@toasdm
桜庭さん、と呼ばれて自然に返事ができるようになって随分経ったな、と書類にサインをしながら彼女は思う。桜庭姓になりたての頃は、つい旧姓の一画目を書いてしまってうまくごまかしたり、電話口など一瞬考えてから桜庭です、と名乗ったりして、その度に薫に笑われたりしたものだ、と。
さしたる心境の変化もなく、ただ環境だけが変わっていく日々を過ごすのは心地よかった。自分が薫を思う気持ちも薫が自分に注ぐ愛も変わらずに、周囲からどやされ囃され祝福されて、立場は違えど同じ職場で、内助の功よろしく薫のプロデューサーとして働く毎日は、とても充実していた。
よし、これも終わり、と軽く伸びをして、片付けた書類の山から離れて一息入れようと立ち上がった彼女は、くら、と目眩に襲われる。
「わ、大丈夫ですか?」
「大丈夫、ただの立ちくらみだから…」
デスクに手を付いてなんとか姿勢を保った彼女は、声をかけた山村にそう返事をしながら心配はいらないと微笑んでみせた。最近ふらふらするな、と思ってはいたが別段具合の悪いところはどこにもないし、アイドルとはいえ元医者の夫、薫に苦言を呈されるような日常の変化もないから、気にする程でもない……いや、そういえば。ひとつ気がかりを思い出し、彼女は帰路の途中でドラッグストアに寄った。
「ただいま」
「っか、薫さんっ!!」
帰宅した薫がいつものように玄関のコートハンガーにコートを掛けていると、慌てた様子の彼女がリビングのドアから駆け寄ってくる。これ、これ!と忙しなく手にした白いスティックを振り、あわあわと落ち着かない。まずは落ち着いて、と薫は冷静に彼女に言った。
「何があったんだ、話が見えない」
「あの! っあの、これ!」
「……?」
差し出されたスティックを受け取った薫は、まじまじとそれを見る。ピンク色のラインがくっきりと引かれた判定窓、そこに釘付けになった眼鏡の奥の瞳は、みるみるうちに大きく見開かれていく。まさか……本当に?と出そうになった口を慌てて押さえ、妊娠検査薬と彼女とを見比べる。見れば彼女も同じように、両手で口を押さえている。
「君の最終月経は先々月の四日だったな」
「な、なんで覚えて……」
「夜の誘いを断られたからだ。 …そうじゃなくても、パートナーの体調管理には気を配るようにしている」
「そ、そか……」
「丸々一ヶ月、月経がなかったことになるが、君は途中でおかしいと気付かなかったのか?」
「忙しいと、たまに遅れることもあるので……」
す、と眼鏡のブリッジを上げ、薫は冷静に思考を巡らせ始める。君は自分の体をなんだと思っているんだ?まさに今、文字通り、自分一人だけの体ではなくなった、その、ひとつきりの命を守る自分の体をなんだと思って……。
自分にとってどれだけ大事な存在か、なんて、聞き飽きる程に言ってきたつもりだった。愛している、大切にしたい、ずっとそばにいて欲しい。言葉だけでは足りない事くらいわかっているから態度でも、示してきたつもりだった。それなのに、さもそれが普通であるかのように、忙しいから、と自分の体の事は二の次三の次にして、君は……。
喉元まで出かかったそれらを飲み込み、薫は言葉を選ぶ。こういう時はどうするべきか……専門外ではあるが、知識としては持っている。まずは母体の保護と適切な診断、健診。諸々の手続きも済ませなければならないし、職場や親族への連絡と協力、理解の要請。必要な物品はおいおい揃えるとして、まずはこの、妊娠初期段階という重要な時期をどう過ごすか。夫として、いや、父親になる一人の大人として、薫は責任感を背負って真摯に向き合う。
「まずは病院へ行こう。 かかりつけの産婦人科は、出産から産後のケアまでトータルで診てもらえるところ、かつ、通院が負担にならない病院がいいだろう。 僕の知り合いにも何人か、任せてもいいと思える人間がいるから……ああ、いざという時の為にNICUのある中核病院との連携がしっかりしているところがいい」
「へっ……?」
「そして、冷えは大敵だ。 血行が滞ると胎児だけでなく母体にも悪影響だから、水分もしっかり摂取した上で、できるだけ体を冷やさないように」
「う、うん……?」
矢のように降り注ぐ薫からの指導に、彼女の表情は戸惑いの色を見せる。病院、確かに病院には行かなければならないだろう。なにせつい先程発覚したばかりなのだから、まだなにも始まってすらいない。もちろん、心の準備や気持ちの整理も。
ここは玄関だ、冷えるとよくない、と促す薫がリビングのソファへと誘導するが、彼女はやはり混乱したままだ。そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、薫は講義でも聞かせるかのように話し続ける。
「妊娠初期段階での摂取が推奨されているのは葉酸だ。 細胞が活発に分裂し、各器官を形成する上でのDNA合成に必要だからだ。 ホモシステインがメチオニンに変化する際にも必要になってくるから、タンパク質形成の安定化を求めるなら必須と言っていい。 信頼できるサプリメントを僕が選んでおく」
「あ、うん、ありがとう……?」
「あとは悪阻だが、僕もできるだけ協力するから遠慮なく甘えてほしい。 もちろん職場の理解も必要になってくるが、休暇を取っても構わないだろう。 君がいないのは不安だが、そんな事は言っていられないから」
淡々と述べる薫をぼんやりと見つめながら、彼女はなぜか、浮かない顔をしている。薫さん、なんとも思ってないのかな……?そんな思いがずるりと胸から漏れ出して、彼女は顔を曇らせる。そんな、今にも泣き出しそうな彼女の様子に気付いた薫が、はっ、と思考を止める。
妊娠初期の重要性に関しては、間違っていないはずだ。何せ自分にはサポートする事しかできないのだから、持てる知識の全てを預けて、彼女自身に努力してもらうしかない。無責任に頑張れと言うだけならばそれこそ、誰にだってできる。僕は僕にしかできない事を、僕の立場で、僕のやり方でやるしかない、そこにはなんの落ち度もないはずだ。それなのに、君はなぜ、そんな顔で僕を見ているのか。マタニティブルーというやつか?それにしては少々早すぎる気がする、なにせついさっきまで知らなかったのだ、彼女も、自分も。……つい、さっきまで……?
「……いや、そうじゃない」
「……?」
深く長い溜め息をつき、薫は彼女の隣に腰掛けた。優しく肩を抱き寄せ、頭をそっと肩に乗せさせる。肩に乗せた頭を撫でながら、薫は優しい口調でぽつり、と謝った。
「すまなかった、僕とした事が少し、冷静さを欠いていたようだ」
「え…?」
「――嬉しい」
「!」
困惑し、曇っていた表情に光が射したように、彼女の顔がばぁ、っと晴れていく。抱く腕の力を少しだけ強めて、薫は極めて優しく言葉を続けた。
「君の体に起こった変化だというのに、僕は……いや、君の体に起こった変化だからこそ」
ふ、と息を吐き、抱く腕をもう一本増やして薫は彼女の体をぎゅう、と包み込んで抱きしめる。
「冷静では、いられなくなった」
「薫さん……」
「大切な事を…僕は、見失うところだった」
抱きしめられた温もりに瞳を潤ませ、腕の中で彼女は薫を、愛しい人のその顔を見上げる。大切な事?と聞き返すその唇にそっと唇を重ね、目を閉じてゆっくりと、温もりに包んだ愛しさを伝えるように薫は顔を離す。言うべき事は、言わなければ伝わらない。
「嬉しい……それしかない、今は……本当に、嬉しい」
僕は、君の気持ちに寄り添えているだろうか。僕は今、君の心を支えられているだろうか。どんなに言葉を尽くしても、どんなに態度で示そうとも、こんなに君を愛おしく思っている、寄り添いたいと思っている僕の心を、伝えきれる気がしない。先の事ばかり考えて、頭ばかりで。戸惑いの中で冷静になって、腕の中で涙ぐむ彼女を抱きしめた薫の胸の内にあるのは、至ってシンプルな思いだ。
「君を……君達を、守るから」
「薫さん…っ!」
「僕にしかできない、僕のやり方で支えたい」
「っ、は、はい……っ!」
真っ直ぐに伝えた気持ちは、真っ直ぐそのまま受け止められて、歩み始めた道の一歩目は優しく力強く、揃っている。
「一緒に、パパとママになっていこう」
「薫さん……っ、薫さん…………!」
温かく柔らかな時間が、その一歩から始まる。踏み出した足は、今から三人分になる。抱き合って幸せを噛みしめる二人の顔には、既に戸惑いはどこにもなかった。