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ルリユールの足音 4

全体公開 9657文字
2017-12-31 23:17:39

完結。速攻で書いたから誤字あるだろうし、色々ダメだと思う。ごめんね。

『すべては、俺の糧だ』
それが、レソラン・ヒュールダーという男の口癖だった。
学生時代、実はエヒャはレソランと初めから親しかったわけではない。
レソランは魔法については学科でも実技でもトップの成績でポルターダ学院に入学していた。おまけに金糸のような髪に青い目の男。さらにきれいな顔とくれば、学院でもかなり目立っていた。
近隣国のトップクラスの頭脳の持ち主が集う学院では、大まかにいくつかに別れていた。それはうっすらとした、階級のような分類だ。
秀才、努力家、天才、そして、落ちこぼれ。
エヒャは入学の際に自分の眼を少し使った。なので、運よくたまたま入学できたに過ぎなかった。学科の知識は、自分の得意分野だけ満点をとれるようにしただけだ。
エヒャはかなり偏ったタイプだったが、レソランは違った。
いや、レソランだけでなく、エヒャ以外のすべての人は、大きく違っていた。
みんながそれぞれ、しっかりとした知識を持っていた。まんべんなく、きちんとたくさんのことを勉強して、ある程度の努力をしていた。周りにいる同級生は、きちんと勉強をしてきた、お金の掛けられた子供たちだった。
自分の能力を知りたいがために、働く傍ら、飢えと隣り合わせに少し勉学をかじっただけのエヒャは、かなり場違いだった。
魔法の基礎なぞ知らない。魔法陣の書き方も何も知らない。
そんなエヒャは人より倍の時間をかけて勉強せねばならなかった。だが、周りには勉強をしなくとも済む天才がごろごろいた。
秀才は天才に打ちのめされた。
努力家は秀才に打ちのめされた。
落ちこぼれは、すべてに打ちのめされる。
だが、そこで食らいつかないわけにはいかなかった。落ちこぼれでも何でも、エヒャは『自分』を研究するためには、最高の環境で、自分のことを知るしか手段は残されていなかった。
そうしなければ、とても。
あの声を、忘れることなどできなかった。
『・・・あなたは、こんなことをしては、だめよ』
柔らかい女の声が、今でも蘇る。
まるで子守唄をうたうような、軽やかな音だ。
ときに魔力の流れさえ支配して見せるほど、強い力を見せた赤い眼。
赤みがかった髪の間で、ひっそりとほほ笑む線の細い顔には、赤い血が涙のように滴っていた。
ときに口元に、こぼれたばかりの赤い血を塗って、その口元は曲線を描いていた。
白く、こけた頬から血を滴らせて、死体の山のそばで、いつもひっそりと笑う。
その微笑みは、いつだってやさしく、甘やかで。
赤い血に、まみれている。
『・・・あなたは、こんなことをしては、だめよ』
そう言って、何度も何度もエヒャの心を砕いた。
言われるたびに、エヒャはぐさりとくぎを刺されていた。
『こんなこと』をしなければならない結果を生み出していたのは、エヒャの存在なのだ。
エヒャのせいで、『こんなこと』をしている。
母は、エヒャを養うために、己の赤い眼を使った。
そして、自分を育てた。
生きていくためには、お金が必要だったから。
当たり前の事実だった。
でもその当たり前を得るために、エヒャはたくさんの血をこぼして生きながらえていた。
それはゆるぎなく、ただ一つの現実だった。
生きていくために、たくさんの血を見た。
そしてそれだけ、たくさんの戦場も修羅場も見た。
裕福とは言えなかった。
何かを殺せば、その代償のように、憎しみが向かってくる。
それをすべてはねのけるだけの力があったが、それは呪いのように修羅場を呼び寄せるだけだった。
エヒャがいるからこそ『こんなこと』を繰り返さなければならないのなら、家族などいらないと、エヒャは思った。
(きっと、永遠に)
ひとりでいいと、エヒャは思っていた。
こんな力など、人にはすぎた力だ。
こんなもの、ないほうがいい。
そう思って、どうにかするべく、エヒャは自分を研究することを決めたのだ。
そんなエヒャからすれば、うっかりでも受かったポルターダ学院から落ちるわけにはいかなかった。
心が弱いやつから落ちていく。
そういう場所だった。
でも、落ちまいと必死でしがみついていた。
ポルターダ学院は、厳しい競争の場だ。
権力だけでは入り込めない、本当の実力主義の現場だった。
そんな中でエヒャは、平均より下すぎて目立っていた。
船の端で、落ちないようにしがみついている。
それがエヒャだった。
だが、レソランは逆だった。
すべてをそつなくこなす。
器用貧乏でも、秀才でもない。
だが、天才というわけでもなかった。
しいていうなら、奇才、というのが正しいのだろう。
そんな分類しか知らない同級生の中で、エヒャだけが唯一、レソランのあり方を知っていた。
それは飢えと働くことのつらさを知っているからこそ理解できたものだった。
レソランは、ただ一人の、経験者だった。
同年代の若々しい子供たちが、純粋に机上の空論しか知らないのに対して、レソランは実務というものを知っていた。
実際に魔法を使って、生きることを知っていた。
こうあるべきと定められた、生活に必要のない知識を持て余しながら、魔法で人を殺すことさえできそうな。
当時の横顔には、それだけの緊張感と、海のような暗さが漂っていた。
実際、レソランは授業は半分ほどしか出ず、半分の時間は姿を見せなかった。
何をしているのかは知らないが、すべての試験には必ず上位に食いこむ。
そういう、少し変わったルールで動いている男だった。
若いときは、金色の髪を面倒だと長くのばしていた。そして一つにまとめてくくっている姿に、女子はたいそう騒いでいた。
幼い顔には甘さと張り詰めた緊張感が、神秘的な雰囲気を漂わせていたのだ。勉学にしか興味がなかったが、他の学生がついずぼらになりがちなのに対し、なぜか清潔感があった。
エヒャはその当時から、顔がいいやつは卑怯だと思っている。
他の子供たちが侍女や使用人を個人的に雇っているのに対し、レソランは何でも一人でできていた。
エヒャも一人で何でもできたのと、貧しくてお金がなかったので一人だった。
二人一部屋の寮でレソランが同室にならないかと誘ってきたのもそれが一つの理由だった。使用人がいない人で、静かそうなやつがいいと、声をかけられたのが始まりだった。
とはいっても、その声のかけ方は、たいそうひどいものだったが。
(今思い出しても、ひどい) 
その日、エヒャはいじめにあっていた。
もうそれしか言いようがないほど、典型的ないじめだった。教科書の類を、人気のない、使われていない旧校舎に隠されて、見つけた途端、入り口に鍵がかかるというちんけな魔法で、閉じ込められていたときだった。
ちなみにここまで手の込んだいじめは初めてだったので、エヒャの感想は。
(みんな暇か・・・!)
だった。
てっきりみんな勉強に必死で、いじめの類はないかとエヒャは思っていた。
だがやはり、カーストの低層にはそれ相応の嫌がらせがあった。
魔法で閉じ込められては、実技の不得手なエヒャに脱出は無理だ。
これではこのままここに閉じ込められて、授業についていけなくなる、と肩を落とした。
そのとき、正直、心をやられた。
この出来事が、エヒャにぐさりと何かを突き刺していた。
落ちこぼれのエヒャを打ちのめすのも、十分な出来事だった。
「くそ・・・」
こんなところで止まっている場合ではない。
余計なことで足をとられている場合ではない。
きっと、他の人なら、こんな魔法は打ち破れるのだろう。
だが、それすらうまくできない。
そんな現実を突きつけられているのと同じだった。
「・・・俺は、無力だな」
ただ、ひたむきに頑張っていた。
それでも、周りには恐ろしいほど天才がいた。
自分がダメなのはよくわかっていた。
実技でも少しもうまくいかない。
でも。
どんな勉強でも、難しくともわからなくとも、エヒャにできるのは努力だけだった。
つらくても、苦しくても、バカにされても、あきらめきれなかった。
あきらめることは、できなかった。
『・・・あなたは、こんなことをしては、だめよ』
そうささやく声を、あきらめきれなかった。
あの言葉通りに、『こんなこと』をせずに済むようになりたかった。
自分が持って生まれた、赤い眼を使わずに済む方法を知りたかった。
ちっともうまくいかない。ただ周りのように、将来の夢や、才能があるからという理由で、この場所に来たかったと思うことさえある。
この眼が、どれだけ恐ろしいか、まわりの同級生は、知る由もない。
(もう、いっそ)
いっそ、己の力を使ってしまうか、とそのとき、ぼんやりと考えた。
うまくいかない。それは自分のせいもある。
けれど、そもそも。
競い合う相手を、すべて殺し合わせてしまえばいいのだ、と。
競争相手は、すべて消してしまえば良い、と。
いくつもの修羅場と戦場を経験したエヒャは、そういう思考も、持ち合わせていた。
そしてそれを実行できるだけの力さえ、あった。
(もう、誰も)
いなくなってしまえ、と願いかけたとき。
がちゃん、と錠の落ちる音で、エヒャは我に返った。
はっとしてドアのほうを振り向けば、ぎい、と普通に開くところだった。
誰かが気づいてくれたのだろうか。
特に親しい人はいないが、助かった、と思った。
そしてくあ、と大きなあくびをしながら入ってきた、金髪の長髪の男は。
「あれ?先客?」
と、眼の下に隈をこさえながら首を傾げた。
それは嫌でも耳に入ってくる有名人、レソラン・ヒュールダーだった。
よりによってなんでこいつが、とレソランは顔をゆがめそうになってしまった。
ずいぶんと疲れた顔をしていた。
それでも近くで見た実物は、なぜかきらきらしているように見えた。
眼をそらしたくなるほど。
輝いているように見える。
「あ、お前知ってる。アウル・エヒャだ」
彼に知られていることに驚いて、ぽかんとしていると、きっちりと着こんだ制服の裾をひるがえして、近寄ってきた。
そして座り込んで途方に暮れていたエヒャに近寄るなり。
「君、同室にならないか」
と、上から声をかけてきた。
(は、はあ・・?)
状況が理解できずに、はてなマークでぐるぐると目を回す。そんなエヒャに、レソランは小さく息を吐いた。
「君、いじめにあってるだろ?」
ずばりと言い切られて、理解をするのに数十秒要した。
そしてすぐにか、と顔が熱くなるのを覚えて、エヒャは俯いた。
(し、しられていた・・・)
なんでもできるレソランにさえ知られていた、という事実にじりじりと崖のふちへ追いやれている気分になった。
がむしゃらにあがいて、ただひたすらに必死だった。
何でもさらりとこなして見せる彼から見た自分はどう見えているのか。
それを考えれば、顔をゆがめるどころではない。
自分はたいそう醜い顔をしているに違いないと、顔を見せることができない。
(・・・みじめだ)
自分ばかり、一生懸命にやっている気がした。
崖の底から、何度でも登ろうとしているようだ。だが、レソランは崖の上で、その先へ歩き出しているのだろう。
どうあがいても縮まりはしない距離を見せつけられていた。
この男は、その象徴なのだ。
ただ一人、取り残されているような気分にさえ陥ってしまう。
思い報せるような男が、そばにいる。
「・・・おい。なんで下を向く?」
顔を上げることなんてできなかった。
自分のそばにいるのは、『経験者』で『奇才』なのだ。
才覚は、間違いなくある。
そんな男に向ける顔などない。
きれいな顔に、自分のゆがめた顔を見せたくない、というのは、最後のあがきだった。
(汚れも知らないような、そんな顔は)
血まみれた微笑みしか知らない自分には、まぶしすぎるのだ。
とても、上を見て眺めることのできるものではない。
「いや、あの」
言葉を探してうつむいたままでいると、はあ、と重たいため息が聞こえた。
呆れているような音に、体が固まった。
「なんだ、同室が嫌なのか。ちょうどいいと思ったんだが」
お前以上に良さそうなのはいないんだが、とレソランはこぼした。
(ん?いま、なんて)
思いがけない言葉につられて顔を上げようとすれば、レソランは近くに座り込んで、天井を仰いでいた。
上でもなく。
見上げる必要もなく。
彼は、同じ位置に、座り込んで。
困ったように天井を見上げていた。
「はー・・・。まったく、どいつもこいつも、使用人ばっかりで、いやになる。みんな、自分で生活するのがどれだけ楽か、知らないんだろうな。それにしてもお前はうらやましい・・・。俺のこともいじめてくれないかな?」
独り言のようだ、と思っていればちらり、と青い目でうらやましそうに見られて、エヒャは思わず顔をしかめた。
しまったと思って、慌てて顔をそらす。
「な、何言って・・・」
そういう特殊な性癖をお持ちなのかと、そっと視線をそらした。
優等生の意外な事実に、どう反応してよいか困るものである。
言葉を探すエヒャに構わず、レソランはインクの付いたペンを取り出した。
そして床に直接、魔法陣を描き始める。
本さえ見ないその手際はとても鮮やかで、思わず目を奪われてしまう。
(すごい、うまい・・・)
「ケーリャー家の魔法は大体読み解いた。薬学も、大体、配合で半分ほどだ。どうせなら、各自の家の固有の魔法も読み解いてしまいたい。他国なら、なおさらだ。アウル・エヒャ、向かってくる攻撃はいいぞ」
一番、魔法を読み解きやすい、と手は狂うことなく魔法陣を描き続ける。
「魔法は人々の生活に貢献するのはもちろんだが、やはり攻撃もできるに越したことはない。魔法の弱点を、お前は何だと思う?」
すらすらとインクで描かれていく幻想の下準備から目をそらし、さあ、と相槌を打った。
レソランも返答を期待していなかったのか、すぐに口を開いた。
「解体されることだ。読み解かれて、理解されてしまえば、神秘をもとにされている魔法はすべて幻想になる。魔法は本来、秘するものなんだ」
だから俺は解体する、とレソランはつぶやいた。
「秘する魔法を、解体せよと望むのがこの国の勇者様だ。どの家も国も、固有の魔法は、すべて暴いてやる。尻尾をつかんで、バラバラにして、すべて俺の糧にする」
す、と魔法陣を書き終わったレソランは、ペンを服の中へとしまった。
「・・・そんな俺の目的に、お前はぴったりだったんだがな」
ちらりと、再度レソランは窺うようにエヒャに視線を向けた。
青い、氷のような眼だった。
赤さを知らなさそうな、透き通った色だ。
「・・・・どうしろっていうんだ!」
その眼に、突き刺さった杭を、さらに深く差し込まれた気がした。
ざくり、と硬質な体を抉り、ぱきりとヒビさえ入れるような。
そんな、強い目だった。
「俺は落ちこぼれだ。あんたとはちがう。魔法さえろくに使えない。俺がどうあがいてもかなわない場所に、アンタはいるのに!」
ちがう、とエヒャは思った。
(ちがう。これは、ただのやつあたりだ)
あまりにも、金髪の男がきらきらとしていて。
その眼が、氷河のように澄んでいるから。
(こんな、ひがみを、見せたいわけじゃ)
それでも敵わないことが、苦しくて、うらやましい。
見慣れた赤以外の眼をする、きれいな男が、妬ましい。
その言葉に、レソランはまずいものでも食べたように、眉根を寄せた。
不愉快というよりは、不服そうな顔をして、肩を落とした。
「アウル・エヒャ、いいからこれに触れろ」
魔法陣を示されて、エヒャは顔をゆがめた。
「・・・俺が触れたところで、どうにもならないぞ」
いいから、と言われて、片手に目をやった。
どんな魔法も、うまくはいかないのだ。
それはおそらく、この眼が関係しているのだろう。だが、何がどう影響しているのかわからない。
それが、エヒャの限界なのだ。
(俺は落ちこぼれで、それで、赤い目をした怪物で・・・)
どうあがいても、かなわない。
「それじゃあ、お前はそのまま、そこにいるのか?」
え、と、言われた言葉に顔を上げた。
「そこから、どこにも行かないのか」
そんなはずあるかと、怒鳴り返したい気分を、エヒャは抑えた。
自分がいるのは崖の底だ。
その上に立って、歩いている彼とは違う。
でも。
ここではない、どこかへ。
『こんなこと、してはダメよ』
その声が聞こえないところまで。
「ここではないどこかへ行くためには、やるしかない」
やったことないことを、とレソランは目を合わせた。
透明な、氷のように澄んだ目は、同じ位置にある。
「やったことがない、やれることすべてをやって、行くしかない」
ここではない、どこかへ。
それが例え、同じ崖の底の、先でも。
ばん、と片手を、叩き付けるように魔法陣に触れた。
ひりひりと手が痛む。じくじくと熱を持つ手が触れた瞬間、ぶわ、と光があふれた。
円から光があふれだす。
ふわ、と魔法陣からあふれて光るのは花びらだった。
「え、なん」
今までうまく魔法が発動したことなどない。
あふれる光に、手を離すのを忘れて見入った。
ひらひらと花びらが舞う。地面に降り積もる花びらに、ぼろぼろの校舎が侵食されていく。
降り積もった花弁は、地面を覆い尽くしていた。そして気が付けば、木製の天井は、満点の星空が輝いている。
「・・・なん、で」
「お前、ずいぶん保有魔力が少ないんだな。大体、そういうのは、この国だと、魔法使いとしてじゃなく、魔法具を作る側になるんだけどな」
よっこいせ、とレソランは立ち上がった。
「魔法が使えないなら、使えないなりの魔法がある。これは周囲の魔法を吸収して発動する魔法だ。お前、ここをどこだと思ってるんだ?」
ふ、とエヒャは手を離した。
床にたたきつけた手はまだ熱い。
「本を読みたいと、図書館を作った勇者がいる国だぞ」
このときはじめてエヒャは、勇者、というものを視界にいれた。
それまで、ただ、恐ろしい自分の血のことしか頭になかったが。
ここには、そういうものがいたのだと、ようやく認識できた。
「どいつもこいつも、ここがどこだか忘れていて困るな。天才?秀才?そんなもの、あの方に及ぶはずもない」
レソランは、ようやく顔をゆがめて笑った。
「あの方の前では、人間なんて皆同じだ。どれだけの才があろうとも、どのような災でも、あの方がみな平等に殺せる」
だから、とレソランは静かにエヒャを見下ろした。
「ここではないどこかへ行くのなら、あの方を目指してみればいい。あの方の前では、落ちこぼれも天才も何もない。等しく同じ人間だ」
「・・・同じ、人間」
そう、と彼は静かな動作で頷いた。
「だから同室になってくれると助かるんだが。俺でできることならば、お前に色々教えることだってできる」
その言葉に、うん、よろしく、と思わずエヒャは頷いたのだった。
(ああ、)
ぼんやりとした、鈍い頭で、それをさみしく思った。
かつてあったことだ。
なのに、どうして、忘れてしまったんだろう、と。
(いや、ちがう)
そうして、レソランと同室になってから、穏やかに過ごしていた学院での生活を、エヒャが壊したのだ。
自分の、眼で。
支配下に置いた人間が暴走し、魔法が吹き荒れた中、一瞬だけ、視界にあの、透き通った青い目を見た気がした。
赤い、蝶もたくさん見た気がした。
けれどそれも、幻だったのかもしれない。
感情にまみれて視界を覆ったエヒャには、もう、何もわからなかった。
我に返ったように目を覚ましたとき、エヒャはベッドの上にいた。
そばにいたのは、青い目をした、小さな勇者だった。
「あやうく、君を殺す、とこだった」
しゃべり慣れていないような、舌足らずな声でそう告げられた時、エヒャにはこの人しかいない、と思ったのだ。
恐ろしい力を鎮めて、あまつさえ『殺せる』とさえ言う。
(俺にはこの方しかいない。俺は、出会うべくして出会った)
それからの日々はとても忙しくて、エヒャはすっかり忘れていた。
(ああ、きっかけは、もらっていたのに)
ふ、と瞼に光を感じた。
うっすらと目を開けば、うまく視神経がつながらずに、しっかりと認識ができない。ぼんやりと視界に入る木目の天井に、ここはどこかと首を横に傾けた。
「・・・目が覚めたか」
そこには、きれいな顔をした、金髪の男がいた。
勇者に隷属する証だという、青い目。
昔は澄んだ氷のようなものだと思っていたが、今はずいぶんと感情豊かな目をしている。
(かみ、が・・・)
「レソラン、髪、が・・・」
短い髪が不思議で、エヒャは思わず手を伸ばした。
すい、とその前を蝶がよぎった。
ひらひらと漂う蝶は、レソランの肩に止まった。
ぱし、と手首をレソランがつかんだ。
「触れるな。これは、猛毒だ」
もうどく、と繰り返して、なぜレソランがここにいるのか、今がいつなのか、思い出そうとした。
しばらくたって、ばっと手を引けば、レソランはあっさりと手を離した。
「あの、えっと」
「・・・むかし」
とあるところに、と体が重たくて起き上がれずにいれば、レソランはいきなり話を始めた。
「遥か、遠い国。砂塵舞い散るその国には、赤い眼の王がいました」
「えっと、レソラン?」
「彼の王は、すべてを支配した、偉大な王でした」
「えーと」
「彼の王には、不思議な力がありました。天は彼の望みのままに移り、どのような敵も、彼の王を前にすると、剣を治め、ひれ伏すのでした。しかし、ゆえに、彼の王は穏やかであることを強いられておりました」
子守をするかのように、淡々と続けるその物語が、何を語っているのかに気づいて、レソランは口をつぐんだ。
「彼の王の力は、破滅を願えば世界に影響する力でした。だから、彼は愛する妻の死を見て、亡くなった直後、己の眼を取り除いてしまいました」
「それって」
それは、昼間聞いたエスタブリッシュアイに続く話だった。
「彼はそうしてようやく、彼女の死を悲しんだのです」
「レソラン、」
おしまい、と彼はすぐに立ち上がった。
「ほら、これ、今日持ってきた手紙の返事。持ってアベル様のとこに帰れ」
手紙を掛布団の上に置くと、すぐに顔をそらしてしまう。
「レソラン」
「シャオマオは、もうすぐお前を迎えに来るから」
こつ、とレソランが歩き出していってしまう。
だんだんと離れる足音に、エヒャは伸ばしかけた手をあきらめた。
(だって、手を伸ばして、どうなる。レソランは、)
ここではないどこかへ行くために、を教えてくれたのは彼だった。
それを忘れていた。
ここではない、どこかへ。
彼との友情関係がないというのなら、また、作り始めればいいのだ。
それを教えてくれたのも、彼だった。
こつこつ、と離れていく足音に、エヒャはこぶしを握った。
「レソラン!!」
大きな声に、思わずと言ったように足を止めたレソランが振り返った。
片目を包帯で覆った彼は、目を丸くしている。
「あの、また来てもいいですか。ヨハンさんとお話もしたいですし、あの、」
はあーとレソランはため息をついて、顔を覆った。
「好きにしろ」
それだけを言うと、部屋を出ていってしまった。
こつこつ、と歩き去る音が遠ざかる。
けれどその足音は、別れではない。
次が許されている。
ふ、とエヒャは一人で苦笑した。
きっと、また、歩き出すのだろう。
自分にとっての一歩は今日から改めていけばいい。
遠ざかる足音に、自分の眼を覆った。
今度は、ヨハンから赤い眼の王の話を聞こう、と考えながら。
足音は、どこかへ向かう音だ。
ここではない、どこかへ。
今ではないどこかは、いつだって、今より一歩先だ。


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