@kyuri_akita
『力が・・・ほしいか』
低いしわがれた老人のような、それでいて、幼い子供のような声だった。老人か幼子かもわかりはしない。どちらの区別もつかない不思議な声は夢ではないかとさえ思った。自分の意識はすでにどこか遠くへあり、現実には縫い止められてはいないのだ。
だがその声に引きずられるようにして、散らばりかけていた意識を集めた。霧散して沈んでいた意識をつなぎ合わせて浮上させる。
のんびりと、音を言葉として、脳にしみこませた。
じわじわと頭に染み渡るその言葉は。
その問いかけは。
幻聴のようだった。
今更、と笑いそうになる。だが、笑える力すら残ってはいない。指先も足もついているのかわからなかった。体はすでにすべてばらばらに砕け散っているようだ。四肢の先と意識はつながらず、あるのかないのかもわからない。
動かせもしない体はひどく冷たい。床に投げ出されたままでいるから、寒くて仕方ない。
だが、それは思うだけで、どうにも動くことなどできはしなかった。それだけの力はもう、体に残ってはいない。
寒さをしのぐために、自分さえ食べる捕食者に身を寄せるしかない。そうせざるを得ないほどに、ここは寒かった。
空腹でろくに頭も回りはしない。かろうじて意識が残っているのは、そばにいる捕食者が、水を飲むついでに、自分の口元に水を垂らしているからだろう。
腹が減って、指先一つ動かせはしない。何もかもすべてがひどく重いような気さえした。そうしてまた意識は四方へと霧散しかける。
意識がなくなる前に、ふと。
食べるなら早く食べてくれ。
と、ぼんやりと考えた。
なぜまだ意識があるのかもわからない。自分の隣には、毛皮にくるまれた、がりがりに痩せた大きな獣がいるというのに。
(なぜ)
力がほしいかと問われるのだ、と回り切らない頭で問う。
仕方なく重たい瞼を上げて、その声の主を探す。
(ああ、はやく、)
寒いはずなのに、なぜだかあたたかい。
(わたしを)
瞼が重いが、開けなければならない。
(はやくたべて)
ふ、と瞼を開く。
視界の先には、毛むくじゃらの、細くしなやかな足と人間の腕が見えた。
ああ、やはりそばにいるのだ、とぼんやりと思って、なぜか人間の腕がやけに太いな、と目を凝らした。
もう腕はろくに動きもしないはずなのに、こんなにたくましいはずがない。
そもそも、自分の腕はあまり太くはならない、と思い出した。
おかしい、と頭を上げる。
すると自分に覆いかぶさるように腕を乗せられていたことに気づいた。ようやく、自分の腕ではない、と断言できるほどに理解する。
自分の体の上に腕を投げ出して寝ていたのは、長い髪の人間だった。自分の体を抱きしめるようにして、すーと小さな呼吸音を立てている。
ここは、かつて捕食者がいた、冷たく暗いところではない。
自分の体は、重くなく。
あの丸い目をした、黄色い眼の獣はいない。
ゆめか、とふん、と鼻を鳴らした。
頭だけでなく、体を持ち上げる。すると、自分の体の上に乗っていた腕がぱたりと落ちていった。
だが、そばで眠る人間は、起きる気配がない。
長い髪の下の肌は、血管でも透けそうに白かった。かつて、自分はここまで肌の白い人間を目にしてことはないと、思わずまじまじと眺めてしまう。
茶色い髪は、きれいに手入れがされているようで、星明りに反射してきらきらと輝いていた。顔は見えないが、その肌といい、髪といい、身分の高い人間であることは容易に推測できる。
寝床はこの国では高級な木枠で作られたものだった。自分が寝ていた下にはふわふわとしたものの上に布が敷かれている。
頭がぼんやりとしていたが、あたりを観察しているにしたがって、徐々に寝る前のことを思い出す。
(そうだ)
熱せられた砂の上で、ひたすら人ならざる者を殺していた。そうだった、と思い出す。
そのあと、人ではない怪物を殺せるだけ殺し、出現しなくなったころ、やることがなくなって、水辺に向かったのだ。
体には、おびただしい量の怪物の体液が付いていた。
このままでは、何をしたのかと問われてしまう。自分の生活している宿舎に戻れない。
だから体を清潔にするべく、イーゲラ砂丘の先にある小さなオアシスに向かった。
そこでは怪物があたりにたくさん出るからと、人はいない。そこでいつものように体の汚れを落としたとき、その水辺に、たき火を炊いたあとのような火のあとがあった。
見つけたその火のあとから、人がいたことは間違いがない。その人間はどこへ向かったのかとわずかに残った匂いを辿ってみれば、月の神殿にたどり着いた。
なんだ、ということは人間がいる街にこれたということなのだろう。べつに途中で怪物に襲われたりしなかったんだ、と少々肩透かしを食らった気分だった。
それじゃあもういいか、と自分の寝床に戻ろうとしたとき、さすがに砂漠の山を二つ分は走ったためか、喉が渇いていた。月の神殿の中から聞こえてくるざあざあという水の音に余計にひかれて、つい水が飲みたくなってしまったのだ。
すると外壁の一部から草が出ていた。においもそこに残っていたのでよく見てみると、巧妙に隠されてはいたが、中に入れるようになっていた。
だからその隙間からつい中へ入り、水を飲んだらさっさと帰ろうと思っていたのだが。
中があんまりにも涼しくて快適だったので、ちょっと休憩していこう、と思って横になってしまったのだ。
(それから寝すぎたんだな)
真実はいつも一つだけである。
帰るか、と寝床から立ち上がって床へと降りる。
ぎし、と木でできた寝床が軋んで音を上げた。その音にびっくりして思わず振り返る。だが、その人間は起きる様子がない。
ふー、と息を吐いて、改めてその人間を見てみた。
肌は白いし、髪も長いが、体つきはしっかりとしている。おそらく男だろうと見当をつけた。なぜこの男の寝床に自分がいるのか、さっぱりわからない。暖でもとるためだろうか、と首を傾げると、じゃら、と音がした。
振り返ってみれば、入り口に、大量の飾りをした男が立っている。
金と、名のしれぬ色のついた石。それらはすべて加工されて、首や耳、手首に巻き付いている。その身だけでもいくらの価値が出るのかも知れぬと、反射的にそんな存在に頭を伏せそうになった。
「・・・なんと、本当にひとでないとは」
驚いたように伏せられたままの瞼が震える。
かつて、自分を面白そうに目を眇めて見せた男の赤い眼は、その体にはもうない。もう面白そうに自分を眺めることは永遠になかった。
落ちくぼんだ瞼。
体に巻かれた絶叫のような傷跡を隠すための白い布。
かつてとは違う姿になったが、それでも愛する人をなくしてもなお、気を狂わせぬ男がそこにいた。
自分の祖国にいた、愛するものを失って、気を違えた女を思い出す。
同じ人間であるというのに、片や気を違え、片や自分の意識を保っている。
自分は人間でないからよくわからないが、何とも不思議であるとよく思う。どうしてそうして差が出てしまうのか、そこだけは理解が及んでいない。
「おまえを見たとき、たいそう面白い生き物だとは思ったがな。人と狼の混ざりなどそうはおるまい」
く、と男は瞼を震わせて笑う。
かつて、その眼は雄弁に感情を語っていた。
だがもう感情を容易には図れないのだと、改めて思い知る。
「いやあ、はじめてお前を見たときを思い出す」
何が面白いのか、この国の王は、くつくつと笑いながら続けた。
「あの時のおまえと来たら、そのくちで余のために死ねると言っておきながら、ちっとも死ぬ気はなかったではないか。あのときの戦いは、彼女が喜んでおったほどだ」
この王と初めて会った時の妃は、この間還らぬ人となった。
もっとも、王であるということは、隣に立つ女が変わっただけに過ぎない。
それでもこの王は、己の眼を、先にゆく彼女に預けた。
先に、神のもとへ渡していてほしいと。
それが、自分を守る神に報いることなのだと。
彼女のためでなく、ただ自分のためだと言って目を捧げた。
「死んでもいい、と言いながら死ぬ気はなかった。まるで中身と体がおうておらぬ。だが、強くはある。一向に人のままであるゆえ、てっきり余の見間違いかと思うたぞ」
この王には自分がひとかなにかに見えているかに違いない。だからそのようなことを言うのだろう、とうつむいた。
「・・・その身ではしゃべれぬか」
どうとも答える前に、よいよい、と手を振って、体を壁に預けた。
よく見れば、白い布からはじんわりと血がにじんでいるところもある。いまだに癒えぬ傷で、体はかなり負担を負っているのではないのかと思った。
あまりこうしているのもよくはないのだろう。
すーと音を立てて寝る男に目をやる。
そして王に視線を向け、背を向けた。
このまま王の勘違いであったということになればいい、と窓辺に歩み寄る。
「なんだ、帰るのか」
ふん、と鼻を鳴らして、同意したつもりだった。だが、王はくく、と何が楽しいのか笑うばかりである。
「たしか、警備兵は専用の宿舎があったな。うむ。帰ってよいが、・・・よいか、また戻ってまいれ」
は、と思わず頭だけ振り返ると、にやりと口元を曲げていた。
なぜだか試すような顔をしている気がした。そこから拳でもとんできて投げ飛ばされそうな予感に、しばらく動きを止める。
だが、手は飛んでこない。
気のせいだったのか、やれやれ、悪いお人だ、と頭を振る。そして前を向き、窓辺に前足をかけた。
「よいか、戻ってまいれ」
もう一度聞いた気がして、今度は頭だけではなく、体ごと振り返った。
すると音もなく近寄っていた男が、自分を上から見下ろしていた。
「・・・お前は、おまえを拾った男が何者か、知らぬようだ」
あんな髪の長い男は知らない。そもそも普段は王族を見る機会はあまりないのだ。
黙って男の視線を受けていると、開かない瞼が、痙攣したように震えた。
「あれは、我が同腹の弟、神が与えたもう我が光、リヒトールだ」
聞いたことがある、と思わず体をこわばらせた。
シュドカヘメト王の唯一の同母弟。
心優しき神官であり、眼が見えず、王の一族が持つ力をあまり受けつがなかったという。普通ならば出来損ないと言われそうなものだが、彼はその存在を喜ばれている人だった。
神に深く愛された子。
平和の御子。
王の力が強すぎたから、というのもあるが、その王位継承者の弟は盲目なため、王位継承による争いが起きなかった。比べるまでもなく、その弟は自ら王位継承権を辞退し、眼が見えないからと、周囲も反対することなどなかった。
そのことを、国民たちは喜んでいた。
王の弟であるあの方のおかげで国内は平和なのだと。
ただの国民が、そんな風に口をするのを、おかしなものだとずっと思っていた。
「・・・王になる前は、俺とてただの人よ。幾度も迷い、神を疑い、悲しむことすらあったとも」
我らはそれが許されぬ身だが、と王は口元を歪めた。
「今だからこそ、こうして口にできる。俺は人以上に、神の教えを守らねばならぬ身だったゆえな」
なぜ自分などにそんなことを言うのか、と鼻の頭にしわを寄せた。
聞きすぎないほうが良いと、スルザは反射的に思った。
地獄の底まで抱えてゆかねばならぬ貴人の独り言など、聞くべきではない。
何かに巻き込まれてはたまったものではない。反論すべきだ、きちんと、とスルザは意識を明瞭にさせた。
「聞きたく、ない」
「・・・なんぞ、ひとに戻ってしまったか」
面白かったのに、という王の足元に座り込んで、スルザは俯く。
「だが聞け、狼よ。俺を救ってくれたのは、いつも我が弟だった。あれはまさしく俺の光である。あれはやさしく、慈悲深い。・・・ゆえに兄としては、その反面、ちょっとふわふわすぎて心配というか、ちょっと天然すぎるというか、浮世離れしすぎというか、もうちょっと現実を知ってもいいというか、いや、あれを平和の子として囲ったのは俺なのだがな、だが、我が一族であるうえに、『エスタブリッシュアイ』が使えぬあれがさらわれてしまって、子でも作られたらたまらんのでな。というか、あいつの子は早く俺も見たいのだが」
ものはものらしく、おとなしく聞いているしかない。
なるほど、この王にもそれなりの考えがあったのはわかる。
うっすらとわかるものでしかないが。
とはいえ、それもほとんどが私情じゃないか、とも思わなくもない。なぜそんなこと聞かせるのかわからなかった。王の一個人の感情など、永遠に抱えて墓場まで持ってゆかねばならない秘密だ。できることなら知りたくなかったとスルザは肩を落とす。
「うむ、だから、おまえはちょうどよいと思ってな」
スルザは理解できないと、王を見上げた。
「あれはやさしい。すぎるほどに。皆に優しく、愛を与えられる。だがそれは、裏を返せば、誰も特別でないのと同義だ」
そんな男と、何がちょうどよいのか、スルザには分からない。
王の言葉はすべて、ただの音だ。
それらの言葉は、ただ言葉として知っているだけで、理解に及ぶものではない。
愛とは何なのかと、スルザは考えたこともない。
「兄としては心配なのだ。誰も特別でないということは、あるときふと、消えることさえ厭わぬだろう」
それが神からのささやきならば、と王は言った。
この国は、神がまるで本当に存在するかのようにふるまわれている。いるはずもないというのに、ただその一点だけは、スルザは賛同できない。
神などいない。
それらしいものがいるとしたら、それはただの怪物だ。
いや、死神かもしれない。
それだけは唯一、いるとスルザは認めている。
「あれは昔から、ふと姿を消す。神のもとへさらわれる。この世への執着が薄いのか、それともあれがいらぬと望んでいるかはわからぬがな。だから、弟を見ていてほしいのだ」
そんなことは別の人間に頼めばいい、とスルザは思った。
だが思うだけで、それを口にすることはできない。命令されれば従う。たとえそれがどんな命令であれ。スルザはそういう生き物なのだ。
「ひとではだめだ。あれはひとに心配をかけまいと笑う。時折、人をだましているのではないかとさえ思ってしまうほどに。だから、戻ってまいれ。何度でも。我が光の影踏みとなれ」
まるで考えを読まれているようだった。
この男は本当に王であり、支配者だ。だからスルザにその言葉に対して、何かを言うことはできない。
「・・・御意に」
いつも通りの、これまで何十回と口にした言葉を、ただつぶやく。
うむ、と朗らかにそれを喜ぶ王に、スルザは膝をついてしまいたくなった。スルザはもので、人ではない。だからいくらだって地べたに転がっていても、一向にかまわないのだ。
だが、この国ではそれは望まれぬ行為だ。
だからしなかった。
「・・・それに、あれが興味を持つのも珍しい」
ぼそりとつぶやいた言葉に、顔を上げる。
うまく聞きとれなかったため、もう一度言ってほしいと待ってみたが、口元は曲線を描くだけで再度言葉を口にすることはなかった。
「そうだ、いっそ、おまえをリヒトールの傍仕えにしようか」
その言葉に、さすがにスルザは目を細めてしまった。
神殿内での貴人の傍仕えなど、奴隷にできる行為ではない。いつだってそこそこの家柄の人間がするものだ。
それに、そんなただ世話をするだけのことなど、自分にできるはずがないと目を伏せる。
(おれは、殺すしかできない)
「・・・言いたいことでもあるのか。俺は見えぬゆえ、口にせよ。許すぞ」
許す、といってはいるが、ほとんど命令に近い。スルザは息を吐きたいのをこらえて、必死で言葉を選んだ。
「・・・恐れながら、おれには務まりません」
その言葉をどうとったのか、ふむ、と頷いた。
「・・・そうか。まあ、よい。今は、戻ってくるだけでよい」
今は、というのが嫌な言葉だ。だが、許しは得られたので、スルザは頭を下げると、自分の意識を薄くした。
前足を窓にかけて、木枠に乗る。部屋は意外と高い位置にあったようで、降りるのにいくつか足をつかねばならないと見積もる。
「・・・器用なものよ」
その感想を聞きながら、窓から飛び降りた。適当な足場に何回か着地して、どさりと地面に降りる。
青い夜の中で、月明かりに反射して銀のように砂が光っていた。着地したことで舞い上がった砂の中から、背後を振り返ってみる。
星空にそびえている部屋は、ずいぶん高い位置にあった。ちょうどよく、分かりやすい高低差だ。
自分はあれを登ってゆかねばならぬかと思うと、ふーと息を吐いてしまった。
すぐに前を向いて、スルザは意識をはっきりとさせる。地面についていた手を持ち上げ、二足になると、自分の宿舎に向かって走った。
夜の砂漠は、月明かりに照らされた砂が白くなる。頭上の昏さは月明かりと星明りが遮り、影しか残さない。
そんな中を、ただ静かに走った。
何はともあれ、明日は朝から仕事である。
(夢かもしれないしな)
そんな一抹の期待を胸に、宿舎に戻り、自分の寝床で丸くなったのだった。
翌日、自分で整えた寝床で丸まって寝ていたスルザは、起きろー、という同僚の大声に起こされた。
警備兵の宿舎は、それぞれ個室が与えられている。そんなに広くはないが、一人の部屋には机と煉瓦で作られた寝床が置かれていた。そんな部屋で、床に獣の皮を敷いて、丸まって寝るのがスルザの生活だ。
ずっと変わらないその生活から、新しい国に来たところで変えることができなかった。その姿に、ゴーランはいつも起しに来ては苦笑している。
眠りの浅いスルザは、すぐに起きる。手早く顔を洗って、一階に置かれた食堂に向かう。大体そこで食事をしながら、スルザたちの班は、みなで一日の予定と、関係ないことを話し合うのが朝の日課だ。
「おう、寝癖そのまんまだぞ、スルザ」
降りてきたスルザに、同僚のケッカが頭を指して笑った。
彼もふわふわとしたくせのある頭をしているくせに、と目を細めて反論する。
だが、別にそれぐらい、と思って、スルザが空いていたケッカの隣に座ると、向かいに座っていたサファラは水持ってくる、と立ち上がっていく。
ゴーラン以外はすでにそろっているため、スルザは丸いテーブルに並んだパンをつかんだ。
そうするとケッカとは反対に座っていたブートが、ほらよ、と野菜の煮込んだスープを差し出してくる。
ゴーランだけは家族がいるため、特別なときでない限り、警備兵用の宿舎ではなく、自分の家に帰っていた。そのためもうしばらく来るのに時間はかかるだろうと、スルザは差し出されたスープを見なかったことにしてパンをほおばった。
「なんだよ、お前、僕のスープが飲めないっていうのか」
「・・・ブートが作ったわけじゃないだろ」
突っ込んで見せると、反対に座ったケッカがたしかに、と笑う。
「いいからもっと食べろ」
わざとらしく目の前に差し出してくるブートをにらみつけ、仕方なくスープの皿に手を伸ばす。
「そうだぞ。昨日は帰りも遅かったみたいだしな」
よく寝て、よく食え、と静かに言ったシェカーの言葉で、テーブルがしん、となった。
汁を啜り、野菜までごくりと飲み込み、シェカーに視線を向けるブートとケッカに首を傾げる。
つられるように、スルザもシェカーへと目を向けた。
にこりと半円を描く口元の上には、赤みがかった布がまかれている。頭の上まで回して結んでいる布のおかげで目元は見えず、表情はよくわからないままだ。
シェカーは目が悪い。
それも彼の一族特有のもので、日中も砂に反射する光に耐えられないからと、目元を布で覆っていた。彼の一族はシェカールチーと呼ばれており、代々王に仕える一族なのだと聞いている。シェカールチーは皆眼が悪く、陽の光に耐えられないのだ。夜はなんとか布がなくとも平気だが、昼間は手放せないと彼がつぶやいていた。
シェカールチーはみな、シェカールチーと呼ぶのがこの国の決まりらしかった。だからシェカールチーである彼は、シェカーと呼ばれている。彼らの一族は一族内での名前が個別にあって、それは親しいものにしか教えないという。
彼はいつも口元を緩く曲げていて、眼を覆っている割にはたくさんの出来事を把握している。シェカーはたくさんのことを知っているが、シェカーの感情を知るのは、いつだってスルザには難しい。
「え、ちょ、ちょっとまって、スルザおまえまさか・・・あ、あさ、がえり?」
こわばる表情で恐る恐る聞いてくるケッカに、帰った時間を思い返す。
朝ではなく、夜であったのは間違いない、とパンをほおばった。
「おいやめろ、ケッカ!そう言うこと言うな!おまえほんと、ほんとそういうとこだぞ」
「だ、だってじゃあ、ブートは知らないままでいいのかよ!?ああン?」
「知らなくていいわけないだろ!聞き方の問題なんだよ!なんで一番初めにでてくるのがそれなんだよ!もっといろいろあるだろ?いろいろさあ!お前ほんとに後衛かよ!慎重さが足りないんだよ!」
頭上で言いあうケッカとブートを無視して、スルザは食事を終えた。シェカーは相変わらず口元を曲げてこちらを眺めるばかりで、ブートとケッカを止めるつもりはないらしい。
「・・・シェカー、俺が帰ってきたのは夜だ」
知ってるよ、と言ってから、彼は頬杖をついた。
「あさがえりってそういう意味じゃない。俺たちは、どうして夜に帰ってきたのかを聞きたいのさ」
イーゲラ砂丘より先に行くなと忠告したのはシェカーだった。その彼に、まさかイーゲラ砂丘に行っていた、と言いづらく、スルザは黙り込んでしまう。
「ほらあ!!」「だからすぐそういうことに結びつけんな!!」「それ以外に何かあんのかよお!!」
二人の悲鳴のようなやりとりがうるさくて、スルザは思わず鼻にしわを寄せる。
ろくに考えもできない。よい言い訳が思いつかないから、もうこいつら殺して黙らせたほうが早いのでは、と思い始めたとき。
「うるさいよ、ブート、ケッカ」
背後に立ったサファラの声に顔を上げると、茶色い目が、すぐにスルザを見下ろした。
お前は前を向いてなさい、と頭を押しのけられ、ついでのように果実の乗った皿が目の前に置かれる。乾いた土地の果実は水っぽいが、その味の薄さがスルザにはちょうどよかった。目の前に置かれた緑の果実を口に放り込んで口をいっぱいにしていれば、サファラが頭を水で撫でているのがわかる。
「チュリトーはなくならないから、好きなだけ食べなよ。そんなに急がずにさ」
緑の色をした丸い果実は、水で洗えばそのまま食べれる。チュリトーはこの国の食べ物の中でもスルザが積極的に口にするものだった。
「・・・サファラ、点数稼ぎが露骨だぞ」
シェカーの声に、はん、と笑ったサファラの声が聞こえた。
「いじめてばっかのおまえと一緒にしないでよ。悔しかったら、同じようにやってみれば?」
ぎ、と食卓を囲む男たちの視線が一気にサファラに向いた。
このときばかりはシェカーも不機嫌そうなのが、スルザにもわかる。
なぜそんなにみんなして騒がしいんだ、とスルザは息を吐き、皿に盛られたチュリトーを食べ終えた。
「・・・じゃあお前は、スルザが夜遅くに帰ってきたの、どうしてか、聞きたくないのか?」
水で頭をなでていたサファラの手がぴたりと止まる。柔らかい物腰で、女と見間違えそうな顔をしているサファラだが、その実、ゴーランよりも怪力だった。
もう終わったのかと顔を上げると、にっこりとサファラが笑っていた。
「ひっ」「シェカー!軽率につっつくな!おまえもそういうとこ!」「今のはほんとわるかったごめん」
三人の男の反応を聞きながら、スルザはにこにこしているサファラを見上げる。
サファラは、スルザ、とやさしい声で呼びかけた。
「帰りが遅かったの?」
「朝がえりじゃない。夜だ」
ふうん、とサファラは一度、食卓を囲む男たちを見やった。
「スルザにあさがえりとかいう言葉を教えたやつ誰だぁ?」
低い声にびくりとスルザが反応すると、ぽん、と肩に手が置かれた。
「あ、ごめんよ。スルザ。で、なんで帰りが遅かったんだ?大丈夫、怒らないから俺に言ってみなよ。な、怒らないから」
にこにことするサファラが、怒らないと言っている。
ならばいいか、と思いつつも、シェカーの好意を踏みにじっている自覚はあるので、口は重たかった。
「大丈夫、怒らないよ、怒らない。場合によっては、うるさい三人をまとめて俺が静かにするよ」
だから俺に言ってみ、と言われて、スルザは肩を落としてうつむいた。
「い」
「「「「い?」」」」
言葉を詰まらせると、四人同時に聞き返す。申し訳ないとうつむいて、スルザは殴られる覚悟を決めた。
「イーゲラ砂丘の先まで、散歩してた・・・」
「・・・それでそんな遅くなるか?」
ケッカの問いかけは皆の総意のようで、また静まり返る。スルザは仕方なく、昨日の顛末を語ることにした。
「砂丘の先に、オアシスを見つけて、そこで休憩した。そうしたら焚火のあとをみつけて・・・その、シェカーがイーゲラ砂丘には近づくなっていってたし、そもそも神殿の先だからあんまり人はいかないはずなのに、変だなって思って、ちょっとだけ匂いがあるから追ってみたら、神殿までたどり着いて・・・匂いを追ったら、外壁の一部に穴があって、草が見えたから、ちょっと休憩ついでに中に入って、うとうとしてたらその・・・寝すぎて、真っ暗で」
王に会った話はあえて省いた。それは知らなくてもいいことだ。わざわざ墓場までもっていかねばならない秘め事を抱える人間を増やす必要はない。
うーん、とそれを聞いた四人は、みんなして唸った。
「おい、シェカー、どうする?スルザはいい子だったけど、これやばくね?」
だな、とシェカーも口元を曲げながら同意する。
「穴つっついて蛇だした気分だ・・・」
「とりあえず班長に報告だね」
いい子、とサファラに頭をなでられたスルザは、わけがわからず首を傾げた。
とりあえず拳は飛んでこないが、みんなが難しそうな顔をする理由がわからない。
スルザが首をひねっていれば、おおい、と声をかけながら、ゴーランがやってきた。みなは一斉に口をつぐみ、上司が難しい顔をして口を開くのを待った。
「ずいぶん遅かったな」
シェカーの言葉に、はあ、とゴーランは返事のように重たい息をついた。
「シェカー、聞いてないのか、警備長のシェカールチーから俺は呼び出されていたんだが」
シェカールチーは王族に仕える一族なので、スルザの仕事柄、よく聞く名前である。いたるところで働くシェカールチーたちは、役職をつけて呼んでいた。
聞いてないな、と首を振ったシェカーを見て、そうか、とゴーランは肩を落とした。
きっとよくないことを言われたのだろうとスルザは思った。こうして落ち込んでいるときは分かりやすいのがゴーランだった。
「率直に言おう。スルザを、リヒトール様のそばにつけたいと言われた」
ゴーランの言葉に、スルザは思わず立ち上がった。
あの貴人は傍仕えなどさせないと言っていたというのに、下ってきた命令はこれだ。
(話がちがう)
だが、命令であれば仕方ない。スルザに拒否権はないのだ。黙って座り直せば、ははあ、とスルザ以外の同僚はみんなして、なぜかわかったようにうなずいた。
「しばらく外壁の警備よりも内部に警戒を強めたいそうだ」
全くなにを考えているんだか、と吐き出すゴーランに、仕方ないね、サファラはスルザが遅くなって帰ってきた理由を話した。
それを聞いたゴーランは、顔をしかめて仕方ないな、と言った。
「その穴は塞ぐしかない」
ゴーランがあきらめたように言えば、シェカーは首を振った。
「いや、塞がないほうがいいな。こっちが気づいたと報せるようなもんだ。犯人が見つかって、ことが起こるまではそのままがいいだろう」
「俺もシェカーに賛成。そのひと、慎重派っぽいしね~」
はーい、とケッカが同意し、そうだな、とブートも同意した。
スルザだけがわからず、首を傾げて、背後に立ったままのサファラを見上げた。
「おや?よい子のスルザはわかってないのかな?」
スルザに気づいたサファラは楽しそうに目を細めた。
「・・・なんでみんなはわかるんだ」
そう低い声で言えば、ぶふ、と隣でケッカが吹いた。反対では、まあ、スルザはあんまりこういうの向いてないもんなあ、とブートがぼやいている。
「お前が見つけた穴は、おそらく誰かが意図的に空けた穴で、そんな外壁のところからこそこそ入らないといけないような奴が、月の神殿に入り込んだって話だ」
シェカーの説明でようやく理解したスルザは、思わず口を横に結んだ。
「それも、イーゲラ砂丘の先から来るような奴だ。見つからないようにするためにかなり慎重に動いてはいる。お前はあまり興味がないかもしれないが、ここの王族は特殊な力を持っているからな。万が一、その血が外に出たら大変なことになるんだ。だからおそらくお前が指名されたんだろう」
警備兵の関係者は、スルザが狼との交じりであると知っている。実際に狼の姿になれるのだということを知っていれば、不自然でないように警備を強くする、という意味では、たしかに適任とも言えた。
「・・・でも、おれよりシェカーのほうが向いているんじゃないか」
隠密にかけて、という面で見ればシェカールチーの一族は他に引けをとらないほど優秀だ。何者かに気づかれないように、という意味では、スルザよりも適任だろうといえば、シェカーは首を振った。
「王に前正妃との間に子がいない今、次の王はリヒトール殿下だ。側室との間に子はいるが、まだ皇太子を決めていない以上、リヒトール殿下を最優先にすべきだ。そんなことは、おまえじゃなければ、子供だってわかってるんだ、スルザ」
きつい言い方―と隣でケッカが混ぜっ返し、サファラが頭をなでた。
何も気にしていないのに、とスルザが首を傾げると、はあ、と隣で重たいため息をついたブートが、つまり、とシェカーの言葉を引き継ぐ。
「王に仕える一族であるシェカールチーが、リヒトール様のそばに増えれば、絶対に何かあったと思われるだろう。相手はすでに内部に入り込んでいる可能性が高い。そんな中でシェカーをつけたら、さすがに隠れ切らないだろう。それに、何があるかわからないのなら、きちんと戦えるスルザが一番向いてるってことだろ」
んー、とサファラは考え込むようにやさしい声を出した。
「というより、スルザには、リヒトール殿下がどんな影響力があるか、よくわかってないかも」
サファラとスルザ以外の四人がうーんと悩むように天を仰いだ。
「・・・すごいお方だぞ」「シェカールチーは王族をみんな大抵そういう」「すごいお方なのは確かなんだがなあ」「班長までそれかよ。あんたもシェカールチーかなんかかよ」
それぞれの言葉に、はあ、とため息をついたサファラは、スルザ、と声をかけた。顔を上げたスルザを、茶色い目が丸まって眺めていた。
それがこわい、とぞわりとスルザの体に震えが走った。
「王族は、この国そのものなんだよ。無理わかれとは言わないけど、国民はどんな大臣の言葉よりも、王族の言葉を聞くんだよ」
そういうものなんだ、と笑う顔を見ていられなくて、スルザは顔をそらした。
スルザはサファラが苦手だった。一番、よくわからない顔をするし、スルザには難しいことを言う。
そんなことは知らなくともよいことなのだ。スルザが息を吸って吐いて、生きていくのに必要ではない。
「・・・それが命令なんだろう。俺は命令に従うだけだ」
そう言い切ってしまえば、スルザは自分でその通りだと納得した。命令があれば従うだけ。それがスルザという生き物なのだ。
髪が長い、白い肌の横たわった人間を思い出す。
腕は太かった。きっとあれは、労働を知らぬ手ではない。盲目で、王族とはいえ、甘やかされていないのだろうということは、思い返すだけでもわかることだった。
口をそろえて『すごい』と言われる人物。
はたしてどんな人物なのかと、ぼんやりと考えてことにスルザは我に返り、首を振った。
これから仕えるあるじがどのような人物かなど、関係ない。これまでと同じだと目を伏せ、スルザは自分がいなくなるまでのしばらくの間、外壁の警備の変更について話はじめた。