@toasdm
あんな無表情な奴でも優しく語りかけてる内に不思議と愛着が湧いてくるもんだぜ、と冗談なのか本気なのかわからないことを言いながら、葛之葉さんは録音ブースから出てきた。満足げな表情から察するに、自身でも納得のいく収録ができたんだと思う。ちら、とブースを覗いてみれば、真ん中にモアイみたいな人間の頭部を模したダミーヘッドマイクが設置されている。
葛之葉さんの魅力が多方面から求められるようになったのは嬉しいけれど、正直私は気が気じゃなかった。ミキサー卓のそばに立って収録の間ずっと見学していたけど、立体音響――バイノーラル音源の収録は、マイクの前に立っているだけの普通の収録とは大きく異なる点がある。ヘッドフォンで再生した時にまるで生音みたいに聞こえるように、葛之葉さんはダミーヘッドマイクの周りをゆっくりと歩いたり、作る必要のない表情まで作りながら耳元に囁くように近付いたりと、それはそれはセクシーな光景が繰り広げられていたのだ。声も台本も演じる役も、大人っぽくてセクシーな男性のそれだから、完璧に演じきったといって良い、良いけれども……心臓に、悪すぎる。はぁ、と無駄に疲れた溜め息を漏らして、お疲れ様でした、と録音スタジオを後にする。完成は来週辺りという話だった。
書類の山に紛れて積み重ねられていた完成品のCDが目に入り、私は残業の手を一旦止める。別に疚しいことなどなにもないはずなのに、きょろきょろと辺りを見回してから、私はそれを手に取った。どうせこの時間だから誰もいないし、誰も戻ってはこないのだけれども……あの収録現場を目の当たりにした後では、聞くのが妙に憚られてしまう。よし、誰もいない、大丈夫、と独り言を呟きながら、ノートパソコンのディスクトレイにCDをセットして、私はヘッドフォンを装着する。変に緊張する私の目の前で駆動音を立ててCDが読み込まれ、ミュージックプレイヤーが起動した。もう一度事務所の中を確認して、私は再生ボタンをクリックした。
『ん……ふふ、おはようさん』
「!!」
衣擦れの音の隙間から、葛之葉さんの艶っぽい声が耳元に響く。寝起きの掠れた声は本当に、ヘッドフォンから聞こえてくる平らな【音】ではなくて、耳元に響く立体的な【声】として私の頭を溶かすように滑り込んできた。後から編集した環境音もまた絶妙で、ヘッドフォンから注ぎ込まれるリアリティのある音声たちは、目を瞑ると目の前に映像を結ぶような、現実味のある錯覚だった。演技とはいえ寝起きの葛之葉さんに声だけで抱きしめられて、私は思わず自分で自分をぎゅっと抱きしめる。葛之葉さんの本気の演技は左耳を撫でるように、ぞわり、と吐息が掠めるような感覚に体が勝手にびくりとする。
『よく眠れたか?……どうした、目が覚めてないならキスでもしてやろうか』
うわ、と思わず声を漏らして唇に指が伸びる。お目覚めのキス、と言いながら、目を閉じた私の耳元から葛之葉さんの顔――いや、声?なんだかよくわからない、とにかくそういう、葛之葉さんという存在めいたなにかが回り込んできて、正面からじっと見つめられる視線すら感じるようで、私は思わず目を開ける。当然そこに葛之葉さんはいない。…そうだった、これはいわゆる、シチュエーションCD…葛之葉さんの、本気の演技の、試聴中だった。ほ、と胸をなでおろすと同時に、急にふわりと頭が軽くなる。耳元の閉塞感が一気に取り払われて、え、と振り向いた私の後ろには、さっきまで声だけで私に、とろけるようなキスをしてくれていた葛之葉さんが立っていた。
「うわ!?」
「なんだお前さん、俺は幽霊かなんかじゃないぜ?」
ばくばくと早鐘を打つ心臓をぎゅ、っと押さえるようにして、私は思わず立ち上がる。さっきまで私の耳に錯覚を引き起こしていたヘッドフォンを片手にけらけらと笑いながら、葛之葉さんは自慢の長い足を見せつけて、足があるだろう、幽霊じゃないぜ、とおどけてみせる。そうじゃないです、と無意味に抵抗してみせる私のデスクに乗っていたCDケースを手に取ると、ああ、この前のか、と葛之葉さんはヘッドフォンを返してくれた。
「どうだったんだ?その様子なら、もう聞いたんだろ?」
CDケースを裏返してしげしげと眺め、そこに自分の名前を見つけてニヤリと笑う葛之葉さんは、試聴の感想を求めてくる。どうだったか、と、聞かれても……。突然のご本人登場に動揺するしかない私の顔をじっと覗き込んで、葛之葉さんは意地悪そうに笑う。
「へえ……そんなに良かったかい?」
「良っ……!」
そんな顔してるぜ、と、ずいっと顔を近づけてくるその動作が、収録の時のあの光景を思い起こさせる。さっきまで聞いていた寝起きのベッドシーンが頭を過って、まるで落ち着く様子のない私の心臓は、あともう少し、なにかきっかけがあれば口から飛び出すんじゃないかと言うくらいうるさく音を立てはじめる。そんな私の反応が面白かったのか、葛之葉さんは調子に乗って私をいきなり抱きしめる。
「ちょ、っく、葛之葉さんっ!!」
「どれ、どのシーンを聞いてたんだ?」
私の手からヘッドフォンをひょいと取り上げると、片手に私を抱いたまま、葛之葉さんは肩と耳との間にそれを挟んで固定する。空いた手でマウスを器用に操作して、再生位置を少し戻してからCDを再生した。
「……なるほど、冒頭の、寝起きのシーンだな」
ニッ、と笑う目の前の葛之葉さんの顔がそっと耳元に近付いてきて、身構えた私は思わずぎゅっと目を閉じる。
「よく眠れたか?……どうした、目が覚めてないなら――…キスでも、してやろうか?」
葛之葉さんの広い肩から、支えを失ったヘッドフォンがカシャン、と床に落ちて音を立てる。その音に驚いて目を開けた私をじっと見つめる双眸。呼吸を忘れた私の唇に、葛之葉さんの薄い唇が重なる感触。……ああ、これは、CDのシーンと同じだ。違うのは、これが錯覚じゃなくて現実に、本当に、私の身に起きている事実だということ……。
「…この先のシーンも全部、覚えてるんだが」
少しだけ顔を離した葛之葉さんは、収録の時よりもずっと艶かしい表情で私を覗き込んでそう言った。うぁ、あ、えぅ、と意味のない母音の羅列を漏らすだけの唇をもう一度軽く塞いでから、私を強く搔き抱いた葛之葉さんの実体が、ヘッドフォンからではない本物の葛之葉さんの声が、私の耳に注がれる。
「続き、いいか?」
「待っ――!!」
私の返事も聞かずに、葛之葉さんはいっそ情熱的過ぎる程に私の唇を激しく貪り始める。なすすべもなく翻弄される私の足元、床に転がったままのヘッドフォンだけが微かに、葛之葉さんの熱演を、平らな音で垂れ流し続けていた。