バレンタインデーネタ。本編時系列とは一切関わりがないです。キャラ崩壊を起こしています。また、今回に限ってはどなたの勇者魔王の許可もとっていません。ごめん。
@san_ph7
「おはよう、へいか!」
どすん。何かが背中に落ちてきたようだ。
円形のベッドに両翼を伏せて眠る影は、枕に埋めた顔を僅かに上げる。美しい黒と金の混ざった髪はボサボサだ。不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、安眠を邪魔した声の主を確認、したい。しかし背中側に乗られているので、身を起こすことができない。
「イヴ、邪魔だよ」
けれどもイヴはどかなかった。そのうちに、主を尻の下に敷く眷属から何だか甘い香りが漂ってきていることに気がついた。またドーナツかな。このリトル・パティシエ、飽きもせずに様々な種類のドーナツを作り出しまくっている。しかも、毎回とんでもない量になる。
さて、彼はこの小さなレディには少し甘いのだ。とんでもない量のドーナツにはとんでもない量の小麦粉がもちろん必要になる。この大量生産事件について口を挟んだことはなかったのだが、最近は食料庫の管理を任せている保護者その1が厳しい視線を向けてくることがある。まあ理由は言わずもがな、ではあるのだが、そう睨まれるだけでは彼はしらばっくれる他ない。何故なら魔王は食事を必要としないからだ。実は、イヴについても同じである。彼女は魔王とこの世界から魔力を供給され生きているのだ。ではこのレディが何故ドーナツを作り、あまつさえ自分で食すことまで楽しみにしているかというと――ただの趣味だ。
それならば、何故彼が睨まれなくてはならないのか。答えはとても単純で、これに付き合わされる保護者1と2と3は堪ったものではないらしい。彼は自分の世界に長く留まることがほとんどないので、日頃の”研究”の手伝い(という犠牲)はしたことがないのだ。
彼ら曰く、もうただの水を飲んでも甘く感じる。
死体と眼鏡が何を言うのかと彼は思っているのだが(眼鏡は置いておいて、動く死体に「もうこれ以上甘いものは食べたくない」と感じるほど味覚があるのかと彼は話を聞いたときにかなり驚いた)、まぁそういうことならイヴに話をしてみよう、と彼は、そう、約束をしていたのだ。
が、すっかり忘れていた。どうしよう。
「どくまえに少し私と約束をして欲しい」
「どいてからでもいいと思う」
ダメだ、と少女は彼の翼をぺちぺちと叩いた。無理に起き上がってもいいのだが、さっきも言った通り、彼はこの少女には甘いのだ。きっと大真面目にどきなさい、と言えばイヴは素直にそうしてくれるのだろう。彼は身動きがとれないことをアピールするために、少女が背中から落っこちない程度に翼を少し持ち上げてバサバサはためかせてみたり、体を揺らしてみたりする。どうやら背中に鎮座した女王さまの要求を聞かない限り、彼は永遠に空を飛ぶことを許されないらしい、ということを悟ったふうに、彼は両手と両足と、翼をだらりと脱力させた。降参、の姿勢だ。
満足そうに鼻をならした彼女は、次にこう言った。
「へいかは今日がなんの日だか知っているか?」
今日。今日が何の日か。何だろう? 何を問われているのか、彼はしばし迷った。まず聖界と魔界では流れている時間が違う。例えば彼の世界は、聖界よりも若干ゆっくりと時間が流れている。今は大体季節は同じなのだが、それが聖界で10も巡るとそのうちに逆転する。だから、どちらの時間での、どの日を指しているのか、彼には分からなかった。分からないので、次に両方の日付で考えてみる。何か特別な、例えば城の住人の誕生日(彼はふたりの住人に対しては、この誕生日が生前と蘇生後のそれのどちらを指すのかがとても気になっている)であるとか、聖界の……聖界の特別な日は多すぎる。やっぱり分からない。イヴが勝手に記念日を制定したとか、そういったことの方がまだ当たっていそうだ。だから彼は実に芝居がかった調子で、こう答えてみた。
「きっとイヴが、素晴らしいドーナツを発明した記念日だ。そうだろう?」
「何故わかったんだ?」
当たっていた。
「ふふん、今日発明したドーナツはすごいぞ。何しろ小麦粉を使わない! そして揚げない!」
それはドーナツなのか?
「全てがチョコでできている!」
それは穴の開いたチョコレートなのでは?
彼は口をぎゅっと引き締めた。笑うと怒られそうだったからだ。でも口の端はぷるぷると震えている。女王さまから見えない位置に顔があることを感謝した。
「そこでだ。この特別チョ……ドーナツを、へいかに授けよう。何しろ、貴重なドーナツなので、10個しかない!」
少ない。いつもより全然少ない。
「いつも通り、誰かにあげて、感想を聞けばいいんだね?」
「うむ。まぁその通りなんだが、それでだ。このドーナツをあげる相手をへいかはとても迷うのではないかと思う。何しろスペシャルなドーナツなので。
さて、私は最近、博士から聞いたのだ。博士のいた世界では、この冬の時期に大切なひとへ贈り物をする習慣があるのだと。それは偶然にも、チョコレートを贈るのが世の習わしなのだと!」
あの眼鏡はまた余計な知識を少女に授けたらしい。
「なので、へいかも大切なひとにあげるといい。きっかり10個しかないからな! ついでにいつもありがとう、ぐらいお礼をいうのもいいと思うぞ。へいかがやるとギャップがあってよろしいかと思いますよ、って博士がいってた」
くそ眼鏡め。
「実はラッピングなら済ませてあるので、もう持っていって貰うだけなんだ。あ、博士やシロウやソウジはもういっぱい食べたからいらないって」
彼はおもむろに起き上がった。わぁ、という叫び声を上げて、彼の背中から少女が転がり落ちる。ぼて、とベッドに落下した彼女の手には、ひとつの箱があった。この年の少女にしては実にシンプルなデザインを選んだようだ。黒い箱をレースのリボンで封をしてある。全て彼女が準備したのなら、とても苦労したのだろう。何しろ、これを10個だ。
むくれながら自分も起き上がった彼女を抱きしめて、膝に乗せる。
「それで、君が僕に贈る分は数えてもいいのかな?」
「……へいか、それは他の女性相手にしてはダメだぞ」
ちょっと頬を染めたイヴに、たぶん怒られるぞ、と忠告される。するものか、と彼は笑った。これで9個になった。しめたものである。
「開けて食べてもいい?」
「どうぞ」
するりとレースの紐を引っ張る。綺麗なレースだ。貴婦人の服を脱がせているような気分になって、何だか少し恥ずかしい。箱をぱかりと開けると、そこにはドーナツ、いやドーナツ状に成形されたチョコレートがあった。丁度手のひらにのるぐらい、つまりいつものドーナツのサイズとさほど変わりないように思える大きさだ。表面はつやつやとしている。無造作に指先で掴む。口を開け、ドーナツにするのと同じ要領でかぶりついた。予想されたほど固くはなく、中はナッツやドライフルーツやマシュマロをチョコと混ぜたもので構成されているようだ。咀嚼して飲み干す。うん、とんでもなく甘い。
「どうだ?」
膝の上で少女はそわそわしている。
「とても美味しいよ」
という以外の答えなど彼の中にはないのである。
よかった、と上機嫌になった少女の目の前で、もちろん完食しないなどということはできなかった。片手をチョコまみれにしながら、彼は時間をかけて何とか食べきった。
「折角こんなに美味しいのだし、イヴの提案を受け入れよう。誰かに渡してくるよ」
「たいせつなひとにだぞ!」
念を押される。これ、帰ってきたら誰に渡したかものすごく熱心に聞き出そうとしてくるんじゃないだろうか。面倒だからしばらく帰らないことにしようかな。彼は口の中に残った、温かい春の日の眠気を煮詰めたような甘ったるさと格闘しながらそう考えていた。
「えっ、なにこれ」
堕の魔王の元を尋ねると、あからさまに動揺された。それはそうだ。だってどう考えても可愛らしいレースでラッピングされた箱がふたつ目の前に出されたのだから。しばしばドーナツが大量発生する際には堕の魔王のところにも当然ドーナツが運ばれるのだが、そのときは決まって複数の紙袋にがさっと雑に放り込んであるだけだ。
所在なさげに彼を見つめてきた(余談だが目が開いているようには見えない、頭上に浮かんでいるそれ以外には)堕の魔王の視線を感じて、彼はさっと顔を逸した。
「深い意味はない」
「えっ……いや、あっても困るけどさ」
ふたつ分ある意味はよく分かっているだろう。彼はこのひとつを断罪の勇者、アルビレオに渡せと暗に言っているのだ。これも、いつものことだった。
「君のは?」
「僕はもう食べたんだよ。その、うん、しばらくはいい」
堕の魔王が入れたお茶を飲みながら、彼はしつこく口内に残っている甘さを洗い流している。堕の魔王も、尋の魔王に負けず劣らずお茶を淹れるのがうまいのだ。しかし前に戯れに褒めてみたら、照れ隠しなのか出涸らしだよと冷たくあしらわれたので、もう二度と言うものかと思っている。これが出涸らしなものか。尋のところで舌は鍛えられてるんだ。
「それにしてもどうしてこんな、まるでプレゼントみたいな見た目じゃないか?」
「僕のところのレディのちょっとしたお遊びさ」
「ドーナツ・レディの?」
「そう」
ふぅん、と堕の魔王は感心したのか呆れたのか分からない反応をして、アルバにも近いうちに渡しておくね、と言った。アルバがこのドーナツを頬張り、その暴力的な甘さに驚愕して押し黙ってしまう瞬間を是非見てみたいと彼は思ったが、それはまだ難しいことだなと考え直した。難しいことだ、というのは、つまり彼がアルバに会うことが何だか難しく思える、という点にある。気持ちの問題だ。
頬杖をついてぼんやりしている彼をよそに、堕の魔王が白いレースのリボンを解く。それから、
「何だか女性の服を脱がしているような、淫靡な気持ちになるね」
恥ずかしそうにそう言ったので、彼は一気に自己嫌悪に陥ることになった。
「何だこれは」
歯車の勇者にそれを渡すと、怪訝な顔をして、分かりやすく眉間に皺を寄せた。普段から優しい表情をしているような顔ではないが、それにしたってあんまりではなかろうか。その送り主が彼じゃなかったとしたら、もっとその表情も和らいだのだろうか。例えば、青い翼の少女とか。
「プレゼント。いつものドーナツ、そのスペシャルバージョン」
「お嬢さんはドーナツをまたアップデートしたのか?」
こちらは完璧に呆れている。ぱちぱちと瞬きしながらその可愛らしい包みを見たあと、突然思い出したかのようにずいぶんと居心地悪そうな顔をして、机にそれを置いた。
「というか、俺に頼むんじゃねぇよ。自分で渡せ」
「いや、ひとつは君にだけど」
「……」
「そんな顔するなよ」
死ぬほど甘いから、研究員たちと分けて食べるといい、と彼はそう言って、歯車が淹れてくれたコーヒーを飲んだ。いつもは加える砂糖を今回は断った。口の中に残った甘さはもうほとんどなくなっている。
「こっちのこれは?」
歯車が言っているのはもうひとつの箱の方、レースのリボンの隙間に差し込んである、手紙と黒い羽根のことだろう。最近は彼女への”挨拶”もご無沙汰だったので、いくらか彼にも罪悪感が湧いていたのだ。この程度では、埋め合わせにもならないだろうが。
「その、いいだろう別に。変なことは書いてないし、大丈夫だよ」
「……そうか」
何故だか心配そうに手紙の方を気にしている。何が問題だというのだ。咎めるような視線に気づいたのか、歯車は肩をすくめてこう言った。
「お前、自分の使ってる文法がかなり古いって、気づいてるか?」
「……うん?」
「何だこれは!」
炎の魔王はそう叫んだ。素早くレースの紐を解くと、ぱかりと箱を開けて、中に収まったドーナツ型のチョコを頬張り、そして
「あまーーーーーーーーーーーーーッ」
後ろに倒れ込んだ。彼はここにくるまですっかり失念していたが、レーヴェの世界はその二つ名の通り、熱いのだ。チョコレートは相性が悪かった。
「チョコ、溶けちゃうよなぁ」
倒れた拍子に放り投げられそうになった箱をキャッチした金色の勇者がそうぼやいた。
「失敗したよ。普段持ってくるドーナツは溶けたりなんかしなかったから」
君も食べていいんだよ、と促せば少年勇者は少し迷った。この勇者がいるとは思わなかったので、チョコはひとつしか持ってこなかったのだ。しかし、それを聞いた瞬間、がばりと世界の主は起き上がって、その手から乱暴に箱を奪い去るとドーナツを引っ掴み一気に食べてしまった。ぽかんとしているふたりのことなど眼中にないのか、
「あ、あまーーーーーーーーーーーーーッ」
再びそう叫んでいる。異常を察知した地獄鳥たちがわらわらと集まってきた。
「どうされましたか、魔王様。まさか毒でも盛られたのですか? おのれ勇者め卑怯な真似を」
「俺じゃないからな!? アッ、お前そのチョコだらけの手をどうするつもりだ! って俺で拭うんじゃない、ヤメロ!」
ふむ、包装の重要性は時と場合によって意味を為さないようである。彼は少し安心して、背を丸めた。
「今日はどうされたのです?」
仮面をつけた魔王が彼に問うた。いつもなら興行終わりにふらりと団長室を訪ねてくるはずが、今日という本当に何でもない日に彼は現れた。彼の手にはドーナツの入ったいつもの紙袋はなく、代わりに出されたのは綺麗に包装された小箱である。
「アー、その、スペシャルドーナツなんだ」
「ふむ。そうでしたか」
どこに納得したのか分からないが、ジンはそう返事をするとレースの紐を解いて、中を確認した。
「確かに、特別なもののようですね。今まで見た中でも一番チョコレートがふんだんに使われている」
ああジン、それは多分ドーナツの形をした、ただのチョコレートなんだ。彼はこの主張を胸の奥に仕舞い込んだ。言わないでおこう。
いい香りのする紅茶がティーカップふたつに注がれ、ジンの手によって綺麗にドーナツは切り分けられた。彼がしまった、と思ったときにはもう遅かった。この流れ、いつもと同じなら一緒に食べることになる。せっかく口の中に広がる甘ったるい地獄を切り抜けたと思ったのに。しかし、彼にとってドーナツとは友情の象徴だ。このテーブルから離れることはできない。しかも丁度膝の上でうさぎのような姿の生き物がごろごろと寝転がっている。
では、とジンはフォークの先端に刺したひとかけらを上品に口の中へ運んだ。逃げられない。彼もチョコレートを頬張った。気絶したくなるほど甘い。紅茶で流し込む。ジンの様子を伺った。彼の真向かいに座っている魔王は、たったひとかけらをあろうことか丁寧に慎重に味わっているようだった。
ああジン、君に感情が戻ったら「あのドーナツすごく甘かったですよ」なんて言われてしまうんだろうか。
言われてしまうに違いない。実際死ぬほど甘いのだ。
ドキドキしながらジンの感想を待っていると、魔王はカップを持ち上げて、一言。
「好みであるかどうかはやはり分からないのですが、とても美味しいと思いますよ」
「そ、そっか」
無難な答えである。というか、それ以外に答えようがないのだ。ジンには現在感情は残っていないから、好ましいとか好ましくないとかは分からないのである。そして彼のドキドキは、いたずらが今後バレるかどうか全く分からない子供と同じ質のものだった。
「ジンの淹れてくれる紅茶は、いつもとても美味しいよ」
「お褒め頂き光栄です。今日は特に、このドーナツとよく合いますから」
そうだね、とにこやかに相槌を打つ。ドーナツはまだ半分残っていた。
「……」
そのひとはレースの紐の端っこを指でつまみ上げたまま、黙っていた。
「深い意味はないから。本当にないから」
森の中で野営していた翡翠の勇者の元に、黒い天使は綺麗に包装された箱をプレゼントしに現れた。まぁ、どう考えても不思議に思うなという方が難しいだろう。当然のごとく、説明をしろ、というように無言で見つめられる。
「いつものドーナツだよ。特別製だから、特別な包装をしてみたんだってさ」
「まぁ、そういうことなら構わないが」
事情を説明した途端に、翡翠が表情を和らげたのが彼にも分かった。いつものことながら、小さな少女ひとりに大層振り回されている魔王のことが面白いのだろう。むくれると、多分むくれるなと言われる気がして彼は努めてなんでもない表情を装う。それを見て、翡翠はとうとう口元をほころばせた。
「なに!」
「いや、何というか、こんなふうに贈り物を貰う間柄になるとは、少し前の私なら微塵も思っていなかっただろう、と思ってね」
「な、なにそれ……翡翠も案外恥ずかしいこと真顔で言うんだね」
何だか顔が熱い気がする。忍び寄るそわそわから逃げ出したくて、彼は立ち上がった。両翼を広げて飛び去る前に、翡翠の方をちらりと見る。
「……いつも、ありがとう」
「ドーナツの件なら、礼を言われるようなことではない。こちらこそ、ありがとうと彼女に伝えてくれ。そうではない、というのなら……私は、まだ礼を言われなければならないことはしていない」
「違うよ。翡翠がそこにいてくれるだけで、心強いと僕は思う」
「喜んでいいのかな、それは」
「……うんと喜んでくれ。これでも、頼りにしているつもりなんだ」
「その期待に応えられるように、努力するよ」
返答の代わりに、彼はびゅんと風を巻き上げて夜空の向こうへ飛んでいった。一瞬の軌跡をその目で追っていた翡翠は、しばらくたった後にその包みを開ける。
そして、中のチョコレートのあまりの甘さに言葉を失った。
「ドーナツ、ですか?」
薬師の勇者と囚獄の勇者が座った目の前のテーブルには、レースで結われた箱が2つ置かれている。不思議そうな顔をしているヤナギの横で、カイは手持ち無沙汰なのかレースのリボンの端をくるくる指で回したり、形を綺麗に整えたりしている。
「ドーナツっていうか、穴の開いたチョコレートっていうか。なんて言ったらいいのかなぁ。とにかく、うちの……えっと……」
そうだ。ヤナギにはまだ自分が魔王であり、眷属にドーナツ作りが趣味の少女がいる、なんて話はしていない。ここで、カイがにこにこ笑いながらこう言った。
「ウィルは知り合いにお菓子作るのがうまい女の子がおって」
「うん違う、僕が作った」
カイとしては助け舟のつもりだったのだろうが、何だかややこしい気配を感じて、彼は咄嗟にカイの言葉を遮った。ごめんカイ、とそちらの方を見れば、きょとんとした顔はみるみる明るくなり、面白いものを見つけたようないたずらっぽい顔になった。
「なんや、ウィルが作ったんやな!」
よく分からんけどそういうことにしといたるわ、とそのまま続けそうな調子である。あれ、自分でややこしいことにしてないか、と彼は思った。その通りだった。怪訝そうな顔をしていたヤナギの竜胆色の瞳から、人生で初めて相対するへんてこな物体を眺めるような、そんな印象を受けるのだ。何だかつらい。
「これを、あなたがですか」
この白いレースのリボンも黒い箱も、この可愛らしい雰囲気のデザインも含めて全部あなたがですか、という問いだ。ああ、そうじゃないんだって言いたい。彼はうつむいて、テーブルに置いた拳をぎゅっと握りながら正直に答えた。
「そう……だよ……ッ」
「な、何故そんな絞り出すような声で……」
「おれ、お茶淹れてくるわ!」
もう何だか面白くてたまらないというふうに、カイは部屋を出ていった。階下でお湯を貰ってくるつもりなのだろう。途端に部屋は静まり返った。何故気まずい雰囲気になったんだ? さっぱり分からない、と彼が黙っていると、ヤナギはそっとレースのリボンを指先で掴んだ。
「開けてもいいですか?」
「どうぞ」
彼はうつむいたままそう言った。箱をぱかりと開けて、ヤナギは感嘆の声を上げた。
「チョコレートだ」
彼が顔を上げる。まるできらきら光る美しい宝物でも見つけたかのような表情を浮かべていた。数度まばたきをした青紫の宝石が、次に彼を捉えた。
「何ですか?」
「いや、そんなに喜ぶものかなって。甘いもの、好き?」
「嫌いじゃないですよ」
その答え方に棘はなかった。むしろ、ちょっと嬉しそうだ。もしかして、チョコレートが好きなのか。と、同時に良心が痛む。嘘なんかつくんじゃなかった。
ばたばたと騒がしく戻ってきたカイがドーナツ型のチョコレートを見て歓声を上げ、喜びながらお茶を淹れ、ふと開封されていない方の箱を見て彼に尋ねた。
「あっちは?」
「ああ、そうだった。カイに頼みたいことがあって。それをかの、じょ……アー、僕の……母さんに渡して欲しい……」
誤解を避けるために(それも、誰にとってのどういった誤解であったのか、彼には全く説明がつかなかった。魔が差したのか?)そう発言したのだが、もうこれがかえって誤解の上をいくあんまり知られたくない真実を喋ってしまったことに気がついたのは、顔が何だか焼けるように熱いことを感じたときだった。
「お、お母さん……?」
「ち、ちが……いや違わないけど……」
「ええやん、ウィルのおかんであっとるで!」
それからカイは確かに預かった、というと手紙の差し込まれたそれをそっと手元に引き寄せた。カイは相変わらず何が嬉しいのか満面の笑みをたたえて彼を見ている。何故だろう。何故こんなに悔しいのだろう。別にカイはなんにも悪くないのに。
「いいから、もう食べちゃいなよ。言っとくけどすごく甘いから」
「3等分にするけど、ええかな?」
また食べるのか。もうこうなったら最後まで付き合ってやる。彼はやけくそになっていた。
こうして彼らは、悶絶する甘さにひいひい言いながらチョコレートの輪を綺麗に平らげた。ところで、どうしてチョコレートケーキなんて作ろうと思ったんですか、というヤナギの質問に対しては、チョコレートケーキじゃなくてドーナツだよ、と答えたきり、彼は黙ったままだった。