@ayame0601s
まどろみの中で、何度も甘い疼きに襲われた。
ふっと意識が浮上するも頭はぼんやりとして、自分がどこにいるのか、どういう状態にいるのか、理解が追い付いていなかった。
そんな中、かろうじて分かるのは、うつ伏せに寝ている布団の柔らかさと、背中に感じる重み。私の手首に添えられた、骨張った大きな手が視界に映る。
うなじの髪を避けられ、後ろから唇を落とされる感覚に、身体が震えた。走る甘い痺れに、自然と吐息が漏れる。
肌に触れる唇の動きは、やけに官能的で、理性の働いてない頭はもっと先へと望んでいた。
首筋に、彼の唇が這う。歯を軽く立てられ、まるで食むように口付けられれば、身体は身悶え、じわじわと熱が体内に籠っていく。時折聞こえる、彼の息遣いは艶かしい。
けれど、彼は決してそこから先へ進もうとしなかった。
彼──彼?
彼が誰かも分からず、ただ快楽に呑まれる中、眠りにつくように意識が沈むのを感じた。
再び目が覚めた時、外はだいぶ白んでいた。
窓から入り込む陽の光に、開けた目を思わず細める。
ここは、どこなのだろう。
白い壁に黒い家具で統一されたモノトーンの部屋は、シックな雰囲気を醸し出している。
覚醒していく脳に、視覚からの情報がだんだんと明白になっていった。明らかに、いつも見慣れている自室ではない。
のそりと体を起こそうとするも、急激に頭から血の気が引く感覚。耐えきれず、再びベッドに倒れ込んだ。
視界が揺れ、目の前が暗くなる。動悸まで起こり始め、どうしようもなく不安に駆られた。異変を訴える体に、恐怖を感じ始める。
落ち着かせようと必死に息を吸い、どうしてこうなっているのか考えた時、ふと頭を過るのは、彼の事だった。
彼……膝丸は、大丈夫なのだろうか。
昨夜の事を思い起こす。止めどなく血が流れ、流れ落ちては蒸発して消えていくその様子は、まるで彼の命そのものを見ているかのようだった。
彼の命が消え行く様を、視覚的に捉えているような。
その様子を見て、居ても立ってもいられず、思わず行動してしまったけれど……膝丸は大丈夫だったのだろうか。
動悸が治まりつつある中、そっと、静かに辺りを見回した。
そうか、どうやら此処は彼の部屋らしい。けれど、肝心な部屋の主がいない。バンパイアの死体は残らないと、髭切は言っていた。
まさか……まさか、彼は灰となって消えてしまったのでは──。
先ほどの動悸とは、別の胸騒ぎを感じていた時だった。
ドアノブの音と共に、部屋の扉が開く。
「目が覚めたか」
現れたのは、他でもない膝丸だった。
黒のジャージに身を包む彼は、昨日の瀕死状態が嘘だったかのように、至って普通に見える。
その姿を見て、ほっと胸を撫で下ろした。膝丸さん、そう呼ぼうとした声は掠れ、ほとんど音を成していない。
せめて起き上がろうと、体を起こそうとすれば、彼から制止の言葉がかかった。
「いい。無理をするな。まだ本調子には程遠いだろう」
そう言いながら近づく彼の手には、お盆が添えられている。横になったまま、彼を目で追った。
お盆に乗っている器から、立ち上る湯気。ふと、いい香りが鼻を掠める。
膝丸は私の近くまで来ると、ベッドに腰かけた。私の足元に座る彼から、軋みが伝わる。
膝の上にお盆を起き、揺らめく湯気を見つめるように視線を落とすと、彼はそのまま黙りこんでしまった。
「あの……具合は、大丈夫ですか?」
たまらず、声をかける。
膝丸は横目で私を見るも、視線が交わったのはほんの一瞬だけだった。
彼はすぐに目線をお盆に戻すと、「ああ」と返事を口にする。
「お陰さまで、この通りだ」
「そうですか。それは良かったです」
「君は……大丈夫か」
その言葉に、思わず目を丸くしてしまった。私を気遣うような言葉を、彼からかけられるなんて。
呆気にとられ、つい口をつぐんだ。そこに沈黙が生まれる。
まさか、私の体調を気にかけてくれるとは、思ってもみなかった。
私からの返答がないからだろう。膝丸は、怪訝そうな視線をこちらへ向けた。
「あ……私は……私も、大丈夫です」
彼の視線に口ごもりながら返事をすれば、そうか、と一言だけ返ってきた。
その一言を境に、再び沈黙が降り、なんとも気まずい雰囲気が漂う。
ふと、彼の持つお盆に目を向けた。
お盆の上には、ご飯とお味噌汁と、おかずが一品。お箸は一膳。
さっき視界に入れた時は何とも思わなかったけれど、よく考えてみれば、彼は人間の食べ物を好まないのだ。
そんな彼が、人間の食事を手に持っている。
それが意味している事が分からないほど、鈍感では無かった。
「膝丸さん」
「君は」
言葉が被る。お互いの声が重なった途端、彼は弾かれたように私を見た。
驚いた顔の膝丸と目が合う。しかしそれもまた微かな間だけで、彼は気まずそうに視線を横へずらした。
「あー、なんだ」
「いえ、あの……なんでしょうか」
「……君は、今何か食べられるか?」
視線を逸らしたまま、私に問う。その質問に、私が感じた事は思い違いではなかったのだと――彼の持つその食事は私のためのものだったのだと、そう思うと嬉しさが込み上げてきた。
今まで冷たく、迷惑な事を包み隠さない視線と態度を、幾度となく向けられてきた反動かもしれない。
想像もした事すらない状況に、面食らってしまった。しかし同時に胸が締め付けられ、こみ上げる嬉しさを抑えるように、グッとそれを呑み込む。この感情を表に出してしまうと、また睨まれそうだからだ。
目眩を起こさないように、ゆっくり起き上がる。それでもフッと目の前が暗くなりかけ、咄嗟に目を瞑って、それに耐えた。
今回は倒れ込むまでいかずにすみ、ゆっくり目を開ければ、膝丸の、どこか心配そうに歪んだ顔が視界に入った。
「大丈夫か?」
「え? あ……はい、大丈夫、です」
先程から、何ともしどろもどろな返事ばかりだと、答えながら思う。
けれど、しょうがない事だった。彼の行動や出てくる言葉は、予想もしていないものばかりなのだから。
「ええと、それ、私に?」
「無理に食べなくてもいいが」
ふい、と顔をそむけ、素っ気ない声色で返事が返ってくる。けれど、いつものような冷たさはない。
「頂きます。ありがとうございます。膝丸さんが作ってくれたんですか?」
「ああ。……、……貧血には肝臓がいいと、書いてあった」
間を置いた後、独り言のように呟かれた言葉に、理解が遅れた。
肝臓? そう思いながら、お盆を見る。
器に盛られていたのは、レバーとほうれん草の炒め物だった。
理解した途端、思わず頬が緩む。彼は、貧血に良い食べ物をわざわざ調べて、作ってくれたのだろう。
胸に広がる温かい気持ちは、もう隠しきれなかった。
「ありがとうございます」と、もう一度お礼を言えば、「君が死ねば兄者に咎められるからな」とぶっきらぼうな返事が返ってきた。けれど、それすらどこか可愛げに見えるから不思議だ。
「ひとつ、聞いてもいいか」
彼の口から、言葉がぽつりと零れ落ちる。心なしか神妙に聞こえ、姿勢を正して頷いた。
「はい。なんでしょうか」
「何故、俺を助けた」
膝丸は、依然として私と視線を合わせない。視線は、お盆に落としたままだった。
「君は、俺の事が嫌いだろう。それなのに何故、危険を承知で血を与えたんだ」
何故……そう問われても、すぐに答えられなかった。何故なのか、自分でもはっきりしていないのだから。
私は、この状況から逃げ出したかったはずだ。あのまま膝丸が死んでしまえば、髭切のいない今、逃げ出す事が出来たかもしれない。
けれど、逃げ出したところですぐ捕まるかもしれない。そうなったら膝丸を見捨てた代わりに、髭切に殺されるかもしれない。それを恐れて、私は膝丸を助ける選択をしたのだろうか。
あの時、そんな思いが、少しでも頭を過っただろうか。
答えは、否だった。そんな事を考えている余裕など、あの時の私には無かったのだから。
「見捨てられるほど、憎んでいる訳じゃないから……だと、思います」
膝丸は、ゆっくりこちらを見やる。
若干眉を寄せたその表情に、反射的に緊張する。しかし彼は、決して睨んでいる訳ではなかった。
端から全てを疑っている訳ではないけれど、私の真意を見極めるような瞳だった。
「膝丸さんこそ、私の事が嫌いなんじゃないんですか?」
彼の視線に居たたまれず、質問を返す。
私の事が嫌いな筈なのに、こうして心配をして、気遣いまでしてくれる。それは、彼も私と似たような心境なのではないだろうか。
私の質問に、膝丸は目を伏せる。
何かを考えているように──まるで遠い昔へ思いを馳せているかのように間を置いた後、そうだな、と呟いた。
「俺は君が嫌いだ。……君が、」
顔を上げた彼と、視線がかち合う。
その目は、いつもの咎めるような鋭いものでなく、真っ直ぐと私を見据えるものだった。
「君が、人間である限りは」
*
膝丸の手料理は、髭切の作ったものに劣らぬ美味しさだった。
人間の餌に興味はない、と言っていた癖に、しっかりとポイントを押さえてくるものだから、なんとなく腑に落ちないものがある。
朝からレバーの炒め物とは、随分と重たいなと思いつつも、一度口に入れてしまえば箸が止まらなかった。それほど、彼の作ったものは美味しかった。やはり、長年生きているが故に、何でもそつなくこなしてしまうのだろうか。
食事の後は、さすがに彼の部屋に長居は出来ないと思い、自室に戻った。いきなり貧血が治る訳もなく、フラフラとベッドへ辿り着くと、そのまま潜り込む。
ベッドに横たわり、先程の会話を思い出した。
あの膝丸が、私を心配してくれるなんて。血を提供した事への義理だとしても、わざわざ料理まで用意してくれるなんて。
膝丸といい、髭切といい、彼らへ抱く感情が、明らかに最初とは異なりつつある。
彼らは、恐怖の対象なはずなのに……私とは相容れぬ存在なはず、なのに。
私が人間だから、膝丸は私を嫌いだと言った。
私は人間で、彼らはバンパイアで。
思わず忘れてしまいそうになる。彼らに、つい心を開いてしまいそうになる。
それは過ちに他ならない事なのだと、そう言い聞かせるように瞼を閉じた。
次に目が覚めた時、部屋は朱色に染まっていた。窓から夕陽が射し込み、夕方になってしまったのかと、寝起き一番の頭でぼんやり思う。
あれからぐっすり眠ったせいか、体調は朝よりも幾分回復しているように感じた。ゆっくり起き上がっても、倒れるほどの目眩は感じない。
喉はカラカラに渇いていたため、潤そうと一階に降りる。何故か膝丸は自室に居ると思い込んでいたため、何も身構える事なく、居間へと向かった。
階段を下り、開け放たれた扉を見て、思わず足を止める。
部屋から、電気の明かりと、テレビの音が漏れていた。
この時やっと、無防備だった体が緊張し始めた。どうやら、膝丸が居るらしい。
そう思うと、反射的に彼を避けたくなった。喉の渇きをどうするか、悩み始める。けれど脱水は貧血に悪いと、半ば言い聞かせるように足を踏み出した。
室内をそっと覗きこめば、膝丸は定位置のソファーに座っていた。片膝を立て、そこに手を置く形で座っている彼は、テレビ画面をじっと眺めている。
そんな彼は、私の視線に気づいたようで、ふとこちらへ顔を向けた。
視線が交わった途端、体に緊張が走るのは、もはや反射として染み付いてしまったものだろう。
「おはよう、ございます」
「……ああ」
挨拶を一言だけ交わすと、彼はすぐにテレビへと視線を戻した。いつも通りだ。いや、いつもより前進しているのかもしれない。一言だけでも返してくれたのだから。
もう夕方なのだから、おはようございますは間違えたな。そう内心で己につっこみながら、冷蔵庫に向かう。
水を一口飲んだだけで、体に染み渡っていく様子が実感できるようだった。思っていた以上に、全身が脱水しきっていたらしい。
私が水分補給をしている間も、コップを洗っている間も、膝丸はずっとテレビを見ていた。一言も交わそうとせず、結局、私が部屋の扉に向かうまでこちらを振り向かなかった。
いきなり変わるわけもないか。そう思いながら部屋から出ようとすれば、ガチャリと玄関が音を立てる。誘われるまま、視線を向けた。
少々、乱暴に開けられた扉。
そこから現れたのは、髭切だった。
髭切は私と視線が合うと、その目を見開く。息は弾み、肩が上下している。その様子は、いつもの冷静沈着な彼からは、あまり想像できないものだった。
そんな彼に唖然とし、立ち竦む。髭切から焦りの色が滲んでいる。彼は靴を脱ぐと、足早に私へと近づいた。
「あ、おかえりなさ……」
言い終える前に、口をつぐんだ。彼の手が、私の頬へ伸びてきたからだ。
目の前に来た髭切は、何も言わずに頬へ触れる。
ひやりとした冷気が、彼の手のひらから伝わった。思わず硬直する。
口を閉ざし、微かに眉を寄せた彼はどことなく真剣な面持ちで、何も言う事が出来ない。
髭切は私の下まぶたに親指を添えると、そっと下へ押し下げる。それを確認した後、首元へと視線を落とした彼は、目を細めた。
「血が少ないね」
それだけ言うと「弟は?」と続け、髭切は私から離れた。そのまま居間を覗きこむ。
彼の動きを追うように視線を動かせば、ソファーからこちらを窺う膝丸が視界に入った。
膝丸も私と同様、呆気に取られた顔をしている。
「兄者……早かったな」
目を丸くしながら膝丸は言った。髭切がどことなく急いでいる様子からも、予定より早めの帰宅なのだろう。
髭切は、膝丸の元へと足を進めた。ソファーに座る彼を見下ろすと、一度深く呼吸し、口を開く。
「お前、傷は?」
「傷……は、問題ない」
「相当深かったはずだ。僕にも伝わってきたのだから」
で、どこ? そう続ける髭切の声は、有無を言わさないものだった。
髭切はこちらに背を向けているため、彼の表情は分からない。けれどその声色は、鬼気迫るものを感じる。
膝丸はゆっくり立ち上がると、シャツをたくし上げた。
見てはいけない気がして目を逸らそうとするも、視界に飛び込んだものに、視線をそのまま留める。
彼の脇腹には、深く切り裂かれたような、大きな傷痕が生々しく残っていた。
「……傷、全く治っていないじゃないか」
髭切がぼそりと呟く。膝丸は、どこか罰が悪そうに視線を落とした。
「つい、油断してしまった」
「それ、銀製のナイフか何かだろう? 誰にやられたんだい」
「……」
「例のカルト集団?」
「……いや」
「なら、誰」
膝丸は沈黙する。しばらく考え込むようにしていた彼は、ちらりとこちらに顔を向けた。
合った視線は意味深なもので、不安のようなものが胸に兆す。
膝丸がこちらを見たため、髭切も肩越しに私へ視線を寄越した。横目で見られたそれは、いつもより鋭く、背筋が凍る。
「……以前会った人間だ。彼女と一緒にいた、あの男」
膝丸のその言葉に、血の気が引いた。
私と一緒にいた、あの男。
思い当たるのは、一人しかいない。
鶴丸の、別れ際に見せた何かを言いたげなあの表情が、ふと脳裏を過った。