@kyuri_akita
砂はまるで、静かな侵略者のようだ。
この国にきて、ただある砂という存在の偉大さを思い知る。それはどこにでも入り込み、家屋を壊し、巨大な岩を削るほどの威力を持っている。
気を抜いていればすべてを埋め尽くす。咀嚼するかのように大口を開けながら、静かにそばに寄り添っている。そして今かと今かとその口に入り込むのを待ち構えている。
最後には飲み込もうとしてくるのだ。静かな胎の、その中へ迷い込ませようとする。
その挙句、抱きしめて離さない。
抱擁したまま、深い眠りへと人を導いていく。巨大な両手を広げて、いつでも待っている。
母なる大地とはよく言ったものだ。砂は、柔らかい女の体に似ていた。
ただ、何を言うまでもなく、人が生まれる前に戻るように、人が深い眠りへ落ちるそのときを見ている。
緑のない不毛の地では、常にそんな愛が忍び寄っていた。
ただでさえ重たい愛は、太陽からも注がれている。
日の光さえ人を食らおうとする。青い空から放たれる日差しが、空気までも焼いていた。
その土地の空気に水気はない。口元を布で覆わねば、まるで毒のように熱で肺を痛めた。
だからスルザも、口元に麻の布を巻いて走っていた。
乾燥したこの地では、川辺と水たまり以外、ろくに食物が育ちはしない。それでも人々が豊かに暮らしているのは、国の中央に流れる大きな川のおかげだろう。川沿いには畑が並び、さらにその奥に列を作るように家屋や店が並んでいる。
とはいっても、水はこの川だけにとどまらない。
砂塵が舞うこの国では、年に一度だけ雨が降る季節がある。年の一度の雨季は、大地に緑を思い起こさせた。
忘れていた色を取り戻した景色は、いつ見ても目に毒だ。それほど鮮やかで、一年のほとんどを黄金に輝く砂にまみれている生活との差が激しすぎる。
大地に芽吹くその緑の景色は、人々の命そのものだった。
それがなければ、いくら金があっても生きてはいけない。人とは、うつくしいとほめそやすことだけでは生きてはいけないのだ。
その時期だけ、遥か彼方に置いていた故郷を思い起こすことができた。
だが、その記憶もとうに色あせてしまっている。
はたして見たようだという記憶だけが片隅に引っかかるだけだった。それも長く見慣れた雨季のあとの景色に上塗りされているかもしれない。
「おー、こりゃ珍しい」
きら、と反射する光が視界に入った。
本能的に反応して、思わず顔をそちらに向ける。足を止めたその先に、長い影が見えた。
スルザが立ち止まった大きなグラーツ橋は、馬車さえ通ることができる幅の広い道だ。平民のために作られた橋には、運ぶのも加工するのも大変な木をふんだんに使っている。
この国で希少な木を平民のために大量に使う。
それがこの国の王だった。
この橋は、国の象徴ともいえるものである。
そのグラーツ橋より上流にかかったロッサ橋で、大量の人間が王宮とは反対側に向かって、歩みを進めていた。
金がふんだんに使われた牛車が見える。
鮮やかな布に彩られたその車には、この国の象徴たる人間がいるに違いなかった。
「・・・」
つい、染みついた癖で、膝を折って、顔を伏せそうになった。
だが、この国の民は遠目に王の御幸を眺めるだけだ。足は止めても、顔を伏せはしない。
がやがやとした喧騒に、いつまでも足を止めていては邪魔だと、王たちが向かうのと同じ方向に橋を渡り始めた。
「ねぇ、見て!おおかみのひとだー!」
幼い子供の声に、スルザは思わず細い目を向けてしまった。
反対側に向かうようにすれ違った子を連れた母は、慌てたように子供の上に拳骨を落とした。
「どうも、うちの子供がご無礼を・・・」
母親から頭を下げられるものだから、気にしていないと首を振った。自分にそんなことをする必要はないというのに、この国はそういう部分が相変わらずおかしい。
昼食になる予定だった果実を握らせ、大丈夫だという意思を示してから先へと急ぐ。
「ありゃあ、狼眼のスルザだよ」
背後からそんな声が聞こえ、珍しいのは自分かと、スルザは口元の布を巻きなおした。
黒に近い髪の色と眼が多い中で、スルザの赤い髪は、ひどく人目を引く。
栄養が足りずに大きくなった体は肉付きが悪い。そのためひどく細く、十代にさえ見えることもあった。だから余計に、この国では赤い髪の子どもとして視線を集めてしまう。
だが、十代にしてはその眼が鋭すぎると同僚からは言われていた。
女のようにくりっとした丸い目はしていない。顔だちは、かわいいと言われるものからは程遠かった。子どもに見られるような純真さは欠片もその眼にはない。
これまで歩んできた人生を彷彿とさせるような、鋭い眼をしていた。
まるで、飢えた獣のような。
あるいは、ひと食いのような。
黄色がかった眼はまるで狼のようだと言われ、ついたあだ名が狼眼のスルザだ。狼眼のスルザと言えば、この国ではちょっと名の知れた存在となっている。
スルザとしては、狼でも犬でも何でも構わなかった。なんであろうとすることに変わりはない。
爪と牙の代わりに、持たされた刃を振るうだけ。持ち慣れた刃はスルザの牙であり、爪だ。絶命せよとささやきを告げる、己の体の一部になっている。
少し前まではスルザは別の国にいた。肺を焼くような太陽の熱さもなく、砂塵が吹きすさぶひび割れいる大地も見たことがなかった。
ただ、そこではひたすら何かを殺していた。それがこの国に来てからは少しばかり、変わった。
スルザからしてみれば、それだけのことに過ぎなかった。
それでも息がしやすいかどうかで言えば、この土地で生まれていないスルザには大変に厳しい生活ではあった。
息がつまるような、そんな瞬間は少なくない。
「おーい。スルザー遅いぞ」
神殿の裏門のあたりの日陰で、それぞれ壁に寄りかかっていたり、座り込んでいた男たちの一人が、そうして声をかけてきた。
「お前、頼んでおいて文句つけるんじゃねえよ」
別の男からそう言って肩を叩かれ、すまん、と謝られて、スルザは首を傾げた。
文句を言われたところで拳が飛んでくるわけでもない。なので、スルザは小走りで近寄った。
ん、と買って来たばかりの昼食を差し出せば、男たちはわーい、と子供のように次々にカッチャを麻の袋からとっていった。
カッチャとは、焼いた硬いパンに、香草と味のついた煮込み肉を挟んだものである。大体の食事は、小麦がとれるので、この国ではパンだった。カッチャは、その辺の路端の店でも売っている。別段珍しいものでもない。
ただ、川から離れたオアシスに居を構える月の神殿では、周りにもそこそこの家と店があるものの、美味しいカッチャは売っていなかった。カッチャは、甘辛く煮つけた肉の味で店ごとにかなり味が違う。そのため、単純ゆえに、うまいまずいがはっきりとするものだった。
月の神殿の外壁の警備をするスルザたちの班のお気に入りは、王宮側の川沿いにある露店のカッチャだ。
そのため、班の中で一番足の速いスルザが昼食を買いに行く係である。
「お前ら、ちゃんとスルザに感謝して食えよ!」
班長のゴーランは、一番最後に昼食をとりに来て、そう言った。
その怒号のような声に、はーい、と明るく反応して見せる兵たちが、本当に成人した男なのかと、スルザはいつもあやしく思う。
ゴーランは班の中でも群を抜いて背が高かった。隆々とした筋肉のついた腕は、まるで丸太のように太い。
吹き飛ばされたらひとたまりもないだろうな、とスルザはいつも場違いに思っている。
「ありがとうな、スルザ」
そう言ってひげを蓄えた大きな男は、いつもスルザの頭をなでていく。
そのたびに頭を握りつぶされそうだ、と体を固くした。スルザがそういう反応をするとわかっているからなのか、ゴーランはいつもすぐに手を離す。
「スルザ、そろそろお歌の時間だが、お前、飯は?」
いかにも男らしいゴーランから語られる『お歌』という単語に、背後で何人かが、ぶは、と吹き出した。
何度聞いてもそうして笑うので、一種の儀式かなのかだろうとスルザは勝手に思っている。
「食った」
そう言えば、ほんとうかあ~?とゴーランより先に仲間たちがわめきたてる。いつものやり取りに面倒くさがって、スルザは顔を背けた。
「お前、絶対足りてないんだよ」「そうそう。だからそんな細いんだぞ」「もっと食え!」「俺の分わけてやろうか?」
やいのやいの言う部下たちを、うるせえ!とゴーランが一喝する。
「俺の分をやるから黙ってろ!」
そうじゃない、と思いつつも、スルザは口を開かなかった。
ほら、と差し出されて、今日こそは、と首を振った。
「いらない」
「なんでだ。班長命令だぞ」
「俺は、今日は午後休みだ。もう食ったし、いらない」
そ、そうか、と納得しそうなゴーランだったが。
「班長、負けてる!」「絶対スルザの嘘だぞ!」「もっと食わせろ!」「押せー!」
と、背後から飛んできたヤジに、はっとしたように、ゴーランがカッチャを差し出した。
口元を覆っていた麻の布をどけて、余計なヤジを飛ばす同僚をにらみつける。
そうした瞬間に、みんなして視線をそらした。
そしてこちらにも聞こえるようにわざとらしく。
「おーこわ」「狼眼がにらんでるぜ」「あれ、絶対食ってないよな」「やっぱり嘘だぜ、嘘」
あいつら、いい加減切り刻んでやろうか、とスルザが殺気を滲ませ始めたとき。
「――――、」
ふいに、声が聞こえた。
神殿の中から聞こえてきた声に、みんなして背後の巨大な建物を見やる。
「・・・スルザ、これ食べてから休みに入れ。よく考えたら俺、嫁が弁当届けてくれるんだった」
ゴーランは、結局そう言って、スルザにカッチャを差し出した。
そう言われては仕方ないので、大きな葉に包まれたカッチャを受け取る。
背後でお互いに手を叩いて喜び合う同僚はいつか切り刻むと誓いながら。
「今日も太陽の君は楽しそうで何よりだな」
同僚の一人の苦笑に、こんなことをしている場合ではない、とスルザは走る姿勢をとった。神殿の周りをぐるりと囲む外壁のそばまでスルザは走りよる。勢いをつけてそのまま飛び上がって壁を駆け上がった。
曲芸のようだ、と言われた離れ技だが、スルザとてこの国に来るまでこんなことはしたことがなかった。
おおー、と感心するような同僚の声は放っておいて、スルザは外壁の上にたどり着く。そして壁の上に腰掛けると、特等席でその漏れ聞こえてくる歌に耳を澄ませた。
「相変わらず変な歌だなあ」
そう言って、同僚の一人が和やかに笑う。
スルザはこの国の出身ではないので、この詩の意味するところがよくわからない。だが、同僚によると、この国で歌うための詩は、独自の表現を用いて作るものらしい。
ようはなまりのような、言い換えれば意味を拾えるが、この国のものではないとわからないものになっているらしかった。歌手という職業ももちろんあるが、きちんとした詩を作れるようになるためには、それ相応の勉強が必要らしい。つまり、この国の歌手とは教養がなくてはつけない職業だった。
この神殿には、王の一族が住んでいる。
だから相当の教養を持った人物がこの詩をうたっているはずなのだ。
実際、兵士たちの間でもこの詩を聞きたいがために門の警備をするものだっている。
それほどに、この詩をうたっている人物はうまいし、才能がある。
だというのに、この『太陽の君』は。
「おっ今日は『太陽がいやんなっちゃうね、枯れ井戸編』だ」
同僚が勝手につけたタイトル通り、変な詩ばかり歌うのだ。
同僚たち曰く、太陽が熱くていやになるとか、なのに夜は寒いとか、そういう愚痴のようなものを詩にして歌っているらしい。
主に太陽がいやだという歌が多いので、誰だか知らないが、勝手に兵士の間では『太陽の君』と呼んでいる。
「ああ、良い声だなあ」
内容は変だが、良い声だし、純粋にうまい。
スルザは毎日、決まった時間に流れてくるこの詩を聞くために、昼の買い出し係を引き受けていた。
雑用をする代わりに、この詩の時だけはこうして外壁の上で聞いていいと班長から許可をいただいたのだ。
顔も知らない。
名前も知らない。
だが、聞こえてくる声だけは、よく知っていた。
内容は、スルザのように外国から来たものにはわからない。けれど、同じ国の民である同僚は皆、この詩を聞いて穏やかに笑う。この詩が流れてくるだけで、みんな笑うし、明るくなった。
敵の侵入を拒む外壁の上からそんな景色を眺めることができる。
そうする力のある歌は、見たことがない。
この詩を聞いている間だけ、スルザはつかの間、自分のことを忘れてしまうことができた。
この土地の厳しさも、この詩を聞いている間は、まるでそんなものがなかったかのようにさえ錯覚する。
青い空が見たこともないような色にさえ見える時もあった。
そうした不思議な時間を与えてくれる詩は、唯一の安穏だと言ってもよかった。
がば、と大口を開いてカッチャをほおばる。もぐ、と咀嚼しながら、ぼんやりと歌を聞いていれば、今日はなぜか早めに歌が終わってしまった。
きゃーという子供の声が聞こえたので、子どもに邪魔されたのかもしれない。
カッチャを食べきるまで待ってみたが、今日の歌はこれで終わりのようだった。
一日のうちの穏やかな時間は短い。スルザは外壁から飛び降りると、同僚に頭だけ下げて、門から離れようとした。
「また明日もあるって!残念だったな、今日は」
同僚にそう声をかけられて、べつに、とスルザは顔を背けた。
「今日はきっと、王が来たから」
だから忙しないのだろう、と言外に告げると、なぬ?とゴーランが片眉を上げる。
「聞いてないぞ」
「カッチャを買いに行った時に見た」
素直に報告すれば、ゴーランは口を開けて呆けた。
「・・・」
だん、とゴーランが地団太を踏む。ぎり、と眉を吊り上げて顔をゆがめているあたり、王の予期せぬ来訪に、怒りを抱いているに違いなかった。
「あの王め~なぜいっつも事前に知らせるということをしない!伝令を!走らせるだけだろうがあ!!」
警備を厳重にせねばならんのにーと叫ぶゴーランを放って、スルザは宿舎への道を歩き出した。
スルザは剣の腕を買われて、王の一族の住む月の神殿の警備をしている。王の一族が住んでいるだけに、警備をするものは生まれや育ちにかかわらず、ただ『強いもの』だけを集めた集団だった。
それぞれの特技は異なるものの、王が自ら使える、と判断したものが月の神殿の警備に選ばれる。
スルザはもともと、遥か遠く、東の国から献上品の一つとして捧げられたものだった。ただ、多くの献上品は見た目の珍しさや一芸を持つものが選ばれる。
そんな中、スルザは赤い髪が珍しいから、眼が金の色で狼のようで珍しいから、という理由で献上品になったのではない。
ただ、人より強かったから。
どんな敵も、殺してきたから。
自分の倍以上の体躯の持ち主でも、歴戦を勝ち抜いた戦士であっても、スルザは戦って、勝ち抜いた。
その点で、選ばれていた。
祖国では、ひたすら戦っていた。
殺し合いをしない日などなかった。
ざかざかとひび割れた大地を踏みしめながら、かつての生活を振り返る。
相手を殺すこと。
その毎日が、スルザの生きることだった。
剣闘士、という種類の奴隷だ。そのため、来る日も来る日も、闘技場という箱庭で、自分の眼の前に立っていたものを殺し続けた。
闘技場とは、金持ちたちの暇つぶしのための施設だ。奴隷を剣闘士と言い換えて、強い奴隷同士を戦わせて楽しむものだ。どっちが勝つかなどの賭けも行われていた。なので、ただの見世物に等しい。
小枝のようなスルザが、倍も身長のある男を動けなくする。
それは大層観衆の眼を楽しませるものであったらしい。耳をつんざくような歓声がいつも沸き起こっていた。
血が流れ、肉が抉れ、人の目から光が失われる。
それが絶命の瞬間だ。
それを見て大きな声を上げる人間たちは、自分とは違うのだとスルザは思っていた。
スルザは奴隷で、人間ではない。だから、人が絶命する瞬間が楽しくなくても仕方ない。
そんなことを思いながら、ずっと戦っていた。
スルザは負傷することはあっても、負けることはなかった。目元から眉間にかけてある大きな傷跡は、跡こそ残っているものの、大したケガではなかった。
ただ、そのときの対戦相手が、死ぬ間際。
『あわレ、だナ』
カタコトで、そう言ったことだけ覚えている。
顔も覚えていない。ただ、不思議な髪と眼をしていたので、異国から連れてこられた奴隷だろうと思った。
相手がつけた傷は、派手に血があふれた。
傷は跡になるだろうと言われた。
だが、スルザは何食わぬ顔で生き延びたし、次の日も戦った。
それは繰り返しの中の一コマだった。
それより前も、そのあとも、スルザは戦い続けた。
言葉の意味を問う時間はなく、ただ生きることだけに専念していた。
そしてスルザは死なずに、生き続けた。
それは相手をその分傷つけて、殺して、勝ってきたことと同義だった。
それが、よくなかったのだろう。
勝ち続けたことが。
生きながらえたことが。
殺し続けたことが。
あまり、よくは、なかった。
強すぎて、出れば絶対に勝つスルザがいることで、賭けが成立しなくなってしまった。
だから持ち主の男はスルザが厄介になったのだ。
おまえを、他国に献上することになった、と言われた日。
なるほど、この男を見るのはこれで最後になるのかと思ったとき。
なぜかわからなかった。
だが、『お前を良いように扱った男が許せない』と、頭の中で声がささやいた。
『許せない』
『憎い』
『俺は、おまえをあいしたかった』
一体だれの言葉か、理解もできぬまま。
それはぎりぎりまで水が注がれた杯に、ぽたりと一滴、雫が落ちたように。
唐突に理解できないものに飲み込まれた。
『憎い』
『愛したい』
『こんなことを、させたくない』
そうした濁流のような言葉が、スルザを支配した。
息さえままならぬような、洪水だ。
息苦しくて仕方なくて、うるさくて、ただ、静寂がほしくて。
『殺したい』
スルザは、主人の首をはねた。
『愛したい』
その言葉を最後に、スルザに静寂が訪れた。
ああ、これでよかったのだと、スルザは勝手に納得した。
まさかスルザに殺されるとは思ってもいなかったのだろう。その顔は驚いたままで絶命していた。
ぽたぽたと滴る生暖かい体液の感触に、スルザはどんどん冷静になっていった。
(ああ、おれは、ころされるのだろうか)
そう思った。
主人だった男を殺した後、部屋に女が来た。女は、部屋の惨状を見たあと、ゆっくりと顔をゆがめた。
そしてあはは!と高らかに笑った。
ざまあみろ、いい気味だわ!そう高らかに笑って、やわらかな体をした女はスルザを抱きしめた。血みどろだったので、汚れると警告したが、女は聞かずに頭をなで続けていた。
彼女は、主人の正妻だったらしい。子どももいたというのに、主人に家を潰され、しつこく言われて仕方なく嫁いできた。だが、愛人だらけの夫がたまらなく嫌だったらしい。おまけに、前の夫との子供は、奴隷にされて狼の餌にされてしまったとまくしたてるように語った。
そうか、としか答えられなかった。
ありがとう、よくやったと言われて、褒めてもらった。
そしてずっと私と暮らそうとも言われた。
私の従者になればいい。こんなところにいる必要はないのだから、一緒に行こう。
と、ここではないどこかを見るような顔で微笑まれた。
女はとうに気を違えていた。
スルザが献上されることはすでに決まっていて、どうしようもないことだった。
どう女が言いつくろったところで、スルザはこの国から去らねばならなかった。
故郷を出る前に、気を違えた女の復讐を成し遂げた。そして意図せず褒めてもらった。それだけが、国を出る前の思い出だ。
主人を殺してから、スルザがこの国に来たのはあっという間だった。
普通、奴隷が主人殺しを行った場合、処刑になる。それは奴隷がする中で一番重罪だ。その家の奴隷がみな拷問された末に処刑される。
だが、スルザはこうして生きている。
何もかも時期が良かったとしか言いようがない。
あのとき、闘技場からスルザを引退させるには『主人殺し』がとても良い理由だった。そう闘技場の関係者にも直接言われたほどだ。
ただ、本当に処刑せずに、他国の献上品へとしたのは、スルザが強すぎたからだろう。
「・・・強い、というか」
静かに宿舎の自分の部屋に入る。そうして、自分の祖国でよくつかわれる大ぶりな曲刀を二本、腰の後ろに下げた。
皮でできた水袋を肩にかけて、部屋を出る。
「死にたくないだけだ」
ぽつりとつぶやいて、宿舎から出る。
初めは死にたくないだけだった。強さも何もいらなかった。
気が付けば人から強いと言われるほどになっていただけだ。
強すぎて、処刑もできないと言われた。お前を拘束するにも抵抗されたら骨が折れる。だから、おとなしく献上されてくれ。
主人の代わりにそう言われた。
頷いたのは、それ以外にスルザがどうすればいいのかわからなかったからだ。
ただ、国を出る前。
気の狂った女が少し気になった。
しかし、主人を殺してしまったスルザにできることなどない。
おとなしく、はい、と頷いて、国を出た。
首と足と手に鉄の拘束をされた。
その状態なら殺せるのでは、と思ったが、よく考えたらスルザは素手での殴り合いも経験して勝っているのだった。
そして長い長い旅路の末に。
スルザは黄金の砂の国へとやってきた。
(こうして、砂を歩いたっけな)
人気がない砂丘を踏みしめて、その頂上を目指す。
砂の上は歩きにくく、初めは苦戦したものだった。
だが、慣れればどうということはない。
そうしてじりじりと鉄に手首や足を焼かれそうになりながら、生き延びて、赤い眼の王に献上された。
使者から贈り物としてきたスルザを見て、王の隣にいた王妃は同情的な顔をしていた。
王はただ、珍しそうにスルザを眺めていた。
すぐに足や首につけられた鉄の拘束具を外させて、頬杖をついたまま。
「そなた、余のために何ができる?」
そう問うた。
おかしな王だと思った。
スルザは奴隷だ。壁や置物相手に、何ができる、と問う必要があるのだろうか。もとから役目が決まっているもの相手に、問いかけをして何になるのかと思いながら、素直に答えた。
スルザは、問われれば何が何でも答えなければならない。たとえ主人が満足しない答えで殴られても、それは仕方がないことなのだ。
「あんたのために死ねる」
それはただ、奴隷がそうであるから答えただけだった。
奴隷は主人に殺されるし、主人のために死ねる。そういう生き物だった。
どれだけ生きたいと願っても、どれだけ死にたくないと思っていても、奴隷は簡単に死ぬ。そういう生き物だ。
ただ、生まれが悪かっただけのこと。
答えを聞いた王は、うーむ、と悩むように天井を見上げた。
「そなた、強いのか」
問われて、はいと答えられるかどうか、スルザはわからなかった。
だから返す代わりに、首を傾げた。
「ええ、もちろん。このものは、我が国の闘技場で無敗を誇ったものゆえ!」
その答えに焦ったように、使者がそう答えた。
他のものが答えるならそうなのだろうな、と考えて、スルザは黙った。
「・・・王はそこの者に聞いている。口を慎め」
そばに控えていた男がそう言って使者をいさめた。
ぴん、と空気が張り詰めたような気がした。
それは戦う前の、静寂に似ている。
「王の問いに答えよ、狼眼」
狼眼とは自分のことかと、男を見やって、王を見た。
玉座に腰掛けた、肌の焼けた勇ましい顔をした男は、なぜかにやにやと面白そうに笑っている。
「・・・さあ」
王は、く、と喉を震わせた。片目を眇めて、玉座に腰掛けた貴人は笑った。
細めた眼の間から見た眼は、まるで血のような色をしていた。
それは、命の色だ。それを失えば、何人とて生きながらえることはできないもの。
そんな眼の色をした王は、そばに控えていた青年に、何かを耳打ちした。
青年の黄色がかった薄緑の目は、水晶に入り込んだ異物のようだった。硬質で、すべてを拒絶するような金属光沢のような色をしている。
袖の長い服を着ている見慣れない容貌は、噂に聞く魔術師のようだと、スルザは思った。
「なあ、ちょっとあいつと戦って」
「はあ?なんであんたいきなり無茶振りするんですか、いやですよ。初対面で見知らぬ人のために死ねるとかいうひと」
「えー面白いぞ。絶対」
「やばいのを面白いって言いかえればなんとなると思ってませんか」
何をやり取りしていたのか、王は少女のように口の先をとがらせ、使者と王の間に立っていた男に視線を送った。
男は頷いた後、スルザに剣を放り投げて、衛兵を呼んだ。
そして、強さを示せ、と言って、戦わせてみせたのだった。
「・・・べつに、剣なんていらなかったよなあ」
その時を思い出し、砂丘の上から黄金の大地を見下ろす。
人を殺すのに剣はいらない。素手で十分だ。
その時の王の驚いた顔と、青年の目を見張った顔は今でも話題に上る。
ゴーラン曰く、あそこまで強いとは思わなかった、そうだ。
強いのではないと、今でもスルザは思う。
ゴーランや同僚は、人を殺さずに捕まえることができる。だが、スルザはあまりにも人を殺しすぎているから、殺さずに済む方法が分からない。
それは純粋に強いのではないと思う。
ただ、スルザは殺し慣れているだけ。
何がどう違うのかと言われるとうまく説明できないのだが、ともかく、違うとスルザは断言できる。
この国では、いらない力だ。
「・・・俺は」
見下ろした砂の大地の空間がぐにゃりと歪んだ。
晴れた空の下での空間の歪みは、蜃気楼のようにゆらりと揺らめいている。ともすれば、眼が錯覚しただけのようだ。
びゅお、と音を立てて風が走り抜けた。強い風にスルザが目をつぶった次の瞬間、おおお、と咆哮が響いた。
ゆっくりと眼を開き、黄色い双眸で見下ろせば、そこには異形の怪物がいる。
顔は豚のようだが、きつねのように鼻が長い。巨大な体は人のものだが、その肌は醜い黒い色をしている。ぼろを纏っているのを見るたび、こいつらにも文明のようなものがあるのだろうか、とスルザはどうでもいいことを考える。
ぎしり、と顔が軋むのがわかった。
顔がこわばるようなその表情がなんというのか、スルザは知らない。
「あの闘技場から、抜け出せないんだ」
長い砂の上を歩いてきた。
不毛な地の国は、どれほど重たい愛でも受け入れるおおらかなところだった。
スルザだけが、その国の民ではない。
相変わらず戦い続ける奴隷だ。
戦いを覚えってしまった犬は、戦い続けるしかない。
スルザは人間ではない。奴隷で、闘犬のようなものだった。
この国は、善き王がいる。だから他国に攻め込まれることもなく、たとえどれだけの戦力があっても使わずにいられる。そんな国だ。
人々は穏やかに笑いあう。争いも狂騒もない平和な国だ。
良い国だ。
スルザだってそう思う。
だが、記憶のはじめは殺し合い。そんな半生を経てきたスルザが、こんな平和な国で、きちんと呼吸できるはずもない。
すう、と音もなく腰に下げた曲刀を抜く。
来たはじめ、何もすることがなくて、スルザはどうすればいいのかわからなかった。殺し合いと戦いは経験しても、スルザは警備などという、誰かを守ることはしたことがない。
ひどく、息をするのが苦しい国だと思った。
だが、それは自分が人間でなく、奴隷だからなのだろうとスルザは思った。
誰も殺意を向けてこない。
誰も嘲らない。
そんな中で、ぽつりと立っているのは、まるでスルザが使えないと言われているようで。
ひどく、所在がなかった。
何をすればいいのかと、迷った挙句。
『お前、神殿先のイーゲラ砂丘から先にはいくなよ』
同僚が親切心で言った言葉に、なぜ、と返し。
『あそこはなんだかよくわからんが、魔物が大量に出るんだ。攻め込んできたときには討伐するが、基本的には危ないから近寄るな』
その言葉を踏みにじった。
おおお、と咆哮を上げるだけの魔物に、狙いを定める。
スルザはぎしぎしと顔が軋むのを止められぬまま、その魔物に向かって走りだした。
祖国のあの闘技場のように、スルザは相手を殺すために走り寄る。
そうしなければ、何もない平和な国では、スルザは息がつまって仕方ない。
(結局、俺は、あそこから抜け出せていない)
その事実にぎり、と歯をかみしめて、スルザは曲刀を振るった。