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ニャンジークス卿とちゅうのすけ

全体公開 3191文字
2017-11-06 21:48:04

やたらと重いように見えるかもしれませんが軽い気持ちで読んでいただきたいと思っています

Posted by @saeki_f

世界の最先端を進む大帝都倫敦。石畳の上を何台もの馬車が駆け、天高く伸びる煙突からはせわしなく灰色の煙が吐き出される。
そんな大都市にそびえ立つ中央刑務裁判所……の地下倉庫で、一匹のネズミが命の危機に瀕していた。

(ああ、ぼくはこんなところで死んでしまうのかしらん)

ネズミの名前はちゅうのすけ。友人の誘いで海外行きの船に乗ったは良いが途中ではぐれてしまい、いつの間にか到着した外国で細々と生活をしていた。今日はたまたま遠出しただけなのだが、彼はそれを大変に後悔しているところだ。
背後には白い壁。目の前には、ちゅうのすけが日本では見たことがないほど大きな猫。豊かな毛並みの美しい雄だが、額にある十字の傷が貫録を出している。飼い猫のように見えても動きは俊敏で隙が無い。そんな猫に部屋の隅まで追い詰められ、細長い瞳孔はちゅうのすけの一挙手一投足を見逃すまいと輝いている。逃げることなど到底できそうになかった。

「あ、あ、あの、ぼくを食べないでください……

小さな黒い目は泳ぎ、気持ちばかり潤んでいる。声は震え、今にも消え入りそうだ。これから何が起こるかを思えば当然のこと。捕まって食べられるなど、想像するだに恐ろしい。たとえ無駄だと分かっていても命乞いをせずにはいられない。

あわあわと震える小さなネズミに向かって、猫は初めてその口を開いた。低く冷たい声であった。

「食べる? 私は食べるためにネズミを追っているのではない」

ふん、と鼻を鳴らして猫はネズミを見下す。長いヒゲがさわりと揺れた。その仕草ひとつで彼の矜持の高さが窺える。只者ではない空気を纏った気品のある猫だ。
食べられることはないらしいと分かったものの、ちゅうのすけが安心したのも束の間であった。

「私はここの本を齧る不届きなネズミを葬り去るために居るのだ。私が狩りを始めてから、ここを生きて出た者は居ない。倫敦のネズミは、私を”中央刑務裁判所の死神”と呼ぶ」

(やっぱりここで死ぬことに変わりないのか……!)

猫がよく研がれた爪をちゅうのすけに向けた。それはネズミにとって本当に死神の鎌さながらで、目前に迫る刃にちゅうのすけの焦りも募る。

「おおおお待ちください! ぼくはここの本を齧るつもりなど毛頭ないのです!」
「そう言ってこそこそと紙を巣に持ち帰るつもりだろう。私はそういった者を何匹も見てきた」
「本当に、そんなつもりは……

ちゅう、と情けない鳴き声がぽつりと落ちた。本当に紙を齧って持ち帰ろうなどとは思っていないのだ。ちゅうのすけの棲み処の周りは自然豊かで、枯れ葉や草が十分にある。むしろ変わったものを巣に入れると、かえって外敵に見つかりやすくなってしまう。しかしそんなことを説明したところで、この猫は聞く耳を持ってくれないだろう。

「何か言い残すことはあるか?」

猫の爪がきらりと光る。いよいよ年貢の納め時だと猫の目が語っていた。
逃げられはしない。もしそれができたとしても、無傷では済まないだろう。そのまま外に出れば他の猫に襲われてしまうかもしれない。こんな危険な所にやって来てしまった己の不運を嘆いても遅いのだ。
遂にちゅうのすけは覚悟を決め、氷のような蒼い目を見た。

「あなたのお名前を、お聞かせ願えますか」
「!」

意味の無い質問かもしれない。だが名前も知らない相手に殺されるよりはずっと良い。そう思ったのだ。
ネズミを狩るために人間に飼われている猫は多い。ちゅうのすけの経験上、そういう猫は往々にして自分の仕事を理解しており、非情な性格の者の割合もそれなりだ。そんな相手から返事をもらえるのか分からなかったけれど。

「バロック・ニャンジークス、だ」

猫は、ニャンジークスは質問に答えた。意外と話の通じる相手だったのかもしれない。ネズミを食べる猫でないのなら、出会いがこんな形でさえなければとちゅうのすけは思う。

「ニャンジークスさん、ですね。ぼくは成歩堂ちゅうのすけといいます」

死に行くための自己紹介をして、ちゅうのすけは神妙に目を閉じた。
ここで死ぬのか。もう一度祖国の景色を見ることなく、家族や友を置いて。ちゅうのすけの頭には様々な感情が渦巻いていた。元々長くもない命だが、いざ散り際となると半生の記憶が脳裏を駆け巡る。

(せめて最後にお前と会いたかったよ、親友)

最後の思い出は親友と過ごしたあの海の上。不安はあったが、期待も大きかった。新しい土地に何が待ち受けているのだろうと。それがこんな形になってしまうことが無念で、ちゅうのすけは唇を噛む。

……去れ」

どれほど時間が経ったのか、それとも一瞬だったのか。極度の緊張下にあるちゅうのすけには時間の感覚がない。
振り下ろされるはずの刃の代わりに、短い言葉が落ちてきた。ちゅうのすけは思わず固く瞑っていた目を開く。ニャンジークスが持ち上げていた前足を下ろしている。小さな心臓はまだどきどきと早鐘を打ち、何もかも現実ではないような感覚だった。
ちゅうのすけにはほとんど聞こえていなかったが、去れと言われたような気がした。前足を下ろしている以上「この世から去れ」などという物騒な意味ではなく、「この場から去れ」という意味だと思われる。ちゅうのすけは自分の大きな耳を疑った。

「え?」
「去れと言ったのだ。東洋のネズミよ」
「で、でも」
「私の気が変わる前に行け。そして二度とここへ立ち入らぬことだ」

ニャンジークスは鋭い爪を収めてそっぽを向いている。後ろ脚を畳んで座り、蒼い目だけを出口の方へちらりと向けてちゅうのすけを促す。あれだけネズミは逃がさないと殺気立っていた彼だが、本当に見逃してくれるらしい。

「あ……ありがとうございますっ!」

何が彼の気持ちを変えたのか。ちゅうのすけにはまだ分からなかったが、言われた通り猫の気が変わってしまう前にと一目散に駆け出した。追ってくる気配はまるでない。壁の小さな穴から建物の外へ抜け出し、馬に踏まれないよう蛇行しながら石畳の上をひた走る。

来た道を戻り、巣に辿り着いた時には心臓が働きすぎでぴたりと止まってしまうのではないかと思うほどだった。ちゅうのすけは落ち着ける場所に入って力が抜けたのか、崩れ落ちるようにその場へ座り込んだ。

(怖かった……!)

日本で暮らしていた時も何度か猫に襲われた経験はあったが、隣にはいつも親友が居た。今日とて彼さえいれば……そこまで考えて、ちゅうのすけは思考を切った。過ぎたことを考えても仕方ないし、何より親友と離れてしまったことが心細く、寂しく感じてしまう。
ニャンジークスは日本に居ない種類の猫らしい。青々として長い毛皮も相まって、下手をすれば小型の犬よりも大きな体をしていたのではないか。今でも鮮明に思い出される鋭利な爪。獲物を射殺さんばかりの冷たい眼差し。”死神”と呼ばれるのも納得できる。今まで出会ったネズミが一匹も助かっていないのであれば、ちゅうのすけは彼と会って助かった初めてのネズミということになる。

(どうして急に見逃してくれたんだろう)

鼓動が落ち着き、少しは考える余裕が出てきた。何も思い当たることはない。猫の気まぐれかもしれない。だがきっとちゅうのすけはニャンジークスにとって、他のネズミとは何かが違ったのだ。二度と来るなと言われてしまった以上、確かめるどころか再会すら望めないだろうが。
出会う形が違えばまた会いに行けたのかもしれない。例えば、ちゅうのすけも猫であったなら。あのような目に遭っておいて不思議なことに、もう会えないのが惜しいと思う程ちゅうのすけはニャンジークスが気になって仕方なかった。

有り得ない想像を振り切って、ちゅうのすけは小さな巣穴で丸くなった。


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