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炎のレユアン 2

全体公開 13897文字
2018-02-05 00:11:37

立てたフラグはきちんと全部回収しますて

遥か空の上から、国を見下ろしている。焦げたような光が落ちる。それは兄に寵愛を与える神の陽だ。地平に向かってゆっくりと、目閉じるように沈んでいく。兄を守る陽は、夜になれば姿を隠してしまう。
(よる、くらい。いろがない)
火が消えた地上は寒いだろうと、ぼんやりした頭では思うのに、見下ろしている時だけは、それを感じる時ができないでいた。
見下ろす地上には、幅の広い川が流れている。その川の水面に、あたりに広がる砂を銀に染めて、まぶしたような星が映っていた。
ただそれだけが、しん、と静まり返った景色の中で、けたたましいほどの声を上げている。季節が変わったのだと楽しげにおしゃべりして、明日は晴れだと予言さえする。叫ぶような星の輝きが、見ているだけの眼に吸い込まれてくる。
それはいつもと変わらなかった。
星は謳う。
砂は踊る。
静寂で満たされているのに、こうして眺めている間は非常ににぎやかだ。
「・・・ぅう」
ふと、いつもは聞きなれない声を耳にした。
(・・・?)
いつも見る夜の景色には、混じらない音だ。
音の発生源を探して、うつむいていた顔を上げる。
たくさんの家屋を眺め、高さが足りないと、見る位置をさらに上げることにした。
喚く星に近づく。ますます天に近く、このままでは焼け焦げそうだと思いながら、音を探す。
川沿いだけでは足りない。もっと、遠く。もっとだと、西はイーゲラ砂丘を越え、東はナーソク山まで視野を広げた。
星が落ちたような、銀に輝く砂の上には、何もない。少しは突起のようなものはあるが、生き物の気配はない。
(こっちでは、ない)
じゃあ、山のほうか、と視界を絞ったとき、ナーソク山の連なる山脈の端の岩山に、人影が見えた。
(この、ひと)
見つけた、と視線を向けると見えるはずもないのに、男はまっすぐにこっちを見た。
(えっ)
金の、獣のような眼をして。
視線を少しもそらさず。
ただ、これまで誰も見なかった彼を見つめていた。
たしかに、目を合わせているような。
そんな気がした。
(あなたはだれ?)
そう聞きたいのに、声は出ず、しんとした静寂が、伸ばそうとした手をかき消してしまう。
(しまった、あさ)
ふと頭上を見上げると、ひんやりとしていた世界は温もりを取り戻しつつあるようだった。白さが混じりこんできている。
(まって)
まってほしい、と男の金の眼に視線を向けるも、男はす、と視線をそらしてしまった。
(あなたは、だれなんだ)
そう思った瞬間。
カーン、と甲高い音が、思考を遮った。
朝の鐘の音でゆるりと意識を浮上させる。
そしていつも通り、乾いた空気のぬくもりを感じ、彼は今日も『空』は『青い』のだと実感した。
目を覚まして意識が入った体は、まるで何かがかちりとはまった機械仕掛けの人形のようだ。
動くようになった体はひどく重い。
四肢がなまりのようにゆっくりと形を作って血が巡る。はあ、と息を吐いて、砂まじりの空気を吸う。
それが、生きていることだと、起きるたびに彼は思う。
体が重いこと。
肌と肺で空気を感じること。
からりと乾いた朝の空気を感じるたび、瞼が震えること。
彼は綿の入った木の寝床でそろりと体を起こして、開け放った窓を眺めた。
それが起きた後の、彼の日課だった。
『空』は今日も『青い』ので、きっと洗濯物がよく乾くだろう。
今日もそんなことを思いながら、朝方の冷えた空気で、目を覚ましたのだった。
「たーあーらー?」
ふんふん、と鼻歌交じりにた、と、ら、で音を作る。それは歌というよりも適当な発音のようだった。
「たっらら、たー」
かつん、かつん、と白い布の山を抱えた男が、石の廊下を歩いてゆく。
木でできたそれは、靴というより、つっかけのようなものだった。木の板の底を少しだけ高めに作り、皮ひもを通して足をつっかける程度のものだ。前に何もないところで、石の欠片があり、足を切ったのを見た外の兵士が作ってくれたものだ。彼はこの靴を気に入っていた。
「たーらーらー」
いつもとはちょっと違う夢を見て、いつも通りの晴れた日。
彼はいつものように朝の支度を終えて、子供たちの授業の時間までの仕事に勤しんでいた。
洗濯物を集め、洗うのが彼の仕事だ。基本的には神殿には大量の人間がいるので、下男下女の仕事ではあるが、彼はそれを監督する立場にあった。
とはいえ、他人に働かせるばかりにはいかないので、彼も率先して洗濯物を集めていた。
あらかた洗濯物の回収を終え、あとは洗い場に置きに行くだけである。
時折音を替え、ふんふん、と音程をとりながら石造りの廊下を歩いていれば、とたた、と音がした。
「たーらーたらら、ららら」
そう、そんな音があったら良い、ととたたた、という足音に合わせて歌のテンポを変えた。
とたた、という音はだんだんと近づき、ついにはぼすん、と彼の足元に何かがぶつかった。
「おや?」
思わず足を止めると、さらにあとから、ユージンさまーと誰かを呼ぶ声も迫ってきた。
動こうにも、長いローブをがっちりと捕まれていて動くことができない。
ぎゅ、と引っ張られる布の感触に、おやおや、と彼は笑いながら腕の長い裾を持ち上げた。
「かくれんぼするなら、私の服の中がおすすめなんですけど、どうでしょう?」
ローブの中を見せると、手を離した小さな生き物は、慌ててその中に入った。
ふふ、と思わず口元を緩めていると、どたどたと忙しない足音が近づいてくる。
「リヒトール様!!ユージン様をお見かけしませんでしたか!?」
おや、と彼は中にいる小さな生き物を見せぬよう、顔だけを向けた。
「見ませんでしたねえ」
かくれんぼはいつでも楽しい。こうして大人になっても、かくれんぼの手助けができるのは自分の特権だ、とリヒトールはにこにこと答えた。
そうですか・・・とあからさまに声のトーンを落とした世話役に、意地悪してしまうことになるなあ、と彼は小さく息を吐いた。
「そういう約束なので。ただ、私を追い越して走っていきましたよ」
そう付け加えると、ありがとうございます、と世話役が走っていた。答える声は一人だったが、他にももう一人、忙しない足音を立てて走ってゆく。
「あんなに急がなくともいいですのにねえ」
走っていった方向から感じる風に感想をこぼすと、小さな生き物は、のそのそと足の間からはいずり出てきた。
「さて、私には少し重たかったんですよね。少し持っていただけますか、ユージン?」
小さな甥にそう笑いかけると、うん、と答えて、彼は自分の服の端をとんとんとたたいた。
リヒトールはしゃがみ込んで、籠を床に置く。
そしてそろりと片方の手を伸ばして、彼の頬に触れた。
ぺたりと触れてみると、彼の頬は熱を持っていた。日の光のせいだけではない熱さに、小さな子供の目元をなでる。
濡れた感触と、その熱さに、彼が泣きわめいたのだとわかった。
リヒトールは自分の手を籠の中に突っ込んで比較的きれいな布を探し出した。顔を近づけてきれいなことを確認すると、ユージンに手渡す。
「リヒにいさま、これだけ?」
「大事な仕事です」
にっこりと笑って見せると、わかった、とユージンは静かにうなずいて受け取った。
かごを持って立ち上がると、ユージンはリヒトールの腕の、長い袖をつかんだ。歩くときに注意しないとなあ、と思いながら、二人で洗い場に向かう。
「・・・にいさま、あの」
ユージンはリヒトールのことを兄、と呼ぶが、関係性は甥と叔父だ。兄の息子の一人で、自分や兄と同じ目をしているため、神殿で暮らしている。
小さな弟や妹、甥や姪がいるが、リヒトールは一様に、にいさまと呼ばれていた。
「どうかしましたか。雨でも降りそうでしょうか」
それは困りますよねえ、と言って返した。
「ううん。今日は雲ないよ。あの、あのね」
はい、と頷いて、リヒトールは彼の言葉を辛抱強く待つ。
「きょうね、ぼくね、かあさまのところにいったの」
ユージンも特別な力を持っているので、ただの人間には育てられない。そのため神殿で暮らしている。だが、子は母を恋い慕う。なので、基本的に引き離すことに対して、かなり慎重に様子を見ていた。基本的には小さいうちは母も神殿で暮らし、ある程度になったら子の母は神殿の近くで暮らす。
母親と離れて暮らす子供は、頻繁に親に会わせるようにしているので、ユージンにはその日が今日だったのだろうとリヒトールは察した。
「そうでしたか」
「ぼく、いらないこなのかなあ・・・」
ぽつりとつぶやかれた一言に、リヒトールは思わず動きを止めてしまった。
必死で平静を装うような声を出してはいるが、ユージンの声は震えが混じっている。
子どもが自らそんな風に思うはずはない。
子どもは、周りの大人の言葉を聞いて覚えるのだ。
たくさんの弟妹や、血のつながった子どもをあやしているリヒトールは、経験としてそのことを知っている。リヒトールは洗濯場の監督以上に、教育をすることが大事な役目の一つだ。
この神殿内で暮らしているのは王の一族であり、それに連なるものをいらないなどという言葉を、周りの大人が吐くはずがない。第一、この神殿に暮らしているものの大部分が、同じ力を持つ、血のつながった家族なのだ。
誰もかれもかわいいし、慈しむに決まっている。血は水よりも濃い。より血縁関係が近ければ近いほど、愛しさは増す。
リヒトールの一族は、家族を愛することが血に刻まれている。
そういう一族なのだと彼は思っていた。
神に与えられたこの眼が、同じ目を愛せとささやく。
だから、もし仮にいらないなどと言葉を吐くものがいたら、この神殿の代表である巫女長に報告しなければならない。よく話し合って、そんなことは二度と言わぬよう、理解してもらわねばならない。
リヒトールたちの一族は、安穏を享受せねばならず、悲嘆を取りこぼさなければならない。悔恨もなく、怨嗟さえ忘れて生きねばならない。
それが、自分たちを作り給いし神から課せられた試練である。
神は、それを是非とできるかどうか、人間たちの愛をお試しされているのだ。
リヒトールはしばらく上を向いた後、捕まれた袖を引っ張って、また歩き出すと示した。
かつーん、と靴の底で音を鳴らしながら、リヒトールは幼い子供を連れて石造りの廊下を歩いてゆく。
「いらないなどと、私は思いませんよ、ユージン。あなたは私の大切な家族ではないですか。なぜあなたをいらないと思うのです」
洗い場はもうすぐだった。がやがやとした喧騒が、リヒトールの耳にまでかすかに届いている。
「・・・でも、」
リヒトールの言葉を否定するような、声の震えが痛ましかった。
小さな手は必死に縋りついて、リヒトールに歩み寄っている。
「でも?」
「・・・かあさまが」
おやおや、とリヒトールは内心でうっすらと笑った。
「おかあさまが、何か言ったのですか?」
うん、と小さくつぶやき返したので、またもや、おやおや、とリヒトールは内心で小さく息を吐いた。
洗い場についてしまい、リヒトールを見た下女の一人が、リヒトール様が来られた!と声を上げる。
「すいませんね、重くてついユージンに手伝っていただきました。これをお願いします」
まずは洗い場で働く人の一人に、荷物を渡す。リヒトールを見て声を上げた下女のナレンは、ユージンに気づいて、明るく笑い声を上げた。
「あはは、ユージン様がいらっしゃって運がついてましたねえ、リヒトール様」
「ええ、全く」
「ユージン様もありがとうございますねえ。リヒトール様は、今日はお洗いはいかがされますんで?」
予定がなければ、普段は洗うところまで手伝ってゆくリヒトールだったが、こうして子どもを連れていることで、何かがあったのかとナレンは察したらしい。
洗い場に勤める者たちはみなリヒトールをよく気遣ってくれ、王にも忠誠を持つものばかりだった。みな総じて面倒見が良く、リヒトールが優先するのは子どもの教育だとよくわかっている。
「今日はユージンの世話役とかくれんぼをしているので、ナレンもごまかしてくださいね。私が仕事をしていないのも」
そう頼むと、洗い場でどっと笑い声が起きた。「ユージン様はまたお仕事をさぼってらっしゃる」「かくれんぼは楽しいですもんねえ、ユージン様」と、声をかけられ、そうなんです、とリヒトールも笑った。
「ええ、ええ。お任せくださいねえ、よくやっておきますんで」
ナレンの言葉に、ありがとうございます、と返して、リヒトールは傍らにいたユージンにしゃがみ込んで手を広げて見せた。
ユージンはためらう様子もなく、服の端をたんたん、とたたいてからリヒトールの首に手を回した。
リヒトールはユージンを抱き上げると、そのままのんびり洗い場を後にした。
かつーん、かつーん、と音を鳴らして、石造りの廊下を歩いてゆく。
「ユージン、あなたはいらない子などではありません。
私たちの大事な子です。
私たちは、どうあがいても、一人でなど生きていけないのです。
私たちは赤子の時、母から乳をもらわねば生きていけぬもの。こうして抱えなければ、動くことさえままならぬ、不完全なまま生まれてきます。
大人はそんな赤子を、こうして自分で歩くまでに育て上げる。それをどうしていらないといえましょう。
赤子が大きくなるように、大人は老いて動くことさえままならなくなってゆき、動かなくなります。大人が老いたとき、子は大人になっているでしょう」
かつーん、と木が石を鳴らしている。
肌で感じる空気は、外の熱を知らしめているというのに、神殿内はひどく涼しげだった。
「そうして神から与えられた命はめぐってゆくのです。誰一人いらないものなどいません。人はそうして助けあわなければ、生きていくのさえままならぬように、神は人をお作りになった」
あなたもよく聞いているでしょう、とやさしい声で語り掛けると、ユージンはぎゅっと首に回した手に力を込めた。
「でも、かあさまはいらないっていったもん。ぼくが、うたいてになりたいって言ったらおこった」
なるほど、とリヒトールはユージンの背をなでた。
ユージンは仮にも王の子だ。王になる機会がある我が子に、王になってほしいと思うのは、妃の一人として当然だろう。
やれやれ、とリヒトールは小さく息を吐く。
「ユージン、いいですか」
リヒトールは神を崇めるものの一人として、また、同じように力を持って生まれた一族のものとして、幼い子供に絶対の教えを説く。

「母を『恨んではなりません』」

それは何を置いても、心の安らかさが優先される一族の掟だった。
人を憎まず。
人を恨まず。
寛容であれ。
神は比類なき力と引き換えに、それを求めた。
「我らは人を恨めしく思ってはいけないのです。悲しんではいけない。それは、我らが健やかにあることが、一族の平和へとつながり、この国の平和へとつながるのです。我らは、常に恨めしさを持たないでいられるかどうか、神に愛を試されています」
「うん」
納得がいかないような、不満な声であったが、ユージンはこくりと頷いた。
そのことに頭をなでて、リヒトールは穏やかに続けた。
「それに母も、何も本気であなたをいらないとは思ってはおりません。あなたを心配しているのです」
ぶす、としたように、ユージンはそっぽを向いた。
とりあえずショックからは立ち直ったようだと、リヒトールは微笑んだ。
「歌い手への道は、厳しいものです。たくさんの言葉を覚えなければならず、楽器も弾けなければなりません」
「・・・でも、にいさまは歌い手でしょう?」
ユージンの不安そうな声に、そうですねえ、とリヒトールは肯定した。
「私も、楽器は爪が割れるほど練習しましたよ。楽譜が書けないから本当に大変でしたねえ」
ユージンはそれを聞いて黙り込んでしまった。
だが楽しいことを教えているだけが、健やかであることではない。確かに苦しいこともあり、それに揺るがぬよう強くあれと導くのがリヒトールの役目でもある。
「同年代の子にも、巫女ねえさまにも、おまえには無理だと言われました。爪が割れて、血が出てるのを見て、そんなにするならやめろと怒られたこともあります」
その日々を振り返れば、今は懐かしいと思えるほどに、リヒトールの背は伸びている。
そして腕に抱える幼子も、こうして話した日々が、懐かしいと思えるように成長するのはすぐなのだとリヒトールは思う。
「そういうことを、あなたの母だって考えてしまうと思いますよ。大事なあなたには、誰だって苦しい思いをしてほしくないものです」
ユージンだって、母が傷だらけになるのはいやでしょう?と問うと、また小さくうなずいた。
だが、ここでお前は無理だと可能性の芽を潰してはいけない。芽生えたばかりの若葉は嵐を知らず、それに耐える強かさを覚えさせねば、風雨に吹き飛ばされてしまう。
「けれど、あきらめても、途中で投げ出したっていいのですから、あなたが挑んでみたいというのなら、私は応援します。あなたは、その苦しさがどれほどのものか、人の言葉だけではわかるはずもないのですから。もしかしたら、ユージンが思うほどつらくはないのかもしれないでしょう?」
ぎゅ、とリヒトールの肩口を強く握ったユージンは、ことん、と頭を預けた。
「にいさまの話は、いつもむずかしい」
「そうですかね、あなたがしたいのなら、なんだってしたらいいというだけですが」
心外ですねえ、とリヒトールは笑った。
石造りの階段の前にたどり着くと、足先で段を確認してから、リヒトールは登りだした。
「・・・にいさまは、なんで王さまにならなかったの?」
その質問に、はて、とリヒトールは首を傾げた。
「だって、にいさまのちちうえは、王さまだったんでしょう」
わかりにくいと思ったのか、そうつけ足したユージンに、ようやく質問の意味を把握する。
「ユージンも難しい話をしますね」
しんがいですねえ、とユージンはくすくすと笑いながらそう言った。
元気が出たようでよかった、と胸をなでおろし、リヒトールは階段をのぼりながら考えた。
本当に、子どもは時に、答えに窮することをなぜ、と聞いてくる。
王とは、なりたくてなれるものではない。
そもそも彼は、玉座というものに昔から欠片も興味がなかった。兄がなりたいと言ってくれ、ほっとした記憶さえある。
だから答えにくい。
そもそもリヒトールはなる必要もなく、なりたくもなかったからだ。
ただ、ならなかった理由を探せば、かろうじてそれらしきものは、リヒトールにもあった。
元をたどれば、兄が王になると宣言したから、王にならなかった。
問題は、なぜ兄が王になると宣言したかだ。
色々と理由はあっただろう。だが、兄が王になると言ったのは、リヒトールを心配していたというのも少なからずあった。
それは、彼がこの神殿内でただひとり。
「私は、神に深く愛された子だったのですよ」
こてり、とユージンが首を傾げたのがわかった。
だが、その言葉はただの事実だった。
リヒトールは比喩でもなく、愛されすぎていた。
深く。
そこが見えないほど、深く。
「どういうこと?」
リヒトールの母は、おびえるでもなく、穏やかにリヒトールをこう呼んでいた。
『お前は神に深く愛された子』
その言葉の意味を知るまで、リヒトールはずいぶんと時間を要した。
「私はこう見えて、生まれたばかりのころは、よく姿を消していたのです」
死して人は神の国へ行く。
人を愛した神は、人の愛を試す。そして苦難を乗り越えた末に、老いて人間が変わらずに向ける信仰に、その愛こそ真実だと知り、自分の国へ呼びよせるのだ
小さな子どものうちは、神はその命が愛おしくてたまらない。だから赤子は自分で立てるようになるまでは、神の国の住人なのだ。神は容易に人の世からその命をさらってしまう。
リヒトールも例外ではなく、神に愛されていた。
ただ、それだけではなく。
小さなころは、本当に姿を消していた。
つまり、ここではない、別の世界に、神に隠されていたらしい。
「自分で立って歩けもしない頃から、よく姿を消していて、神に攫われていたらしいのです。現王も、とても強い力を持っているでしょう」
私も、例外ではなく、とリヒトールは笑った。
「力は強かったようなんですが、あまりも強かったせいで、ひととの境を彷徨っていたようで。結局、私の体には耐えられず、私の目は力を失ってしまったので」
ただ、力がないだけでなく。
リヒトールの眼は、光さえもわずかばかりしか映さない。
わずかに残った力を使えば、周りの輪郭ぐらいは把握できるが、それぐらいだ。
「私は神に深く愛されていたので、その眼を神は持っていかれました。それで、死するまでの時間を与えてくださったのです」
こんな特別な力がなければ、人一倍生きるのが難しかったろうと、リヒトールは思っている。
けれど、それは決して悲嘆することではなかった。
「私は、おかげで、好きなことを好きなようにしたいと言えました。まあ、兄上が王様になりたいと言っていたので、何も言われなかったんですけどね」
あはは、と笑うと、いいなあ、とユージンはうらやましそうにつぶやいた。
「いいでしょう、いいでしょう。だから私、兄上と王様の座をかけて争ってないんです」
リヒトールは胸を張って答えた。
「・・・なんで、あらそわなかったの」
ユージンが口の先をとがらせたような声を上げるので、リヒトールは、えっと驚いた声を上げ。
「だってなりたくもないのに王様になったら、いい王さまにはなれないじゃないですか・・・」
と、返した。
かつり、と段差を登りあげると、その先の部屋から、きゃっきゃ、と子供たちの話声が響いてくる。
「王は、なりたいからなれるのではなく、民が認めるから王なのですよ」
それだけは唯一、どの時代を経ても、いえることだ。
民に認められねば、王ではない。認められぬものは、その位置から引きずり落とされてしまう。
それが民にとっての王である。
かつ、と廊下を歩いていれば、ユージンは体を揺らしておりたいと主張した。
リヒトールは子どもの声が聞こえる部屋の前で、膝をつく。ユージンはゆっくりと足をつくと、服の端をとんとん、とたたいた。
「にいさま、ぼくは、うたいてになりたい」
静かな声に、リヒトールは口元をほころばせた。
「よいと思います」
「なれるように、がんばりたい」
決意のこもった声は、リヒトールの相好を崩した。
ゆっくりと手を上げて、伸ばせば、とん、と体に触れる。それはユージンの肩あたりに触れたようだった。そろりと首を辿り、頬をなでる。
「あなたに神の光が見えんことを」
小さくつぶやくのは、応援の言葉だ。
生きることは、ただ楽しいことばかりではない。つらいことも、これから先、この小さな少年には降りかかってくるだろう。
だが、つらいことがあったとて、こうしてリヒトールや他の大人たちが手を伸ばしてやればいいだけの話だ。
リヒトールが彼の顔から手を引いて立ち上がると、ユージンはリヒトールの服の裾を持った。
にぎやかな声がする部屋に向かって二人で歩いて行く。
これでユージンは大丈夫だろう、とリヒトールは思った。あとの問題は、ユージンの母親だが、これは神殿の長である巫女に報告すれば済むことだ。
部屋の中に入ると、子供たちが一斉に、にいさま!と声を上げたのがわかった。
「さあ、今日もお勉強です」
ユージンは部屋にはいると袖から手を離した。子どもたちの声の中からユージンの声が聞こえてきて、彼は相好を崩した。
リヒトールは部屋を横切って窓辺へ歩いて行く。室内には、かなりの人数の子供たちがいる。おおくのひそひそとささやく声と、甲高い笑い声が耳まで届いてくる。
窓際に歩いてゆくと、リヒトールは耳を澄ませた。
彼は目に力がない代わりに、耳は人より優れている。
窓辺に立って耳を澄ませていると、わずかにぶっきらぼうな声が聞こえてきた。
さすがに内容までは聞こえてこないが、低いかすれた声が聞こえてきて、リヒトールは大きく息を吸った。
乾いた空気を肺に満たし、吐息に音を乗せる。
「ァ、――――――
それは、リヒトールが適当に作った歌だった。
ひび割れた大地に、砂礫が舞う。青い空は今日も美しく、陽はその輝きを忘れない。
風よ、雲を連れて参れ。この地を嘆きで染めておくれ。あなたの抱擁はもういらない。井戸は小石しか出てこぬ。すべて、あなたの口づけが元なのだ。
昔、兄は川が洪水を起こしたときに言っていたことを思いだす。
一体、井戸が枯れたらどうすればいいのか。
私たちには川があるけれど、ないところは大変だ。
その話を聞いて、なるほど、井戸は枯れるものかと、リヒトールは学び、適当に歌にしてみた。
そしたら子供たちは、きらきらとした声を上げながら。
「にいさま、井戸って枯れるの?」「雲は風が連れくるの?」「太陽の嘆きってなに?」
などと、質問がわんさか来たので、なるほど、リヒトールがそう思ったように子供たちも歌ならば、不思議に思うらしい、と気づいた。
そのため、この詩が、リヒトールの『お勉強』だ。
詩には、あえて古典的な言い回しを含めながら、ところどころわかりにくくしている。それでいてたまに子どもにさえわかるような表現を織り交ぜているので、わからぬところは学ぶきっかけになる。
――――――
響け、とリヒトールは窓際から、いつも思いをはせていた。
外壁の警備を担当する者たちが、歌を聞いているのはリヒトールも耳にしていた。適当な詩だと笑っていることだろう、と思っていたが、一人、熱心な拝聴者がいるらしい。
それは異国からやってきたひとだと聞いた。
異国からやってきた人間に、この詩の歌詞がわかろうはずがない。
それでもその人は、リヒトールの歌だけは静かに黙って聞いているらしかった。その時をひどく楽しみにしているとも聞いている。
そのことが、彼にはひどくうれしかった。
こうして歌を自在に操るまで、ひどく時間を費やした。指先もぼろぼろにしながら必死で向き合った。
その結果、自分の歌は、異国の人間の心さえ動かしている。
その事実を知ったとき、リヒトールがどれほど喜んだのか、その人は知る由もないに違いない。
(努力が、報われた)
彼は努力した。たくさんした。できるようになりたいと願ってできるようになるとは限らない。そういうものがたくさんあると、すでに経験している身である。
だからこそ、リヒトールの顔も経験も、出自さえ知らない、異国の人間が。
何も知らない、ただ一人の人間が。
自分の、ただ歌だけを。
この喉から響かせる音だけを。
認めてくれている。
世辞でも、気をつかっているわけでもなく。
リヒトールの、とても好きで、努力した部分をみとめている。
(いつか)
顔さえ知らないそのひとを思いながら、リヒトールは謳う。
(会えたら、いいのに)
自分の歌を、一番近くで聞いてくれたらいいのに、と声を響かせる。
子どものざわめきがあるはずなのに、他の音は、耳に入らない。
自分の奏でる音だけが、すべての時間。自分はただ音を奏でる楽器なのだと、このときばかりは心の底から思う。
そんな、我を忘れるような歌の中。

「リヒトール」

「ァ――――、・・・・。」
呼ばれた声に、思わず歌を止めてしまった。
にいさま?と不安げな子供たちの声が次々に上がって、彼は苦笑した。
「すいません、兄上が」
そう言って弁明した瞬間。
「相変わらず耳が良いな!リヒトール!」
そう、朗らかな声が響いた。
子供たちは一斉にわあっと声を上げる。
「あにうえ!」「父上!」と、それぞれの関係で名前を呼ぶ子どもたちに、これはもう勉強どころではないと、リヒトールは困ったように笑う。ぺたぺたと立ち上がって駆け寄る音に、リヒトールはその音を眺めた。
「うむ、みな元気だな!余はうれしいぞ!」
入り口あたりで声を上げる子供たちと戯れる兄は、楽しそうだった。歌っていたので歩いてきた音には気付かなかったが、子供たちの反応を見るに兄は一人らしかった。いつもそばには魔法使いの友人を連れているというのに、今日はいないらしい。
「兄上、かみさまのお話して!」
子どものうちの一人が、そう言って兄にせがんだ。兄は、そうだなあ、と思案するように苦笑する。
「今は、リヒトールの時間だろう?あれは、我らの光、きちんと耳を澄まさねば」
兄は、リヒトールを『光』と呼ぶ。光も捕らえぬ目であるというのに、リヒトールがいなくては、歩くのさえままならぬと兄は言うのだ。
その眼で、兄は光どころか、常人には捕らえるものさえ視界に入れられるというのに。
「いえ、兄上、ちょうどいいので、みなに話を聞かせてあげたらどうです」
リヒトールには兄に歩み寄って、そう提案した。
「巫女ねえさまに、お話がありますので」
そう告げると、それだけで兄は何かを察したようだった。
「そうか。では余が語り部になるとしようか。リヒトールほどのうまさを期待するなよ」
そう言って、部屋の中に子供を戻す。
「リヒトール、またあとでな」
兄が、こちらを向いていた。その声は微笑んでいる。リヒトールも小さく笑って、手を振った。
廊下に出て、喧騒から遠ざかる。
兄は、ついこの間、自分の眼を取り除いてしまった。
一族で一番、美しい力の眼を。
常人にさえ見えぬものさえ捕らえた力を。
兄は、神に還してしまった。
ついぞ兄の眼の色を見ることは叶わなかった。皆が美しいと口にしたその眼の色を、一度くらい、リヒトールだって眺めてみたかった。
だが、それは仕方名のないことだとあきらめている。
問題は、兄がただ『愛』のために、その力と眼をなげうったことだ。
『愛おしい人をなくす。気が狂うから、眼を潰すんだとサ』
この神殿の長が雑に言い放った言葉を、リヒトールは時折考える。
『仕方ないネエ。我らは究極、何かを深くは愛せない。執着は、この世を滅ぼすサ』
家族に向けるものと、兄が一人に向けたそれは、種類の違うものだとリヒトールはうっすらと理解していた。だが、はたして、自分の何もかもをなげうってまで、おおよそ戒律さえ破りそうな勢いで、むろん兄は破れないからこそ眼をとったわけだが、人を愛せるものだろうかと疑問になる時がある。
愛するだけでは、慈しむだけでは足りぬと、それを知ったものは言う。その体の熱を知らねば気が済まぬのだという。ときに自分のすべてをなげうち、相手も飲み込み、溶け合うような衝動に駆られるそれを、彼はまだ知らない。
かつーん、と石作りの廊下を歩きながら、彼は巫女のいる部屋に向かう。
自分の部屋も彼女の部屋の近くだった。そこへ向かう廊下の道には中庭があり、沸き上がる水を上から流していた。ざあざあとこぼれる水の芸術を、リヒトールはひんやりとした温度で知る。
美しく整えられた中庭には、草木が生い茂っていた。
(はたして、それはどんな思いなのだろうか)
まだ見ぬそれを知る日は来るのかと、リヒトールは足を止めて中庭を眺めた。
ざあざあ。ぐるふぅ。ざあざあ。
(ん?)
ぼんやりと水の音を聞いていたリヒトールは、その音に混じって、何か別のものが混じったことに気づく。
もう一度よく耳を澄ませば。
ざあざあ。ぐふー。ざあざあ。
やはり、水ではない何かが聞こえる。
(なにか、が、いる?)
なんだろう、とリヒトールは耳を澄ませて、一歩、中庭へと足を動かした。
ぐふー、と聞こえる声は、規則性がある。ざあざあとした大量に水の落ちる音でよくわからないが、何かは生き物のようだ。
魔物であっても困る、とリヒトールは、眼に力を込めた。
すると、暗闇だらけの視界に、わずかなものの輪郭が浮かび上がる。
あたりは背の高い木が生い茂っているが、きちんと道が作られていた。地面には草が生えているが、よく踏まれているのか、地面に張り付いている。
「ぐるる・・・」
あたりを見回していると、明らかに草でも木でもないものが視界に入った。
(えっ?)
地面に倒れて丸まっているものが、一瞬人間に見えて、リヒトールは慌てて駆け寄る。
傍に跪いてみれば、それはやはり人間だった。
細い体は肉付きが悪い。おびえるように丸まった姿は哀れな子供のようで、リヒトールはそっと手を伸ばした。
肩あたりに触れた瞬間、ひんやりとしているが、もさりとした毛の感触に、リヒトールは大きな声を上げそうになった。
(人間じゃない?)
髪のあいだから、思わず目を開いてよく眺めた。ろくに光さえ捕らえないが、こうして眼を開けば少しだけ力が強くなる。
力をさらにがんばって込めてみると、それは人間ではなく、巨大な犬のようだった。
鼻先は長く、耳は三角にとんがっていて、びしょ濡れである。人の子供よりも巨大な犬に、リヒトールは首を傾げた。
(・・・眼がおかしくなったのだろうか)
「あの、おきてください」
ゆさゆさと体をゆすってみるも、ぐふーと呼吸が聞こえるばかりで、ぐったりとした犬は目を開ける様子がない。
「もしや、具合が悪いのでしょうか・・・」
動物に詳しくないからわからないが、リヒトールはなぜか、かなり動物に好かれる。歌をうたっていると、どこからか鳥がやってきて鳥まみれになることも珍しいことではない。
リヒトールも動物は嫌いではないので、この犬を放っておくことはできなかった。
弱っているというのならなおさら。
「よし、私の部屋に運びましょう」
近いし、と大きな犬を抱き上げる。
ぐったりとした様子の犬は、ずいぶんと体温が下がっていた。大きな見た目に反し、想像よりも軽いことに、思わず眉根を下げてしまう。
(ユージンよりも軽いんじゃないでしょうか)
今日は兄が子供たちを見てくれているし、報告に行くのも少しぐらい遅れたってかまわないはずだ、とリヒトールはその力ない獣を抱きしめる。持ち上げた力のない生き物を抱えて、彼は自分の部屋へと足向けた。


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