴丸はきっとこの話題を打ち切りたいのだろう。
鶴丸がいつもの様子に戻した事を合図に、私もわざと、呆れたような溜め息をついてみせた。
「皆がイケメンに興味を持つとは、思わないで頂きたく存じます」
「丁寧なんだか辛辣なんだか、分かったもんじゃないな」
愉快そうに笑った鶴丸は、もうすっかりいつもの調子に戻っていた。
それからしばらく他愛無い話をして、この日はお開きになった。結局、今回は鶴丸に奢ってもらってしまったため、次は奢ると約束するも「期待はしないでおこう」と軽くあしらわれた。
鶴丸と飲むのは、やっぱり楽しいし落ち着く。この後、あの家に帰ると思うと気持ちが重くなるけれど、帰りたくない、なんて、鶴丸に言えるわけもなく。大通りでタクシーを探す鶴丸の背中を見ながら、表に出さないように、内心で嘆息を溢していた。
その時、突然。後ろから、私の名前を呼ばれた。
その声に、心臓が跳ねる。声の持ち主が容易に思い浮かび、確認するように振り向いた。
そこには想像通り、今から帰る場所にいるはずの、兄弟の姿があった。
「びっくりした、こんな所で会うなんて。君も今から帰るの?」
髭切はいつものように微笑んで言った。膝丸も、いつものように無表情の顔を私に向ける。
会いたくなかった。よりによって、鶴丸と一緒に居る時に会いたくなかったのに。神様は無情らしい。
髭切の言葉に返事をしようとした瞬間、今度は鶴丸の声がかかる。
「きみの知り合いか?」
ごもっともな質問。その単純な質問には答えられるけれど、そこから更に突っ込まれると、答えに詰まる。
何か、誤魔化しでもいいから何か答えなければ。そう思いながら鶴丸を見ると、彼の目線は私を通り越した先へと向いていた。
鶴丸は、どこか訝しげに兄弟を注視している。
「ああ、お友達、かな? 僕は髭切。で、こっちが……弟……の」
「膝丸だ」
「うん。よろしくね」
髭切はそう言うと、鶴丸へ手を差し出した。二人のやり取りに、気が気じゃないものの、口を挟めず、ただ成り行きを見守るしか出来ない。
鶴丸は差し出された手を取る事もせず、髭切の顔をじっと見ていた。
普段社交的な彼には珍しく、眉を寄せ、探るような視線を髭切に向けている。
そして彼は険しい表情のまま「きみは、」と、ただ一言、そう呟いた。
その言葉に、髭切が軽く片眉を上げる。空気が張りつめ、ただならぬ雰囲気がこの場に漂う。
この二人は早々に離した方がいいと、直感のようなものが胸をよぎった。
「鶴、丸。ごめん、私、この二人に用事があるから……」
上手い言い訳なんて咄嗟に出来ず、なんとも曖昧で意味深な言葉になってしまったけれど、しょうがない。
それよりも、何故だか分からないけれど、この二人を遠ざけるべきだと、そちらの意識が強く働いた。
鶴丸は疑うように髭切を見ていた瞳を、私に向ける。何かを言いたいのに、何を言えばいいのか分からない、といったような表情で私を見た。
「今日はありがとう。また飲もうね」
本当は、こんな別れ方は嫌なのに。逃げるようにそう言うと、兄弟へ帰るよう促した。
二人は私の些か強引な行動を咎めるでもなく、髭切に至っては「うん。行こうか」と穏やかに言った後、鶴丸へ軽く会釈した。
鶴丸には、この後なんて言おう。
そう悩む私の横で、髭切が「彼……」と、何かを考えるように呟いていた。