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Seven Seas 航海日誌(PNo.95 クルクス・ラ・ソール)/後

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黒武士道(41)
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2017-12-23 18:12:06

定期更新型ネットゲーム『Seven Seas』のPNo.95 クルクス・ラ・ソールの航海日誌・後半部分です。
ごく軽度の暴力的・性的な表現、登場人物の死亡などが含まれます。

<前編>
http://privatter.net/p/2211426

ストームレイン篇
page2…ⅩⅩⅤ『深紅の影 ネロ・ヴェスパー』
page3…ⅩⅩⅥ『海底亡霊王 ルヴナン』

辺獄の箱庭篇
page4 …ⅩⅩⅦ『辺獄の箱庭』
page5 …ⅩⅩⅧ『Valhöll-Ⅰ/再会の時は来たりて』
page6 …ⅩⅩⅨ『Valhöll-Ⅱ/同胞達はかの地にあり』
page7 …ⅩⅩⅩ『Valhöll-Ⅲ/烈日を作った女』
page8 …ⅩⅩⅪ『Valhöll-Ⅳ/そして烈日は上天へ還る』

最終章
page9 …ⅩⅩⅫ『帰還報告』
page10…ⅩⅩⅩⅢ『盲目の女教皇』
page11…ⅩⅩⅩⅣ『- 0ntology -』
page12…ⅩⅩⅩⅤ『ネロ・ヴェスパーの正体』
page13…ⅩⅩⅩⅥ『REVIVAL - REBORN - EXODUS』
page14…ⅩⅩⅩⅦ『ソーンツェグラード防衛戦/前』
page15…ⅩⅩⅩⅧ『ソーンツェグラード防衛戦/後』
page16… EX-Ⅰ 『《鱗》』
page17… EX-Ⅱ 『少女と怪盗 - パトリツィオの説得』
page18… EX-Ⅲ 『浮遊邸の自動人形』
page19… EX-Ⅳ 『Valhöll-Ⅴ/Busybody』





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『深紅の影 ネロ・ヴェスパー』
ストームレイン海域にて

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 それが教主クルクスの前に現れたのは、探索を終えて帰路に着く最中のことだった。
数多くの船が、命が、財宝が、無惨にも散った嵐の海域。
潮と暴風が命ある全てを責めるかのように絶えず荒ぶの底、残骸のみが積み重なっている、
却ってその場にいる者の心を乱すほどの静寂が支配する空間にそれがいた。

 肉眼ではなく、霊視によって周囲を視る死者の視界に入ってなお、教主は待ち構えているものが
ヒトの形をしているということしか分からず、肉眼で直に確かめても変わらない。
それは朧に揺らめく深紅の影であると言う他に形容しがたい存在であり、
対峙した時点では、この影も周囲の物らと同じ、ただの残骸なのではないかと思われた。

 影は教主が五間程度の間合いを置いて足を止めたのを合図に、静かに左腕を教主へと掲げ、
手にやはり朧げな何か、辛うじて輪郭から剣と分かる武器を現出せしめ、
ようやく幽かな殺気を放って存在感を示した。とどのつまり、これは明確な敵意を持っている存在なのだ。

 影が地を蹴り、教主との間合いを詰め始める。水中にもかかわらず抵抗を受けぬ挙動に、
対峙する敵がスキルストーンを持っていることを悟り、教主はコートの左腕に備えた盾から
一対の柄だけの剣を引き抜いて構え、魔力によって赤と青の刀身を形成する。
ほんの数秒で間合いを詰めた影の剣を教主は双剣を交差させて受け止め、
黒い剣と赤と青の魔剣が火花を散らし、僅かに押し込まれながらも教主が切り払って影が数歩の間合いを飛び退く。
刀身の色を帯びた残像を残しながら教主は影へと踏み込み、左腕に持った赤い剣で鋭く斬り掛かるが、
影は右腕でこれを阻む。強かだが硬い手応えであり、間近で見た姿から影はどうやら鎧を纏っているらしい。

 教主の一撃を止めるとほぼ同時に影が腕で打ち払い、反撃に移る。
水平に剣を振り抜き、それを教主が右手に持った青い魔剣の櫛状の刀身で受け止めるが、
本来防御の用途に特化した魔剣の刀身を容易く打ち砕き、教主は身を捻って影の攻撃を辛うじていなす。
刀身を再形成するまでの一瞬に間髪入れずに打ち込まれた第二撃を教主は盾で受け流すように阻むが、
完璧に攻撃を逸したはずだった盾の鋼鉄の外装もまた切り裂かれ、内部に備えられた照明器具が露出する。
続く第三撃が打ち込まれる前に、今度は教主が飛び退いてこれを躱し、両者の間合いが二間ばかり開いた。

 元より武勇に秀でた戦士ではないが、ともあれ、この影が自身を上回る力量を持っている事を悟り、
教主は双剣の柄頭を連結させて長柄とし、それは自動的に十字槍へと変容した。
見た者を生かして帰すことなく必ず葬ってきた、教主クルクスのが持つ切り札の一つである。
この切り札をもって、教主はようやく影の持つ剣と対等に斬り結ぶことが適い、
両者は暫時、互角の剣戟を演じた。少なからず教主にとって、打つ手がなかった訳ではない。
これに関しては影も同じかもしれないが、互いの出方を窺っているのである。

 しかし、スキルストーンの力で海底での活動を行っている教主はいつまでも戦いを続けることは出来ない。
この影が一体何者であるかを探るべきという考えこそあったものの、切り札を見てしまった敵を生かしてはおけず、
教主は敵に新たな手札を切る間など与えぬまま、一息に仕留めに掛かる。
周囲の魔力の流れが教主を中心とした奔流へと変化し、教主の金色の瞳が深紅の輝きを放つ。
肉体への多大な過負荷を引き換えに、魔力の循環によって身体能力を数倍に引き上げる秘法、
これも同じく切り札の一つ、秋霜烈日だ。

我が原罪を以てレクス――――」

 たとえ認識が追い付こうと、対処することは能わない速度で、教主は必殺の一撃を構える。
あらゆる罪を断つ処刑の槍、回避も防御も意味をなさず、射程内であれば対象の位置さえも問わず、
罪を問われうるものであれば決して逃れられない処刑が執行される。

「――――罪を断つタリオニス!!」

 次の瞬間、教主の槍は確かに影の左胸を捉えていた。処刑は執行された筈だった。
だが、それにもかかわらず――全身を軋ませながら影は面を上げ、
胸に突き刺さった穂先を右手で捕らえ、左手に持った剣を掲げる。

黄昏の獣よダムナティオ落陽を為せメモリアエ

 酷くノイズの掛かった辛うじて男の声と判別できるそれで、剣の銘だろうか、何かを唱える。
影の剣からどす黒い魔力が放出され、教主は理論ではなく、本能でその剣が何であるかを理解した。
正確には、死を上回るもの――不滅なるものさえ滅ぼしうる何かを感じ取ったのだ。
自身の槍のように因果さえ捻じ曲げる不可避の力は感じないが、それでもなお、
この剣が上天に戴く太陽を滅ぼすものであると予感したのである。
必ず躱さなければならない。しかし、槍から手を放し、可能な限りの回避運動を想定しても、
既に手遅れだった。太陽を落とす剣が、烈日である教主へと振り下ろされた。

 結果、影の剣は阻まれた。教主の前に光り輝く女神、リートゥシアが顕現し、
強固な障壁を展開することで、楕円形の虹が漆黒の刃を止めた。

「そうか、貴様の下には"それ"がいるのだったか」

 感情さえ読めぬ声で、確かに影がそんなことを言った。
庇う格好で女神が教主の前に浮かびながら、影を見下ろして「あなた、何者なの?」と冷淡な調子で問うと、
僅かな間を挟んで、影は「我が名はネロ。黄昏の獣、ネロ・ヴェスパーである」と名を口にした。
本来、女神は教主の傍に在りながら、いかなる場合でも見守るのみだが、それでも今回は彼を助けた。
つまり、このネロなる影に、それ程までの脅威と異質さを感じ取ったのである。

「まだやるつもりなら私が相手になるけど?」

「――――いや、此度はここまでとしておこう。
 今の手で討ち損じたとあらば、次の手を講ずるより他はない」

 次の瞬間、女神の放った魔力の弾丸が影の胴を捉えて紙くずのように吹き飛ばし、
数度地に叩き付けながら十数間ばかりの先で木造船の残骸へと直撃させた。
崩壊した瓦礫の中から影は剣を杖代わりに、胴を右手で押さえながらゆらりと立ち上がり、
そして、暗い海底へ溶け込むようにして立ち消えた。
気配が完全に消えたのを確かめてから女神は徐ろに教主の方へと振り返り、

「ごめんなさい、つい頭にきたから吹き飛ばしちゃったわ。
 ここで捕まえておくべきだったんでしょうけど」

 助けられたという事実を作ってしまったからか、自身の失策を認めてか、そう言った。
教主は槍を手放し、剣の柄へと戻ったそれを拾い上げて盾の残骸に備えられた鞘へと収めながら、
「いえ、とにかく命拾いしました。ありがとうございます」と女神へ礼を言う。
ふと、切り札を続けざまに使った反動で眩暈を起こした教主が前のめりに倒れ、
女神は咄嗟に体を支えようとしたが、幽体である彼女の手はすり抜けてしまった。
地に両膝を突いた教主を見下ろしながら、女神は悲痛な表情で手を引き、ドレスの裾を握り締めて、
「すぐ迎えを呼ぶわ。空気の残量は大丈夫?」と尋ねた。

「ええ、まだ当分は。しかし、貴女には格好のつかぬ姿を、――――」

 教主は朦朧とする意識の中でどうにか受け応えをしようとしたが、
せめて何か女神の気が軽くなることの一つでも言おうとしかけた所で気を失った。
女神はすり抜けないように恐る恐る彼を抱きしめる姿勢を取り、それから、
魔力で本来は彼にしか扱えないスキルストーンを外から操作して船で待つ従者へと連絡し、
迎えが来るその時まで、何者をも寄せ付けぬよう彼を守り続けた。

§

「――――じ、――――、我が主――――」

「……揺するな、空気SPが減る……」

 迎えに来た従者・ピューパに肩を揺すられる感覚が教主クルクスに気付けとなった。
教主が顔を上げると、相変わらずの無表情のようで、どこか心配そうな従者の顔が目近にあり、
それを軽く手で押し退けると海中にワイヤーが垂れ下がり、遥か上方まで続いている。
既に女神の姿はなかった。教主が従者に尋ねると、迎えが来るとすぐに入れ替わるように霧消したらしい。

 スキルストーンは教主が持つものと同期させている子機を持っているのだろうと推測されたが、
普段身に着けているボディスーツではなく、海底活動用に用意していたのか、真新しいウエットスーツ姿だった。
あまり豊満な体つきではないものの、妙に胸を強調するよう仕立てられているそれに教主は片眉を上げ、
「イナバの趣味だな」と呟くと、従者は何も答えず、返事の代わりに小さく何度か首肯いてみせた。

「ですが、これが役立つ面もあります。胸を強調しておけば視線が誘導されるので、
 暗殺を謀るには非常に有効な手段として働きますから」

「それを立証しうる根拠は?」

「証人は数いますが、今は全員あの世にいます」

「……なるほど、それは心強いな」

「ジョークです」

「…………」

 教主が自力で立ち上がれないとみるや、ピューパは華奢な体躯に見合わない膂力で彼を小脇に抱えて、
怪訝そうに見上げる顔に視線を合わせぬようにしながら、垂れ下がったワイヤーを二度引いて合図を送り、
そのまま船のウインチで勢い良く洋上へと引き上げられて行った。

§

 同時刻、いまだ海底探索協会に属する探索者達が到達していない海域の、深く冥い底。
引き摺るようにゆっくりと海底を移動する朽ちた大型船が一隻あり、
竜骨の周りや舳先に繋がれた数多の綱の先に、何か白いものが群がっている。
それらは全て一切の肉も毛も削げ落ちた白骨であり、ただ黙々と船を牽き続けているのである。
死の奴隷が牽引するこの船は、まさに幽霊船と呼ぶに相応しい様相を呈していた。

 船内もやはりぼろを纏っただけの骸骨が跋扈しているが、船室の一つ、
奪ってきたのであろう財宝や戦利品が集められた部屋に、生身の人間の姿がある。
肩までの長さに切り揃えた紫色の髪の、右眼を眼帯で隠した年若い少女の姿で、
横幅の広い海賊帽を被って金装飾付きのコートを肩に掛けて羽織り、露出の多いビキニを着けている。

 苔やフジツボに覆われた椅子に深く体を沈め、肘掛けに頬杖を突いている少女の前に、
周囲の暗闇から溶け出すかのように、深紅の影が現れ、

「お初に御目に掛かる。貴様がルヴナンだな?」

 徐ろに一礼をして顔を上げ、ルヴナンと呼ばれた海賊の少女と対面した。





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『海底亡霊王 ルヴナン』
ストームレイン海域にて

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 冥い海底を這う幽霊船の船室で闖入者と相対した海賊の少女ルヴナンは、しばし椅子にふんぞり返りながら
眼前の朧に揺らめく深紅の影を睨みつけていたが、影がゆっくりと肩の高さに両手を上げたのを確認すると、
「てめぇは?」と不機嫌そうに吐き捨てるように言った。

「我が名はネロ・ヴェスパー。貴様に契約を持ち掛けに来た者だ」

「契約か、俺が誰か分かって言ってんだろうな?」

「然り。対価も心得ている。陸に上がる手段が欲しいのだろう」

 ネロの言葉に、ルヴナンの眼の色が変わり、椅子に座り直して今度は膝に頬杖を突き、
「話を聞かせて貰おうじゃねぇか」と上機嫌に言い、ネロは両手を下ろして、
それから懐の辺りから輝く水の入った小瓶を取り出し、ルヴナンに見せる。

「オケアヌスの海水だ。貴様も船乗りならば果ての海の噂くらいは知っていような?」

 オケアヌス、あるいはオーケアノスの領域と呼ばれる神話の海。
概ね、世界の果てを囲う無限の大洋として語り継がれ、今では神話の中に形跡を残すのみの存在であり、
その海の水だという影の話をルヴナンは眉に唾を付けながら聞いていたが、
なおも「それで、それがどうした」と相槌を打ってネロに語を継ぐよう促した。

「これを持つ限り、少なからず持つ者の周囲は陸上であれ概念的に海という扱いなる。
 海に縛られた者がその軛の中にあるまま土を踏む数少ない手段だ。
 疑わしければ部下の一人にでも持たせて陸へ放り出してみるがいい」

 ネロが投げ渡した小瓶はゆったりと水中を舞ってルヴナンの手中へと収まり、
手首を返したり見上げたりとそれを様々な角度で眺めてからネロへと向き直って、
「マジなら悪くはねぇ話だな。で? これを積んでまで結びたい契約は何だ」とニタリと笑いながら言うと、
ネロは朽ちた木張りの壁に背を預けて腕を組み、「貴様の持つ秘宝の力を借りたい」と切り出し、

「全ての死者を統べる秘宝ならば、死者をあるべき場所へと送還することも出来よう」

 首を僅かに捻ってルヴナンの姿を横目に捉えながら、オケアヌスの海水との対価である働きを提示した。

「それは……てめぇか?」

 件の秘宝某によるものか、このネロという影が死者であることを読み取ったルヴナンに対して、
ネロは一拍の間を置いて「私ではない」と否定した。

「標的の名はクルクス・ラ・ソール。今はストームレインに滞在している。
 奴を現世より抹消する――それが私の目的だ」

§

 教主クルクスが探索から帰還して間もなく、ストームレインの洋上を航行する彼の私有船内に、
警報サイレンが響き渡った。教主が速やかに内線電話で外からの襲撃を警戒している従者ピューパの元へ連絡すると、
近付いてきたものではなく、レーダー指示器の反応から私有船の真下に突如として現れたものであるという。
続いて、スキルストーンに通信が入る。護衛のソフィーナからの着信だった。

「おいクルクス、団体様がお越しだぞッ!! お前にガイコツの知り合いなんかいたかよ!?」

「お友達でないのでは確かだな! そなたはそのまま甲板で応戦せよ、じき応援を送る!
 船に被害が及ぶことはないのだ、存分に暴れるがいい!!」

「しゃーねぇな、任されてやるよォッ!!」

 そのまま教主はピューパに対亡霊戦装備での応戦を命じて受話器を下ろし、
外装が破損した盾を左腕の防具に装着すると、足早に船室を出て船内にいるはずの、
自身の世話係を探して心当たりのある場所を巡り、間もなく厨房に世話係の自動人形・カレットと、
娘のエリクシアを見つけた。聞くに、この時には既に止んでいたが、低く唸り続けた警報に怯えて、
エリクシアは近くにいたカレットの元に駆け込んで来たのだといい、父親の姿を認めるとエリクシアは
教主のコートの腹辺りに抱き着き、教主は娘の背と頭を順に擦って落ち着かせ、
そのまま世話係に向き直り、緊急時の行動を手短に説明する。

「我々は甲板で客人を饗さねばならない。エリクシアはそなたに預ける。
 この船を外からの力ではどうこう出来ぬ以上、船内に危険は及ばぬから安心して待て。
 ――エリクシア、この父を信じて待てるな?」

 娘を優しく諭して離れさせると、心配そうな目をしているエリクシアとカレットに、
「案ずることはない。我々三人が揃えば軍隊を持ってこようがびくともせんさ」と嘯きながら、
「疲れて帰ってくることであろうから、夕飯は柑橘類でも添えてやるといい」と口添えして、
去り際に小さく手を振って、早々に踵を返して厨房を立ち去った。

「父上、――」

「いけないわ、エリクシアちゃん。旦那さまを困らせたくないでしょう」

 父の後を追おうとするエリクシアをカレットは制止すると、彼女の肩に両手を置いて、
カレット自身も不安や教主の身を案じているであろうに、努めて気丈に振る舞い、

「大丈夫よ、大丈夫。旦那さまはとっても強いんだから」

 どこか自身に言い聞かせるように、エリクシアと目線を合わせてそう言った。
エリクシアの肩に手を置くカレットの磁器製の指もまた、微かに震えていた。

§

 機械仕掛けの私有船デア・エクス・マキナ号の船縁に鉤爪付きのロープが幾つも掛けられ、
怒涛のように海賊服を着て無骨なカトラスや単発のピストルで武装した骸骨達が甲板に押し寄せている。
生体認証の電子制御で閉ざされた船内への扉を骸骨の海賊達が突破することは能わず、
また、船ごと海底へ引き摺り込まんと船底に打ち込まれる鎖のついた長大な鉄杭も女神の加護によって、
私有船に傷一つ与えられずに海底へ再び沈んでいく。

 甲板で無数の敵を相手取って大立ち回りを演じる船員が二人いる。
伸びっぱなしの長い桃色の髪を振り乱しながら、教主から賜った光の聖槍を手に、
特に優れた武勇と槍から放たれる閃光で海賊を寄せ付けずになぎ倒しているソフィーナと、
人間の形をしていながら、人間を遥かに超えた身体能力と技巧によって障害となる海賊を打ち砕きながら、
船縁に掛けられた鉤爪を蹴り外し、あるいは手にした銃で正確に撃ち抜いて破壊している、
ボディスーツを身に纏った黒髪の女ピューパの二人である。
五○か一○○か、相当の数の骸骨が絶えずに私有船へと押し寄せ続けるが、
この二名の武勇によって戦線は甲板で維持されていた。

「気味悪ィな! 俺、こう見えておばけ嫌いなんだぜ!?」

「……ギブアップですか?」

「冗談言えよ、物の数じゃねぇっての!!」

 群れる敵の一群を槍で薙ぎ倒しながら、ソフィーナが吠える。
散らばった骨が甲板に叩き付けられ、それが灰となって暴風に攫われていく。
高所に陣取っていた骸骨の一体がピストルを構え、ソフィーナが立ち止まったの確認した途端に、
彼女目掛けて発砲するが、ほぼ同時にもう一発銃声が響き、鉄のぶつかる音がしたきりで、
銃弾がソフィーナに届くことはなかった。彼女に届く前にピューパが弾丸を撃ち落としたのである。
ピューパは続けざまに高所に三体並んでいた骸骨の頭を撃ち抜き、その背後から迫っていた骸骨が
武器を振り上げた所へピューパは後ろ回し蹴りを見舞い、骸骨は堪らず砕け散った。
続けて雪崩込んで来た十数体程度の骸骨は横から閃光が一閃し、纏めて灰と化す。
先の救援の礼代わりか、今度はソフィーナが聖槍の光でピューパを助けたのだ。
二人は互いの背を預ける格好で、周囲を取り囲む骸骨達と対峙する。

「それで、だ。クルクスの奴来るの遅くねえか?! あいつだけ穴熊決め込む気かよ!」

「今頃はご息女に泣き付かれてらっしゃるのではないかと」

 ソフィーナとピューパの頭上を人影が通過し、船縁に着地すると目にも留まらぬ速さで、
船縁に掛けられた鉤爪を鉄製のブーツの底で踏み砕いてまた跳び、踏み砕きを繰り返しながら、
それは甲板の方へ向きながら船首に着地した。フード付きのコートを纏った人物、教主クルクスの姿だった。

「――双方残念! 正解はたった今到着し颯爽と登場する、だ!!」

「カッコつけてるけど遅ぇよ!!」

「そうは言ってくれるな。私とて娘には弱いのだよ」

 食って掛かるソフィーナを意に介するでもなく軽く流し、犇めく骸骨達を黄金の瞳で捉えた教主は眉を顰め、
「海賊島の者ではないか」とピューパに声を掛け、ピューパはそれを「恐らくはそうかと」と肯定した。

「海賊島? おい、クルクス。説明しろよ」

「このテリメインの秩序は海底探索協会が握っているが、その影響下にない海賊らも一定の勢力を持つ。
 協会が未開と定義している海域や、監視の行き届かぬ海底の一角を連中は占拠している。
 大小の規模はあるが、幾つか点在する連中の根城を海賊島と呼んでいるという訳だ」

「それで、お前なんか骸骨に喧嘩でも売るようなことしたってわけか?」

「まさか。それならば少なからずそなたにも調査段階だったこの情報を共有している。
 理由は分からぬし、ここを縄張りとはしていなかったはずだが――、
 骸を従えている海賊、海底亡霊王なる通り名を持つルヴナンの手の者で間違いなかろう」

 そこまで言った所で、教主は高台となっている船艫を見上げた。
死者が持つ特有の視界に、骸骨でも同乗者でもない人影を捉えたのである。

「意図は当の本人に聞くのが手っ取り早かろう。
 機関室の方に向かったらしい、そなたらは引き続きこちらを任せる!」

「任せやがれっての!」

 ソフィーナとピューパが突破口を作ったのを合図として、教主は船縁の上を機関室目掛けて走り抜けた。

§

 私有船デアエクスマキナ号の機関室の前で、電子パネルに手を当てたり、
鉄製の扉の隙間にカトラスの刀身を捩じ込もうとする海賊服を着た少女の姿がある。

「チッ、やっぱり開かねえか」

 忌々しげに扉に蹴りを入れるが、鉄の扉はやはり何の反応も返さない。

「その扉はこの船の者にしか開けられぬ仕組みになっている。諦めたらどうだ」

 少女の背後に、甲板を抜けた教主が船縁から板張りの床に着地しながら声を掛けると、
「どうにもそうらしいな」と少女は芝居がかった所作で首を傾げ、振り向きざまに、
コートの懐からピストルを抜いて発砲するが、その動きを読んでいた教主は容易く射線を躱し、
銀色の義手である右腕でその喉を掴み上げた。

「――! おいおい、女子供にゃ手をあげねぇって聞いてたんだぜ?」

「戯言を。調べはついているぞ、貴様のその体は他人から奪い取ったものだろう」

「は、はは……!! 怖ぇ怖ぇ、もうバレてやがるぜ」

「海賊島のルヴナンだな。ストームレインは貴様の埒外の海域の筈だが、何をしに来たのだ」

「決まってんだろ、目的は勿論てめぇだよ――そら、捉えたぜ!!」

 ルヴナンの眼帯で隠された右眼が虹色の光を放つ。何かを仕掛けられる前に、
教主はルヴナンの首の骨を握り潰そうとしたが、既に体が透け始めており、右手はすり抜け、
掴み上げられていたルヴナンの体が床の上に降り立った。

「ネロの野郎の話の通り、死者ってのは間違いねぇらしいな。
 強制送還だ、在るべき所へ行きやがれ!!」

 教主の体が更に透け、女神が光の粒子とともに顕現して教主に手を伸ばそうとするが、
教主はそれを手で制して「女神を欠いてはこの船はひとたまりもない! 留守は任せる!!」
そう叫んだのを最後に、姿が完全に消えてしまった。
女神は反射的に眼前にいたルヴナンへ魔力の弾丸を放つが、その間に深紅の影が現れ、
黒い剣を渾身の力で振り抜き、弾道を逸らして、洋上で炸裂した弾丸の余波で周囲の空気が激しく震えた。

「ッぶねぇな、いるならいるって言えや」

「目的は達したぞルヴナン。女神の怒りに触れたのではひとたまりもない。引き上げだ」

「あいよ」

 深紅の影が踵を返すと同時に赤黒い魔力の渦が立ち昇り、ルヴナンを伴ってその場から姿を消す。
光り輝く女神はその美貌に憤怒の表情を浮かべ、ドレスの裾を力一杯握りしめ、

「――――ネロ・ヴェスパー」

 怒りを押し殺しながら深紅の影の名を口にし、そして、教主が消えてしまう直前に残した
留守を任せるという言葉に従って、いまだに戦いを続けている教主の従者二人の元へと向かった。
女神リートゥシアによって甲板にいた骸骨達が一体残らず灰とされたのは、それから僅か数秒後の出来事だった。

§

 窓のない密室、所々に赤や青が挿された白い煉瓦の壁で、高い天井は重厚な梁が見える木造、
タイル張りの石の床の部屋は照明の類など何もないのに明るく、木製のテーブルや棚がいくつか並び、
製図板や色とりどりのガラスの小瓶、書きかけの設計図などがひしめいていた。
その部屋の一番大きなテーブルの前に、周りにそぐわない肘掛けのついたキャスター付きの椅子があり、
椅子に足を拘束具で固定されている長い金髪に褐色肌の若い男が、黙々と何かの図面を書いていた。

 ふと、テーブルの上、男のすぐ傍にあった大きな青い硝子玉のついた地球儀に似た器具が、
硝子玉と同じ青色の淡い光を放ち始め、男は手にしている黒の羽根ペンを銀製のペン立てに置いて、
器具の方を見遣ると、器具のスタンドに数個並んだボタンの一つを細長い指で押す。
どうやら器具は観測機らしく、硝子玉に赤い光点が表示され、それが点滅しながら下へ下へと移動している。

「うん? ここに外から新しい個体が来ることは無いはずなんだけどね」

 誰も聞くものなどいない独り言を漏らした男は、更に別のボタンを押して、
光点の隣に表示された細々とした文字列を見ると、途端に切れ長の碧眼を見開く。

「――――4期S型L群C個体! これは驚いた、あれは不滅に設計したのに!
 しかもまだ生きているのか? そうかそうかこれは面白い!
 元の座標に送り返すのは簡単だけど、折角だから入れてやろう! ははは、きっと驚くぞう!」

 男は椅子を反転させてテーブルの縁を押した反動で椅子ごと移動し、
機械の並べられた別のテーブルの前へと移動すると、誰もいない密室で鼻歌まじりに機械を操作し始めた。




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『辺獄の箱庭』
████████下層・創造主の工房にて

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 教主クルクスは、気が付くと西洋式の窓のない部屋に立ち尽くしていた。
自身の私有船を襲撃した海賊ルヴナンによって何らかの力で、その言葉によると死後の世界へと送還されたはずだが、
この目算でおよそ四五平米程度の狭からず広からずの部屋がそうとは到底思えず、
様々な機器や資料の束が散乱し、機械の穏やかな駆動音だけが規則正しく響いている室内を訝しく思っていると、
背後から声を掛けるものがあった。男の声である。

「やあ、久しいね4期S型L群C個体。それともそちらではほんの数日前の出来事なのかな?」

「――《創造主》。なるほど、死後の世界であるというのは間違いないらしいな」

 眉を顰めながら振り返った教主とは対照的に、教主に創造主と呼ばれた褐色肌の若い男は、
椅子に脚を拘束された格好のまま切れ長の碧眼を細めて陽気に笑いかけた。
教主が左腕に備えた盾に取り付けられた剣の柄に手を伸ばそうとすると、創造主はそれを手で制して、

「おっと、それは意味がない! 憚りながらこれ以上死にようもないのでね。
 キミが無意味な労力を好まないように、私も無意味な痛みは好きじゃあないのさ」

 本当に切り捨てられたくはないのだろう、少しばかり必死なようにも認められる創造主の釈明に、
教主は小さな舌打ちを一つして手を下ろし、それを確認すると創造主は深く安堵の息を吐いた。
それから椅子に縛られた膝に両肘を置き、顔の前で指を合わせて「説明が要るだろう?」と以下の様なことを語り始めた。

「4期S型L群C個体、いや、識別名で呼ばれるのも面白くはないだろう。ではソーリス君!
 天上の理想郷でキミに討ち滅ぼされた筈の私が、なぜこうして目の前にいるのか、
 なぜ見ての通り幽世とは思えない私の工房にいるのか? その答えはただ一つ。
 ここが私の創った作品と、創造主である私自身が死後に至る場所だからさ」

「随分とぬるい環境の地獄もあったものだな」

 この創造主と呼ばれる錬金術士の所業を知る教主はそう吐き捨てたが、

「いやあ、地獄という認識は正確ではないよ。しかして天国でもない。
 地獄でも天国でもない場所、どこでもない世界の狭間。そうだな、仮に辺獄と呼ぶことにしようか」

 そう訂正し、要約するに、どこにも行き場などなかったのだろうという風に教主は認めた。
「ところでそれは?」と教主が脚の拘束について尋ねると、創造主はわずかに口を尖らせながら、
「誰かにされた訳でもないんだが、――」それ以上は知る由もないのだろう、一度は言葉を濁らせ、

「気付けばこうなっていたんだ。何を試しても外れないし、私の罪業の結晶なのだろうねぇ」

 当て推量になる所が気に食わなかったのか、目を伏せて曖昧な結論を口にする。
「まあ話の腰を折るほどのことでもないよね」と苦し紛れに話題を切り替えようとするのを、
少しばかり溜飲が下がる思いがしたので、教主は阻まなかった。

「ここは辺獄でも最下層でね、上の階層に私の創ったホムンクルス達、
 と言ってもほんの一部なんだけど、サンプルとして保存した個体が住んでいるんだ。
 上層にもこの際名前を付けてみよう。辺獄の――箱庭だ。箱庭が相応しいだろう。
 私は直接足を運んだことはないがね、良い所だよ。
 ソーリス君の戦友達も、ああ、惜しいことに伯父はいないが、お師匠さんもいるよ」

 戦友と、特に師匠と聞いて教主の目の色が変わったのを創造主は見逃さず、畳み掛ける。
顎で部屋の一角、鉄製の扉を軽く指して、テーブルの上に放り出していた細長い鍵を教主の前に出し、
「あそこが上層に繋がっている。鍵は作ったんだが、階段があってさ、ほら、このザマだろう?」
脚の拘束を空いている方の手で叩きながら、陽気に笑い、そして、

「今すぐキミを上層に送り出すべきなのは承知しているんだが、でもね、
 恐縮なんだが私個人の我儘として、少しキミに斃されてからの心境の変化の話に付き合ってほしい」

「……汚いやつだ、断る選択肢を先に塞ぎおった」

「だってこうしないと聞いちゃくれないだろう?」

 いたずら小僧のようにケラケラ笑うと、創造主は居直って、神妙な面持ちで語り始める。

「もうかれこれ六○○○年は前になるかな、私はさる世界で錬金術士をやっていてね。
 俗世と切り離された隠者の穴蔵でも一目置かれる存在で、セカンド・ヘルメスと呼ばれてたんだ。
 当時発明した観測機で遥か遠方に、我々錬金術士が目指す極北であるAZOTHを錬成した者を観測し、
 ヘルメスの再来と謳われた私はそれが許せなかった。それが全ての始まりさ。
 そこからは流石の私でも長かった。寿命を克服するために時間の流れのない世界の狭間へ逃れ、
 やがて手が足りぬとホムンクルスを作り、人格と個性を与えることで能率を上げ、
 寿命を調整しながら、更に能率を求めて特定の文化を持つ実験場を作って、
 彼らの研究がおよそ一○○○年で停滞する結果を割り出し、初期化現象を実装した。
 それから繰り返すこと五度。そこでキミが乗り込んできた。
 私が散々苦労して錬成しようとしていたAZOTHを切り札として忍ばせながらね」

 そこまで言うと、創造主は膝の上に指を組んで置き、すっと息を吸って語を継ぐ。

「確かにキミは私を殺して、永い研究の日々に幕を引いた。それは私にとって救済でもあったんだ。
 イレギュラーではあったが、過程はどうあれAZOTHを錬成したホムンクルスを私は作った。
 その結果をもっていよいよAZOTHへの執着からは解放され、今は安楽な一介の発明家さ。
 私なりに感謝しているし、私が作った者達には出来る限りの埋め合わせをしようと思っている」

 とうとう話題が尽きた創造主は教主へ鍵を投げ渡し、微笑みながら「逢って来なよ」と囁いて、
椅子を半周させて研究の産物が並んでいる机へと向かった。
教主が扉の鍵を開けていると、創造主は背中越しに「それと、最後になんだがね」と前置きし、
「ソーリス君、私の事もヘルメスと呼んでいただけるかな?」と尋ね、
教主はわずかに思案してから創造主の提案を「お断りだ」と却下し、扉を開いて工房を去っていった。
階段を登る鉄靴の高い音が遠退くのを聞きながら創造主は声高く笑い、天井の太い樹の梁を見上げながら、

「興味を示したのは師匠の話だけか。もう少し驚いてくれると思っていたんだが!
 いや全くサービスの悪いやつだね、私が原型なのが関係しているのかなあっ!」

梁は応えるはずもなかった。教主もまた、その場においてすこぶる無口だった。


§

 海底亡霊王ルヴナンによる襲撃を退けた教主クルクス一行は、私有船の食堂に集まっていたが、
その場に教主の姿はない。ルヴナンが行使した死後の世界への強制送還によって、
彼が消失した顛末を知る女神シアは同乗者らを集め、これからの方針を話し合おうと持ち掛けたのである。
集った面々は、一様に深刻な顔をし、重苦しい空気が漂っていた。

「教主はどこかに消えたわ。この事はまだ誰も知らない。
 留守を任せられた以上は教団の維持に努めるけど、貴方達も身の振り方を考えなさい」

「私は主の従者です。ですから、私はこれまで通り主の為に働きます」

「指令を下してくれる相手がいなくて大丈夫かしら」

「自分の意志で従うのです」

 ピューパは彫像のように無機質な表情の奥に鋼のような鈍い輝きを宿した瞳のままに断言した。
元より教主のためだけに付き従っているカレットも現状を維持する意思を示し、
教主の娘であるエリクシアの世話は引き続き面倒を見るのだという。
それから、女神は横目で壁に背を預けているソフィーナに視線をやり、
「あなたはどうするの」と問い掛けると、ソフィーナは伸びっぱなしになっている髪を弄りながら、

「俺だけ降りても気まずいだろうがよ。どうせ行くアテもねぇし、教団にぶら下がらせてもらうぜ。
 それに、あの野郎のことだからその内平気な顔して戻ってくるんだろ」

 目を逸らしてそんな事を言った。ふと、ソフィーナのコートの懐の中で何かが鳴動する。
どさくさにピューパからふんだくった子機のスキルストーンに着信があり、
懐から抜き出して確かめてみると九五番の探索者、即ち教主からの通信だった。
思わずソフィーナが「クルクスの奴だぞ!」と声を上げると、すかさずその場にいる皆が駆け寄り、
通信を繋ぐと電波が悪いのかノイズの掛かった教主の声が「可及的速やかに帰る」というような
意味のことを言い、通信が途切れたのか、それきりだった。

「テリメインへの滞在日数は限られています。誰かが代わりに探索を進めなくては。
 業務の引き継ぎや教団との連絡での出入りもありますし、私が担当しましょう」

 ソフィーナからペンダント型のスキルストーンを取り返しながらそう言うのはピューパだった。
ただの傀儡に過ぎないと憎まれ口を叩いていた教主が、五○年の歳月を掛けて行っている、
人形・蛹・乙女の三通りの意味を隠した名を与えた女への施しの一端を垣間見て、
女神は「やるじゃない」と空へ言い残して、そっと光の粒子を残して掻き消えた。 

§

 ちょうど一人が通れる幅の石混凝土造りの白い階段は、差し込んでいる日光がぼんやりと雪明りのように反射して、
壁に手をやって触れてみると独特の硬さがあり、どうやら古代コンクリートで押し固められているようである。

 試しに繋いだ通信が途絶してしまった後、教主は光の差す方を目指して、階段を一段ずつ昇っている。
創造主の言葉の通りなら最下層からの移動の筈だが、決して途方もない距離ではなく、
それでも階段はいささか長く、教主はそこで自問自答に近い幾つかの思索をした。
最初は地層を隔てるものにしては距離が短すぎる階段。これは物理的な因果に囚われぬものと解釈した。
次に不思議に感じられたのは、最大の宿敵であった創造主との対面の場における自身の心だった。

 死別した妻を救い出す為に一○○一年も放浪し、その果てに待ち構えていた元凶にして、
自身のみならず全てのホムンクルスの運命をただ錬金術士としての妄執のために弄んだ狂人。
確かに対面し、戦った時には間違いなく憎かったが、しかし、いざ倒して妻の救済を成した今、
再び邂逅しても――何とも思わなかったのである。自身の中では終わった事なのだろう。
師や戦友と再会した時にも、そうなってしまうのではないかというぼんやりとした不安さえあった。

 地上が近いのか光が強くなり、眩しさに教主は目を細めた。
ふと、遠い記憶、まだ何も知らぬ小僧だった頃が思い出されて、教主は苦笑いを浮かべる。
名家の生まれながらも妾腹だった自身は、命を引き換えにして母親が遺した呪い、
『この子が死ねば一族郎党に未曾有の災いを齎す』という呪縛によって命こそ奪われなかったが、
地下室に幽閉され、親兄弟から虐待されながら一○年間を過ごし、痩せた体には生傷が絶えず、
外の世界を知り得ず、読み書きだけは自身を哀れんだ侍女の一人が密かに教えてくれていた子供。
それを連れ出しに現れた老人が伯父である。その時既に病身だったが、一族を説き伏せ、
妹の子である自身を連れ出して、外の世界へと誘った時も、丁度こんな場所にいた。

『さぁ、カビ臭い地下室とも、願わくばあの血が繋がっているだけの父親と兄弟とも
 永遠におさらばだ! ついて来たまえ、新しい家が待っている! 君の未来は明るいぞ!』

 体に鞭打って無理に声を弾ませていた伯父の言葉を思い出した時、
教主は何か筆舌に尽くし難いものが胸の内に満ちるような感覚からか、
それっきり考えることを止めにして、後は心を殺してただ階段を一歩一歩登っていった。

§

 どこまでも続く丘の上に、花を結んでいる薬草を摘む、ローブを着た銀髪の女があった。
そこへふと突風が悪戯し、樹の籠に溜めていた花が舞う。吹くはずのない突風だった。
女が振り返って空を見上げると、上天には太陽が煌々と輝いており、そこに旧い男の影を見て、

「……クロード?」

 男の名前を呼ぶ。まさか、いや、確かにここに来ているのだという胸の高鳴りに突き動かされるままに、
女は薬草摘みなど放り出して、風の吹いた方角へと柄にもなく駆け出していった。




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『Valhöll-Ⅰ/再会の時は来たりて』
辺獄の箱庭上層・ドムスアウレアFSにて

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 長い階段を登りきった教主は、地下墓地のような石造りの小屋を、吹き抜ける涼やかな風を感じながら潜り抜けた。
数歩踏み出して創造主が辺獄の箱庭と名付けた空間を見渡すと、幾つかの丘とどこまでも続く草原が広がっていて、
土や柔らかい草、澄んだ空気、雲一つない晴天とそこに戴く太陽からの日差しまでもが、力強い生命力を宿すが、
それでもどこか緻密な絵画を見ているような、非現実的とも感じられる違和感がかすかにあった。
また、死を経験して現世に残った者が持つ特有の視界、全方位への霊視が利かず、そこは確かに幽世なのである。

 ふと風と草木の囁きとどこかから聞こえてくる小鳥のさえずりに混じって、規律正しい音があり、
耳を澄ますと、誰かの足音が近付いて来ている。どうやら子供か、女かが右手側から――、

「クロードっ!」

「おおうっ!?」

 距離を読み違えた教主に横から純白のローブを着た何者かが抱きつく、というよりは飛びついて、
教主は咄嗟のことで踏ん張りきれず、草原に飛びついてきた者ごと倒れ込んだ。
一瞬の間に聞き取ったのはよく聞き覚えのある声だった。懐かしい、などという一言で到底語りきれぬ声だった。
鋭い金色の眼を猫のように瞠り身を捻って背を地に預けると、鼻先が触れうるほど間近で銀髪の女が微笑んでいる。
全くの慮外だったわけではない。しかし、眼の前の女が周囲の風景と同じ違和感を持っていてなお、
時の流れさえ一瞬静止して、世界が反転するような衝撃があった。

「――――我が師よ!」

 たっぷり間を作って、教主はようやく銀髪の女を呼び返すと、女は教主の口に人差し指を添えて、
「今は二人きりよ。それとも私の名前を忘れたのかしら?」とあくまでも優しい口調で諌め、
「アモール」教主はそう訂正してから、「久しいな。一○五一年だ。本当に、久しい」途切れ途切れに語りながら、
自身より一回り小柄なアモールの体を抱き返した。暫時、二人は言葉も交わさずそのままだった。

 緑で溢れる丘の上に教主とアモールは座って、死後の様々な話をした。
全てのホムンクルスは一度創造主との対話を経るというのは一種の通過儀礼であり、
箱庭にいる者は皆全ての真実を既に知る所らしく、あの錬金術士を赦せるものかと教主が問うと、
アモールは少し首を傾げてから、「赦すも赦さないも、全部過ぎた話だったもの」とおよそ教主と同じ結論を口にした。
その答えに僅かに安堵していると、今度はアモールが教主の死後、創造主を倒した以後の遍歴と現在を尋ねる。
「長くなるが」と前置きして教主は創造主との決戦を演じた天井の理想郷までの道筋と、
妻との再会と奪還、女神リートゥシアの誕生まで、即ち奇跡の教団設立のあらまし、
従者として付き従うようになったピューパとカレット、ソフィーナを紹介して、
そこで一度言葉を切って、「エリクシアはここにはいないだろう」と意味深な事を言ってから語を継ぐ。

「エリクシアは紆余曲折を経て、今は私の手元にいる。
 ついぞ伝えることは叶わなかった事も、隠す必要はなくなったのだから教えた。
 生きている――と言えば少々語弊があるが、ともかく我々の娘は健在だ」

 娘が娘として無事に親元にいると聞いて、死したる母親は両手で口元を覆い、
「よかった」と漏らした安堵の声は震えていた。その眼は涙で潤んでいる。
そのまま両手で涙を拭うと、アモールは立ち上がって笑顔を作りながら、

「じゃあ、ますます貴方は帰らなければならないわね」

 教主へ手を差し伸べて立つよう促しながら、そう言った。
高い鉄靴の底を加えると頭一つ以上背の高い教主の顔を見上げながら、アモールはしばらく思案したが、
すぐに打てる帰還のための妙案が思い浮かばなかったか、それとも別の考えによるものか、
「でも、あのね」といじらしく、一段と優しい口調で、「貴方と会いたい人もたくさんいるの」と続けた。
そして全部で七つある丘の一つに建っている、遠目からでもはっきりと分かる白い大宮殿を指差して、

「凄いでしょう? 七曜の騎士も何人か、特に貴方と親交の深かった騎士が住んでいるわ」

 そう言った。七曜の騎士といえば、教主が生前に肩を並べた戦友達の総称であり、
今度は教主の方がなにやら思案している様子で、「月は?」と尋ねると、アモールは微笑んだまま首を横に振った。
「そうか、奴は会うにしても最後にしたいからな。思わず殴り飛ばしてしまうやもしれぬ」と冗談めかしたような、
それでいてどこか真剣な声色で言う教主の横顔を見ると、アモールは教主の背に手をやって、
「一人で行けるわよね?」と一層慈悲深い口調で言った。

「ふふ、実はね、薬草摘みを途中で放り出して来ちゃったの。
 本当はもっと貴方と話してたいけど、ね?」

「大丈夫だとも」

 教主は微笑み返すと、宮殿の建つ丘へ向かって草原を歩いていった。
アモールはその背が遠くなっていくのをしばらく眺めたり、手を振ってみせたりしながら、
すっかり姿が小さく見えるようになってから、教主が出てきた創造主の工房へと続く階段を一瞥して、
それから踵を返してもと来た道を戻っていった。

§

 人の足で踏み固められた道を十数分ほど歩いて坂道を上り、宮殿の玄関に辿り着くと、
教主はモザイク画が所狭しと並ぶ高い壁や、鏡のように磨き上げられたタイルが敷き詰められた床、
そしてなおも増改築を施す人々の活発な営みを見渡した。

 実に見事な造りだと感じ入ったが、それ以上に働いているホムンクルス達の姿に教主は感銘を覚えた。
長い耳の者と短い耳の者とが何の別け隔てもなく共に一つの事業へと取り掛かっているのである。
生前、教主は騎士であり、処刑人であり、革命家だったが、その活動の中で成さんとしていた革命は、
長耳種と短耳種と呼ばれる二つの種族を対等の地位にすることだった。
ほぼ老いることなくニ○○年を生きる長耳種と、常に老いながら長くてせいぜい七○年を生きる短耳種、
この二つの溝は文明に深く根付き教主の手腕をもってしても完全には埋まらず、
一つの国で奴隷同然の労働力として酷使されていた短耳種の公民権を確立させることまでしか叶わなかったが、
それが――全ての真実が開示され、終わった後とはいえ、理想とした光景が今目の前にあるのだから、
言葉を失うのに不思議など何もない。

「おお、ソーリス卿!!」

 朗々とした男の声が宮殿の玄関に反響し、建材を肩に担いでいだ耳の短い中年の男が建材を床に放って、
教主の下へ駆け寄り、ごつい大きな手を差し出した。教主は握手に応え、痛いほど力強く手を握られながら、
「久しいな、カリプス」と眼前の男の名前を呼び返す。

 金剛のカリプス。七曜の騎士の一人であり、事実上教主の部下だった武人である。
唯一短耳種だったため民草に軽んじられていた彼の実務能力を買い、また、
自身も地下室で迫害を受けていた経験を持つ教主が彼を盛り立てたのが馴れ初めで、
共に革命を指導する運びとなり、限定的な範囲とはいえそれを成して以降、
最後の戦いで彼がその自己犠牲をもって勝機を作り出し、結果、命を落とすまで教主に尽くした忠義の男だ。

 師であり育ての親でもあり原初の愛人でもあったアモールと同じく、
このカリプスもまた教主から事情を聞き取り、未だ生きていると聞いた時には大いに喜んだ。
どうやら教主の前向きな知らせは我が身の事と同じかそれ以上に喜ぶのだろうと感じ、
後ろ向きな事も同様に悲しむだろうという考えに至った教主は現状帰還する術がない旨はわざと伏せて、
カリプスが行っている事業、大神殿の建造についての話題へと移った。
話題を切り替えたかったのもそうだが、正確には一刻も早く二種族が共に労働している光景について話したかった。

「まだ玄関先に踏み入ったばかりだが、見事な宮殿だな」

「ええ、我々も暇を持て余しているものでしてな。
 そこで力自慢を集め、手に入った図面に従って無聊の慰めにこの宮殿を築く事にしたのです」

「ならばそなたの発案か」

「どうやらそういう事になります。某も建築家ではありませんが、ご覧の通り。
 もはや耳の長い短いに拘る意味もありませぬゆえ、自然と我らは対等の存在となりました」

 そこへ、不意に親方と呼ぶ叫び声が聞こえ、カリプスが振り返った。
色の褪せた栗毛をなで上げ、教主より一回りも二回りも体の大きいカリプスに親方という呼び名が妙にしっくりきて、
教主は噴き出しそうになるのを堪えながら「持ち場に戻ってやった方が良さそうだぞ」と声のした方を顎で指した。
カリプスは鷹揚に首肯いて懐から宮殿の見取り図を取り出して広げ、部屋の一つを太い指で示して、
「ここがモルスめの部屋です。どうぞ会ってやってください」といった風な事を言って見取り図を手渡し、

「それではこれにて御免! いずれ時間が許せばゆっくり語らいましょうぞ!」

 建材を軽々と担ぎ上げながら、カリプスは白い歯を見せて笑った。

§

 モルスの部屋の扉をノックした教主だったが、返事はなく、鍵は掛かっていなかったので、
そのまま部屋に立ち入ると、そこはほぼ真っ暗闇だった。遮光カーテンを引いているのである。
生前より知る所から人物像は変わっていないらしいと教主は口を尖らせ、カーテンを開け放つと、
ゴシック調の椅子の上に三角座りしたフリルを大いにあしらった黒ドレスを着ている少女がいた。
切り揃えられた紫色の髪の下で眠たげな目をしながら、じっと教主を見ている。

「変わらんようだな、モルス」

「……フィーネ」

「うん?」

「名前で呼んで」

「ああ、すまぬ。失念していたぞ、フィーネ」

 この少女もまた随分ぶりに教主と会ったはずだが、感情に乏しく、平気なようにも見受けられる。
冥土のモルス。同じく七曜の騎士であり、到底戦えるようには見えないが、死霊術の名家の当主で、
前線には出ずに専ら死者を使役して兵員不足や聞き取りを行う役目を持っていた。
どうやらホムンクルスの中でも特異な個体であったらしく、外見こそ少女だが、
これで完成して寿命まで老いないようになっている。また、独特な物腰からおよそ誰とも距離があった存在だった。

 モルスはすっと椅子から立つと、ローファーの足音を鳴らしながら本棚の前に立ち、
それから爪先立ちをしたり、ぴょんぴょんと跳ねたりしながら手を伸ばしている。
どうやら一冊の本を手に取ろうとしているようで、見かねてモルスより頭二つほど背の高い教主が本を取ると、
モルスは教主を見上げながら自分が座っていた椅子を指差し、意図を了解している教主は椅子に座って、
その膝の上にモルスが座った。精神まで子供のままなのかは知れないが、童話の読み聞かせを好むようである。

 本は彼女が特に気に入っている童話作家の新作らしく、教主はこれを声色を使い分けたり、
間を活かしてみたり、様々な声の演技を交えてお終いまで読み切った。
巻末のあとがきはどうも訓示めいた作者の説教ばかり並んでいて面白くなかったので飛ばして、
本を閉じると、教主は「満足したかね」とモルスの横顔を覗きながら尋ね、モルスは幽かに微笑んで、
「うん、許した」と抑揚のない声で応え、それに教主は少しぎょっとした。
モルスはドレスの上から腹の辺りに手をやり、「痛かったんだから」と言い、
教主は「そなたには悪いことをした」とため息をついた。教主は、同胞である彼女を殺したのである。

「もう終わったからいい」

 教主の膝から降りて、モルスはほんの少しはっきりとした口調でそう言った。

「それより、皆に会うべき」

「今日でそれを聞くのも三度目だが、そなたの口から聞くことになるとは思わなかったぞ」

「あと、絶対にイグニスと戦っちゃだめ」

 モルスの発言の意図はよく分からなかった教主だが、元々無闇に戦うつもりもないだけに「ああ」と応えて、
相変わらず眠たげな顔のモルスに見送られながら部屋を去って、仲間の所在に詳しそうなカリプスを捜しに行った。
教主の去った後、モルスは部屋の遮光カーテンを閉ざし、暗闇の中で再び椅子の上に三角座りをしながら、
一人で黙々と本を読み返していた。



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『Valhöll-Ⅱ/同胞達はかの地にあり』
辺獄の箱庭上層・果て無き七丘にて

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 アモール、カリプス、モルスとの再会を果たした教主は、既に人工の空に夜の帳が降り、
他の戦友達の居場所に目星もなかったため、カリプスの勧めで宮殿に一泊することとした。
広間を改築したであろう食堂にはそこに住むホムンクルス達が集まり、
無数のテーブルの一つについた教主は同席しているカリプスとの旧交を温める傍ら、
身分や地位、貧富の格差の概念のない箱庭における役割分担が各々の適性に則り、
諸々の雑用などは希望者と、不足している人員は当番制で補っているという仕組みを聞いた。

「ソーリスさん!」

 教主へ呼び掛けながら、テーブルに駆け寄る緑髪の青年が一人おり、
どうやらこれも見知った顔で、戦友である七曜の騎士の一人・木霊のアルボルだった。
カリプスと同じく王族貴族ではなかったが、治癒の術に長けており、
気は弱かったがいざという時の胆力を持っていたため、同じく高度な治癒の術を修め、
アモールの教えで医学にも精通していた教主の指揮下に入り、軍医を務めていた間柄である。
教主はアルボルの顔を見るや、椅子の背もたれに肘を置きながら、
「すまぬが貸銭は出来ぬぞ、今は持ち合わせがなくてな」と口の端に笑みを作りながら言った。
両親の借金の返済をよく肩代わりしていたのを冗談めかして話題にした教主に、
アルボルは弱った様子で「借金は戦時中に完済したでしょ!」と反論し、
事情を知る教主とカリプスは一笑した。

「冗談はさておき、よく来たなアルボル。私の所在を誰かから聞いたのかね」

「はい、夕暮れにアモールさんと偶然会って……やっぱり挨拶はしておかないとと思って」

「真面目だなァそなた。騎士が皆カリプスやそなたくらいの性格なら生前の苦労もなかったのだが」

 笑いながらもため息をつく教主に、真面目と評されたアルボルとカリプスも到底それを否定出来ないのか、
ただ肩を竦めて苦笑するばかりだったが、カリプスは「真面目な奴といえばもう一人」そう前置きして、
アルボルに「アクアの居処を知らぬか?」と尋ねた。

「アクアさんはよく住所を変えるので正確な位置までは。
 でも、今は川の近く、狩場付近に住んでいるみたいです」

「狩場か」

 カリプスは片眉を上げ、横目で一瞥した教主に「暴れるのが大いに好きな奴がいます」と
口を尖らせた。誰を指しているのか承知した教主は小さく首肯いて同じように口を尖らせる。
まずい空気を感じ取ったアルボルは大きな猫目を一層見開きながら、
「イグニスさんも随分あの頃より穏やかな人になりましたから」と弁護したが、
「あれが変わるとは思えぬな」それも虚しく受け流されるのみだった。

「まあ、ともあれ戦友らとは顔を合わせるつもりでいる。明日は川の方へ足を運ぼう」

「それがいいです。特にアクアさんとは、会うべきですよ」

 去り際に寂しそうに笑ったアルボルへ教主が問い掛ける前に、アルボルは逃げるように駆け出していった。

§

 翌朝、カリプスと、珍しいことにモルスにも見送られた教主は前夜の言葉の通りに草原を流れる川、
狩場と呼ばれる付近へと足を運んだ。既に誰かの狩りの後らしく、河原に動物の気配はない。

「よう、ソーリス」

 酒焼けした男の声が教主の名を呼び、視線をやると、岩――いや、巨獣の屍の上に座る壮年の男の背があった。

「姿が見えなかったが、ずっとオレを避けてたのか……それとも遂にテメェもこっちに来たのか、だな」

「後者だ。流石の私も顔見せくらいはするぞ、イグニスよ」

「だろうぜ」

 イグニスは葉巻に火を点け、豪快に笑って、それから立ち上がった。
高い鉄靴を履いていてなおイグニスは一回りも二回りも体が大きく、教主は見上げる格好になる。

「当ててやるよ、誰かを探してるな。ルクスルナだろ?」

「――半分正解だが、違う」

「外したか。いい線行ってるかと思ったんだがな」

 首を鳴らしながら足元に突き立てていた大剣を引き抜き、イグニスは「一戦どうだ?」と白い歯を見せて笑い、
それに乗る気質も持たなければ、先日モルスに戦ってはいけないと忠告されている教主が頭を振ると、
「まァそんな気はしてたぜ」とイグニスは心底つまらなさそうに剣を再び地に刺して、
思い出したかのように適当な石を拾い上げて川へと放り、石は四度ばかり水面を跳ね、
何の気もなしに教主も手近な平たい石を拾っては同じように投げ、これは五度水面を切った。
これを見たイグニスは吐いた煙で輪を作りながら負けじとまた石を投げ、これが六度、
教主が再び投げて七度、と繰り返す内に、互いに九度で拮抗するようになった。

「あァ、ようやく分かったぜソーリスよ。テメェのお目当てはアクアだな?」

「正解だ。随分掛かったではないか、イグニス」

 イグニスは得意げに鼻を鳴らし、葉巻を吐き捨てて踏み消した。
そして顎で対岸を指して「あっちで見たぜ」と言うと、勢い良く石を放って、
石は十度以上も水面を切り、川を渡りきってしまった。

「オレの勝ちだな」

「ハ、そなたは相変わらずだな」

「だろ? そら、行って来いや」

 巨獣の屍の上にどかっと座ったイグニスに教主は会釈をして別れた。

§

 清らかな水の流れを見つめている若い女がいる。
結んだ長い青髪を風に遊ばせ、氷のように涼やかな瞳で、端然とした立ち姿には洗練された気品があり、
一目見れば貴い身分であると容易く感ぜられる程だった。
川のせせらぎに河原の砂利を踏む音が混じり、女が静かに振り返ると、御伽噺からそっくり抜け出て来たような
美しい風貌の男が片手を挙げて挨拶した。

「驚いた。貴方も死んだの? ソーリス」

「まだ生きている。だが、妻と娘と従者を差し置いて一人帰郷する羽目になってな」

「そう、貴方は無事なのね。よかった」

「互いに変わらぬようで安心したぞ、アクアよ」

 アクアは教主のコートから覗く右手を取って「無茶するのも相変わらずね」とため息をつく。

「一昔前に片腕で済めば上等、という所まで追い込まれてな。それに、この義手も思い入れがある」

「貴方は特別な存在よ。もっと自分を労らないと」

「そうかな、一人のホムンクルスのつもりだが」

「貴族や革命家だからじゃない。貴方にはもっと根本的な特別性がある。
 気付いていない訳じゃなくてそれから目を逸らしているだけ」

「説教痛み入る。ふふ、これも懐かしいな」

「リートゥシアとは上手くいってる?」

「ああ。いつ雷を落とされるやら、と内心冷や汗ものの時もあるがね」

「――ならいいわ。いつ帰るの?」

「可及的速やかに。だが、実のところまだ帰る手段も見つかっていない」

「そう」

 両者の会話は単なる社交辞令とも取れるもので、深く踏み入ることはないが、
それでも、少なからずアクアという女にとっては充分なものだった。
実際に会うまでは、アルボルが一瞬表情を曇らせてまで会うよう勧めた訳を教主は問い質そうとも考えていたが、
話をしているとその考えも消えて、ただ多くを語ることなく、後はしばらく二人で水面を眺めていた。
教主クルクス――烈日のソーリスと水簾のアクアの関係性と距離感は、永い時を経ても変わっていない。





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『Valhöll-Ⅲ/烈日を作った女』
辺獄の箱庭下層・創造主の工房にて

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 世界の狭間、どこでもないが故にどこでもありうる空白の中に漂う巨大な箱があった。
十数粁四方の箱からは数米から数十米の平箱が足場のように迫り出しており、
その中でも比較的広い平箱の上に、白色で染め上げられた空間には似つかわしくない赤黒い人影が現れた。
影の名はネロ・ヴェスパー。教主クルクスを滅ぼすべく、彼を追跡している存在である。

 影は周囲を見渡すと、巨大な箱へと向かって歩き出すが、背後から掛けられた若い男の声がそれを制し、
振り返らぬままに立ち止まる。声の主はつい先程まで確かに存在しなかったはずの槍を携えた騎士だった。
竜の頭を模した兜と金縁の黒い甲冑で身を固めた騎士は、背負った二本の槍を構えながら、
手に剣を現出させて振り返った影と対峙し、瞬時に場の空気が張り詰める。

「創造主の遣いか。――暗黒騎士とはな」

「お前をあいつの所には行かせない。それが、俺があいつに出来る贖罪だ」

 両者の間に言葉が交わされたのはそれきりだった。
どちらともなく眼前の敵へと踏み込んだのを皮切りに、虚空にも等しい空間に剣戟の音が響き渡り、
剣と一対の槍、漆黒の鎧と影が火花を散らして、武器を隔てた両者の睨み合いがこれから起こる激戦を予感させた。

§

「やあ、アモール。キミが訪ねてくるのは予想外の挙動だったよ」

 辺獄の箱庭下層にある創造主の工房を訪れたアモールを、工房の主である錬金術士が出迎えた。
予想外の挙動、と言う割には来客をもてなす余裕まであったようで、創造主の傍の机の上には、
淹れたての紅茶が二つ載っている。創造主は紅茶を口に運びながらアモールにも勧めたが、
アモールは普段の穏やかな表情を崩さぬまま、ゆっくりと首を振った。

「いいえ、結構です。創造主様。あまり長くお邪魔するつもりはありませんので」

「ふむ、それは残念だね。用件は……ソーリス君のことだね?」

「ええ」

「彼もああ見えて随分焦っているようだし、もっと早期に訪ねてくるかと思っていたんだが。
 よほど私に借りは作りたくないらしい。それもそうか、私だって立場が逆ならそうなるだろう」

 横目で隣に置かれた水晶球に映し出されている上層に滞在している教主の姿を一瞥し、
創造主は机に頬杖を突きながら、「考えてみれば」とアモールに視線をやって、ぽつりと呟く。

「彼がイレギュラーとして成立したのも、キミに端を発するのかもしれないね」

 教主にとって師であり、育ての親代わりであり、第一の恋人だった女を見据え、
口角に笑みを作った。その目は実験動物を見る研究者ではなく、子を見る親然としていた。

「私のホムンクルスは、子を成せる遺伝子コードを持つものと運命的に出逢う仕組みになっているが、
 キミがソーリス君を手放し、奇跡の魔導士と結ばれる道を作った事が大きくこちらの予定を変えた。
 ルクスルナと結ばれるはずだった魔導士だけでなく、アルボルと結ばれるはずだったアクアの心を掴み、
 その結果、革命の成就を見ずに死ぬ予定だった彼は四期実験場における台風の目になった。
 しかし、それによってAZOTHを錬成するホムンクルスが完成したのだから――分からないものだね?」

 アモールは終始ただ黙って創造主の話を聞いていたが、
穏やかに微笑んでいるにもかかわらず、その目はまるで笑っていない。
遂に「過去はいいのです。大事なのは今、あの子を帰らせてあげる手段ですから」と諌められ、
創造主は「つれないね」と肩を竦めて、カップの持手を指で撫でながら、
辺獄の箱庭という世界の構造を語り始めた。

「ここはエーテル、つまり魔力によって形成されている訳だけど、同時に強固な外殻も作っている。
 内と外とをこれで隔離して、世界として空間を確保しているが、ここに穴を開ければ、
 一時的に出入りを可能に出来るだろう。恒常的にとはいかないけどね」

 創造主は手近な機械を操作して、巨大な白い箱のホログラムを表示する。
箱には何かが集まっているのを表すかのように、いくつかの矢印が向いており、
そこに内側から穴が開くと、矢印が破損している部位に集中して、瞬く間に箱を元の形に修復した。

「この通り、世界の狭間に満ちている魔力によって形状を維持するようになっている。
 魂だけの存在である我々の肉体も同じ理屈でね、ここで死んだり怪我をしてもすぐ治るだろう?
 それと同じだ。出入りする間は穴を維持し続けないといけない。」

「それは分かりました。穴を開ける手段はあるのでしょうか?」

「あるよ。無ければここへ飛ばされてくるソーリス君も中に入れられなかったからね。
 私が操作すれば外殻に空白を作ることは出来る。でも、それも修復されてしまうからほんの数秒だ。
 それでは外から来るものはともかく、出るものは間に合わないが、空白を維持すればいいんだ。
 保存されていたサンプル個体には戦闘に優れた者も一定数存在しているから、
 それらが魔力で外殻をこじ開け続ければ、脱出にも間に合うだろう。
 外殻と同化することもないから、後は脱出するだけだよ」

「世界の狭間に出た後の事が問題になりませんか?」

「大丈夫だよ。縁の強い奇跡の魔導士が呼び水となって元の世界に再送還される見込みだ」

 アモールはそれだけ聞くと、すぐに踵を返して工房を後にしようとしたが、創造主が呼び止めた。

「呼び水になると言えば、もう一人心当たりがあるのだがね」

「ええ、心得ておりますわ」

 うやうやしく頭を下げて去っていくアモールを、創造主はそれ以上引き止めることはなく、
数秒の思索を経て、「なるほどね」と独り言ちた。

§

 その日の夜更け、アモールは教主の寝泊まりしている宮殿内の一室を訪れた。
物音一つ立てないよう扉を開けると、ベッドに腰掛けている教主が出迎え、
手にしているランプの柔らかい光に照らされながら、アモールは「起こしたかしら」と囁き、
教主は少し乱れた髪を手櫛で直し、「構わぬとも」と静かな声音で応えた。

 アモールは教主の傍に歩み寄って、ベッドの近くのテーブルの上にランプを置き、
教主がベッドを二、三度叩いて促したのに従い、すぐ傍に腰掛ける。

「本当は――」

 寝顔を見に来たと言いかけ、何か余計なことを口走る気がしてアモールは言い淀み、
首を横に振って、「少し昔話をしていい?」と教主の目を見ながら言った。
教主は沈黙をもって答え、アモールは天井を見上げて、静かな口調で語り始める。

「初めて会った時、私ね、クロードのことを守りたいと思ったの。
 お師匠はもう老衰が始まっていたし、子供には親が必要だから――私がなるしかない、ってね。
 教えられることは全て伝えた。貴方の為になることは全てしたつもり。
 でも、それが却って貴方を過酷な道に進むようにしてしまったんじゃないかと時々思うの。
 貴方は優しい子だから、辛い思いをたくさんしたでしょう?
 だから貴方が七曜の騎士に選ばれた時、本当は貴方を連れて――」

 アモールの手に教主は手を重ね、「自分の意志で選んだことだ」とかぶりを振った。
目を伏せる彼女へ、「私はアモールを憎んだことなど誓って一度もない」と諭して、
遂に何か言葉にならない声を漏らして嗚咽する彼女の体を抱き寄せた。

 いっそ恨んでいたなら、まだ彼女にとって救いがあったかもしれない。
それでも、教主にその嘘だけはつけなかった。
しばらくして泣き止んだアモールは、目の端の涙を拭いながら立ち上がり、
教主と向き合って、自分でも驚くほど落ち着き払った声で告げる。

「貴方を帰す方法は分かったわ。夜明けに実行するから、宮殿の前で待っていて」

§

 翌朝、辺獄の箱庭における七丘の一つで、七曜の騎士イグニスが空を見上げていた。
つい昨日、ソーリスの師であるアモールという女に請われ、それも全力を尽くす必要があるものだと、
そう聞いたから力を持て余しているイグニスは喜んで応じたのである。
外界から紛れ込んだソーリスを帰すために戦友である七曜の騎士らに頼んで回っており、
他の丘にも今頃かつて肩を並べた騎士が待機しているらしいが、
イグニスにとって重要なのは大いに力を振るえるという一点のみだった。

「ぼちぼち始まるか」

 空間を割って、遠方の上天に大きな穴が穿たれると、イグニスは大剣を地に突き立て、
上天の穴の輪郭目掛けて魔力を放出した。自身の放つ赤い光の他にも紫や青や緑と多彩な色の光が、
穴をこじ開け、保持する形で収束している。
しばらくして魔力を放っている自身に掛かる負荷が増大し、たたらを踏みかけて踏み留まった。

「おおっ、こりゃ誰か落ちたか!? カリプス――は意地でも堪えるか、アルボル辺りかね!」

 文句を垂れながらも、イグニスの声は楽しげに弾む。
上天の穴に伸びる光が減っているが、それが何色で、誰が脱落したかなど気に掛けない。
より大きな力を叩き付けなければならない状況に、イグニスは豪快に笑い声を上げる。
そして間もなく上天の穴へと光の球が一つと、後を追うように更に二つが突入するのを見ると、
イグニスはしてやられたのに気付いて、一帯に響き渡る声量で吠えた。

「――この俺を差し置いて、何か楽しいことしやがる気だな!?」






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『Valhöll-Ⅳ/そして烈日は上天へ還る』
辺獄の箱庭外殻にて

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 辺獄の箱庭を脱出し、テリメインへ帰還するべく師アモールの手引きで外殻へと突入した教主は、
地を余さず染め上げるほど白い花が咲き誇る空間にいた。
教主にとってそこに至る感覚には覚えがあった。娘を刺客として仕立てた実験場を監視する魔導書、
その中にあって謀反を起こした一冊である、光輝の書の残影と出会った時と似た感覚だ。
外殻内だということさえ知らなければ信じられないような雲一つない青空に、風が吹き抜ける。
そして、教主クルクスは、眼前に師アモールが立っていることに気付いた。

「見て」

 アモールが青空に形成されている、ガラスを割ったような痕跡を指差す。
その境界線には何色かの魔力が輝き、それが穴が塞がろうとしているのをせき止めている。
悲しげな表情を浮かべながら、アモールは指を下ろして、教主へと向き直り、

「あそこから出れば、貴方と縁深いリートゥシアが呼び水になって元の場所に帰れる。
 でも、このままでは駄目。同じくらいに縁深い女がもう一人いると……思わない?」

 そう言って、深く息を吸い、腰に下げた剣の柄に手を掛けた。

「アモール」

「来ないで!」

 手を差し伸べる教主を声で制し、アモールは瞼を下ろすと、
辺りの音を根こそぎ持ち去ったような静けさの中で語り始める。

「この箱庭の世界にいる者は皆、魂だけの存在。
 それが肉体を持っているのは世界に満ちたエーテルが補填しているから。
 最初から肉体ごと訪れた貴方という例外を除いてね。
 ここで死ねば貴方も例外ではなくなり、世界の一部になる。そうなれば、もう脱出は出来ない」

 アモールの肩が強張っているのを、彼女に育てられたも同然の教主は見落とさなかった。
彼女の語った言葉のどこかが嘘だと分かった。彼女が嘘を吐く時、無意識に見せる癖さえ知っている。
それでもなお咎めずに、ただ黙してアモールの次の言葉を待つ。

「クロード。貴方は私を倒さなければいけない。それでも、きっと殺せない――だから、言うわ」

「――それ以上言うな!」

 意図を悟った教主が初めてアモールの声を遮ろうとするが、アモールは一層語気を強めて続ける。

「あの日、貴方を送り出したのは間違いだった! それはまだやり直せる。
 一○○○年以上、充分すぎる時間を苦しんだでしょう」

「やめろ!」

「リートゥシアもエリクシアもきっと上手くやる、それに、子供ならまた作ればいい。
 私は――貴方を苦しみの中には帰さない!!」

 悲鳴にも似た声とともにアモールが剣を抜き払った。
眼光は鋭く、小柄さを感じさせないほど絶大な威圧感を纏った姿は、
教主にとっての育ての親ではなく、厳格な師のそれだった。

「私はそなたを殺す。帰ると望むならば武器を取れ、クロード・ルクス・ソーリス!
 そして私を殺せ、それ以外に手段などないぞ!」

「アモール!!」

 苦虫を噛み潰したような表情で教主もまた一対の魔剣を抜き、両者の剣戟が火花を散らす。
言葉遣い、医学、政治、権謀術数、果ては戦闘技術さえ彼女が教えたもので、
戦いにおいても相当の場数を踏んでいるはずが、剣術の腕においてもアモールが上回っている。
確実に急所を狙う剣筋から、殺すつもりであることも感じ取れた。
アモールの剣を教主は赤と青の魔剣を交差させて防ぎ、両者の視線がぶつかる。

「どうした、ソーリス! 成長が見られないぞ!
 私にすら及ばない腕で、どうやって守るべきものを守るつもりだ!?」

 実力差は明白だった。しかも、上天に空いた穴も徐々に狭まりつつある。
他の手段を考える時間も余裕もなかった。この場を切り抜けて、帰還を果たす方法は一つ。
教主は跳び退いて一瞬の間を作り、二本の剣の柄を連結させ、それは自動的に処刑槍へと変容する。
アモールの剣閃が教主の首を断たんとした刹那、教主の切り札が発動した。

「ああ――これが、罪の重さなのね――」

 自身の左胸に突き刺さる槍を握り締め、アモールは項垂れながら苦悶と感嘆が入り混じった声で呟いた。
倒れるアモールを教主がすぐに抱き留めた。

「アモール、こんな事が望みだったのか」

「ええ、そうよ。優しい貴方をそんな風に作り上げてしまった罪――、
 私の独りよがりで、どれだけ貴方を苦しませたか。後悔してもしきれなかった。
 だから、いつか、貴方の手で裁いてほしかった」

 血に濡れた手で教主の頬を撫でて、光の粒子になりつつある指先で上天の穴を指した。

「さあ、時間がないわ。帰りなさい、貴方を待つ人の元へ。
 それと――エリクシアのこと、よろしくね。貴方なら心配いらないわ。
 私の自慢の弟子だもの。きっといい父親になれるわ」

 完全に消滅し、風に攫われる師の残骸に振り返ることなく、
教主はテリメインへ帰還すべく、閉ざされかけつつあった上天の穴へと突入した。

§

 世界の狭間に漂う巨大な白い箱、創造主が辺獄の箱庭と名付けた空白を舞台に、
暗黒騎士とネロ・ヴェスパーの激闘は互いに一歩も引かずに、日を跨いでなお続けられていたが、
箱に空いた虹色の輪郭の穴からおよそ人間大の光が一条、彼方へと消えていった。
騎士もネロもそれを一瞥し、ネロは舌打ちと共に剣を降ろした。

「――因果なことだ。烈日を落とすべく毀れたがために、貴様に届かせる手段を失うとは」

 そう吐き捨てて、ネロの姿は風景に溶け込むようにして消えていき、
その様を見た騎士は、自ら転移したのではなく、飛び去った光に引きずられるようにして去ったように感じた。
ふと、騎士の頭に直接男の声が響く。

「時間稼ぎご苦労、君が自ら進んで引いた貧乏くじもこれで終わりだ。帰還してくれたまえ」

 創造主の声だった。騎士はネロの立っていた辺りをしばらく見つめてから、融け込むように箱の中へと立ち去った。


§

 愛する弟子の手から断罪の槍を受け、一度消滅したアモールは、
辺獄の箱庭内部の丘で作り物の青空を見上げていたが、誰かの足音が近付いてくるのに気付いて振り返る。
そこにいたのは、自身の工房としている下層で拘束されているはずの創造主であり、陽気に片手を上げていた。

「あら、どうあっても拘束を解けないと仰っていたのではなくて?」

 わざと素っ気なく尋ねるアモールに、創造主は『そのはずだよ』とバツが悪そうに頭を掻いた。

「分からないけど――上層でこれだけ派手にやった影響を受けて拘束が壊れたのか、
 それとも私もソーリス君の断罪の余波を受けたのか――やっぱり分からないね。
 一つ確かなのは、こうして自由になったということさ」

 創造主は両腕を広げると、自身の形成した七つの丘に広がる草原を見渡して、
『折角だから、そうだね』と前置きし、口角に笑みを作った。
すると、手近にあった木の棒を手に取り、

「贖罪にはいくら働いても足りないだろうが、私は私の作った作品達を愛している。
 この箱庭をより栄えさせるとしよう。原型としたローマのように、いや、それ以上に!
 はは、ソーリス君がたまには里帰りしたくなるような、永遠のローマをここに築こう!!」

 そう声高く宣言しながら、神話のロームルスをなぞるようにして、丘に木の棒を突き立てた。





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『帰還報告』
ディーププラネット海域にて

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 辺獄の箱庭を脱出した教主クルクスは、一条の光となって糸を引くように彼の帰りを待つ者達の元へ導かれる最中、
箱庭の外部で戦う二つの人影を見た。自身の抹殺を狙うネロと、もう片方は、暗黒騎士の装いをしていた。
騎士は箱庭を背に、ネロを阻むようにして戦っている。己の姿を甲冑で覆い尽くした騎士が何者であるか、
かつて肩を並べて戦い、決別した教主には容易く察せられ、遥か遠方にある騎士には決して届かぬ声で、
「愚か者」と、瞬く間に遠のいていく騎士の姿を見下ろしながら呟いた。
それから間もなくして、強烈な浮遊感を伴い、教主の視界は暗転した。

§

 次に気がついた時、教主の目に映ったのは見慣れた自身の私室と、驚きに目を丸くする従者カレットと、
娘のエリクシアの姿だった。教主は二人へ「今帰った」と努めて普段と変わらぬ調子で声を掛け、
すぐさま腰に抱き着いてくる娘の背を撫でながら、カレットに不在時に何か変わった事はなかったかと尋ねる。

「旦那さまの代わりに探索を進めてたピューパちゃんが、新しい海域の――」

「ああ、大丈夫だ。把握している。スキルストーンの通信だけは生きていたからな。他には?」

 咎めるでなく穏やかな調子で問い掛ける教主の目を見ると、カレットは白磁の顔に笑みを作って、
「いいえ、こちらではいつもどおりでした」と答えた。しかしすぐにカレットの表情は心配げなものになり、
「旦那さまの方はいかがですか? その、お体の怪我は?」と言われて、教主が自分の体を見ると、
箱庭の外殻でアモールと戦った時のものであろう傷が、防具に幾らかあった。
あの場での戦いが幻ではなく、贖罪を求める師を確かにこの手で討ったのだという感触を、
従者や娘に心配させるまいと噛み殺して、「心配ないさ」と嘯いてみせた。

「それより、こうして無事帰ってきたことを知らさねばな。皆を集めてきてくれるか?」

 話題を切り替えるようにしてカレットに命じて、少し慌ただしく去っていくカレットを見送ると、
自身の顔を見上げる、師の面影がある娘の頭を撫でて、「ああ、これは責任重大だな」と独り言ち、
不思議そうな顔をする娘に、その場はただ、少し苦みの混じったような微笑みを返すばかりだった。
外は日が傾き始めている時刻らしく、窓から差す斜陽の光に横顔を照らされながら、
教主は、珍しくほんの少し黄昏れていた。

 間もなくして、私有船デア・エクス・マキナ号に乗船している全員が教主の私室に集まり、
ソフィーナが教主へ度々食って掛かり、カレットがそれを宥めたり教主本人が飄々といなしたり、
表面上は事務的なようでいながら、しきりに教主を気にする様子を見せつつピューパが些々たる報告や、
わずかに感情の籠もっているように感じられる帰還への挨拶の口上を述べるなどのやり取りを経て、
教主一行らは教主本人の意向で特別なこともない夕飯を済ませて、そのまま夜を迎えた。

§

 私室で一人、以前と同じように獺祭された資料や書類の処理をこなしている教主の傍に、
光の粒子を散らばらせながら、女神リートゥシアが顕現し、教主の座る椅子の背もたれに両手を預けた姿勢で、
教主の仕事ぶりを静かに眺めていた。教主と女神は言葉を発する事なく、ペンを走らせる音と判を押す音、
教主の娘の静かな寝息のみが、しばし部屋に響いていたが、女神が沈黙を破り、「ねえ」と教主に囁いた。

「あっちで何があったのかしら」

「なぜ、そんなことを?」

「分からない?」

 宙に浮かぶ女神は教主の前へと回って、彼の頬へと両手を添え、視線を合わせた。
それから、ためらうように短く一呼吸置いてから、語を継ぐ。

「この世の終わりみたいな眼をしてるからよ。
 誰にも気取られないように頑張ってるんでしょうけど」

「ええ――やはり、貴女にはお見通しでしたか」

 教主は目を伏せてどこか自嘲的な笑いを浮かべてから、女神の瞳を見つめ直して、
自身が飛ばされた世界の狭間、辺獄の箱庭への到達から脱出までの事のあらましを仔細に語り始める。
その口調はつつがなくも、どこか努めて無機質に徹しようとしているものだと女神には感じられた。
創造主と、かつての戦友達、そして師との再会から、彼女の手引きによる外殻部への到達と、
そこで帰還の為には彼女を殺す必要があると、訣別と戦いを強いられ、断罪の槍で彼女を討った。
教え子であり、愛人である教主の手で裁かれたかったという最期の言葉。
脱出の間際に箱庭の外で見たネロを阻む為に戦う、暗黒騎士の装いをしたかつての親友の姿を、
複雑な感情の籠めながらたった一言、「愚かですね」と評して、教主の語りは締め括られた。

 女神は、教主が語り終えても、しばらく精一杯の退屈そうな表情を作りながら黙っていた。
その表情もやがて剥がれ、真剣な面持ちで「辛かったのね」と、教主の顔を見て、
彼の感情を汲み取り、そう言うと、

「面白い話ではなかったでしょう」

 教主は、椅子に深く座り直しながら、ため息混じりに応えた。
気遣うように女神は微笑みながら、明るい声で「ちっとも面白くなかったわ」と、その話題を終わらせた。
再び、沈黙が訪れる。女神は教主の話に何も感じなかった訳ではない。
自身と出会う以前から深い関係だったアモールという女が、彼にとってどんな存在だったのか。
彼にとって親友から最大の仇敵となり、自身にとって命を奪われた相手の装いから垣間見えた、自罰意識。
創造主ならば、自分達が叶えようとしている願いへの答えを持っていたのではないかという疑問。
言いたい事はいくらでもあった。しかし、今はただ彼を癒やし、労りたかった。

「今日だけはいつもより早く休むといいわ。というか、そうしなさい」

「……ええ、そうしましょう」

 女神はデスクワークを再開しようとする教主を諌めて、ベッドに向かわせ、
教主とその師であるアモールとの間の娘、エリクシアの穏やかな寝顔をしばらく眺めてから、
柄にもなく妻らしい振る舞いをしているのに気付いて、密かに一笑し、
光の粒子だけを残して静かに姿を消した。

§

 夜更け、教主の世話係である自動人形の体を持つ従者カレットが教主の部屋の前に立っていた。
心配ないと言い、一見いつも通り振る舞いつつも、教主がどこか憂いのようなものを帯びていたのを、
彼女もまた感じ取っていた。それが気掛かりで休眠に入れず、気が付けばこうして彼の部屋を訪れていた。
普段ならばまだ、彼は起きている時間の筈だ。彼の方から声を掛けてくるかもしれない。
その時になんと言おうか、お茶を淹れて来て口実を作るべきだったかなどと考えに考え、
立ち尽くしたまま、かれこれ数分が経過している。

 立ち往生しているカレットの背後から、いつの間にか彼女より一回り大きい影が差しており、
足音もなく誰かが後ろに立っている事に気付き、カレットは喫驚して振り返った。

「……誰っ!?」

 そこにいたのは、彼女にとって未知の存在、教主を討つべく幾度と現れている深紅の影。
ネロ・ヴェスパーが、剣を手にしてカレットの姿を見下ろしていた。
カレットが声をあげると、ネロは舌打ちをして、酷くノイズの掛かった声で「どけ」と言ったが、
相手が教主を害する存在である事は明らかで、カレットは両手を広げて立ち塞がった。

「どかねば――」

 斬る。ネロが剣を振りかざして恫喝しても、カレットはその場を動かなかった。
立ち竦んで動けないのではない。教主の敵であろう得体の知れない人影を見据えて、
体を恐怖に小さく震えさせながらも、自分の意志で立ちはだかっている。
相手が剣を振り下ろせば、自動人形の体といえど、確実に破壊され死に至るだろう。
それでも、この影を教主の元へ行かせてはいけないと、彼女の中で何かが叫んでいた。

「カレットさん、離れて!!」

 実時間にして数秒の、永遠とも感じられる睨み合いを終わらせたのは、
船の警戒にあたっている従者ピューパの叫び声だった。
カレットが声に反応して倒れ込むように横へ跳び退くのとほぼ同時に、
文字通り一瞬でピューパが距離を詰めてネロに飛び掛かり、剣を持った腕の手首と、
その喉笛を掴み、華奢な体躯からは想像もつかないような膂力で壁に叩き付け拘束した。
続けざまに脇腹目掛けて放った膝蹴りをネロはまともに受けたが、
影としか視認できない体に鎧を纏っているらしく、壁を蹴ったような手応えだった。
しかし、単純な力ではピューパが勝り、ネロは抵抗しても拘束から逃れる事は出来ない。
そこへ扉を開け放って、槍を手にした教主が女神を伴って姿を表し、
更にはこの騒ぎで起きてきたのであろう、教主の護衛であるソフィーナまでもが駆けつけ、
ネロは教主を討ち取れぬと判断して、体を霧散させてピューパの拘束から逃れ、姿を消した。

「死者の眼にも映らぬ。逃げたか」

 教主はそう呟くと、廊下に倒れ伏せているカレットへと駆け寄り、
無事を確認すると、手を取って助け起こし、なぜその場にいたのか、
なぜ逃げなかったのか、なぜすぐに助けを呼ばなかったのかなどと叱責することはせずに、

「無事でよかった」

 微笑みを作りながら一言だけ優しく声を掛け、言葉が出ず泣き崩れるカレットに胸を貸して、
他の面々にそれぞれ指示をしてその場を収めながら、彼女が泣き止むまで傍に立っていた。

§

 明朝、私有船デア・エクス・マキナ号の欄干を軽やかに乗り越え、音もなく甲板へと降り立つ者がいた。
全身スーツの上に外套を纏い、顔すら無機質な仮面で覆った、いかにも隠密然とした風貌で、
前を開いた外套から覗く体型から、この隠密の者は女であることが判別できる。
隠密の女が甲板に立つと、間もなく教主と女と似た意匠のスーツを着たピューパが出迎え、
女は教主へと会釈し、「報告申し上げます」と静かに声を発し、以下のように教主へと報告する。

「中央聖教の総本山、聖地ピスケスにて定例通り教会会議が行われます。
 また、中央聖教が司教セオドール・ノア氏を中心とした右派に不穏な動きがあり、
 密書を入手し、暗号を解読いたしましたところ、教会会議に先立って現教皇を暗殺せしめ、
 我々奇跡の教団による犯行とし、これをもって奇跡の教団との全面抗争を教会会議にて提議するとのこと」

「ふむ」

 黙然と耳を傾けていた教主は顎に指を添え、何か思案すると、まず女へ「報告ご苦労」と労いの声を掛け、
女が「恐悦の至り」と応えると、教主は独り言のように考察を述懐し始める。

「まず私がテリメインに単独で滞在しているのは、中央聖教側に既に露見しているだろう。
 更に奴の父は三○年前に現教皇と並んで教皇選挙で争い、破れた因縁がある。
 教皇を亡き者にしたい、奇跡の教団を排除したいという目的はあろうが、単にそれを成したければ、
 もっと早期に動いていた筈だ。ならば、本命は別にあるということになろう。
 奴の長きに渡る逡巡に終止符を打つに足る、決定的な要因――」

 そこで教主は一度言葉を切り、セルリアンの方角へ向かって、「協会か」と呟いた。
この世界、テリメインにおける現在の情勢は、彼らの招き入れた探索者達によって動きつつあった。
”何か”を封印する力があるという七つの武器はそのほぼ全てが既に探し出されつつあるが、
また、本来海賊を収容する強制労働施設の地下では探索者によって、巨大なスキルストーンが発見され、
看守ら協会側との争いの後に、結果的に盗み出される形で探索者の手に渡るという暴動が起き、
協会を訝しむ一部の探索者がその内情を探らんとし、事実上の敵対行為を取る者まで出始めているという、
おそらく当初協会が予想し得なかったであろう所まで、混沌を極めていた。

「奴は異世界に無数とある海底探索協会支部の一つで、支部長の地位を兼ねている。
 ならば当然、協会本部の状況は聞き及んでいることだろう。
 この混乱に乗じて何かをしようとしていて、その為に多少強硬策を取ってでも、
 中央聖教の軍事力、騎士修道会を手駒に出来る状況を作ろうとしている――といったところか」

 言葉を発さず、その場を動かず、彫像のように待機しているキルティスとピューパへ教主は向き直り、

「探索の終了次第、聖地ピスケスへ向かい、教皇暗殺を阻止する。
 そなたらは先行して潜入し、連中の動向を見張れ。状況次第では独自に動いて構わぬ」

 厳かに二人へそう告げて、探索の準備の為に自室へと引き返していった。
教主を見送り、甲板に残された二人の間にはしばらくの沈黙があったが、
やがて仮面の女、キルティスの方から「こうして会うのは久しぶりね、隊長」と話し掛けた。

 奇跡の教団という組織を率いる教主クルクスには、諜報や暗殺を専門とした八人の懐刀がいる。
全員が女性であり、ピューパを長とした部隊として編成された彼女らを、教主は《鱗》と呼ぶ。
《鱗》はそれぞれ奇跡の教団内部監察や外敵の監視、願いを叶える力を持つものの情報収集など、
個々の担当した役割に合わせて各世界に散らばり、連絡も暗号通信などで済ませるのが常であり、
キルティスの言った通り、《鱗》同士が実際に顔を合わせるのは珍しいことだった。

「キルティスさんもお変わりないようで何よりです。……では、潜入の打ち合わせを」

「ええ」

 最低限の言葉で挨拶を済ませると、中央聖教方面の諜報を担当しているキルティス主導で、二人は相談を始める。

「警戒は厳重になるけど、情報は予め入手してあるし、変更があってもリアルタイムに傍受出来るわ。
 既に陽動は手配してあるから、それで少しは動きやすくなるはず。
 ボスの技能で潜入中の行動は問題ないでしょうけど、もし騒ぎになった時や脱出経路の確保の為に、
 もう一人あちら側の人間に変装しておいた方がいいわね――でも」

 キルティスは仮面に手を掛け、素顔を晒す。顔立ち自体は整っているが、古い拷問痕が幾つも残り、
人目を引いてしまうことは自明だった。

「この顔だからね。隊長、変装の方は貴方に任せていいかしら」

「ええ、構いません」

 傷だらけの顔を晒してなおキルティスは毅然として振る舞い、ピューパも一見して動じる事なく応じる。
しかし、キルティスはピューパの僅かな表情を目で読んだ。怯えではない。
おそらく憐憫か、同情かに近い何かが微かながら確かにある。
それはキルティスの知る、以前の彼女にはない反応だった。

「変わったわね、人形ピューパ隊長」

「……そうでしょうか」

「大筋は決まったわ。後は現地で調整しましょう」

「そうですね、行きましょう」

 相談を終えると、次の瞬間にはまるで最初からそこにはいなかったかのように、二人は痕跡も残さず姿を消した。







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『盲目の女教皇』
多次元世界線・中央聖教総本山・聖地ピスケスにて

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 世界が一つではないように、無数の世界を収める世界線もまた一つではない。
多次元世界と呼ばれる世界線に属するとある世界に、その世界線において最大の影響力を持つ宗教、
中央聖教の総本山である聖地ピスケスがあった。

 教皇を統治者とする伝統あるこの都市は、家も道も、端から端まで幾度となく修繕を繰り返したのであろう、
古ぼけているようで温かみがある、それでいてどこか厳かな街並みが広がり、駅から真っ直ぐ続く坂道の上には、
荘厳な大聖堂が佇んでいる。道をゆく市民達は皆押し並べて温和そうな顔でそれぞれの日常を営んでいるのと対象的に、
駅からぽつりぽつりと聖地に降り立つ教会に属する者達の表情は、その階位を問わず一様に張り詰めていた。
聖地ピスケスの大聖堂にて今日、中央聖教の教皇と司教を代表とした教会会議が行われるためである。

 この都市を出入りする唯一の手段である、世界間を運行する鉄道から汽車が一本駅に停まり、
降りる人々に混じって、中央聖教式の修道服を纏った二人の若い女の姿があった。
ベールを被った、長い銀髪に金色の瞳の女と、肩までの長さの黒髪に緑と黄色が混じった虹彩の女、
変装を施した教主クルクスと従者ピューパである。二人は平然と駅を通り、聖地へと降り立って、
大聖堂に続く坂道を上り、大聖堂の前で守衛から服装と荷物のチェックを受ける。
間もなくして、教主の方を担当する口髭を蓄えた守衛が服の上から右腕を触って「あっ」と声を挙げ、
ピューパの方を担当する赤鼻の守衛も口髭の守衛へ首だけで振り返る。

「お恥ずかしながら――昔、不幸な事故に遭いまして」

 右腕の袖を捲って銀製の義手を見せながら弁明する教主扮する修道女に、
口髭の守衛は「お若いというのに」といかにも哀れそうに呟くと、赤鼻の守衛も同意するように無言で頷き、
その後は滞りなくボディチェックを済ませ、二人の守衛に見送られながら教主とピューパは大聖堂へと足を踏み入れた。

 武装した騎士から修道士、見物に来た信徒までもが入り乱れる大聖堂を見渡すと、
教主とピューパは目配せをして、風景に紛れながら柱の陰へと身を隠し、
雑談を装いながら聖地に踏み入ってから初めて言葉を交わす。

「魔導仕掛けの探知機や歩哨の数、ひとまず情報通りのようだ」

「キルティスさんも先んじて潜伏し、陽動の準備は整い、
 それと、教皇派司教の一人が巡礼の旅を"無事"終えて聖地に向かっているとのことです」

「ならば後は、本命を抑えるだけだな――行くぞ」

 ピューパが静かに頷き、教会会議に先んじて教皇暗殺を遂行せんとする中央聖教右派の計画を挫くべく、
再び雑踏の中へと紛れ込み、行動を開始した。

§

「止まれ! ここより先への立ち入りは禁止されている!」

 教皇の部屋へと続く廊下の前で、人の気配を察知した甲冑の衛兵が声を張り上げ、
気配のする方へ斧槍の矛先を向けながら歩み寄った。すると、物陰から少年が恐る恐る顔を出して、
矛先を向ける衛兵を見るや泣き喚いた。衛兵は慌てて背後の教皇の部屋の扉を一瞥し、武器を降ろして、
少年に怖がらせて悪かった、迷子になったのか、親はどこにいるのかなどと宥めながら尋ねるが、
当の少年は衛兵の足にしがみついて大声であれこれよく聴き取れないことを喚き散らすばかりで、
すぐ背に教皇猊下がおわす神聖なる場を預かる身分である衛兵は、ほとほと困り果て、
挙句の果てには近くの歩哨や休憩中だった衛兵まで駆けつけてくる大騒ぎになってしまい、
その間に、二つの人影が音もなく、センサーさえ掻い潜りその場を駆け抜けた事には少年以外誰も気づかなかった。
陽動の役割が達せられたと見ると少年は今度は啜り泣き始め、やがて歩哨に連れられて行き、
少年は腹の中で成功報酬の上乗せを確信して、懐に入った前金を服の上から撫でながら、密かに口角を吊り上げた。

§

 中央聖教総本山の最奥に位置する教皇の私室内、古めかしい流し台の前で教皇の世話係を務める少女が、
紅茶の入ったカップと袖口から取り出した白い粉を手に、微かに身を震わせていた。
これから自分のする所業の恐ろしさに冷や汗を浮かべながら、やがて意を決した少女が紅茶に粉を混ぜようとすると、
いつからそこにいたのか、修道女の変装をしている教主が少女の手を掴み取った。
目を見開いて硬直する少女に教主が「事情があるのだろう」と眉を潜めながら囁くと、
少女はその身を震わせながら、一言ずつ消え入るような声で語り始める。

「どうか、どうか見逃してください。仕方がないことなんです。
 私がこうしなければ、お父さんもお母さんも、弟まで惨たらしく殺されるんです」

「人質を取られて脅されているのだな?」

 少女は何度も頷き、「誰かに話しても同じようにすると、でも、教皇様になんて、私、私――」と吐露し、
教主に紅茶のカップと粉とを預けると、どうしたらいいのかも分からず、少女は目に大粒の涙を溜め、
遂にその場にしゃがみ込んで嗚咽を漏らした。
教主が「ピューパ」と従者の名を呼ぶと、気絶させた監視役であろう黒装束を纏った男を担ぎながら、
その場に現れ、「この娘と一家を保護してやれ」と教主に命じられると、修道服を着たピューパが、
少女を立たせて空いている方の腕で抱え、そして人間二人を抱えているとは思えぬ身軽さで、
窓から大聖堂の屋根へと飛び移り、瞬く間に姿を消した。

 教皇の部屋から続く屋上庭園に、白い木製の椅子に置物のように端然と座っている、
仰々しい祭服を着た淡い灰色の髪の小柄な少女の姿があった。
教主が近くで「テレーズ」と呼び掛けてようやく、灰色の髪の少女は「あら」と反応を示す。

「その声は? ――あら、あらあら。ちょっとお顔を寄せてくださる?」

 テレーズと呼ばれた少女の言葉に従って、ベールを外した教主が傍へ顔を寄せると、
小さな白い手で確かめるようにぺたぺたと教主の顔を触って、テレーズは「蛇さんね」と声を弾ませ、
星空のような虹彩の青い瞳に笑みを浮かべた。

 テレーズ・スペクタートル。中央聖教前教皇の遺児にして、現教皇の少女。
一○○○年の任期を持つ教皇は、信仰対象である唯一神の加護によって不老となると言われ、
任期の三○年目を迎えるこの少女もまた、就任した時のままの姿を保っている。
星空を湛えたような特異な瞳は、彼女が生まれついての盲目である証でもあり、
誰かの介助を受けなければ日常生活はおろか、真っ直ぐ歩くことさえままならない。
それゆえに声を聴き、顔に触れて確かめて、初めて訪れたのが教主であると気付いたのである。

「驚いたわ。本当にあの時のままのお姿なのね」

「そなたもな。いや、変わったこともあるか」

 教主はテレーズの前でため息をついて、周囲を一瞥してから語を継ぐ。

「教会会議当日の総本山なのだぞ? 厳重な警備でこれか?
 己が下の状況も聞き及んでいるはずだというのに、なぜこんな緩い守りにしたのだ」

「すべては主の意志に委ねます」

 我が子を叱るような調子で諌める教主に、テレーズはどこかなげやりに微笑みながら答えた。
少し眉根を寄せながら「自分が暗殺されることもか」と教主が問い掛けると、テレーズは目を閉じて、
ただ沈黙した。それが彼女の答えなのだろう。

「ノア小僧がそなたを暗殺して、教会会議で我が教団に全面抗争を仕掛ける大義名分にするつもりだ。
 そこらじゅうの世界でごまんと死体が積み上がるぞ。それを看過するのか?」

「……それが、主の意志であるならば」

 本当に置物になってしまったような長い沈黙の後、テレーズはようやく、小さな声で答えた。
教主は両手を腰に当てて、天を見上げ、またテレーズに視線を戻して、今度は両手を組んで、
最後に「悲観主義者め」と口を尖らせると、すぐに落ち着いた物腰に戻って、
「私は流石にちょっと怒った」と、言葉とは裏腹に穏やかな口調でそう言った。

「蛇さんは怒ったので、今から教皇猊下の仰る主の貴い意志というのを都合よく捻じ曲げます」

 教主の言葉だった。聖職者として振る舞う時とは別に、都合の悪い時に出す妙な丁寧口調で宣言すると、
椅子に座っているテレーズが膝の前に合わせている手を取って立ち上がらせ、
そのままテレーズの体を横抱きにする。テレーズは驚きに目を見開かせたが、そのまま教主に身を委ね、
視線を合わさず前を向いたままの教主に「どうなさるおつもり?」と不安より期待の籠もった口調で尋ねた。

「連れ去ります。猊下という中央聖教さんの全ての最終決定権を持つ者がなければ下は何も出来ません。
 それと蛇さんは随分悲観的になっていらっしゃる猊下に個人的にお説教をする必要があるからです」

「まあ」

 テレーズは感嘆の声を漏らして、次に「私を連れたまま帰れるのかしら」と嬉しそうに言った。
それに対して教主はいよいよ呆れて普段の口調に立ち返り、「白々しいぞテレーズ」と諌めてから、
庭園の一角へ視線を移しながら、こう続けた。

「死者の眼は誤魔化せぬぞ。あるのだろう、どうせ代々教皇だけが知る秘密の抜け道やら何やらが」

「ええ、その通り。私には何も視えないけど、蛇さんには何でも視えているのね。
 ああっでも待って、出る前に着替えと、いくつか支度をしたいの。手伝ってくださる?」

「無論だ。ノア小僧どもに脅されていたそなたの世話係は逃してやったことだしな」

§

 教主はテレーズの言う通りに、まず部屋に戻らせて衣装棚で祭服から修道服に着替えさせ、
次に書き置きを残したいと言われれば机の前へ座らせ、棚から羊皮紙からペン、それから封蝋とを、
さっさと用意して彼女の書きやすいよう配置する世話をし、しばらくして書けたと聞けば、
彼女の指にはめられた印章指輪で封蝋を押させ、その教皇猊下直々の書き置きに、
彼女が高位の保護魔法を施す所まで見守り、教主は手際よく彼女の支度の世話を終わらせてやった。
それなりの文量がある書き置きだったのは、当然近くにいた教主も察する所であり、
「何と書いたのだ?」と尋ねると、テレーズは「びっくりするようなこと」と笑顔で答えた。
誰がびっくりすることになるのやらという疑問までは口に出さず、
教主は丁寧に彼女の印章指輪を拭き取ると、再び彼女を横抱きにして庭園へと出て、
彼女を抱えたまま右肩に口を寄せた。共に潜入している二名の《鱗》への通信である。

「ピューパ、そちらはどうだ? そうか、ではあたかも一家丸ごと突然消えたように仕上げよ。
 キルティス、パターンAE、だが予定変更だ。脱出経路はこちらで確保出来た。
 元よりあちらは教皇抜きで教会会議を行う算段であろうから、
 あとは四人目の司教が間に合うよう――まあ、あれは放っておいても勝手に現れるだろう。
 細かい後処理はそなたに任せる。以上だ」

 つつがなく《鱗》との通信を終えると、教主はテレーズを庭園のタイルの敷き詰められた一角の前で降ろし、
「私もこの道を使うのは初めてだわ」と彼女が楽しそうに一枚のタイルへ印章指輪を合わせる姿を見守り、
教皇の印章に反応したパネルが、仕掛けによって音もなく次々と動いて地下に続く階段を形成すると、
その光景に気付かず首を傾げる彼女を抱え上げて、教主は階段を降り、二人はそのまま暗闇の中へ消えていき、
しばらくすると階段は再び仕掛けによってやはり音もなく次々と動いて、敷き詰められたパネルへと戻った。

 教会会議を直前に控え大聖堂が慌ただしくなるのをよそに、教皇テレーズとその世話係は忽然と姿を消した。
人々がその事実に気付くのは、教皇直下の近衛兵達が準備の整った会場へと教皇を呼びに訪れる時である。
そして、単に教皇が姿を消したこと、暗殺した筈が死体どころか実行者も監視者も消えたこと、
教皇が姿を消すのに気が付かなかったこと、様々な役割や思惑のある者達がそれぞれの理由で驚く頃、
当の教皇テレーズは、勝てる筈がなかった教皇選挙の直前、自身の前に蛇が現れた三○年前を懐古しながら、
蛇にその身を預けたまま、他愛の無い会話を交わし、ただの少女のように笑っていた。

§

 教皇テレーズが大聖堂から姿を消した事を知り得た者が、実行者である教主とその《鱗》を除いて、
ある事情から予見できた人物が一人と、それとは別にもう一人だけ存在した。

 代々教皇のみが知る秘密の抜け道、長らく使われていなかった遺跡を進む教主が、
人の手で管理されなかったがためにいつからか住み着いていたであろう魔物を蹴散らし、
非常用の脱出路だというのに施されていた、建設者が趣味で作ったのであろう謎解きを力技で突破し、
そうしてテレーズを抱えて辿り着いた転移ゲートの台座の前に、朧に揺らめく深紅の人影、
教主を滅ぼす力を持った刺客、ネロ・ヴェスパーが待ち構えていた。
歩みを止めてテレーズを降ろした教主が「この道は教皇猊下しか知らぬはずだが」と問い掛けると、
ネロは教主の傍に立つ少女、教皇テレーズの姿がある事を確認すると、教主の問いには答えず、
酷くノイズの掛かった声で「間の悪い――」と忌まわしげに吐き捨てた。

「蛇さん、そこに誰かいるのね?」

 ようやくネロがいるという事に気が付いたテレーズが教主に確認すると、
教主は「非常にタチが悪い追跡者のようなものだ。テレーズ、魔法で援護できるな?」と尋ね、
「ええ、もちろん」と指輪を嵌めた手を前にかざし、臨戦態勢に入る。
テレーズは中央聖教教皇という権威を持つが、同時に強大な神聖魔法の使い手でもある。
常に教主の傍らにいた女神リートゥシアは、私有船に加護を施さなければならないために不在だが、
それでもネロにとって、教主を葬るには大きな障害になりえた。

 ネロは形勢の不利を認めると、捨て台詞も残さず、赤黒い魔力の渦とともに立ち消えた。
教主は先日の私有船侵入と同じく、死者の眼の視界にもネロを捉えられなくなると、
テレーズの細い腕にそっと手を添えて下ろさせ、「逃げたようだ」と告げた。

「そう? 何だったのかしら」

「――さあ、出口前にありがちな守護者代わりだったのかもな」

 冗談めかした口調だが、思う所があるのか教主の表情は真剣だった。
しかし生来の盲目ゆえにそれに気付かないテレーズは幾度目かになる首を傾げる所作を見せ、
教主はテレーズを横抱きに、台座に刻まれた魔法陣から展開するゲートを通って、
教皇暗殺阻止を密やかに教皇の誘拐という形で遂行し、聖地より帰還した。





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『- 0ntology -』
ディーププラネット海域/
多次元世界線・中央聖教総本山・聖地ピスケスにて

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 セオドール・ノア司教を筆頭とした中央聖教右派勢力の教皇暗殺計画を掴み、
盲目の女教皇テレーズ・スペクタートルを誘拐するという形で阻止した奇跡の教団教主クルクスは、
彼女の身柄を預かる場所について考える必要があった。
教皇暗殺は奇跡の教団に対する全面抗争を仕掛ける大義名分を得るための手段なのだから、
単純に己の勢力下で彼女の安全を確保出来ても、そこにいるという事実が何らかの形で露見すれば、
右派の口実が奇跡の教団による教皇暗殺から誘拐に変わるだけで右派の目的は達せられてしまう。
結果、最も安全な場所として候補に残るのは、教主が個人的に探索を進めているテリメインを航行している、
私有船デア・エクス・マキナ号のみとなり、教主クルクスはそのまま教皇テレーズを連れ帰る事となった。

「皆様ごきげんよう、教皇です。これからお世話になります」

 私有船内の一室に教主と女神、世話係のカレットと教主の娘エリクシア、従者ピューパと護衛のソフィーナが
集まる中、修道女の服装をした教皇テレーズは笑顔で挨拶した。
それに特に驚いたのは一度彼女からの贖宥状を突っぱねて奇跡の教団についたソフィーナで、
傍に何食わぬ顔で立っている教主の方に腕を回して、周囲に背を向けさせ、
「なんてもん連れてくんだよ!」と小さな声で教主に訴えかけた。
教主も「許せ、私とて本来連れ帰る予定ではなかったのだ」とため息混じりに答え、
「ここ以上の隠し場所はないのは、今日までそなたに追手もつかぬ事から理解できよう?」
そう弁解する教主だが、「けどお前俺の立場がよ……!!」なお食い下がるソフィーナに、

「あの贖宥状も書けと言われたから書いただけだろう、恨まれる筋はないのだ。
 それに、あれは教皇という肩書こそ持っているが世話は焼けるが害のない娘だよ」

 半ば強引に納得させられると、ソフィーナは訝しがりながらも教主の肩から腕を下ろし、
そしてテレーズの方へと向き直って会釈をした。しかし、盲目であるテレーズは気付かず、
教皇に反応がないのを見るとソフィーナは教主の脇腹を肘で小突き、
教主はソフィーナへ「盲目の女教皇の名くらい耳にした事がないのか」と囁いて、
ソフィーナの肩に手を置いて「心配はない」と念を押した。

 それから教主はカレットへ向かって、「彼女は眼が不自由なのだ」と告げて、
教主の言わんとする所を汲んだカレットは「はい、任せてください」と快諾し、
そのまま教主はテレーズに自動人形の体を持つ世話係のカレットを紹介した。
テレーズはカレットの声を聴いて、それから白磁の顔を触って彼女を覚えると、
「あまり迷惑にならないようにするわね」と星空のような青い瞳を細めて微笑んだ。
同じようにエリクシアとピューパ、それとなく逃げようとしていたソフィーナも、
その個人認証の儀式とでもいうべき一連の流れに巻き込まれたが、女神だけは声こそ聴かせても、
顔に触れる前に「私は霊体よ。魔法で擬似的に触るのは出来るけど、逆は無理よ」と告げて、
実際にテレーズが触れようとした手は女神の顔をすり抜けた。
女神は少しテレーズの姿を観察して、それから彼女の最大の特徴である瞳を覗き込みながら、
「眼が視えるようにするくらい、と思ったけど――これは厄介ね」と呟いた。
不思議そうに首を傾げるテレーズの横から、教主が女神に「先客あり、か?」と尋ねると、
女神は「ええ」と答えて、怪訝な面持ちで以下のように続ける。

「この娘の眼が視えないようにって一際強い魔法か奇蹟が掛かってるの。
 私の力で上書きや解除は不可能じゃないけど、大災害くらいじゃ済まない反動が起こるわね。
 何か心当たりはないかしら、教主様?」

 女神から話題を振られると、教主は「誠に遺憾ながらあります」と即答して、

「教皇が持つ三度まで中央聖教の神の力を借りる権限、教皇勅令でしょうね。
 意図こそ不明ですが、間違いなく先代教皇が施したものかと」

 そう結論した。テレーズは父が自身を盲目に生まれさせた事に衝撃を受ける様子はなかったが、
代わりに、教主に向かって疑問を投げかける。

「でも蛇さん、あれってそんなに強力なものなのかしら?
 だって、あなたは三回全部使ってお願いしても断ったじゃない」

「いかに神の力によるものでも内容と相手によっては無効なのだろう。
 特に、そなたの場合は相手が悪い。私に対して精神へ働きかけるものはことごとく通じぬからな」

「どうして?」と尋ねるテレーズに、教主は「その話題は果てしなく長いぞ」と断って、
「じゃあその話は時間のある時にゆっくり聞きましょう、枢機卿」とテレーズはあっさり引き下がったが、
一方で、教主が枢機卿と呼ばれた事にソフィーナが喫驚して「枢機卿だぁ!?」と大声をあげた。
テレーズはソフィーナの反応に対して嬉しそうな様子で解説する。

「三○年前ね、教皇選挙で蛇さんが私を勝たせたの。前の枢機卿がしてた悪いことを全部暴いてね。
 その時、蛇さんに枢機卿になってってお願いしたんだけど、蛇さんは自分の教団があるからって断ったの。
 それでちょっとムキになって、貰ったばかりの教皇勅令でお願いしたんだけど……駄目だったわ。
 でもその代りに、私は隠遁した前の枢機卿の後継者を蛇さんだということにしたの」

「驚け、ソフィーナ。なんとそれが中央聖教で三○年もの間空席となっている枢機卿の真相だ」

「マジか」

 突拍子もない話の連続に、ソフィーナは頭を抱え、もはやそれ以上言葉が出なかった。
その日、新たに教皇テレーズを加えた私有船デア・エクス・マキナ号は、いつもより少し賑やかだった。

§

「教皇猊下、ならびに枢機卿猊下、騎士修道会総長ご不在のため、本日は騎士修道会副総長、
 私クノー・マフタンが進行役を務め、厳正なる教会会議の開始をここに宣言致します」

 中央聖教の総本山、聖地ピスケスでは教皇が姿を消すという事件が起きてもなお、
定例通りに教会会議が行われ、多くの教会関係者が見守る中、各教会の代表となる司教が集まり、
騎士修道会の副総長クノーが進行役に宛てがわれ、この鷹の如き眼光の騎士が中心となって、
教義や各教区の管理に関する議題が話し合われ、やがて教皇が姿を消した一件が話題に上った。
その場にいる全員の視線が一時教皇の席へ移り、教会関係者達の間にどよめきが起こったが、
進行役であるクノーの「静粛に」という一喝でそれもぴたりと止み、静寂の中、
教皇直下の近衛兵が教皇の部屋に残されていた、封蝋の押された書簡をクノーへと手渡す。
紛れもなく教皇の印章である事を改めてクノーが宣言し、封を割ってその内容を一瞥し、
わずかに目を見張ると、一つ咳払いをして、教皇の書き置きを読み上げる。

『枢機卿がいらして、私の教皇としての至らなさを諌められました。
 今一度、修行が必要だと痛感致しましたので、急ではありますが、枢機卿と修行の旅へ出ます。
 留守の間の事はどうぞよしなに。ですが、隣人を愛しなさい。戦争はだめです。
 主に誓って、私はここに真実を記しました。いずれ誰かがこれを読み上げるのでしょうが、
 記した内容にもし偽りがあれば、施した魔法によってこの書状は立ち所に灰となるでしょう。

 ――中央聖教 教皇 テレーズ・スペクタートル』

 再び教会関係者にどよめきが起こる。クノー副総長が読み上げても書状は灰とはならず、
三十年間もの間姿を見せなかった枢機卿によるものだと記されていたのだから、
今度ばかりはクノーの一喝をもってしても騒ぎの収まる気配はなかった。
代わりに、司教の一人が机を叩き、声を発する事でようやくその場に静寂が戻る。
声の主は縮れた黒髪に豊かな口髭を蓄えた中年の司教、セオドール・ノアだった。
セオドールは場が鎮まったのを確かめると、続けざまに「異議あり」と声高く唱え、
司教席の一つの空席と他の二名の司教の顔を見渡してから、クノーに向き直り、

「教皇猊下ともあろうお方が、教会会議直前に誰にも告げず旅へ出られるなど考えられない!
 これは我ら中央聖教最大の敵、奇跡の教団によって拐かされる直前に書く事を強いられた、
 異端の教主、忌まわしき奸智の蛇めの策謀ではないか!!」

 一層語気を強めながらそう主張した。元より教皇を暗殺せしめ罪を被せようとしていた彼は、
確かに事実を語ってはいたが、すぐにまた別の司教が異議を唱える。
横鬢を耳に掛けて後ろに流し、襟足の広がった黒髪で、司教服を纏ってなお分かる屈強な体躯、
かつて教主に強いられた密約によって司教の座を得たルベールは、セオドールと睨み合い、
第一に教皇猊下は真実を記されたのだという事と、当日、近衛兵達が呼ぶまで侵入者がなかった事、
そしてもしセオドールの主張の通りならば、異端の教主めを枢機卿に据えていた事になると、
反論を許さず畳み掛け、セオドールの主張を真っ向から否定した。

 そうして、教皇の部屋の前を預かっていた衛兵に侵入者がなかった旨を証言させ、
世話係も伴って姿を消した事を教皇猊下自らの意志で旅立った証拠として示しながら、
ルベールとセオドール両司教は激しく弁舌を争ったが、やがて、司教としての年季、
傘下教会への影響力に勝るセオドールが奇跡の教団への全面抗争を提議して、
その場にいた三名の司教による多数決で採決する運びとなった。
当然、セオドールは賛成、ルベールは反対で残る一名の司教の票で可決、否決が決まる局面を迎えたが、
最後の一人、黒髪のオールバックに一房白髪を混ぜた伊達男、パトリツィオ司教は、
セオドールと同じ右派に属する手前「どっちかっつうと賛成寄りですが」と言いながらも、
教皇の書状を再度読み上げさせたかと思えば、自らそれを改め魔法が掛かっている事を確かめたり、
証人達を再び召喚してやはり侵入者の形跡がない事を確かめたり、枢機卿がいた事は間違いない事を語ったりと、
ここまでの経緯をなぞるばかりで意見をはっきりとはさせなかった。
その場にいる全員の視線が集まる中、パトリツィオが遂に賛成に票を入れようとしたその瞬間、

「お待ちなさいッ!!」

 雷霆の如き激しい叫び声が響き渡り、扉を開け放って、身の丈優に七尺を超え、その巨躯以上の大きさの神像を、
鎖で司教服の上から縛り付け、剃髪した頭に円形の帽子を被った、山のような大男がその場に現れた。

「教会会議への遅参どうか赦されたし!! しかし、神の試練を乗り越え、今ここに巡礼を終え!!
 ユーリイ・アイラトヴィチ・スミルノフ司教兼騎士修道会総長、馳せ参じたりッ!!」

「おお、来たかいとっつぁん!」

 ユーリイの口上が轟く中、パトリツィオが机に両手を突いて立ち上がり声をあげた。
その言葉遣いをユーリイに諌められてパトリツィオは「失敬失敬」と言いながら座り直し、
クノーは司教であり同時に総長であるユーリイへ会釈をし、議事録と教皇の書状を手渡し、
ユーリイはそれに目を通すと、わなわなと両手を震えさせながら、セオドールに対して、

「断じてぬぁりませんッ!! 教皇猊下のご意思に反する抗争などッ!!
 騎士修道会総長として、中央聖教司教として、何より一人の信徒として断固反対ですッ!!」

 場の空気が震えるような、咆哮ともいえる怒号とともに、反対を突きつけた。
四名の司教が揃い、これで賛成一票に反対二票。セオドールがパトリツィオへ目配せをするが、
つい先程まで賛成に票を投じようとしていたパトリツィオは髪をなで上げて、頭を振る。

「ユーリイ司教のご意見もっとも! ならば私めも貴殿に倣い、猊下の意思を尊重しましょう!」

 パトリツィオ司教は反対に票を投じ、そのまま奇跡の教団への全面抗争は否決となって、
幾度となく騒乱の起きた教会会議は、教皇猊下の意思を尊ぶという結論をもって間もなく幕を閉じた。

§

 その晩、聖地ピスケスにそびえる大聖堂の一室で、パトリツィオ司教は司教服からジャケットに着替え、
中央聖教司教の印章が入ったネクタイピンを着けた所で、何者かの気配に気付いて窓側へと飛び退き、
複数の銃声と共に部屋の扉を突き破って数発の弾丸が撃ち込まれ、その内の一発がパトリツィオの肩に当たった。
パトリツィオも懐から拳銃を抜いて数発発砲し、部屋に押し入ろうとしていた修道士達に的中して、
撃たれた修道士を押し退けてセオドール司教と右派の修道士数名が姿を表した。
肩を押さえて窓縁に背中を預けるパトリツィオを、セオドールは「裏切り者め!」と罵り、

「会議でのあからさまな時間稼ぎで合点がいった、内々で進めていたあの計画を漏らしたのは貴様だな!!」

「テレーズの事かい? まさか攫われるたぁ、ありゃあ俺っちも驚いたぜ」

 額に嫌な汗を浮かべながらも不敵な笑みで応えるパトリツィオに、セオドールは声を荒げながら、
入信して以来、ただ出世に明け暮れていた同志の裏切りの意図を問う。

「教皇を排除した暁には私が教皇となり、貴様を枢機卿の地位にしてやる約束だった!
 貴様にはこれ以上ない対価だ! 何が不足だったというのだ!」

 問い詰めるセオドールをパトリツィオは「その前提が間違いなんだよ」と鼻先であしらい、
そして、倒れ込む格好で窓を開け、「あ~ばよっと!」大聖堂の窓から身を投げた。
すぐさまセオドール達が窓縁から身を乗り出して下を覗き込むが、既にパトリツィオの姿はなかった。

「おのれ!!」

 セオドールは窓縁を殴りつけながらもすぐに身を翻し、忌まわしげに独りごちる。

「三十年の年月を準備に費やしたのだ、今更この程度で計画は揺るがぬ……!!
 テレーズと蛇を疎ましく思う者がどれほどいるか、じきに思い知らせてくれよう。
 私は敗北者にはならぬ! 最後に笑うのは、このセオドールだ!!」

§

 聖地ピスケスの地下水路を、壁に身を預けながら覚束ない足取りで進むパトリツィオの前に、
仮面を着けた隠密の女、奇跡の教団、教主クルクスの懐刀である《鱗》の一員、キルティスが現れ、
「手酷くやられたようね」と言いながら肩を貸した。
それにパトリツィオは「ルベールの坊やも同じになってなきゃいいがね」と軽口で返して、
「弾は抜けたか」と撃たれた肩に視線を落として傷の具合を確かめた。

 セオドール司教らの教皇暗殺計画が奇跡の教団へと漏出した経緯はこうだ。
奇跡の教団への全面抗争への大義名分として教皇テレーズを暗殺するという右派の計画を、
中央聖教内に流してもセオドールらに握りつぶされるだろうと踏んだパトリツィオ司教は、
単独で奇跡の教団と繋がりがあると調べ上げたルベール司教と密会し、
キルティスという女への連絡経路を確保して、数々の証拠を添えて計画を流した。
三十年に入信し、爾来、出世欲だけの男を装って右派に属していたパトリツィオには、
テレーズを害するものだけは阻むよう動くに足る、秘められた経歴が存在する。

「天下の大泥棒も、この聖地とは相性が悪いみたいね?」

 キルティスの問いに、パトリツィオは苦笑いを返すのみだった。
三十年前、新進気鋭の怪盗だったパトリツィオは、聖地での盗みに失敗し、
今と同じように傷付いて道端に行き倒れていた所を、教皇候補である盲目の少女に救われ、
彼女が教皇になったと聞き、顔も声も、名前さえも変えて、彼女に恩を返す為に、
教皇に近い身分まで出世に明け暮れた。余程深く調べなければ誰も気付かない、秘密の経歴だ。

「しっかしまあ、テレーズにあんな書き置きを残させる辺りを見ると、
 あんたの所の蛇さんは俺にも盗めなかったもんを見事に盗んで行ったもんだね」

「教皇の印章指輪とか?」

「違うね、――テレーズの心さ」

「くっさい台詞」

 すげなく酷評された決め台詞にパトリツィオは「つれないねえ」と再び苦笑いし、
そのままキルティスとパトリツィオは夜闇へと消え、翌朝には、
教皇に次いで司教の一人までもが行方をくらますという事件が聖地を賑わせ、
教皇テレーズに加え、元右派司教パトリツィオが奇跡の教団の保護下に入った。






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『ネロ・ヴェスパーの正体』
ディーププラネット海域にて

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 ほぼ全域が海である現在のテリメインでは、海運が活発であり、同時にそれらを獲物とする海賊も跋扈している。
しかし、海底探索協会の強制労働施設地下での暴動を境に、海賊狩りと呼ばれる者達も勢いを増し始めており、
彼らの手によって各地に秘められた海賊の隠れ拠点、海賊島の一つが壊滅するという表沙汰にならぬ戦果も上げていた。
海賊から協会の犬と忌まれる海賊狩りの内、海賊島を壊滅させたのは協会の探索者とも、
酸素ボンベを背負ってダイバースーツを着込んだ異様な風体の者だったとも言われているが、真相は定かではない。
だが、その件を経てもなお活発に略奪を行う、海賊島を率いる海賊が一派あった。
ある港で骸骨姿の手下達を率いて暴虐の限りを尽くしている、乱雑に切り揃えられた紫色の髪の少女の姿があり、
これはディーププラネットの海賊島を根城とする、通称海底亡霊王ルヴナン達だった。
水夫を、衛兵を殺し、ルヴナンの持つ死者を統べる秘宝によってそれさえも下僕に変え、
蓄えられた貨物や女子供を奪い取る、悲鳴と血の臭いが支配する惨劇が繰り広げられていたが、
突然、港にいた骸骨達がたちどころに灰となり、殺された水夫や衛兵達も元の屍に戻り、
ルヴナンの前に朧に揺らめく赤黒い人影が現れると共に、略奪は中断された。

「ネロか! 何のつもりだァ、てめぇ……!?」

 ネロは胸を押さえて苦しみながら声を絞り出すルヴナンの首から下げられていた、
海水の詰まった瓶を強引に奪い取り、「契約は果たされなかった。教主クルクスは健在だ」と冷淡に告げ、
口の端から黒い霧を漏らしながらのたうつルヴナンを見下ろしながら、手にした瓶に向かい、
果ての海の伝承を語り聞かせると、瓶の海水は虹色の輝きを帯びて、ルヴナンの苦しみを収めた。

「改めて契約だ、ルヴナン。私は貴様にこのオケアヌスの海水をもって陸で暴れる手段をやる。
 その代り、貴様には教主クルクスを葬るために働いてもらうぞ」

「馬鹿か、契約は死者の世界に送還する所までだったはずだぞ!
 このルヴナン様を相手に契約の上積みをするつもりか!?」

「然り」

 瓶を奪い取ろうとするルヴナンをあしらいながら、ネロは契約の上積みという言葉を肯定した。
ルヴナンは契約という場面において常に自身が優位であらんとする矜持から、
たった今被った手駒の喪失、略奪の中断などの損害を一つ一つ数え上げながら、
邪悪な笑みでネロを見上げて、契約の条件を告げる。

「その水は元々俺が持ってたもんだ、それだけじゃ足りねぇ。
 魂だ。この契約を成し遂げた暁には、てめぇも俺の永遠の下僕の一人に加わってもらう」

「よかろう」

 即断だった。かえって訝しむルヴナンに関心を示さぬまま、ネロは教主クルクスの所在地と、
教主の私有船を襲撃する為に必要だとして、なるべく巨大な烏賊か蛸の死骸の用意を言いつけ、
最後に、こう付け加えた。

「あれを直接滅ぼせる手段を持つのはこのネロのみだ。貴様はかの船を護る女神と、
 教主クルクスの配下であるピューパとソフィーナめが動けぬ条件を整えればそれでいい。
 それが成れば――私の目的は達せられる」

§

 教主クルクスの私有船、デア・エクス・マキナ号に敵襲を告げる警報サイレンが響き渡る。
警戒に当たっているピューパからの報告は、真下から巨大な動体反応があり、
艦載砲による迎撃を受け止めながら接近しているというものだった。
教主が速やかに世話係のカレットに娘エリクシアと保護している教皇テレーズへ船室内への避難と、
護衛であるソフィーナに甲板での迎撃を命じた所で、船体に衝撃が走った。
あらゆる環境を無事に航行するという奇蹟の施された船を力尽くで沈めようという腹積もりなのか、
女神リートゥシアは更に加護を強めて船体に取り付いた何かに対抗する中で、
教主とソフィーナが甲板へ乗り出すと、吸盤の並ぶ巨大な腕が数本、海面から覗き、
頭上から教主へはネロが、ソフィーナにはルヴナンがそれぞれ斬り掛かり、両者はこれを武器で阻む。
ネロを切り払って間合いを作り、教主が二本の剣の柄を連結させて槍へと変容させるが、
船に取り付いた異形の怪物からの違和感に気付いて、「屍を使ったか!」と叫ぶ。

「貴様の槍は法を司り罪を問うもの。ならば元より罪を問われぬ屍には使えまい」

 再び教主に斬り掛かりながら、ネロは逃げ回るようにしてソフィーナを教主から引き離す姿を一瞥し、
かろうじて剣の形状と判別できる影で教主が携えている盾を容易く切り捨て、
続けざまに教主の槍の柄、本来剣の接合部である箇所に刀身をねじ込み、強引に一対の剣へと戻させる。
教主は剣へ持ち替えると同時にネロの踏み込んできている脚へ斬り付けたが、
これをネロは飛び退いて躱し、再び両者の間合いが開く。
だが、一瞬たりと息をつかせる間など与えまいとネロは更に攻勢を仕掛け、
本来不滅の存在である教主を滅ぼせる手段、剣の形をした影に赤黒い魔力を纏わせて袈裟に振り下ろす。

「――黄昏の獣よダムナティオ落陽を為せメモリアエ!!」

 避ける間はない。教主は一対の剣の刀身を交差させて受け止めようとするが、
ネロの剣はその抵抗を押し切って魔力で構築された刀身を砕き、教主は右腕、銀色の義手で剣を受ける。
生半可な武器ならば容易く破壊する強度を持つ義手の装甲を焼き切りながら、
ネロの剣は教主の義手に深く食い込んだ所で阻まれた。
教主の意思によって作動する義手は、腕に力を込める所作に則って更にネロの剣を深く捕らえ、
互いにこれ以上手が出せない状況で、顔を間近に、両者が対峙する。

「その剣が太陽を落とす事に特化したものならば、我が身にあって太陽ならざるもので阻める!
 第一に私は貴様をルクスルナかと思ったが、奴は辺獄の箱庭外殻にて貴様と戦っていた。
 第二にその姿は、多次元世界線に眠る欺瞞の秘法による隠匿だ」

 刀身を引き剥がそうとするネロを教主は義手の怪力をもって捕らえたまま、続ける。

「第三に貴様は私の在る所へ、誰も知り得ぬ場所にすら現れた。
 貴様は私を追っているのではなく、私の在る世界へ自動的に召喚されるのだろう。
 第四に貴様がルヴナンに操らせている怪物、ただの死体にクラーケンの役割を演じさせる技能は、
 天上の理想郷にて見出した偽録伝承を除いて他にない!
 そして何より、貴様には――カレット・コルレットが斬れなかった!!」

「黙れ!!」

 頭突きや膝蹴りで抵抗するネロの攻撃を受け流しながら、息を吸って、眼前の影を見据える。
額を掠めた硬い何かが浅く傷を作り、鮮血が滴るが、教主の眼光は鋭く冴え、緩まない。
そして、確信に至った教主は、ネロと名乗る影へ告げる。

「カレットを気まぐれに救ったがゆえに救済と破滅を同時に与え、
 天上の理想郷へ至り、そこより帰還せし多次元世界線の者、該当するのは唯一人!
 汝の名、そして我が名は、クロード・ルクス・ソーリスである!!」

 刹那、名前を呼ばれるという欺瞞の秘法の解除条件によってネロを纏っていた朧な影はたちまち霧散し、
全身を覆う漆黒の甲冑に血管のように深紅の魔力が走るネロの真の姿が露呈し、
教主の義手に食い込んでいる剣も、教主が持つ断罪の槍の穂先をそのまま切り取ったような、
自らを狩るという特性を表すかのごとく、異様にして歪な全貌を晒した。

 教主とネロの一騎打ちが膠着状態に陥る一方で、ソフィーナが小柄な少女の身体を乗っ取っている海賊、
ルヴナンを追い、一合打ったかと思えば逃げ、的の小ささからソフィーナの槍が空を切ったり、
捉えたかと思えば死者を統べる秘宝によるものか、たちまち再生してしまうルヴナンを相手に、
時間稼ぎだと分かっていながらも攻めあぐね、腕に覚えがあるだけに、それがソフィーナを焦れさせた。

「てめぇ! ちょろちょろしてんじゃねぇッ!!」

 ソフィーナがルヴナンに罵声を浴びせながら、なおも追う。
船体に取り付いている怪物の腕を手にした光の槍で焼き払い、切り離そうとするが、
ただでさえ巨大な上に、強靭かつ密度の高い筋肉で構成されている腕は一撃ではびくともしない。
その隙を狙って潜り込むようにして攻め入るルヴナンをソフィーナが捌き、
自ら懐に入ってきたルヴナンを捕まえようとした瞬間、

「ソフィーナッ!!」

 先んじて気付いた教主が叫んだが、既に遅く、怪物の巨体に見合わない瞬発力で振るわれた触腕が、
ソフィーナの胴を貫いて、その体ごと空中へと攫った。

§

 ソフィーナは怪物の触腕に吊り上げられ、私有船と、暗い水面に映る怪物を見下ろしていた。
どうやら少しの間気絶していたらしく、胴を貫く触腕の先端と、自身の手にまだ槍がある事を確かめ、
私有船の戦況が、女神は加護を施す為に動けず、ピューパが操る艦載砲による迎撃も怪物に通じず、
そして教主の義手から剣を引き抜いたネロと、そこへルヴナンが加わろうとしているという、
最悪の事態であるという結論を、再び遠のこうとする意識の中で導き出した。
既に下半身の感覚がなく、どうやら助かりそうにない深手だと悟ると、
ソフィーナは戦況を打破出来るのは自分だけだと気力を振り絞り、眼下の怪物を見据えて、槍を構える。
走馬灯のように、中央聖教の間者として教主の護衛役についた際に交わした会話が思い出される。
確か手にしている槍を与えられた時に、何か重要な事を言われていたはずだ。

『これより私の護衛を務めるそなたにこれを授けよう』

 教主が何か唱える、というよりは語り聞かせると、ソフィーナが背負っていた無骨な槍が、
光を放つ槍へと姿を変え、以来それを武器として振るってきた。

『ロンゴミアント、あるいはロンの槍。さる騎士王伝説の中心である王が聖剣と並んで切り札にした槍だ。
 その逸話を付与して、そなたの槍を王が聖剣さえ通じぬ相手に用いた伝説の武器へ変えた。
 エンチャントとは仮の名。装備者への負荷は大きいが、その槍の真価を発揮せねばならぬ時はこう唱えよ』

 血を吐きながら、ソフィーナは教主のかつての言葉をなぞる。

偽録伝承アーキタイプ――輝ける最後の聖槍ロンゴミアント!!」

 眼下の怪物の眉間に狙いを定めたソフィーナの突きが、光の奔流となって怪物を射抜く。
急所を破壊された怪物は断末魔をあげ、たちまち怪物より二回りほど小さな蛸に立ち返り、
船体から剥がれて海へと沈んでいく。ソフィーナもそれと道連れに海へ引きずり込まれる最中、
一瞬視線が合った教主へ、もはや声が出ているかすら分からないが、精一杯不敵な顔を作りながら、
海面へ叩き付けられる直前にこう言った。

「借りは返したぜ」

 怪物がソフィーナを伴って沈み、負荷がなくなった女神が甲板に姿を現し、
ネロが失敗を悟って退却するのとほぼ同時に、教主は再び断罪の槍を形成してルヴナンを睨む。
ルヴナンは同化している死者を統べる秘宝によって少女の身体は不老不死へと変えてあるが、
相対する教主には少女はあくまでも間借りしている器に過ぎない事を看破されており、
しかもネロの撤退したこの瞬間、教主の怒りが向く対象はルヴナンしかいない。

「やべぇ――ッ!?」

我が原罪を以て罪を断つレクス・タリオニス!!」

 三間か四間かの距離から逃げようとしていたルヴナンは、瞬間移動のように教主の間合いへ移され、
眼帯で覆われた右眼――本体である死者を統べる秘宝を必中必殺を誇る槍で穿たれ、ルヴナンはそのまま、
少女の体から黒い霧となって散り、あっけない最期を迎えた。
その場には、槍の穂先から死者を統べる秘宝を引き抜き手中に収める教主と、
駆けつけたピューパと女神、そしてルヴナンの消滅によって髪が紫から紺に変色し、
甲板に倒れる少女だけが残された。

「ソフィーナ、この馬鹿者め。剣は鞘へ収まるものだと言ったはずだぞ」

 海面に向かって、憂いを帯びた表情で教主が独り言ちた。

§

「オッ?! ドコダ、ココ」

 その日の晩、私有船内の医務室でルヴナンに身体を乗っ取られていた紺色の髪の少女が目を覚まし、
声をあげて寝台から身を起こした少女へ、白衣を着た教主が振り返った。

「何ダ、オ前、酷イ事スルノカ?」

 警戒する少女に教主は首を振って「しない」と告げると、
代わりに、「具合はどうだ?」と自分の左眼、少女から見て右眼を指差しながら尋ねた。

「? 潰サレタ、ノニ、視エル」

「違和感はあるか?」

「少シ、ごろごろシテル」

 少女は猫のような手つきで右眼の辺りをこすり、教主は指を顎に添える。

「義眼の技術自体はあるのだが、今回はいかんせん間に合わせの急拵えでな。
 慣れればいずれ本格的なものに変えよう。そなた、名前は?」

 名を訊かれた少女は寝台の上にあぐらをかき、足首に両手を揃えた格好でしばらく唸っていたが、
「無イ。多分、最初カラ」と目を伏せながら答え、教主は片眉を上げた。
身寄りのない子供である事は拙い口調から察するに難くはないが、余程の事情があるかもしれない。

「かぎ……」

「鍵?」

 少女が呟いた言葉を教主が繰り返し、少女は顔を上げて「前、大人達ガかぎッテ呼ンデタ」と補足する。
彼女の言う大人達が何にあたるのかとどれくらい前の話なのかを判断する材料がなく、
教主はそれらについて尋ねるが、知識に乏しいのか、少女からの答えは要領を得ない内容だった。
少女の身元については今現在も配下を使って調べさせているが、名前がないという少女に対して、
教主は軽く手を叩き、差し当たってまず名前を与えようと考えた。

「カギではあんまりだからな。私が名付けよう、これよりはクラヴィスと名乗るといい」

「くら、りす?」

 小首を傾げる少女に、教主は首を一度横に振った。

「クラヴィス。発音は苦手か? こうだ。ク、ラ、ヴィ、ス」

 一音ずつ強調して発音する教主を、少女がたどたどしい調子で真似する。

「くらびす……くらゔぃす! ウン、カッコイイ」

 少女は満足げに笑顔で大きく頷き、教主はどこか悲しげな雰囲気を帯びながらも、笑みを返す。

「気に入ったか? それはなによりだ。
 私の母語で鍵とか錠前とかを指す言葉を持ってきただけの安直な名だが、簡潔な方がよかろう」

「オ前ハ?」

「私はクルクス。これも実は仮の名だが、意味は十字架だ」

「アリガトナ、くるくす」

 腕を組んで頷く教主の元へ従者のピューパが現れ、書類を手渡しながら耳打ちをすると、

「住人にも客にも該当なしか。ルヴナンの行動を辿れば少しは手掛かりが出るやもしれん」

 書類に視線を落として内容を確認しながら、教主は壊滅したルヴナン一派の調査を命じて、
ピューパは頷くと足早に医務室を去っていった。
クラヴィスと名付けた少女に視線を戻すと、乱雑に切り揃えられた髪や海賊服をいじりながら、
「変ナ格好」と唸っており、教主も無言のまま肯定するように小さく点頭した。

「服は希望があればその通り誂えよう。髪は、更に整えるならカレットに任せるが、
 長さに違和感があるなら、そうだな、女神にならその程度は容易いだろう」

 身元の分からないクラヴィスをそのまま私有船で保護する事にし、
教主は保育所じみてきたと頭をもたげた感想をかき消して、クラヴィスをカレットに紹介しに行った。

§

 必死の捜索も虚しく、ルヴナンの襲撃跡周辺からは巨大な蛸の死骸に押し潰された船と、
無数の白骨死体、風化寸前の財宝が出てくるばかりで、ソフィーナの遺体は発見されず、
代わりに彼女に持たせていたスキルストーンの子機が回収されるのみという結果に終わった。
夜更け、教主は一人、船の欄干の傍に立って、冥い海面を眺めていた。
憂いの色を隠せない教主の背後に、光の粒子を伴って女神が顕現して、
掛ける言葉を選ぶわずかな間を置いて、「クラヴィスの髪、伸ばしといたわよ」と声を掛ける。
教主は背を向けたまま「ええ、お手数をおかけしました」と返し、
「あとはカレットがどうにかするでしょう」と素っ気なく女神が言葉を発したのを最後に、
二人の間にしばらくの沈黙が訪れる。

 自分の責任で護衛のソフィーナを失った教主の心境を女神には理解出来たが、
旅路で彼の周りに増え続ける女と、その内の一人を失った今の塞ぎ込みよう、
更に彼の師であるアモールとその間の娘エリクシアの顔が頭に浮かび、
妻、女神の為ならどんな無理な事でもしてしまうという彼の危うさから、
自分一人だけのものにしたくないという主義を貫いてきた女神は、
彼の背に向かって、今まで決して口にしなかった、ある疑問を投げかける。

「ねえ、クロード。私は、貴方の何?」

 教主はおもむろに振り返り、ドレスの裾を握り締めながら顔を伏せる女神に、
「どうか、お顔を上げてください」と促してから、彼女の問いに、自身の中の確たる答えを返す。

「Animae dimidium meae.」

 我が魂の半分、転じて最愛の人という言葉を口にするこの瞬間ばかりは、
教主はそれまで帯びていた憂いも感じさせず、真っ直ぐに女神の顔を見据えていた。
その答えに、女神は握り締めていたドレスの裾を放し、様々な感情の混ざった声で、
「知ってたわよ」と応え、自分の問いからか、彼からの答えからか定かではない羞恥に、
顔が赤くなるのを感じ、今度は女神が教主へと背を向けて、

「こういうのいちいち言わなきゃいけないのって安っぽいから嫌だけど!
 ――――愛してるわよ、この馬鹿っ!!」

 照れ隠し半分の、わざと棘のある口調でそう叫んで、さっさと姿を消そうとしたが、
赤い顔のまま勢いよく振り返って、「ソフィーナだってきっと生きてるから!」と、
それは現実的ではないのを承知で慰めの言葉を叩きつけて、今度こそ姿を消した。
教主の表情は女神との一連のやりとりの中でいつしか笑顔に変わり、幾許か気持ちが軽くなったような心地がした。





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『REVIVAL - REBORN - EXODUS』
ディーププラネット海域/
多次元世界線・騎士修道会管理区エトナにて/


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 伸びっぱなしの桃色の長髪と防具付きのコート、そして貫かれた胴から血を海中へなびかせながら、
ゆっくりと沈んでいく女がいた。伝承に残る海の怪物から致命傷を受け、最後の力を振り絞って、
それを道連れにし、教主の絶体絶命の状況を打破した護衛役の傭兵、ソフィーナである。
ソフィーナは日光を受けて仄かに輝く海面と、自分の血を見上げながら、もはや助かるまいと悟り、
最期の時を待っていたが、そこへ青い光が近付き、光はソフィーナの顔の前で止まって語りかける。

『貴方、彼の護衛の人よね? 死にたくはないでしょう?』

 若い女のものの声色でソフィーナの頭の中へ直接届き、鈍る思考と薄れゆく意識の中でもはっきりと聞こえた。
魔法系統の知識を持たないソフィーナにも、これは念話の類だと容易に察せられ、
光に対して届くかは知れなかったが、『おばけは苦手なんだがな』と思考する。

『おばけ――そうね、一度は死んだし、今は身体もないからそうなるかしら』

 ソフィーナの思考に、青い光はそう返した。どうやら向こうにも通じているようである。
風前の灯火にも等しいが、まだソフィーナに命がある事を確かめると、
光は『契約をしてほしいの。代わりに、貴方を助けられる』と話を持ち掛け、
朦朧としながらも、ソフィーナは『条件次第だ、聞くぜ』とそれに応じる。

『私は水簾のアクア。ラクス・カエルレウス・アクア。
 どうしてもしなければならない事があって彼を追ってきたけど、
 魔力で作られた身体は途中でなくなってしまったから、誰かに身体を貸してほしいの。
 貴方と融合して、私が力を使う為の触媒になる水がいくらでもある今なら、貴方を救える。
 私が身体の主導権を握るのは、しなければならない事をする一時だけ。 どう?』

 悪くない、とソフィーナは思った。どうやら死ぬしかないと受け入れていた心が、
助かる手段を提示された今、再び熱を持ち始めるのをソフィーナは感じていた。
その様子を見て、光は『契約成立ね』と告げて、ソフィーナの身体の中へと融け込み、
テリメイン特有の魔力に満ちた海水を触媒に、光の持つ力へと変換し、
膨大な魔力が海中で青い輝きを強く放つと、ソフィーナの傷はすっかり癒えていた。
そして、意識が鮮明になるとようやくソフィーナは教主から預かっていた、
スキルストーンの子機をいつの間にか無くしてしまった事に気付いたが、
それでも今契約を交わしたアクアと名乗る光によるものか、海中でも呼吸が出来ている。
とうとう海底へと辿り着き、姿勢を起こして降り立つと、自分の身体を確かめた。
コートには怪物に貫かれた穴が残っているが、傷は跡形もなく消え去り、
視界に入る自分の髪の先に、水色の色彩が混ざっている。

『貴方の魂の内側へ潜り込んだけど、まだ少し私の影響が出ているわね。
 じきに馴染んで元の姿と私の姿を切り替えられるようになるから、
 彼の船に戻るのはそれからでもいいかしら?』

「ああ、構わねぇ」

 死の淵から蘇ったソフィーナは、握り締めていた聖槍を手の内から消し、伸びをしながら快諾した。
アクアの持ち掛けた契約を反故にするつもりではないが、その胸中にある思惑が生じた為である。

『これは……貴方の記憶ね。彼に中央聖教の右派との避けられない戦いがあるから、
 一番大事な場面で駆けつけて鼻を明かしてやる、なるほど。そういう人なのね、貴方は』

「クルクス――ああ、クロード・ルクス・ソーリスって名前なのか。
 とにかくあいつにゃ散々手玉にされてきたからな、それくらいかましてやるさ。
 だが、アクアっつったか、あんたのしたい事ってなぁ――」

『彼は止めるでしょう。でも女神は、リートゥシアは絶対に受ける』

 融合によって共有したアクアの記憶から、教主と女神の関係や人間性を把握したソフィーナは、
「うまくいくかね」と漏らしたが、アクアは『ええ、絶対に』と力強く繰り返す。
一つの体に領有されている二人の人格の間で、それが半々の賭けになる事は共通の認識だった。
リートゥシアの為ならばどんな事でもするのがソーリスなのだとは分かっているからだ。

 ソフィーナとアクアの前に赤黒い魔力の渦を巻き上げながら、漆黒の甲冑に深紅の魔力を走らす男、
ネロ・ヴェスパーが出現し、ソフィーナと相対する。ネロの姿を見ると、ソフィーナの中からアクアが、
『ソーリス? ――いえ、ソーリスだったもの』と悲哀に満ちた声で呟いた。
ソフィーナの知識から、ネロの目的は分からないがこれがソーリスの敵であると、
アクアの知識から、ソーリスと同一人物だが自身の慕う彼とは全く違うもので、
焦がれるような烈しい思慕を抱く、あの烈日ではないとソフィーナとアクアは共通して認識した。
ネロはソフィーナとアクアに対して、「鍵は教主クルクスの手に渡った」と告げて、
青い水晶を差し出すと、水晶から教主を追って中央聖教の聖地ピスケスへ現れた時に手に入れたであろう、
ディーププラネットの奥地に存在する大規模な都市遺跡に関する資料が投影された。

「これがセオドール・ノアの切り札だ。この遺跡の中枢が決戦の地となるだろう。
 私の望みは教主クルクスを討ち、クロード・ルクス・ソーリスという存在を抹消する事。
 誰にも邪魔をされずに決着を付けたい――アクア、そなたも女神と一騎打ちがしたいのだろう?
 利害は一致しているが、どうだ?」

『私がリートゥシアと戦わなければならないのは、貴方と違って目的ではなく手段だけど、
 そうね、確実に邪魔が入らないなら私は構わない。彼は貴方には負けないでしょうし』

「あいつはズルいからな」

 アクアとソフィーナからの評を意に介さず、ネロは「話は決まった」と踵を返して、
その場を去る前に、背中越しにこう言い残した。

「互いにこの地における一幕が最後の機会となろう。私は舞台を整えよう。
 教主と女神は必ずそこへ現れる――準備だ、そなたらも準備をしておけ」

§

 私有船デア・エクス・マキナ号の工房で、教主は半壊した義手の修繕と改修を行っていた。
何かと気に掛けてきた護衛役のソフィーナ、彼女に自己犠牲を強いたも同然で失ってしまった事は、
教主にかつて同じ道を選んだ戦友がおり、恋愛感情こそないが信頼をおいた仲間と認識していた背景から、
一時は見かねた女神が柄にもない振る舞いをする程、大いに教主の心を曇らせた。
だが、悠久の時を重ねてきた教主にとって知己との離別、あるいは死別は決して珍しい事でもなく、
瞬く間に周囲が老い、朽ちていく様を見届けながら歩んできたのだから、これもまたその一例に過ぎぬと、
自らの心を戒めて区切りとし、それと同時に、一片の希望を持ち、彼女への弔いなどはせぬ事にした。

「上天に戴くこの烈日が、湿っぽくてどうするのだ」

 そう自分へ言い聞かせると、教主は平素の不敵な面構えにすっかり立ち返って、
ちょうど義手の外装の取り換え、そして錬金術や魔導の技術を駆使してなお再現に苦労した、
かつてこの義手の製作を依頼した自動人形が持つ、ある武装の追加を終えた。
手首に備えられた射出機能はそのままに、ネロ・ヴェスパーに対する切り札を仕込んだ義手に、
応えるはずもないが、「原典を目指した為に原型からは遠のいたが。頼むぞ、シロガネ弐式」と、
アルゲントゥムという暗号名ではなく、製作者である自動人形が名付けた本来の名で呼びかけた。

 作業を終えた教主は、まずは従者――特に娘と盲目の女教皇に加えて身元不明の野生児までも預けている、
世話係のカレットの様子を確かめに行く事に決めた。
教主を密やかに遠目から見守っていた女神は、微笑みを浮かべながら静かに彼の背を見送った。

「あっ、お父様! エリクシアはいいつけ通りいい子にしていますよ!」

「そうかそうか、偉いぞ。流石は我が娘だ」

 半ば託児所と化している船室に着くと、父親の姿を見て深紅の髪の少女エリクシアが教主の傍に駆け寄り、
教主は娘の頭を撫でながら、カレットとテレーズ、クラヴィスが何やらしている一角に目をやった。

「これが光を操る神聖魔法。初歩的なものだけど、こうして形も好きに変えられるのよ」

「オー、すごイすごイ」

 揺り椅子に腰掛けている灰掛かった銀髪で丈の短い黒いワンピースを着た少女、
中央聖教の女教皇テレーズの手から、蝶の形をした光が飛び立ち、
鱗粉のように光の粒子を散らしながら羽ばたく蝶を追って、
チューブトップと部族風の腰巻きを着た、長い紺色の髪を後ろで結んだ少女クラヴィスが、
獲物を狙う猫のような格好で安楽椅子の周りを旋回する蝶を捕まえようと、
テレーズの周りをぱたぱたと駆け回っており、カレットが紅茶を淹れながら、
時折テレーズとクラヴィスが遊んでいる様子を一瞥している。
カレットとクラヴィスも教主の来訪に気付き、クラヴィスが蝶を追うのを中止して、
「アッくるくすダ」と声をあげて、テレーズも気付いた。
教主はカレット達に向かって、平素のどこか不敵な笑顔で軽く片手を上げ、
カレットは教主から憂いの色が消えているのを感じて、嬉しそうに駆け寄る。

「流石に過労で倒れてしまうのではないかと思ったが、うまく纏まっているようだな」

「はい、テレーズさんも二人の遊び相手になってくれていますし、
 エリクシアちゃんもクラヴィスちゃんも進んで手伝ってくれているくらいです」

「そうか、それはよかった。安心したぞ」

 教主の安心したという語尾を肯定するように、カレットは白磁の顔に笑顔を湛えた。
様子を見に来ただけのつもりだった教主は用事も済み、「あまり困らせぬようにな」と、
娘と野生児、教皇に言い残して、不敵な笑顔のままその場を後にした。

§

 多次元世界線に存在する、中央聖教の傘下組織である騎士修道会の管理区エトナで、
中央聖教四司教の一人、セオドール・ノアが騎士修道会副総長のクノー・マフタン、
そしてクノー副総長の指揮下にある騎士と修道士達に面会していた。
セオドールがクノーと、その傍に控える騎士修道会の参謀、金髪の癖毛頭で、
鎖のついたフィンチ型の丸眼鏡を掛けている若い男、シムンに対して、
熱弁を振るい、説得を試みているようである。

「テレーズ・スペクタートルが教皇である限り、忌まわしき異端、奇蹟の教団は討てぬ。
 それだけではない。異教が蔓延り、悪徳の跋扈する今こそが末世だ!
 ならば教皇の意思などもはや問題ではない、私がかの救世主と成り代わり、
 我らにとって最大の敵である異端の教主、クルクス・ラ・ソールを討たねばならない!!」

 熱心なセオドールとは対照的に、シムンの反応は至って冷ややかだった。
しかし、エトナの責任者である副総長クノーが、クルクスの名を聞いた瞬間、
ピクリと眉を動かし、鷹の如き眼光の中に一瞬殺気を帯びたのをセオドールは見逃さず、
クノーやシムンだけではなく、その場にいる騎士修道会の面々に向かって、
両腕を広げ、捲し立てる。

「この三○年、かの奸智の蛇によって中央聖教がどれ程弱体化させられ、
 敬虔な信徒が蛇の毒牙に掛けられてきたことか!!
 我が父、アララト・ノア前枢機卿は本来座すべきだった教皇の地位から蹴り落とされた!
 それだけでは飽き足らず、蛇の気まぐれ一つでどれだけの命が奪われ、あるいは甚振られてきたか!
 諸君らも身をもって理解している筈だ!!」

 セオドールの演説に対する反応はおおよそ二通りに分かれた。
シムンや、クノーの娘であるシーナら若い騎士や修道士は大声に眉を顰め、
三十年前を知るか、その間に因縁を持つクノーら年長者は頷くなり、賛同の声をあげる。
新参時代に挑んでいいように甚振られ屈辱を味わった人間や、間接的に出世を阻まれた人間、
クルクス・ラ・ソールを恨む者など、特に一定の権力を持つ層にはいくらでもいた。

「ならば今こそ我らは蛇を討ち、そしてこのセオドール・ノアが千年王国を起動し、
 不浄に満ちたこの世界線へ、中央聖教と救世主の名の下に最後の審判を与えよう!!」

 口上とともにセオドールは懐から数葉の写真を取り出して見せ、これが別世界線に位置する、
テリメインのディーププラネット海域の奥地に沈む都市遺跡であり、遺跡の中枢に眠る秘宝の力ならば、
この都市遺跡を浮上させセオドールを救世主へと変生させるに足るものだと説明する。
騎士修道会の全員が秘宝の話には眉に唾を付けて聞いていたが、
クノーは救世主や千年王国という単語にこそ興味を示さなかったものの、
因縁深い教主クルクスを討つならば、この機会に乗じるより他はないと考え、
シムンに視線を投げ、クノーの意図を汲んで若き参謀シムンは黙って頷いた。
セオドールに対してクノーが歩み寄って写真を下げさせ、演説を打ち切らせると、
「司教殿、貴方の名の下に奇跡の教団を討つものに相違ないか?」と確認し、
セオドールが鷹揚に頷いて「然り」と更に肯定した。
クノーは一度強く目を瞑ると、再び双眸を上げ鷹の眼光で周囲を見渡し、
身を翻して、その場の騎士修道会に属する騎士と修道士全員へ向けて宣言する。

「クノー・マフタン副総長の名において、エトナ区の騎士修道会員へ告げる!
 これより我ら総勢五○○○○名、セオドール・ノア司教殿の指揮下へ入り、
 忌まわしき異端の教主、奸智の蛇クルクス・ラ・ソールを討伐する!
 異議のある者、教皇猊下、総長の許可を要すると考える者はこの場に残ってよい、
 かの蛇を討たんとする者のみ私についてこい!!」

 クノーの呼びかけに、参謀シムン、クノーの娘であるシーナ、鎧で身を固めた騎士らが剣を掲げ、
それを見て迷わず剣を掲げる者、逡巡した後に剣を掲げる者、謝罪して辞退する者と続き、
結局、エトナ区の総勢五○○○○名の殆どがクノーの呼びかけに応える形となった。

 奇蹟の教団を討つ。方針が決定すると、速やかに参謀シムンが先頭になって評議が開かれた。
副総長やセオドールを含め、エトナ区の重鎮達が地図と駒が広げられた机を囲い、
彼らに向かって、シムンが奇跡の教団打倒へ向けた作戦を説明し始める。

「まず前提として、奇跡の教団と全面抗争をするには我らだけでは寡兵です。
 他の教区へ呼び掛ければ、兵員を確実にもう一桁上乗せ出来ますが、
 司教を兼任し不在がちである総長へも立ち所に知れる事となり、挙兵自体が阻まれるでしょう。
 よって、初戦は我々だけで戦いますが、ここで勝利を収め、大きな戦果を挙げる事が鍵となります」

 そこで一度シムンは手にした指し棒をしならせ、語を継ぐ。

「奇跡の教団勢力下で特に大規模かつ産業的価値の高い場所といえば、
 ザイフリート連邦共和国、トリビュナル王国、ホロロギウム都市連合の三国家ですが、
 彼らにとって最も痛手となる都市が存在します。そこを初戦の地として戦い、
 しかも電撃的に勝利すれば、他教区の騎士修道会員達も自ずと我々の陣へ加わり、
 もはや総長の発言力でも我々を止めることは出来ません。
 かの教主もその都市を失う事は痛手となりますから、必ず誘き出せるでしょう。
 そう、攻撃目標は――――」

§

 間もなく、教主クルクスの元へセオドール・ノア司教と騎士修道会副総長クノーからの宣戦布告が届き、
教主はすぐに従者ピューパを呼び出して、指示を与える。

「《鱗》で手の空いている者――アミナだけか、まあよい。すぐに呼び戻せ。
 ノア小僧が動いた。宣戦布告は小僧の思惑の外であろうが、騎士修道会の考えうる作戦ならば、
 教団の頭脳を叩こうと考える筈だ、エリザヴェータへ速やかに防衛戦の準備をするよう連絡を。
 我々もすぐ現地へ向かうぞ。連中の攻撃目標は運営本部を擁する――ソーンツェグラードだ」

「御意のままに」

 ピューパが音もなく姿を消し、行動を開始すると、教主は拳を打ち、私有船の機関室へと向かった。
和やかだった私有船デア・エクス・マキナ号内の空気も、教主の船内放送で一瞬にして張り詰め、
船は間もなく備えられた転送機能によってテリメインから多次元世界線へと転移した。
転移先は世界全体が寒冷地という厳しい大地に聳える、要塞都市の地下ドック。

 開戦の時は近い。戦場となる要塞都市ソーンツェグラードに、緊張が走った。





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『ソーンツェグラード防衛戦/前』
多次元世界線・要塞都市ソーンツェグラードにて

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 要塞都市ソーンツェグラードの地下ドックに停泊している私有船デア・エクス・マキナ号に、
階段状の舷梯が架設され、船から降りる教主と寒冷地仕様の全身スーツへ着替えた従者ピューパを、
十字と日輪、奇跡の教団のシンボルが襟や肩、帽子などに入った軍服を着ている何人かの女達が敬礼で迎え、
教主とピューパは階段を降りながら答礼で応えて、白いコンクリートの床へ降り立った。
整列している女達の中心に立っている、灰色と茶色の少し混じった長い金髪で、
教団のシンボルが入ったベレー帽を被り、厚手のレオタードの上からワンピース状の軍服を着た女が、
両足の付け根から伸びる、白い外装で隙間から機械部分の覗く義足で数歩前へ出て、
理性的な輝きを湛えた青紫色の明眸に微笑みを作りながら「ご苦労様です、ボス」と教主に声を掛け、
「多忙の中の出迎えご苦労、エリザヴェータ室長」と教主が労いの言葉を返すと、
エリザヴェータと呼ばれた女は、「忙しくなるのはこれからです」と、凛とした声色で応えた。
そして、教主は世話係のカレットと保護下にある教皇テレーズとクラヴィス、娘エリクシアを船に残し、
ピューパとエリザヴェータら部下を引き連れて、要塞都市の奇跡の教団運営本部へと足を運んだ。

 市庁を兼ねるソーンツェグラードの奇跡の教団運営本部では、騎士修道会との戦いに備え、
教主の部下達が忙しなく働いていた。職員は皆若い女ばかりで、全員が教主の差配で配置された者達である。
責任者であるエリザヴェータが普段自分の座っている室長の椅子を教主に譲り、
動員数や要塞の外壁に備えられた兵器の数や射程、市民の避難場所など防衛戦の仔細を説明する中、
オリーブ色のカフェエプロンを掛けた、首までの長さに切り揃えた黒髪の女がトレーに乗せた紅茶を、
「ご苦労さん」とぶっきらぼうに一言添えてから、教主とエリザヴェータの前にそれぞれ一杯ずつ置いた。
顔立ちこそ整っているが無愛想な表情をした黒髪の女に、教主が頬杖突きながら、
「気が利くな、ダリア」とどこか安心したように声を掛けると、ダリアはばつが悪そうに、
「これくらいはね」と目を逸らしながら返事をして、エリザヴェータは説明を中断し、
「ダリアさんもよく私の補佐役をしてくれていますよ」と彼女の働きぶりを褒めると、
ダリアは「せ、精々お茶汲み係くらいだから!」と言って、赤くなった顔を隠してさっさと走り去ってしまった。

 そこへ、入れ替わる格好で仮面を着けた隠密の女キルティスと、ジャケットを着たオールバックの伊達男、
中央聖教右派に属していたパトリツィオ司教が姿を現し、キルティスが教主へ耳打ちをして、
教皇暗殺計画の情報提供者であり、奇跡の教団の保護下にあるパトリツィオを連れてきた経緯を伝えた。
その間も当のパトリツィオは、行き交う女職員達に声を掛けては素気なくあしらわれたり、
無視されたり、果ては「忙しいんです!」と怒鳴られたりしていたが、
それでも「ここは若い娘ばっかだね、しかも鼻っ柱も強いときたもんだ」と陽気に笑っており、
教主が眉を顰めながら、パトリツィオへ「そなたは袖にされるのが好きなのか?」と声を掛けると、
パトリツィオはようやく教主へ向き直って、「いやぁ、此方は愛想いい方が好みでさぁ!」と、
白い歯を見せながら笑ったのを最後に、真剣な表情へ変わって、教主と視線を交えた。

「テレーズはここだろ?」

 教主はすぐには答えなかった。相手が中央聖教現教皇派、右派、そして奇跡の教団と通じた背景を、
不審がったばかりではない。パトリツィオと同じく教主も真剣な面持ちで、しばらくの睨み合いを経て、

「盗人は信用おけぬな」

 底意を計るべく、試すような言葉を投げた。それに対してパトリツィオは即座に懐からピストルを抜き、
叩きつけるように机に置いて、そのまま教主の前へと差し出し、

「こいつは俺が駆け出しだった頃から肌身離さず連れ添った相棒だ」

 駆け引きや謀略から教皇テレーズと接触しようとしているのではないと証明するように、
教主が自分を撃とうと思えば実行できる間合いで、年季の入ったピストルについてそう説明し、
差し出されたピストルを手にとって改め、弾が入っている事を確かめた教主は、
「いい銃だ、よく手入れされている」と評したが、信用するという答えは返さない。
するといよいよパトリツィオは机に両手を突き、腹の底から声を出して、

「俺の事はいくら調べてくれたっていい、命と引き換えでも構わねぇ!
 テレーズに会うのはとっつぁんを動かしてセオドールの奴を止めるよう説得する為だ!
 だからこの通りだ、頼む!!」

 頭を下げて懇願した。微塵たりと演技ではない事は教主にも察せられ、
手に取っているピストルを傍に控えているキルティスへ投げ渡した。

「キルティス」

「分かったわ」

 八人の懐刀でも古株にあたるキルティスは言外の意を容易く汲み、
銃口をパトリツィオへ突きつけ、そして巧みな手技で銃身を反転させて、

「大事な物なんでしょ、返すわ。しまっときなさい」

 パトリツィオの手に、彼が相棒と称する愛銃を返した。

「ビビったぜ、逆ロード・エージェント・スピンかい……」

 驚嘆しながらも懐へピストルを収めたパトリツィオへ、教主は指を合わせながら、
「テレーズは前を向かせなければならぬ。その大役、そなたに任せたぞ」と告げ、
キルティスにパトリツィオを地下ドックの船へ案内するよう命じた。

 一時、エリザヴェータ室長をはじめ職員が手を止めて注目した騒動は、
パトリツィオが背中越しに「感謝するぜ、蛇さんよ」と教主に言い残して、
キルティスに連れられその場を後にする形で終息し、奇跡の教団本部はまた忙しなく動き出した。

§

 ソーンツェグラード全体が戦いに向けて動き回っている中、奇跡の教団本部の一室に、
全身スーツの各所に装備を固めたピューパを筆頭に、分厚いバインダーを手にしたエリザヴェータ、
どこか落ち着かない様子できょろきょろと周囲の顔に視線をやっているダリア、
それとは対照的に、ソファーに寝そべってくつろぎながら呑気に団子を食べている、
髪はパールホワイトのセミロングボブで、和式の髪飾りを着け、
紅色の腰帯や脛当てを追加しミニスカートの丈に崩した純白の忍び装束を纏った、
赤い瞳の大きな猫目の若い女の姿もある。
パトリツィオ司教の案内を終えたキルティスが姿を見せると、
忍び装束の女は「これで動ける《鱗》は全員揃ったでござるね」と言って身を起こし、
食べ終わった団子の串を背後のごみ箱に放って、大きく伸びをしてから立ち上がった。
諜報工作員三名、作戦立案と内部監査を司る部門の室長と、名目上の補佐役が顔を合わせ、
教主の懐刀の八人の内、五名がその場に集った。

 そこへ底の高い鉄靴の足音を鳴らしながら、教主が訪れ、五人の姿を一瞥すると、
「マノン、シャーリィ、アシュリーは不在だが、こうして集うのも久しいな」と声を掛け、
忍び装束の女は寝そべっていたソファーを指差しながら「暖めといたでござるよ」と促して、
教主は「相変わらず気が利く風を装うのが上手いな、アミナ」と忍び装束の女の肩を叩き、
アミナが「いやん照れちゃう」と冗談めかして両の頬へ手を添えている横をすっと通り抜け、
ソファーへ腰掛けて、長い脚を組んだ。教主がエリザヴェータの名を呼んだのを合図に、
エリザヴェータが手にしたバインダーを開きながら、状況を説明し始める。

「中央聖教教区エトナから、クノー・マフタン騎士修道会副総長の名義で宣戦布告が届いています。
 先日の教会会議では、テレーズ・スペクタートル教皇の残した書状に添って、
 彼女が戻るまで争いは禁ずる方針で議決した筈ですが……奇跡の教団との抗争を提議していた、
 セオドール・ノア司教がボスと因縁のある副総長に働きかけたものではないかと」

 そこで、中央聖教方面の諜報を担当するキルティスが「そうね」と肯定して、
自身が収集し、教団へと報告している情報を再確認する。

「セオドール司教は教皇暗殺と教会会議が計画通りにならなくて、相当焦ってるみたいね。
 間者のパトリツィオ司教を即座に消そうとしたくらいだし、
 ルベール司教とユーリイ司教兼総長が現教皇派で影響力を強めているから、
 右派は日和見に移ったり離反したりで孤立するのも時間の問題だった。
 それでエトナ区の五○○○○名を味方につけて強硬策に出たんでしょう。
 教皇に争いを禁じられているから、総長も離反した副総長達を鎮圧できないでしょうし」

「ノア小僧の動き出した時期から見るに本命はテリメインであろうから、
 クノーらが奇跡の教団への攻撃を優先したのは歯がゆく思っているだろうがな」

 教主は口を挟むと、脚を組み直して両手の指を揃えて膝に置き、「五○○○○か」と呟いた。
対するソーンツェグラードの都市防衛隊は常備兵力が八○○○、非常時宣言を出せば、
総動員数は二○○○○まで増やせるが、いずれにせよ倍以上の兵力差があることには変わりない。
しかし、教主の懸念している所は元より防衛に適した要塞都市での地の利が得られるこの戦いよりも、
その先に控えている、三○年の長きに渡る沈黙を破らせるに足るセオドール司教の切り札にあった。
テリメインの過去、現在、未来を探索者としての活動で相対した魔神から聞き出した教主だが、
過去の遺物で、未来の中で言及されないもの――何が飛び出してくるかは予測がつかない。
その点では、ことごとく後手に回ってしまっているという歯痒さがあった。

「ま、ともあれここを守らねば話にならぬ。連中に長期戦は出来ん、壁を守れば勝手に折れよう。
 兵は外壁に集め、防衛兵器も全て稼動させる。テレーズには悪いが、ここで減らせるだけ減らすぞ」

 教主が立ち上がって号令を掛けると、五人の《鱗》達は声を揃えて返事をして、
ダリアを除いた四人はそれぞれの持ち場へと向かった。ダリアは去り際にエリザヴェータを見ていたが、
何か迷う所があるのか、その場に立ち尽くしてまごついている。
教主が見かねてダリアの背に声を掛けると、彼女は驚きに肩を震わせ、教主へ背を向けたまま、
「ねえ、クルクス」と何か言い掛けたが、返事を待たず「やっぱり何でもない」と打ち消して、
逃げるようにその場から走り去っていった。その様子に教主は片眉を上げこそしたが、
彼女の後を追うことはせず、後ろ手を組んでエリザヴェータが指揮する作戦司令室へ歩いていった。

§

「世界間転送反応出ました! 推定出現座標、ソーンツェグラード市街地です!」

「すぐ妨害を、可能な限り距離と編隊を組み直す時間を稼いでください」

「――弾きました。出現座標、8キロ先、丘を中心に散開。順次到着します」

「稼げて二時間余りですね。射程に入り次第順次迎撃を」

「全兵器稼動、防衛隊、榴弾砲、長銃、ボウガン装備で騎士修道会の突撃に対して迎撃準備完了とのこと!」

「騎士修道会の総兵力は割り出せますか?」

「転送反応から逆算します――敵総勢、推定三○○○○です!」

 巨大な魔導仕掛けの機械を囲むオペレーターへ忙しなく指示を飛ばしているエリザヴェータの背後から、
腕を組んで様子を見守っていた教主はエリザヴェータの横へすっと歩み寄って、
毅然としていながらも、微かに義足を震えさせ、その付け根を触っている彼女の右肩に手を置き、
「少ないな」と機械とオペレーター達の方を向いたまま、眉を顰めながら呟いた。
エリザヴェータは自身の肩に置かれた手に左手を重ねながら、深く息を吐いて体の震えを治めて、
やはりオペレーター達に視線を向けながら、「ええ、あと一八○○○名はいるはずです」と頷き、
「逐次投入――ではないでしょう」そう続けた。教主が「別働隊だな」と分析し、エリザヴェータは頷いた。

「不落の要塞都市ソーンツェグラード、正攻法で突破出来るならば既に幾度と落ちていよう。
 そこへ素直に攻め込んできたということは、何か策があってのことだろう」

 そう言うと、教主は踵を返してその場を後にしようとし、エリザヴェータが振り返って、
「ボス、どちらへ?」と尋ねた。教主は一時足を止め、

「一度テリメインへ探索に出る。こちらの時間軸で一時間後には戻ろう。指揮は預けるぞ、室長」

「はい、お任せください……ボス!」

 笑顔を見せながら敬礼するエリザヴェータに見送られ、教主は私有船の停泊する地下ドックへ向かった。

§

 職員が皆防衛戦の準備に駆り出された無人の教団本部で、ダリアは独り、
広い部屋の掃除や書類の整理、自分で仕上げられるものならば始末しながら、
あちこち歩き回り、そして時折足を止めて虚空を見上げながら「戦争かぁ」とぼんやり呟いていた。
時計の音しか聞こえない静寂を破って、一つの机の電話がけたたましくベルを鳴らし、
ダリアは胃を掴まれるような嫌な感覚に体を硬直させて、電話の方を見る。
自分の机の上で、この非常時に鳴る筈のない外線電話が鳴っている。

 ダリアはため息をつくと、エプロンのポケットから頓服薬を取り出して水で流し込み、
処刑台を上る死刑囚のような面持ちで、電話の方へ歩み寄って受話器を取った。

「ダリヤ・ゴールヴナ・グラナータさん。
 喜ばしいニュースですよ、あなたが貴族へ返り咲くのも間もなくです」

 電話口から聞こえる声は若い男のものだった。本名で呼び掛けてくる相手に、ダリアはエプロンの裾を固く握り締め、
ただ黙ったまま男の声に耳を傾けていた。

「騎士修道会が異端の本部を攻略せしめた暁には、参謀である私の更なる躍進も確約され、
 中央聖教の名の下に、この世界の権力へ働き掛ける事も容易い事です。ですが――」

 朗らかに話していた男の声がすっと、一段低い声色に変わった。

「このままでは決定打に欠くのです。あなたもご同輩が徒に屍と変わるのは本意ではないでしょう?
 ありませんか、その要塞都市の盤石の守りを突く穴は」

 ダリアはやはりエプロンの裾を握ったまま硬直し、押し黙っている。
すると、電話の相手はわざとらしく深く息を吐き、そして、以下のように語り始める。

「あなたの身の上は聞き及んでいますが、何度確認しても哀しいものですね。
 王家に連なる貴族として生まれたばかりに体制末期の反乱に巻き込まれ、
 家族は皆殺し、頼った親戚縁者も同じ末路を辿って、気がつけば天涯孤独。
 あなたはただ必死に逃げ延びていただけなのにジンクスある女として扱われ、
 生きるのに窮して場末の小悪党の片棒を担いでまで糊口を凌ぎ、果てにはいいように弄ばれ捨てられた。」

 ダリアの表情は強張ったまま、目の端に大粒の涙を溜めている。
今にも嗚咽が漏れそうになるのを堪らえているのもお構いなしに、
電話の相手はたたみかけるように語を継ぐ。

「乞食――それも酷い有り様で教主クルクス氏に拾われたそうですね。
 彼から二年に渡って治療を受けたと以前話してくれましたね。具合はいかがです?
 ああ、酷いといえば同期の士官から謂れなき罪で拷問に掛けられ、
 両足を失ったエリザヴェータ・ロマーノヴナ・ソコロワ女史もそちらでしたね。
 彼女は優しいでしょう、同じ挫折を味わったのだから――許してくれると思いませんか?」

「シムン」

 ダリアは涙声で電話の相手の名を呼び、少し前から内通を呼び掛けてきた敵の参謀の言葉を遮った。
ダリアの頭には転落と逃亡を繰り返す惨めな過去と、微かに記憶に残る、精神を病んだ自身が、
治療中に起こした異食や徘徊などの奇行や激情に陥り泣き喚き暴れ回った際の断片的な光景、
そして自分を拾い上げ、新たな名と居場所を与えた教主クルクス、
同じく挫折を味わい、自分を憐れんでよく世話を焼いてくれるエリザヴェータの優しい顔が、
浮かんでは消え、それらが火花のように激しく散っては身を焦がすような錯覚さえ覚えた。
立ち眩みを起こしながらも、ダリアはなんとか踏みとどまってシムンにこう伝えた。

「裏口があるわ。緊急時の脱出路として作られたけど、クルクスは使ってない、
 大勢が通り抜けられる地下道が、外壁の裏から少し離れた所に……今でも出入り口が埋もれてる」

「よくできました」

 シムンは満足そうに告げると、さっさと電話を切った。ダリアはよろめきながら受話器を置いて、
そのまま床の上に倒れ込み、誰もいない教団本部でしばらく独り密かに啜り泣いていた。
涙で滲む蛍光灯の光をぼんやり見上げて、「もう戻れない」と自分へ言い聞かせるように独りごちると、
両手で頬を叩いて身体を起こし、涙をぬぐって、嗚咽が収まるのを静かに待った。





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『ソーンツェグラード防衛戦/後』
ディーププラネット海域/
多次元世界線・要塞都市ソーンツェグラードにて

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 海底探索協会支部長として動乱の最中にある本部への応援に駆けつけるという名目で、
協力関係に漕ぎ着けたものの独自に動いてしまったエトナ区の騎士修道会から付けられた、
わずか一○○名にも満たない護衛の修道士を引き連れて、中央聖教右派の首魁、
セオドール司教は彼のみが所在を知る切り札が眠る、ディーププラネット海域のとある場所へ急いだ。

 星の海という名を冠しながら、一見何もない海底が広がるこの海の果てに、それはあった。
協会が探索者を募る以前に命じられたテリメインの先行調査で、遭難しながら辿り着いた海底都市跡、
古代テリメインの遺物と思しき都市の中枢部に、膨大な力を秘めた秘宝が収められている。
都市の機能を司るものと推測されるが、以前辿り着いた際に起動する事はあたわなかった巨大な宝石を見上げ、
セオドールは再び秘宝が収められた遺構を、魔法やスキルストーン、様々な手段で起動しようとするが、
秘宝は呼応することなく、ただ鈍い輝きを放ちながら佇んでいる。

 護衛の修道士達の視線は元より彼の謳う救世主への再臨など信ずるはずもなく、冷ややかであり、
背に彼らの憐れみにさえ似たものをひしひしと感じたセオドールは、焦燥に駆られながら手を動かすが、
やはり秘宝が起動する気配はない。秘宝から投影される「鍵」を意味する古代語を忌まわしげに見上げて、
その鍵とは一体何であるかを横鬢を掻きむしりながら思惟するセオドールの傍へ、
気配もなく深紅の魔力が走る漆黒の甲冑を纏った男が、赤黒い魔力を巻き上げながら現れ、
警戒する修道士達など眼中にないように「それを起動できるのは古代テリメイン人か、その裔だけだ」と、
秘宝を背負うような格好で身構えるセオドールに告げた。そして、何者であるかと声を荒げる彼に、
甲冑の男――ネロ・ヴェスパーはかつて悪意あるものに脅かされた文明の逸話を語り聞かせ、
身の内に何者かが入り込むような違和感が生じたセオドールは己の掌に視線を落とした。

「貴様に古代テリメイン人の概念を付与した。本来の鍵に及ぶべくもないが、充分だろう」

 ネロは軽く顎で秘宝を指して、予想外の事態に当惑するセオドールに起動を促した。
セオドールが手をかざすと、秘法はぜんまい仕掛けに似た光の帯を形成しながら輝きを放ち、
都市全体を揺るがせ、地底からせり上がる塔によって都市を海上へ運び始める。
突如として現れたネロを訝しむ事すら忘れ、切り札を手にしたセオドールは歓喜の声を上げる。

「遂に――おお、遂に千年王国が現出し、救世主へと変生する時が来た!!
 この秘宝の力があれば、異端の蛇など、テレーズを担ぎ上げる愚か者どもなど、もはや敵ではない!!」

 昂奮し地に両膝を突いて秘宝を仰ぐセオドールと、彼の語る計画を妄言と断じていた修道士達の姿を、
ネロはあくまでも冷淡に一瞥して、セオドールと秘宝の間に立ち、秘宝の力を掌握するまでに時間を要する事と、
クノーら騎士修道会の本隊へ速やかに連絡し、救世主降臨までの守り人を務めるように告げ、
混乱する修道士達の一人へと、セオドールの切り札が起動し、この都市が浮上する光景を記録した水晶体を投げ渡し、
「舞台は整った」と言い残すと、赤黒い魔力の渦を伴って姿を消した。

§

 エリザヴェータへ言い残した通り、テリメインにおける探索を終えた教主は世界線を跨いだ転送を用い、
私有船ごと要塞都市ソーンツェグラードの地下ドックに舞い戻った。
半日の滞在時間だが、時間の流れが異なる多次元世界線側ではまだ一時間しか経過しておらず、
エトナ区の騎士修道会が攻め入るまでに時間的猶予はある。
最大の安全地帯となる船にやはり世話係や子供達、保護下にある教皇と説得を試みている司教を残し、
再びソーンツェグラードの地に降り立つと、《鱗》の末席、オリーブ色のエプロンドレスを着た黒髪の女、
ダリアがエプロンの裾を握りしめ、顔を伏せながら教主を待っていた。

 教主が声を掛ける前にダリアはおもむろに顔を上げ、目に泣きはらした後のある彼女は、
「おかえり、クルクス」と平素の無愛想な声で話し掛け、それから短く息を吸って、
「あいつら裏口から攻めて来るわよ」と告げ、彼女が泣きはらした理由を汲んだ教主はふっと微笑み、
「知っている」と言って、ダリアの両肩に手を置き、「事情は訊かぬさ」と優しい声色で続けた。
しかしダリアは一度は貴族の生活に戻りたいが為にソーンツェグラードが本部でだと、
最大の敵である騎士修道会へ流した事を、いつしか涙声になりながら教主に明かし、
何度も謝罪の言葉を並べたが、教主はやはり咎めず、静かにそれを聞いていた。
彼女の内通は組織の内部監査を務めるエリザヴェータも当然気付いていたが、
それでも彼女の身を案じて敢えて目を瞑っていた背景を教主はダリアに明かして、
「私に敵の動きを伝えたということは、こちらを取ったという事だろう」と問い掛けると、
ダリアは黙って頷いた。「ならばよし」と教主は鷹揚に頷き、彼女を連れて、
エリザヴェータらが待つ本部の作戦司令室へ足を運んだ。

§

 現行の並み居る魔法や兵器をも防ぐ最新鋭の設備で守られたソーンツェグラードの外壁を迂回し、
凍てつく荒れ地を進む数○○○名ばかりの騎士と修道士は、その先頭を切る騎士修道会参謀シムンが、
雪に覆われた岩肌に偽装された”裏口”を発見すると同時に、足を止めた。
体格に優れた騎士が二人がかりで重い鋼鉄の扉を開け放つと、隊伍を組んで進むには充分な道幅の洞穴に、
風に運ばれて雪が舞い込み、奇跡の教団の喉元へ食らいつく様を確信したシムンは、静かに広角を吊り上げ、
ソーンツェグラード内部へと続くであろう洞穴に向かって手を振り下ろし、部隊に進軍を命じた。

 用意していた松明に火を灯し、熱と光に頬を撫でられながら、シムンは逸る気持ちを抑え、
口頭で部隊へ市街地強襲の手順を確認しながら、騎士修道会の別働隊と共に隊列を組んでしばらく進んだ。
そうして十分ばかり歩き、いよいよ市街地へ出るかという所で、洞穴の天上から数本の苦無が閃き、
物音どころか気配さえ感じさせない闇に紛れた奇襲によって、松明を持った者達が苦無の直撃を受けるか、
あるいは松明を弾き飛ばされ、辺り一帯を瞬く間に闇が包んだ。

「にょほほ。忍びと暗殺者の独擅場にまんまと飛び込むとは、参謀殿も存外迂闊でござるね」

 暗闇の中に若い女の声が反響し、それから間もなく、幾多の剣戟と人間が倒れる音が重なり、
シムンの率いる部隊が神聖魔法で周囲を照らすまでそれは続いた。
数○○○といた騎士と修道士は、部隊長と癒やしの魔法の使い手を中心に討たれており、
返り血を浴びた忍び装束の女と仮面を被った隠密の女がシムンを捉え、
思わず身じろいだ彼を庇うように、女達の間に重装の騎士がすかさず立ち塞がり、
参謀シムンは眼の前の光景が信じられない様子で、狼狽しながら叫んだ。

「な、なぜ……ダリヤの話ではここは久しく使われていない筈の……」

「このような事態になった際に外敵を誘い込む餌という訳だ、参謀殿?」

 教主の声だった。シムンがはっとして顔を上げ、洞穴の奥を見ると、
奸智の蛇と呼ばれる教主クルクス、そして隣には内通者であるダリアの姿もあった。
シムンと視線がぶつかると、ダリアは指で片方の下瞼を引き下げながら舌を出してみせ、
「よく考えたら貴族時代にろくな事なかったのよね、あたし」と気丈に言い放った。
そう言いながらも足は微かに震えていたが、それに気付いているのは傍にいる教主のみである。

「ダリヤ・ゴールヴナ・グラナータ!! この、忌々しい……家殺しの人型手榴弾が!!」

 謀られた怒りに任せてシムンが吠え、ダリアは教主の背に隠れながらも、
そこから半分顔を出して負けじと罵声に反撃する。

「あたしはダリア・ガーネット!! 過去なんか未練もない、誰よりも人生に忠実な女よ!!」

 騎士修道会において、若く、そして常に立案した作戦で成功を収めてきた参謀にとって、
裏の裏をかかれるというのは決して初めてではないとはいえ耐え難い屈辱だったが、
数で圧倒的に勝り、大将首が眼の前にある状況は計算外とはいえど好都合で、
長銃を携えた隊に教主を狙わせるが、構えに入る前に二人の隠密に逆に打ち倒され、
更に指揮官であるシムンさえ討とうとして瞬時に死角へと潜り込んだが、
既の所で護衛の騎士達が辛うじて防ぎ、隠密の女達は軽やかに距離を取った。
洞穴の岩肌を蹴り、軽やかに飛び回る隠密の機動力に重装の騎士や、
治癒と身体強化に偏った神聖魔法の使い手ばかりの騎士修道会では対処できず、
閉所での戦いでは一方的に蹂躙されるだけだと判断したシムンは声高く退却を命じ、
敵が背を向けて逃げ去っていく様に、教主は配下の隠密の女達に深追い無用と告げた。

§

 参謀シムン率いる別働隊は作戦の失敗を悟ると、本陣を敷いている丘へと帰還し、
クノー・マフタン副長に退却に至るまでの経緯を仔細に報告した。
シムンが周囲を一瞥すると、エトナ区から出撃する際に持ち出した数基の攻城塔も破壊され、
黒煙をあげながら燃え上がり、修道士達が消火に追われていた。
都市からは充分な距離があったにもかかわらず、何者かの手で長距離狙撃を受けたのだと、
クノーは鷹のような眼光を一層険しくしながら説明する。
たった二人に甚大な被害を被ったのに加えて更にありえない距離からの狙撃まで聞かされ、
シムンは怒りを通り越して脱力する他なく、溜め息混じりに遠方の要塞都市を見据えながら呟いた。

「ここが奇跡の教団の要衝だという裏付けにはなりますが、なんと常識はずれな」

「教主クルクスの《鱗》――噂に尾鰭が付いたものとしか思えなんだが、実在したとはな」

 クノーもまた要塞都市を睨みながら、複雑な表情でそう言った。
外壁に守られ、多次元世界軸で確立されている世界間の転送技術による補給で兵糧攻めも通じないが、
内部へ潜り込み、都市防衛隊の注意が逸れた所に三○○○○の本隊が突入するという作戦は、
敵から作った内通者に謀られた挙げ句、教主クルクスに裏をかかれる形で失敗した。
市街戦にさえ持ち込めば、数と兵の練度で勝る騎士修道会に軍配が上がる筈が、
地の利を得ている上に得体の知れない何かを隠し持っている相手を攻め崩すのは困難だと、
参謀シムン、そしてクノー副長は判断し、この地より次の手をどうするかという話題に移った。

「もし正面突破で落とせるならば、既に幾度となく陥落しているだろう。どうする、シムン」

「そうですね――申し訳ありません、私の手落ちです。ここは諦める他ないでしょう。
 徒に兵を犠牲にするばかりか、士気に影響します。外堀から埋めていくべきかもしれませんが……」

 シムンはそこで一度言葉を切って、眼鏡に指を当てて位置を直しながら、思案する様子を見せ、
それから自軍の置かれている状況を整理する。

「騎士修道会の事務、財務、医務長官は現教皇派ですから、詰まる所我々は長期戦が出来ません。
 総長も既に我々の離反を知っていてもおかしくはありませんが、
 彼ならばおそらく先の教会会議で決定した教皇猊下の意思に従って、我々に討伐隊は出さないでしょう。
 奇跡の教団に対して戦力的に有利ではあります。しかし、仕掛けてしまった以上は彼らの警戒も強まる。
 あちらから攻めざるを得ない状況さえ作れれば、勝利に導く手は幾通りにも思い付きますが」

「だが、かの蛇ならば自ら手を下すより我々の自滅を待つ」

「ええ」

 兵の耳に入る事を恐れて明確に言葉にこそしなかったが、手詰まりに等しい状況だった。
参謀と副長がこの状況を打破しうる策を練っていると、副長の娘であるシーナが慌てた様子で、
セオドール司教につけた護衛の一人と、見慣れぬ黒い鎧の騎士を伴って駆け込んできた。

「副総長、こちらをご覧ください!」

 シーナが手にした水晶体に魔力を送ると、セオドールが切り札を起動し、
大規模な都市遺跡が海底から浮上する様子が投影され、同行していた修道士が「妄言ではなかったようです」と、
目を丸くしながら補足した。修道士が言うには、セオドールは既に現地で切り札である膨大な力が宿る秘宝を、
自らのものにするべく都市の中枢部で融合を進めているのだという。
副長と参謀は訝しみながらも、その場にいる黒い鎧の騎士について尋ね、
修道士はこの騎士をセオドール司教の切り札の起動に手を貸したものだと説明し、
黒い鎧の騎士は酷くノイズの掛かった声で副長と参謀へ名乗る。

「我が名はネロ・ヴェスパー。奸智の蛇を滅ぼす者。
 信用しろとは言わぬが、かの蛇を討つという点において我々は利害を共にしている。
 ならば協力するのも不思議ではなかろう」

 クノーはこの怪しげな騎士の言葉に眉根を寄せたが、ネロは「有利な戦況を作りたいのだろう」と前置きして、
「あの蛇をセオドール司教の切り札へと誘い出す。それで充分か?」と続けた。
シムンもまた直前に内通者に謀られた事情も手伝って、訝しんでいたが、
このまま敵地で立ち往生をするよりは陣を移す事を優先して、副長にセオドールの切り札の元への移動を促し、
クノー副長はしばらくネロを睨んだ後、部下達にテリメインへの移動を命じた。
騎士修道会が移動を初めたのを確かめると、ネロは赤黒い魔力の渦を巻き上げて姿を消し、
最後の手順を整えるべく、要塞都市ソーンツェグラードへと転移した。

§

 丘の上に陣取っていた騎士修道会が姿を消した後、教主はエリザヴェータと連携しながら、
奇跡の教団傘下にある各国家や組織へ警戒態勢を整えさせ、そして敵の首魁であるセオドールが持つ、
テリメインに眠る切り札に備えて、遠征に割く兵員の部隊編成と指揮系統の確認を急いだ。
組織からの離反という大それた行動の割には、あまりに引き際が良すぎた為であり、
ネロが介入しなければ成し得なかった背景こそ知る由もない事だったが、
セオドールが切り札と呼ぶ何かが起動したと推測させるに難くない行動だった。
テリメインに滞在させている部下からの報告では、ディーププラネット海域の洋上に突如都市が浮上したらしく、
それが騎士修道会退却の直前に起きたのだから、その都市にセオドールの切り札があると考えれば妥当ではある。
教主はテリメインへの遠征を控え、夕暮れ時に嵐の前の静けさとでも形容すべきものを感じながら、
奇跡の教団本部の屋上で風に長い銀髪を靡かせながら、沈んでいく太陽を眺めていた。

「――セオドール・ノアが切り札を起動した。かの都市の中枢に眠る秘宝と融合を進めている」

 ノイズの掛かった声が教主の背後から聞こえ、教主は徐ろに振り返って、黒い甲冑の騎士と対面した。
同時に、どこかに控えていた教主の懐刀である《鱗》の内、ピューパ、キルティス、アミナの三名が現れ、
教主とネロの間に立ちはだかり、ネロは《鱗》の女達を意に介せず、「まだ決着の時ではない」と前置きし、
セオドールが起動した切り札について、以下のように解説した。

「あれは古代テリメイン文明の遺産の一つ、魔王から逃れる為に築かれた最後の避難所だ。
 中枢には膨大な力を宿した秘宝が制御装置として設置されている。
 奴はその力を使い、中央聖教の伝承に残る救世主へと変生し、最後の審判を起こすつもりらしい。
 あと数日もあれば秘宝との融合を終え、魔王に対抗しうる力をもって敵対する全てを滅ぼすだろう」

「仇敵に塩を送るとは、”私”らしからぬ行動だな」

「止めたくば都市遺跡――セオドールが言う所の千年王国とやらに急ぐがいい。
 騎士修道会を突破し、中枢部で奴を討てば秘宝の力は貴様のものになる。
 秘宝を制御する本来の鍵は、既に貴様の下にある」

「鍵? ……クラヴィスか」

「然り。ルヴナンの器にされていたあの娘は、以前セオドールが起動に失敗した為に解き放たれた人柱。
 都市遺跡のあらゆる機能を制御する力を持っている。文字通り、鍵という訳だ。
 クロード・ルクス・ソーリス、二人きりで決着をつけたい。
 私は中枢部で待っている。既に猶予はない、せいぜい急ぐがいい」

 セオドールの切り札の全容を教主へ伝えると、ネロは音もなく立ち消え、その場には再び静寂が訪れた。





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『《鱗》』
多次元世界線・要塞都市ソーンツェグラードにて

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 多次元世界と呼ばれる世界線において、五○年前に発足し、爾来奇跡を起こす女神の信仰を獲得してきた奇跡の教団。
ある時は悪政を布く王を、王自身が道具としてきた法をもって葬り、またある時は荒ぶる神竜を鎮め、
時には争いを続ける十二の都市群を統一し、そうして急速に勢力図を広げてきた宗教組織である。
その教団を束ねる教主(正確には開祖なのだが、本人は語感がよいという理由でこの肩書を好む)クルクスは、
教団設立時から、光り輝く女神、世話係の少女、そしてある悪名高い人身売買組織との抗争の末に従者となった、
改造人間の女を連れていた他、彼が信仰を獲得する活動の中か、あるいは個人として取った行動で、
諜報活動や教団運営で彼を支える女達を今日までの時点で改造人間の女を筆頭に八人、直属の部下として加えてきた。
組織内ですらその存在を知る者の少ない彼女らを、教主クルクスは敵対するものに自らが蛇と呼ばれている事から、
一片の皮肉を込めて《鱗》と称する。八人に共通するのは、皆不幸な女だったという点である。

 第一の女、ピューパは港町の宿屋の娘という身分だったが、前述の人身売買組織に謂われなく拉致され、
肉体、頭脳や魂に至るまで生命の冒涜に等しい改造によって変容し、外見に面影を残すのみで、
記憶の一切を失い、刻み込まれた指令がなければ呼吸すら出来ない戦闘用奴隷にされて、
教団設立以前の教主クルクス――烈日のソーリスが廃棄された彼女を救い、彼が組織を潰すまで、
長らく人形のごとく扱われてきた女である。
決して戻ることのない彼女の記憶と人間性を憐れんだ教主は、せめて彼女に新たな人間性を獲得させた。
五三年の月日が彼女に新たに刻まれた学習機能を昇華したのか、あるいは彼女が教主の娘と出会った事が、
何らかの特異点となったのかは定かではないが、教主の念願は叶い、彼女は道具から人へと生まれ変わった。

 第二の女、アミナはさる大名に仕える忍び衆の一人だった。とある任務で潜入した悪代官の屋敷にて、
饗される前の人魚の肉という曰く付きの品を見て、ただのサシミにしか映らなかったために、
楽天的な気質から、ものは試しと口に運んだ所、殺された人魚の恨みが宿った肉は、
彼女の身をたちまち人魚のそれに変えてしまい、挙げ句捕らえられた彼女は見世物小屋に売られ、
人魚が持つ不老長寿の性質から一世紀ばかりを見世物小屋の間を買われては売られを繰り返し、
檻の中か水槽の中で過ごす羽目になっていた所を人魚の伝承に詳しい教主に買い取られ、
紆余曲折を経て解呪されて、個人的に彼へ仕えるに至った、極東の隠密である。
彼女の身の上を聞かされた教主は自業自得と笑い飛ばしたが、長い人魚生活から海を嫌うようになった彼女の、
活動範囲を陸に限定するという申し出を快諾している。

 第三の女、キルティスはとある軍事国家の情報機関に属するエージェントの一人で、
潜入任務の失敗によって囚われの身となり、地下牢で数ヶ月に渡り拷問を受けていた。
彼女は仲間の救出を信じ、一切情報を吐かず、指先や顔を切り刻まれる酷い仕打ちにも耐え抜いていたが、
実際には国元には見捨てられ、行方不明者ではなく既に死人という事になっていた。
それでもなお嗜虐的な気質を持つ拷問官は情報を聞き出すなど二の次で、
『この女はどこまで耐えるのか?』という虫の手足をもいで遊ぶ子供のような悪意をもって拷問を繰り返し、
甚振り続けるためだけに命までは奪わなかった。それが幸運だったのか不運だったのかを裁定するものはない。
ある日、彼女が潜入した――かの悪政を布く王を倒した教主が現れ、拷問官は速やかに処刑台送りとなり、
彼女は教主の口から真実を聞かされたが、己の身分から見捨てられる可能性を認識していたのか、
さほど衝撃を受ける様子はなかった。しかし、国元では死人である以上、身の振り方を考える必要に迫られ、
切り刻まれた顔を厭わなかった教主へ忠誠を誓い、三人が集った時点で《鱗》が結成された。

 第四、第五、第六の女達も戦災孤児の傭兵や暗殺組織で育てられた者など、身の上は当然異なるが、
いずれも教主の活動によって行き場がなくなった、他の生き方など知らず、また、出来ない女達である。
戦いしかしらぬならば戦いの中で生きればよい、暗殺者としてしか生きられぬならばそうあれかし、
教主は彼女らにそう語り、自己を肯定する教主の中に彼女らは太陽を見出し、自ら《鱗》へと加わった。

 第七の女、エリザヴェータも第三の女キルティスと同様、やはり拷問を受けていた所を救出された女だが、
彼女は身の上だけで言えば恵まれた存在ではあった。代々軍に仕える家の出の見た目麗しい才媛で、
その才気をもって士官学校を飛び級かつ主席で卒業するという快挙を成し遂げ、前途有望と誉れ高い存在だった。
だが、男社会である軍部、特に彼女の同期にあたる士官達は彼女を妬み、忌み嫌った末に、
彼女へ謂れなき罪を着せて前述の通り拷問に掛け、その両脚を奪った。
なぜそのような仕打ちを受けなければならなかったのか? 彼女の心は心身の苦痛によって砕かれてしまった。
しかし、偶然その世界で布教を行っていた教主の耳に噂が届き、やはり彼の手で救出され、
脚こそ元には戻らなかったが、彼は義足を与え、そして才能を認め、活かされる環境として、
奇跡の教団へと勧誘したものの、一度は完全に折れてしまったエリザヴェータはすぐに返事をしなかった。
だが、もはや戻る義理もない軍部を見限り、家族の元で教主から受けた恩を語って、
静養して次第に元の才気に満ちた才媛に立ち直っていった彼女は、十字と日輪のシンボルを掲げる教会を探し、
そこで教主クルクスへの面会を求めて、こう言った。

「一生掛けても返しきれるか分かりませんが、恩に報いに来ました」

 やがて自身の前に案内された彼女の眼に真っ直ぐな強さを感じた教主は、
彼女に教団の運営本部における室長という地位を与え、後に彼女の希望に従い、《鱗》の一員に加えた。

 第八の女、ダリア・ガーネット、本名ダリヤ・ゴールヴナ・グラナータは、
第七の女エリザヴェータと同じ世界出身で、王家に連なる名族の一人娘だったものの、
体制末期の動乱によって王家の一族を対象にした暗殺騒ぎが起き、
親類縁者に身請けされる度に同じことが起こり続けた。ただ生きるために必死で逃げ延びた結果なのだが、
いつしかジンクスのある女として扱われ、次第に生きるのにも窮するようになり、
彼女の心は疲れ果て、安定を求めて強者に媚びる気質へと歪んだ。
場末の小悪党の片棒を担いでまで必死に食いつないでいたが、いいように弄ばれて遂には路頭に迷い、
ボロ雑巾のような風体で乞食をしていた所を憐れんだ教主に拾われる。
蓄積された心身の苦痛から、幼児退行や異食、パニック障害、ヒステリー、逆行性健忘、徘徊など、
しばらくは目も当てられないような状態だったが、治療に二年の時を費やし、何とか持ち直した。

それでもなお彼女には『人型手榴弾』だとか『家殺しのダリヤ』という汚名がついて回ったが、
見かねた教主が《鱗》の一員に加えるという形でソーンツェグラードに居場所を作り、
名前も別世界の命名規則によるものに変えた。
彼女は育ちがいいだけに根は素直な気質だったのかもしれないが、
身に染み付いた転落の記憶からか、他者と距離を取りたがり、常に何かを警戒しているように、
エリザヴェータの補佐役を務めながらも、突っ慳貪とした態度で振る舞っている。
奇跡の教団と敵対する騎士修道会の頭脳である参謀シムンが彼女を内通者に仕立て上げようとしたのは、
身辺を調べた結果、そうした態度が現在の境遇への不満からくるものだと捉えたからかもしれない。
一度はソーンツェグラードに奇跡の教団本部が置かれ、エリザヴェータが責任者である事を漏らしたが、
エリザヴェータが内部監査でそれに気付いても彼女を信用して速やかな処罰をしなかったように、
彼女もまた、不自由のない裕福な暮らしへの未練を断ち切り、シムンを教主が敢えて残している、
進入路に見せかけた死の道へ誘導するという形で謀って、ソーンツェグラードを守った。
市街地へ踏み込まれた際の対策がないではなかったが、それを使わずに済んだ結果に、
彼女の奥底に眠る芯の強さを見て、教主は彼女もまた《鱗》の一員なのだと認めた。

§

 騎士修道会の侵攻を退け、セオドール・ノア司教が起動した切り札への遠征を控えた前夜、
ソーンツェグラード市庁舎兼奇跡の教団本部の一室に、《鱗》の五名が集っていた。
《鱗》では新顔ながら、作戦司令室を束ねるエリザヴェータが先頭に立って、
遠征に向けた部隊編成を他の四名に伝える。

「ザイフリート連邦共和国から重装歩兵を中心に一一○○名、
 トリビュナル王国から衛生兵、機関銃手、通信兵、小銃手を含む歩兵が九三五名、
 ホロロギウム都市連合から竜騎兵が一○○騎、魔導装兵三○○、計四○○名、
 海の国からの申し出で、イナバ少佐という方を前線指揮官に据えた特殊技能兵が三○○名、
 こちらからは指揮官として私、以下都市防衛隊から狙撃兵、選抜射手三二○名。
 そして、アミナさんとダリアさんを除き、《鱗》から三名が後方指揮官、斥候兼工作員として参戦、
 総司令官としてボスと、最大戦力の女神様、クラヴィスさん……という敵の地の利を奪える方を加え、
 総勢三○六一名が奇跡の教団の戦力です。」

 対する騎士修道会は先の防衛戦での死傷者を差し引いても推定四四○○○名、
実に十倍以上の兵力差があるが、喫驚するダリアを除いて他の《鱗》達は平然とそれを聞いていた。
教主からの説明によれば、重要なのは敵陣の中枢にいるセオドール・ノア司教を討つ事で、
本隊が騎士修道会の注意を引き付け、その間に教主と女神、クラヴィスが別働隊として、
セオドールを討ちに向かうのだという。中央聖教のパトリツィオ司教が現在説得を行っている、
教主テレーズが命じれば、速やかに騎士修道会総長が離反したクノー副長らの鎮圧に動き、
それが成れば敵の士気を挫いた上で、兵力差も覆る見込みもあるらしい。
つまり、侵攻戦でこそあるが本隊の役割は教主が敵の総大将を討つか、
騎士修道会総長らが駆けつけるまでの時間稼ぎだとエリザヴェータは補足した。

「けど、これだけの戦力差なんでしょ。数で押されたらすぐに壊滅しちゃうんじゃない?
 クルクスももっと遠征する連中に増援を送らせるとかしなかったの?」

 ダリアが不安そうに口を挟んだが、エリザヴェータは「我々は防衛戦が得意ですから」と前置きして、
敵地への遠征部隊が寡兵である理由を以下のように説明する。

「セオドール・ノア司教の唱える終末論に便乗してエトナ区の騎士修道会のように、
 中央聖教で異端指定されている奇跡の教団へ攻撃しようとする教区が出てくる可能性があります。
 そうでなくとも、騎士修道会参謀のシムン氏なら我々の守りが手薄になると見込んだ上で、
 奇跡の教団勢力下にある国家や都市攻略へ別働隊を割いてきてもおかしくはありませんから、
 侵攻する以上に防衛戦の備えに万全を期す必要があるんです。
 アシュリーさん、マノンさん、シャーリィさん、アミナさんの四名を残しておくのもその為です」

「アミナ的にはぶっちゃけ海は勘弁願った訳でござるが、その分留守番はしっかりしとくでござるよ。
 少なからずダリアちゃんの身の安全は確保するからご安心ご安心」

 魚のヒレのような耳が覗く髪の先を弄びながら、忍び装束の女、アミナは気楽そうにそう言った。
そして、エリザヴェータら遠征に向かう面々も、決して教主クルクスが部下を捨て駒になど使わないと、
そう主張するように誰一人として死ぬつもりなど感じられぬ毅然とした佇まいをしており、
ダリアは自分一人は何も出来ない歯痒さも手伝って、バツが悪そうに「死なないでよ」と呟いて、
エリザヴェータが「もちろん」と答えると、いよいよ口を噤んだ。

 それぞれの配置と役割、装備の確認を終えると、エリザヴェータではなく、
《鱗》の筆頭である黒髪に全身スーツの隠密、ピューパが率先して他の面々に呼び掛け、
敵地である都市遺跡の偵察の為にキルティスを伴って、本隊に先駆けて現地に向かう旨を告げて、
それから僅かな間を挟んで、澄ました表情のまま、最後にこう付け加えた。

「主はああ見えて――世話を焼いた相手が自分のせいで死んでしまったら、大変に心を痛めるようです。
 ですから、私からも全員無事に終戦を迎えて、主の元にまた集まれるよう……頑張りましょう」

 どこか不器用ながらも力の籠もった励ましの言葉に、既に彼女の変化を知る所であるキルティス以外は、
教主の命令の内容にただ従うだけの、人形のようだった彼女が感情を覗かせた事に面食らいながらも、
彼女なりに最大限の激励に、各々の口から力強く返事をした。
ピューパがその場を後にし、同行する去り際のキルティスをエリザヴェータが呼び止め、こんな会話を交わした。

「顔を合わせる事自体稀ですが、ピューパ隊長はなんというか――雰囲気が変わりましたね」

「でしょう? 私も最初は驚いたわ。けど、人間は変わるものだから、
 変わったといえば私達も皆そうかもしれないわ。きっと、彼がそうさせるのね」

 エリザヴェータのベレー帽に入っている十字と日輪のシンボルを一瞥すると、
キルティスは仮面の下の傷痕だらけの顔に薄く笑みを作りながら、ピューパの後を追って部屋から去っていった。





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『少女と怪盗 - パトリツィオの説得』
多次元世界線・要塞都市ソーンツェグラードにて

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 中央聖教現教皇派によって孤立したセオドール・ノア率いる右派は、教区エトナの騎士修道会へ呼び掛け、
教会会議によって議決した争いの禁を破って、彼らにとって最大の異端組織である奇跡の教団に宣戦布告し、
要塞都市ソーンツェグラードを攻めたが、教主クルクスの罠と腹心である《鱗》達によって撃退され、
エトナ区の騎士修道会を束ねる副長クノー・マフタンは、セオドール・ノアが起動した都市遺跡へと退いた。
いわく、都市遺跡の中枢部にある膨大な力を宿す秘宝によって、中央聖教の伝承にある救世主に変生し、
セオドール・ノアは多次元世界線に蔓延る彼にとっての悪徳――即ち、あらゆる異教と現教皇派を葬り去り、
最後の審判を起こさんとしているのだという。

 それを阻止するべく、教主クルクスは勢力下にある国家や都市から兵を出させ、セオドールを討つべく、
テリメインのディーププラネット海域に出現した都市遺跡へと遠征し、彼らとの決戦に臨む。
教主がテリメインの探索に使用している私有船デア・エクス・マキナ号も遠征部隊の旗艦として用いられ、
戦場へ向かうにあたって、世話係のカレットと、保護下にある中央聖教教皇テレーズと司教パトリツィオは、
船から降ろされ、奇跡の教団本部であるソーンツェグラードで待機、あるいは引き続き保護されることになった。
教主の娘エリクシアは父から離れる事を嫌がって同行しようとしたが、カレットに宥められ、
エリクシアもまたソーンツェグラードに待機する運びとなり、教主は心配そうに見送る娘とカレットに向けて、
「何日か出張するだけだとも」と微笑みながら、心配はないと念を押した。

§

 奇跡の教団本部の来賓室で、丈の短い黒いワンピースを着た少し癖毛な淡い灰色の髪の、
星空のような虹彩の青い瞳の少女、中央聖教テレーズと、一房白髪を垂らした黒髪のオールバックで、
中央聖教司教の印象が入ったネクタイピンを着けたジャケット姿の司教パトリツィオが、
机を挟んで座り、顔を伏せているテレーズに、――何故か額や腕に包帯を巻いているパトリツィオが、
伊達男風の容貌からは想像がつかない必死の形相で、机に片腕を置きながら語りかけている。

「猊下、蛇でも開戦は避けられなかった。戦争がもう始まっちまってんです」

 既に幾度となく聞いた現状報告を、テレーズは膝の上に揃えた手を微かに震わせながら黙って聞いている。
彼女の雪のように白い頬に一筋汗が伝い、パトリツィオは彼女を責めているような心地に、表情を歪めた。
数○○○という規模の死傷者を出し、更にそれ以上の数え切れぬ人間が傷付き、命を喪いかねない事は、
テレーズは理解している。パトリツィオの言う通りに己の口から騎士修道会総長へ呼び掛ければ、
直ちに右派につき離反したクノー副長らエトナ区約五○○○○名の鎮圧と、
都市遺跡で自らが救世主に成り変わらんと謳う右派筆頭セオドール・ノア司教の捕縛、
あるいは討伐に向かわせる権限がある事も分かっているが、しかし、
そもそも三○年もの間に渡り右派の存在を放置させた――ある一つの想いが彼女に決断を躊躇わせている。

「怖いんですかい?」

 神妙な面持ちで尋ねるパトリツィオの問いに、テレーズは身体を強張らせた。図星である。
生来目も視えぬ、前教皇の遺児というだけで次代教皇候補に挙がり、そして対する候補が、
様々な後ろ暗い不正を暴かれる事で信徒らからの票を失ったために教皇に選ばれた彼女は、
就任後三○年間、神の加護によって老いることもなく――十五歳の少女のままだった。
自身の差配一つで莫大な数の人間の運命を左右しうる、あまりにも身に余る権力に彼女は怯え竦み、
司教らが教会会議で議決した方針をただ許可することのみを行ってきた。
その振る舞いを快く思わぬ者に、陰で置物教皇と揶揄されている噂は彼女の耳にも届いていたが、
それさえも仕方がないとさえ考えている。むしろ、言い得て妙とさえ思った程だった。

「猊下を責めたいんじゃねぇ、ただセオドールの奴をこのまま放っておくのは――」

「やめて!」

 パトリツィオの言葉を遮り、テレーズは咄嗟に教皇の印章指輪を嵌めた白い手をかざし、
それとほぼ同時に、パトリツィオが彼女の手を掴んだ。

「思い通りにならねぇから、また魔法でぶっ飛ばす気ですかい?
 そいつぁ遠慮していただきやすよ、ここじゃあ俺の身以上に部屋が保たねぇ」

 真剣な表情のままパトリツィオが制止すると、テレーズは眼の前の相手の顔すら視えていない瞳に涙を浮かべ、
消え入りそうな細い声で、一言ずつ途切れ途切れに言葉を紡いだ。

「蛇さんが……蛇さんが悪いのよ。教皇の資格なんて、私にはないのに……私を教皇にさせて、
 そ、傍にいるよう、何度お願いしても、聞いてくれなくて……私を一人にするから……」

「そいつぁ確かに蛇が悪い。だからって取り返しがつかなくなる状況を放置していい訳じゃあない」

 子供を優しく諭すような口調で、泣きじゃくり始めたテレーズにそう言い聞かせると、
パトリツィオは続けて「プライドに掛けて秘密にしたかったが、仕方がねぇ」と呟き、
空いている方の手で自分の喉を掴み、咳払いをして――入信以来使う事のなかった、
彼女と出会った当時、怪盗として活動していた頃の本来の声で、「俺を覚えてるかい?」と尋ねた。
テレーズは驚いた様子で泣くことも忘れて、「泥棒さん?」と応えた。
パトリツィオは観念して開き直ったのか、それともテレーズを励ますためか、朗々と名乗りをあげる。

「正解! 俺ぁ三○年、教皇選挙のやってた時期に聖地ピスケスへ盗みに入って無様にも失敗し、
 逃げ果せたものの路地裏で力尽きて倒れてた怪盗、ラウール・サンジュさ!」

 伊達男は、澄ました表情を崩して歯を見せながら笑い、それから掴んでいるテレーズの手を、
大きな手で包んで、「教皇の資格ならあるぜ、テレーズ」と司教ではなく、かつての怪盗として語りかける。

「俺みたいな悪党なんて助けるもんじゃねぇって言っても、
 傷付き倒れている人を救うのにいい人も悪い人もないって教えを聞かせてくれただろ?
 また盗みに入るかもしれねぇぞって言ったら、あなたがどのような道を選び、
 いかなる業を成し、例えそれが主のお許しにならないことであっても私は見守りましょうって、
 そう言ってくれたのはお嬢さん、あんたじゃねえか。
 だからよ、俺っちの考えるところじゃあその慈悲深さ、誰より教皇向きな筈だぜ。
 さあ、お嬢さんよ、教皇猊下よ。前を向きな。視えちゃいねぇかもしれねぇが、
 俺だけじゃなく、あんたの周りには大勢見守ってる人間がいるぜ」

 パトリツィオ司教――改め怪盗は、力強くそう言った。テレーズは目を泳がせながら、
暫時沈黙していたが、深く息を吸って、顔を上げ、パトリツィオにこう答えた。

「分かったわ、泥棒さん。私は前を向きます。でも、歩き出す為に、一日だけ心を整理する時間をください。
 やっぱり置物教皇だと笑っていただいて構いません。その代わりに、幾つか用意してほしいものがあります」

「笑いやしねえさ。さて、なんだい?」

 怪盗は、我が子を見守るような暖かい笑顔で、彼女が必要としているものを尋ねた。

§

 テレーズの説得から間もなく、奇跡の教団本部、エリザヴェータ室長が不在の事務室に、
パトリツィオ司教は黒煙草を吹かしながらひょっこりと顔を出し、机について仕事をしている女達を見渡して、
手の空いているオリーブ色のエプロンドレスを着た黒髪の若い女の姿を見付けると、
履いている革靴の足音を鳴らしながら女の元に歩み寄り、声を掛けた。
エプロンドレスの女、《鱗》に属するダリアは、パトリツィオの顔を見るや、
壁に掛かっている禁煙の標識を指差し、「ここは全館禁煙なんですけど」と口を尖らせ、
パトリツィオは「おお、あんまりよく見かけるもんだからここの教団のシンボルかと思ったぜ」と
冗談を飛ばしながら、手早くステンレスの携帯灰皿を懐から取り出し、煙草を放り込んで蓋をした。

「で、なによ。室長が出てるから事務は忙しいんだけど」

「いやーなぁに、大した用じゃねぇんだ。
 紙、羊皮紙を何枚かと封蝋、あとついでにペンとインク、あっ黒な。貰いたいんだけど構わねぇかな?」

「注文が微妙に多い」

 ダリアは怪訝そうに文句を言いながらも、事務机の棚からそれらを引っ張り出してきて、
煙草の残り香を漂わせるパトリツィオにぶっきらぼうに突き出し、パトリツィオはそれらを受け取ると、
「感謝するぜ」と笑顔で言って手を振って、さっさと女達の冷たい視線が刺さる事務室から退散した。

 それから、パトリツィオは廊下で羊皮紙やら封蝋やらを小脇に抱えながら壁に背を預け、
携帯電話を取り出し、聖地で待機している筈の騎士修道会総長への連絡を取り次がせ、
彼にお遣いでも頼むような気楽な声色で、こう伝えた。

「あっもしもしとっつぁん? おう俺ぁピンピンしてるぜ。今、猊下と一緒にいる。
 多分、じきに猊下は修行を終えられる。そん時にすぐ鎮圧部隊を……準備は終わってる?
 さっすがとっつぁんだ。まぁ、とにかくすぐ動けるようにしといてくれよ。
 セオドール司教とそれについた副長達は、テリメインのディーププラネット海域に浮かびあがった、
 なんでも千年王国とか奴さん達が呼んでる都市遺跡で団子になってる。じゃ、頼んだぜぇ」

 電話を切ると、パトリツィオは廊下にも掛けられている禁煙の標識など知らん顔で、
黒煙草に火をつけ、立ち昇る紫煙を眺めながら、独り言ちた。

「いや~よく考えりゃとんだ貧乏くじ引かされたもんだぜ。
 こうなりゃ蛇にゃあ意地でも生きて帰らせて、赤色着せて枢機卿の席に座らせてやるかねっと!」





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『浮遊邸の自動人形』
多次元世界線・錬金術士の浮遊邸にて

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 午前五時。その自動人形は設定した通りの時刻に起動する。
肩までの長さの黄金色の髪と、球体関節を注視しなければ、
一見して人形とは分からぬ程精巧に仕立てられた少女型の機体を持つ自動人形は、
休眠から目覚めたのか、起動したのかの区別など、もはや気に掛けない。
自動人形は習慣通りにベッドを出て、部屋の窓の外に広がる――周囲の土地ごと浮遊している屋敷の庭を眺め、
それから、衣装棚に何着か並ぶ同じエプロンドレスの一つを取り出して着替え、壁掛け鏡の前に立つ。
鏡に映る自分の姿に思う事は何もない。ただ、人工髪や衣服のほつれがあれば直すという機能があるのみである。

 その自動人形は元々人間だった。屋敷の主である錬金術士の傍に居続ける為に、自ら肉体を捨て、
自動人形の器に魂を移すことを選んだ。それがもう何○○年前になるか、既にその時の記憶さえ朧げで、
随分昔の事だとしか憶えていない。自動人形は、主を愛していた事さえ、ただ事実としか捉えられない。
主は遠い昔に旅に出ると告げて、今日まで戻ることはなかった。
彼が今、どこで何をしているかを案ずる機能などなく、紅茶を淹れて主を起こしに行くという行程を省いて、
着替えた衣類が一定の数溜まれば洗濯をし、屋敷の掃除と、庭の手入れに終始する、いつも通りの日常へと移る。
だが、数日前に架かって来た電話によれば珍しく来客がある日で、簡単な掃除を片付けると、
自動人形は玄関の前に佇んで、呼び鈴が鳴るのをじっと待っていた。

§

 錬金術士の浮遊邸と呼ばれるその屋敷に来客があったのは正午で、飛竜の翼の音と、
それから二人の男の会話が玄関の扉越しに聞こえ、間もなく呼び鈴が鳴って、自動人形は来客の応対をする。
訪れたのは山高帽を被り、ステッキを携えたスーツ姿の白髪の老紳士と、
何やら落ち着きがない様子の、中折帽を被ってロングコートを着込んでいる茶髪の中年男性の二人組だった。
老紳士の方は屋敷の主がいずこかに旅立つ以前からの顔見知りで、茶髪の男はなんでも奇病に罹った息子の為に、
あちこちの医者や魔道士、錬金術士の元へ東奔西走しているのだという。
老紳士が茶髪の男は浮遊邸に医学と錬金術に通じた者が住んでいる古い噂を聞き、
既に何百年と前から不在だと説明しても納得せず、こうして実際に連れてくる運びになった経緯を自動人形に聞かせ、
自動人形は首を僅かに動かして、茶髪の男に向かって「旦那さまはご不在です」と無機質にそう言った。
しかし息子の命が懸かっている男はやはり引き下がらずに、「隠遁しているのだろう」と息巻きながら、
自動人形が応接間に案内しようとするのも聞かず、屋敷のあちこちを調べ始めた。
老紳士は呆れた様子で男の背に「いないものはいませんよ」と話し掛け、
そして自動人形に向かって「すまないね、散らかるかもしれないよ」と溜め息混じりに謝って、
屋敷の部屋を手当たり次第に探そうとしている男の後を追った。

 男の探索はといえば、不在の主の姿を見つけ出す事は当然適わず、勝手に立ち入った主の私室や、
患者などいない、機材だけが手入れされた状態で放置されている医務室と、
屋敷中を探し回って鍵を見つけ出した工房においても息子の病を治癒させる手掛かりは掴めなかった。
陽も暮れ始めた頃、疲れ果ててようやく諦めたのか、男は最後に「キミに医療の知識はあるか」と詰めかけ、
自動人形が「ありません。旦那さまはご不在です」とそれこそ機械のように事務的に答えたのを聞くと、
がっくりと肩を落として、「そうかね、残念だ」と力のない声で嘆いて、帰ることを老紳士に伝えた。

 玄関先まで見送りに出ている自動人形に、老紳士は悲しげな目をしながら「お騒がせしたね」と謝ると、
帽子を取って会釈をし、数歩先で蹲って頭を抱えている茶髪の男の肩に手を置き、

「医者や錬金術士なら何件か心辺りはある。遠出は少し堪えるが、息子さんの為に付き合うよ」

 そう慰めの言葉を掛けて男を立たせ、老紳士は目を強く閉じて、赤い飛竜の姿へと変貌し、
人間の二三人は悠々と乗せられそうな大きな背に男を乗せ、いずこかへ飛び去って行った。
それを見届けた自動人形は、この騒動の片付けをする為に、踵を返して屋敷に戻った。

§

 男が散らかした屋敷内の掃除を終えると、自動人形は内部時計が十時を告げたのを切っ掛けに、
寝室に戻り、着替えを済ませて、やはり習慣となっている窓の外の景色、
高所に浮かんでいる事から虫の鳴き声もしない、月明かりにぼんやりと照らされている夜の庭を眺めると、
ベッドに入って、設定されている時間どおり休眠へ入った。

 自動人形は愛している主の顔と名前だけは、それが大事なものとして遠い昔から記録を残しているが、
彼と過ごした日々はおろか、いつどこで出会ったのかさえ摩耗してしまって殆ど思い出せない。
それを嘆き悲しむ感情は欠落して久しく、ただ機能として主がいつ帰ってもいいよう、屋敷を管理し続けている。
毎朝鏡を見る習慣から、自身の容姿は把握しているが、名前は――思い出せず、記憶回路を検索して、
人工知能の核に刻まれた機体のバージョンや更新記録の傍に、それらしいものを見付けて、ようやく思い出した。
浮遊邸の自動人形。奇跡の女神の加護を得られなかった分岐線の、カレット・コルレットという少女だったもの。
彼女の主がせめて破壊しようと考えたが実行できず、代わりに自己のあらゆる分岐を自ら滅ぼして閉ざし、
クロード・ルクス・ソーリスの存在を世界から抹消する旅路へ出る事で運命を変え救わんと願った、
ピューパと出会わず、妻を救えなかったソーリスに添い遂げようとした少女カレットの成れの果ての姿である。





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『Valhöll-Ⅴ/Busybody』
辺獄の箱庭上層・創造主の新工房/
私有船デア・エクス・マキナ号内錬金工房にて

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 多次元世界線の狭間のどこかに存在する、閉ざされた箱庭の世界。
錬金術の極北を目指したヘルメスの再来と謳われた男と、彼の手で創り出されたものが死後に至る空間は、
七つの丘にそれぞれ宮殿がそびえ立ち、どこまでも広がる草原と、地下に備えられた浄水機関を介して、
循環し続ける河の清流とを見下ろしている。丘の下では所々で新たな街が築かれ始めており、
初めに箱庭の中心に築き上げられた、劇場や公衆浴場、民家に至るまで古代混凝土製の白い建物が立ち並ぶ、
人々や鳥獣――正確には、ホムンクルスと人造生物、更には労働用の、やはり白いゴーレムまでも行き交う、
箱庭の繁栄と成長を象徴するような活気に溢れたその街の片隅に、一軒の錬金工房があった。
エリクシル、賢者の石、あるいはAZOTHと呼ばれるものを錬成するために、時間や寿命の概念を超え、
実験場となる世界を創り、永きに渡って実験を繰り返した、かのヘルメスの再来、創造主の新居である。
数々の幻想的な意匠の機材や膨大な研究資料が詰め込まれた工房に、一人のホムンクルスが招かれていた。

 工房の主である白金の長髪で、研究者らしく白衣を羽織りながら、七分丈の細いズボンとサンダルを履いた、
褐色肌で切れ長の碧眼の男が微笑みながら、客である魔道士らしいローブを着込んだ、銀色に染めた髪の女が、
恭しく頭を下げたのを見届けると、空いている椅子へ掛けるよう手で促し、女は素直にそれに従った。

「急に呼び出してすまないね、アモール。少し、ソーリス君の話をしたいなと思ってね」

「彼に何か?」

 なんでも死者を統べる秘宝の力とやらによって一度は辺獄の箱庭に強制的に送られ、
そしてこの創造主と生前の戦友達の協力で箱庭の外殻に穴を開けて再び生者の世界へと帰らせた、
創造主とアモールの妄執を断ち、今は女神へ変生した妻を不滅のホムンクルスとして受肉させるべく、
今も奔走している筈の不滅の魂を持つホムンクルスを話題にあげると、彼のその後を案じているのか、
アモールは首を傾げながら、創造主に尋ねた。
創造主がアモールの懸念を打ち消すよう、あの後も烈日のソーリスは健在であり、
彼とアモールとの間の私生児であるエリクシアや彼の妻リートゥシアもまた同様である事を伝えると、
「そうですか」とアモールは安堵の微笑みを浮かべ、創造主は彼を話題に挙げた理由について、
奇跡の女神と呼ばれる神霊となっているリートゥシアの名も添えながら、
「彼ならそろそろ答えを出している頃じゃないかと思うんだ」と確信に満ちた様子でそう言うと、
工房の片隅に置かれている、棺桶を軽く顎で指した。

「私が創りえなかったAZOTHを引っ提げて見事私を打ち倒し、妻を救い出した彼に、
 ああ、妬んでいる訳じゃない――のは言うまでもないか。キミもそうだろうしね。
 仮に彼の悲願が達成された時に無ければ困るものを、細やかな贈り物にしようと思うんだけど、
 ついでに、キミが彼の妻についてどう思っているのか確認しておきたいんだ」

 育ての親同然で最初の愛人でもあり、子を成した深い関係にありながら彼と婚姻を結ばず、
彼の生き方を歪めてしまったという罪の意識から彼を送り出したアモールが、
心から彼が救おうと願い、妻とした女リートゥシアの存在をどう捉えているのか?
創造主に問われたアモールは口元に手を添えて上品に笑いながら、こう答えた。

「昔の女が接触するのはよくないのであまり会わないようにしていましたが、
 佳い娘に決まっていますよ。だってあの子が、クロードが見つけた本当の愛ですから」

 創造主は目を細めながら「そうかね」と楽しそうに言うと、それ以上は尋ねず、
代わりに「ああ、そういえば」と思い出したように前置きして、新たな話題を切り出す。

「アクアはどうやらキミほど割り切ってはいなかったみたいだ。
 ソーリス君を送り出すどさくさに紛れてキミが彼から断罪を求めたみたいに、
 彼女も箱庭の外に行ったのがその証拠さ」

「まあ、剣呑ですこと」

 少し驚いた様子のアモールに、創造主は椅子から少し身を乗り出し、
「どうなるかな」と問い掛け、アモールは遠い目をしながら「痴話喧嘩でしょうね」と嘆息した。
「一悶着くらいで済むといいがね」と笑い飛ばして、創造主は視線を棺桶にやって、
最後に「彼、どう思うだろうね」と棺桶の中に眠る魂の入っていないホムンクルスと、
ついでに添えたそのホムンクルスの肉体の錬成レシピについて、アモールに意見を聞いてみた。

「余計な世話だって言うと思いますよ」

「……だろうねぇ」

 苦笑しながら答えるアモールに向かって、創造主は意地悪そうな笑顔を見せた。

§

 セオドール・ノア司教とクノー・マフタン副長率いるエトナ区の騎士修道会との決戦に向け、
本拠地ソーンツェグラードからテリメインのディーププラネット海域へ出航した教主の私有船で、
偵察に向かわせた《鱗》の二名から届けられた報告と照らし合わせ、
やはり《鱗》の一員であるエリザヴェータと連携しながら都市遺跡・千年王国攻略の調整を終えた教主は、
非戦闘員である世話係のカレットと娘エリクシア、そして保護していた中央聖教教皇と司教を降ろし、
些か静かになった船内にある錬金工房で、仮に死亡した場合への備えとして自らの肉体の複製や、
独自の戦闘消耗品の備蓄を錬成している最中、スキルストーンに通信が入った為、作業を中断した。
確認すると、いずれの探索者の登録番号も表示されず、かといって協会に放った草からでもない。
まさかこの期に及んで、一探索者の連絡先を探し出してまで敵から交渉の申し出などあるとは思えないが、
警戒しながら教主はその通信を繋いだ。

「やあ、ソーリス君! そろそろ答えを出している頃か、出す頃だと思ってね。
 AZOTHを媒介に箱庭から連絡させてもらったよ」

 世界の狭間のどこともしれぬ場所にいるはずの創造主からだった。教主は切ろうかと思ったが、
あちらはそう来ると予見していたのか、「聞くだけ損はさせないよ、キミの奥さん絡みさ」と、
若干慌てたような調子の声でこう切り出して、珍しく露骨に顔を顰めたまま返事をしない教主をよそに、
創造主は勝手に話し始めた。

「キミの悲願を達成する方法、私が考案して教えるまでもなく目途は付けているだろうけど、
 それが成った時に一つ大きな手間を挟む事になるのは、キミの歓喜に大いに水を差す。
 私に借りを作りたくはないだろうが、AZOTHの礼さ。これくらいはさせてくれよ」

 創造主がそう言うと、いかにして取引機能の送品許可権限を潜り抜けて来たのか、
AZOTHと合成されたスキルストーンを介して、教主の工房に世界線を跨いで棺桶が転送されてきた。
何が送られてきたのか、死者の眼によって既に判別している教主に対して、創造主は中を確かめるよう促し、
教主は可能なら送り返してやろうかとも思ったが、渋々その言葉に従った。
銀製の棺桶の蓋を外すと、その中には白金の長髪を二つ結びにした、透き通るような白い肌の上に、
貴い身分であることを示すかのように絢爛な装飾の施された純白のドレスを着ている美しい女が眠っており、
棺桶に敷き詰められた彩り鮮やかな花々の傍には、一枚のパピルス紙が添えられ、
教主がそれを手に取って内容を確かめると、この棺桶に眠る女の肉体の、
錬金術による錬成素材と手順が仔細に記されている。
棺桶に眠るのは奇跡の女神――教主の妻リートゥシアの魂が宿らぬ肉体だった。

「……余計な世話だ」

 自身の肉体を元に別のホムンクルスの肉体を作り出す技術自体は、娘エリクシアにそうしたように、
決して教主に無いわけではない。増して、自身が打ち倒した生前における全ての元凶に対して、
借りなど作りたくはないという思いから、教主はますます機嫌を悪くした。
そんな相手の様子すら愉快そうに、創造主は教主に対していかに女神を受肉させるかを問う。

「さて、容れ物は用意した。後はキミが悲願を叶えれば、晴れてめでたしめでたしという所さ。
 実際の所、どうやって叶えるつもりだい? やはりテリメインに眠る力が関係するのかな?
 どう知り得たんだろう、探索の中で相対した魔神フラウロスから聞き出したのか、
 それともキミ自身の言葉や思考から編み出したのか――いや、きっとそちらだろうね。
 余計な世話かもしれないが、技術的な観点から私も何かアドバイスが出来るかもしれないよ」

「余計な世話が好きだな、貴様は」

 子供のように無邪気な声で捲し立てる創造主に、教主は怒りを通り越して呆れた様子で、
現在の彼の性質をため息まじりに指摘した。それを聞くと創造主は通信の向こうで大笑いし、
「余計な世話が好きなのはキミもだろう?」と返した。
否定も肯定もせず再び黙った教主に対して「認めなよ」とまで言い、更に語を継ぐ。

「まあ、ともあれキミ達の幸せはアモールも私も大いに祝福するところだ。
 ああしまった、カリプスやアルボル辺りからも祝辞の言葉を預かっておくべきだっ――――」

 教主はとうとう通信を切った。なぜだかどっと疲れが出て、工房の椅子に腰掛けると、
光の粒子を伴って、女神が顕現して、教主の様子に微笑みを浮かべて、
それから棺桶の中に眠る自身の肉体をじっくりと観察してから、教主に顔を寄せて、
意地悪く「どうやって叶えてくれるのかしら?」と問い掛けた。
教主はちょっと片眉を上げながらも、最愛の妻に対して、
彼女を自身と同じ不滅のホムンクルスとして受肉させる方法について、以下のように解説する。

「既に創られたものの性質を変えること、不滅性を剥がすことは長い時を掛ければ不可能ではありませんが、
 逆はおそらくかの創造主でも難しい問題でしょう。そこで、違う視点から魂に干渉する事にしました。
 不滅の私と貴女の魂を分割して同期させ、共有すれば、互いに精神に基づいた不滅性を得るだけでなく、
 我々が一対の存在である限り、仮に不滅殺しに遭ってしまったとしても、
 二人纏めて滅ぼさなければ肉体はともかく魂までは滅ぼせません。
 ――つまり、”Animae dimidium meae.”という訳です」

「そこで思いついたのね……」

 意地悪への仕返しに、以前柄にもなく妻らしい振る舞いをした時に女神に掛けた言葉を繰り返し、
女神は顔を赤くしながらも感心したように頷いた。そして、それを叶える為に必要なものについて、
教主がディーププラネット海域に浮上した都市遺跡を話題に挙げた。

「ノア小僧が呼ぶ所の千年王国――時期的に鑑みて、もし大陸の勇者達が現れなければ、
 魔王から逃れるために築いた最後の避難所。その中枢に眠る秘宝が必要です。
 都市遺跡のあらゆる機能を制御し、ノア小僧を救世主とやらに変生させる程の膨大な力を宿した秘宝なら、
 我々の魂を分割し、同期させるには充分でしょう。
 そして、こちらには正式な秘宝の操作権限を持つクラヴィスもいます」

「だからあの娘は降ろさなかったのね」

 教主は一つ頷き、両手の指を合わせながら、千年王国攻略の真の目的を語った。

「地上部隊が騎士修道会を釘付けにしている間に中枢へ向かい、ノア小僧を叩いて、ネロと決着をつける。
 ここまでは前提です。本当に必要なのは秘宝の力――我が願いの成就の為に、必ず勝ちましょう。
 そして、生前交わしたあの約束を今度こそ、叶えてみせます」

 真剣な面持ちの教主に女神は「楽しみね」と言い残して、やはり光の粒子を伴いながら立ち消えた。
そして、間近に迫る決戦に備えて、教主は中断されていた作業を再開した。


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