@toasdm
「ああ、やはりあなたでしたか…!」
廊下から声がしたもので、と額に汗を浮かばせて、レッスンスタジオのドアからクリスさんが顔を覗かせる。何かを察したようにトレーナーさんが、じゃあこれコピー取ってきますね、と書類を持って歩き去る。気を使われるとかえって気恥ずかしい。トレーナーさんを見送ると、クリスさんはドアを閉めて廊下に出てくるなり、私をぎゅ、っと抱きしめる。
「あ、あのっ」
「あ、すみません、汗も拭かずに…!」
汗臭かったですよね、と慌てて離れて、クリスさんが首にかけたタオルで汗を拭う。そうじゃないんです、と慌てて私は否定する。
「こんなところで、その……恥ずかしいな、っていうだけです」
「あ……ふふ、確かに、そうですね」
「それに、クリスさんは汗臭くないですし、汗の香りの分だけクリスさんも頑張ってるんだな、って思うと嬉しいですよ」
「ああ、本当にあなたという人は」
一応自分で匂いを嗅いでから、クリスさんはもう一度私を抱きしめる。
「クリスさん、恥ずかしいですって!」
「すみません…少し充電を、させてください」
疲れているんです、の声は確かに疲れているようで、ダンスレッスンの熾烈さを物語っている。はあ、と私を抱きしめたまま溜め息を漏らして、生き返るようです、と心底安心しきった声でクリスさんが言う。
「時折、こうしてあなたを感じなければ、寂しくて仕方がなくなってしまうのです」
「そんな……今朝も八時までは一緒にいたじゃないですか」
一緒に暮らしているから、朝出社するまではずっとそばにいたのに、たった数時間離れただけで、寂しくなるなんて……。それだけあなたを愛しているのです、と真っ直ぐこちらへ好きを向けてくるクリスさんは、まだ充電中みたい。時折すりすりと、頬を擦り付けてくる仕草に愛おしさのスイッチを押された私は、甘えてくるクリスさんの頭をそっと撫でてみる。いつもさらさらの髪の毛は汗でしっとり濡れていて、こんな風に抱きしめ合うだけで回復できるような疲れなんだろうかと、私は少し心配になる。
「本当に、疲れてるんですね……」
「ええ、でもこうしていると、不思議とやる気が出てくるんですよ。この調子なら、あなたと家に帰るまでは、なんとか頑張れそうです」
気力の充実した表情で、クリスさんは私を見つめる。そして少しだけ迷って、辺りをキョロキョロと見回す。
「…………今は、少しだけで」
失礼します、と私のおでこに、クリスさんはそっと唇を押し当てる。急激に熱を持ち始めた私の頬を両手で包んだクリスさんが、フル充電、完了しました、とにっこりと微笑む。
「では、雨彦と想楽が待っていますので」
「う、ぁはい!いってらっしゃいませ!」
まだドキドキしているせいか、口調もおかしい私に手を振って、クリスさんはレッスンスタジオへと戻っていった。ドアの向こうで想楽さんが、クリスさんを小突いているのが小窓から見えて、私はさらに恥ずかしくなる。冷やかされているクリスさんが最後にちらっと振り返り、また小さく手を振った。
クリスさんはフル充電かもしれないけど、なんだか全て吸い取られてしまったような気がして、ふわふわと夢心地のまま私はレッスンスタジオの前から移動する。
家に帰ったら、私もしてもらおうかな。クリスさんに、フル充電。
ふふふ、と笑いが自然と溢れて、午後の仕事のやる気が満ちてくる。事務所に戻る階段を、私は一段飛ばしに駆け上がった。