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炎のレユアン 4

全体公開 11526文字
2018-03-04 00:45:58

恋に落ちるとどうにもできない。

「リヒトール!お前が言っていた犬だぞ!」
神殿内で犬を拾った次の日。
洗い場でナレンたちと衣服を洗っていたリヒトールは、兄の楽しそうな声に顔を上げた。
声が飛んできた方向から、兄は入り口にいるとわかっていた。なので、リヒトールは皆に一言断ってから立ち上がり、兄のほうへと歩み寄った。
「あれ、兄上、もう見つけたんですか」
神殿内で犬を拾った日、行き場のない野良ではかわいそうだからと、兄にこの犬を飼いたいと伝えていた。
結局のところ、リヒトールが何かしたいといえば、周り回って最終的には兄に許可を求めることになる。だから先に言っておいた方が早いだろうと思ったのだ。
夜には兄に伝えていた。
許可は得ていたので、神殿内で飼えることになっていた。だが、リヒトールが眠ったあと、犬は姿を消していた。
腕の中に抱えて寝ていたはずなのに、目が覚めたらいなかった。
起きた当初は、寝ぼけているのかと思ったが、部屋のどこを探してもいない。神殿内も聞いて回ったが、犬を見たものはいないという。
抱きかかえて寝ていたので、かなり温かく良いぬくもりだったし、おかげで夢見は非常によかった。だからいなくなってしまったのはかなり惜しい。
いや、そうではなく。
姿を消していたということは、きっと犬は、自分で立ち上がって出ていったはずなのだ。だからそこそこの物音は立っていたはずだったし、自分の腕は動いたはずだった。
それに気づかず熟睡してしまっていた自分を、リヒトールは猛烈に恥じた。
きっと些細な物音で起きれたなら、犬が勝手に出ていってしまうこともなかっただろう。
とても良い温もりだけに、非常に惜しい。
いや、そうではなく。
飼いたいと言ってしまった手前、兄は色々と準備をしていたかもしれない。申し訳ない、と兄に報告しに行けば。
『よいよい。あの犬なら、すぐに余が見つけるゆえな!』
と明るく豪快に笑われた。
リヒトールとしては、野良でなく、飼い主がいるならばそれでよかったのだが。
すでに兄は見つけてしまったらしい。
ぐ、と目に力を込めて、犬の姿を捕らえようと試みた。昨日は大まかに触れただけで、姿かたちまでは視ていない。
ぐわ、と眼の前ではなく、自分の頭上に広がった視界に、リヒトールは慌てて目の前の犬に焦点を合わせた。
(最近、眼が変だなあ・・・)
ごしごしと目元をこすって、犬に焦点を当てる。
目元をこすったところで見えるはずもないが、ついやってしまう癖だ。
兄の隣にいる犬を捕らえて視線を下げると。
ぎょろり、と。
金色の双眸が。
(えっ)
まるでリヒトールに向かって、臓腑に刃物をつきたてたように。
見えないはずのリヒトールの視界を。
がしゃりと、破り捨てた。
黒と白だけの、輪郭しかない、色のない世界に。
暴力のように鮮やかな金が。
まるで、砂の丘のように。
太陽のように。
どんなものよりも輝かしく。
リヒトールを睨む。
見たこともないような眼だ。いや、かつて夢の中で、これと同じ目を、リヒトールは見たことがある。けれど、それはこんなにも、リヒトールを打ちのめし、引き裂くような痛みを与えるようなものではなかった。
がつり、と突き立てられた刃は、心の臓まで届いている。その色は致命傷だ。深く突き立てて、傷跡を抉る。もっと痛めと傷を深くしていた。
血が流れていないのが不思議なほどで、リヒトールは吐きそうになりながら、指先一つ動かせずにいた。
「リヒトール?」
動けなくなった自分の名を呼ぶ声がする。
どさりと膝をつけば、リヒトール!と呼びかけた声が焦りを含んだ。
(わ、わからない)
自分が何者かも、はっきりとさえしなかった。声が何なのか、今の自分にはよくわからないとぼんやりとする。
果たしてここがどこかさえも、リヒトールにはあいまいだった。
そうなっていた。
(わた、わたしは)
リヒトールは美しい金の双眸が破り捨てた視界に、立っていられなかった。グラグラと地面が揺れている。そんな気がした。
(なにを、)
大地が謳っている。
跳ねている。
揺れている。
(どうして)
どうして、と天が問う。
ただ、あらゆるものが鮮明に訴えていた。
天は問い、大地は謳う。跳ねて揺れて、声を上げて、リヒトールに語りかけてくる。
こんな世界は自分がいるところではない。
と、リヒトールは強烈な思いに苛まれた。
こんな。
こんな金色が。
見えるはずがないのに。
名も知らなかった色のはずだ。金と言われて、理解できるはずがない。だというのに、どんなものよりも輝かしいそれが、確かに黄金だとリヒトールは理解する。
(こんな)
そう思えば苦しくて、胸がいたくて、張り裂けてしまいそうだった。だというのに、誰もリヒトールを傷つけていないと、謳う大地がささやく。
それでも、リヒトールの胸は、ずきりと痛んだ。
あるいは、どくりと音を鳴らして、命を奏でている。
いたい、と胸元に手をやって、そこでリヒトールは自分が息さえ忘れていたことに気づいた。
はく、と息を吸って、金の双眸をした、獣を見上げた。
はたしてどんなものが、こんなにも痛みを与えるのか。
それ以上知れば、戻れぬような気がした。けれどこんなにも苦しませるものを、リヒトールは知らないわけにはいかなかった。
そこに立っていたのは。
オオカミでも、犬でも、獣でもなく。
興味がなさそうな。
いっそ、リヒトールを殺しそうな。
そんな顔をした、傷だらけの。
がりがりにやせ細った、少女だった。
(き、)
その少女を見た瞬間。
それが少女であると理解した瞬間。
一気に頭に血が上った。
くらくらとしそうな熱が頭にたまる。
(き、きえてしまいたい)
と、リヒトールはなぜか、強烈にそう思った。
なぜそう思うのかもわからないし、自分がなぜここにいるかすらわからない。わからないことだらけのリヒトールの頭は、なぜか消えたいと強烈に願うだけだ。
グラグラと揺れる視界と己を持て余し、半ば意識しないまま。
リヒトールは視界を、手放した。
こんな世界に居続けるのは、限界だった。
だが、その瞬間。
ぐい、と落ちかけた意識を引き上げられ。
比喩でもなく落ちそうだった体は、強い力に引っ張られた。
顔を上げたリヒトールを、ここに縫い付けるように、金の眼が睨む。
どくり、と耳元で心の臓が鳴った。
ひどく、いやそうに顔をしかめながら。
「お、おい、するざ?」
めったに聞かない兄の驚いたような声が、リヒトールの耳に響く。
『お゛あ、あ、お゛』
それは、目の前の少女が発するには、あまりにも歪な声だった。
獣の鳴き声のような。
あるいは叫びか何かのように、ひび割れていた。
『ぐっ・・・あ・・・お゛あ・・・ぐ、あ、あ』
何か、言っている、とリヒトールは意識を戻した。
それを聞き逃すまいと意識をはっきりとさせて、口元の動きを追う。
よく見れば、細い腕が伸びて、リヒトールの襟元をつかんでいた。
『い・・・ぐ、あ゛』
ひび割れたような声から言葉を拾えず、首を傾げるリヒトールに、ちっと少女は舌打ちをして。

「い、くな」

と、低い声でつぶやいた。
「へ」
その声に驚いて、リヒトールが声を上げたのと同時。
リヒトールの襟ぐりを強くつかんで、ぐい、と上を向かせた。
きらきらと、眼が金色に光って、リヒトールを見つめている。
(あ、顔に傷が)
よく見れば少女の顔は傷だらけだった。
金の双眸は、険しく鋭い。おおよそ女子供がするような表情ではなかった。その剣呑な目つきは、獣のようだったが、やはりその眼は自分を射抜き、息苦しくさせる。臓腑までもが、どくりと騒がしく音を立てた。
右目の上、眉を通って鼻まで裂き、反対の眼の下まで、大きく裂いたような皮膚の引きつりがあった。そこだけ引き裂かれたようなあとは、古いものなのか、色が変色している。
その傷に触りたいと思った。
そう思ってしまった自分に、困惑し、リヒトールが目を伏せたところで。
「リヒトール!!」
強く肩をつかまれ、リヒトールは自分の体を意識した。
眼に込めていた力が消え、肩に食い込む指の感触に意識がいく。自分の体は、肩に触れる指とが境になっていた。
「リヒトール、俺が誰かわかるか?!」
強い声で言われて、彼は首を傾げた。
「あ、兄上?」
困惑をそのまま声に乗せれば、兄は安堵したように小さく息を吐いた。
「よい。わかるならもうよい。スルザ、よくやった。ほめて遣わす」
手から力を抜いて忙しなくそう言う兄に、リヒトールはなんとなく力を使うことをためらった。彼はその場に動くことができないまま、俯く。
自分がどうなったのかはうっすらとしかわからない。
だが、たまに起きてしまうことではあった。
子どもの癇癪のように、どうしようもないときに、リヒトールは自分がわからなくなる。
小さいときは、わからないままでよかった。しばらくは楽しい記憶があり、そのあとしばらくして自分の意識がはっきりとする。夢でも見ていたような、不思議な記憶だ。
だが、大人になって、そのようなことを感じたことはなかった。それが他人にはないものだと知ったという一面もある。
こうなったのは、間違いなく自分が見たもののせいだった。
(もし)
心の中をよぎるのは、覚えたこともない感情だった。
寒気にも似ていて、自分の体をさすりたくなる。
あるいは、この場からすぐに逃げ出したくなるような。
(もしまた、あの、眼が)
かすめる想いが、体を寒くしているような気がした。
リヒトールは顔を上げることができなかった。
ただ目を見つめることさえできないという理由で、顔をそむけたくなるのは初めてだった。どんなときでも、リヒトールは目をそらしたことなどなかったのに。
「何ごとサ!」
騒ぎを聞きつけたのか、巫女長がやってきたのがわかった。
顔を上げねば、とリヒトールは思った。
けれど、顔があげられない。
もしまた、あの目をした傷だらけの少女を見てしまったらと思うと、リヒトールの顔は動かなかった。
「シュドカヘメト!」
状況の説明を求めるような声が、兄の名を呼んだ。
「ファーティクルス、大丈夫だ。あちら側に行きかけたが、留まった。リヒトールは無事だ」
「そう言うことを聞いているんじゃないさ!ぐちゃぐちゃじゃないか!人は生きているんだろうネェ!」
「ファーティクルス!」
その声に、リヒトールは体に力がこもるのがわかった。
自分には見えない。だが何かが起こってしまったのだ。
周囲の人はいつも曖昧にして、リヒトールのせいではないという。
当然だ。そう言わなければならないのだ。リヒトールが少しでも悲しんだりしようものなら、こうして何かが起こるのだから。
悲しまなくても、リヒトールは自分がわからなくなって何かが起こるのに。
リヒトールには見えないし、何が起こっているのかわからない。伝え聞くだけだ。
だから本当に、何が起こっているのかまではまではわからない。もしかしたら、誰かを殺しているのかもしれない。
「あ・・・あねうえ、ファーティクルスさま、わた、わたしは・・・」
地面に伏したまま、この神殿の管理者の名を呼ぶ。
「あ・・・」
しまった、と言いたげなつぶやきだった。
少なくともリヒトールはそう思った。
「わた、わたしは、何を、したのでしょうか・・・?」
「・・・ッ」
言葉を選ばれていると感じた。
実際その通りなのだろう。
見えはしないが、きっとリヒトールの周りには、言葉を選ぶような惨状が広がっているのだろう。
「リヒトール、違うのだ。お前のせいではないぞ。何も起こってはいない、ただ」
焦ったような兄の言葉に、悲しみがよぎった。
けれどそれは感じ取ってはいけないものなのだ。神はそれをお許しにならない。
健やかに、穏やかたれと神は願っている。
でなければ、神がお怒りになり、世を破滅へ向かわせるという。
「ただ」
きゅう。
と、とても犬とは思えないような鳴き声が、リヒトールの服を引っ張った。
え、とリヒトールは思わず顔を上げる。
あげたそこに、金の目をした少女はいない。
ほ、と体の力が抜けるのがわかった。
リヒトールの体から力が抜けたのがわかったのか、兄は立てそうなら立て、と冷静に声をかけてきた。
「いつまでもここにいるべきではない。スルザ、おまえに褒美をとらせたい。いや本気だぞ、余はわりと」
淡々とした声音でそう言うのが面白くて、リヒトールは硬く結んでいた口元を緩めた。
ふん、と不満そうに息を吐いて、それに足元の裾をぐいぐいと引っ張られる。
リヒトールを引っ張る存在が何かは言うまでもない。
だが、きちんと挨拶だけはせねばならないと、彼は手を伸ばした。
「まって、まってください。ええと、スルザ?」
ぱ、と服を引っ張っていた力が抜ける。
引っ張られていた位置から、手を伸ばした。せめて形だけでも、と伸ばした手が、少し硬い毛の塊に触れた。
だが、リヒトールの手が触れたその瞬間、びく、と毛を纏った体はこわばらせてしまった。力のこもった体に、リヒトールはためらった。
(どうしたんだろう)
それでも、伸ばした手で、顔の輪郭を探る。
鼻は長く、耳は三角に立っている。目つきは鋭いようだが、顔にはたくさんの傷があった。
先ほど見た少女のように、顔に大きな傷跡が残っているのが、違う皮膚の感覚からわかる。ごわごわとした毛は触り心地が悪いが、それは人の手があまり入っていないことを意味していた。
飼われてはいないのだ、ということに、リヒトールはほっとした。もしほかに飼い主がいるのなら、その人から奪ってしまうことになる。
触られるのも慣れていないようで、いやそうに鼻の上にしわを寄せている。
「ありがとうございます。すいません、姉上、兄上、私は部屋に戻ります」
うむ、と兄が頷いたので、リヒトールは犬から手を離した。
「リヒトールよ、それの名はスルザだ。責任を持って世話をするのだぞ」
はい、とリヒトールが返事をすると、スルザはふん、といやそうに鼻を鳴らした。
リヒトールは苦笑して立ち上がり、部屋を出ていく。
洗濯をしていたので、今日は何も履いていない。ぺたぺたと廊下を歩いている音の中に、スルザのちとた、ちとたと爪を叩く音が入ってくる。
沈みそうになる心は、意識しない。
すこしでも間違えば、リヒトールの意識はとぷりと悲しみの波にさらわれてしまう。
それはだめだ。小さなころにかなしみを覚えては、大雨を降らせていた。異常気象もいいところだった。
また、大雨で済めばいいほうの時もあった。その間のリヒトールの記憶はあまりないが、母と兄がお前はどこにも行くなと念を押されたこともある。
きっとそれほどのことをしていたのだと彼は思っていた。
そういうことが起こってしまうから、我が神は健やかたれと願うのだ。
心は穏やかに、荒波を立てず、健やかに生きねばならない。
(だからきっと)
あの、自分に衝撃を与えた金色の眼も、思い出さないほうがいいのだろう。
気にはなるが、それに触れるべきではないと、リヒトールは理解している。
恐ろしいものではなかった。いや、たしかに見たこともないもので、多少の怖さはある。だが、それはあの少女に向けたものだ。
顔に大きな傷のある、がりがりにやせた少女。
そんな女子供は見たことがない。
いかにもつまらなそうに、リヒトールを殺しそうな顔をした少女。
リヒトールは誰かに恨まれることも、憎まれることもあまりない。
と、思っている。
それよりは怖いものとして扱われるほうが多いためではあるが、そんなリヒトールでさえ、誰かが誰かを殺す場面くらいは見たことがあった。
いや、彼は目が見えないのであるが。
とはいえ、リヒトールは王族だった。眼が見えず、力が使えないとはいえ、その身を狙われるのは日常茶飯事だったのだ。それも兄が王位につくまでは、ばたばたとしたことが多少はあった。
そのとき視た、殺意が宿る顔をしている。
ただ。
そこに積極的な意欲はないから、どうにもちぐはぐなのだ。
殺意はあるけれども、殺す気はない。
殺されることは許さないが、殺したそうではない。
まるで、鋭い切れ味の刃を目にしているような。
それは危険だとわかっているのに、つい触れたくなってしまう。そうこぼすのは、外壁に勤めているシェカールチーがこぼしていた言葉だ。
ひとは、危険だとわかっていても、それを見ずにはいられないという。刃は人を殺す道具にもなるが、それを危険だと知っていても光っていれば見てしまうらしい。
少女はその言葉に、よく似ていた。
触れれば危険だとわかっている。目を見ただけでリヒトールは何も分からなくなってしまうのだから。
それでも、危険だとわかっていても、視ずにはいられない。
(うーん)
果たしてあの少女は何者なんだろう、と考えていたあたりで、リヒトールははっと我に返った。
(か、考えない!考えないのです!いけないことです!)
ぶんぶん、と手を振って、思考を打ち消す。
ごちゃごちゃと考えているうちに部屋に戻ってきたようだった。
リヒトールは寝床に腰掛けると、うーんとうなった。
(か、考えない・・・考えない・・・)
すこしでも落ち着いてしまえば、すぐにあの金の眼のことを考えそうになってしまう。
そしてそのままずるずると、見えてしまった少女に思考が行きつきそうになって、座ったまま頭を抱えた。
「はあああ。何をしてるんですかあ・・・私は・・・」
考えるべきではないと思っているのに、頭の端に、傷だらけの冷やかな顔が浮かぶ。
(か、考えないのです・・・)
自分で念じていれば、とん、とリヒトールの膝に何か冷たいものが乗った。
彼は手で膝を探ってみた。
すると、それはスルザの前足のようだとわかった。
柔らかくて小さい足は、ふさふさとしていて、ぎゅ、と握れるほどだ。
慰めてくれているのだろうか、と思って、リヒトールは目の前の犬で暇つぶしをすることにした。
「・・・スルザ」
呼びかければ困ったようにぐふう、という返事をした。
そう言えば金の双眸を視た際、何かわからずとも止めてくれたのは、この犬だった。
いや、止めてくれたのは、あの少女かもしれない。
と、あの時のことを思い出そうとするものの、はっと我に返るように、考えないようにしていたと思い出す。
もしかしたら傷の位置と言い、この犬があの少女かもしれないとも思ったが。
(ないですよね。人が犬にだなんて)
リヒトールは笑って可能性を否定した。
きっと、そう見えただけなのだろう。
今、肉球のある前足を握りしめていても、リヒトールの心はとても穏やかだ。
とにかく消えてしまいたいだなんて思わないし、意識をどこかへやりそうにはならない。きちんと自分の体があると、触れ合った温度からわかる。
「あの、何から言えばいいのか、言いたいことはいっぱいあるんですが」
とにかく、とリヒトールは握った手に力を込めた。痛めつけないように、そっと、少しだけ力をいれる。
「ありがとうございます」
リヒトールがそう言うと、目の前の獣はふん、と鼻で息をした。
スルザは合いの手がうまいなあ、とリヒトールは笑った。
「私、きっと、ひどいことをしたんだと思います。もしかしたら誰かが傷ついたかもしれない。私が至らないせいです。これからも、きっとたくさん、こういうことがあるかもしれません」
先ほどのことを思ってそう言う。一度や二度ではないから、リヒトールはこういう時は何も考えないことが一番だと知っていた。
小さいころはよく、母は仕方ないと笑っていた。
お前は、神に深く愛されているから、特別なのだと。
でも、だからと言って、リヒトールがしてしまうことは許されることではない。誰かを傷つけていたら、と思うと、穏やかたれと決められた心も揺れる。
「君には、きっとそういう場面をまた見せてしまうと思います。でも、ああして、引っ張ってくれたから、止まれました。もし私がおかしなことをしたら、止めてくださいね、スルザ」
ぐふう、と声を上げながら、スルザは嫌そうにぎゅ、と握りこんだ前足を引っ張った。
離してほしいのだとリヒトールも察して、素直に手を開く。
するとすぐに離れていき、ぐるぐるとうなった。
(ああ、これはいい)
リヒトールはスルザの反応で十分に満足していた。スルザとやりとりしていれば、思考の隅にこびりついている金の双眸のことを考えずに済む。
ただ、リヒトールはこのときふと、少しだけ思ってしまったのだ。
もし。
(スルザが、人間の言葉を話せたら、いいのに)
それは夜の風のように通りすぎていった。ほんのわずかに降ってわいたものを、聞きとめるものはいない。
「ねえ、スルザ。お腹すきませんか?」
そう問いかけたものの、スルザの合いの手はなかった。
「ねえ、スルザ」
呼びかければ、呆れたようにふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。人間ではないというのに、妙に人間らしくて、リヒトールは笑ってしまう。
「にいさま」
ユージンの声がして、リヒトールは顔を上げた。
入り口あたりにいるのはわかったが、そこから入ってくる気配はない。
「ユージン?どうしたのですか?」
「にいさまに歌で聞きたいことがあって・・・。あの、入っていい?」
いつもは普通に入ってくるのに、とリヒトールは首を傾げる。
「もちろん、いいですよ。どうしてですか?」
「あの、だってとってもおっきないぬが・・・」
ユージンがこちらでなく、スルザをみて言い淀んだようだった。
なぜだろう、とリヒトールが首を傾げると、ウゥ、と小さく唸る声がした。声から察するに、スルザはかなり怖がりながら威嚇しているようだった。
「スルザ?」
リヒトールは立ち上がって、近くにいるはずのスルザを探した。声の位置から、手を伸ばすと、ごわ、と手触りの悪い毛に触れる。
触れた瞬間、スルザはびくりと体を揺らして固まる。
片手でぽんぽん、と触れてみると、初めに触ったのは首周りのようだった。そこから頭をなでていき、鼻のあたりまで来ると、いやそうにスルザが鼻の頭の上でしわを寄せていた。ぐちゃぐちゃに寄せられた肌が盛り上がっているので、がたがたとした鼻の感触を確かめるように指先で撫でる。
口を開けて威嚇しているようだった。リヒトールはどうしたんだろう、と思いながら鼻の上の肉をつまんだり、つんつんと突っついてみる。
スルザはがう、と首を振った。いやだとアピールしているようだったが、そばにいるリヒトールから逃げるわけでもない。
(か、かわいい・・・)
嫌なら逃げればいいのに、と思いながらリヒトールは思わずそばに座り込んでスルザの鼻の頭をなでる。スルザはあきらめたようにふー、と息を吐いて、されるがままになっていた。
「ユージン、ほら、大丈夫ですよ」
リヒトールがそう言うと、スルザはまたいやそうにウゥ、とうなる。
「・・・兄様、いぬはいやそうだよ」
見かねたようにユージンに言われて、彼は笑った。リヒトールは嫌そうに寄せられた鼻の頭の皺を突っつく。
がうがう、と首を振るスルザが、ウウ、とリヒトールに向かって唸った。
抗議するような声に、リヒトールはにこやかに笑う。
「いいですよ。噛んでも」
そうは言っても、スルザに通じるはずもない。きっと噛むときは噛むし、少し間違えればその牙で息の根を止められなかねない。
それでもいいと、リヒトールは思った。
忘れられぬ金の眼が、思考の端にこびりついている。
息をするのさえ忘れるような。
身を裂かれるような。
心の臓を抉られるような。
そんな痛みを伴うあれを、少しでも早く忘れたくて、リヒトールは噛まれても傷つけられても構わないと思う。
忘れたいとリヒトールは思う。
それは、忘れることができなからだ。
忘れることができないような強烈さをリヒトールは抱えたことがない。あれを抱えて生きるのは苦しいだろうと、彼は目を細める。
噛まれて、息が止まるのならそれはそれで楽だろうとさえ、リヒトールは思った。
(でもきっと、生きたいと願ったなら、死にはしないでしょう)
リヒトールは、自分は少しだけ運がいいと思っていた。
強く願って、望んだことが叶わないことはない。それもとてもすごい奇跡が起こせたわけではないが、あまり途方にくれたことはなかった。
「噛まないんですか?」
嫌そうに鼻の上にしわを寄せるスルザの皮を指先でつつく。
がうぅ、とうなるものの、スルザはリヒトールから離れないし、かみつくこともない。
いっそ噛み殺してもいいのに、と思いながら、彼は苦笑した。
「お前は、とてもやさしいんですね」
スルザにわかるはずもないが、リヒトールはそう言った。
その瞬間、スルザが、がうう、とあからさまに嫌そうに声を上げる。少しいじめすぎたかもしれないと、リヒトールはスルザから手を離した。
「すみません、ユージン、私がそちらに行きます」
立ち上がりかけて、ふと足元近くにいる犬を見下ろした。
「・・・ユージン、私も教えていただきたいのですが」
今日からリヒトールはこの生き物を飼うのだ。自分が世話をする。食べ物を与えて、毛を梳き、場所を与える。寝るときは、一緒に寝たいなあと場違いに思った。一度覚えた温もりは手放しがたい。寒くなる夜には、どう暖をとるのかは死活問題なのだ。
それらはすべて、リヒトールだけが、この生き物に与えていいものなのだ。
「この犬の眼は、何色ですか?」
これはリヒトールのものになる。そう思えば、彼はふわふわと浮きそうな気分になった。静かに足元まで押し寄せていた悲しみは、波のように引いていく。自分の体が少しだけ軽くなったようだった。悲しみを覚えずにいられることに、リヒトールは微笑む。
思い返せば、リヒトールだけのものは、はじめて得たのかもしれない。これまでリヒトールは自分だけのものを得たことはなかった。
何かをほしいと思うことすら、あまり覚えたことはない。
「ええと、おうごんいろ!」
ユージンの答えに、どくり、と胸がうずいた。痛みを覚えそうな予感から彼はあえて眼をそらす。
この犬も、金の眼をしているという。
同じ金の目をしたあの少女は、恐ろしい。それでも見ずにはいられなかった。
それをどうにかしたいとは思わない。それでも眼は離せないし、あの傷跡に手を伸ばしたいとも思っていた。
同じ金の眼、と思えば、リヒトールはこの獣が自分だけのものであることに妙な充足感を覚えていると知る。
(これは、なんなのだろう)
内心首を傾げながら、リヒトールはますます体が浮きそうなほどふわふわとした気分になって、口を開いた。
「スルザ、私から逃げないでくださいね」
スルザが理解するはずもないが、開いたリヒトールの口からは、気づけばそんな言葉がこぼれていた。
ああ、自分はこの獣を手に入れて、飼うことになって、いろんなことが起きているとリヒトールは冷静に思った。
何かを逃がしたくないと思うなど、リヒトールは考えたこともない。
人生で初めて覚える感情が、なんなのかはわからなかった。
それでも逃がしたくないと思う感情から、彼は眼を背けることはできない。それはたしかに自分が覚えた感情なのだから。
「散歩くらいはいいですけど、夜には帰ってきてください。・・・一日くらいは帰ってこなくてもいいですけど」
伝わるはずもないが、言わずにはいられなかった。
だからリヒトールは、自分だけの生き物に、きちんと食べ物も場所も与えようと決めた。きちんと世話をして、居心地がよくなれば逃げていかないだろうと考えた。
「首輪をつけるのはかわいそうです。そんなことをしたくはありません。だから、逃げないでください」
請うようでありながら、それは確かに命令だった。
暗に、次に逃げれば探し出して首輪をつけると宣言しているに等しい。だが、リヒトールはその事実に気づかず、微笑んだだけだった。
幼い子供のもとへ向かうリヒトールを彼の部屋で見送ったスルザは、ふー、と重たい息を吐いた。赤い毛をした獣は思案気にうつむいていたが、やがてあきらめたように伏せて、前足を交差させ、その上に頭を乗せた。ぐう、とすぐに寝息をたて、おとなしく眠った。


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