@toasdm
「そのまま、歩きながら黙って聞いてくれ」
夕闇の差し迫る街、人込みに紛れて隣歩く雨彦さんの小さな声に一瞬そちらを見上げそうになる私を、雨彦さんはもう一度、そのままで、と言って制止する。視線だけでちらりと後ろを確認すると、小さな溜め息と共に、どうやらつけられてるようだぜ、と漏らす雨彦さんの言葉に、私は一瞬身を強張らせる。スキャンダル、イメージダウン、降板――そんな言葉たちが頭の中を埋め尽くして足が竦む思いをしながらも、なんとか私は雨彦さんについて歩く。
「今のところ一人、だな…雑誌記者かなんかだろう、カメラを提げてやがるぜ」
目立つから仕方のないことだとは思うがな、と後ろ頭をがしがしと掻き毟って雨彦さんは続ける。
「ま、あちらさんもそれで食ってんだ、仕方ないさ」
いい趣味とはお世辞にも言えないが、と苦々しく吐き捨てた雨彦さんは私の足元をちらりと確認して、ニヤリと小さく口元を歪める。
「お前さん、走れる靴だな」
「はい」
かけっこは得意かい?の言葉に、普通です、と答えた私の手を取って、雨彦さんはいきなり全速力で走り出す。
「夕闇が味方してくれる、できるだけ早く走れ、あのカメラじゃ不鮮明にしか映らないはずだからな」
歩幅と体力の違いをまざまざと見せ付けられるような雨彦さんの全速力に、半ば引っ張られるような形でなんとか走る。この手は、今、絶対に離せない。置いていかれたくない、ずっと、雨彦さんと一緒にいたい…!自分の中にこんな風に、誰かを思う気持ちがあったなんて知らなかった。ぎゅっ、と握った手だけを頼りに、息を切らせて私はひたすらに走る。徐々に遠ざかる追跡の足音、こっちだ、と雨彦さんの手に引かれて私の体はビルの隙間に滑り込む。
「…っは、流石に、老体には、堪えるな……っ、はぁ、っ…」
ぜえぜえと肩で息をしながら、暗闇の中で息を潜めるようにして私達は身を隠す。雨彦さんなんかよりももっと息の上がった私は、急に襲いくる疲労感に思わずその場にへたりこみそうになる。がくがくと震える膝、砕けたように力の入らない腰を支えてくれる雨彦さんの逞しい腕に引き寄せられて、私はビル陰の壁にもたれかかる雨彦さんに抱きしめられる。
全速力で走った汗と呼吸が、だんだんと落ち着いてきた私の頭に冷静に忍び込んでくる。しっかりとした雨彦さんの胸板にちょうど当たる高さの私の耳は、その拍動を音でも振動でも拾って、乱れた呼吸を整える雨彦さんの吐息を頭上に聞きながらしがみついて、このドキドキをどうやり過ごそうかと考えをめぐらせる。
「……ふう、うまいこと撒けたかい?」
「っ、おそ、らくは……」
「お前さん」
呼ぶ声の吐息の乱れに高鳴る胸を押さえて見上げると、腕の中に抱きしめられたまま唇を塞がれる。ん、とくぐもった声を喉の奥で鳴らして、普段の雨彦さんらしくない、激しく貪るような長いキス。息苦しさに胸を叩くと、すまない、とすぐに顔を離してきつく腕の中に閉じ込めるように私を抱いて、雨彦さんは耳元で吐息を混ぜて囁く。
「随分色っぽい顔をするじゃないか……」
「そ、それはっ…走った、から、です…!!」
気のせいですよ、と付け加えた私を思いきり強く抱いて、雨彦さんはもう一度深く大きな溜め息をつく。
「……楽しかった、なんて言ったらお前さん、呆れちまうかい?」
ゲームみたいだったろう、とすっかり元どおりの呼吸になった雨彦さんは私を見下ろしてニッと笑う。体はくたくただけど、言われてみれば確かに、鬼ごっこみたいで楽しかったような気がしないでもない。こんなのは二度とごめんだが、と私の頭を抱えるように抱き寄せて頬ずりしながら雨彦さんが言う。
「お前さんとなら、人生楽しそうだな」
多分深い意味なんてないだろうその言葉と、激しい運動の後という特殊な状態とが、なかなか私の心臓を落ち着かせてはくれない。そんな私をよそに雨彦さんはさらに追い討ちをかけてくる。
「いっそさっきの記者でもとっ捕まえて、緊急記者会見でも開いてみるかい?」
「え?」
「Legenders葛之葉雨彦、電撃入籍!ってな」
何言ってるんですか、と慌てる私を笑いながら、雨彦さんはまずはプロポーズからかい?と天を仰ぐ。こりゃ明日は筋肉痛だな、と私を抱いたまましゃがみ込んだ雨彦さんの瞳は、夕闇の中で少しだけ真剣な光を宿していた。胸の高鳴りはまだ、おさまりそうもなかった。