@toasdm
居場所がある、という安心感は心地が良いものですね、と電話の向こう、ほっとしたようなクリスさんの声が聞こえる。こうしてあなたと話せる事も、明日の予定を相談できる事も、と穏やかな口調で私の耳にゆったりと響くクリスさんの言葉は確かに心地いい。お互いがお互いの心を預け合う居場所のような存在になって随分と経つけど、改めてそんな風に言われるとやっぱり心は躍る。アイドルとプロデューサーとしてだけでなく、一人の人間として向き合って付き合って、クリスさんの純粋な気持ちや大らかな性格に触れる度に、私はどんどんクリスさんを好きになる。今もそう。ただ話しているだけでほっと心がほぐれていくのを感じて、私は本当に、クリスさんが好きなんだな、と実感している。
「明日はどこかへ出かけてみませんか?」
あなたとデートがしたいのです、と弾むように言うクリスさんのお誘いに二つ返事で乗っかって、私達はデートプランを詰めていく。気になる本があったので、と言うクリスさんの意見を取り入れて、本屋さんに行ってみましょうとまとまったプランを楽しみにしながら眠りについた私は、予定通りに目を覚ましていそいそと出かける準備を整えた。
「今日のあなたも素敵ですね」
本屋さんに併設されたカフェで私を待っていてくれたクリスさんは窓際で、春の陽射しをきらきらと受けた艶やかな髪の毛を耳にかけて、私を見て微笑んでくれる。春色のスカートとトレンチコートに合わせて髪もメイクも春らしくまとめた私に、あまり女性を褒める事に慣れていないので、と照れた仕草で俯いてからコーヒーを飲み干したクリスさんに手を引かれて、本屋さんデートが始まった。
いくつかの海洋学の専門雑誌や専門書を手にとって、これは海外でも注目されている研究が、とか、世界中の海を渡り歩くフォトグラファーの写真集なのですよ、とか、懇切丁寧に説明してくれたクリスさんの表情は子どものように純粋で、私の好きなクリスさんの表情が次々と更新されていくのが嬉しい。少し買いすぎましたか、と何冊もの本を提げたクリスさんの照れ笑いにつられるようにして、私も思わず笑顔になる。
「おねえさん」
不意に呼びかけられた可愛らしい声にふと振り返ると、児童書コーナーの小さな椅子とテーブルの一角で、小さな女の子がクリスさんのコートの裾を引っ張っている。思わず顔を見合わせた私とクリスさんは、一瞬考え込んですぐにくすりと笑いを零す。女の子の目線の高さに合わせるようにしゃがみ込んだクリスさんは、おやおや、と女の子に声をかけている。
「残念ながら、私はお兄さんなんですよ。お姉さんはほら、こちらです」
きょとん、とした表情のまま私達を見比べている女の子の頭にぽんと手を置いて、クリスさんは私を指してにっこり微笑んでいる。
「髪の毛きれいだから間違えたかも」
「ふふふ、ありがとうございます。あなたの髪の毛も、素敵ですよ」
艶々とした子供らしい髪の毛を撫でながら、耳に心地よい低さのあるクリスさんの声が静かな本屋さんの中で穏やかに響く。私に何かご用ですか?と小首を傾げたクリスさんにおずおずと本を差し出して、女の子は、これ読んでくれる?と大胆なお願いをしてくる。物怖じしない子供らしさに目を細めて、クリスさんは小さな椅子に腰掛けて、女の子を膝に乗せて本を広げた。
「ええ、私でよろしければ喜んで」
こちらを見上げて、いいですよね?と尋ねるクリスさんに頷くと、ありがとうございます、とふんわり笑ってから、クリスさんは女の子に絵本を読み聞かせ始めた。まるで親子のように自然なその光景に、私は胸の奥の方からじんわりと溢れてくる温かな感情を噛み締めてその様子を見守った。
「――そうして、大きくなった小魚は、広い広い海の中で……」
穏やかな波のように語りかけるクリスさんの優しい声に耳を傾けて、女の子も私も、絵本の海の中に攫われていく。絵本の世界に引き込んでいくみたいなクリスさんの読み聞かせはプロのようで、気がつけば女の子を迎えに来たであろうお母さんも一緒になって、クリスさんの読み聞かせに耳を傾けていた。
「いつまでもいつまでも、波の音だけが聞こえていたのでした――…おーしーまいっ」
ぱたん、と絵本を閉じた音に、はっと我に返った女の子のお母さんが、すみません、すみませんと恐縮しながらクリスさんの膝の上から動かない女の子を抱き上げて何度も頭を下げている。私の方にもぺこぺこと頭を下げるお母さんに、立ち上がったクリスさんは満足げに微笑んで、いえいえ、と言う。
「こちらこそ、素敵なお嬢様を勝手にお借りしてしまって、申し訳ありませんでした」
「あの、失礼ですが保育士さんの方ですか?」
「まさか。私は、ただの…海洋学者ですよ」
ね?とこちらを見るクリスさんの上手な言い訳に苦笑しながら、そうですね、と言うしかない私とクリスさんに、おにいさんおねえさんまたねー!と無邪気に手を振る女の子とお母さんが遠ざかるのを見送って、クリスさんは、はぁーーーー…と長い溜め息をついた。
「流石に、ただのアイドルですよ、とは言い出せませんでしたね」
「ふふふ、でも嘘はついていませんから」
もう少し知名度を上げるべきでしょうか、と困り顔のクリスさんに、私も頑張りますと伝えると、くすくすと笑いながら手を差し出してくる。行きましょうか、とその手をとった私の隣で、クリスさんは、ふっ、と遠くを見つめるようにして言った。
「…自分の子供を膝に乗せて絵本を読んであげる、という夢が、できましたよ」
立ち止まったクリスさんは真剣な眼差しで私を見つめて、繋いだ手をぎゅっと握る。
「その時は是非、あなたに、隣に居てほしいです」
そんな温かい未来が、私の夢になりました――…。ぽつりとそう呟いて、出口に向かっていたはずの足を雑誌コーナーへと切り替えると、クリスさんは結婚雑誌を指差してにっこりと微笑んでいる。
「…こちらの雑誌、一緒に読んでみませんか?」
いくつかの雑誌を手に取って、買ってきますね、とレジへ向かうクリスさんを、もしかしてプロポーズ?と混乱したまま見送った私は、どのタイミングで真意を尋ねるべきなのか頭を悩ませながら、クリスさんが戻ってくるのをじっと待つしかなかった。