NAINIちゃんのイベント蒼黒の悪夢に寄せて一本お話を書きました。突貫工事ゆえ見苦しいところもありますが勘弁してやって下さい。なお、本編とは別世界線になります。
@san_ph7
「馬鹿じゃないか」
白い髪を揺らして、彼女はそう言った。
惨状である。女神を祀る清浄なる神殿には、乾いた死がひとつある。周囲には倒れた人々。ステンドグラスから射す光は祝福ではなく、ただそこにある全てをあるがままに照らし出した。教徒の信仰を集める神聖な雰囲気のこの場所は、今はただあまりにも非現実的な光景が広がっている。これでは神に祈りたくもなる。
左右色の違う瞳で、小さな少女はこの状況を確認した。何の因果かは分からないが、どうやら彼女は何者かに導かれてここへきたらしい。不思議なことに、魂の情報にはなんの記録も残っていなかった。だが大方予想はつく。恐らく、その者は彼女と彼女の王を間違えたのだろう。
――どのみち、人選ミスだ。
覚えているのは「助けてくれ」と入り口で声を聞いたことぐらいだった。誰を救えというのか。彼女は一度ぐるりと瞳を巡らして、それから教壇の前に佇む少年を見つけた。長い白髪で遮られた間から、青い光のような涙を流している。足元は既に水たまりになっていた。片眉を上げる。
光の糸の奔流を遡り、彼女は彼の過去を覗き見た。この場所へたどり着くまでもそうだったのだが、周囲から押し付けられるように流れ込む誰かの記憶――それも見ていていい気分になるようなものではない――を大量に閲覧してきたので、彼女はげんなりしていた。原因が目の前の覚醒した勇者であることは糸を読むうちによく分かった。
「馬鹿じゃないか」
彼女は再びそう呟いた。それを聞きとがめたのか、少年の体はビクリと震えた。
そこに倒れている神父以外は生きているのだろう。眠っているだけである。……何を救えというのか。この状況は彼らが作り出したものである。画策したのはそこで死んでいる神父か、もしくは途中すれ違った”幽霊”だろう。実に馬鹿馬鹿しい。
彼女は厳しい眼のまま、勇者の目の前まで進んだ。倒れた人々の体を躊躇なく踏みつけた。涙の水たまりに足を突っ込むと、派手な水音が神殿の静寂を蹴破る。
間違いなく彼女の存在を視認した勇者は、困惑したように声を上げた。だがそれは小さく、そして掠れていて、余計に彼女を苛立たせる羽目になっただけだった。
「己が罪を雪ぎたいか」
少年は呻いた。
私が思うに、と彼女は教壇の上、聖典の置かれた机の上に飛び乗り、座った。少年を見下ろしながら、冷酷にこう告げる。
「ここには救うべきものは何一つない」
何を救えというのか。彼女は苛立っていた。そこに転がっている神父は、この少年に自身を殺害させたのだ。馬鹿馬鹿しい。救いようもない。人間とは、斯くも愚かなものであったか。
「お前たちは分かり合うために最善を尽くすということを知らないのか。裁きとはお前たちの神により為されるものではなかったか。告解は自らの罪を神の元詳らかにするものではなかったか。
お前たちは何一つ理解していない。愚かなるものどもよ。私をここに導いたものも含めて全て。災禍の元首たる我が王の臣子である私がここに在ることは、お前たちの浅はかな画策の価値には見合わぬ。ここに救うべきものはない」
お前たちはみな浅はかだ。彼女はそう吐き捨てるように呟いた。何を救えというのだろう。彼女は、この視界に映る人々が言葉を放棄したことに一番腹を立てていた。誰もがこの少年と本気で分かり合おうなどと思ってこうしているようには微塵も見えない。彼らは何一つ語ること無く、しかし厄介事を押しつけたのだ。引き受けた当人は死んでいる。腹の立たぬことがあろうか。そしてそれらは全て、狂気に落ちかけている勇者の眼前に抗えない現実として、ただ在る。
全ては彼を思ってしたことだと、声あるものがいたら彼女は大声で罵倒しただろう。優しさの名を借りただけの行為は、もしかすると誰も悪くないように見せかけたかったのかもしれないが、結果はどうだ? 他人によって犯した罪の決着を強制的につけられた少年は、この状況を理解できているとは到底思えない。これのどこが優しく、この行為のどこに愛があるというのか。罪を指摘するにも、中途半端だ。手緩いのだ。そうした覚悟なき優しさはいたずらに悲しみを拡大したに過ぎない。それを正しく認識しているのは、この場には彼女だけだ。
だが。
「まぁ真実、助けを求めたのはお前だ。私にお前を救うことはできない。しかし選択をすることはできるだろう。選ぶがいい」
「選ぶって、何を……」
「私はお前を救うことはできないが、我が王ならそれができる。辛いだろう? 生きているのが。ここにいることが。何もかもが。
我らが王は、そこからお前を救うことができる。だが、賭けかもしれないな。お前の弱りきった魂がそれを受けて消滅せずにいられるかは運次第だ。心せよ。
お前に刻まれた魂の記録を削り取ってやる。
そうすれば、何もかもお前の覚えていること全て、なかったことになる。最早後悔も懺悔も贖罪も許されぬ。全てを覚えていられなくなるのだからな。私に提案できる選択肢はそれぐらいだ」
動揺しているのか、返事はなかった。
彼女は返答を待つ間、聖典を手にとってパラパラとめくった。この世界を統べる女神の言葉は、もうひとつも正しく地上に伝わってはいない。
かの王の声は届かなかった。神々の遊戯は終わらなかった。どれだけ犠牲を重ねても、悲しみが止むことはない。彼女の王はこの世界を救いたかった。しかし何一つ、自分の望みが正しく叶うことなどあり得ないことだと理解をしてもいた。
だからこそ。
「我が王は、この世界の全てを救うことができる方だ。その偉大なる御業の前に、お前の魂ひとつ救うことなど造作もない。それに、願いを無碍にするような方ではない。誰よりも”喪失”という悲しみを知っておられるのだから」
彼女はそう言って顔を伏せる。寄り添うことは知っていても、良心もよき日々の思い出も葛藤も悲しみも苦しみも、何もかも自分と切り離してしまった王様は、まるで女神のようにいつも微笑んでいた。そして救世へと邁進するために自らの魂を分割した魔王の分身こそ、彼女である。
彼女はそっと少年の頭を撫でた。彼が犯した罪は新たな罪を呼んだ。誰も悪くないわけではないが、一概に彼だけの責任とは言えないだろう。何より、恐らく、我が王は目的のために彼を生かすことを望むはずだ。彼女はそう考えた。
「どうする。選ばないというのもひとつの選択だ。であればお前は己の処遇を自分で考えねばなるまい。そこから先は、私は関知しない」
選べ。彼女は彼に決断を迫った。動揺、困惑、苦悩、絶望……様々な感情が少年の顔に現れた。どれもが、道に惑い行き先を失った迷子のそれに見えた。頼れるものの何一つない子どもの顔だ。この手を取らぬ選択肢が彼の中にはあっただろうか?
しばらくして、彼は震える声でこう言った。
「……助けて、ください」
手を伸ばした。血塗れの手だ。図らずも、終焉を呼ぶことになってしまった手だ。彼女は躊躇いなくその手を取った。
――愚かなり。愚かなり、人間どもよ。よく見ておけ。これが貴様らの企みの顛末である。我が王の母たるひとの神殿を汚した罰である。我が王が、全てこれを望まれる。
「王よ。我が王よ。お聞き下さい、この者の」
「聞いているとも」
彼女の背後から、光を遮断するようにずるりと影が伸び上がった。空気が重たく、ぬるま湯のように澱む。周囲の魔力濃度が跳ね上がる。まともな人間なら立っていることすら難しいだろう。彼女の手を掴んだ少年は崩折れそうになるのを必死で堪えていたようだが、耐えきれなくなったのか盛大に嘔吐してその場にしゃがみこんだ。足元の青い水たまりが、濁る。
巨大な黒翼を広げ、現れたのは聖界に伝承として伝わる災禍の象徴である。頭上に割れた天輪を頂き、呪われた宝石のような黄緑色が彼を、そして周囲を見渡した。薄く笑みを浮かべるその様はまさしく女神によく似ているが、それを知るものは少ない。
災禍の元首、全て災いを統べるもの、等しく破滅を呼ぶ黒翼の天使。
彼こそ、災の魔王である。
魔王は自分の魂を分けた眷属を見下ろして、優しく頭を撫でた。
「やぁイヴ。何故こんな場所にいるのかは分からないけど、少しお行儀が悪いんじゃないかな」
「申し訳ありません」
彼女はするりとそこから降りて、少年の隣に跪いた。
「ひどい場所だね。女神教の大神殿が、聞いて呆れる。彼女もこれではきっと……退屈だろう。少し、面白くしなくては。ねぇ、アルク?」
魔王は教壇を降りて、空っぽの胃をひっくり返し続けている勇者の顔をぐいと持ち上げた。口の端から体液を零しながら、恐怖で顔を引き攣らせながら、少年は魔王を見た。歪な宿命が交差した。
わなわなと震える唇が、助けてください、と、そう形作ったのを魔王は見逃さなかった。
「いいとも。助けてあげよう。ここで起きたことも、君の犯した罪も、後悔も苦悩も絶望も良き日々の思い出も君の名前も、全部なかったことにしてあげる。だからもう、苦しまなくていいんだよ。もう泣かなくていいんだ。もう大丈夫」
そういうと、魔王は彼を一度抱きしめた。恐怖からかそれとも安堵からなのか分からない嗚咽が神殿に響いた。彼女はそれをじっと見ていた。
――よく見ておけ、そこの”幽霊”。ここにおわす方こそ、世界を救うため世界を滅ぼす魔王だ。お前たちの罪が呼んだものだ。もう誰も、このひとを止められないだろう。
魔王の手には、鍔のない、時計の長針のような形をした黒い剣が握られている。彼はそっと少年の細い体を解放すると、その心臓に向かって一気に剣を突き立てた。吐瀉物と涙が混ざった床へ打ち倒され、苦しそうに彼は身をよじる。
「ああ、少し辛抱してくれないか。これは別に体を切り裂くためのものではない。我が友が、牢獄に住む悪魔の鎌を真似て作ったものなんだ。魂にだけ干渉する剣だよ。君を殺したりはしない。お別れは……そう、自分との別れの挨拶はいいかな?
さぁ、さようならアルク。君という存在は今日でおしまいだ」
魔力が剣を伝い、術式が展開される。従僕の勇者が生きてきた今日という日までの記録の一切が、削り取られていく。彼という人格を形成していた礎が、崩壊していく。胸元で僅かに光を放っていた勇者の証からそれが失われた。剣が引き抜かれる。
瞼を閉じていた少年は、しばらくするとゆっくり起き上がった。ぼんやりと周囲を見渡して、彼女と、それから魔王を見て、首を傾げた。
それを見て、魔王は女神のように、母のように、微笑んだ。
「初めまして。そしてようこそ、世界へ」
影の中に沈んだふたりを確認した後、彼女はあらためて神殿を見渡した。運命の糸を乱さぬように、術式はこの場にいる全てのひとの中からも従僕の勇者という存在を消し去った。もう誰も、彼のことを覚えていない。
ただひとつ、そこに存在する神官の幽霊以外には。
「災禍とは」
彼女は色の違う瞳でそれを見つめた。彼女には、未来を視る力はない。だからこの場所がこれからどうなっていくのか、或いは新しい彼がどうなってしまうのか、それを知る術を持たない。
「常に、理不尽に振るわれるものである。然るに、誰を恨むのもお前の自由だ。もっとも、神殿を汚したことに我が王は随分お怒りになっていたようだがな」
それから虚空を睨んで、こうぼやいた。
「だから人選ミスだと、そう言ったんだ」