悪魔から始まった後戻りできない話
@fengli25
ゆで卵が床に落ちた。慌てたグレイが卵をそっと掴み、ささっと埃を払う。
「洗った方がいい?」
「殻が付いてるから平気よ。生じゃなくて良かったわね」
今までカプセルの中にいた(らしい)という彼の言によれば、まともな日常生活など一度も経験になかったようで、些細なことでも私やモデルAに伺いをたてる。これはどうすればいい、どこに戻せばいい、どうやって直せばいい。まるで迷子を預かっているようだ。幸い、本当の迷子のように泣き言を喚き立てないあたり、聞いてる方としては助かる。今回のゆで卵も、ただ落としてからどうすればいいのか分からなかっただけで、殻付きで良かったと大人しく剥き身の卵を頬ばるにとどまった。
……あの出来事は、今このときに思い返せば、最初のサインだったのではないかと。あのときもっと気にかけていればよかったのではないかと。
後悔しようと、もはや手遅れだった。
私の同伴者としてグレイを連れまわし数日経ったあたりから、彼は悪夢を見るようになった。毎夜寝るたびにきっかり二時間、弾かれたように飛び起きて、真っ暗闇に混乱する。酷いときは、寝ぼけた頭で存在しない敵相手にハンドガンを振り回そうとするので厄介きわまりない。寝室の手元ランプを撃ち抜かれた時は、感情にまかせ首筋にチョップをくれてやった。一撃KOである。
なので、目下モデルAの管理は私の手に委ねられている。混乱したロックマンなど災害そのものでしかないからだ。
グレイの悪夢騒動のおかげで、私たちのここ最近の睡眠時間はレッドゾーンに達している。当たり前だ、同伴者をなだめすかして鉄拳制裁をぶちかませるのは、他ならぬ自分しかいない。モデルAは先ほどの理由で論外だ、近づくことさえ許可できない。
しかし、二時間にいっぺん、毎夜叩き起こされる現状を省みるに、いっそ赤ん坊に夜泣きされた方がマシなんじゃないか、と錯覚する程度には、消耗していた。
「ごめん、アッシュ」
シャワールームの床磨きに精を出そうとして、眠りこけてしまった同居人を起こしながら、グレイは悔しそうに呟いた。辛いのはお互い様だろうに、こちらを気遣う彼の瞳には罪悪感が見てとれる。
「気にしないでよ。アンタを連れまわしてるのはアタシなんだから、ちょっとした寝不足ぐらいどうってことないわ」
「でも、気絶してた」
「それ、は、心配かけて悪いと思うけど……まだマシな方よ。グレイ、アンタは気を失うこともできないじゃない。」
そっちの方が心配だわ。何とか話題をそらし、こちらを気にかけないように誘導する。
先の言葉通り、私は私の都合をもって、勝手にグレイの自由を縛りつけている。各地を転々とし、仮の住居を求め、イレギュラーがひしめく遺跡に潜る。もちろん旅先でのハンター稼業はほぼ命懸けだ。モデルAでロックオンしても回避できなかった命の危機を、彼に助けてもらった回数など、もはや両手では数えきれない。その借りを持ち出せば、たかが睡眠不足など安いものだ。確かに最近は体調管理の関係でハンター稼業を休まざるを得ない状況に追い込まれているが、ちょっとした長期休暇と思えば、どうってことない。
決して言葉には出さないけれど、毎晩の悪夢に付き合わされてもお釣りが来るほど、私はグレイを大事な相棒として分類しているのである。
「……うん、分かった」
グレイの表情が少しだけやわらぐ。白い睫毛をふせ、床を見つめている彼の頬はわずかに赤くなっていた。こう見えてかなりの照れ屋さんなのだ、彼は。
「そうよ、気にすることないんだから」
「あぁ、ありがとうアッシュ」
こちらを見上げた顔は間違いなくグレイだった。
「ボクとしても助かるよ」
けれど、どうしてだろう。この一瞬だけ、目の前のヒトがどうしても私のよく知る「グレイ」とは、まったく食い違っていた。違和感で喉がつまる。
「アンタ、本当にグレイ?」
ゆで卵が床に落ちた。またグレイが落としたのだ。
最近の彼はしばしば物を落とす。駆動部か神経に異常でも潜んでいるのだろうか、悪夢の件もある。心配になった私は知る限りのコネを伝って様々な医者を訪ねた。結果はどれもアンノウン。「現在の技術ではとても修理なんてできない」との一点張りだ。
ここで改めてグレイが、あのいけすかない男のコピーなのだと思い知らされる。何せモデルVを作り出した天才の、いわば技術の結晶が彼なのだ。そこらの医者や技術士にはかれないのも無理はない。「一体どこの最先端技術を盗んできたんだ?」とまで追及されれば、もはや正規だろうが違法だろうが医療機関に頼るわけにはいかなくなる。彼のオリジナル…マスターアルバートの所業はレギオンズ本部により全世界へ発信され、誰もがかつての賢人の真実を、ある程度把握してしまっている。そのコピーがまだ存在していると知られれば、よくて廃棄、最悪の場合、電脳を引きずり出され永遠に保存液とお友達になるだろう。
仕方なく彼の治療を諦め、必要最低限の、身の回りの世話を私がつとめることになった。「手足のあるヒトは大変だな」とはモデルAの言である。
「今日もひどい寝癖ねー」
こりゃすごいわ、と寝ぼけまなこの頭をくしゃりとかき混ぜる。同じベッドに寝ていることもあって、朝の寝癖チェックはここんところの日課になっていた。
グレイは元から爆発ヘアーの気がある。セットもろくにしていないのにツンツン尖った髪の毛は、ベッドから抜け出す際、ライオンのたてがみも真っ青な変貌を遂げる。このまま外に出れば守衛に職務質問されるレベルの彼を、どうにかして人並みに仕立て上げる。これもまた身の回りの世話の一つだ。
「毎朝毎朝、飽きずに甲斐甲斐しいこったなぁ」
「余計なお世話よ」
モデルAの軽口を背に、ドライヤーブラシ霧吹きスプレーと完全装備に身を固め、ツンツンヘアー相手に奮闘する。見た目通りの大した剛毛に悪戦苦闘するのも、もはや慣れを通り越して、いっそ清々しい。朝の訪れを実感する…こっちも相当の寝不足だったようで、僅かな間あっちにトリップしていた。慌てた様子の、モデルAの体全体を使った頭突きでようやく意識を取り戻し、そして気づいた。
グレイの襟足が前より伸びている。
「……ねぇ、グレイ。アンタ隠れて植毛でもした?」
「何だよソレ」
まさか、気のせいではないのか、しかし彼の襟足は首を覆うまでになっている。どう見ても前より伸びている。
けれど、それはありえないのだ。
かつて「人間」だった頃はとにかく、今の「ヒト」に、この機能は備わっていない。
その時はにわかに信じられず、何とか気のせいと切り上げられた。けれども日にちが重なるにつれて、グレイの手足、特に指先がほとんど動かなくなるついでに、蓄えられた銀髪は留まることを知らず、とうとう腰まで届くようになってから、耐えきれなくなった私は吐くように呟いた。
「アンタ、本当は誰なの?」
ゆで卵はもう落ちない。とうとうグレイの手は一切動かなくなり、足が固まってしまうのも時間の問題だった。
伸びに伸びた白髪はあたりかまわず広がっていく。一日中ベッドとお友達、彼の背にしかれた毛の束が、まるで病室のコードみたいで。視界に入れるのも辛い。けれど、やはり本当に辛いのはグレイの方なのだ。
あれから一向に悪夢は鳴り止まない。夜中にうなされて満足ままならぬ体をよじらせる頻度は変わるどころか、増えているようにも感じる。たかが数分か数十分か、どちらにせよグレイを苦しめていることに変わりはない。
そう、手足を実質失ったことで、どんなに暴れようと周りに影響は与えなくなった。ランプもベッドヘッドもテーブルも、買い換える必要がなくなった。その代償が、シーツの上でのたうち回る彼の姿というのなら、私は今すぐにでも家財の全てをぶち壊しただろう。私物だろうが借り物だろうが、お構いなしで。
とうとう私は縋る思いでガーディアンベースに泣きついた。グレイと同様に作られたモデルAは何も分からないと言うし、ギルドは当てにならないし、頼れる場所といったら、もうここしかない。
久しぶりに会って早々、エールから「ちゃんと寝てる?」と指摘されたのも、当然のことだ。死に物狂いでガーディアンベースの居場所をサーチにかけてから、急転直下の大立ち回りを繰り広げてきたのだ。ウルフに頼みこんでライドチェイサーを出してもらい、寝る間も惜しまずアウターとインナーをかっとばし、記憶に無いが、何回かロックオンするような場面に立たされたのこと。おそらく、ここ最近の睡眠時間を平均化したら二時間にも満たないにちがいない。
そんな私の様子に呆れたような、心配するような、微妙なため息をついたエールは、憔悴しきった依頼人の肩を軽く叩いた。
「分かったわ、プレリーにかけあってグレイの所に船を飛ばしてあげる。直接様子を確認しないことには始まらないものね」
「エール……!」
やっと一筋の希望が見えた心地だった。これで、もしかしたら、うまくいけば、グレイの悪夢も手足も何とかなるかもしれない。条件として遠征中のヴァンは来られない、ライブメタルを持たないエールの護衛を任せる、と約束し、グレイの元へ向かうことに相成った。
彼の眠る部屋に入ってから、妙な違和感は、感じていた。
どこかおかしいと、きっとエールも察知していた。
このときほど「ヴァンがいなくてよかった」と思ったことはない。あいつは初めてグレイに会ったときから、アルバートのレプリカとして、警戒していたから。
ベッドに横たわる男の子は、まるっきり相貌を変えて、陶磁器のような肌をたたえていた。比較的安らかな眠りを彩る睫毛も、伸びきった髪も、鮮やかなピンクに染められて。特徴的な頬の傷も消え失せて。
額の認識マークは、はたしてどこに消えてしまったんだろうか。
「…アッシュ、どういうことなの」
今まで絶句していたものの、絞り出すような声でようやく示したエールの意志は、真っ直ぐな敵意と警戒心で出来ていた。
その声に反応したのか、ベッドの彼が目を覚ます。うっすら開かれた瞳が、私と変わらなかった現状に、どこか安心してしまったのは馬鹿のすることなのだろうか。
「……アッシュ?」
あぁ、悲しいぐらいに、彼の声だ。
「アンタ、アルバートなのね」
もうゆで卵を持ち上げられない。アッシュと世界を回るようになってから薄々感じていた違和感が、小さく針を刺すように、確実に私を締めつけている。あの男をアッシュが倒してくれたことで、私は、ありのままの私になった筈なのに。それなのに、電脳のどこかで「ちがう、ちがう」と囁く声が聞こえてくるような。そんな毎日を過ごしていた。
もしかしたら、この耳障りな囁き声に、私はもっと早く向き合っていなければならなかったのかもしれない。アッシュが「しょうもない用事」といってガーディアンベースに出かけてから、早数日、私は途方もない変化を迎えていた。今までの異常、たとえば手足の硬直、伸びてゆく毛髪、狭まっていく視界、これらは全て、ある結果に収束するのだと気づいたのは、ようやく帰ってきたアッシュが私を化け物を見るような目で睨みつけてからだった。
そう、気づくにはあまりにも遅すぎた。
「アンタ、アルバートなのね」
私の処遇に関しては、ガーディアンベースへの連絡もかねて一晩置いてから決めることになった。今までの寝不足もたたって憔悴しきってるアッシュは、あまりにも小さく、初めて会ったときに感じた頼りがいのある彼女の影すらなかった。これも、全てが私のせいなのだろうか。
「なぁ、グレイ。確かにお前は見た目も何もかも、全部変わっちまったけどさ」
いつロックオンされるか分からない危険性をエールに指摘され、横たわる私からかなり離れた位置で、モデルAは浮遊している。別室で待機している彼女ら、落ち込むアッシュ、事務的なエールに比べ、感情豊かなモデルAにしては意外な程、この状況で落ち着いていた。
「声は違うだろ」
言外に促されて、おずおずと声を出す。モデルAは「ほら」と言わんばかりに、弾んだ様子で指摘した。これは、最後に残されたグレイなんだ、と。
「逆に言えば、声まで乗っ取られたらおしまいだな。たぶんオイラたちはグレイの敵になる、いや、グレイが世界の敵になっちまう」
「……どうすればいい」
唇が震えてたまらない。どうしようもなく怖くて、恐ろしくて、縋るような思いでモデルAに問いかける。どうすれば私はアッシュの仲間でいられるのか。
「寝ちまえ」
「えっ」
「悪夢をぶっ壊すんだよ、グレイ!」
呆気にとられる私に、モデルAの語尾が上がる。
「全て悪夢から始まったんだ。オイラも今までよく分からなかったけど、断言できる。間違いない。あの悪夢はアルバートの野郎が仕込んだバグなんだ。そうだよな、何せお前は万が一のコピーだ」
「では、わたしは」
「そんな絶望しきった表情はやめろよな!お前は簡単に諦めるような奴じゃないだろ、グレイ」
自分の身が危ないってのにやっかいごとに首突っ込んで、みんなを助けようとして、それで自分が傷つくのはかまわないって大馬鹿野郎だ。
モデルAの愚痴にも似た叱責は、さんざん溜め込んだ鬱積からか、見る間にヒートアップしていく。その熱量に圧倒されながらも、だが、内容は私を信じて発したものだ。
モデルAは私を信じている。
「そんなお前を、たかがアルバートの置き土産で無くしてたまるか。グレイ、もう一度寝るんだ。もう一度、悪夢に立ち向かおうぜ」
今度こそお前の手でアルバートを倒してやれ!
モデルAの助言の通り、深いスリープ状態に移行した私の目の前には、かつて見た、私と全く同じ姿をした、あの男が立っていた。
ピンクの長髪が空間を覆い尽くさんばかりに広がっている。まわりは果てのない闇だ。それも、鮮やかな髪で張り巡らされた網の向こう、微かに伺えるまで縮小されてしまっている。おそらく侵食の様子を可視化して生じたビジョンなのだろう。この闇がかき消されたとき、私の意識は、目の前の彼となる。
しねばいいのに
先程から聞こえる呪詛は、かつて賢人として振る舞っていた、あと男から発せられたとは思えないほど、幼く身勝手なものだった。
しねばいいのに
「わたしの意識が無くなれば」
しねばいいのに
「お前はそう願うのか」
しねばいいのに
頭が狂いそうだ。あぁ、覚醒している間はまったく覚えていなかったが、今なら納得できる。これはまさに悪夢だ。呪詛と侵食に満ちた精神世界、これで消耗しないほうがどうかしている。
もはや力の優劣は明確だ。風前の灯にすぎない私が、あの男に打ち勝てるか。悪夢をぶち壊せるのか。勝負は、目に見えている。
それでも。
「わたしの意識は無くならない」
しねばいいのに
「わたしの意識は渡さない」
しねばいいのに
「……ッ、わたしの、この心は!」
モデルAが言ってくれたのだ。
グレイは、こんなことで諦めるような奴じゃない。
「ボクの心は、ボクのものだ!」
「ボクはお前のスペアなんかじゃない!」
「ボクは、グレイだ!」
モデルAから、一時間前にグレイが昏睡状態にはいり、ついさっき目覚めたと報告が入ったとき、私は衝動にまかせてモデルAを怒鳴りつけてしまった。何故そんな大事を早く教えてくれなかったのか!
「ごめんよアッシュ。これはグレイの戦いだったんだ、邪魔立てさせるわけにはいかない」
荒れ狂った私に対して、モデルAはあくまで冷静だった。そういえばそうだった、こいつは感情豊かのようでいて、本当に大事なことは全て隠してしまう。私がアルバートの子孫だったことも、彼がアルバートのスペアボディということも。
グレイ。
ようやく目覚めたという彼に、一刻も早く会わなければならない。たとえ間に合わないとしても、そこにいる彼が、「グレイ」でないとしても。
寝不足と疲労で悲鳴をあげる体を叱咤して、駆け抜ける廊下は、どんな施設よりも長く思えた。
踏み込んだ室内のベッドに横たわる彼は、相変わらずピンクの髪を流していた。昏睡していたというわりには憔悴の色は見られない、むしろ何もかも取り除いたような、清々しさを纏わせていた。いやな予感が背筋を走る。
後からついてきたエールは緊張した面持ちで、声なく「覚悟して」と彼への対応を通告した。その意図は何か、この場で戦闘に移る覚悟か、最終的に彼を破壊する覚悟、か。
今まで身じろぎ一つしなかった彼が呻き声をあげ、芋虫が這うように上半身を持ち上げる。身構えたエールを後目に、気づけば私は彼のそばに駆け寄っていた。
「アッシュ!」
非難めいた声が耳をすりぬける。彼の背中に手を当てて、楽な姿勢をとらせてやる。掌に触れる髪の感触が、たとえようもなく不愉快だ。
「アッシュ」
感触に顔をしかめたのが気取られたのかもしれない。薄く開かれた黒い瞳は、確かに私をじっと、見つめていた。恐怖のもとに曝される感覚。うるさく鳴り響く胸の鼓動が、口を開けば飛びだしてしまいそう。指一つ動かせないプレッシャーに押しつぶされる、その刹那、
「アッシュ」
これは何だ
今度こそ私の時は、完全に止まった。閉じることを忘れた両目が乾きはじめ、かわりに雫がポロポロ落ちる。あぁ、そういえば、前に泣いたのっていつだっけ。
涙と共に、全てが流れるようだった。
私と、彼と、この世界、その全てが頬をつたって消えていくようだった。
残ったのはただまっさらな言葉。そうだ、わたしは何よりも、誰よりも、アンタに言いたかったことがあったんだ。
思いの猛りをぶつけるように目の前の小さな体を抱きしめ、情けない泣き声混じりの告白を。今ここに。
これは何だ、ですって?
「決まってるじゃない、アンタはグレイ。アタシが見つけたグレイ。他の何物でもないわ」
そこからは酷い有り様で、もう言葉もろくに発せられず、わんわん大声で泣きわめく私を宥めるために、エールやモデルAには迷惑をかけた。なかでも一番大変だったのは他ならぬグレイにちがいない。けれども彼はされるがままで、小さく静かに、「ありがとう」と呟いた。
ピンクの髪を切りそろえ、動くようになった手足を使い、いつも通り三人で朝食をとる。
「あ、ごめんアッシュ。また落とした」
「殻付きでしょ、大丈夫よ」
さぁ、ゆで卵を拾い上げよう。